第十巻 下剋上の時代(永原慶二 著)

+ はじめに
はじめに
 農民が守護方を攻撃するという、史上類を見ない支配体制の揺らぎを見せた室町という時代の終期が本書で述べられている。この時代は国家的英雄は不在であり、無名の民衆的な英雄が数多く奮起した。民衆が切り開いた新たな歴史を知るためには、彼らの行動の意義と軌跡を子細に追うことが肝要である。

(Jiyu)
+ 鎌倉の緊張
鎌倉の緊張
 1415年(応永二十二)、 公方 持氏 は常陸小田氏の一族、越幡六郎の所領を没収した。六郎の罪は大したことがなかったので、管領上杉氏憲(のちに出家して禅秀)はこれを止めようとしたが、十八であった持氏は言い出したら聞かなかった。禅秀はこれに憤慨して職を辞し、持氏は禅秀のライバルであった上杉憲基をその代わりに任命した。この二人は元は同族だが、分家が原因の勢力争いをしていた。この事件により両派の対立は決定的となり、金国の武士たちが禅秀と憲基の邸宅に集まり鎌倉は震撼する。持氏の宥和策によって事態は一応の収束を見た。
  義嗣 は京都にて禅秀の辞任を聞いて喜んだ。もともと義満の寵愛を受けていた義嗣は、自分を差し置いて将軍となった義持に反旗を翻そうとしていたからである。彼はさっそく禅秀を誘うと、禅秀はこれを快諾し、さらに足利満隆も誘った。満隆は謀叛の噂を以前立てられており、常々から疎外され続けてきた。禅秀の唆しもあり、満隆はこの誘いを受け入れた。東国は謀叛の空気で溢れていた。さまざまな勢力が幕府に不満を感じ、虎視眈々とその時を待っていた。
 禅秀は病気と称して準備を整え、一年後公方持氏を強襲する。持氏は仰天するも、何とか憲基邸に逃れた。持氏・憲基方は奮闘するも、結局敗れて小田原に逃れた。
 禅秀はまず鎌倉の実権を掌中に握り、次いで持氏与党の討伐兵を出した。一方京都の義嗣は、もともと幕府から見放されていたために何らの賛同者も得ることができず、みずから髻を切って遁世(仏門に逃れること)を装った。
 幕府はここにいたりことの重大性を認識し、義嗣を幽閉するとともに東国の武将たちを禅秀討伐のために出兵させた。禅秀は敗れ、一族共に鎌倉で自害した。禅秀が蜂起してからわずか三カ月のことであった。
 いったん失われた公方の権威は、すぐには回復しない。南北朝内乱期ごろから次々と形成された 一揆 も権威を脅かしていた。彼らは地域的な集団を形成し、既存の惣領制が崩れていった。
 このころの農村武士=国人は、反権力的な農民に悩まされていた。農民と荘園領主・豪族の間に位置する中間層である国人にとって、彼らがどう動くかは重要である。反権力の矛先を荘園領主や豪族に向けるために、国人たちは血縁にとらわれずに平等な立場として互いに団結した。この一揆は生き延びるために、無節操なまでに柔軟にふるまった。
 持氏は第二、第三の禅秀の乱を起こさぬために、残党を徹底的に追討した。しかしこれが逆効果で、追討に励めば励むほど叛乱者は増加した。京都の将軍と鎌倉の公方は長らく対立していたこともあり、京都と鎌倉は一触即発の状況に陥った。
 蓋を開けてみれば持氏の惨敗であった。敵を打倒することしか知らなかった者が、ここに来て初めて屈辱を味わった。持氏は京都に忠誠の誓書をささげた。
 これで落着とはいかなかった。この騒動から一年たたずのうちに、義持の子義量が十九の若さで早世した。義量は将軍職を引き継いではいたが、実権は義持が握っており、また遺言を残さなかったので、後継者の問題が発生した。義持自身もこれから二年足らず、1428年(正長元)に四十三で死に、後継者問題は幕府の首脳陣の衆議によって定められることとなった。義持自身も皆で話し合って決めてほしい、と遺言していた。これといった後継者候補がおらず、また誰を推しても後々不満により混乱が起きることが予期されていたので、籤にて将軍が決められることとなった。最初で最後の「籤将軍」 足利義教 の誕生である。籤は物事が決まらぬときに、神頼みで決める方法として当時流行っていた。
 持氏はこれに怒り、ただちに出兵を試みた。上杉憲実(憲基の子)に諌止されたので、伊勢の北畠満雅をけしかけて出兵させるも、すぐに幕府に鎮圧され満雅は殺された。幕府はこの事件により警戒態勢を強め、持氏も中央から自立の意思を表明し、両社は決定的に対立した。1435年(永享七)に入ると情勢が動き出した。穏健派であった憲実の意見は聞き入れられず、持氏は 足利満貞 、佐竹義憲、那須氏資などを次々と討たせた。憲実は持氏と対立を深め、ついに幕府側に寝返った。幕府は幕府で、慎重派であった 三宝院満済 山名時熙 が死亡し、義教を制止するものがいなくなってしまった。義教は天皇に持氏追討の綸旨を出させて名分を整え、二万五千の兵を出陣させた。もともと十分な直属軍隊を持っておらず、対立する勢力を煽って武威を振るってきた持氏はもはや袋のねずみ当然であった。頼りの憲実も今は敵として攻めてくる。追いつめられた持氏は行動を共にした三十余人とともに自害した。1439年(永享十一)、持氏四十二歳の時だった。
 持氏が死した後も、彼に与した勢力が各地に残存していた。これは禅秀の時と似た構図である。1440年(永享十二)、下総の 結城氏朝 は持氏の遺子安王丸・春王丸を奉じて挙兵する。彼らはまだ十二、三歳の少年であった。当時多くの家で惣領制が崩れ始め、惣領が 庶子 を統制できなくなり、相続争いや所領争いが頻発した。庶子たちがそれぞれ独立を図り、その下の武士たちが己の立場を有利にするために争いに油を注いだ。今回の争いにおいて、彼らの一方が幕府方につけば、もう一方は結城方につくという、南北朝内乱の宮方と武家方に似た様相を呈していた。中央の分裂は地方の分裂を呼び、もはや収拾のつかない混沌を形成していた。結城方は籠城するが、ついに食料が途絶え、1441年(嘉吉元)城は落ちて春王・安王は殺害される。この乱を治めた憲実は、関東の実権を完全に握るに至る。
 憲実は当初持氏を支持したが、のちに寝返りその遺子にまで手をかけ、関東を掌握した。持氏の死後、責任を感じて切腹をしようとした逸話や、晩年僧体となって諸国をめぐった事実から、当時から彼に対しては時代に翻弄された被害者という同情論が多かった。しかしながら、あらゆる武士が自己の利害のために奔放に振る舞ったこの動乱期に、憲実だけが主従道徳にとらわれていた道場に足る人物と断定してよいものだろうか。

