+ | 鎮西の波瀾 |
鎮西の波瀾
本州で戦いが繰り広げられながらも、戦火は九州へと移りつつあった。本州で勢力を伸ばした大名にとって九州は、全国統一のために避けられない場所だからだ。 当然、そこを制圧しようとする大名たちが台頭してくることとなった。 たとえば、織田信長。彼は1575年ごろに、家臣の明智光秀、丹羽長秀を改姓させた。おそらくこれは、彼らにその地を知行させようとしたものだと思われる。
つぎに九州に兵を進めたのは、羽柴秀吉だった。信長が九州に手を伸ばした10年後のことだ。もっとも、秀吉はすぐに九州を支配することができずにいた。なぜならちょうどこのころ、九州では大勢力同士の対立が繰り広げられていたのだ。
それは、大友氏と島津氏だった。彼らにまとめて命令を与えようとして、秀吉は島津氏に大友氏との和平を迫った。しかし、島津氏はこれを拒否。 ところが、ここで予想外のことが起きた。大友氏がわざわざ秀吉のもとまでやってきて、島津氏の侵略を訴えたのだ。この態度に気分をよくした秀吉は、島津氏の征伐を約束した。 まず秀吉は、九州に国境を定めた。 ここで、すこし時間を戻す必要がある。ちょうど、九州に大友、島津、龍造寺(竜造寺)の大勢力が存在していたころの話だ。なお、このころは信長がまだ生きている。
このころ、龍造寺氏は中国地方の毛利氏と手を組み、大友氏と対立していた。大友氏のほうが優勢だったのだが、大友氏も油断はできない。龍造寺・毛利の連合が恐ろしいだけでなく、傍観しているだけの島津氏の動きが読めないからだ。大友氏は身動きがとれないままだった。
一方龍造寺氏はというと、つぎつぎと九州を平定しつつあった。大友氏は段々と不利になってきた。動かないほうが賢明だったのかもしれないが、大友氏はそうもいられなくなった。 日向の大名である伊東義祐が政治的理由で亡命した(――1)。亡命した義祐は大友氏(宗麟)に支援を請う。宗麟は承諾し、島津攻めを決意する。 しかし、島津氏の軍勢はそう簡単に押し退けられるものではない。戦線は後退していき、耳川の戦いで宗麟は、大きな被害を受けてしまう。宗麟は戦意を喪失(――2)、その態度に失望した家臣たちは、つぎつぎと宗麟のもとを離れていった。
こうして宗麟は、四面楚歌ともいえる状態になってしまう。それでも宗麟は諦めるわけにはいかない。この壊滅状態の中でありながら、彼は龍造寺・毛利連合と対立を続けていた。
この緊張状態の中、1つの事件が起こった。肥後の城親賢が大友氏を裏切ったのだ。危機的状態にあることを認識した宗麟は、すぐに信長の支援を得ようとした。信長は和解するように、と命じた。しかし、状況は変わらない。 ついに信長は、島津氏に対して警告を突きつけた。もし和解しなければ、武力を持って制圧する。 同時に信長は、毛利氏の制圧も考えていた。宗麟を支援し、毛利氏を成敗させようとした。 なお、毛利氏と連合を組む島津氏は、徐々にだが大友氏と和解しつつあった。このせっかくの和解を台無しにしたのが、本能寺の変だった。
圧力から解放された島津氏は、すぐに大友氏の征討をはじめる――かのようにみえて、そうではなかった。
以外にも最初に島津氏が滅ぼしたのは、島津氏と同盟関係にあった龍造寺隆信だった。有馬晴信(――3)という大名がいるのだが、彼は隆信の侵略を受けていたのだ。困った晴信は、島津氏に助けを求めた。島津氏はこれを受諾、隆信に攻撃を仕掛けたのだった。龍造寺の家系は続くものの、この戦い以降龍造寺氏は没落していくこととなった。のちに、家臣の鍋島氏が実権を奪ってしまった。 さて、島津氏はその絶大な軍事力でつぎつぎと大名たちを吸収していった。九州勢力はほとんど島津氏に仕え、いまだに降伏しない大友氏が目立つようになっていた。ここで秀吉が待てと島津氏に命じた。島津氏は命令を無視し、秀吉はついに九州の戦乱に介入をはじめた。