第三巻 奈良の都(青木和夫 著)

+ 国家と百姓
国家と百姓
 七〇一年正月、朝廷は三十一年ぶりの遣唐使を任命した。
 遣唐使が進発したのは七〇二年六月末であり、二年後と四年後にそれぞれ帰国した。
 当代の正史である『続日本紀』は帰朝報告をのせている。しかし、残されているのは日本評判記といえる部分だけである。
 『続日本紀』は全四十巻からなる正史だが、前半二十巻が七九七年、後半二十巻がその前年に完成献上された。続紀の前半と後半では叙述の詳しさや質が異なる。後半のほうが詳しい。
 八世紀の文書は概算一万二千点に達し、その九九パーセントまではいわゆる正倉院文書である。それに比して、記録(一般に自分自身のために書かれる)は少ない。独立した個人というものが、まだ成熟しておらず、私的なものは公的なものにおおわれ、個人は肩書や身分でのみ判断されていたのである。
 八世紀にいたって史料が急増したのは、律令制のためではないか。行政上の命令も報告も、文書によることを強制したのである。
 様々な文献史料から考えると、奈良時代の人口は六百万ほどではないかと思われる。
 当時の政府も、時の全人口を把握していたものと考えられる。七世紀末の持統朝以来、全国の戸籍は六年ごとに作成されていたのだ。
 当時の国土の開発情況としては、先進地帯が筑紫・吉備・出雲・毛野、後進地帯が陸奥・出羽・飛騨・日向、そして大隅・薩摩であったようである。
 奈良時代は、人口六百万のうち、二十万くらいが都に集中していたらしい。
 都の性格を規定するならば、政治的都市だといえる。
 役人の数は約一万人と推定される。一万余の官員、百数十の貴族、十数人の公卿たち。これが八世紀初頭の日本の中央である藤原京、さらに奈良京の役人たちである。
(Shade)
+ 律令公布
律令公布
 七〇一年の晩春三月、対馬で金山が発見されたとの内報があり、年号が大宝と改められた。
 また、新令によって官名・位号(位階)も改正された。
 しかし、対馬には金山などなく、三田五瀬の詐欺であったとされている。
 律令公布の式典は無事にすんだが、式典と同時に実施されたのは「官名・位号の改正」だけで、ほとんどの者は新しい律令に何が書かれているかを知らなかった。
 そこで翌四月から官人たちにたいする新令の講義が始まった。官人は諸親王、皇族・貴族一般、六位以下の下級役人という三つの組に分けられた。
 新令のうちの僧尼令は、政界と仏教界との関係に一つの波紋をひろげることになった。
 六月にいたり、今後一切の行政は大宝令の諸条文にもとづいておこなえ、国司・郡司は租税である米の管理を徹底せよ、という勅が発せられた。
 大宝令は、国司・郡司を上下関係の行政官とし、租税管理を両者の共同責任とするために、各地方の収支決算を大税帳に書きあげさせ、毎年中央に報告させることにしたのである。
 これは画期的な中央集権強化策であったが、新令が手元になかったため、国司・郡司たちを困惑させた。
 大宝令はその年の八月以降に各地方で講義されることになったが、現物が配布されるようになったのは翌年の十月以降であった。
 それに対し、律の公布は令よりもしかるべき順序をふんでいる。
 令と律の違いは、令が発表を急いだという事情があったからであるようだ。持統女帝が急がせたのではないか。
 律令の編集者を見渡すと、帰化人系統の諸氏が多いのが目立つ。
 律令の具体的な編集過程は不明だが、下級の編纂官たちは巻別に担当分を決めてはいただろう。
 大宝律令は、施行後五十余年で養老律令と交代した。養老律令は大宝律令の改訂版である。
 編纂主任は藤原不比等であったが、彼の死後、自己の権力の正統性を内外に認識させようとする孫の仲麻呂によって日の目を見た。
 ただ、大がかりな修正はなく、またその原典は散逸している。
 大宝の律は六巻、令は十一巻であったのにたいし、養老のそれはそれぞれ十巻だった。この巻数の違いは、中身が変わったからではなく、巻物の長さを変えて調整したからだと思われる。
 令が大宝以前からあり、まただいぶ日本ふうに改めているのに、律が唐の直輸入で済んだのは、律令の内容や性格にかかわる。
