第十八巻 幕藩制の苦悶(北島正元 著) 後篇

+ 三都の町人
三都の町人
 三都とは、江戸、大坂、京都のことである。当然のことかもしれないが、それぞれ、住む人の性格は同じではない。
 たとえば江戸。ここに住む人々は武士が多かったものの、年が経つにつれ彼らよりも町人の数が勝るようになった。しかし、武士がいないわけではなく、彼らの考えが他の2つの都よりも根強いことは当然である。武士の考えである貯蓄を賤しむ考えは、江戸の町人の中に刷り込まれていたのだ。
 また、彼らは『将軍のおひざもと』に住んでいるという事実を誇りに思ってもいた。京都や大阪の人々の生活を理解しようとせず、『上方贅六』と呼んで軽蔑していた。しかも、彼らは武士を恐れつつも、自分たちが彼らの生活を支えているということを知っているから、次第に武士を恐れることも減っていった。彼らが真に恐れるのは、実質的に自分たちを支配する町奉行だったようだ。

 なおこの時代、上方の『粋』に対して、江戸人にもてはやされた『通』に取って代わった、『いき』が小市民化した江戸人の理念になりつつあった。人情本や滑稽本が親しまれるようになったのも、『いき』の広まりによるものだろう。
 この少し前までは、『札差(江戸時代に幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介を業としたもの)』が江戸の町を我が物顔で歩いていたが、寛政の改革により没落した。特権的な町人はこのころから姿を消し、代わって台頭したのが町人だった。時代は、彼らによる、彼らのための時代になりつつあった。

 江戸をはじめとした大都市には、流行が欠かせない。これは、歌舞伎役者が作るといわれていた。彼らだけが先駆者だったわけではないものの、導火線の役割を担ったことは間違いない。服装や髪形をはじめとして、刺青もまた流行することになった。