秀吉はその軍事力にものを言わせ、西日本の大名たちに島津攻略を命じた。そのなかには、毛利氏もいた。これで大友氏は安泰に見えたものの、そうではなかった。大友氏に属する鶴ヶ城という城が、島津氏に侵略されていた。これを助けようとした秀吉側の武将たちは島津氏に攻撃を仕掛けるが、惨敗する。結果として大友氏は島津氏に包囲され、豊後のほとんどを支配してしまう。 これを見た秀吉は、1598年に九州に向けて出発した。島津氏は動揺するが、反撃の機会を狙う。しかし秀吉には勝てず、島津氏は敗北する。ついに島津氏は降伏した。 こうして九州は平定され、そのすぐあとに大友宗麟は死去した。
最後まで戦っていた島津義久は秀吉に許され、本領を安堵(――4)された。また、秀吉の勝利に貢献した大名たちには、あたらしく土地が与えられていった。
ここで秀吉は、1つの土地に目をつけていた。戦乱ですっかり荒れてしまった港町、博多だ。明国との貿易を必要だと考えた秀吉は、五奉行(――5)を結成し、復興を目指した。しかしこの貿易、断れば直ちに出兵するという脅迫でもあった。それほどまでに大陸との貿易を重視していたのだ。 ここで、考えようによっては天下の拠点は大坂から博多に移ったのではないかとも考えられる。
ところで、秀吉はキリスト教をどうみなしたか。
当初秀吉はキリスト教を禁止しなかったが、キリシタンたちの活動(――6)を看過できず、やがて禁止に踏み切った。 ところが、キリスト教に対抗するために仏教を大切にする一方で、キリスト教国との貿易は認めていた。このことから、禁教令も中途半端な結果になってしまったのではないだろうか。
(ほたるゆき)
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+ | 北野大茶湯 |
北野大茶湯
秀吉が九州から帰ったころには、聚楽第はほとんど完成していた。これは秀吉の家、あるいは家康婦人の旭姫の居所ではないだろうか。 聚(あつめる)楽(楽しみ)第(家)、つまり楽しみを集める家だ。ここには千利休(――1)の茶室があるのだが、それも楽しみの1つなのだろう。
利休をこのように優遇する一方で、秀吉と利休の茶には決定的な対立があったとも考えられる。
まず、利休の茶は庶民的生活を強調したものだった。ところが秀吉は逆。権力や富を誇示するものだった。黄金の茶の湯がいい例だ。つまり、本来利休が考えていたものとは決定的に違うのだ。 そんな秀吉に利休は、妥協せざるを得なかった。北野の拝殿の中には、秀吉の意図を組み入れた「金之御座敷」を用意していた。ほかにも数奇を凝らしていて、壮観なのだが。 残念なことに、この茶会は1日で中止となった。
このとき、突然肥後で一揆が起きたのだ。
佐々成政という大名の支配が、秀吉の命令にそむいており、動揺が起きた。当然反対が起きるが、成政はそれを武力で制圧しようとした。 ところがあまりにも一揆に参加した人数が多かった。一揆は九州全体に広がってしまう。制圧してもつぎの一揆が起き、もう1度制圧してもさらにまたつぎの一揆が起きる。この繰り返しに苛立った秀吉は、小早川氏に命じて一揆を鎮圧させた。 成政は秀吉に謝罪するために大坂へと向かったが、摂津の尼ヶ崎にて自害させられた。のちに秀吉は、成政が治めていた地である肥後を、加藤清正、小西行長の2人に任せた。それぞれ、隈本、宇土を任された。
北野大茶湯の話に戻ろう。
中止になった理由は肥後一揆という外的要因だけでなく、内的要因もあるのではないか。内的要因にはこの2つがあげられる。 1つ目。利休が秀吉のためだと思い、あまりにも堺衆を排斥しすぎたということ。 本来堺衆の指導下にあったにもかかわらず、彼らは排斥された。それが秀吉としては気に食わなかったのではないか。 2つ目。秀吉が博多衆に関心を持っていたということ。 『鎮西の波瀾』でも述べたように、天下の拠点は大坂から博多に移りつつあった。このことから秀吉は、堺よりも博多に関心を持っていたのではないか。