(Jiyu)
+ 将軍殺害
将軍殺害
 幕府発足時から、足利の一族または密接に結びついた者は中央の京都に集中しており、九州や東国の支配は二次的なものに過ぎなかった。ゆえに、東国の一連の動乱に対して、守護大名たちはおおむね消極的な態度をとったし、関東の公方も独走したのである。永享の乱から結城合戦の流れにより、辺境の問題が中央にとって深刻な影響をもたらすということが証明された。そして東国動乱が収まったその矢先に、将軍その人が殺害されるという嘉吉の乱が起こる。
 1441年(嘉吉元)、京都の赤松美津介邸において、将軍義教が結城合戦の勝利を祝う宴を楽しんでいた。この宴には、将軍に供奉した大名である細川・畠山・山名・大内・京極らの諸大名も参加していた。宴もたけなわであったその時、後方の障子が手荒く引き開けられ、武士数人が将軍に斬りかかった。将軍義教のあっけない最期であった。細川はからくも脱出したが、それ以外の大名は重軽傷を負った。
 首謀者である 赤松満祐 は、すぐに諸大名の軍勢が邸宅に押し寄せ己を捕えると予期していた。ところが意外にも討手が来ないまま夜になった。赤松は考えを変え、徹底抗戦することにして、邸宅に火をつけて自分の領国播磨へと下った。
 幕府は混乱していた。事件の翌々日にようやく会議が開かれ、義教の遺子でわずか八歳の千也茶丸(義勝)を後継に立て、赤松討伐の軍略を練った。しかしながら、将軍の死亡により政局がどのように展開するのか不明であったので、なかなか行動を起こすことができなかった。
 満祐は本国播磨に帰ると、足利直冬の孫義尊を迎えてこれを奉じ、京都への反旗を示した。叛逆者が旧主の縁故者を奉じて謀叛の大義名分とすることは、南北朝内乱以降しばしばみられるやり方だった。
 赤松追討軍がようやく 山名持豊 (のちに出家して宗全、西軍の諸将からは赤入道と呼ばれる)の軍勢を中心に編成されることとなった。山名は 明徳の乱 で赤松に所領を奪われていたので、絶好の報復の機会として進んでこの役を受けた。地方の 国人 も恩賞の好機として次々に追討軍に参与し、逆に満祐は国人の支持を失った。満祐は弟義雅とともに自殺し、脱出した嫡子教康も伊勢で捕えられ殺された。戦局の鍵を握る国人たちが、いち早く満祐を見限ったことにより、乱はあっけなく収束した。
 義教が殺害された原因は、彼の恐怖政治にあった。大名家の相続問題に対する干渉、出仕の停止、所領召上げ、理由のはっきりしない誅伐など、守護大名にありとあらゆる圧迫を加えた。公家衆・女房・僧侶・庶民にも激しい圧政を展開し、「万人恐怖」とささやかれた。
 義教は籤で決まった将軍とはいえ、決して傀儡ではなく、相当な権力をもっていた。確かに室町幕府は守護大名の連合政権的な側面もあるが、将軍には守護大名と全く違った独自の権能と、それを支える軍事力・経済力が依然として存在していたのである。
 守護大名は自身の力だけでは領国を収めることができなかったので、幕府の権威を当てにするために京都に積極的に身を置いた。この激動期に、国人や農民も勢力を伸ばし始めていたので、守護の権威だけではいかんともしがたくなっていた。これは将軍と守護の関係に似ている。将軍は守護に見放されればやっていけないし、守護は国人に見放されればやっていけないのである。地方政治の中心は彼ら国人にあった。この時代の主従関係は江戸時代のそれと異なり非常に緩いものであり、いつ謀叛が起こるかわからない不安定さを伴っていた。主従関係は法的制度ではなく、人的信頼関係に依拠する面が多かった。それは義教のような専制政治も可能にするが、そのツケが即座に跳ね返ってくることも意味していた。義教暗殺はこのような社会的事情の元に起こったのである。

