第十二巻 天下一統(林屋辰三郎 著)

+ 「天下」の魅力
「天下」の魅力
 日本は近代以降は典型的な農業国であった。そのため季節が正常に循環することを是としていた。だが実際には、台風や地震などの天災によってそれは脅かされた。そのため、「歴史は繰り返す」という言葉が生まれた。歴史は段階的に進歩していくものでなく、しばしば下降するものであると近代以前は考えられていた。いくつかの日本独自の条件も、この考えを促進した。
 その条件とはなにか。まず一つは、地理的条件である。日本は島国であり、土地が限られている。人間の所有欲が限定されるのであり、他国の領土侵略的な発展を遂げることが難しかった。
 第二は宗教的条件である。日本の仏教はインド―中央アジア―中国―朝鮮というルートで日本に伝来した大乗仏教である。小乗仏教との違いは、在家の仏教を認めるということである。大乗仏教はすべての国民を救済の対象とするので、あまねく広まり、政治・経済・思想に大きく影響した。末法思想も、下降的歴史観に宗教的な解釈を与えるのに適したものだと考えられる。
 第三は政治的条件である。日本は天皇による統治が古くからなされてきた。専制的な国家権力・身分制の確立は、前近代における民衆の自由な活動を阻んだ。民衆は権力に支配され、未来に期待を抱くことができなかった。
 変革の理念は未来に対して指向を持たず、常に過去に向けられていた。古代では大化の改新を規範にし、中世では院生時代、延喜・天暦時代を追念した。明治時代はさらに古くなり、神武創業の時点まで後退した。日本において、革新は復古と不可分であった。
 「天下」は大化の改新において多用された。天皇中心の支配体制の目標は天下公民であった。中央集権的な国家体制が志向されるときは、「天下」は想起されること易い。
 安土・桃山という時代は、新しい意味での「天下」を作り出し、その思想の最も強烈な時代であった。「天下」の持つ地理的・宗教的・政治的条件を克服し、その概念を拡充させた。過去から完全に決別することはできなかったが、すべての階層の国民が未来に目を向けた変革を目指し始めていた。夢を持ち、志を抱いた人間のうち、天に選ばれた者が台頭する。安土桃山はそんな時代であった。
 豊臣の滅亡、家康の鎖国によって日本は再び閉鎖され、「天下」は終わる。しかしながら、その間に培われたものは、日本を農民生活の根底から立て直した。それはまさに第二の「天下の草創」であった。

(Jiyu)
+ 鉄炮とキリシタン
鉄炮とキリシタン
 1543年(天文十二)薩南の種子島に一石のポルトガル船が漂流した。当時西村の主宰であった織部丞が会話を試みた。織部丞は自分では手に終えぬと考え、シマノ領主種子島時堯と恵時に報告した。この時に商人から伝わったのが鉄炮である。
 日本人は鉄炮を、 蒙古襲来 の当時から知っていた。元軍が用いていた「てつはう」が「てっぽう」の呼び名の起源であると言われる。この他、明にも鉄炮は伝わっていたが、種子島銃より遥かに旧式で、命中率の低いものであり、流行らなかった。
 そのため種子島の鉄炮は日本人にとって新鮮であった。1544年(天文十三)将軍足利義晴は種子島銃の製造を命じた。義晴は積極的利用までには至らなかったが、このとき国友村で種まきされた鉄炮製造は、次第にその芽を成長させることになった。後に信長は鉄炮を知り、鉄炮隊を組織する。種子島伝来から六年目のことであった。
 彼らは偶然日本に流れ着いたのではなかった。マルコ・ポーロの『東方見聞録』から東国の理想郷を目指した西洋人の旅は始まった。次第に目的は中国との貿易という現実的利益に変更されていく。
 ポルトガル人による日本の発見は、日本によるヨーロッパの発見でもあった。長らく日本で信じられていた本朝・天竺・震旦の三国的世界観が打ち破られ、真に世界的な視野が開かれたのである。
 日本人は西洋の思想とも邂逅した。1549年(天文十八)キリスト教イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に迎えられる。イエズス会は反動宗教改革の運動に属するものであった。領主島津貴久は貿易のためにキリスト教を利用しようとし、ザビエルは布教のために貿易を利用した。この行き違いが、鎖国にわたるまで日本人とキリスト教徒の禍根となった。
 ザビエルは人間味があり、支配者より一般大衆を大切にし、外国人には慈悲深く接した。ザビエルも日本人を「友誼に富み、概して善良で、悪気はなく、名誉を尊ぶ」と絶賛した。
 やがて僧侶からの圧力により、布教禁止と違背者の死罪が命じられた。ザビエルは鹿児島を出て、山口に向かい、次に京都を目指した。