博多に関心をもつのはなぜか、もちろん明・朝鮮の支配を視野に入れているからだ。このとき秀吉は、日本国内(関東)よりも明・朝鮮の支配を望んでいた。
秀吉はこのころ、後陽成天皇に行幸(――2)を願った。行幸は受諾され、秀吉はその状況下の中で諸大名に絶対服従を誓わせた。 結束が固められる一方で、いまだ服従に至っていない北条氏の問題が浮かび上がってくるのだった。
ところで、後陽成天皇によって訪れられた聚楽第はどうなったか。これは、秀吉の甥、秀次が切腹した(――3)ときに取り壊された。そのため、どのようなものかよくわからないようだ。
この破壊は引っ越しのためだろうか。ちょうどこのころ、伏見城(――4)を造っていたのだ。そちらに移した、とも考えられる。しかし、結局のところはわかっていない。
ところで。安土城は権威を主張し、大坂城は豪富を主張している。ならば、この伏見城はいったいなにを主張しているのか。もし聚楽第がこちらに移されたとしたら、遊楽を主張しているのではないだろうか。
これら3つを合わせてはじめて、黄金となるのだろう。
黄金といっても、ただの比ゆではない。この時代、金銀の産出量は一気に跳ね上がったのだ。灰吹き法(――5)の成功がその陰にある。
この貴金属を使い、秀吉は硬貨を作った。こうして、貨幣統一を行った。 その目的の中には、中国からの独立、そして日本の統一があったに違いない。
(ほたるゆき)
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+ | 関東の風雲 |
関東の風雲
毛利、北条は典型的な戦国大名といえる。なぜなら彼らは、まず荘園制(――1)にとらわれていない。しかも郷村制を基盤とし、知行国制による支配を行ってきた。 その中でも北条氏(――2)は支配を大成功させ、群雄の模範とされている。 群雄の模範とされる理由は、やはりその勢力の大きさだろう。独立し、京都と対立する関東管領の支配地域を継承しているのだ。 また、北条家の祖である北条早雲から戦国のおわりまで没落することがなかったことも考えられる。
北条氏はその勢力を保ち続け、決して滅びることはなかった。妨害を避けながらも着々と支配を進め、関東の最大勢力にまで上りつめた。
だからこそ当時日本でもっとも勢力を持っていた秀吉が、目をつけないはずがない。北条市の領土小田原は、秀吉に狙われていた。
秀吉はまず北条氏の姻戚である家康を通して、さまざまな要求を突き付けた。北条氏の当主氏直ははじめ要求に従わなかったものの、やがて要求どおり上洛した。
ここで氏直は、ある事件を起こした。真田昌幸に与えられるはずだった名胡桃城を奪い取ってしまったのだ。これはれっきとした違反で、秀吉は激怒する。 小田原攻めのはじまりだった。
小田原攻めは、北条氏にとっては危機的な出来事だった。2つの予想外が存在したのだ。
1つは、信頼していた家康が味方にならなかったこと。もう1つは、伝統的な篭城が通用しないことだ。 北条氏は困り、伊達政宗に援軍を要請する。しかし政宗は動かない。それだけでなく、裏切られてしまった。 戦争は止まることなく、北条氏はやがて追い詰められていく。絶体絶命の危機の中、さらに悪いことが起きた。 秀吉が自ら指揮をとったのだ。これが、石垣山の陣と呼ばれる戦いだ。
秀吉は小田原を長期にわたる戦いの末に平定しようとしていた。長期戦のほうが数に勝る秀吉にとっては有利に見えるが、じつは問題点もある。
たとえば食料。実際秀吉は、石垣山の陣がもうすこし長ければ、撤退せざるをえないほど食料に困っていたようだ。 つぎにあげられるのが、士気だ。長期にわたる大仕事を成し遂げるには、かなりの精神力がいる。武士たちも例外ではなく、段々と士気は下がるものなのだ。 これを防ぐために秀吉は、京からたくさんの娯楽を用意していた。余裕のある陣を目指し、見事成功したといえる。