(Jiyu)
+ 土一揆の蜂起
土一揆の蜂起
 永享・嘉吉の乱と並行して幕府の屋台骨を揺るがしたものに 土一揆 があった。その中で特に社会的に影響力が強く、幕府にも恐れられたのが1428年(正長元)の土一揆であった。この年は義教が将軍に就き、持氏の謀叛が露呈、そして飢饉と悪疫が流行し、社会不安・政治不信が頂点に達していた。土一揆はこのような社会情勢の中蜂起された。農民たちは年利六~七割二分という高利に苦しんでおり、徳政を認めろと言ってほうぼうの借金先を襲って証文を奪い取り焼き捨てた。一揆は幕府・寺院の一体的行動によってたちまち弾圧を加えられるが、それに屈せずして各地に波及していく。 酒屋 土倉 は次々と襲われた。京都では幕府が徳政を禁ずる法令までわざわざ発布された。奈良では独自に徳政令が出された。
 この正長の大一揆ときわめて密接な関係を持ったのが播磨の大一揆である。これは正長の大一揆の翌年、1429年(永享元)に起こった。この一揆は徳政要求というよりも、国人・農民の連携により守護赤松満祐の軍隊の国外退去を求めるというものであった。守護側の侍は惨憺たる敗北を喫した。土一揆は政争を左右するまでのものとなっていた。
 さらに正長の土一揆から十年後、1441年(嘉吉元)、将軍義教の死に伴い一揆が起こった。この一揆は規模・組織・成果という点で圧倒的な大きさをもった。正長の一揆のように地域的広がりは見せず、全勢力が京都に集中した。一揆は京都のあらゆる出口を固めて、京都をあまねく包囲した。一揆は土倉・酒屋を襲い、幕府軍と戦った。この一揆は村々の地侍たちが指揮をとり、組織的な戦術がとられていた。計画性もあり、土民だけでなく公家・武家にも適用される「一国平均」の徳政令発布を求めて譲らなかった。幕府側は腐敗しきっており、足並みがそろわなかったので、自体は泥沼の混乱を極めた。
 蜂起から半年、幕府はついに「一国平均」の徳政令を発布した。土倉・酒屋・寺院など高利貸を営んでいた人々は大きな打撃を受けた。また彼らからの納銭を財源としていた幕府も打撃を受けた。重税に苦しむ農民は、そのまま朽ちるか逃走するかのどちらかであった。このように闘争によって免税を勝ち取ろうとした運動が全国的に起こった時代は、鎌倉以前も江戸以降も存在しない。高利貸がはびこり、農民運動が多発した中世だからこそ起こりえたのである。

