第八巻 蒙古襲来(黒田俊雄 著) 後編

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一味同心する農民たち
 文永(1264-1274)のころ、炎天が続き、全国的に飢饉が蔓延した。中世においては、水量豊かな大河川を灌漑に利用するに至っていなかった。そのため、干ばつによる飢饉が今回起った。農民たちは苦しみ、彼らの不満と鬱積が次の社会を作り出すエネルギーとなる。
 中世は農村の時代であった。農民を始め、武士・僧侶・商人、手工業者も主に農村に住む。京都・奈良・鎌倉などの中枢都市を別とすれば、国の中心は農業であった。彼らは公領として国司に年貢を納めるか、私領として荘園領主に年貢を納めるかをした。
 農民の生活は貧しかった。彼らは汚れた小屋に住み、家財道具はほとんどなかった。日の出とともに起きて働き、夜が来れば藁に潜って寝る生活を繰り返していた。
 鎌倉初期、農民は鉄・塩などの必需品を除き自給自足していた。ゆえに農民は市場にかかわることがなかった。ところが中期になると市場が発達し、農民は作物を市で売り、年貢を貨幣でおさめるようになった。市場での商売および市場の管理を専業とする元小作人も現れ始めた。しかしながら、ほとんどの農民の生活は豊かにならなかった。彼らは地頭からの厳しい年貢の取り立てや、非法な略奪にしばしば苦しんだ。
 農民間でもしばしば争いが起きた。境争論という、土地の境界を争うもめ事である。農業・漁業において土地の広さは重要である。農民たちは自らの利益を守るため、一致団結して行動し、しばしば訴訟や実力行使を行った。彼らが団結したのは境界の問題だけではない。領主の支配に苦しんでいたという共通の条件にも強く依存している。
(Jiyu)
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地頭と領主の対立
 荘園の支配権を巡る紛争が各地で頻発していた。そのうち最も多いのが、地頭と 雑掌 の境界紛争である。農民も市場に関与してくることになったので、支配権の存在はさらに重要になり、紛争がさらに増えた。幕府は紛争はなるべく和与(示談)で解決するように勧めた。しかし、後ほど不服を訴えて蒸し返す例も少なくなかった。
 彼らのうちどちらが善玉で、どちらが悪玉であったかと考えると、どちらも悪玉である。立場は違えど、彼らは自らの利益を最大化するために数多くの非法な取り立て、農民の搾取を行った。法に従わぬ彼らの暴虐は、幕府の最大の悩みの種となっていく。
 そのような情勢の中、農民は現実を見据えて生きるようになる。旧来の伝統的な恩情関係を破棄し、結束して交渉を行うといったスタンスにシフトしたのである。彼らはしばしば不作などの理由をつけて、なるべく年貢を支払わぬようにふるまった。貧農だけでなく、成り上がりを目指す有力な農民も彼らと強調し、共に戦った。彼らは時に農業的要所を押さえて、その活動はより政治的になっていく。
 この時期はすべての階級が泥臭く打算的なふるまいをした時期である。崇高さや高尚さはなく、人間のむき出しの欲望があらわとなった。伝統や権威が次第に泥にまみれていく。時代が変わっていく。
(Jiyu)
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分裂する天皇家
 1272年(文永九)後嵯峨法皇が崩御する。法皇亡きあと、誰が政務の実験を握るかが問題となった。第三子である後深草上皇の系列か、第七子である亀山天皇の系列になるかが主な焦点だった。後嵯峨法皇は皇統のことは何も遺さなかったので、揉める元となった。
 天皇が政治の実権をどれほど握ったか、一言で言い表すのは難しい。摂関家や幕府などの社会的勢力関係で相対的に変動するからである。天皇家は膨大な荘園を直接的・間接的に支配できた。天皇制は既に形式と化していたが、天皇家は最高級の権威を持った集団として存在していた。その惣領の地位が誰に移るかというのは、皇太子個人の問題ではなく、血統集団としての皇族派閥や彼らに与する貴族の趨勢に大きくかかわっていた。
 後深草と亀山の争いは前者に軍配が上がった。伏見天皇が即位し、後深草院の院生が始まる。亀山院希望を失い出家してしまう。天皇家はこの対立により、事実上二つに分裂してしまう。亀山院方では、後宇多上皇が京都嵯峨の大覚寺を再興し、以後もその子孫が大覚寺と関係が深かった。後にこの系統は「 大覚寺統 」と呼ばれた。同様に後深草院側は、持明院を仙洞御所(上皇が住む場所)とし、子孫も深くかかわったので「 持明院統 」と呼ばれた。
 この時代の天皇は、政治には関与せずにもっぱら儀礼のみを行った。院生が始まってからの平均即位年齢は八歳と十カ月、平均在位期間は約十年であることからも、たんある形式的な地位であったことがうかがえる。しかし、現在のような象徴的存在かというとそうでもなかった。膨大な荘園群という経済的基盤に裏打ちされた権威は残っていたので、「御心のままに」権力をふるうことがしばしばあった。豪奢にはふるまえるが、あくまでも政治の覇権は幕府に、といった二重構造が存在していた。
(Jiyu)
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御家人制の崩壊
 この時代になると御家人は、零細化してまた権力を失い、無力化していた。その要因の一つは、非御家人・凡下・山僧による高利貸しであった。このような御家人以外の人々は、鎌倉時代には多く存在しており、また反幕府的な傾向が強かった。これは、幕府が非常に強固な権力組織であり、彼らをもまた従えんとしていたことに他ならない。