 またこの時代には、食事、菓子、そして年中行事までもが、徐々に移り変わりつつあった。
(ほたるゆき)
+ 大御所の生活
大御所の生活
 家斉は頑健な体の持ち主であり、規則正しい生活を70歳まで続けていた。政務は正午より目安箱の投書を読むことから始まり、2・3時間程度で終わる。
 家斉期の大奥は大規模であり、出費は幕府の年間支出の一割に近い。家斉が大奥に泊まると、侍妾として奉仕する中﨟の他に、添寝の中﨟が夜を共にする。この添寝の中﨟は将軍から少し離れたところにやすみ、後に奉仕した中﨟の言動を報告するきまりとなっていた。これは中﨟が寝所で政治に介入しようとするのを防ぐためであったようだ。
 家斉の生活は、最初こそ松平定信によって束縛されていたが、彼が退任すると次第に放蕩となり、側妾は40人を数えた。また藩政期もの間将軍であった家斉の周りには侍従する人々によって側近集団が形成されており、彼らは往々にして政治を動かし得た。
 また家基に関して後ろめたさのある家斉は、次第に呪術に傾倒し、日啓という男に深く帰依することになる。そうして家斉は莫大な資材を投じ、日啓のために感応寺という巨大な寺を建立することとなる。日啓は奥女中密通の噂なども流れるほどに、大奥や将軍の寵愛を受けた。
 これに対し幕政改革を図る水野忠邦は、日啓について内偵を行い、その裏にある政治的な不正に気付くことになる。しかし大奥や大御所の権威を揺るがすこの事件を面に出すことはできず、感応寺の破却や日啓の処断という形での決着をつけることになる。すでに家斉は死去していたが、この感応寺の破却は世間に大御所政治の性質というものを良く表していると言えるだろう。
(Spheniscidae)
+ 大江戸の文化
大江戸の文化
 当時の江戸は人口百万を越え、町人も五十万に達していた。またこれに伴って江戸の寺子屋も増えており、町人の知的向上もあって文化の下地は形成されていた。
 江戸で発展した最初の文学は、処世訓的な談義物であったが、やがて遊里や風俗を描写した洒落本がとって変わる。この背景には田沼時代の開放的経済が関係している。また子供の絵本から発展した黄表紙がある。これは恋川春町によって代表にのし上がった。
 山東京伝はこの中でも洒落本を大成したと言える。原稿料をもらう作家は京伝が最初であったと言われている。かれは洒落本で名を売ると、長編伝奇である合巻も発表し、また挿絵も自分で描いて多才ぶりを示した。京伝の描くのは殆どが遊里であったが、やがて黄表紙にて政治風刺を描くようになる。政治風刺は彼に留まらず様々な作家が描いた。それは定信の目に止まり、弾圧されることになる。京伝も弾圧を蒙り、以後は読本へと転向していった。しかし読本では滝沢馬琴に敵わず、やがて近世風俗の研究の方へと移っていく。京伝を失った洒落本はやがて没落し、変わって読本・滑稽本・人情本が分断を支配する。
 この京伝に弟子入りを志願し、親しい関係を持ったのが滝沢馬琴である。彼は武家出身であるが放浪の身となり、やがて文筆生活へとはいる。彼は読本で名を馳せ、とりわけ史伝を扱った者は全国の都市に流通した。馬琴はこの原稿料にて生活していた。
 この原稿料を払っていたのが出版業者であるが、彼らは作家のパトロンという役割が大きかった。
 寛政の改革による出版禁止の中で読本とは別に、談義物に源流を持つ滑稽本が遊里以外を描いて一世を風靡した。十返舎一九や式亭三馬はこの滑稽本で名を売った。
 寛政改革の後、黄表紙が発展して合巻という伝奇長編小説が成立した。これは最初教訓物や仇討物であったが、後に男女の情話を主にする。この上で登場したのが柳亭種彦であり、彼は『偐紫田舎源氏』によって一躍名を馳せた。
 また人情本も寛政改革を期として成立した。これは男女間の人情を移すことに重点が置かれ、官能的な描写に走った。結果幕府の手による弾圧を受けることになった。
 江戸後期、狂歌が爆発的に流行する。それに大きな役割を負ったのが大田蜀山人である。彼は狂歌をはじめとする文芸に腕を振るったが、天明七年を期として学問と幕吏としての勤務に励み、能吏として名を馳せた。
 また地方でも小林一茶や良寛らが活躍しており、これは地方の地主・商人層に文化の一環が形成されつつあったことを示す。
 美術界では浮世絵が全盛を極めていた。鈴木春信に始まる浮世絵は喜多川歌麿や東洲斎写楽を迎えて発展した。歌麿の後は類型化されたが、葛飾北斎と安藤広重の登場によって一次催行される。遠近法や陰影などを巧みに使った北斎や、写実的で静的な描写を得意とした広重の風景画は、フランスの印象派にも大きな影響を及ぼした。
 歌舞伎もまた大きな人気を得た。興行は中村・市村・森田の三座に限定され、大きな発展を見る。とりわけ大御所時代には名優があつまり、また鶴屋南北のような名作家の存在もあって大評判を受けた。しかし天保の改革では七代目中村屋の追放などの弾圧が幾らか加えられ、結果的に次第に衰退を余儀なくされる。
 講談や落語も大きな評判をとった。この二つは下層町人の生活を取り込み、彼らの中で生きた娯楽として受け入れられたのである。
 これ以外にも多くの芸能が上演されていたのがこの江戸時代であった。この時代の文化は、完全に江戸の町民を主体とする物であった。これは江戸文化の最終的な完成であり、この後に西洋文化の導入を迎えて行くことになる。
(Spheniscidae)
+ 国学と洋学
国学と洋学
◎国学