(Jiyu)
+ 自検断の村々
自検断の村々
 この時代の荘園は、まとまった土地を一人の領主が管理するという形態とは限らなかった。空間的に分散した土地の管理区分として、何某荘という名称がつけられた。このような荘園は、後世の土地整理によって名称が喪失してしまう。逆にまとまった区画につけられた名称は、そのまま何某村などという形で現在も残っている。
 分散した土地というのは農民にとって耕作効率が悪い。荘園の土地区画というのはあくまで年貢徴収の区分を示すものでしかなく、実際の耕作は近隣の村人が現状に応じて行っていた。このため一人の農民がたくさんの荘園の耕地を耕すことがしばしば行われ、「諸方兼作の百姓」と呼んだ。
 その他、「」という、領主から独立の動きを示した荘園も存在する。すべての百姓が団結して「惣百姓」となる。守護を受け入れず、 自ら検断を行った 。検断とは裁判権や警察権のことである。ここでは守護は年貢を納める対象でしかない。ヨーロッパの封建主義と大きく異なる点である。
 自検断の状態に至るまでには、血塗られた戦いの歴史があった。荘民が実力交渉のために領主を殺害することもあり、「下剋上の至り、常篇を絶つ」と常識外れの行動とまで言われた。当初は軽犯罪など、処分が簡単にするものだけであったが、徐々に権限が拡大した。不在領主が多かった事実も、この流れを促進した。
 惣や自検断は、特定の条件の元で領主支配の空きを埋めるものとして急速に発生した。室町時代という、中央が地方を十分に治められず、また地方も住民を十分に支配できていなかった混乱の時代が、荘園を超えたこれら地域的自治組織の発生の温床となった。
 惣においては、領主支配と関係のない独自の掟が作られた。寄合が重要視され、二度通知されても出席しないものには罰金を科した。これ以外にも、個人の森林財産を侵害する罰など、自主的な規則が定された。
 村民たちが自治をする際に、灌漑の問題があった。用水の権利をめぐって、村々は対立し、しばしば血みどろの抗争が行われた。その上、守護や幕府に干渉されることもあった。これらの試練が村人たちを鍛え、その結束力を強める結果となった。
 その他、山野利用をめぐった争いも生じた。生の木の芽や草、また焼いた木草を肥料として使うことが盛んになったからである。この闘争の中、稲作りも農民自身の手で次第に向上された。 二毛作 ・三毛作の発展、灌漑・排水技術、肥培技術が進歩し、この時代の農業の質的発展を支えた。農地経営の集約化と安定化により農業が効率化し、平安・鎌倉時代より農業は着実な進歩を見せた。支配が領主から離れ、現場の農民自身の手によって山と水が管理された結果である。
 従来は荘園領主や地頭などの 夫役 や重い年貢により、小規模な労働力では生活を維持できなかったので、弱者は強者に隷従して保護を受ける必要があった。だが、室町時代になると、これまで説明した通りの流れによってようやく小農経営が可能となる。このような農場では、名主が大経営主であることはほとんどなかった。この他、「侍分」「侍名字」などという、村の領主になりあがろうとした小農経営者身分も登場した。彼らは下人を抱え、荘園領主に対するしばしば実力を伴った年貢減免交渉を代表し、また自身は年貢を滞納した。彼らは名主同様に姓を名乗った。上級領主に対抗するためには農民と一揆を形成する必要があったので、侍名字と農民の利害は一致し、惣や一揆を形成した。
 では守護はどうだったであろうか。守護が幕府で力を張るためには、京都の地元の国人・有力百姓を自己に取り入れることが必須である。細川や畠山のような大名は、争って村々の国人・有力百姓に手を差し伸べ、自己の被官にしようとした。彼らは彼らで、自身が村の領主になりあがることが目的だから、「二君に仕えず」式の武家道徳など存在しない。ある時は土一揆に与し、別のときは忠実な荘官として振る舞い、時には細川に仕え、時には畠山に仕えるといった縦横無尽自由奔放の有様であった。既存の秩序や価値にとらわれない国人領主の振る舞いは南北朝動乱の時代にすでにあらわれていたが、この時代になるとそれが村の侍名字にまで広がっていった。