(Jiyu)
+ 京の町・堺の町
京の町・堺の町
 応仁の乱によって潰滅した京都ではあるが、商人・手工業者・土倉衆よりなる町衆が力を握り、祇園会の復興なども行われた。またここには地方より戻ってきた公家衆も交わりを深めている。町衆は土倉衆の莫大な富と公家の文化蓄積を元として市民としての道を歩むのである。
 その彼らが独立を明らかにしたのは、法華一揆である。一向一揆と同様に語られる物だが法華一揆は一向とは大きく離れたものであり、一向一揆が農民主体であったのに対して法華一揆はと市民が中心であった。当時、各地には商業市場が形成され、農村と異なる都市が形成されており、そこには矛盾が抱えられていたのである。
 一向一揆は講組織を中心とした農村の結合を基盤としている。その中核として本願寺があったが、国人衆がこれに加わると政治性を帯び、ついには加賀を占拠する。既に一向一揆を抑えきれなかった本願寺だが、細川政元の計らいによって彼らを門徒に組み込み基盤と為すことに成功している。同時に細川氏との緊密な関係も形成された。
 天文元年、細川晴元の臣・木沢長政は畠山氏の攻撃を受けた。独力での排除が不可能と見た晴元は、本願寺に救援を頼んでいる。本願寺の檄を受けて大蜂起した一向衆は忽ち畠山氏を滅ぼし、晴元と不和であった三好元長も攻め殺し、さらに大和興福寺などの焼き討ちを行った。
 この力を恐れた細川晴元は、転じて一向一揆を攻撃すると同時に法華一揆の発生を促したのである。法華一揆はこのように政治的要請を以て起ったものであるが、洛中地子銭の不払いを宣言するなど、反封建権力闘争へと進んでゆく。この法華一揆は天文五年、六角氏と延暦寺の攻撃を受けて潰滅を余儀なくされた。
 この一揆の結果、都市の中の封建体制は確立され、階層分化が進んでゆく。その点で国一揆的であった。
 この法華衆の中には本阿弥・後藤・茶屋といった後々の文化をになってゆく人物もいた。また、画家・狩野派も法華の宗徒でありその影響を大きく受けている。