 国学とは、日本独自の文化や思想を研究する学問である。
 その学問が生まれるきっかけは、賀茂真淵と本居宣長の出会いだといえる。彼ら2人は1度しか会ったことがないにもかかわらず、宣長は師匠である真淵から国学の継承者として認められていた。
 真淵は宣長に、自分の説と異なっても構わないことを述べていた。そのおかげか宣長は、真淵とは異なった形で国学を大成する。
 真淵は人間の真情が『万葉集』にあり、男性的な「ますらおぶり」であると述べた。
 一方宣長は、人間の真情が『源氏物語』にあり、女性的な「たをやめぶり」であると述べた。
 結果的に国学の中核をなすのは宣長学だった。それは、宣長が支配される民衆の立場に立ち、世の安定を求める主張をしたからだろう。

 彼の門下はたくさんいるが、それ以上に影響を受けた人物が存在する。その人物は、平田篤胤という。
 彼は宣長の書物から思想を吸収し、復古神道を開いた。さらには、国学の主流を占めるに至った。
 彼の死後に対する思想を簡単にまとめると、以下のようになる。

『人が死ぬと、魂は冥府に行く。そこは地球上の至るところにある世界である。
 そこに入る前に大国主神の審判を受け、その結果によって安定が得られるかどうかが決まる』

 一方宣長の思想は、

『人が死ぬと、黄泉の国へ行く。そこは汚く悲しい世界であり、死後の安定は一切ない』

 宗教的安心を強調した篤胤の思想は、地主・役人層の人間に広まり、大都市を基盤とする思想となった。


◎洋学 


 1774年、杉田玄白らによって『解体新書』が世に出された。これによって日本の理系学問の関心が強まり、欧州の学問である洋学が広まった。
 洋学は実用的なものが多く、医学・本草学・天文学・地理学などが中心だったが、当然それだけではない。たとえば、蘭日辞書である『ハルマ和解』などがある。
 このような結果に陥ったのは、幕府が輸入を制限していたからである。
 しかし実際のところ、前野良沢やその弟子である司馬江漢、山片蟠桃などの知識人層は欧州の学問について詳しかった。
 そこから生まれる理想的な欧州の社会制度にあこがれ、日本を批判したものも多かった。
 また、本多利明は重商主義をとり、幕府の危機が高まるにつれて彼の思想を受け継ぐものも増えていった。彼らはみな、欧州を理想としていた。

 広がる社会不安を沈めるため、幕府は寛政改革を行った。
 幕府は洋書が一般人の手に入らないようにしつつ、独占しようとしたのだ。
 この時代に盛り上がった洋学の関心は一気に静まることになった。しかし、1830年前後になると、またこの空気が生まれてくる。



◎シーボルトと蛮社の獄


 シーボルトは1823年に日本にやってきたドイツ人医師である。
 彼は日本で医学の教師として過ごし、やがて幕府天文方(遍歴を行う人、陰陽師と少しだけ似ている)の高橋景保と知り合った。
 彼らはお互いに欲しがっていた情報や地図を交換していた。
 しかし、シーボルトが帰国する際、このとき交換した地図が幕府の役人に見つかってしまう。シーボルトはスパイ容疑で投獄され、翌年追放された。
 彼を密告したのは間宮林蔵だと言われている。幕府の忠臣である彼には、シーボルトの行為が許せなかったのかもしれない。

 またこのころ、尚歯会(蛮社)と呼ばれる会合があった。渡辺崋山(三河田原藩(愛知県)家老)や高野長英(町医師)らが所属するグループである。
 崋山は地元では貧困対策などで高く評価されていた人物だった。しかし、幕府は彼を好かなかった。

 その理由は、1837年のモリソン号事件である。
 これは日本人漂流者を届けようとしてやってきたアメリカのモリソン号が、幕府に攻撃された事件である。

 崋山と長英は激怒し、それぞれ『慎機論』・『夢物語』を執筆した。2つとも幕府を批判したものであり、尚歯会を処罰する動きがはじまった。これが、蛮社の獄である。
 彼らが処罰されたのは、洋学を嫌った役人の鳥居耀蔵の存在が大きかったと言われる。
 崋山と長英はそれぞれ国元での蟄居、投獄に処せられた。
 しかし崋山は領主に迷惑をかけることを恐れて自刃。
 長英は、洋学をこのまま終わらせてはいけないと考えて脱獄。脱獄するものの、のちに幕府の役人に発見され死亡した。

