第十一巻 戦国大名(杉山博 著)

+ はじめに
はじめに
 将軍家の没落に伴ない台頭する戦国大名が織り成す時代をこの巻で記述している。
(Jiyu)
+ 流浪する将軍
流浪する将軍
 公家の収入は荘園からの年貢によるものであった。崩壊に直面していた荘園を立て直すために、幕府は将軍の権威を立て直す必要があった。将軍義尚は近江の守護六角高頼を討伐することによって幕勢を回復しようと試みた。将軍のお膝元である近江に従わない守護がいるとなると、幕府の権威にかかわる。
 義尚の出陣によって寺社公家の領地は回復されたが、完全ではなかった。彼は押領した領地を自分の近臣に与えてしまう。その結果近臣らの専横を許し、義尚自身の生活も乱れていった。出陣から二年足らず、義尚は二十五歳の人生を終えた。
 次代将軍は義尚の養子の義材に決まった。義材の父の義視はこれを機に新政を始める。富子はこれを不満に思い、細川政元に接近した。その噂を聞いて義視は富子を攻めるが、細川政元と対立するのは賢くないと考え、優遇した。
 義視は翌年死亡した。義材は義尚の遺志を継いで、再び近江出陣を試みた。これは成功だった。勢いに乗じて、次は河内を攻める。畠山政長と畠山義就が東西に別れてまだ争っていたのである。これは政元のクーデターによって失敗し、第十一第将軍義高が就任する。義材は義尹と名を改め、流浪の日々を送ることになる。

(Jiyu)
+ 守護大名の没落
守護大名の没落
 細川政元は細川家の官僚の嫡男だったにも関わらず、四十になっても女性を近づけようとしなかった。「常は 魔法 を行って近国や他国を動揺させていた」といわれている。この魔法というのは山伏集験の道である。細川政元は奇行と専横が目立った。子を作らず、天狗の業の修行に励み、養子を二人とって細川家分裂の危機を招いた。このような態度が家臣の謀反心を招き、魔法の練習を行っている最中に政元は殺された。跡継ぎは養子の細川澄元となった。
 義尹は細川政元の死を聞き、大内義興に助けられて上洛を画策した。細川側は義興と和平してこれを阻止しようとするが、和平交渉の中心人物であった高国が澄元に反して義興と手を組んだので失敗する。守護大名出身で、澄元より五歳年上だった彼は、自分も細川宗家を継ぐ資格があると考えたのである。義尹は十四年ぶりに上洛し、一条室町の吉良屋敷に落ち着く。義尹は従三位、権大納言、征夷大将軍の地位を得て、細川高国を右京大夫におき、大内義興を左京大夫においた。義尹は実験を持たず、高国と義興の傀儡であった。
 大内氏と細川氏は、このご中央権力を巡って対立する。彼らはともに傀儡将軍を奉じた。これは勘合貿易を行うためである。両者が争ったのも、その利権が原因であった。貿易を行うためには、将軍=日本国王の権威が必要なのである。後に義尹は義稙と改名し、五十七歳で流浪の人生を終えた。

(Jiyu)
+ 北条早雲の登場
北条早雲の登場
 関東では、一四三九年、幕府に反抗した関東公方の足利持氏が、関東管領の上杉氏にほろぼされてしまうと、しばらくは上杉氏の下で平和が保たれていた。しかし、その十年後、持氏の子の成氏が京都から迎えられて関東公方になると、成氏が父持氏の旧臣だった豪族たちと手を結んで、上杉氏と反目するようになった。
 一四五四年、成氏が上杉憲実の嗣子憲忠を誘殺すると戦火はまたもや燃え上がった。山内上杉氏の家宰だった長尾景仲らは憲忠の弟房顕を擁して成氏に対抗し、幕府も駿河守護今川範忠に命じて成氏を討たせようとした。範忠は鎌倉を攻めてこれを焼き払い、成氏は下総古河にのがれ、ふたたび鎌倉に帰ることがなかった。これ以後古河公方と呼ばれる。

