第八巻 蒙古襲来(黒田俊雄 著)

+ はじめに
はじめに
「蒙古襲来」「鎌倉幕府滅亡へ至る変革」を二大テーマとしてこの書で取り扱うことが簡単に述べられている。
(Jiyu)
+ はるかなるジパング島
はるかなるジパング島
 はるか昔、紀元前から西方の住人はまだ見ぬ東方の地に幻想を抱き続けていた。金島・銀島と呼ばれるかの地は、数多の金を産出し、日の出も金のごとく美しいという。十二、十三世紀の 十字軍 の遠征も、このような東方へのまことに無知蒙昧な盲信が強い動機として存在していた。キリスト教の聖地奪還というのは、大義名分の一つにすぎない。
 東方遠征により、金島・銀島の位置はだんだん東に移動した。いかに東に歩や帆を進めても、しっくりくる理想郷が見つからないからである。インド洋、ジャバ・スマトラ、東シナ海と徐々に東端の地に近付いていく。マルコ=ポーロはこのような歴史的背景のもとで『東方見聞録』を著したのである。
 マルコ=ポーロはジパングが豊富な金の産出国であり、宮殿は外装から床・窓まで余すことなく金でできていると述べた。そして真珠も豊富に生産されており、富は計り知れないとも付け加えた。実際に当時の日本は産金量が多かったが、マルコの叙述は当時の現実と遥かにかけ離れている。内容もヨーロッパやアラビアで言い伝えられていた伝説と似通っており、荒唐無稽な伝聞の寄せ集めに過ぎない。実際に発行当初は、碌に信用されなかったようである。ともかく、マルコによって東方の理想郷はジパング一つに絞られることになるのである。
 東方と西方はそれまで完全に隔たっていたわけではなく、 シルクロード などの交易路を通したやりとりは存在していた。しかし、たび重なる戦乱や自然の厳しさによって、異郷への旅へ赴ける人間は非常に限られていた。西方の人々は、まれに入ってくる断片的な情報によって、東方がどんな国であるかを理解していたのである。
 十三世紀初頭、モンゴル族を統一したテムジンは、チンギス=ハーンと名乗り、不敗の騎兵軍団を持って僅か半世紀の間にアジアを次々に征服した。ヨーロッパの人々ははじめは彼を異教徒と戦うキリスト教国の王と信じていた。しかし、次第に脅威と認識するようになり、「地獄の民」と呼んで恐れた。チンギスは交易を優遇したので、それによって今まで断絶されていた東西の交易が盛んとなった。マルコ=ポーロの大旅行が可能となったのも、このような時代背景による。
 中国や朝鮮はどうだっただろうか。宋が北方の金に圧迫されて華北を奪われ、江南に南宋を建国する。そして十三世紀にモンゴル軍が金を滅ぼす。朝鮮にもモンゴル軍は侵入し、高麗王朝は遷都をやむなくされた。このような状況の中、日本は不思議なくらい平穏であった。モンゴルは日本、ないし東アジア征服を真剣に考えていたのだろうか。
 チンギス=ハーンは征服民を定住させて、収穫物を搾取するという方法をしらなかった。略奪し、せいぜい土地を牧草地として使うという発想しかなかったのである。そして中国や朝鮮は他地域に比べ高度な文化を持っていたので、抵抗も激しい。牧草地帯でないこともあり、モンゴル軍はずいぶん攻めにくかったと思われる。こうした事情もあって、モンゴル軍は東アジアは徹底的に征服せずに、西アジアやロシア方面で積極的に大軍を動かしていた。
 宋は財政が逼迫しているという理由から、貿易を重視した。日本や高麗との貿易はもちろんだが、南海の貿易を特に重視した。モンゴルに妨げられないからである。日本も宋と積極的に貿易を行い、国が栄えていく。
(Jiyu)
+ 禅か、法華経か
禅か、法華経か
 1222年(承久四)春、安房国(千葉県安房郡)の小湊という漁村に一人の男子が生まれた。彼は十二で仏法と世間に疑問を持ち、父の許しを経て天台宗の寺院である清澄山へ登り修業をした。
 しかしここの修業も彼の疑問を解いてくれなかった。彼の疑問はこうである。仏法は釈迦一人の教えであるのにどうして、これほどまでに数多の宗派が存在し、優劣を競いあっているのだろうか。仏法や神が鎮護する我が国の国王が、どうして臣たる武士によって悲運に遭うのだろうか。このような仏法と世の中による根本的疑問は、修業を積んでも答えを得られるものではなかった。
 彼は諸国を遊学し、やがて一つの結論に至った。いわく、真実の仏教は天台宗と真言宗の二つであり、その優劣は天台宗の典拠たる法華経と真言宗の典拠たる大日経の優劣と一致する。彼はやがて確信する。このような末代の時代には、上行菩薩が現れて「何妙法蓮華経」の七字の題目の中に法を集約して――法華経を広めると。伝説によれば、1253年4月28日の暁に、旭日に向かって大きな声で「南無妙法蓮華経」を十遍唱えたという。彼の確信は革新的すぎた。長い苦難の日々が始まる。
 このころ彼は、日蓮と名乗るようになった。鎌倉松葉ヶ谷の庵室には、次第に弟子が増えていった。彼は幕府の近くで、毎日のように道行く人に説法した。禅を否定するその弁舌は厳しく糾弾され、雨のように罵倒や投石を浴びた。禅は皇帝や将軍・執権などの権力を崇敬することを明確に誓っていたので、権力と強く結びついていたのである。彼は迫害を法華経に記されている試練として受け止めた。信念は人を最も強く動かす。彼は天災、人災、流行病、飢饉、疫病や日食月食などに応じて文献を巧みに引用し、これらの災害や自然現象は邪法がはびこっているからだという論理を展開した。このままだと予言の通り、内乱と外敵侵入の災を被ると付け加えて 時頼 の近臣宿屋光則に述べた。時頼はこれを黙殺し、相手にしなかった。それから一カ月後ほどに庵室が放火され、日蓮は鎌倉を去って下総にのがれた。一年ほど経ち鎌倉で再度説法を始めたが、告訴されて伊豆への流罪となる。
 彼は流罪にされても布教を続けた。恋愛のような気持ちだろうか、迫害が重なるほど彼はそれを試練と受け止めて信仰心を高める。十年後日蓮は故郷の小湊へ帰る。このとき襲撃に遭って二名の門弟が討ち死にし、日蓮も数か所負傷した。しかしこれも法難と受け止め、日蓮も門弟も怯まないどころか、自信を強めていった。
 このころ幕府首脳も政治的に不安定になる。そしてモンゴル軍の襲来が始まる。1266年(文永三)モンゴルは高麗に命じて日本へ詔書を届けさせようとする。高麗はこれを受けつつ、一度は悪天候を理由に執行をしなかった。フビライはこれにたいへん立腹し、高麗が単独の責任でモンゴルの国書を伝達すべきと再度命じた。表向きは好意的でも、実際には属国化を命じるその文章に対して、朝廷は返書を出さないという決断をくだした。この決断は当時の国際的外交ルールに反しており、高麗やモンゴルの外交官を困惑させた。日本とモンゴルはこの後、何度か使者を送りあった。朝廷は、日本は「 神国 」であるとして拒絶の意を述べる返書草案を作成したが、幕府によって破棄されてしまう。こうして外交関係には次第に暗雲が立ち込めていく。
(Jiyu)
+ 文永の役
文永の役

