第十三巻 江戸開府(辻達也 著) 後編

+ 貿易と禁教
貿易と禁教
 朝鮮と日本との交渉の中で、苦肉の策として対馬藩は国書を偽造している。これは日本と朝鮮との間で条件が食い違っていたからであり、これを埋めるために偽造をくりかえしていた。また日本側の将軍の称号を巡り、朝鮮は"国王"署名を要求するに対して日本側は"大君""国主"を名乗り変更することがなかった。ここも対馬藩が偽造を行って双方のつじつまを合わせた。
 しかしこの国書偽造は、対馬藩の内紛である"柳川一件"によって幕府に暴露されてしまう。しかし対馬藩はこの罪を許され、以後も国交を司ることとなる。
 家康がこのように朝鮮との国交回復を回復した理由としては、明との貿易を回復したかったからである。そのため、琉球との交渉を島津氏を通じて行おうとした。しかし琉球は使者派遣を行わず、それゆえ家康は島津氏に琉球攻撃を命じた。島津氏はあっという間に琉球を攻略し、琉球王は徳川家康・秀忠に謁見。琉球は薩摩藩の支配下に置かれた。しかし明は日本との国交樹立を行わなかった。
 さて関ヶ原の起こった1600年、イギリス船のリーフデ号が漂着する。その船員の内、イギリス人のヤン=ヨーステンとウィリアム=アダムズは日本に残ることとしている。彼らはそのまま家康の外交顧問となって日本で暮らした。
 彼らの努力もあり、このころイギリスとの間で通商が始まる。これには様々な特権が付与されていたが、家康死後にその特権は消滅し、イギリスは日本との通商から撤退することになる。
 またこのころスペインの前ルソン総督も日本に漂着し、家康と謁見している。スペインとは積極的に交易推進や技術提供を得ようと家康は考えていたが、ルソンやノヴィスパニアとの交渉も上手く行かなかった。
 一方、伊達政宗は家臣・支倉常長をヨーロッパに派遣している。彼は法王に謁見もし、また交易交渉も行ったが布教保護の要請がなされただけであった。
 このころになって、岡本大八事件に関連して禁教令が発布され、貿易も禁教の為に制限するようになっていった。
 このような背景には、オランダの攻撃によってポルトガルやスペインとの貿易額が下がっており、またカトリック教国の危険性を認識していったからである。そして貿易による利益を独占しようとしたことも挙げられる。子の為に、生糸輸入に関しては一括に生糸を購入する団体・糸割符仲間を作らせ、これによって生糸の交易を統制した。
 家康はキリスト教に対してかなり警戒をおこなっていた。キリスト教を布教した後に植民地化を行う、というカトリック教国の手を聞いたこともあり、また一向一揆に悩まされたことから信仰の危険を知るからである。
 同時に、新教国・オランダの進出もキリスト教への弾圧を強めるりゆうとなった。この状況でとうとうキリシタンの激しい弾圧がおこなわれるようになり、また伴天連の追放が行われたのである。
(Spheniscidae)
+ 黒衣の宰相
黒衣の宰相
 外交の際には国書作成などで五山の禅僧がよく用いられた。秀吉時代に用いられたのが西笑承兌である。家康の時も彼が用いられ、彼が死ぬとそれに代わって以心崇伝が用いられるようになった。南禅寺の僧であった彼は、次第に大きな権限を握るようになり、外交と内政と双方の面で力を持っていた。
 このころ、幕府は寺院に対して寺院法度を発布し、寺の統制を強めていた。其の一として、寺での学問を推進して俗への介入を防いだ。また、本寺による末寺統制を強化させ、宗派の統制を行いやすくしている。さらに朝廷からの介入拒否にも動いているといえる。
 これらの法度作成にあたっては寺院の内部事情を知らねばならぬ故、承兌や崇伝がそれに協力している。
 また崇伝はそれ以外にも様々な法度を起草している。朝廷に干渉する公家諸法度、また武家諸法度も崇伝の筆になるものである。僧の位に関わる紫衣法度やキリシタン禁制他、仏教の諸宗に対して発布された諸々の法度も崇伝の手による。
 崇伝は法度に逆らう人間を一切排除という態度で会った。それゆえ恨みを買い、世の中での評判は悪かった。しかし彼は、幕府のために働いているのであり、私欲のためとはいえないだろう。
 もう一人、家康の下で働いた人間に、南光坊天海という人物がいる。天台宗の僧侶である彼は非常に長寿だったといわれ、百歳近くだったといわれる。
 崇伝については、実質的には教義信仰よりも政治に介入しており、その点で黒衣の宰相――法衣を纏う宰相だったといえる。しかし展開はむしろ宗教面で活躍したと言えるだろう。彼はまた、よく家康に赦免を請うているが、このような存在は激しい刑を最初に容赦なく下すことができる点で家康にとっても有難い存在だったのだろう。
 家康の死後、家康を神として祭ることとなったがここでどのような神号で祀るか、ということが問題となっている。ここで天海は神仏習合的な称号"権現"を主張し、崇伝は唯一神道的な"明神"を主張した。これは天海が、神仏習合の一であり、天台を基礎とする山王神道を信仰していたからである。結果、天海の主張する権現が通った。これは天海の「明神は、豊国大明神の先例がある」という言葉から、明神が豊臣氏の滅亡を思い起こさせてしまう事となったからである。
 そしてこの家康――東照大権現を祀るため、日光山に東照宮が造営された。日光はかねてより山岳信仰の拠点として知られていたが、このことによって一気に日光は力を持つようになるのである。現存する東照宮は、家光がその後に豪華に造営し直した物であった。これは大名の力を削るためというが、既に安定期にはいったこの時代にそれを行う必要性が低いことを鑑みると信憑性が薄く、事実この造営の際には大名の寄進を避けている。
 天海はまた、天台宗の中心を関東に移している。つまり、寛永寺を造営して延暦寺と対置し、天台宗を江戸のおひざ元に置いて統制をはかったのである。さらに延暦寺に対抗するため、宮門跡を置くことを考えた。これは天海の死後になってようやく実現し、輪王寺宮門跡と呼ばれることとなった。
 日蓮宗不受不施派と呼ばれる一派がある。これは、他の宗派からの功徳を受けずまた施しもしない、という立場の人々である。かれらは江戸時代を通じて非常に強く弾圧されることになった。(Spheniscidae)
+ 大名統制
大名統制
 豊臣氏の滅亡によって、太平の世がはじまったという見解があるが、これは考えものだ。大坂の役ののち、武家諸法度、禁中並公家諸法度、諸宗寺院法度といった基本的法度が発布されるが、これは大坂の役とひとくくりにすべきなのだ。
 なぜなら家康は、大坂の役と並行してこれら――法典設定の準備を進めていたからだ。彼は、大名、僧、公家らが幕府のもとでどうあるべきかを締めくくるつもりだった。
 だがそのためには、実権を握る必要がある。豊臣氏が掌握する実権を、なんとしても奪わなくてはならないのだ。つまり、奪えればそれでよかったのだ。ところが豊臣氏は家康の条件には従わず、自ら滅びる道を選んだのだった。