 彼ら2人は悲惨な結末を遂げたが、無駄だったわけではない。
 結果、洋学は徐々にだが、人々に広まりつつあった。
(ほたるゆき)
+ 草奔の文化
草奔の文化
 近世後期の都市文化は、江戸を中心として武家や上層の町民から、中・下層の民衆へと移っていった。
 さらに、18世紀後半からは地方都市にも多彩な文化が生まれるようになっていた。
 これらの文化が伝搬する役割を果たしたのは、交通が整ったことによる商品の流通だった。また、上層民衆の交遊、参勤交代も無視することができない。

 民衆が文化を作り上げることができたのは、彼らの知的向上が大きな原因である。
 では、彼らはなぜ教養を得たのか。それは、生産力の増大と従順な年貢負担者にすることを狙った幕府が、民衆の教育を行ったからである。
 幕府の狙いとは逆に、教育された民衆は合理的思考・不正を見分ける能力を身につけた。結果として村方騒動は激化し、幕府の動揺は続いた。
 しかし封建制が崩れたわけではなく、草莽(民間)の文化の担い手は、お金と暇に恵まれた人々の文化として位置づけられていた。

 この時期の文化としてあげられるものは複数ある。
 たとえば、『北越雪譜』。これは鈴木牧之に書かれたもので、滝沢馬琴や山東京山にも賞賛されている。

 ほかにも、農業の発達もまた、文化の1つである。
 これは、国益という発想を生み出した文化でもある。
 機業(織物を作る仕事)や塩田の発展もまた、文化の1つとして見られた。

 この文化の中盤、佐竹義和が治める秋田藩にて、村誌・民俗誌の先駆となる書物が作られていた。
 菅江真澄の『雪の出羽路』『月の出羽路』『花の出羽路』である。完成はしなかったものの、これに影響され、全国的に地誌が作られることになった。

 これら草莽の文化は学問的な要素が多い。しかし18世紀末になると、芸能面でも発展がみられるようになる。
 こうして培われてきた文化は、のちに誕生する近代文化の温床となりつつあったのだった。
(ほたるゆき)
+ 天保改革の前夜
天保改革の前夜
 江戸時代の御蔭参り(抜け参り)は慶安三年(一六五〇)を最初とし、その後、幕末まで何回か起きている。この御蔭参りへの民衆の期待を深めた要因の第一は、政情の不安や民生の窮迫であった。文政の御蔭参りも、化政期の腐敗した大御所政治のもたらす様々な矛盾が背景となっていた。
 文政十三年三月、集団参宮の波が阿波徳島におこり、またたく間に淡路・紀伊から畿内・東海・中部・北陸地方へひろがった。
 下層の民衆は、神宮の宗教的権威をかりて自己の抵抗を神聖化することにより、社会規範からの解放感を味わったのであろう。
 このような神威を借りての解放感は、各地で地主・富商への抵抗をふくんだ動きとなって展開している。
 御蔭参りは、長くつづけば耕作放棄による年貢未納にまで発展する危機をふくんでいたが、幕府・諸藩はこの大衆行動が民衆の一時的な宗教的興奮であり、そのうちに沈静するとみて、静観し、ときには部分的に譲歩したり、参宮の便宜をはかったりしている。また、これだけの大集団の狂熱的行動は抑えきれないと悟っていたためともいえる。
 文政の御蔭参りはその年の秋には静まったが、その巨大なエネルギーは、形を変えて天保期の反封建闘争のなかに受け継がれてゆく。