 そのころ管領上杉氏は山内家と扇谷家の二流に分かれていた。勢力の点では山内家のほうが断然優勢であったが、両上杉氏とも、実権は家宰が握っていた。山内家では長尾氏が、扇谷家では太田氏が家宰である。豪族の支配から離れた小領主・国人たちが長尾氏・太田氏と結びつくことにより安全を確保し、また長尾氏・太田氏はそれにより勢力を増大させたのである。
 劣勢だった扇谷家は太田道灌とその父(資清)の努力によって、山内家と肩をならべるまでにのしあがった。山内上杉氏がこれをこころよく思うはずもなく、両上杉氏の対立は表面化することとなる。

 一四七六年に、主君の山内顕定にそむいた長尾景春は古河公方成氏に通じ、鉢形城に立てこもった後に反乱を起こしたが、道灌により掃討された。道灌の名声は高まり、扇谷家の勢力はさらに大きくなった。
 こうして成氏は景春とともに幕府に和睦を申し入れ、山内上杉顕定の父房定を仲介者として、室町将軍と古河公方の間にいわゆる「都鄙(とひ)の合体」が成立した。これで平和が回復したかのように思われるが、扇谷上杉方の定正や道灌らは山内上杉方の推進したこの合体策に賛成ではなく、江戸・河越両城をいよいよ固めて、古河公方や景春にそなえていた。

 一四八六年、道灌は、かれの存在を上杉氏への敵対とみた主君定正により暗殺された。道灌の死により、道灌に従っていた多数の国人衆などはただちに定正を離れ、顕定の側に集まってきた。
 孤立した定正は古河公方成氏とその子政氏や長尾景春と連合したが、定正の死後、顕定と古河公方政氏が和睦し、このため扇谷上杉家の立場はますます苦しくなっていった。

 堀越公方政知が両上杉家の抗争のさなかの一四九一年四月三日に死んでしまうと、そのあとは嫡子の茶々丸が継承することになったが、政知の旧臣らは、この茶々丸に心服せず、伊豆国は混乱状態におちいった。
 伊豆一国をのっとろうと待ち構えていた隣国駿河国の興国寺城主北条早雲は、すかさずこの混乱に乗じ、伊豆に攻め入った。伊豆の北条はたちまち早雲によって占領されてしまった。
 早雲は、ただ伊豆北条という重要拠点を領しただけでなく、そこに住む百姓や職人の掌握にも心をくだいた。

 では、この北条早雲とはどこの生まれのどういう人物なのか。
 伊豆侵攻以前の早雲については、史料不足ゆえ行動も実名もはっきりしない。入道してからは早雲庵宗瑞と号したが、いつ入道したかもわからない。
 生国についてはいろいろな説があり、定まった説がない。有力な説は伊勢説と京都説であり、新たに備中説がでてきている。
 早雲は五十六歳、一四八七年ごろには駿河国に下向していたと考えられ、妹の北川殿の縁で今川氏に従い、興国寺城主となった。

 早雲は伊豆に侵入してからの三年間、もっぱらその領国支配に専念していたが、一四九四年に扇谷方の三将(扇谷定正・大森氏頼・三浦時高)が亡くなると、それは早雲に関東進出の道をひらくこととなった。
 早雲は小田原城を守る大森藤頼に近付いて親しみを深め、一四九五年、夜討ちによって小田原城をのっとり、関東進出の第一歩を踏んだ。以後早雲は、小田原周辺の領有・安定のために十年の歳月をかけたのである。
 一五〇四年、七十三歳になった早雲は扇谷朝良を助けて、山内顕定を討とうとした。しかし、それは上杉氏を討つための早雲の計略であった。翌年には、両上杉氏は漁夫の利を占めるのは早雲だと気付いたのであろう、手を握って早雲にあたろうとしたが、時すでに遅かった。
 一五〇七年と一五〇九年、早雲は今川氏親を助けて三河に出撃した。それは自領伊豆の背後の駿河の安全をはかろうとして、尾張の織田氏と連絡するためであった。
 早雲は顕定が関東を留守にしてしまったあいだに、相模の土豪らに蜂起をよびかけるとともに、長尾為景や景春らと連絡して出陣した。早雲の率いる伊豆・相模の兵は相模高麗寺に陣し、扇谷朝良の家臣上田政盛をして権現山城に反旗をひるがえさせた。
 しかし、一五一一年、権現山城は両上杉氏の軍勢によって落ち、このたびは早雲の完全な失敗に終わった。