 ※二人が同じ部分を要約しています。対象内容は同じです。

 蒙古から日本へ三度の使者が渡ったに関わらず、日本は何らの返答もしなかったため、世祖フビライもいよいよ征討の軍を起こす決意を示し始めた。とはいえ、世祖は和戦両様の準備をした。
 世祖は趙良弼を日本国信使に任命し、かれは一二七一年の九月に博多の守護所へ乗り込んできた。
 大宰府は趙良弼の要求することを拒絶した。かれがねばって国書の写しが幕府から朝廷へ進奏されたが、結局これにもまた返書は与えないことになった。かれは翌年高麗へ帰還し、その後ふたたび日本へ渡り、約一年間滞在して帰った。二度目の日本渡航において、かれがどのようにしていたかは記録が残されていない。
 モンゴルは一二七一年に国号を建てて元と号した。

 鎌倉幕府は蒙古使がはじめて日本にあらわれた直後から、西国御家人に異敵への警固を指令し、幕府自体も北条時宗を先頭に陣容を強化するかまえをみせていた。
 すくなくとも一二七二年の二月までに、幕府は異国警固番役ということをはじめた。九州の御家人に、筑前・肥前など北九州沿岸の要害で、当番の日数を定めて警固に当たらせることである。
 ただ、これは元軍の襲来に備えるにしてはお粗末なものであり、またその警固番役に対しても御家人がどれほど積極的に参加したか疑わしいものであった。
 幕府の悠長な国際感覚と情勢判断のほどがうかがわれる。