一方篭城する北条氏は、悲惨なものだった。結論の出ない評定の繰り返し、それによって和議へと傾いていった。極度の緊張状態による精神的崩壊だと思われる。
北条氏はなんとか織田信雄に和議調停の依頼を申し出て、北条氏は降伏した。 北条氏直は高野山に追放され、父である氏政は自害。氏政の弟(氏直の叔父)氏照もまた、自害した。こうして北条氏は、事実上滅亡した。
小田原を平定した秀吉は、すぐに小田原城に入った。そこで論功行賞として、小田原攻めに参加した武士たちに土地を与えた。
ここで注目したいのが、徳川家康だ。彼は関東の地の多くを与えられた。これが、のちの江戸幕府への基盤になったと考えられる。
さて、ここで小田原からいったん離れよう。少し時間を巻き戻し、奥州について語らなくてはならない。
ここは、伊達政宗が支配していた。彼は父を失い(――3)、何度も大名たちの抵抗を受けながらも勢力を拡大してきた武将だ。
秀吉は、奥州もまた全国統一のために必要だと踏んでいた。だからこそ、政宗との関係が険悪になったのは必然といえる。
秀吉が小田原に着陣したのは、まさにこの状況下でのことだった。 戦の最中、政宗は秀吉のもとへと向かった。その態度に秀吉は機嫌をよくし、政宗が攻略していた会津の没収だけで済まされた。仙道(陸奥の中仙道)を中心とした70余万石は、安堵されたのだ(――4)。 この際、秀吉は政宗を高く評価していたようだ。
1590年、秀吉は奥州に向けて出発した。伊達氏が奥州の最大勢力だったから、ずいぶん楽に進んだようだ。
早くから秀吉の味方をしたものは優遇し、遅れたものには相応の処分、そして来なかったものは罪とした。 ちなみに、ちょうどこのころ奥州の津軽氏、南部氏の間で敵対関係がはじまっていた。秀吉が来ても解決せず、この対立は江戸時代になっても続いていた。
奥州を平定してからまもなく、葛西、大崎にて一揆が起きた。原因は領主であった木村氏のひどい政治によるものだ。
これに対して秀吉は蒲生氏郷、伊達政宗に命じて鎮圧させようとした。ところが氏郷が政宗の態度に不安を感じ、政宗は裏切ろうとしているのではないかと疑う。結局氏郷は、単独で一揆を鎮圧し、木村氏を助け出した。
この騒動のためにしばらく政宗の風当たりは強くなるが、のちに解決する。1591年、平定したその土地は政宗に与えられた。
これが、つぎの騒動への伏線となるのだった。 この土地をめぐって、九戸政実の乱が起きた。しかし石田三成、大谷吉継、上杉景勝などの、のちに関ヶ原とかかわりの深い大名たちがそれを見逃さなかった。彼らは迅速に兵を出し、この反乱を鎮圧したのだった。
(ほたるゆき)
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+ | 検地と刀狩 |
検地と刀狩
秀吉が大仏を建立しようとしたのは聚楽第完成のころである。この理由は様々なものが渾然としていると考えられる。これについて一つ挙げるならば聚楽第と対となって秀吉の人生の愉楽を、物質精神両面から体現していると言えるだろう。これが建てられたのは六波羅の辺りであり、頼朝や清盛を理想とする秀吉にとってもぴったりの場であった。 この大仏殿造営の基礎が固まるころ、秀吉は刀狩令を発布する。これは土一揆を弾圧するものであり、また百姓と武士を峻別して兵農分離を図るものであった。 中世の荘園制においても徴税の為に田地の台帳が作られていた。しかしこれは大まかに百姓からの税を把握する程度のものでしかない。それゆえ、より強固な戦国大名体制が確立すると、検地が行われた。しかしこれは領主へ自主的にその地の状況を指し出させる指出検地であった。これに対して秀吉は役人を送って調査する検地を始め、統一的な規格に全ての田地を置いた。