 元和の武家諸法度は、今まで発されてきた法令と異なる点があった。形式だ。
 本来なら、主権者が条文を掲げ、大名が誓約する。しかし、元和の法令は、一方的に幕府が大名たちに通告をするだけだった。これはつまり、幕府の支配力の強さが安定期に入ったことを証明しているのではないだろうか。
 ちなみに、この法令ではまだ、所領、軍役、参勤交代についての規定はほとんどない。それらが決められるのは、三代将軍家光の時代のことなのだ。
 一応所領に関する条文はあるものの、それは幕府にとって都合のよいように解釈できるものだった。
 元和の武家諸法度の決まりのうち、ほぼ半分は秩序破壊に対する警告だった。これは、幕府の転覆を恐れたからではないだろうか。あるいは、徳川氏の権力を大名たちに確認させるためとも考えられる。

 米沢藩士上杉景勝は、1603年10月に訓令を発する。そこには、給与をもらう代わりに軍役(――1)を負担する必要があるということが書かれている。
 軍役は、藩士たちにとってかなりの負担だった。破綻してもおかしくないほどだったようだ。こうして破綻することを、「すりきれる」といった。
 景勝は、「すりきれる」ことがないように娯楽を止め、まじめに働くことを伝えた。しかし、それでも「すりきれる」藩士はたくさんいたようだ。米沢藩に限ったことではないのだが。

 なお、軍役についての誤解が2つある。
 1つは、幕府は直轄地からしか年貢や運上(――2)をとらず、それを財源としていたという説だ。行政についてはその可能性もあるが、軍役についてはあり得ない。
 もう1つは、大名の経済力を削ぐことを目的として軍役を課したという説。そのような不満が漏れる状況で、幕府が300年近く続いたとは考えにくい。

 さて、石高の話へ移そう。石高が多い大名たちは、名誉だと考えられている。しかし、高ければ高いほど、大名の負担は重くなる。軍役についても同様だ。負担に耐え切れず潰れる大名が次々と現れ、やがて幕府は法令を緩めることになる。
 おかげで、大名たちは少しずつだが回復していくことになった。