(Jiyu)
+ 有徳人の活躍
有徳人の活躍
 農業の発展は、商業や手工業の世界にもかつてないほどの活気をもたらした。
 1463年(寛正四)、将軍義政が奈良に出かけたときに、その費用を賄うための「有徳銭」を徴収した。有徳銭とは有徳人にかけられる臨時税であり、有徳人とは富裕な金持ちのことである。有徳銭が徴収されることは鎌倉末期からしばしば行われており、室町においては土倉や酒屋など金貸しを行っていた富裕層に巨額の有徳銭をかけていた。有徳人は有徳銭を差し引いても余りある富を所有しており、土一揆の対象としてしばしばやり玉にあがった。
 有徳人は室町時代、幕府や守護大名を支える経済的基盤となった。平安時代から鎌倉初期までは、富豪は米・味噌・酒、糸・綿・織物、鍛冶・鋳物など全てを下人や奴婢を使って自給自足しており、またそれが理想とされた。しかし室町時代の富豪は、単に貨幣規模の大小によってランク付けされており、だからこそ土倉や酒屋などの金融業者が有徳人の代表格になるのである。幕府は土倉・酒屋業者を、 政所 の下の 納銭方 という組織に組み入れた。そして財政事務を全面的に任せ、土倉・酒屋業界から税金を徴収させて幕府の経常収入に加えた。納銭方は幕府の財布を握っていた。
 このほか、酒税も幕府の大きな財源となった。鎌倉時代の酒の売買禁止方針から百八十度転換し、酒屋を保護して沽酒(酒を売ること)を奨励した。もともと荘園領主が集まる土地であるから、酒米の確保にもこと足らなかった。酒の元になる酒麹の製造・販売の特権は 北野神社 が握った。三条・七条(京都の地名)の二つの米場の権利を持っていた四府駕輿丁座は、上京を中心に散在し、薬・唐物・白布・綿・酒・味噌・素麺・麩・材木・炭・紙折敷・銅・馬・茜・紺など多数の商品を扱った。 祇園 八坂神社 にも多くのが所属した。これは下京を中心とする商人群であり、綿・小袖・絹・袴腰・材木・今宮魚・柑があった。神供米を定期的に奉納し、代わりにその土地での営業権を独占するという形態である。
 商品は板で作った棚の上に展示された。「塵が付きにくく、見やすい」と朝鮮から来た通信使が感心したそうだ。彼らは地面に物品を置いていたのである。商品を「みせる」が「見世」となり、室町時代に「店」という表記に変わった。今日の店の構造は、この室町時代に基盤が成立したといってよい。白布棚・魚棚・数珠棚などの店舗ができ(それらの商品を棚の上に置いた店舗のことである)、蝋燭屋・灯心屋・薬屋も存在し、さらに銭湯があらわれ、売春婦まで登場した。女性は春を売るだけではなく、郊外から魚や米、白布や椀、土器や扇などを売る行商人として生業を立てる者もあった。主人が商品の仕入れ・生産をし、妻が売りに出ていたのであろう。
 京都の町は驚くほどにぎわった。平城京や平安京は、都といえども単なる天皇・皇族の居住地であり、大神社の所在地に過ぎない。商工業が発展しておらず、市民が不在なのである。室町の京都は古代都市を完全に抜け出し、中世都市として繁栄を極めた。それを支えたのは商人・手工業者などの市民であり。有徳の人々である。彼らはやがて 町衆 と呼ばれ、自治的な市政の担い手となった。奈良も同様に、酒屋と土倉を中心として経済発展をとげていた。
 一般の民衆に作れないものを専門技術者が生産するということは、古代からずっと行われてきた。室町時代が特殊なのは、一般の民衆が自給できるものを商品として生産し、それによって経済が成り立ったという事実である。座という場所で農民の生産物が販売できるようになり、農村手工業が発展した。これに伴い農民の生活が変わり、また有徳人が台頭し、物資の動きが盛んになり、 馬借 が営業の場を広げた。農民の意識は向上し、土一揆・徳政一揆を起こすイデオロギーの発展を支えた。日本の歴史は古代・中世においては畿内中心であり、幕府が京都におかれたこの時代は特に高度に発展した。中央と地方の格差も、それに応じて広がった。
 室町は今日まで続いている土着産業の芽生えの時代である。