 令とは君主の臣・民にたいする命令であり、教令である。この令にそむいたときに、律が発動される。
 律令がどの程度、当時の社会に徹底したのか、それは答えにくい。概して八世紀、とくにその前半の日本人は、律令制度を本気になって実現しようとしていた、という程度に答えるよりしようがない。
 ただ、律のほうは、令に比べるとおこないやすかったといえる。
(Shade)
+ 平城遷都
平城遷都
 708年、秩父より銅が発見される。これに因んで元号を「和銅」と改め気分一新といった装いである。この「和銅」は野血の和同開珎とは関係は無いとされる。
翌年、平城京の建設が決定される。現在の平城京の地が選ばれた理由だが、北に山があり南に開けており、陰陽思想に適う為とされる。
遷都の理由であるが、遷都をする事により災いを祓うといった呪術的意図、交通の便などを挙げている。当時の詔も陰陽思想に適う地である事など中国の思想を引用しており、この頃の日本は中国の思想を好み、あるいは傾倒していたことが伺われる。
都の形状はいわゆる碁盤の目、朱雀大路から北に4坊、東に7坊、南北に9条の路を敷き、12の門を構えている。きっと歴史の教科書などで目にした事があるかと思う。
都の造営にあたり、大勢の農民が刈り出されたが、厳しい労働環境の為に逃げ出す人も多かった。
逃げ出した農民がいると彼らを連れ戻したり、同じ郷から代わりの人が呼ばれた。また、逃亡を防ぐために土木工事には武官が用いられるのが常であった。
平城京の凡その造営が終わると貴族官人、市民が一斉に引越しを始め、その様子は万葉集の中に歌として残されている。
(NINN)
+ あいつぐ女帝
あいつぐ女帝
 奈良時代には多くの女帝があった。710年~784年、元明~桓武朝の間に女帝は元明、元正、孝謙=称徳天皇の4代、治世は約30年にわたった。
女帝では政(まつりごと)に差し支えは無かったのかといえば、特には無かったようだ。
祭祀面に於いては、祭りの場の中に巫女のような女性がいるのはなんら不思議ではないし、政治面に於いても、皇族や大臣達を信頼して政を行えば滞り無く進行した。
だが、基本的に天皇は男性が継いでゆくものであり、凡そ彼女らは中継ぎ、「仲天皇(なかつすめらみこと)」であり、やむを得ず即位しているものである。
例えば、元明天皇の場合は、先代文武天皇の嫡子首皇子が7歳だったために、仕方なしに即位したものである。
ところで、このように跡継ぎに悩まされていたようだが、天皇家は先の大化改新や壬申の乱、また近親結婚による血の凝縮の為に天皇になりうる皇族そのものが減っていた。
この危機をどちらが悟ったか、天皇家と当時優秀な人材を輩出していた藤原家とが結びついてゆき、
皇族の減少という危機を逃れ、同時に野血の藤原家の繁栄の土台を築いてゆく事となった。
また、この頃、地方の政治にも力を注いでいたようで、中央から地方観の心得を箇条書きにして要求する、また国司を監督する官、按察使を任命したり、郷里制を定めたが、これらは唐のものをまねたものが多い。
更に蝦夷や隼人に軍を繰り出して朝廷の制圧下におき、土地や人民を増やしていった。彼らの同化政策には僧侶を送り、仏教を用いることもしている。
また、現代に残る書物もこの頃から書かれ始め、712年には古事記が撰上され、よく年には風土記の進上を命じ、720年には日本書紀が奏上されている。
(NINN)
+ 貴族の生活
貴族の生活
 位階による待遇や収入などが述べられているが、とかく従5位以上からは特別待遇、重要な役職も与えられるし、給与も桁が変わる。また、子や孫にも階位が与えられるし、裁判でも刑が軽くなったりする。
彼ら貴族の生活だが、なかなか多忙だったようで、朝も日が上がりきらぬ頃から起床、朝食もそこそこに・・・天皇ですら干飯を湯漬にして、つまり粗末な茶漬けである。これをかき込んで出勤して行ったほどである。ちなみに食事は朝夕2回だ。
午前中に職務を終えると午後は勉学に励む者、友人の家を訪ねる者、帰宅する者さまざまである。
また、彼らの帰宅先、都の邸宅には家族だけでなく、奴婢や時には僧侶、また上流貴族に派遣される家司という役職の人達も住んでいた。