 早雲は相模国を平定するには、その最大の豪族である三浦氏を倒さねばならぬと考えた。
 一五一二年、八十一歳の早雲は三浦義同の岡崎城を攻め、鎌倉に入った。義同は翌々年に鎌倉へ攻めてきたが早雲に撃退され、新井城に逃げ込んだままとなる。
 そして一五一六年、江戸城の扇谷朝興が義同救援のために玉縄城へ攻めかかったが、早雲はこれを撃退すると共に新井城に攻めかかり、三浦氏は滅亡した。こうして早雲は、小田原占領以来、三浦氏討滅まで実に二十ヵ年をついやしたのである。

 一五一八年、八十七歳の早雲は、三十二歳の嫡子氏綱に家督をゆずって隠居した。翌年八月十五日、早雲は伊豆韮山城で生涯をとじた。
 早雲は、戦国の群雄のうち、最初にその名をあげただけあって、慎重さとすぐれた時代感覚を持ち合わせていた。

 早雲以後の後北条四代、氏綱・氏康・氏政・氏直については、氏綱は父の後をよく守り、氏康は名将であった。氏政・氏直の二十年間は後北条氏の守勢期であったが、ともかくもその支配を維持できた。

(Shade)
+ 信虎と信玄
信虎と信玄
 武田氏の戦国大名としての歴史は、信玄の父信虎の代にはじまるといえる。
 一五〇七年、十四歳で信虎は父の死にあって武田の家督をつぎ、この国のあるじとなった。
 武田氏は一族を甲府盆地の縁辺部いっぱいまで分散配置してこの国を支配してきた。宗家から分かれた一族は、武田とは名乗らず、みなそれぞれの在所名を姓として、その土地に根を生やした領主となっていった。甲斐の戦国は、宗家を中心とした一族の相克という形で展開していったのだった。
 信虎が家をついだころは、そのような情勢のもっとも激した時代であり、かれは油川氏や、大井・栗原などの古い一族の連合を打ち破った。
 その後かれは、もっぱら室町将軍家と連絡を保つと同時に、駿河の今川氏と積極な連合をはかった。一応の国内統一を完成させ、甲駿同盟などによって四囲の強敵との交戦の必要もなくなると、信虎は戦国大名として家臣らを統御していくためにも、外征を必要とした。そこで信虎は信濃に攻め入り、一五四一年にはその一応の攻略を成し遂げた。
 しかし、帰国した信虎は、十日後に嫡子晴信(信玄)のために突然駿河に追放されることとなった。

 信玄は一五二一年十一月三日に生まれた。信玄の母は甲斐の国人大井信遠の娘であり、信虎にとっては旧敵の娘ということになる。だから、その出生はそれほど祝福されたものではなかったであろう。
 一四三六年、かれは元服し、将軍義晴より晴の字をとって晴信と名乗った。やがてかれは京都の公家から正妻を迎えた。この結婚の年月は不明であるが、おそらく元服の年かその翌年であろう。この結婚は、武田氏が京都を指向していたことを如実に物語るものである。

 一五四一年、佐久平の出陣から帰国した信虎は、その十日後に駿河の今川義元のもとに出かけた。信玄は、甲斐と駿河の国境をとざし、父を駿河に追放してしまった。
 この追放事件の真相として取り沙汰されてきたのは、大別すると次の三つに要約できる。
 (一)父子の性格の相違・対立説
 (二)今川義元を討つための父子共謀説
 (三)信虎の不行跡および領国経営の失敗説
 第一説は『甲陽軍鑑』によるものであり、第二説は『松平記』の見かたであるが、どちらにも疑問がある。そこで、第三説が真実に近いものと思われる。
 その後の信虎は、二十五年も今川義元の世話になり、信玄の存命中はもちろん、死後も甲府に入ることは許されず、八十一歳の生涯を高遠で閉じた。