(Jiyu)
+ 海賊衆と勘合貿易
海賊衆と勘合貿易
 南北朝の内乱のさなかである1368年、大陸では新たな王朝が打ち立てられていた。明である。初代皇帝・朱元璋は、金陵(南京)にて即位したのち太祖と称し、すぐさま近隣諸国に使者を送って入貢を促した。対外的に消極的であった宋朝とは相反し、これらの政策は、かつての唐帝国に近い。
 明はまた、建国以来一種の鎖国政策を取っており、入港は朝貢船のみを受け入れ、さらに自国貿易商人の出国についても制限を加えていった。このことによりアジア諸国間の交易はしだいに密貿易・仲継貿易のかたちをとらざるを得なくなり、それまで交易のなかった遠方へ、商人達は進出していくこととなる。南蛮諸国が日本・朝鮮・琉球をおとずれ、あるいは琉球商人が南蛮の国々へ赴いたのは、こうした時代背景に因る。
 さて、これら諸国間の交流に際し、解決を要する難問があった。倭寇がそれである。倭寇は高麗の沿岸各地にくりかえし侵略し、主に米と人間の掠奪を行うなどして、日鮮・日明交流にたびたび緊張や危機をもたらした。
 倭寇といえば「海賊」との認識が強いが、実際のところそれはひとつの側面に過ぎない。そもそも当時の海賊という言葉は、「水軍兵力をもつ海上豪族」を指すものだった。つまり海賊衆は、要するに船持ちの豪族であり、商人でもあった。彼らの国内活動がしばしば海賊行為とみられるのは、水上航路をおさえて関銭をとりたてていたからである。
 「海賊」と「海商」とが実に紛らわしい関係にある状況で、その区分けとして用いられたのが「図書」である。「図書」とは朝鮮国王が発行した銅印で、通交貿易上の特権が認められていた日本人に与えられた。受図書人(図書を与えられたもの)は意外に多く、これは言い換えれば朝鮮貿易にそれだけ魅力があったからに他ならない。
 当時の人々が朝鮮に求めていたもの。そのひとつとして「高麗版大蔵経」があげられる。当時朝鮮では儒教が国教化され、仏教は圧迫されていたため、「大蔵経」の入手はそれほど困難なものではなかった。
 朝鮮に求めたもうひとつのものとして、木綿があげられる。李朝時代に入って、半島の木綿栽培は急速に発展を遂げ(原因不明)、日本へも大量に輸入された。綿布の大量流入は、これまで麻と絹しか知らなかった日本人の衣生活にとって大きな出来事だった。木綿は肌触りがよく暖かく、また容易に染めることが出来たため、絹階級のみの特権であると思われていた着飾りが可能となった。
 ところで、当時の日本の貿易商人についてだが、以下のような条件を有しているものが豪商となった。
  1.海外知識と中国的教養を持つ(主に僧侶)
  2.幕府などの権力ラインに密着している
  3.海賊衆と緊密な関係にある
この三つを有することは、豪商になるためには必須だと言っても過言ではない。
 日鮮貿易の次に、日明貿易はどうだったろうか。応永八年(1401年)に義満が明に朝貢の使いを送り、その三年後に明側から勘合符を支給されて以来、両国間には勘合貿易体制がひらかれていた。しかし義満の死後、義持の代になると、幕府側は明を拒絶。対明入貢は断絶した。この理由について義持は「神がゆるし給わぬ故」と記しているが、本心は、不仲であった父・義満の政策に反したい為であったようだ。また、明の要求するであろう「倭寇取締り」を満たしたくとも、支配力の弱い幕府では海賊衆を統制できずに満たせなかった、というのが実際の事情のようである。義持の代では断絶されていた対明貿易は、義持の死後に義教の代になると、守護大名や社寺らの要求の高まりもあって、再開された。
 明との貿易は、たいそう金と手間と暇のかかるものだった。まず当時の航海技術も相まって、出発から帰国までに膨大な時間がかかる(本書の例では約三年とある)。さらに多額の費用がかかる(貿易船は、船持ちから借り入れるのが常だったようだ)。しかしそれでも、日明での「商品の価格差」によって得られる富は多く、五倍返しの確約で借り入れて貿易に乗り出す商人の例などは、枚挙にいとまがなかったようだ。
 このように美味しい日明貿易だが、「明史」による日本の入貢回数は、たいそう少ない。わずか十九回である(琉球:171、安南:89、爪哇:37、朝鮮:30)。しかしこれは、日本が地理的に密貿易に適していたこと、また琉球との仲継貿易が盛んだったこと、が原因のようだ。
 最後に、貿易政策を通して、幕府の本質について触れてみよう。外国貿易の主体は幕府にはよらず、幕府はその統制権を持ってして、商人から利益の上前をはねているに過ぎなかった。このことにより、幕府と貿易商人とは結びつきを強めていったようだが、これがかえって、土地支配そのものに有効な政策を示しえなかったようだ。封建支配とは、土地支配を土台として成り立つものである。商人支配に頼っていた室町幕府は、いったん飢饉などの自然災害に襲われた場合、たちまち無力さを暴露することとなる。次章につづく!