 彼らは、主に寺社や朝廷につかえている者が多かった。寺社・朝廷は当時、莫大な荘園を抱え、非御家人らの人々はこの門閥的政治勢力と密接に関連していた。この寺社・朝廷らは孰れも京都・奈良に集中的に存在し、それゆえこれらの場は物資の移動・集積・交換を通して物流の要となったのである。この時代、京都には既に商人が発生して富裕の者もおり、また京都から各地の港、さらに東アジアへと至る大きな交易ネットワークも存在していた。そしてこの動きが、社会へも大きな影響を与えることになる。
 この時代の商人は、主に座の商人である。寺社朝廷などに課役を支払う一方で、特権的に特定生産物の流通を支配したのである。
 この商業の浸透は御家人にも影響を与えることになり、税なども銭貨による支払いも行われるようになってゆく。すると、御家人も所領へ送る代官として、銭勘定に詳しい山僧や借上(高利貸し)を利用するようになるが、やがて彼らに所領も奪われて没落してしまう者も出た。この傾向は泰時代には既に現れていたものだが、この中世となっていよいよ深刻化したのである。
 これに対抗して出されたのが永仁の徳政令である。これは越訴――上告の禁止、質流れ・売却地の返還・金の貸し借りに関する訴訟の禁止によって成り立っていた。しかし、これは却って経済に混乱を招き、却って非御家人らの所領押領を招くことさえあった。それゆえ、結局は徳政令を撤回することとなっている。
 この結果は、非御家人層の勢力を幕府が圧殺することに失敗したことに由来する。しかしこれは、決して幕府の横暴ではなく、東国から発布したが故であったといえる。当時、東国は未だ商業発展せざるところであった一方、西国はもはや切り離せぬものとなっていたのである。そしてこの西国での商業発展が、新たな政治動向への影響をあたえるのである。
 また、御家人の惣領制の動揺もあった。世代を重ねることに所領分割によって所領が狭小となり、また血縁関係も薄くなることによって、惣領を巡る一族内の争いが頻発しつつあったのである。そしてこれは惣領制を利用する幕府体制にも動揺を与えることになった。
(Spheniscidae)
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悪党横行
 武士の中には、本所の支配に抵抗する者――悪党がいる。本来、本所はそれを自らの手で討伐するものであるが、本所が幕府にの権力を借りて討伐を図ることも多かった。それは、本所にそれだけの権力が無い者も多かったからである。
 伊賀国黒田庄では、弘安ごろより悪党が跋扈し、本所・東大寺に対する反抗が非常に激しかった。東大寺は幕府の権力による鎮圧を図るも、地頭設置を迫られることとなり、なかなか鎮圧は進まなかった。彼らには、幾らかの与党も存在したものに、倫理的な面からすると住民の殺戮も辞さず、ために住民との敵対関係があったといえる。
 このような状況故、浪人や流浪の僧といった、体制の外にある人々は、幕府の警戒の対象となった。このころになると、異形の者と呼ばれる武装集団が、各地に出没するという事態にもなっている。そしてこのような動きは幕府を揺り動かすことになる。彼らの中には、開墾に踏み出す人々もいた。
 当時、叡山をはじめとする寺社では仏法と王法とは車の両輪であるように考えられていた。しかしその中で、人法興隆という言葉が叫ばれるようになる。人法とは世俗での生活を表し、仏法や王法では非難されるものもこれを通して行われることがあった。
 悪党や悪僧と呼ばれる人々は、銭をもっとも重要とした。彼らはまず交易とそれを通して得られる銭をその行動理由としていたのである。幕府はこれを討伐しようとしたが、討伐は必ずしも成功しなかった。悪党は御家人や守護とも結びついていたためである。そうして勢力を伸ばした悪党は、愈々時代を動かしていくことになる。
(Spheniscidae)
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「主上御謀反」
 後醍醐天皇が帝位へつくと、記録所が設置された。これは、天皇が親政するための裁決機関であり、後醍醐天皇が非常に政治へ意欲的であったということが言える。また、後醍醐は宋学の勉強会を数度開いていたが、これは討幕相談という側面があり、また無礼講の宴会も行って、それによって武士をもその計画に引きこもうとした。しかし、この計画は一度は失敗に終わる。正中の変と言うが、これはあっさり露見することとなる。結果、天皇の側近は流刑に処せられることになる。
 このころより、「主上御謀反」という言葉が使われるようになる。主上より幕府を上に見る風潮があった、ということは否定できないだろう。
 一方、奥州ではこの時代より内乱が勃発。北条氏はこの対処に苦労することになった。また同時に幕府内でも、権力闘争が起こっていた。
 立太子について、幕府の介入について後醍醐天皇は思うのままにすることができず、幕府への反感を募らせることになる。やがて後醍醐天皇は流通統制を行う一方で、討幕の計画をいよいよすすめた。しかしこれは吉田定房の密告によって再び露見。後醍醐天皇は笠置山で挙兵するも、陥落し、譲位させられてしまったのであった。
(Spheniscidae)
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楠木合戦
 日本歴史上、楠木正成ほど有名で、素性のわからぬ人物もない。本拠地も家系も謎であった。はっきりしていることは、かれが名もない河内の小土豪にすぎなかったこと、それだけにかれの周辺には「悪党」ムードが漂ってもいたであろうことだけである。