6日に1日の休日には都の外の別邸に行ったり、友人と遊んだり、日帰り旅行などを楽しんだようだ。
彼ら貴族の仕事は都だけでは無い、一生の内に何度かは国司として地方に派遣される。期間は平均して2~3年である。
例えば中納言大伴旅人も大宰府に派遣されているが、彼が派遣されたときは齢も60を超え、不安も大きかったであろう。彼はもう都に戻れない覚悟をしたか、まだ幼い家持や妻など家族を連れて出発した。
派遣先の府では度々宴会が開かれたが、筑前守山上憶良も旅人の宴会に度々列席していた。
この大宰府に集った旅人や憶良らのグループ「筑紫歌壇」の歌は万葉集にも多く収録されている。
また、まだ幼かった家持とって、山上憶良の印象が強かったらしく、後に自分の歌の師と仰いでいる。
(NINN)
+ 郡司の館
郡司の館
 多胡郡碑は奈良時代より残る石碑である。碑文の解釈には様々な説が存在しているが、郡司によって撰文されたであろうことが推測される。
 郡司という職は、位階が上がっても転任することがなく、また官位が自分より下の国司に対しては礼を払わねばならぬなど、律令制の中では異彩を放っていた。しかしこれは、地方豪族を郡司に任じねばならぬという朝廷の限界から来たものである。そしてこの郡司職は、国司の介入もありながらも、地方豪族の嫡流によって相続されていくことになる。
 また郡司の家柄の者は、都で官位についたとしてもやがて外位に回され、栄達の道はなかった。そしてその収入たる郡稲は次第に正税に吸収され、郡司の地方官化が進むことになる。
 しかし郡司は在地豪族であることを背景に地方で勢力を拡大、富豪として大きな財を蓄えることになる。
(Spheniscidae)
+ 家族と村落
家族と村落
 正倉院に残る文書には、幸い戸籍も残されている。その戸籍には戸主名・氏姓名をはじめとした構成員全員の個人情報が書かれている。
 この戸籍には二種類の戸がある。郷戸と房戸と名付けられ、郷戸主が戸主としての課役があった一方、課税は房戸で行われた。このどちらが生活の実情に近かったかについて、郷戸のような巨大家族が同居していたと考える説と、戸籍が作られて年月が経ち、子孫が増えて戸が実情とあわなくなった、とする説がある。
(Spheniscidae)
+ 村人の日々
村人の日々
 この時代の人々は依然竪穴住居に暮らしており、その家は房戸の平均人数・9人にちょうど良い大きさであった。土器は専門生産がおこなわれるようになり、また様々な神を祭って生活していた。
 耕地では条里制が布かれ、整然とした姿をしていたと考えられるが、この条里制がいつごろから行われるようになったかについては、確たる説はない。
 班田収受も、実際は規定通りの広さの田が与えられたとも限らず、また造籍の間隔や造籍から班田までの期間などもあって、与えられぬままの人間も多かった。そして与えられた田が遠いということもあった。また実際は朝廷や地方豪族によって大きな田が経営されており、農民たちはそこに出稼ぎに行って小作料を払い耕作を行っていた。
 しかし男は防人などとして徴用されることもあり、その際には代わって女性が働き、時には借金することもあった。
 また奴婢には奴婢としての躾が為され、売買も行われた。
(Spheniscidae)
+ 和同開珎
和同開珎
 奈良時代の代表的な貨幣、和同開珎が発行されはじめたのは七〇八年である。
 銀・銅の二種で、銀銭は翌年発行を中止したが、銅銭のほうは七六〇年万年通宝に交代するまで大量に鋳造された。
 和同開珎を「開珍」(かいちん)と呼ぶ説もあるが「開寶」(かいほう)と呼ぶ説もある。後者は江戸時代の学者が言いだしたことだが、前者の説が妥当であろう。
 銭貨の発行は、かねてからの政治的懸案だったが、武蔵国秩父郡からの自然銅の出現を瑞祥として鋳造を始めたのではないか。
 鋳造を担当する部署を鋳銭司ないし催鋳銭司という。各地の鋳銭司から送られてきた新銭の発行方法について、和同開珎発行当初の方法はよくわからないが、朝廷関係者に布や米で買いとらせるという形で発行しはじめたのではないかと推測される。