 一方、堺も天文元年を境として大きく変化している。この年、大火によって大きく損傷した堺は、この後本格的都市として発展してゆく。会合衆と呼ばれる有力商人の自治が行われ、その姿はフロイスに"東洋のヴェニスと言わしめている。その一方で、三好氏と深い関係を持っていた。三好氏は細川氏と争ってこれに勝ち、天文二十一年以降は京都の権威として君臨していた。しかし当主・長慶死後は松永久秀と三好三人衆に分立し争い、堺の会合衆はこの中で調停の役割も果たしたりした。
(Spheniscidae)
+ 若き日の天下人
若き日の天下人
 京の朝廷は当時、非常に窮乏していた。即位・大葬すら出来ぬ有様であったのである。
 天文十一年、御所の築地が壊れ、禁裏はその資金を諸国へ求めた。これに対し、織田信秀は修理料を献上し、その名を知らしめている。他にも信秀は伊勢神宮などへの献金を書かさず、伝統的慣習を尊重する態度を示しており、このことが京の町衆に親近感を与えることになる。
 この織田氏は元来、越前・織田剣神社の神官の子孫であったと推測されている。その後朝倉氏同様、斯波氏の守護代として終わりに土着したようである。その後、大和守家と伊勢守家に分裂した織田家だが、三河松平氏や美濃斉藤氏の拡大によって兵威を必要とした中で、大和守の家臣であった信秀が力を伸ばした。信秀は殆ど尾張を統一すると、天文二十年に亡くなっている。
 信秀の子として生まれた信長であるが、その素行は非常に悪く、異装のかぶき者であった。しかし同山には評価を受けている。このころ、松平家より今川家に送られた人質・竹千代を織田家は強奪している。当主・広忠が若くして死すと、松平家は今川家によって乗っ取られ、やがて信長の兄・信広と交換されて竹千代は今川家に向かう。
 またほぼ同時期に同朋衆・竹阿弥の元を小猿という少年が永楽銭一貫文を持って脱走している。こお永楽銭は明の銭であるが、日明貿易の結果この貨幣は非常に多く流通していた。彼はそれを更に針に変え、行商を行いながら東へと向かい、今川家家臣・松下之綱の元を経て信長の草履取りとなる。
 秀吉の生誕については、様々な説がある。とりわけ、猿を神獣とする日吉山王と関係させるものが多い。この伝説を眺めてみるに、どうやら貴種流離譚となっているようだ。
 信長が家督を継ぐと、尾張国内で反対する同族を討ち、尾張を固めている。そのなか、永禄二年には上洛し、京を見物し将軍にも謁見している。
(Spheniscidae)
+ 信長入京
信長入京
1560年、信長は桶狭間の一戦に今川義元を斬り、天下一統の戦列に加わった。この戦いに勝利したことで当面東の憂いは無くなり、信長はいよいよ西のかた京都を臨む。その手始めに攻略すべきは、隣国美濃であった。
1561年5月、信長は清州の斯波義近の背反を理由に美濃へ出兵するが、斎藤氏に阻まれ功を奏せず一度撤退する。以来、信長は美濃攻略にあたって極めて慎重な計画を練った。まず三河岡崎の松平元康と結び、西上のための背後を固めることにした。元康は依然今川氏の属将であったが、水野信元の仲介で義元の暗愚な後嗣氏真と絶ち、清洲で信長と会盟する。このとき元康の名を家康と改めている。清洲の会盟は織田氏の西面への発展の足がかりであると同時に、徳川氏の東国支配の第一歩ともいえる盟約であり、今後の東方の展開に意義深いものとなった。
また信長は、懸案の美濃経営のためには要地・墨俣の占領が不可欠と判断し、1566年9月、墨俣築城を計画する。妨害する敵の攻撃を防御しながら築造の資材を渡河運搬し、木曽川の対岸にある敵地に、短時間で城塁を築こうという難事業である。これを進言し見事成功させたのが、今は信長に仕える木下藤吉郎秀吉であった。
墨俣築城も成り準備が整うと、信長は美濃経略に先立って近江の浅井長政に通じ、妹を妻とすることを申し入れた。ついで、美濃平定の暁には隣国として堺を接することになる甲斐の武田信玄ともあらかじめ和平を結ぶ。通婚政略によって浅井・武田氏と平和的関係を築き、美濃攻略の布石としたのである。そうして1567年8月、美濃の斎藤氏で当主竜興と三人衆との軋轢が生じたことを契機に信長はふたたび美濃を襲い、ついに竜興を伊勢長島に退けた。また居城を小牧山から稲葉山に移し、井ノ口を改めて岐阜と称した。