 一三三一年の赤坂城合戦では、幕府軍と楠木正成の軍が戦ったが、楠木の智略により赤坂城はなかなか落ちなかった。そのまま四五日過ごしたが、急な籠城であったため城中に食料が尽きてしまったらしく、正成は風雨の夜に城に火をかけ、闇にまぎれて脱出して行方をくらました。
 こうして赤坂の楠木の城は落ち、備後の桜山も自刃したので、天下平穏に帰したかに見えた。
 関東の大軍は十月末から十一月のはじめにかけて鎌倉へ帰還し、鎌倉からは後醍醐天皇の謀叛にくみした公卿や武士の処罰のため、二人の奉行人が京都へ派遣された。いよいよ戦後処理である。

 幕府の奉行人は持明院方に公卿・僧侶らの罪名のリストを示し、処分方法について「聖断」をあおいだが、これに対し幕府の判断に任せるという仰せがあった。
 そこで十二月二十七日、関東の使者は後醍醐天皇を隠岐に、第一宮尊良を土佐に、妙法院宮宗良を讃岐に配流すると奏上した。
 こうして一三三二年三月七日、後醍醐天皇は隠岐へと流された。これを手始めに、この三月から六月にかけて諸皇子・公卿・僧侶・武士の配流・処刑がつぎつぎに行われた。

 一三三二年四月二十八日、京都では改元して正慶というめでたい年号がえらばれたが、この翌年、後醍醐天皇が隠岐から帰還したあと、光厳天皇も年号もみな否認してしまったから、元弘の年号は息を吹き返し、三年まで(正確には四年正月二十八日まで)あることになった。本書では便宜上元弘で通す。
 その年の春から夏のころ、後醍醐の皇子尊雲法親王すなわち護良親王は、吉野・十津川方面の土豪たちを味方に組織して廻っていた。
 親王のほかにも楠木正成がどこかで挙兵の準備をしていたし、またここ数十年のあいだ欲求不満をたえず暴発させていたかの悪党的な武士どもが無数にいた。そして隠岐の配所にある後醍醐「先帝」も強靭な意志をもって再起のときを待っていた。

 一三三二年も冬に入ったころ、楠木正成は河内・和泉から摂津にかけての一帯に出没し、十二月には赤坂城を急襲していっきょに奪回してしまった。
 翌年の正月には正成は摂津の天王寺から渡辺まで兵を進めていたが、もちろん六波羅もてをこまねいていたわけではない。暮れの十二月九日には畿内・近国の武士たちに、護良親王および楠木正成の征伐のために京都へ参集するように命令を発していた。
 正月には正成は河内の各所で戦い、幕府方の軍勢を追い落とした。その後六波羅の派遣した軍勢もまたこれをたくみに追い落とした。
 正成がこうした兵力を持ちえたのは、摂・河・泉一帯の小土豪をたくみに把握していたためと思われる。いわばひろい意味での悪党が、こうして軍事力の重要な要素になってきていた。
 このころになると、正成のほかにも護良親王の令旨をうけて挙兵する者が各地にあらわれてきた。