 七一一年には、朝廷は和同開珎を流通させるため、蓄銭叙位法を制定し、蓄えた銭を朝廷に献納する者には位階を与えることとした。
 七一二年には、役夫にたいする賃金も銭で支払うことにし、また調庸も銭で送るように命じた。いわゆる銭調である。
 銭調を送ってきた国は畿内周辺の八ヵ国であり、奈良時代に銭貨の流通した地域はこの程度だったと考えられる。
 また、銭貨の流通において、遠隔地商人の果たした役割も無視できない。
 銭貨の回収は限られていた半面、放出のほうは常時つづいていたため、慢性的なインフレーションが起きた。
 社会においては贋金づくり(私鋳銭)も育っていた。それほど技術が普及しつつある時代だったのである。
(Shade)
+ 長屋王と藤原氏
長屋王と藤原氏
 七二〇年に右大臣藤原不比等が没し、その一年四ヵ月後、元明前女帝も病没した。
 両者のあいつぐ死は政権に大きな動揺を与えることになる。
 不比等には四人の息子と何人かの娘がいた。長男武智麻呂、次男房前、三男宇合、四男麻呂である。
 不比等の娘たちの結婚の相手は宮子が文武天皇、光明子が聖武天皇、多比能が橘諸兄であり、長屋王の妻となった娘もいた。
 長屋王の父は高市皇子であり、母は正史でははっきりしないが、元明女帝の姉、御名部皇女だと思われる。
 長屋王には、不比等の娘のほかに、正妻として、元明女帝の娘であり元正女帝の妹である吉備内親王がいた。七一五年、長屋王と吉備内親王の間に生まれた子女は皇孫として待遇する、という勅が出た。
 七二一年に、王は従二位右大臣となり、武智麻呂が中納言となった。朝廷の政務を議決する公卿の構成は、長屋王のもとに大納言多治比池守、中納言巨勢邑治・大伴旅人および藤原兄弟となった。
 藤原右大臣および元明前女帝の死後、藤原兄弟の権力の増大に対する不満が浮かび上がってきた。
 しばらく、長屋王と藤原兄弟との妥協といった感じの政権はつづく。

 社会的にも難しい時代であり、朝廷貴族の厳格主義に対する百姓側からの反動も生まれた。戸籍の虚偽申告なども全国的に行われた。
 七二三年初夏、 三世一身の法 がでた。 太政官奏 である。いわば官営の百万町開墾計画を民間の開墾にきりかえた形である。
 長屋王が公卿の首席であった時代の歴史的意義は、民政上の政策よりもむしろ文学史上にあった。
 王の佐保の山荘には多くの官人や新羅の使者、聖武天皇や元正女帝などが招かれ、当代詩人のサロンとよばれるにふさわしかった。
 七二四年、皇太子首皇子は聖武天皇となり、長屋王は正二位左大臣になった。
 七二七年、聖武天皇と光明子との間の皇子が生まれ、基と名付けられたが、その皇太子は一年経たずして病死した。
 翌年に、漆部君足と中臣宮処東人の密告により、長屋王とその子らは自決させられた。
 同年八月に神亀六年は天平元年と改元され、光明子の立后宣下があった。
 藤原不比等とと元明天皇の死後開始された政権をめぐる暗闘は、長屋王の自経と光明子の立后により、藤原四兄弟の圧勝という形で終わった。
(Shade)
+ 聖武に光明
聖武に光明
 聖武天皇の生まれは八世紀の最初の年で、兄弟はなかった。若いころは狩猟が好きで、筆跡については、敏感な、線の細い文化人という定評がある。
 帝王学の教科書としては律令や算術の書物のほか、主として中国の古典が使われたらしい。
 また、一般教養のほかに、為政者としての心掛けを記した書物を身につけねばならなかった。
 光明皇后は幼少より頭がよかったと『続日本紀』には記されている。仏教への関心もあった。
 光明立后が実現したときから二年ほどの間に、朝廷の公卿たちはだいぶ入れかわった。
 七三一年の勅が、官人による参議の推挙を求めたのは、政治的責任を推挙した官人たちにも分担させるためであろう。
 藤原一族が圧倒的になった政権では、政治的責任を諸氏に分散させることができないからである。

 社会においては、長屋王時代からの動揺はますます広がりつつあった。
 新政権の構成者を推挙させたのと同じ日、朝廷は当初好ましからざる目で見ていた僧行基に対する扱いを一変させた。
