第六巻 武士の登場(竹内理三 著)

+ はじめに
はじめに
 史料やこの巻の趣旨が述べられている。政情不安の中から逞しく生まれてきた武人たちが武士となり、次の時代を担っていく過程をこの巻では述べると説明してある。
+ 東国の叛乱
東国の叛乱
 平忠常が叛乱が1028年(長元一)に京都に達する。この時はちょうど藤原氏全盛期を誇った藤原道長が死亡した翌年であり、 平将門の乱 からおよそ100年経過後のころであった。
 中央貴族は吉日を待つという理由で追討使の派遣を四十余日遅らせることになる。これは彼らが地方叛乱の政治的意義を認識する能力を欠いていたことの証左であり、この点で藤原広嗣の乱や橘奈良麻呂の変に即時即応の行動をとってこれを鎮圧した奈良の貴族たちと異なっている。
 1031年(長元四)忠常は出家して常安と名前を変え、甲斐に降伏する。その後、源頼信を伴った上洛の最中に、美濃国野上で忠常は死亡する。頼信は晩年に河内守となり、八幡神に傾倒し、石清水八幡宮に願文を納めて百年の寿と一家の男女の栄耀富貴を祈願した。多数存在する武神の中、 八幡神 と武士の特別な関係がここから始まることになる。
(Jiyu)
+ 前九年の役・後三年の役
前九年の役・後三年の役
父祖三代の間に奥六都の支配を完成した安倍氏は、関門衣川関をこえて内部にまで進出するに至った。ついに国府に貢物を送らず、徭役(労役)をも務めなくなったので、大守藤原登任は平重成を先方としてこれを攻めた。後に大赦がなされ、頼良は頼時と改称し、源頼義に帰服する。頼義はこれを潔しとせず、頼時を何度も挑発し、ついには受けて立たざるを得ない状況に巻き込む。1062年(康平五)ついに安倍氏は滅んだ。頼義が安倍頼良を鎮圧するために陸奥守に任ぜられてから、安倍氏が滅ぶまでのこの乱を前九年の役と言う。
 前九年の役後、清衡と家衡は奥六郡の取り分が原因で対立するようになる。清衡は遺領を継承する正当な資格を持っていなかったが、それにもかかわらず取り分が家衡よりずっと多かったからである。1087年、家衡が討たれて事件は落着する。一方朝廷では、堀河天皇が八歳で即位し、白河上皇の院政が始まろうとする時であった。この戦いを後三年の役という。
(Jiyu)
+ 武者の家
武者の家
 「さむらい」という言葉は「さぶらふ」という動詞の名詞化によって生まれた。当初は彼らは自由に世界を闊歩する勇者ではなく、高齢者に伺候する者として、福祉制度の一端を担っていた。この制度はやがて衰退し、平安時代のころには皇后宮や中宮に伺候する者を「侍」と呼ぶようになり、身分も遥かに高くなった。武士は誰でも侍というわけではなく、上級武士だけが侍を名乗ることが許されたのである。さらに鎌倉時代まで進むと、御家人クラスとなり、自らの領地を持ち、将軍に仕え、あるいは幕府の役職を担うほどに成長し、これは室町幕府まで続いた。江戸時代となると、士農工商の厳格な身分制度が影響して、武士一般を士=侍と呼ぶようになった。
 もともと武士は武芸に優れた士(もののふ)のことである。朝廷は唐の兵制に倣って軍団を作ったが、弱体化が目立ったので、780年(宝亀十一)、全国から徴兵し国の大小に応じて員数を決めて専業者として武芸を行わせた。これを健児という。これがさらに、兵と呼ばれるようになっていく。兵の道は厳しく、自身はおろか妻子の命にすらとらわれてはならないという価値観があった。一方、敵方の妻子を凌辱したり殺害したりすることは道義に反するとされており、奇妙な思想の対照性を醸し出している。現代人が考える「武士の誇り」という価値観は、この時代の兵の価値観と近く、また源流となっているように思われる。兵は家系が重要であり、猛者といえども親が兵でなければ兵たりえなかった。
 個人的力量では軍事力に限界があると兵は感じ、組織化された軍団を作るようになる。これは軍(いくさ)と呼ばれた。武士団は指導者(諸説あり)の元徐々に肥大化し、前九年の役で飛躍的成長を遂げることになる。
 侍は当初から武士ではなかった。以上に述べた兵たちの、独立独歩の精神がいつの間にか貴族の侍に取り入れられ、そこから武士が生まれたのである。
(Jiyu)
+ 農村の変貌
農村の変貌