 機内・西国にまたもや兵乱おこって大動揺を来しているという報告に、幕府はふたたび東国の軍勢を召集して大軍を西上させた。軍勢は五万ともいい三十万ともいう。
 京都へ着いた東国の軍勢は諸国の軍勢と共に、大手(河内路をへて赤坂城へ向かう軍勢)、搦手(奈良路をへて金剛山へ向かう軍勢)、もう一手(紀伊路から吉野山へ向かう軍勢)の三手に分けられ、正月の末から二月はじめごろ三方同時に進軍を開始した。
 それぞれ激烈な戦いが行われたが、赤坂城は城中へ水を引く樋を発見され、水を絶たれて陥落した。
 正成がかまえた城はこの方面に多数あったらしいが、しだいしだいに陥落し、残るところは正成がこもる金剛山の千早城のみとなった。
 金剛山へ押し寄せていたのは搦手の軍勢であるが、いまやこれに赤坂・吉野の寄手もくわかり、三方の大軍を挙げて千早城を総攻撃することになった。二月も末ごろのことである。

 千早城合戦は百万あまりの幕府軍と千人に足らぬ軍勢で城にたてこもる正成軍との争いであるが、城はなかなか落ちなかった。『太平記』によれば、正成は用水の便もしらべ水は確保していたし、大石を投げかけたり矢を射続けたりと智略を尽くして戦った。また、わら人形をおとりに、攻めてきた兵を返り討ちにしたりもした。
 これに対し幕府側は梯を作り深い堀に橋を渡して城へ斬りこむ計略を考え、実行するなどしたが、油と火矢によって橋は炎上、数千の兵が一人残らず焼け死んでしまったという。
 そうこうしているうちに、吉野・十津川・宇陀・宇智一帯の野伏ども七千人余りが大塔宮の命をうけて峰や谷にかくれ、千早の寄手の補給路をふさいだため、寄手の軍勢は引き揚げはじめた。野伏どもはこれを待ち受けて討ち取った。
 千早城の寄手ははじめ百万ともいわれたが、こうして減ってゆき、いまでは十万しかいなくなってしまった。
 これが『太平記』の語る千早城合戦の内容である。

 『太平記』が狙ったのは千早城合戦の正確な記録を伝えることではなく、功名や恩賞に目がくらんだ鎌倉武士の大群とそれを手玉にとる正成の智略や奇抜な戦術を対比することで、鎌倉武士を笑いとばすことであった。
 では、正成の戦術なるものがでたらめな作り話かというと、そんなことはなかったと考えられる。
 このような合戦が、このころ少なくとも機内・西国では一般化していたと筆者はみる。こうした戦術は、蒙古襲来から半世紀間、連年どこかで行われていた悪党の合戦により編み出されたのである。正成の戦術は、悪党や郷民のさまざまな合戦のなかで鍛えられた戦術にほかならない。

 一三三三年閏二月二十四日の暁、後醍醐天皇は隠岐を脱出した。
 天皇は船上山を行在所ときめて、さっそく諸国の武士へあてて綸旨を発し、味方について忠勤をはげむよう促した。西国各地の武士にはすでに動揺の色が濃く、かなりの者が船上山に馳せ参じた。
 三月には天皇方の軍勢はかなりの勢力になっており、京都への進発の方針がきめられたが、先陣として千種忠顕が山陰道を進撃することになった。

(Shade)
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鎌倉の最期
 千早城攻防戦が膠着状態に陥る以前、幕府軍を背後から牽制する合戦が西国の播磨、伊予、および肥後から起こっていた。
 播磨の赤松則村は京都の六波羅の軍勢と戦ったが、一三三二年に護良親王の令旨を受け、翌年正月に挙兵、近辺の武士たちを従えるとともに備中と播磨の境の船坂峠をおさえて西国軍の上洛を遮断した。
 また閏二月から三月にかけては摂津の西北部一帯で六波羅の軍勢と合戦をくりかえし、三月にはさらに東へ進み、京都の西南、山崎・八幡方面へ拠点を移した。赤松勢は、このときから五月までずっとこの辺りに拠点をおき、たえず京都をおびやかしつづけた。