 七四五年には、行基は大僧正に任ぜられた。
 このような朝廷の態度の変化は、仏教にたいする態度一般の変化でもあった。光明皇后が皇室の内部において、ものの考えかたを儒教的なものから仏教的なものへと変える役割を果たしたのではないか。
 しかし、さしあたっての社会的動揺に対して、新政権は武力でたちむかった。
 七三五年、天然痘が新羅から北九州に侵入してきた。翌春出発した遣新羅使は、多くが病に倒れた。
 他方、奥羽連絡路が開通した。
 七三七年には都でも天然痘が発生しつつあり、藤原四兄弟も相次いで亡くなった。

 藤原広嗣は大宰府の次官に左遷され、時勢への不満を高めていた。
 その原因として彼が考えたのは、天皇側近の僧玄昉と中宮亮下道(吉備)真備とであった。唐帰りとはいえ氏素性のわるい二人が、かつて藤原兄弟が占めていた席にすわったのである。
 七四〇年、広嗣による、玄昉と下道真備の処分を要請する上表文が朝廷にとどいた。
 そして同年九月に広嗣は叛し、聖武天皇は大野東人を大将軍として鎮圧のための兵を派遣した。
 板櫃河会戦により戦いの膠着状態は解決し、十月下旬には広嗣は捉えられ、翌月に広嗣・綱手兄弟は切られたのだった。
 こうして藤原広嗣の乱は鎮圧された。
(Shade)
+ 大仏開眼
大仏開眼
 740年以来、聖武天皇は平城京を離れて、4年もの間に渡って恭仁京や難波京へと遷都令を繰り返し、これは膨大な出費になったことは容易に想定できる。
 745年、病に伏した聖武天皇はその後継者として光明子との娘・阿倍内親王を据えようとするも、貴族より大きな反発を受ける。これは中継ぎでない女帝に対する反発であった。
 741年、藤原冬嗣の乱に関連して、不比等の封戸が朝廷に返された。その封戸の財を利用して、737年より計画のあった国分寺・国分尼寺の整備が開始されることになる。その国分寺は東大寺の伽藍配置を模しており、ミニチュア東大寺であるといえた。またその瓦は民衆からの寄付・郡への配当によってまかなわれた。
 華厳経や梵網経をよく学んだ聖武天皇は、743年の冬に廬舎那仏の大仏像を発願する。これには多くの大工や鋳物師が駆り出されることとなる。
 塑像をまず作り、その上で鋳型を作って銅を流し込む、という方法で作られた大仏であるが、外に塗る金に困っていた。ところが折よく陸奥より黄金産出の知らせを受け、聖武天皇は喜んだ。彼は官位を多くの人へ振舞うと同時に、阿倍内親王へ譲位する。
 金産出の御蔭で鍍金を無事終えた大仏は、752年に開眼会を迎えた。導師をインド出身の菩提僊那が務め、天皇以下百官の揃う壮麗なものとなった。
(Spheniscidae)
+ 大唐留学
大唐留学
 遣唐使に選ばれるのは、教養があり、高位で、かつ若い者に限られるため、出世頭の者が選ばれることがおおかった。遣唐使も他の官同様に四等官からなり、これに学僧や水夫といった随員が加わる。これらの随員の中には、唐に生まれた者が含まれることもあった。当然翻訳者も乗るが、唐の言葉の通訳とそれ以外の言葉の通訳とでは扱いに差があった。
 遣唐使では様々な準備があるが、神に祈ることも重要であった。これは遣唐使が非常に危険な職務であったからである。遣唐使の中には、終ぞ帰れなかった阿倍仲麻呂や、マレーまで流された平群広成のような人間も居たのである。
 そしてそのような準備が終わると天皇に謁見する。そこで別れの宴を行い、そして出発するのである。
 当時の渡航ルートには北路・南路・南島路の三種があるが、北路は新羅の朝鮮統一以降は用いられず、また南島路は南路を目指した船が漂流してたどる道である。
 勝宝度の遣唐使の際は、朝賀における席次のことで副使・大伴古麻呂が抗議し、席次を変更してもらっているが、このことから少なくとも古麻呂は漢語に長けていたということが伺える。
 留学生たちは、長く唐に滞在する者もおり、彼らは唐朝から優遇されていたようである。また日本人と唐人とが結婚することもあったようだ。
 また、渤海との往来も盛んであった。渤海は当時北東アジアの強国として名を馳せており、衰退する唐に代わって日本も重要視するようになっていたのである。