 農村の変貌の原因は奈良時代にまで遡る。奈良時代、調・庸・徭役・出挙・兵役などの義務から生ずる負担に耐えかねた小規模家族が、余裕のある大規模家族に寄生して家族の規模が大きくなるという現象が起きた。こうして巨大化した家族の長は、強い家長権力を握り、私営田領主(広大な土地を有し、それを自ら直接経営する大土地所有者)として財をなした。その他、地方の有力者である郡司、国司や軍毅などの官人が私営田領主になる例もあった。彼らは743年の 墾田永世私有法 の施行とともに、即座に大土地経営に踏み出した。
 使われる農民はただ使われるだけではなく、徐々に交渉力をつけてきた。これらの農民を統率するには、統率者が猛者でなければならない。広大な私営田を有した藤原実遠は兵であった。実遠に限らず、当時の兵は武芸専業者であると共に私営田領主も兼ねていた。
(Jiyu)
+ 荘園の経営
荘園の経営
  荘園 は私営田領主の発生とともに生まれた。家族から発生するタイプと、皇室や大寺社、 摂家 などの権力者に寄進するタイプがあった。前者は全国に広く分布し、後者は中央に集中していた。前者は武力による小作人の支配という側面が強く、兵が老齢・病苦その他の理由により支配力を維持できずに没落するという例が多々見受けられた。これらの私営田領主は、中央の権力者の政治的保護により没落を食い止めようとしたため、中央の荘園領主はますますその領地と勢力を拡大した。
 十一世紀になると、国土のほとんどが荘園となった国々が現れる。もともとの私営田領主は土地の権利を全部売却したわけではない。現在の 地上権 の売却のように、一部を売り渡す形を取った。そして支配者ではなく管理者としてその土地に残留するのである。一般にその土地をよく知った者に管理させた方がコストがかからないので、これは買主である中央荘園領主にとっても有益なものだったと考えられる。
 兵は没落した者ばかりではなく、むしろ成長して武士にまで辿り着き次の時代の担い手となった。兵は階級性を持たないが、武士は階級性を持つ。没落しかけた私営田領主が他の私営田領主に寄進する形で、この階級性が自然とできあがった。寄進した者が求めたものは武力や経済力というよりは、専ら政治力であった。すなわち、政治的に高い肩書を持っていることが田舎ではステータスであったので、彼らは寄進によりこの威を得ようとしたのである。この時代は国家から追捕を受けた身でも財宝で肩書を買うことができたので、経済的に繁栄した全国の荘園領主はさらに勢力を拡大していくことになった。こうして肩書により政治権力を得た兵が、家柄として親子相伝の武力を磨き、さらに領主としてふるまうことにより、武士となっていったのである。
(Jiyu)
+ 後三条天皇の新政
後三条天皇の新政
後朱雀天皇が第一皇子・親仁親王(後冷泉天皇)に譲位すると、東宮に立てられたのは藤原氏と関係を持たない第二皇子・尊仁親王であった。後朱雀天皇には他に皇子がなかったのである。これは藤原氏にとって看過できぬ事態だった。関白藤原頼通とその弟教通は、道長についで外戚の地位を維持しようと苦心するが、入内させた女はしかしことごとく皇子を生まない。そうして1068年、後冷泉天皇が崩じると、ついに東宮尊仁親王が即位した。宇多天皇以来実に百七十年ぶりの、藤原氏を外戚としない天皇である。
大学者大江匡房もその学識を高く評価したと言われる後三条天皇の改革には善政が多い。彼の政治のうち、特に後世に影響を与えたものは荘園整理である。当時横行していた、朝廷の許可なく公田を掠め取る所業に歯止めをかけるため、荘園領主から書類を取って一定の審査基準に照らし、及第しないものを廃止とした。この審査の役所を記録荘園券契所という。役人には藤原氏と関係の薄い法学者を起用し、たとえ権門勢の家領であっても審査に例外を認めぬ、過去に類を見ない公正に徹したものであった。そうしてこの強力な公領回復政策によって、受領たちはもはや摂政家が頼りにならぬことを悟り、しだいに新たな権力者のもとへと靡いていったのである。
1072年、後三条天皇は在位僅か四年で位を貞仁親王(白河天皇)に譲る。理由は諸説あって定まらないが、藤原氏の廟堂独占を阻止すべく村上源氏を登用したこと、新たな東宮には源氏を母とする実仁親王を立て、次の親王には輔仁親王を立てるよう貞仁親王に申し入れたことなどから、上皇として政治の実権を握ることで、藤原氏を抑え摂関専制の復活を牽制しようとしたのではないかという説が有力である。