 このころ幕府は、北条氏の内部で同族あい鬩ぐ合戦を経験しなければならなかった。
 北条時輔は執権時宗の異母兄で、南六波羅探題という要職にあったが、正妻の子でないとのゆえをもって家督を時宗にとられたのをうらみ、謀反をくわだてたのである。
 一二七二年二月、時宗は時輔の謀反計画にくみしたとみられた名越教時・仙波盛直らを鎌倉で殺害したが、このとき教時の兄の時章は謀反の与党ではないのに過って殺されたので、討手の者がその罪を問われてまた斬られた。
 その十五日、六波羅北方の北条義宗が南方の時輔を襲撃し、猛火の中に合戦が行われて多数の人々とともに時輔は殺された(時輔はのがれて吉野へ走り、行方知らずになったという説もある)。これを二月騒動という。
 この二月騒動は、得宗権力の強化に伴う深刻な問題がからんでいた。時宗はつねにあらゆる叛逆を警戒し、先手を打たねばその強大な権力を維持することができなかったのである。
 このような条件のもとでは、元軍の襲来に備え関東の大軍を九州へ駐屯させることなどできなかった。

 他方、かねてから異敵の襲来を予言していた日蓮は気焔をあげていた。かれの目的は異敵に対する防備の強化そのものではなく、国難は邪宗がはびこるからだとして危機感を盛り上げることであった。
 そうして、日蓮は矛先を向けた念仏や戒律の側から大いに憎まれ、ついに諸宗を誹謗し武器を隠匿しているという罪状で告発された。
 日蓮は佐渡に流されたが、ここでも迫害に屈せず布教をし、島にも少しずつ帰依者が増えた。二ヵ年半ののち日蓮の流罪は放免された。それは一二七四年、蒙古が日本へ襲来する年の春のことであった。

 元では趙良弼が帰ってから出動準備はいよいよ本格的になった。
 造船は高麗の負担であり、その様式は高麗様式の簡略なものと指定された。
 兵数は高麗の助成軍約六千を合わせ、合計二万五千~六千人。
 船員及び船中の雑役夫・漕手は高麗の負担したもの六千七百人。他に元から供給されたものが多数あったと思われる。
 軍兵を統率する将軍は、都元帥(総司令官)に忻都、右副元帥に洪茶丘、左副元帥に劉復享、都督使に金方慶、というものであった。
 一二七四年の六月に高麗で国王元宗が薨じ、八月末、元宗の子が元から帰国して即位した。忠烈王である。高麗のこの凶事のため、元の日本遠征軍の出発は予定の七月から数ヵ月遅れ、十月三日に合浦を発船し、日本へ向かった。

 元軍は対馬、壱岐を制圧し、本土へ上陸した。十月十九日、元の軍船九百艘は博多湾にせまり、東は箱崎から西は今津にいたる沖合に舳先をつらねて侵入してきた。翌日、早朝から元軍は続々と上陸を開始した。
 戦闘は激戦になったのみならず、日本軍はたちまち苦戦に陥った。その理由の一つは、元軍の戦法が予期せざるものであったためである。
 日本の一騎打ち戦法に対し、元軍は集団戦術を用いてきた。それから兵器もまたかなりちがっており、蒙古軍の太鼓や銅鑼の音に日本の馬が驚いてはね廻ったり、毒を塗った飛距離の長い弓矢を放ってきたりした。また、「てつはう」という新兵器も蒙古軍は用いてきた。
 『蒙古襲来絵詞』によれば、元軍はおもだった指揮者のほかは騎兵でなくて軽装の歩兵である。日本の騎馬武者は長槍と弓矢の徒歩の集団にとりこめられて苦戦したのである。

 こうして戦闘のしかたの違いでさんざん苦戦をかさねたうえ、大軍におしまくられて、やがて日本軍は疲れ果てて敗退していった。
 元軍はまったく一方的に優勢に戦いをすすめていたが、夜に入ってそのまま追撃することをせず、軍船へ引き揚げた。その理由は不明だが、各方面の指揮官の作戦会議があったのではないかともいわれる。
 その夜半、大風雨がおこり、多くの軍船は難破するか、浅瀬に乗り上げた。この二十日夜の大風雨は、古来「神風」と呼ばれて喧伝されたものである。
 疲弊した高麗人民に突貫工事でつくらせた粗悪な船であったため、嵐によってたちまち難破したのであろう。
 九州における元軍敗退が京都へ伝えられたのは、十一月六日のことであった。
(Shade)