これは社寺・土豪の強い反発を受けたものの、秀吉はその権力を背景として検地を推し進めた。この時に土地はその収量である米の石高によって計算されている。この検地によって登録された百姓は、土地持ちとして認められるものであり、後の本百姓成立に益することになる。 逆に土地を持たぬ者は、この時期にかけて一所に集住させられることになる。これが所謂部落の形成であり、これは現代まで連なる問題となる。 このころ人望のあった豊臣秀長が亡くなっている。そしてそれから間もなく千利休が追放され、まもなく切腹させられている。これについては様々な説があるが、一つに利休の茶器鑑定に対する不信、また大徳寺山門に利休の木造が置かれたことを理由とする、という。また、集権派・分権派の豊臣政権内二派の、東国政策における対立に起因するものとする説もある。 この際、京の町衆は落書によって痛烈な皮肉を加えている。秀吉は聚楽第を中心とし、堤を築くなど京都の城下町化を推進したものの下京の激しい抵抗に遭い失敗。後に聚楽第を放棄して伏見へと移っている。 (Spheniscidae) |
+ | 無法な「天下」 |
無法な「天下」
朝鮮とは1567年以来通行が途絶えていたが、秀吉はこの国交回復の処理を任されていた。しかしこれについて秀吉は唐・南蛮をも支配下にいれるという思考を持っており、貿易もこの中で処理されることになる。秀吉のこの思考は、土地を媒介とした国内に適用される大名制度の拡張にすぎず、つまり無法な「天下」の拡張であった。 外交方針もこれに則り、朝鮮に対して独立を侵すような強硬的態度とそれを飲ませるための妥協的態度によって外交は行われた。これはゴアなどに対しても行われている。 このような情勢下で朝鮮出兵は現実味を帯びることになる。名護屋城建設の運びとなっても朝鮮側は和平に応じず、結局秀吉は朝鮮出兵の命を下すことになるのである。秀吉は関白を辞して以て太閤となって朝鮮出兵に専念することになる。諸大名はそれぞれ地域に応じて軍役を課され、それは重い負担であったと想定される。 文禄元年三月、第一陣は出陣して釜山を襲ってこれを落とし、これを以て朝鮮出兵は開始された。五月には首都漢城を落城させて軍事的優位を見せつける。さらに六月には平壌をも陥落せしめ、秀吉もまた渡海の準備を行った。しかしこれは結果的に中止となる。これは制海権を朝鮮水軍によって握られていたからであり、また後陽成天皇の宸翰もあったからである。 このころ、明が朝鮮へ援軍を繰り出している。この結果平壌を守る小西行長は敗北。明軍は漢城に迫るも、小早川隆景・立花宗茂らによって碧蹄館にて敗れ、撤退している。 この結果、明側の李如松、日本側の小西行長によって講和の会談が持たれることとなる。この際秀吉が提示した条件は非常に厳しいものであったが、行長と明側の沈惟敬によって条件を弄ることによってまとめられた。しかし、秀吉にこれが暴露するに至って秀吉の激怒を買い、再び朝鮮出兵は取り行われることになる。 日本軍は、朝鮮の苛政からの解放軍とて最初こそ歓迎されたが、検地や国割が行われるに至って一揆の激発を呼んだ。日本軍の軍規は厳しかったが、鼻を削ぐといった残虐行為もまた行われたのである。また、一向宗の布教による順化なども積極的に行われている。 しかし朝鮮の一揆は激化し、これに加える飢饉・疫病もあって日本軍の戦力は漸減した。再征では朝鮮・明軍によって苦戦を余儀なくされており、秀吉は慶長三年、既に終わりを予測して撤退令を下している。 (Spheniscidae) |
+ | 花と夢と |
花と夢と