 天保四年(一八三三)から始まった慢性的な大飢饉は、しだいに深刻な影響を全国におよぼしていった。死者の数こそ天明の大飢饉よりは少なかったが、それは飢饉の本質に変化があったことを意味するものではない。生産力発展の地域差が依然として解消せず、幕藩領主の権力基盤である本百姓経営の分解のしかたにも、それが強い規制力を発揮していた。
 商品経済の跛行的発展による農民層の分解の地域差は、天保期に入り、大飢饉などの影響をうけていっそう顕著になるとともに、農民・都市民の反権力闘争を量的・質的に発展させてゆくことになった。

 百姓一揆は、逃散→越訴→強訴→暴動・打ちこわしと段階的に発展している。
 暴動・打ちこわしが闘争形態の首位を占めるようになったことは、一揆の質的変化を暗示するものであり、天保期に入ってそれが全件数の三分の一近くを占めるようになったことは、農民闘争に、農業経営の防衛という面に加えて、土地改革を志向する変革的な「世直し」騒動の要素が発生してきたことを推測させるものである。
 天保七年(一八三六)に頂点に達した大飢饉の被害は、三河の大一揆を生ぜしめた。一揆は総数一万を超え、処罰者は一万一四五七人にものぼった。
 しかし、この大一揆の前月におきた郡内騒動は、これに輪をかけた苛烈な闘争であった。郡内騒動は甲州一国にわたる大騒動に発展し、参加人員も五万人に達したという風説さえあった。この大一揆の規模・エネルギーともに驚くべきものがあり、被罰者の多数と処罰の厳格であったことも、また近世一揆史上めずらしい例であった。

 幕府は天保期に入って格段に悪化した社会情勢にたいし、打つべき手は打ったが、それをささえる財政事情は悪化するばかりであった。その結果、天保銭の発行がなされた。品位は文政金銀に比べて劣り、鋳造高も一分銀のように多かったのをみれば、この改鋳が幕府の財政補強をねらっていたことは明らかである。

 天保期に入っての農村事情の悪化は都市にもすぐはねかえってきた。天保期の都市打ちこわしの特徴は、全国的に連鎖反応的な関連性を、かなり明確にもちはじめたことである。
 都市の中でも、とくに幕府の直轄都市である三都の事態は深刻であった。関東は幕府の対応により、大規模な打ちこわしにまでは発展しなかったが、大坂はそうはゆかなかった。
 大坂は天保四年(一八三三)に米価が従来の倍近くも騰貴し、市民の動揺が目立ってきた。大阪東町奉行の戸塚忠栄と西町奉行の矢部定謙の努力により、一時米価は下落に転じたが、七年を迎えると事態は最悪の段階に突入した。米価は再び騰貴を始め、青物類も大不作となった。餓死者が続出して、盗賊・追剥も横行し、市中の治安もひどくみだれた。
 ついに九月二十四日夜、雑貨屋が打ちこわしをかけられ、市中は騒然たる情勢となった。そんなとき、矢部定謙が大坂を去り、市政はしばらくのあいだ、その年四月末に赴任した東町奉行跡部良弼ひとりにゆだねられた。かれは老中水野忠邦の実弟であり、幕府の方針に忠実に江戸廻米に力を入れたので、市民の評判は芳しくなかった。
 大塩平八郎の挙兵も、一つには大坂町奉行でありながら、大坂の飢饉対策に本腰を入れない跡部のこうした施政にたいする強い不満が原因となっていたのである。