先ず、文永の役(1274年)についてはとかく日本側の対応が大変鈍かったと言える。
前章に述べられていたように、フビライからの使者が来た後、鎌倉は異国警護番役を置き、西国一帯にモンゴルの襲撃に備えるように命じたが、その後防備のため為に努力した跡は見られない。実際に被害を受けたわけでも無いのに労力を支払うのは御家人も御免である。
鎌倉も寺社神仏への祈祷に熱心であったが、軍事的な準備は特にしていない。
またこの時の幕府は、北条氏内で権力争いが起っていた。京では二月騒動と呼ばれる合戦もあり、得宗からの自立心の強い北条氏一門の名越氏が討たれた。やはり前章で触れたが、執権時宗ら得宗が封建君主としての立場を守るため、危険分子を先手を打って取り除く必要があったからだ。
また、日蓮は折伏の恨みを買い、逮捕、佐渡配流となった。二年半後に赦免となった後は身延山に隠棲した。
このように日本国内の足並みが揃わない中、元は着々と準備を進めていた。元と日本の中間地点にあり、元に降伏していた高麗は造船を命じられたが、文永、弘安の役を通して、最大の被害者はこの高麗だったといえるだろう。
合戦の詳しい様子は省略するが、文永、弘安の役は土地の御家人竹崎五郎季長が自らの手柄を証明するため描かせた「蒙古襲来絵詞」が当時の様子を今に伝えている。元は9百艘2万5千の兵を以って日本に攻め寄せ、対馬、壱岐を焼き払い本土に上陸した。対して日本軍は1万の兵が集まったかどうかの程度ではないかと述べている。元軍は集団戦法に火薬、強力な弓に毒矢、銅鐸の音には馬が驚いて跳ね回ったと言うのは教科書のとおりである。元々騎兵の軍隊だったモンゴル軍も、東アジアに侵入するにつれて、地理に合わせた軍隊に変わっていったのである。
(NINN)
+ 弘安の役
弘安の役

 ※二人が同じ部分を要約しています。対象内容は同じです。

 世祖フビライは敗北したとは考えず、忻都、洪茶丘らが元へ帰ってまだ一ヵ月しかたたぬ段階で、はやくもまた宣諭日本使が発遣されることになった。宣諭日本使とは日本に朝貢ないし服属すべきことを諭すのを任務とする使者である。杜世忠および何文著がこれに任命し、一二七五年三月、高麗に到着し、日本へ向かった。

 杜世忠らは四月一五日、長門の室津へやってきて、一行はその後大宰府へ送られたらしいが、幕府はすぐさま厳重な構えをみせた。
 八月、大宰府は杜世忠らを関東へ護送したが、九月四日、執権時宗はかれら元使をことごとく竜ノ口で斬った。元としてはまだ外交折衝の余地ありとみたのだろうが、日本側としては一時戦闘の途絶えた戦時下であったわけである。
 引き続いて幕府は、前年の合戦における勲功の賞として、一二〇人の行賞を発表した。士気を鼓舞する必要を感じたからであろう。
 また、幕府は十二月の初めに九州の諸国および安芸国の御家人に「異国征伐」の準備を命じた。異国征伐とは、九州諸国の兵員・船員を主体にして、すすんでこちらからの遠征軍を編成しようという計画であって、博多を本拠とし、大宰少弐経資を総司令官とするものであった。
 ただ、この異国征伐は実際には軌道にのらなかったらしい。
 幕府はまた、異国征伐に参加できない者は博多へ参集して防備の石塁築造に当たれと命令した。これは実際に着手され、最終の記録は一三三二年、幕府が滅亡する前年にまでおよんでいる。この防塁の工事の負担を要害石築地役という。
 幕府がとった対策として、ほかに注意されるのは、おそらく文永の役以後、再度の襲来のときまでの期間に、九州方面および裏日本の諸国の守護を大量に交替させた事実である。新しい守護はほとんど北条氏の一門であり、そうでない者も北条氏に縁故のふかい者であった。蒙古襲来にそなえて、要国の守護に北条一門という強力な指揮官を配置するのが防衛上妥当であると考えたためであろう。また、同時に得宗権力の強化策が現れているともいえる。