1592(文禄元)伏見の地に築城が始まった。大政所(秀吉の母)が亡くなり、秀吉の心は空虚に満ちていた。築城の動機は、隠居所を求めることであった。工事は戦争と並行して行われていた。 伏見城には学問所が取り入れられた。その中心には茶が据えられて、そこに参ずる人は秀吉に仕えた。織田有楽をはじめとし、彼らは千利休を失った秀吉の心を慰めた。やがてその中に古田織部も加わった。この他、秀吉は能にも興味を持っていた。秀吉は素人らしい、無邪気な園芸趣味の持ち主であった。 秀吉は情報局も抱え、自らの業績や言動を書きまとめた記録を出し、自己宣伝に務めていた。『天正記』『太閤様軍記のうち』がそれである。その他謡曲も作らせた。 秀吉は北政所との間に子がなく、長子鶴丸も夭折していたので、実子をあきらめ、養子として甥秀次を後嗣と定めていた。しかし、1593年(文禄二)淀君に再び実子が生まれた。拾丸、のちの秀頼である。秀吉はいたく歓喜したが、秀次との関係はこれによって微妙となる。 秀次は好学であった。秀吉の影響から逃れるためだったかもしれない。彼は石田三成らとはうまくいっていなかった。豊臣政権における五奉行は、現実には関白でなく太閤と結びついているので、関白秀次はなんら執行権限を持っていなかったのだ。秀次は毛利氏と内通し、謀叛を行おうとした疑いをかけられ、自殺させられた。 秀吉もずいぶん老いた。同世代の人間が減っていく時期だ。足利義昭、小早川隆景、吉川元春が死んだ。秀吉はこれらの訃報に強い衝撃を受けたであろう。 秀次を殺して秀頼の地位が安定したかというと、そうではなかった。秀吉は秀頼のために、前田利家を傅とし、越中新川郡を加増し、秀次の邸第を与えた。自身が信長の遺族をどう扱ってきたかを考えると、秀吉は心休まることがなかった。末期に及んで、権力者であれば誰もが抱く猜疑心に囚われ、誰も信じることができなくなったのである。 秀吉は不安を取り除くため、醍醐に豪華な花見を試みた。しかしながらその花見は、かつての北野大茶湯と対比すれば、解放性も社会性もないものであった。一族だけが寂しく集まり、厳重な警備で一般参加は遮断されていた。秀吉はもはや民衆を信じることができなかった。 やがて秀吉は死期が目前に迫るのを感じ、五大老を召して秀頼を委託した。 1598年(慶長三)8月18日、太政大臣豊臣秀吉は六十三歳をもって世を去った。 (Jiyu)
文禄元年に伏見城の築城が始まる。これは秀吉の隠居所としての造営であった。ここに置かれた学問所は、秀吉の側近集団たる茶人たちの集まる場となっている。また秀吉は能も楽しんでいる。しかしここで行われた能は演劇性の強いもので、幽玄を旨とする能の世界の否定とも言えるものであった。
またこの時期、秀吉には後継の秀頼が生まれており、それによって甥の秀次の誅殺を行っている。この事件はただ後継争いのみあらず、関白の印がなければたとえ太閤秀吉の印があろうとも政策を施行できぬ秀吉政権の性格に由来するのではないか、とされる。この状況では関白と太閤の権力闘争を引き起こすことになり、結果的に秀次の敗亡となったと言うことである。 このころ、足利義昭や小早川隆景が次々と亡くなっている。秀吉は醍醐の花見を行っているが、これは非常に厳しい監視のもとに行われたものであり、ここには北野の大茶会で見たような開放性はない。ここに、秀吉の人間不信がよく表れている。 そしてこの醍醐の花見を境に病を得た秀吉は、62歳を一期として死去するのである。 (Spheniscidae) |
+ | 豊国のまつり |
豊国のまつり
秀吉の喪は直ちに発表されなかった。朝鮮にまだ兵が留まっていたからである。1598年(慶長三)徳川家康と前田利家は、徳川寿昌・宮木豊盛を使者として朝鮮に遣わし、和睦して軍を帰させるよう命じた。そして毛利秀元・浅野長政・石田三成の三人をして筑前博多に赴かせ、在鮮諸軍の徴収にあたらせた。太閤の訃を知った朝鮮軍に阻まれながらも、なんとか軍を撤収させる事に成功した。 1599年(慶長四)、豊臣秀頼は秀吉の遺言によって大阪城に移った。利家は秀頼の傅として仕え、三成は利家に近づいて伏見の家康に対抗せんとした。家康は権威を強めるとともに不遜になり、明らかに太閤の法度を犯すようになった。