 大塩平八郎は大坂東町奉行の元与力であり、陽明学者としても知られていた。平八郎の封建的仁政観にたてば、大飢饉は天災ではなくて政災であった。市政の最高責任者である町奉行が、適切な救済手段をとらないだけでなく、江戸ばかり向いているとはなにごとかというわけである。
 平八郎は現職の与力である養子格之助を通じて、跡部に再三窮民の救済を要請したが容れられず、救済費として三井・鴻池らの豪商に六万両の借金を申し入れたが、これも断られた。
 かれは天保八年二月六、七、八の三日間にわたり、自己の蔵書五万巻を売った代金千余両をもって窮民一万戸に一朱ずつ施与し、同年二月十九日に挙兵する手はずだったが、一党に加わった東組同心の一人が寝返りを打って跡部に密告したため、八時間ほど早く行動をおこさなくてはならなくなった。
 挙兵参加者は約三百人で、反乱は半日で鎮定されたが、この乱は幕府に大きな影響を及ぼした。平八郎は乱の四十日後に大坂市内の隠れ家をつきとめられ、自殺して果てたが、幕府の審理はすっかり長引き、一年半後の天保九年九月に、やっと平八郎ら十七人の死骸にたいして反逆罪の宣告をくだし、死骸を磔の極刑に処するという具合であった。
 大塩騒動のことは短時日のあいだに全国に広がり、全国各地にこれと同じような反乱や一揆がおきた。

 斉昭は九年、『戊戌封事』と呼ばれる建白書を将軍家慶にさしだし、幕政全般にわたる改革の必要を力説しているが、そのなかで、「内憂外患」がきわめて深刻な段階にあることを指摘している。
 斉昭のいう「外患」もまた、天保期に入ると新しい段階に入っていた。モリソン号が渡来してから、幕閣の対外関心は俄然深まってきている。忠邦は文政の打払令をゆるめるとともに、寛政改革のさいに着手された江戸湾防備体制をいっそう強化する必要をみとめ、天保九年十二月、目付鳥居耀蔵および大館江川英龍にたいして同湾の備場(防備箇所)の巡見を命じた。
 忠邦の対外危機意識は、アヘン戦争の情報を入手することによっていっそう駆り立てられてゆくのであり、天保改革を必然化した基本的条件の一つは、この天保期の「外圧」にたいする領主層の深刻な恐怖感であったことを忘れてはならない。