(Spheniscidae)
+ 正倉院宝庫
正倉院宝庫

正倉とは、当時は大倉と呼ばれていたであろう官庁、寺院の主要な倉庫の事である。
元々は日本中にあり、只の名詞であったが、時の流れと共に多くが朽ちて行き、今日には東大寺の物だけが残り、それを指す固有名詞となったのである。
以下それぞれ宝物について。
756年、聖武天皇が没した際、光明皇太后が天皇に関係のあった物を、目に触れると泣いてしまいそうであるから、といって収めさせた。
このときの供物の詳細を記した国家珍宝帳以下5冊がある。
また、聖武天皇葬送の際の供物は従来と変わって仏式の物になったが、これは天皇が仏に帰依した為、としている。

以下に正倉院内に納められている(又は、られていた)の主な宝物を挙げる。
@箜篌という古代アッシリアが起源の竪琴の残骸。明治初頭に修復された。中国以東では正倉院のみに残る。
@中国やインドより伝わってきた薬や香木。
@大書家王義之の真跡。但し、後に売却されてしまっている。
@6万点に及ぶ玉
@1万2千点の「正倉院文書」

等々。
(Spheniscidae)
+ 恵美押勝
恵美押勝

この章で取り上げられている橘奈良麻呂の乱(757年)は、藤原仲麻呂VS他の諸氏の権力闘争であった。結果は只管に忠実な中下流貴族・官人を味方につけた仲麻呂であった。
奈良麻呂らは人民の辛苦を訴える為に・・・この時、国分二寺の建設費に国富の半分を費やしたと言われるが、その為に武力を用いた。
しかし、このときには既に天皇御璽、駅制、太政官印などの通信連絡の手段が発達しており、壬申の乱のような反乱はもはや不可能であった。
また、奈良麻呂の訴えが本当に人民のためであるとして人々に受け取ってもらえていたのか。こういった事によりこの乱は失敗に終わった。
この乱により大伴、多治比一族といった古くからの名門武官や小野東人、皇族では塩焼王、黄文王、賀茂角足など反乱中心人物以下計443人が処刑、流罪に処された。
この章の題名になっている「恵美押勝」は、自らを称える為出した勅によって淳仁天皇から賜った名である。

また、天平年間ころから律令制の衰退が明らかになってくる。
朝廷の収入は調・租・雑徭から各国・郡でお子なられる正税出挙が主となり、防人や兵士を復員、さらに墾田永世私有法が施行、班田収受も崩れ、国司も只の徴税人になってしまった。

橘奈良麻呂の乱で反対派を一掃した仲麻呂だが、大師(=太政大臣、仲麻呂は官名を唐風に変更している)になった頃から孤立し始めた。また同時期から孝謙女帝が銅鏡と親しみ始めている。
764年、女帝の逆鱗に触れた仲麻呂は父子で逆賊とされ、仲麻呂に反感を持った貴族・官人達らの力もあり、近江高島で討ち取られた。
以後、銅鏡が政界に出てくる。
(Spheniscidae)
+ 道鏡と女帝
道鏡と女帝
仲麻呂の死後、淳仁天皇に代わり称徳天皇(=孝謙天皇)が復位。
道鏡と共に政界に現れた。
道鏡の出身は低かったが、呪や禅といった超自然的な力を持った僧として次第に力をつけてゆき、宮中に出入りする看病禅師として女帝に近づいていった。
彼女に気にいられた道鏡は、765年に太政大臣にまで登りつめ、翌年法王の名を賜った。
彼らが権力を握っていた頃、皇位後継者が定まっておらず、世は不安に覆われ、人々は互いに疑い合い、その為に罪を着せられ処刑される人が後を経たなかったと言う。
また、元々山で修行していた彼は、権力を持っていても政治を行うほどの能力を持っていなかった。その為政治は停滞し、財政は窮乏。官民は意気消沈といった具合だった。
さらに彼と女帝は乏しい国費をひたすら寺院、宮殿の造営に注いでしまった。西大寺などがそれである。
官民を省みない行いをした彼らであったが、女帝が、宇佐八幡宮からの神託を無視して銅鏡を皇位につけようとして失敗、その半年後に女帝は病死し、同時に道鏡も没落した。
(Spheniscidae)
最終更新:2010年05月16日 18:12
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。