 家康の晩年から秀忠の時代にかけて、大名の配置はかなりの変化を見せる。負担に耐えられない外様大名が潰れ、そこを譜代大名が治めたのだ。こうして譜代大名は、全国に広がっていく。
 また、大名が潰れるにつれて、幕府の直轄地もまた、増えていくことになった。

 譜代大名がずいぶんと有利に見えるが、実は彼らも支配原則をうけなくてはならない。潰れる家もあったが、大体の家は小藩だったために石高が低く、まだマシなほうだった。幕府は関ヶ原以降に、譜代の家臣を独立させ、全国支配を進めようとしたからだろう。

 ところで、なぜこんなに大名が潰れるのか。理由は3つある。
 1つは戦に負けることだ。2つ目は――これが大きいのだが――後継ぎがいないことだ。末期養子(――3)の禁という制度があり、必要とするときに養子をとることができない。養子がいなければ、大名は潰れるしかないのだ。
 3つ目としてあげられるのが、幕府による処分だ。
 お家騒動と呼ばれる争いが起こると、幕府が介入する。そのとき、どうやら幕府はどちらがよい、悪いと決めるのではなかったらしい。勝たせたいほうを勝たせるという形だったようだ。

 幕府が処分を決める理由は、政治的な意図があったと言わざるを得ない。たとえば、福島氏、加藤氏(――4)の改易。彼らは豊臣家の重臣で、警戒されたからだと考えられる。
 また、徳川家の親族といえども容赦なく罰を受けたという例もある。

+ 補足
補足
1、軍役とは、戦争や土木工事に参加したり、江戸へ主君とともに参勤しなくてはならない負担。城を造る仕事もここに含まれる。

2、運上とは、農業以外の産業に従事する人(漁師など)に課された税。小物成という税に含まれる。

3、末期養子とは、死ぬ間際に大名が定めた養子。生きている間に決めるべきなのだが、仮に本当の子どもが生まれた場合、あとでお家騒動が起こる可能性がある。だから、死ぬ間際に決定することが多かった。
 由井正雪らが幕府の転覆を謀って失敗した慶安の変があるが、それはこの末期養子の禁によって家を潰された藩士たちによるものらしい。この変を恐れた幕府は、のちに末期養子を許可する。ただし、17歳から50歳までの大名が死んだときに限る。

4、福島氏、加藤氏はともに福島正則、加藤清正の家。彼ら2人は子どもができなかった秀吉に育てられ、豊臣家に厚い忠誠心を持っている。

(ほたるゆき)
+ 消えゆく人々
消えゆく人々
家康の時代、幕政はもっぱら家康と個人的な結びつきを持ち、諸方面に優れた才能を示した人々が集まることによって動かされていた。しかし秀忠の時代になると、そのような個人的な結びつきは重きを失い、組織の中に政治の中枢が形成されはじめた。政治への発言力は將軍との関係ではなく、職務にあることによって得られるようになったのである。家康亡き後の秀忠時代は、個から組織へ、その変革の時期であった。本章では、この大局的な変化に適応できず消えていった旧臣たちを見ていく。
第一は、宇都宮城主本多正純である。家康七回忌にあたる1622年4月19日、正純は将軍秀忠の日光下山を待ち受け、これを居城に迎えるべく周到に準備を凝らしていた。しかし皮肉にもこの準備に將軍謀殺の嫌疑をかけられ、宇都宮15万5千石を没収され失脚してしまう。俗に宇都宮の釣天井と呼ばれる事件である。この処罰には、長く家康についていたため秀忠幕閣の中で孤立していた正純を排斥するという、幕府上層部の思惑も働いていたと筆者は推察している。
また、この本多正純を過信していたために、取り潰しの憂き目にあったのは福島正則である。福島正則は豊臣秀吉にもっとも縁故ある大名のひとりとして幕府から疑いの目を向けられるのを警戒していたが、1619年4月、居城広島城を無許可で修理したことを幕府に咎められ、いったんはこれを謝罪したものの、そこで約した新築箇所の取り壊しを実行しなかったため、領地備後・安芸両国の四十九万石を奪われ川中島に移された。この広島城新築を巡る一件は、正則は新築の許可を正純に頼んで安心しきっていたものの、前述の通り既に幕府における正純の発言力は失われていたため、正則と幕府の間に齟齬の生じたことが真相らしい。
同じく豊臣秀吉と関係の深い加藤清正の子、加藤忠広も不可解な陰謀事件により熊本五十二万石を奪われ、滅亡している。一説にこれは家光の威光を諸大名に示すため、外様大名の中でも豊臣氏と縁故の深い加藤氏を血祭りにあげたものだと言われている。この他、幕府に対する素行悪しく、主従の関係を受け入れないものは、松平忠輝、松平忠直など徳川一門と言えども領地を没収され流された。すべての人間が主従・上下の関係で固められ、これに適応できない者はことごとく淘汰されていったのである。
(Shiraha)
+ 公家諸法度
公家諸法度