(Shade)
+ 士農工商おののくばかり
士農工商おののくばかり
 水野忠邦は名門の水野氏に生まれた。唐津藩主である彼は藩政改革を行いながらも幕閣を狙って活動を進め、唐津から浜松へと敢えて不利な転封を率先して行うなどした。結果、彼は京都所司代に任じられ、そこで京文化にも触れて功績を積んだ。幾許無く彼は家慶側近から老中にのし上がった。その背景には多くの運動費を用いている一方で、一度老中となってしまうと今度はかなりの金銭を収受したようだ。その手腕もあってまもなく幕閣の全権を手中に収め、また倹約令などの政策を次々と打ち出して改革の下地を作った。
 家斉が亡くなると家斉側近を放逐し、その改革に反対する者を幕府内から逐うと、代わって改革に賛成する人間で幕閣を固めて行った。そして天保の改革は、そうした前座を整えたうえで、家慶の命が下されることによって正式に始まったのである。
 まず改革は幕臣や諸役人の刷新に始まるが、やはり農村改革に重点が置かれた。幕府は農村での統制を強めた他、農村工業の発展による農村からの人口流出を防ぐため副業も禁止している。また人返しの法によって江戸から農民たちを農村に返そうとした。しかしこれは実質的に江戸の人口調査の段階で終わってしまっている。この一方で年貢増徴のための検地も図られたが、これに関しては検地反対の大一揆が近江で起きるなどあまりはかどらなかった。
 町方に対しては、生活の統制を発布した。これは華美を戒めるために奢侈品を禁止するもので、時を経るごとにその範囲は拡大された。これは実際に代官によって取り締まりがおこなわれている。中でも、鳥居燿蔵はこの水野の諸政策を徹底させ、江戸の人間に恐れられた。これは町人の不満を買ったが、水野は生活水準の切り下げによって物価の低下安定を図ったのである。また賃金や利子の低減も図った。さらに銭相場の公定引上げもはかり、相対的に物価を下げたのである。しかし忠邦が失脚するとまもなく物価が上昇することに鑑みれば、結局この物価低下も人為的なものでしかなかった。
 株仲間の解散もこの流れにあった。そうすることで特権を無くし物価を逓減しようとしたのである。しかしこれは全藩に受け入れられたわけではなく、藩ごとの市場の独立がむしろ促進されていたといえる。
 この株仲間の解散は、農政学者の佐藤信淵の影響を受けているといえる。彼は身分制を全廃し、一人の君主の下に人民も生産も商業も統一した国家を理想し、つまりは絶対主義官僚国家を唱えたのである。彼の論は幕府にとって最も理想的な国家体系であった。
(Spheniscidae)
+ 上知令と軍事改革
上知令と軍事改革
 このような改革には次第に不満が鬱積し、各地で反抗が見られてくるようになる。それは町人ばかりでなく、改革を実行すべき幕臣や、諸大名にも見られた。これに対しても忠邦は強行な手を用いている。また幕府の威光を示すために日光社参も行われ、これは大成功に終わった。
 さらに忠邦は、印旛沼の開拓にも着手した。これは農地拡大の他、流通や江戸防備という点でも効用のあるものだと考えられた。これに動員されたのは孰れも水野と対立した大名で、水野の四位を感じさせる。しかし、この印旛沼工事は九割方完成したところで忠邦の失脚となり、結果的に失敗におわった。
 この開拓工事のさなかに出されたのが上知令である。これは江戸・大阪近郊の土地を取り上げ、代わって地方の天領を与えるという政策であった。しかしこれは対象となった旗本御家人の他、転封による収入の激減を恐れた農民たちも多いに反発した。とりわけ国訴も盛んであった大阪では、自体は深刻になった。結局、この上知令反対運動は、幕閣内の対立も絡んで水野忠邦の排斥にもつながっていった。
 水野はこの結果として完全に孤立し、ついには失脚して老中を辞任した。この後、一度は幕閣に返り咲く物の短い期間で辞職することとなる。それと共に親改革派は殆どが幕閣から追放された。
 ところでこのころ、アヘン戦争による清の敗北は、幕府の対外危機感を煽っていた。忠邦は江戸湾の防衛体制を整えようとするが、これは保守的な空気に阻まれてあまりうまくいっていない。そのほか砲術の訓練なども行ったが、イギリスが艦隊を派遣するという情報に接すると、外国船打払令を取り下げるなど、忠邦も対外情勢には敏感であった。これと時を同じくして忠邦は急速に江戸湾防衛体制をはじめとして、大砲の鋳造など軍制改革に力を入れた。なお、この軍制改革は忠邦退職によって止まったが、ただ浜松藩にて行われていた改革はそのまま続けられ完了している。
 この改革は、続く幕末での軍事改革に繋がるものとして高く評価することができるだろう。このように、天保改革とその後の改革とには、連続の側面もあり、むしろ系統的に捉えるべきである。改革が反動的改革であったという一方的判断を下すのは、早急な判断であるといえる。
(Spheniscidae)
+ 雄藩の抬頭
雄藩の抬頭
天保期、全国諸藩の財政は圧迫し、藩債はいっそう累増していた。それは長州や薩摩、肥前藩でも同様であった。その中にあってこれらの藩が天保改革をもって抬頭し、雄藩となりえた所以は、次のとおりである。