(サバトラ)
+ 京中の餓死者八万人
京中の餓死者八万人
 将軍義政の時代になると、京都周辺では毎年のように小規模な土一揆が引き起こされるなど、政治的・社会的不安が高まっていった。また、水害や日照り、冷害といった天候不安も生じ、大飢饉が起きた。一四六一年の正月から二月の終わりまでの二ヶ月間で、京都の餓死者は八万二千人に達したという。
 このとき、幕府が何らかの対策を取ったのか。現存する史料からは発見できない。天候恢復の祈願や亡者の冥福を祈らせたくらいで、京都の食料確保、地方農民の逃亡阻止などについての現実的な対策はすこしもなかったようである。

 幕府の首脳であった畠山家で、相続問題から義就・政長が争いを起こしたように、あるいは将軍義政が寺参りや土木工事に熱を上げていたように、大飢饉のなかで将軍・大名・大寺院などの支配者層は、かえって封建権力者としての無反省と無能ぶりを露骨にあらわしていた。
 こうした幕府の無策の中で死んでいかねばならなかったのは、貧しい農民や漁民であった。人身売買が辺境地帯でひろく行われ、また零落農民が本人あるいは一家をあげてみずから他人に身売りする「身曳き」も行われた。さらにひろく行われたのは、下層民衆の逃亡であった。
 飢饉によって、中世的賤民身分の中で卑賤民とされた者たちが真っ先に犠牲となった。