 その頃、元は南宋の攻略に全力を傾注していた。一二七九年二月六日、宋室の擁された皇帝は元軍の猛攻を受け、遂に身を海に投じた。三百年にわたる宋室はここに完全にほろび、中国大陸はすべて元の支配のもとに帰することとなった。
 その翌日、江南の四省に世祖フビライの、日本遠征のための戦船六百艘を建造する命令が出された。その年の六月には、高麗に対しても九百艘の造船命令を発した。
 世祖は宋の降将を日本遠征に利用することを考えていた。そこで世祖はかれらに日本遠征の可否について諮問していた。その降将のうちに范文虎という者があったが、かれは世祖の意をうけて自分から直接日本へ使者をおくり、元への服属を勧告したらしい。
 しかし、その使者たちは、今度は鎌倉へ送られるまでもなく博多で全員斬り捨てられた。

 弘安二年頃、杜世忠らが殺されたという情報が高麗から元に伝わり、諸将は日本討つべしといきまいた。
 それでも世祖はなお慎重な姿勢を見せていたが、それから一年近くたっても范文虎のつかわした使者の消息は知れず、世祖の決意はここで固まった。
 かくして一二八〇年八月、世祖は征東行省を設置し、范文虎・忻都・洪茶丘らをその首脳にあてた。
 日本側は、こうした元側の情勢をいちはやくキャッチしていた。商船などの往来はこの戦時状況のもとでも絶えていなかったから、情報を入手する機会はあったわけである。
 一二八一年一月、世祖フビライは諸将に日本遠征進発の命をくだした。

 五月三日、東路軍四万の兵をのせた戦船九百艘はあいついで合浦を出発した。
 また、元軍の主力をなすところの江南軍(兵力十万、兵船三五〇〇艘)は六月十八日ごろ、やっと日本へ進発しはじめた。
 壱岐での戦いののち、東路軍は江南軍と平戸方面で会同し、それからなぜかその後二十日以上ものあいだ江南・東路両軍は平戸島から五島方面に浮かんでいた。そして二十七日になってその主力は肥前の鷹島へ移ったのである。
 それから四日後の閏七月一日、海は荒れ、数万の軍兵は波間にのまれた。こうして二度目の元軍の侵攻も潰えたのだった。

 その後、元は征東行省を廃止したが、数年後、二度、三度と復活し、軍備を整えた。しかしそのつど高麗や大陸に叛乱や紛争があって日本遠征は実行できなかった。
 一二九四年、世祖が没して元の日本遠征の計画は事実上終止符をうたれたが、日本と元とのあいだにはついに平和な国交はなかった。

 元軍の侵攻が失敗したのは、結局のところ人間の問題といえよう。
(Shade)


流石に幕府、国内にも緊張が走り、相次ぐ元からの使者を斬って降伏しない旨を強調し、山陽方面にも警護番役を命じた。文永の役で消極的だったものを問責、今後は罰する旨を伝え、またモンゴル征伐の計画も立ち、九州及び安芸国に其の任を命じた。が、御家人達は乗り気でなく、上手くいかなかったらしい。
九州北岸には石塁建造を命じ、工事は1332年、幕府滅亡の前年まで続いた。
またこの機に乗じてか、強力な指揮官を西国に配置するという名目で、北条家一門が西国の守護に就いた。得宗権力強化を目指したものと思われる。
ところで、元の使者は執権の命で斬られたが、同じく渡海してやってきた禅の師は斬られなかった。執権時宗は禅に傾倒しており、禅を以って蒙古襲来の国難を退けることを願っていたが、何のための禅だったのであろうか。
文永の役に失敗した元国内では、再びの出兵を強く求める声が大きかったが、フビライは割りに慎重で、これを抑えていた。中国では300年もの戦乱の世が治まったのだから、少し時間を空けるべき、と言う契丹人の臣下の進言を受けたものである。
が、使者が待っても帰ってこないので遂に再度征東を命じた。この際フビライは臣下に対し「卿らの不和を憂慮する」と注意していた。
此方でも合戦の詳しい様子は省くが、元の兵数は14万に及んだ。当然日本軍は苦戦したわけだが、フビライが咎めていたにも関わらず元軍の動きが足並み揃わずに侵攻が遅れ、元軍日本到達の1ヶ月余りの1281年7月頭、またもいわゆる神風が吹き、元軍は撤退した。
また、元が征服した高麗、宋の民を叱咤して作らせた船の粗悪さ、降兵を用いたための戦意の低さが遠征失敗の原因に挙げられる。
(NINN)
+ 神国日本
神国日本