1613年公布の「公家衆法度」に続き、1615年「武家諸法度」を発布した10日後に「禁中並公家諸法度」17条を公表した。「公家衆法度」では幕府権力が公家に及ぶことを法制化したが、「禁中並公家諸法度」に於いて幕府権力が天皇、また公家衆の生活の細々とした事にまで影響することを示した。
公卿諸家の家格が固定されているように、以前から公家の社会は発展が見られなくなっていたが、ここに来てそれら生活の固定化は極みに達した。また、彼らの生活は著しく窮屈で、また経済的にも苦しいものであった。
一方で家康は朝廷への圧力を増す為に、天皇への入内を考え、秀忠に娘和子が生まれると、これを後水尾天皇に入れようとするが、大坂の陣や天皇に皇子皇女が生まれるなど、入内を延期せざるを得なくなった。これに気を悪くした幕府を見て、天皇は自分が気に入られないようであれば譲位する、とささやかな抵抗をみせるも、幕府は他の公卿に罪を被せて処罰し、天皇へ圧力をかけたが、藤堂高虎らの説得により朝幕間で折り合いがつき、入内と相成った。70万石もの入内費用を費やして和子は後水尾天皇に嫁いだが、その後幕府が天皇の権力が及んでいた諸宗への権限を強く犯し、さらに家光の乳母春日の局が、武家の一召使に過ぎないにも関わらず天皇から杯を受け、これらに天皇が憤り、1629年後水尾天皇譲位、明正天皇即位となった。しかしながらこの譲位を幕府は全く意に介さなかった。もはや勝手にしろ、という雰囲気であったようだ。
この後の朝廷―幕府間は、緊張がほぐれていった。後水尾天皇の個人的な恨み等はあるかもしれない。だが家康、秀忠が各法令を発布し、社会秩序をこの型の中にはめ込むことに力を注いでいたのが家光の時代になって法制の整備に方向転換した。家康・秀忠時代に社会の基本的秩序が整い、幕府の支配体制が確立したからである。よって、幕府は朝廷に過度な政治的配慮をする必要がなくなった。そこから生まれた後水尾天皇即位を「勝手にしろ」という雰囲気なのであった。
(NINN)
+ 将軍家光とその周辺
将軍家光とその周辺
 家光という将軍は出歩くことが好きで、よくお忍びで江戸近郊に出かけた。四代目以降は将軍の外遊に際しては厳重な警備がついたので、このようなことはなくなってしまった。
 家光のころまでは将軍の行動は比較的自由であったが、それもだんだん制限されていったらしい。将軍を頂点とする身分社会制度が固定化し、機構・制度が整備されてくると、世の中の人々は身分や家柄の枠に閉じ込められることとなる。将軍もその例外でなく、長く続いた江戸幕府では後期に至るほど将軍は窮屈な立場となった。
 家光は家康に強い影響を受けていた。以前後継者が駿河大納言忠長になるのではないかと噂されたとき、家康ははっきりと家光こそが後嗣だと明示した。家光にはこのことが終生頭から離れなかったのではないだろうか。この他、幼き頃の大病が家康が用意した薬によりたちまちに快癒したなどとも言われている。
 1629年(寛永六)家康二十六歳のとき、家光は重い天然痘を患った。このとき乳母の春日局は生涯薬を飲まないことを神に誓い、その代わり家光を救って欲しいと祈った。それ以来彼女はこの誓いを守り続け、自らの病気が重くなり、家光に薬を飲むように嘆願されたときもこれを拒否し死亡した。春日局は家光の将軍就任も支援し、単なる乳母として以上に家光に優遇された。
 春日局が家光にとって慈母的存在であったとすれば、厳父的存在はお守役の酒井忠世・土井利勝・青山忠俊の三人である。この三人は家康の内意によって秀忠が任命した者であり、適切な人選であった。
 酒井忠世は三河譜代最高の家柄の生まれで、性格は謹厳実直、口数が少ない人だった。土井勝利は才物で、よく家光に呼ばれ、しばしば酒の相手をつとめた。青山忠俊は剛直な人で、家光の我侭を強く諌めた。
 家光の小姓からは有能な政治家が何人か出現した。松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・阿部重次・太田資宗がそれである。彼らは「六人集」と呼ばれ、酒井忠勝・土井利勝のに元老の元で、幕政の中核をなした。
 家光は家康の制覇の事業の総仕上げを行い、家康に次ぐ高評価を受けているが、家康や秀忠に比べては個性の小さい人間であった。彼の時代の幕府は政治機構が大いに整い、個人活躍の場が少なくなっていたのである。そのため、家光を見る場合には、側近の有能な政治家群の存在を無視することができない。