▼長州藩
 大農民一揆のつきあげを契機として天保改革に着手した唯一の雄藩。
 窮迫した財政状況をつつみ隠さず藩士および領民に公開し、その建て直しについて自由な意見を求めるという改良主義的ポーズを取った。
 下関という交通の要所を抱くこの藩は、下関に他国船舶への高利貸し所(越荷方)を設置。財政政策で成功を収める。
 また、実施された各種政策は、「債権者への債権放棄」「売買の許可制度」など、封建的統制を強化する意味合いのものが多い。
 改革の過程を通じて「人材登用」「言路洞開」の呼びかけのもとに中堅的藩士層が藩政にぞくぞく進出し、下層民衆の反封建的エネルギーも綺麗に体制へ組み込まれ、また、政商的豪商とのつながりも生まれた。
 長州藩の改革は、もっとも典型的な形で雄藩絶対主義への方向に向かっていたと言える。
 アヘン戦争の敗報がもたらした対外危機感の切迫により、軍備の改善と増強にも励んだ。

▼薩摩藩
 文永末年には500万両もの巨額に達した藩債を整理するために薩摩藩が実施した政策は、実に強引な手法であった。
 まずこの500万両、「無利子250年払いとする」、として実質「踏み倒し」を行っている。※35年間は返したよ
 更に、藩内の多くの生産物を専売し、生産者の利益を吸い上げることによって(特に砂糖専売で)莫大な利益をあげた。※農民の不満は全人口の39.6%も居た武士が封じました
 こうして琉球との密貿易の成功とも相俟って、領民の批判や三都町人の反感を一身に受けながら、薩摩の財政改革は成功した。
 また、時を同じくして軍事改革にも着手しており、洋式の砲術・調練の導入、鉄砲・火薬の製造に力を注いだ。

▼肥前藩
 財政破綻が深刻であるにも関わらず、肥前藩には米と陶器しかない。他に特産品など見当たらず、それというのも農民の手元にゆとりを残さない過酷な徴租がおこなわれた結果であった。
 よって本百姓体制の再建こそが、何にもまして藩政改革の重点とされた。
 小作料の完全免除、地主の領地を没収して小作人に再配布する均田政策。これら徹底した農商の抑制政策は、藩主 鍋島直正ら改革派によって行われた。
 肥前藩の軍備は「国を上げて」ではなく家中のみが独占しており、それというのも藩内の他派を警戒してのことである。
 時代を先駆けた大隈重信・江藤新平・副島種臣ら先進分子たちも、藩から孤立して政治活動を続けるほかなかった。

▼水戸藩
 尊王攘夷論の震源地となった水戸藩の事情も見てみよう。御三家の一として屈指の名門であった水戸藩は、貧乏藩としても屈指であった。
 藩制の危機を克服すべく、文武奨励・富国強兵・農民支配政策、と各方面へわたって改革にのりだした。
 しかし改革の進行に伴い、家中内部の政権争いへと陥ったため、どの方面でも体制はついに確立されないで終わった。
 幕末政局から落伍してしまう水戸藩であるが、「御三家であったから」という要因のみならず、藩権力の集中・強化の方向が維持されずに矮小化してしまったことも、その要因とされる。

天保改革は数多の藩でなされたが、たどった運命は西南雄藩型と水戸藩型のどちらかに分けることができる。

結局のところ諸藩の直面した危機の原因は、封建的小農民の量的・質的な変動であり、藩債はその帰結であった。
本百姓というほぼ単一の身分であった農民が、水呑・小作人・日雇などの雑多な階層に別れ、また生産物も米に留まらなくなる。農村工業が発展した結果である。
領主は米本位の年貢では取りたて難くなり、生産と流通の主導権を握った民衆に富が蓄積されてゆく。領主への要求も階層の立ち位置によって異なるわけで、きわめて治めにくい存在となっていた。
これが支配体制の立て直しに本腰を入れなければならなくなった理由である。

この時期の特徴として、中間的な知識人の屈折した活動が際立っていることもあげられる。彼らは情勢不満を政治的に表明するでなく、文筆に託して鬱憤を晴らす方法を採択した。また、洋学者の置かれた状況は大変なもので、投獄されたり自決を余儀なくされた人々は少なくない。
明治維新があと僅か三十年に迫っていた時代の話である。
(サバトラ)

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最終更新:2010年10月16日 20:49
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