 赤松勢が度重なる合戦にやや衰えたころ、山陰道からは千種忠顕の軍勢がせまり、やがて入京したが、この公卿の大将は六波羅軍との合戦に敗北し、丹波まで退却してしまった。とはいえ、忠顕はその後も丹波を根拠にして京都をうかがっていた。
 こうして六波羅の軍勢は、合戦に勝ち続けながらも次第に不利になっていった。

 伊予に蜂起した土居通増・得能通綱・怱那重清らの勢力も次第に大きくなり、瀬戸内海に幕府にとって由々しい敵対勢力をつくりあげた。
 九州では鎮西探題に反感をいだいていた少弐・大友両氏と、肥後の菊池武時が令旨が届いたのを契機として挙兵の密約をかわしたが、探題の北条英時が彼らの挙動を警戒し始めたため、少弐・大友は変心してしまった。武時は自分だけで挙兵したが、敗死。これが九州における北条氏にたいする叛逆の最初であった。

 鎌倉ではこうした各方面の情勢への対策として、足利尊氏・名越高家の二人にそれぞれの軍勢をひきいて上洛させた。三月末ごろのことである。
 尊氏はかねてより北条高時に不満をいだいていた上、今度の出陣命令もかれの病気中であったということもあり、いよいよ反感をいだいた。
 そこで三河の矢矧まで来たとき、かれはいよいよ北条氏に叛旗をひるがえす決心をした。
 そして、一度京都に入り、丹波へ越え、同国の篠村で挙兵した。そこまで行ったのは、一つには山陰道を進撃するとみせかけるためであり、もう一つには千種忠顕の軍勢と合流して京都を攻めるためであった。

 五月七日ごろには尊氏の軍勢は六波羅勢と対峙した。この合戦は激烈をきわめたが、六波羅勢はしだいに敗退し、ついに六波羅の城郭にたてこもった。
 探題の仲時と時益は光厳天皇と後伏見・花園の両上皇を伴い、夜半に六波羅をすてて東へはしった。しかし、山科四宮河原あたりにさしかかると、落人をねらう野伏がひしめき、また夜も明けて近江平野に入って、守山あたりからもまた野伏がひしめいていた。
 それらの襲撃に多く疵ついた一行は、翌九日、番場で峠がふさがれており、先行きにも希望が持てないことを思い、蓮華寺の前で自刃した。六波羅の軍兵はこうして全滅したのである。

 一三三一年、後醍醐天皇は光厳天皇を廃し、正慶の年号を元弘に復し、光厳天皇の名による官爵をことごとく削り、すべてを光厳天皇の即位以前に戻すという詔を発した。後醍醐天皇は自分が天皇として続いていたというたてまえを押し通したのである。
 天皇は六波羅の攻略がすべて天皇一身から出たものであるかのように初めからそういう態度をとりつづけていた。
 これに対し、足利尊氏もまた、六波羅攻めにおいてあたかもかれが天皇からすべて委任された大将軍の地位にあるかのごとくに天下の武士に臨んだのである。そのため、六波羅を攻略したのは赤松則村や千種忠顕をはじめ多数の武士の協力であったにかかわらず、成果はあたかも尊氏一人の号令によるかのような印象を与えた。

 五月八日、その前夜に六波羅が陥落した日、新田義貞は北条氏を討つ挙兵の旗をかかげた。
 新田義貞は武家の名門であったが、北条氏の執権のもとでは足利氏よりもさらに冷遇され、世間ではあたかも足利の一支族であるかにさえ軽視されていた。新田義貞が北条氏に叛逆をくわだてるにいたった理由、および足利氏に終始対抗的であった理由はこの点に深くかかわっていた。
 新田義貞の場合、いわば動乱に乗じて北条氏から覇権を奪取しようというのが主たる目的であった。
 義貞は利根川をこえて武蔵国に入り、ひたすら鎌倉をめざして南下した。義貞に呼応して関東各地の武士団がぞくぞくと馳せくわわり、軍勢はみるみる大きくなっていった。
 あいつぐ合戦はいずれも激烈をきわめた。
 挙兵以来わずか十日で戦局はすでに鎌倉の攻防戦をむかえたのである。

 幕府は三方へ討手を差し向けた。一方は下道、つぎの一方は武蔵路、もう一方は中道である。諸方へ軍勢が配置され、十八日朝からいまを最期の合戦が開始された。
 二十一日から二十二日にかけ、鎌倉の防禦はやぶれ、最期のときがきた。高時が自刃し、百五十年にわたる鎌倉幕府はこうして滅亡した。

(Shade)
最終更新:2010年01月25日 00:02
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