(Jiyu)
+ 徳川三百年の基
徳川三百年の基
 江戸幕府が私闘を法で明示的に禁止したのは、1635年(寛永十二)、武家諸法度を改訂したときである。これに続き、法定や訴訟制度も同年に明文化された。江戸幕府の役人は一つの食に複数の人数がおかれ、月番で事務をとり、重要事項は合議で決定するのが原則であるが、これが明文化されたのもこのときである。評定所は各役所では扱いきれない重大事件や難事件、管轄外の諸領主の事件を担当した。
 1633年(寛永十)主人・家僕、親・子、本寺・末寺、代官・百姓などの訴訟取扱い方その他の規則が出た。ついで評定所執務細則というべきものも発布され、その後長く執務の基準となった。この年には家光の側近であった有能政治家、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛が老中に昇進した年である。幕府首脳部が充実したのと、武家諸法度の改訂・法定制度の整備が行われたのは深い関係があるのだろう。この全国土地所有権と裁判権が、徳川幕府の国家権力成立をよく示すものである。
 中世においては、武士は所領の土地・人民と強い結び付きを持っていた。彼らは農村に土着し、主君に対しては独立性を維持していた。しかし近世の知行地は中世の所領とはかなりことなり、支配は形式的・名目的なもので、土地・人民に対する結びつき弱く、中世の武士のように主君に対する独立性は保持できるものではなかった。彼らの収入はもっぱら主人から支給される俸禄に頼ることとなった。さらに武家諸法度で他の主君への再仕官が禁じられたので、武士は現在使えている藩に絶対服従をしなければならなくなった。「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」と武士に対して一方的な没我の忠誠を求めた。
 政治的支配体制が確立していくのと並行して、社会秩序も固定していった。この時代の身分制度は、俗に士農工商と言われるが、これは儒者の観点から設けられた区別であり、実際は武士と百姓と商人の三身分に大別される。秀吉が行った太閤検地や刀狩りなどの兵農分離政策で、百姓と武士の身分の区別はすでに行われていた。商人に関してはどうだろうか。織田信長や豊臣秀吉のころの楽市・楽座の令により、商売は自由に行うことができた。しかし、ここでいう楽=自由は、中性的特権からの自由であり、近世の商人には身分制度による新たな束縛がなされていた。一定期間都市に住んだ者は町人の身分とされ、農村とは完全に遮断された。彼らは武士のために物資の調達を行い、あるいは物資製造の技術を提供させられる存在となった。このような武士・百姓・町人の三大身分は、それぞれの中でさらに細かい上下の階層構造が成立して完成となった。
 身分を象徴付けるものの一つに刀がある。百姓には秀吉の刀狩り以降は特に帯刀禁止令は出ていなかったが、町人は法で厳しく制限されていた。衣服もまた身分をよく表す。禁中並公家諸法度には、天皇以下細かい規則で公家の衣服を規定している。上級武士もだいたい公家に準じた規則がなされ、身分の上下に応じて着てよい衣服が制限された。
 1642年(寛永十九)、大飢饉が起こる。幕府はこれにより、農業政策を行って支配基盤を固める必要に迫られた。まず検地の条例により、正確な検地を行わせた。この検地は高度の熟練技術を伴なう公正な検地であった。同時に「慶安の触書」が発布された。農民向けに易しい言葉遣いで書かれており、日常生活の細かいところまで指示し、彼らに勤勉・節約・節制・技術改良を説いた。ここにおいてはじめて、小家族を基本とした農政が出され、土豪などの大家族的な経営を幕府は否定した。
 家康が関ヶ原において石田川を壊滅させてから、家康が死去するまでの五十年で徳川政権の支配体制は固まった。今後はたとえ幼少・病弱の将軍をいだいても、不安・動揺をきたさぬほど強固な支配体制を築きあげた。

(Jiyu)

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2010年05月02日 00:38
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。