利家・三成は誓約背違を理由にし、五大老の班列より家康を除こうとした。利家・三成派と家康派に五大老は分裂することになる。 1599年(慶長四)利家は細川忠興の周旋により、伏見で家康と会見した。その後家康は病気の利家を訪れる。三成はこのとき家康を襲撃しようとしたが果たさなかった。前田利家は同年死亡し、それにより政治的均衡が崩れた。 三成は自らを除かんとする加藤清正・黒田長政・細川忠興・脇坂安治・加藤嘉明・福島正則・浅野幸長の七将に襲われ、家康の元に逃れた。家康は七将に対して調停を行った。これにより家康は三成に恩義を売り、三成側に勢力を伸ばすことができた。 1599年(慶長四)9月、家康は大阪に下って石田三成の亭に宿り、秀頼と会見した。家康は秀康をもって伏見城を守備させ、西ノ丸にも天守を築いて権威を示した。家康は大阪での執政が始まる。 まず治長を流罪とし、家康暗殺の陰謀を伝えられていた浅野長政・土方雄久を処分した。陰謀の主と言われていた前田利長に対して北伐の意を示した。利長は他意なきを陳じ、生母を人質として江戸に送り、徳川秀忠の第二女を弟利常に嫁がしめることを約束した。1600年(慶長五)には、諸侯が家康に対し臣礼をとるまでになっていた。 関ヶ原の役の動機は、家康の会津征伐にかかっている。景勝の逆心の風説を耳にした家康が、上洛せねば討伐すると告げたのである。景勝は誓書を差し出すも認められず、いわれなき討伐に屈するつもりもなかった。 家康は諸大名に出征の命を下す。途中から毛利氏が加わり、西軍を組織したが、実際の組織者である三成・安国寺恵瓊に対する反感が極めて大きく、団結力を十分に発揮できなかった。これが西軍の敗北の原因の一つとなった。 1605年(慶長十)家康は将軍職を秀忠に譲る。これは徳川氏の政権が秀頼幼少児の期間限定ではなく、永久に世襲されるものであると示す意味があった。江戸と大阪の溝は徐々に深まっていく。大阪夏・冬の陣はしだいに近づいていた。 (Jiyu)
秀吉の死去はすぐには発表されず、まず朝鮮に出兵した日本軍の撤兵が行われた。この撤退は困難を極めたが、島津義弘を殿として何とか成功している。この間、撤退指揮のため石田三成と毛利輝元が博多に居り、これがのちの時代を動かすことになる。このころ、徳川家康が太閤の法度を犯して勝手な婚約を結んでおり、三成はこれを理由に家康の排除を計っている。これに対して家康側の態度を取るものもおり、この時点ですでに関ヶ原の如き対立が鮮明となってきている。このときは両者の間に和睦が成立しているが、すでに矛盾は払いきれぬ状況だったと言えるだろう。
この時期、前田利家が亡くなることで大きく政局は変化することになる。これと同時に武断派による三成暗殺の策謀が起こり、三成は家康邸へとのがれている。この結果、三成は蟄居することとなって家康の勢力はますます拡大することとなったのである。またこれは武断派の背後の北政所、三成ら吏僚派の背後の淀殿という対立も内包していた。 この状況下で家康は大坂城西の丸に入って政治を司ることになる。関ヶ原合戦は、この時に決定された会津征伐をその発端としている。家康が東下すると、この隙を計って三成は実権を握って軍勢を集め、蜂起したのである。しかしこの軍はむしろ毛利一族主導というべきであって、その点でこの対立は毛利と家康の対立であったと言える。しかし内応者がその毛利一族から出たということからその矛盾点が導きだせる。 この関ヶ原合戦後、慶長三年に至って家康は征夷大将軍となって秀頼との主従関係消滅を宣言している。家康は娘・千姫を秀頼に嫁がせるなど歓心を買ってもいるが、その一方で子・秀忠に征夷大将軍を譲るなど独立傾向を示し、豊臣家との対立を深めていった。 (Spheniscidae) |
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