この章では、元軍を撃退した暴風を神風と称する様になったのは何故であるのか、という点を中心に扱っている。
元寇に際し、京や方々の寺社にて異敵降伏の祈祷が行われていたが、栂尾大明神の「先に西大寺で法を修した思円上人の為に、神明は大風を吹かせて異敵を撃退するだろう」という託宣があった。実際その大風は、2度も吹いた。当時の人々が神仏の威力と信じたのも無理からぬ話である。
ところが、異敵を撃退した大風は、各人が自身の宗教的信念によってどうとも解釈していた。執権時宗も神風に関心を寄せたわけでもなく、つまり神風が当時の一致した概念ではなかったのである。
また、思円上人を法敵とする日蓮は、自らが主張した「他国侵逼難」の予言がはずれ、法敵の祈祷が成功したため(尤も、日蓮は否定したが)、蒙古襲来については触れなくなった。その後、彼は病を患い1282年に没した。

元寇の話は、当時の御家人竹崎季長が描かせた「蒙古襲来絵詞」によって現在に伝えられている。季長が合戦で先駆したこと、そして自らの武功を鎌倉に申し立てに行ったことが記されている。当時彼は所領についての問題などで苦しんでいたようだが、故に当時を懸命に生きた一人の武士の姿を見ることができる。その一人の武士、季長は元寇を「日本国の危機」だとか、「国難」というようには捕らえていない。ただ「君の御大事」、そしてその「君」というのも、天皇とか将軍とか北条氏とか云うのではなく、彼に命令する立場の者、凡そ幕府を漠然と指しているものである。彼としては「君の御大事」に命を賭して戦い、武功を認めてもらってご恩を賜ればそれでよいのであった。つまり、この合戦も彼ら御家人にとって見れば稼ぎ時でしかなかったのだ。また、異国警護の名目で西国の守護が年貢を私財にしてしまったり、異敵降伏の祈祷をした報酬を求めに強訴に来る僧兵が絶えなかった。幕府も鎮西探題、長門探題を以って力を伸ばした。古今を問わず、戦争とは特定の者が利益を得るものらしい。

著者は蒙古襲来の日本軍から同時代の十字軍を連想しているが、十字軍も最初は聖地奪還に燃えていたが、回を重ねるにつれ物欲的になり、遂には豊かなコンスタンティノープルを攻撃しよう、などとなっている。
日本の御家人も国難に準じるといった信念より、凡そ単純に勲功の賞を目当てに戦ったと思われる。ただ、元を「異国」と呼ぶなど、日本人の他国を見る目は地の果てからやってくる悪鬼を見るようなものだったのだろう。というのも、東アジアの交易路の一端に連なる日本には、大陸など海の向こうの話を耳にする機会もあったらしい。が、それらは遠い海の彼方の話であった。今度の敵は、その海の彼方からやってきたのだから。

その敵を倒す為に幕府の命で出陣する武士達は、聖なる十字軍にも似た意味を持っていたと思われる。但し、その構成員たる武士の一人一人がそういった使命感を持っていたわけではなかったのである。

それでは何故、祈祷した神官僧侶をはじめとした人たちは、日本を神国としたのか。
詳しくは省くが、仏教の宇宙観を以ってこの世界は平等であり、日本もその世界の片隅にあるのだ、という考えがある。更にインド、中国が優れた国であるように、日本も八百万の神々の国であるという自覚があった。こちらは、日本書紀に既に現れている。
更に、本地垂迹説により、平等な世界の片隅の、八百万神(=仏の垂迹)の国となった。
元寇の後、「神風」の後は、ついぞ日本には神仏の加護があることを主張し、日本が世界の特別な地域であるという考え方が生まれてくる。
だが、先に神風が当時の一致した概念ではなかったと述べたように、日本が神国であるという考えに誰もが同調したわけではない。
(NINN)
+ 得宗専制政治
得宗専制政治

元寇前後の日本には、2つの大きな問題があった。
1つは国内に悪党が跋扈していることであった。異国警固の命に、「守護人に相伴い、且は異国の防禦を致さしめ、且は領内の悪党を鎮むべし」とある。
1250年頃から頻繁に悪党取締りの令が出ていた。場所を問わず悪党が横行するようになっていたのである、しかも取締りすべき立場の守護が悪党を匿うなど、取り締まりは遅々として進まなかった。そうこうする間に蒙古襲来が伝えられ、幕府は内外に賊を持ってしまった。御家人も悪党と手を組む、或いは寺社の寄人神人が悪党となるケースもあり、しかも其の悪党はこそ泥から荘園領主への叛逆あり、民から孤立するものもあれば、住民の味方になるものもあり、大変正体のつかみにくいものだった。
もう1つが御家人の生活の安定である。この頃には自らの所領を売ったり、質流れになり困窮に喘ぐ御家人が出てきた。将軍と御家人との主従関係が幕府の骨格であり、御家人の零落は幕府の基盤を揺るがす。そこで幕府は1267年に法令を出し、約30年前からの売った所領の返還、特に御家人以外に売ったものは幕府が没収する旨、また、所領の譲渡、売買の禁止を命じた。
所領をなくした御家人を無足御家人といったが、彼らは幕府の頭痛の種となっていた。