信長が墨俣築城を計画していたころ、京都の情勢は大きく変化していた。1565年には将軍義輝が松永秀久によって謀殺されるという事件が起こっている。この弑逆行為は、諸国の群雄たちに京都に馳せ上り三好政権を打倒する名目を与えた。同時に危険の迫った義輝の弟義昭はただちに京を逃げ出し、各地の諸将に協力を求めながら遍歴する。そうして1568年、岐阜城を中心に威勢を張る信長のもとに御内書が届いた。信長はこれを機会に義昭を迎える決意を固める。このとき義昭の擁立に一躍買い、連絡の推進役となったのが明智光秀であった。
義昭を迎えて入京の大義名分を勝ち得た信長は、1568年9月7日、美濃・尾張・伊勢・三河・遠江五カ国の兵を率いて岐阜を発した。この大軍の前に、京都への道はたちまち開かれた。三好三人衆は軍容に恐れて退き、9月26日、信長はついに京の地を踏む。10月には摂津の池田勝正を下し、ついで高槻・茨木の諸城も下してしまった。このように迅速な畿内平定が成ったのは、もっとも敵対するはずであった三好党の内部が三好三人衆らと松永秀久らとに分裂して抗争し、秀久が早く信長に降伏していたことが大きい。当初の大義名分論に立脚すれば、義輝暗殺の犯人秀久と和を結ぶことは許されないはずであるが、信長は反対する義昭を抑えてついにこの罪を許している。この一事は、信長の義昭擁立がまったく入京のための手段に過ぎなかったことを示していると言える。
(Shiraha)
+ 天下布武
天下布武
1568年10月18日、足利義昭は征夷大将軍に任じ、いよいよ幕府を再興することになった。一方信長は畿内を平定すると、軍費調達のため摂津・和泉には矢銭を、奈良には札銭・家銭などを課した。信長はここでも財源として都市商業に注目したのである。しかしこのとき堺だけは信長の課銭に応じなかった。ただちに信長から堺を攻撃する旨が通達されると、堺はこれに強く反発し、合戦の準備を始める。信長はこの反抗に柔軟かつ慎重に対応し、代官を置くことを義明に求めただけで、いったん岐阜に引き上げた。
1569年1月、松永秀久が岐阜の信長を訪ねて大和を留守にしたことを契機に、三好三人衆は京都を襲い、義昭を本圀寺に囲んだ。信長は飛報を得て出陣し、松永秀久を伴って入洛、三人衆は破れて阿波に逃れた。このとき信長は、三人衆の活動の本拠地となり、彼らを援助した堺を三人衆と同罪の逆徒として責め、威嚇した。こうして堺は信長の要求を容れざるを得なくなり、前年よりも遥かに強力な形で、信長の支配下に置かれることになった。
信長が次に鉾を交えるべきは、越前の朝倉氏である。1570年4月、信長は朝倉義景を討伐すべく京都を発し、軍勢三万余を従えて若狭に下向した。当初、信長の侵攻は順調であったが、近江の浅井長政と六角承禎が兵を起こし朝倉に与力したことで戦局は一変した。朝倉・浅井両家の歴史的な同盟関係と、織田・浅井両家の現実的な婚姻関係の天秤が、浅井家内部での対立を越えて前者に傾いた結果であった。信長は謀反の知らせを受け取ると、挟み撃ちを恐れて直ちに軍を引き上げ、かろうじて無事帰洛したのである。

京都に帰って平静を取り戻すと、信長は岐阜に帰って陣容を立て直した。そうして浅井氏との合戦に備え、朝倉氏の後援も想定の範囲内で戦備を整えた。果たして次の合戦では、先陣を臨んだ徳川家康が、越前衆と浅井衆の軍二万余を姉川で返り討ちにし、信長軍はからくも勝利を得た。
しかし浅井・朝倉討伐に重点を置いていたため、信長は再び虚をつかれることになる。石山本願寺である。入京以来たびたび信長に押し付けられてきた難題を恨んで、顕如は三好三人衆らと謀を通じて挙兵、浅井氏とも連絡しつつ諸国の門徒に兵を起こさせ、天満森の陣所を破った。信長はただちに摂津から明智光秀・村井貞勝・柴田勝家らを上洛させ、京都の守備にあてた。家康・秀吉も来援し、石山本願寺・三好三人衆との対立は一進一退の膠着状態となった。そうして1571年8月、信長は意を決して山門の焼き討ちを決行、延暦寺の堂塔はことごとく放火し焼き尽くしてしまった。当時、叡山の山内が腐敗しきっていたことを考慮し、古典的勢力の掃討、宗教的束縛からの解放という天下一統に向けた必然的過程としての意義を認めるとしても、この焼き討ちは現実的には必ずしも信長にとって有益ではなかった。
(Shiraha)
+ 安土の天主
安土の天主

この章では信長の元亀年間の近江平定から1576年の安土城入城までを取り扱っている。

信長が天下統一をするに、大きな障壁となったのは京都の東の入口にして、北陸、東国に通ずる交通の要所、近江の平定であった。北には浅井氏、甲賀には六角氏が潜み、琵琶湖は大部隊の行軍には障害となったし、何より中世における先進地域として惣による農民の結合が強く、更にそれらの惣は商品流通に併せて緊密に連絡されていた。信長も自立する彼らを掌握するに大変手間取ったものと思われる。
その近江平定も含め、彼の功績を、時間を追って見てみよう。