 信虎の追放により、戦国大名武田氏はその内部的な危機を回避した。
 信玄が直面した領国支配の矛盾とは、武田氏のかける軍役の過重さによる経済的な危機だったと考えられる。信虎追放の六年後に信玄の定めた『甲州法度之次第』という法令には、武田の家臣たちの知行地売買・質入れや、借財に関する取り決めが多く見られる。
 地頭と呼ばれる家臣たちが、過剰な軍事負担にも抵抗しなかったのは、大名権力によって地頭層の領主支配権が保証されていたからである。
 しかし、大名の側にも家臣の経済的危機を救うための抜本的な対策がなければ、みちは領土拡大、つまり対外侵略ひとつに限られてくる。そこで信玄も信虎のいのちとりとなった信濃出兵を引き継いでゆかざるを得ないのだった。

 信玄の第一目標は、南信濃の諏訪・伊那両郡に勢力のあった諏訪一族の制圧であった。
 一五四五年、信玄は三たび伊那郡に兵を進め、この年、諏訪・伊那地方は信玄の制圧下に入った。
 信玄の第二、第三の攻撃目標は、信濃守護家の小笠原長時と北信の雄村上義清であった。
 信玄は上田原、戸石城攻めなどで敗戦を喫しもしたが、一五五一年に小笠原長時を、翌年に越後の上杉謙信のもとに追い出してしまった。こうして信玄の十二年間にわたる信濃制圧は一段落となった。

 信濃を侵略し、領国とするためには、信玄はつねに南の今川氏と結んでいなければならなかった。今川義元にとっても、甲駿同盟は三河に出兵し、織田信長の勢力と対するのに重要であった。
 ところが、義元の三河出兵の留守を狙って相模の北条氏康が駿河東部の下方荘に侵入してきた。義元は氏康と戦ったが、戦況ははかばかしくなかった。そこで駿河の善徳寺において、信玄・義元・氏康が集まり、甲・駿・相の三国同盟が成立した。この三人は、いずれもここ二、三年のあいだ合戦が討ち続き、それぞれ背後に強敵を持っていたからである。
 こうして信玄は、三国同盟を十分に利用して、一五七〇年、西上野を武田領としてしまったのである。

 一五六〇年、今川義元の桶狭間の戦いでの戦死は、三国同盟の破綻を招く第一歩となった。
 一五六七年、信玄は今川氏との親和論を唱える長男の義信を自殺させ、駿河侵略を断行した。
 かくして一五七〇年、信玄はついに駿河府中を占領し、今川義元の遺児氏真を伊豆に追って、駿河一国を制圧した。
 信玄のうえには天下の反信長勢力の期待が集まることになり、一五七二年の秋、信玄の京都をめざした西上の大遠征が開始された。そして翌年、信玄は病によってその生涯を閉じたのであった。

(Shade)
+ 上杉謙信
上杉謙信
上杉謙信は、越後守護代長尾為景の子として春日山城に生まれた。為景は、1507年に守護上杉房能を倒し、越後の主導権は守護代が握るものと示した。守護には房能の従兄弟定実をつけ、3年後には房能の兄で関東管領の顕定を下し、傀儡の守護定実の元に集まった前守護家一族、その重臣ら反為景戦線を壊滅させた。為景は越後の中郡地域を制圧したが、敵は依然国内の中郡、奥郡地域に立ちふさがっていた。彼らの正体は定実の一族、さらに彼らに味方した奥郡の豪族層(揚北衆)であった。為景は対外侵略を行って、彼ら国内の敵との対決は避け続けた。

さて、為景は守護房能を倒した後、房能の従兄弟定実を守護の位に就け、彼の傀儡とした。
反為景戦線を壊滅させた後も為景は定実を幽閉しつつも生かしておいた。
というのも、為景は守護家の、一国から反銭を取り立てる権限に目をつけ、これを利用する為であった。政治的・軍事的に為景に敵対する揚北衆も、この取立てには応じた。というのも、この取立ては守護職権に基づくもので、豪族層も守護職そのものを否定できなかったからである。この取り立ての権限を持つのは守護家の「御公銭方」と呼ばれる財務機関で、為景はこれを手中に収めることで収入を得ていた。
このように、この越後では、権力と軍事力をもつ為景によって、強烈な上克下が行われていた。

1536年に謙信の兄晴景が家督を相続し、43年に父為景が亡くなると、上田長尾氏や揚北衆などが攻め寄せ、国内は荒れた。また、晴景と謙信は以前より仲が良くなかったが、これが表面化し、定実の仲介の元、謙信が晴景の養子となり、家督を相続した。