弘安の役のヤマ場を越えた幕府は、論功行賞に着手した。
1281年から5年かけて行ったが、先ずは実際に合戦に参加し、築地を築いて出費のかさんでいる九州に対して行われた。売却された神社領をタダで返却すること、九州の御家人の領地を安堵する下文を与え、これにより御家人以外に売却された御家人領を取り返してやることが出来た。幕府の一方的な決定にも見えるが、幕府としては前々から売買禁止してたではないか、売却された地を没収して御家人に返すのだ、ということある。また、幕府としても御家人を介して返却された地に干渉できるようになった。この令は永仁の徳政令の先駆けの令であり、無足御家人救済を急いでいることが伺える。
また、次に述べる岩門合戦で幕府が没収した領地や、得宗家の所領を割いて恩賞地としたが、手柄のあったものを満足させるには程遠いものだった。

1284年4月、執権北条時宗が死去、子の貞時が14歳で執権に就いた。
貞時の外祖父として、そして御家人の有力者である安達泰盛が若年の貞時の裏で大きな力を持ったのは想像される。また、時宗の晩年から安達一族は幕府の要職を占め勢力伸張、一般御家人(外様)の信望を集め、得宗家勢力を揺るがすものとなっていた。
対して、北条家の家宰である内管領に平頼綱がいた。彼は北条氏家臣団(御内人)の代表とも言える存在だった。彼らの冷たい対立は貞時執権就任という事態を迎え急速に進行。頼綱は足立一族打倒の機会を伺っていたようで、また泰盛も応戦の準備を整えていたらしく、一触即発の事態となった。
1285年、頼綱は貞時に讒言をなした。泰盛の次男が「我が曽祖父景盛殿は、頼朝卿の御落胤なり。されば我は、藤氏にあらず、源姓なり。」と言ったとして「泰盛父子の逆心、すでにあらわれ候。藤氏を源姓に改めしこと、将軍にならんとのことなり。」と焚きつけて、安達氏追討の下知を勝ち取ったのである。11月17日、霜月合戦の発端である。
頼綱は即日行動を起こした。泰盛が鎌倉市内の騒ぎに異常を感じて執権館に行ったところ、頼綱ら御内人が武装して待ち構えていた。泰盛父子は討ち取られた。これを助けようと安達一族についていた外様御家人が御内人軍を攻撃したが、日ごろ北条家の陪臣と軽視されてきた恨みが爆発して、反撃に転じた。
この動乱は地方にも飛び火し、特に九州の岩門合戦が激しく、泰盛の子と、弘安の役で竹崎季長の指揮官だった少弐景資が打ち滅ぼされた。

こうして安達家を退けた平頼綱は得宗家勢力巻き返しのため尽力したが、結果として7年半に及ぶ頼綱の恐怖政治となった。頼綱の権勢に不安を覚えた執権貞時は、大地震が起き混乱の只中にあった鎌倉で頼綱を急襲した。平禅門の乱と呼ばれる。
実権を回復した貞時は収賄を禁じて幕府の綱紀を粛正、そして何より徳政をして御家人を安堵させることに力を費やした。所領を失っても先祖が御家人である証拠があれば、御家人と認める、という英断を下して彼らの地位、名誉を保護した。また、有名な永仁の徳政令を出し、内容は以下である。

@越訴(裁判で敗訴した者の再審請求)の停止。
@御家人所領の売買及び質入れの禁止。
@既に売却・質流れした所領は元の領主が領有せよ。ただし幕府が正式に譲渡・売却を認めた土地や領有後20年を経過した土地は返却せずにそのまま領有を続けよ。
@非御家人・凡下(武士以外の庶民・農民や商工業者)の買得地は年限に関係なく元の領主が領有せよ。
@債権債務の争いに関する訴訟は受理しない。