信長は八方に敵を抱えていた。石山本願寺の顕如と繋がり浅井、朝倉が北に、武田が東に、南には伊勢の一向一揆、西にかけては三好衆や顕如率いる石山本願寺以下が控えており、信長に味方していた松永久秀なども蓮如の影響で武田や三好衆と結ぶなどし、信長を取り囲む包囲網となっていた。
1572年12月、信玄が西上を始め、三方ヶ原で家康を破った。信玄が西上を決意したのは、東方で甲・相で和睦がなされ、後顧の憂いが無くなった為である。と言うのも元々互いに争っていた甲・相両者だが、其のつど相州北条氏は上杉謙信に来援を求めていた。だがいっこうに返事を遣さない謙信に不信感を抱き、逆に信玄と和睦を結んでしまった、という具合であった。
さて、この様に信玄は西へ向かい、信長包囲網が狭められるかと思われたが、近江北方で朝倉が突如兵を引き返してしまい、続いて翌1573年4月には信玄病没と、俄かに包囲網が崩れた。
しかし此処で、信玄勝利の吉報だけを耳にした将軍義昭が反攻の好機と見て信長に対して兵を挙げた。其の為逆に信長に追放され、73年7月、ここに室町幕府は滅亡した。
信長は休むまもなく同8月に浅井、朝倉氏を討伐、9月には六角父子を敗走させ、此処に近江に一応の安定をみた。
信長は次いで畿内安定と一向一揆の討伐に向かった。11月に三好氏を討ち、松永久秀・久通父子も信長に下り、翌1574年8月には伊勢の一向一揆を平定した。
また、浅井朝倉氏征伐後に浅井氏の居城であった小谷城の城主となり、名も羽柴秀吉と改めていた彼は、商業の発展を図り山上の小谷城から、長浜に城を建てて移っている。

1575年5月には長篠の合戦で信長・家康軍は武田勝頼率いる甲斐軍を破った。これは1573年の長篠城を巡る家康・勝頼の攻防が元であった。とかく、東の憂いを取り除いて信長は、同8月に北陸方面の一向一揆を平定した。加賀に於いては謙信と衝突の兆しも有ったが、一先ず岐阜に帰り、京都へ上って大納言兼右大将に任じられ、直前に勝頼の来襲を退けていた信忠に家督を譲った。
年が空け、天正4年正月に安土築城を開始し、2月には本丸が完成し、信長はこれに入城した。後の秀吉大阪城に比べると東に有るが、この時はまだ謙信の南下を想定し、西にも石山本願寺、そして毛利氏が控えていた為に安土の地を選んだと思われる。
(NINN)
+ 政権と民衆
政権と民衆
信長が征討先での経営に於いて、人民の不満を抑えることに専念した。
先の章でも述べたが、信長の手中にある国々は、何れも先進的な地帯であり、惣、宮座といったもので農民同士が強く結合していた。故に彼らの反乱を事前に防がねばならなかったのである。
例えば、本年貢以外の課役がなされないように、或いは在地領主よりも郷村に根付く地侍を重視し、彼らを介して支配の基盤とした点などが其れである。
地侍が郷村を知行した場合、給人と呼ばれたが、彼らが之までの荘園代官に代わって郷村を支配するようになった。
経済面に於いては、諸国いたるところに多数の関があり、商品流通の障害となっていたが、これらの関所を廃止した。
また、有名なところでは安土城下町の楽市・楽座があるが、元々南近江の六角氏が行っていたものに目をつけたのである。尤も、六角氏も信長も座を完全に否定しているわけではなく、必要に応じて座の保護をしている。

信長は最初法華宗に心を寄せていたようだが、フロイスら宣教師等と関わってからはキリスト教にも興味を示した。側近の法華宗の使僧の反対を無視してキリスト教を公認し、安土城下に教会を設けるといった具合である。
しかし、信長は結局どの宗派に心を寄せたというものではないようだ。例えば、天正7年に法華宗僧侶と浄土宗僧侶に宗論させて、法華宗僧侶を敗北に追い込んでいるが、これは宗徒たちの活動を教義の上から抑える為であると思われる。


さて、信長は日本の中央部を制して安土城を構え、最早彼に対抗できるのは東の北条と西の毛利くらいになっていた。
しかしもう一つ、これまでも散々信長を苦しめてきた石山本願寺が天下統一の行く手に阻んでいた。信長はこれを討たんと天正4年4月に軍を遣わした。が、逆に攻め立てられてしまい、信長自ら出陣となった。
また、前将軍義昭が毛利の領国備後に飛び込み信長追討を依頼、次いで武田・上杉に挙兵するように飛札を出している。
また、紀伊では畠山貞政と根来、雑賀衆が結んで挙兵し、信長は西と南に敵を持つことになり、再び一揆勢に備えねばならなくなった。

(NINN)



  • 実験してみた。 -- スフェ (2010-04-04 22:25:10)
  • いいですね。 -- しらは (2010-04-04 22:25:40)
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最終更新:2010年04月11日 19:18
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