謙信は国内平定の為、己が府内長尾氏を中心に、上田、古志、三条に散らばる長尾氏を連携させようと策謀をめぐらせていた。家督相続以前、栃尾城主だったときに古志・三条両長尾氏は掌握していたので、残る上田氏を服従させ、国内は一応の統一を完成した。

謙信は息つく間もなく、北条氏に攻め立てられた関東管領上杉憲政に頼られ、三国峠を越えて関東へ出陣、更に武田軍に追われた村上義清、小笠原長時を匿って善光寺平に武田軍と刃を交えた。こうして北条、武田を敵に回し、更に敵は甲・駿・相三国同盟を結び、謙信を取り巻く情勢は不利になった。

謙信と三国同盟側は一進一退の様相だったが、1558年、再び関東管領上杉憲政が逃れてきた際、また将軍義輝に関東管領を進められた際に、律儀な謙信はこれを感謝しつつも辞退している。
1560年、今川義元が没し、三国同盟が揺らいだ隙を狙って謙信は11万の兵を以って小田原城を攻め立てた。しかし中々落ちず、長陣を不利と見て退却したが、この際正式に憲政より関東管領を譲られ、上杉を名乗るようになった。謙信はこれ以降、関東鎮定は自分の責任と考えたのか、得るものも殆ど無いのにほぼ毎年出兵した。

信玄との川中島合戦(1553~1564)は、歴史的意義はさして高くないものの、近世以来の歴史家によって名はよく売れている。互いに大義名分があるので引くに引けず、知られているように5度善光寺平にて対峙した。
謙信は1572年に信玄が西上した頃越中方面に進撃しており、その勢力は加賀、能登に達し織田信長の勢力とぶつかり始めていた。

1578年謙信は脳卒中に没し、越後一国は家督争いの為混乱し、今後織田信長の勢力に取り込まれてゆくこととなった。
(NINN)
+ 奥羽大名、伊達氏五代
奥羽大名、伊達氏五代
1563年の幕府の御家人名簿を見ると、幕府の重職者400余名連なる後に、当時の戦国群雄が外様衆、関東衆として登場する。ここに見える奥羽の者の名を見ると、7名が挙がっているが、著しく南奥州に偏っている。東北は元々馬養を基盤に成り立っていたが、中世より、東国に近く開拓農場主としての武士を多く迎え入れた南奥の農業生産性が高くなり、北奥との格差が生まれた。
先ず北奥だが、南部・津軽氏や、2氏に追われて蝦夷地に逃げ、やがて出羽へ復帰した安東氏の他、幾つかの勢力がそれぞれ2、3郡ずつを占拠するといった状況で、後の豊臣政権下において初めて統一を見る。
対して南奥では、強大な支配者達が割拠していた。多くの有力者が一郡規模で支配圏を形成していたが、先述の御家人名簿にそれぞれ特産品を有する伊達、蘆名氏、奥羽探題の斯波氏が土着化した最上氏、大崎氏、の他、馬の産地を抱える相馬氏、南部氏らが大名として挙げられており、彼らによって奥羽の戦国は争われた。

1483年、伊達成宗が多くの貢物を持って上洛した。彼はすぐさま政界の要人に挨拶周りをしている。伊達家では成宗の父の代から当主が必ず参勤し、将軍から諱を頂戴する慣わしとなっていた。
伊達家の努力は稙宗の時に実を結んだ。当時奥州探題によって統治され、陸奥国には守護が無かったが、稙宗はその陸奥国守護に任じられた。こうして伊達家は頼るべき公権を得た。さらに稙宗は戦国大名制の樹立の為に奔走する。1536年には塵芥集という分国法を制定し、当時直面していた問題に対処した。刑事犯罪、民事の規定を始め様々の項目171カ条に渡るが、「地頭と百姓の間のこと」について書かれた項目では、年貢を納めないことは盗人と同じように処す旨、そして他領への移動を繰り返し禁止している。これは伊達氏の領内の基礎が不安定だったことを物語っており、先の武田氏に似た問題を抱えていたようである。また、当時の百姓は一家が大農業経営体をなしており、地頭も彼らの支配に苦労していたようで、領主とともに支配を進めることとなった。
また、伊達氏の収入は他の大名と同じく守護職の課徴権を受け継いだものが基盤であり、一反210文の反銭を柱としていた。