また、裁判の時間短縮のために最終決定を全て執権に任せるとした。
どうやらこの幕府改革は割りと善政として受け止められたようだが、結果的に得宗専制が強まり、一つの頂点に達した時期でもあった。
(NINN)
+ 遍歴の僧団
遍歴の僧団
 日本の中世を語るのに、宗教は欠かすことのできぬ部分である。硬い理論や教説ばかりであったようにも思われるが、実際の人々の精神世界はもっと粗野で純粋な物であった。
 御家人・河野氏の出身である一遍は、幼い時期に出家して修行を積んだ。後、一時期故郷で生活したようであるが、詳細は不明である。ただしこの時の経験から、彼は遁世を決意したようであり、旅を幾度か行った。その中で彼は全てを断ち切った漂泊を決意し、以後延々と旅の生涯を送る。
 高野山での経験から、彼は念仏札を配ることを思いついたようで、以後配って歩くようになる。その中で彼は完全な他力本願の思想を確立してゆくこととなった。それとほぼ同じくして、一遍は同行者とも別れている。
 以後、九州や四国を遍歴し、信者を増やしてゆくことになった。踊念仏という形が現れるのもこのころである。そうして確立した時衆は、さらに僧尼の道時衆と在家の俗時衆に分けられ、そのうち道時衆は厳しい戒律で以て一遍に従った。
 当時、正念のまま死に至ることが気高いこととされ、それを望んで死に急ぐものも多かった。それは時衆でも例外ではないが、そんななかで一遍はただ生を凝視していたといえる。中世と言う時代は死の近い時代であり、それを潜りぬけてこその生だったのである。
 一遍はその死の際、書籍や経文を全て焼き捨てている。そして其の死と同時に時衆も解体。その中で、他阿弥陀仏を中心として遍歴する者もあり、また聖戒を中心として遍歴する者もいた。この聖戒が、後に一遍上人絵詞をまとめることになる。

 人々の精神から宗教が離れてしまった時、素朴な信仰を訴える宗教運動がおこることは、時宗を見ても西欧の修道院を見ても明らかである。時宗というのは、非常に雑多な思想を取りこんでいた。これはひとえに民衆の思想の流れの中で成長してきたからであると言える。
 この鎌倉新仏教の流れは、西欧の改革運動に比すことができるだろう。共に封建化しつつあった宗教に対して、民衆を基盤にして起こったものだったからである。
(Spheniscidae)
+ 漂泊の文芸
漂泊の文芸
 このころ、放下をはじめとして、世のすべてを捨てて旅をする人々がいた。彼らは体制から全く逸脱した存在であったと言え、露骨な叛逆はなくともある程度、社会の解体を目指す人々だったと言える。
 一遍死後、時宗教団は他阿を中心として布教し、また時衆道場を各地に築いて行った。そうして教団として基盤を築き、他阿は一遍に次ぐ時宗の二祖・遊行上人とされ、聖を絶対とする傾向が生まれた。時宗は、あくまで遊行することが本旨とされ、遊行上人も体は留まりこそすれ、心は遊行しているものとされた。
 他阿以外の、遊行の僧たちも独自の教団を持ち、時宗の一派として分裂してゆく。このことは一遍・他阿のような僧が多かったことを示している。
 一方浄土真宗は、親鸞の死後、様々な紛争を抱えた。その中で覚如は、自らの血脈・法脈の正当性から御影堂であった本願寺を正当と唱えた。そのため高田派などから反発され、本願寺は困窮に陥ることになる。こうして真宗には中核なく小教団乱立となり、時宗と間違えられるようなありさまでさえあった。
 時衆というのは、文芸にも大きな影響を与えている。彼らの和歌も非常に多かった。
 このころ発達してきた市場は、中世の様々な芸能の舞台としても機能している。その一方、芸能民たちは旅の中にあるのが普通であった。彼らの中は体制から疎外した者と、離脱した者とが区別されずに混在していた。
 例えば唱導などは、漂泊する民に語られ継ぐ中で次第に文学の様相を帯びてゆくことになる。これは論理としては駄目かもしれぬが、当時の人々の要求によく反映したものであった。
 日蓮宗は激しい弾圧の元にあったが、日像の活動の中で京都の商工民に信者を拡大し、次第に根づいてゆくこととなる。
 和歌・連歌もこのころから庶民に流行り始めていたようである。連歌師の中にも時宗僧がいるが、これはやはり遊行の中で文芸を生みだす伝統に基づくのだろう。
 『沙石集』を書いた無住もまた、遁世した一人である。彼は民衆に溶け込む形でその思想・仏法を説き、その過程で様々な当時の民衆の思想を表すことになった。民衆の思想にふれることで無住の思想も又構成されたのである。
(Spheniscidae)

最終更新:2010年02月28日 19:58
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