 このように中世的な社会秩序や身分観念は、自然の災害をより深刻なものとしていったが、こうした災害をきっかけとして大きな社会変動も起こり始めた。
 備中国新見荘では、現地勢力と守護勢力との対立が公然化し、東寺への年貢は滞った。現地の状況は著しく独立的・反権威的であり、直務代官として派遣された祐清は着任一年ほどで暗殺された。
 大飢饉が年貢減免をもとめる農民闘争の口火となり、支配者の無策の中で伝統的権威へのおそれが捨て去られ、農民の領主にたいする抵抗が公然たる形をとっていくのである。

(Shade)
+ 悪政と党争
悪政と党争
 幕府の無策に、ほとんど毎年秋には土一揆が起こっていた。
 幕府は一四五七年一二月五日に「分一徳政禁制」という法令を発布、土倉保護の立場に立って徳政を禁制し、分一銭をとることにした。そこには政治の理念は見出せず、むきだしの収奪策というほかはない。一揆鎮圧の意欲も能力も失いかけていた幕府に対し、土倉側では自衛や、私徳政を認め焼打ちなどをのがれる方向をとっていった。
 また、幕府の財政策のうち、もうひとつの悪政は、国々の関所を将軍義政が撤廃させ、京都七口の関所だけをおくこととしたことである。京都七口の関所は本来幕府のものではなく、朝廷のものであった。幕府は朝廷の権限を吸収し、一方で一般の関所停止をおしすすめながら、みずからは逆にそれを強化しようとしたのである。だから、これらの関所は人々の怨みの的となった。

 土一揆は荒々しいものであるが、世の矛盾にたいして戦いを挑もうとするものであり、社会の正義と進歩とを象徴する現象であるといえる。
 また、暴徒的な要素を示す「京中悪党」といわれる遊民的下層分子もあり、かれらはときに応じて掠奪・暴行をはたらき、また足軽的な傭兵ともなった。

 義政がこのような混乱をも顧みず、あらゆる機会に収奪策を強行した理由は、かれの濫費に基づく財政難であったと筆者はみる。
 義政の行った様々な行事に公家や武家の支配者たちが参観するにあたって、その経費は直接民衆の負担とされた。天下大乱の前提は、そうした動きの中で醸成されていった。

 このころ、幕府の支柱であった守護大名の家々では深刻な分裂が進行しはじめていた。信濃の守護小笠原家、加賀の守護富樫家に続き、三管領家の一つ斯波家でも内部分裂が生じた。この斯波家の相続問題は応仁の乱の一つの契機であった。
 こうした守護大名家の内部分裂は、単なる一族間の相続争いというだけのものではなく、争いはすぐ領国内部の国人たちの対立にむすびつき、また細川・畠山など中央政界の権力争いにもつらなっていった。その理由は、守護大名家の惣領職を将軍が任命し、またその惣領職の決定につき守護の被官たちの意向がつよくはたらくこと、という当時の相続制度そのものに原因があったといえる。
 将軍が御家人の家の惣領を決定するという慣習がこの時代に行われるようになったのは、大名たちの惣領職が、単にその家の私的な問題ではなく、国を治める公的な意味をもつと考えられるようになってきたからだ。つまり、能力ある者が将軍から任命される必要があるという考えが強まってきたのである。
 惣領職の任命制度は、じっさいには政治的混乱の原因であるほうが大きいが、ここにはたしかに公的意識の芽生えがあった。このような視点からすれば、下剋上というもっとも実力的・無法的な現象すら、「公的」思想の発展と無縁ではなかったのである。

 こうしたなかで、守護家の分裂は管領畠山家にもあらわれた。これは応仁の乱の直接の導火線ともなった。この分裂で畠山家は力をうしない、中央の指導権は細川勝元・山名持豊ににぎられるようになった。
 そして内紛はついに足利将軍家にも現れてきた。応仁の乱は目前に迫ることとなる。

(Shade)

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最終更新:2010年02月14日 20:30
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