家督は天文の乱で稙宗から長子晴宗に移った。稙宗が次男実元を上杉家に婿入りさせるに当たって植宗が晴宗に幽閉されたためである。
この父子の間の不仲は周辺大名にも拡大し、7年に渡って争われた。
この争いに勝利した晴宗は米沢に本拠地を移して、400名に及ぶ知行の再編成を行った。
結果晴宗は家臣団の編成を領国内に承認させることが出来た。また伊達氏は対外的にも婚姻関係を強制させてきたので、周辺の大名にも伊達化を進めることが出来た。
1565年には輝宗が家督を継ぎ、南奥羽統一への戦乱に巻き込まれていく。次代の独眼流政宗にはどのように領国を発展させるかという近世大名としての使命が課された。
(NINN)
+ 家臣団と軍事力
家臣団と軍事力
戦乱の時代にあっては、同族・家臣といえどもすべてが主君に対して絶対の忠誠心を持っていたわけではない。それゆえ、戦力の土台となる家臣の編成や武力の強化は、どの大名にとっても困難な過程だった。この時期に特有のものとして現れてくる、自分の名の一字を文書にあらわして与える「一字書き出し」の文書も、同族・主従の契りを強調することがいかに大切であったかを示している。

大名の家によって様々な差異こそあれ、戦国大名の家臣には、おおよそ次のような四つの類型があったと見てよい。
第一の上級家臣は、一門衆・一族衆などと呼ばれる大名と血縁関係のある人々である。家の所領が分散しないよう分割相続制がやめられて、嫡子が全所領を単独相続するようになるという十四、十五世紀における相続形態の変化によって生まれた家臣である。彼らは一族ではあるが、もはや主君と同列の地位にはない。
第二の家臣は譜代と呼ばれるグループで、血縁関係が遠く一門衆に数えられなくなった庶流や、早くから直臣化した非血縁の人々が含まれる。大名から本来の所領を安堵されたり新たに給地を与えられたりで、相当の所領を持っている安定した家臣である。
第三は外様である。大名の領土拡大過程で服属こそしたが、依然同盟関係に近い状態にあり、軍事関係以外ではほとんど大名からの制約を受けず、寝返りも当然という観念を持ったグループである。
第四は直臣と呼ばれる、大名の直轄地から所領を与えられたり禄米を与えられたりしているグループである。家臣団ではいちばん格下に位するが、主家の親衛隊の役目を持っている、旗本直参的な存在である。
これらの家臣が、即座に戦時の編成となるよう組織されていたのが、合戦を本分とする戦国大名の家臣組織の特徴と言える。戦国大名の民政が、軍政と切り離して考えることのできないひとつの理由である。

では家臣たちが、戦国大名に従っていた理由は何だろうか。端的に言って、武士が主君をいただくのはその保護を受けるためであり、主君が従者を持つのはその援助を求めるためである。すなわち御恩と奉公の封建的主従関係である。戦国大名とその家臣の場合も、御恩の内容が本領安堵や新恩所領の宛行いであることは他の時代と変わらない。しかし知行の形態は、土地を管理する職務に一定の経済的収益権が付帯していた鎌倉・室町時代とは異なり、所領はその土地面積によって表現されるようになっている。戦国大名の家臣たちは、彼ら自身が明確な土地の領有者となっているのである。
一方の奉公は、軍役の義務を負うことである。戦国大名の家臣にあっては、軍役は知行高の規模に応じて賦課される。貫高基準と呼ばれ、基本的には軍役の多寡は所領からとれる年貢を銭で表した数値、つまり土地面積に比例していた。これは戦国時代になってはじめてはっきりする形式である。このような方式で定められる軍役の実際を示す資料は少ないが、動員兵数や武装状況の具体的なあらましは、上杉謙信の軍役帳簿『軍役帳』に詳しい。
(Shiraha)
+ 軍略と軍規
軍略と軍規
戦国時代に入ると合戦は大人数を動員する総力戦的様相を帯びるようになり、軍略や兵法・軍規はいよいよ重要となった。戦いの場において大量の軍勢を動かす役を持つ者は軍配者と呼ばれ、その手際の優劣は戦の勝敗に大きく影響した。そのため戦国大名たちは有能な軍配者を諸所から求め、重用したという。初期の軍配者はまだ吉凶の占いや儀式の主宰が主要な任務であり、その学問的背景は易学・占筮術など、どちらかといえば非合理的なものであったが、文献上の知識と実践上の経験を織り交ぜたような雑多な知識は、やがて集成して兵法となり、後の軍師の誕生へとつながっていった。

しかし戦いの規模が際限なく大きくなるにつれ、やがて古典的な易と兵学だけでは戦を勝ち抜けなくなり、戦国大名たちは新たな戦力・兵器を求めはじめた。そうした要請に沿ってこの時期に出現するもののうち、もっとも注目に値するのが忍びの者と鉄炮である。
忍びの者は伊賀と甲賀とが発祥地と言われる兵科で、敵の場内へ忍び込み、敵情を窺い、密事を見聞きし味方に知らせるなど、戦の裏側で暗躍する者たちである。動員数に対して効果は目覚しく、争乱が激しくなるにつれて、忍びの者は全国的に跳梁した。
またこの時代に登場し、後の戦術を大きく変化させた新兵器として、鉄炮の存在は見逃せない。種子島銃がポルトガル人によって伝来されるとまもなく全国へ普及し、実戦に使用されはじめた。鉄砲隊はやがて不可欠の部隊として組織され、農兵はいままで以上に徴発されるようになる。侍も百姓も、百姓仕事を離れて軍事に邁進しなければならなくなり、兵農分離が急速に進んで行く契機となった。
(Shiraha)
+ 大名と農民
大名と農民
 戦国大名は家臣に所領を封じることで家臣に軍役を賦課した。それゆえ、家臣の所領から年貢を取り立てることはできなかった。しかし領国体制の強化のため、家臣から所領の詳細を指し出させ、領土全体へ一定の税を賦課した。これは指出検地といい、これによって戦国大名は土地と農民の直接支配を行った。
 検地では軍役を賦課される者、年貢を賦課される者を分けて数え、そのことによって兵農分離が推進されることになった。その土地単位は貫文によって表され、その数値に従って百姓たちは貨幣で年貢を払うことになった。またその年貢以外にも様々な形で税が賦課された。これは守護大名の一国平均役に由来するもので、一国の公的支配権を表すものであった。
 このような画一税制を組み立てるのは非常に難しいことであった。中世の税制とは複雑を極めるもので徴収される物も多岐にわたり、これを大きく改革する必要があったからだ。
 これらの税は主に銭によって収められた。しかし銭は悪銭も多く価値が一定しない。そこで、次第に税は穀物で収めさせるように変化していった。
 また労役も課せられていた。大きく陣夫・普請役・農兵と三種あるが、孰れも大きな負担であった。
 戦国大名は、勧農政策を行って農民を愛護する一方、その軍役などで農民を縛りつけた。そのことによって自由闊達だった農民の動きは制限されてゆくのである。
(Spheniscidae)
+ 領国の経営
領国の経営
 戦国大名は領国を安定化させるために領国経営へ力を入れた。治水事業や鉱山事業がまず上げられ、これらは領国からの収入増加を齎した。また、この時代の製鉄技術も著しく進歩し、戦国末には画期を迎えていた。そしてこれらの鉄を用いて作られた鉄砲は新兵器として重要度を持ち、故に各地でこれを巡る駆け引きが行われていた。その中でも信長は、堺の商人を取り込むことで鉄砲の威力を見せつけることになる。
 また敵への物資流入を止める荷留も行われた。謙信による塩送りの逸話は、東海関東方面から塩の荷留を行われた武田氏に、越後の商人が塩を大量に売りつけたことから由来すると考えられる。また戦国大名に付属する御用商人も活躍していたが、彼らには武士的な側面も非常に強かった。
 交通政策については宿駅制が行われていたが、これは東国に限られたといっていいだろう。
 職人把握も行っており、武器の製造などを行わせていた。彼らの生活は貧しいもので、地位は決して高くはなかった。
(Spheniscidae)

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2010年04月06日 20:38
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。