(Shiraha)
+ 院政はじまる
院政はじまる
後三条天皇は譲位の後、院政の間もなく半年で崩御した。翌年には藤原頼通、上東門院藤原彰子が相次いで没し、ここに来て藤原氏の退勢は一挙に顕在化する。
一方天皇家では、白河天皇と中宮賢子に敦文親王が誕生するも四歳で夭死、次いで第二皇子・善仁親王が生まれると、親王六歳のとき今度は母中宮賢子が病没、相次ぐ不幸に天皇は悲嘆に暮れた。それゆえ寵愛した中宮との子である善仁親王に皇位を伝えたいという思いは強く、白河天皇は父上皇の意思に背いて十三歳の善仁親王を東宮にたて、その日のうちに譲位した。掘河天皇である。1107年、掘河天皇が崩御すると、その皇子・鳥羽天皇が即位した。
白河上皇の悲願は成った。しかしかつて後三条天皇によって東宮を予定されていた輔仁親王は日増しに聡明のきこえ高く、周辺にあつまる廷臣も少なくなかった。こうした事情を懸案して、幼帝の地位を守り支えるために、上皇は自ら政治を行う院政を始めたのである。

さて後三条天皇が村上源氏を登用して以来、源氏の官界進出は著しく、公卿の主席は源氏によって占められ、藤原氏による高官独占の図は急激に崩れ去って行った。しかし村上源氏は他ならぬ輔仁親王の主たる支持者であり、白河法皇にしてみればいまだ心もとない勢力図である。
この不穏な空気の中、法皇の権威を決定的なものにしたのは、1113年の冬に起こった永久の陰謀事件であった。輔仁親王と村上源氏が結託して、鳥羽天皇を亡き者にしようとしているという陰謀が密告されたのである。この事件を契機に首謀者の縁者である村上源氏一族は朝廷での地位を次々に失い、村上源氏の勢力は一時に頓挫してしまった。
その後は法皇の思うままである。「今の世のことは、すべてまず上皇の御気色を仰ぐべきか」(大江匡房『江記』)という記述が、以後の法皇の権威がいかほどのものであったかを如実に表わしている。
院の権力が専制的なものになるにつれ、台頭してくる勢力は院の近臣たちである。彼らは廟堂での席次も低く、貴族としては中下級でありながら、受領として蓄えた巨富や親族関係など各々のつてを通じて法皇の信任と寵愛を得た者たちだ。ここに政治力、財力が力を持ち、律令制が済し崩されていく、来たる時代の萌芽を見ることができる。
(Shiraha)
+ 東の源氏
東の源氏
源頼義、義家によって東国にうえつけられた源氏の勢力は、しだいに関東一円に根を張っていった。この勢力拡大の要因は所領の開拓に加えて、前九年の役ならびに後三年の役を通じて関東平氏の郎等化に成功したことにある。特に頼義が平直方の女婿となったことは最大の契機であった。頼義は直方が鎌倉に持っていた別荘を譲り受け、前九年の役にあたって石清水八幡宮を勧請、由比郷に社殿を立てた。頼朝が鎌倉に幕府をひらく基礎はここで築かれたものである。
こうして関東平氏への支配を確立した義家は、しかし源氏の棟梁としてあまりに威望を持ちすぎてしまった。白河上皇は義家を院政警護の武力的背景としてこそ用いたが、義家が荘園領主となり貴族の仲間入りを果たしたような体裁を取ることは認めがたいことであった。朝廷は、衆望の高い彼を完全には排除できず、昇殿許可をもって遇せざるを得なかったものの、決して好ましく思っていなかった。義家はしだいに貴族から疎外されていったのである。
義家を嫌った上皇たちは、彼に代わる武者として弟の義綱を利用した。しかし1106年に義家が没すると、後継者争いが同族のうちに吹き荒れ、陰謀渦巻く主導権争いのうちに一家は全滅、あれよという間に源氏は瓦解してしまう。北面の武士なる親衛隊を組織し、悪僧の強訴に対応するため武力を必要としていた白河上皇が、ここで源氏の内訌を傍観し、あまつさえ壊滅を助長するような処置さえ取ったことには意味がある。上皇にとって源氏はもはや用無しであった。西に伊勢平氏という代わりの武士を見つけていたのである。
(Shiraha)
+ 西の平氏
西の平氏
 伊勢平氏の祖である維衡は、伊勢守に任じられる以前より伊勢に根拠を持ち、大武士団を抱えていることが知られていた。その後維衡の四世に至るころには一代勢力を確立し、そのうちの正盛が六条院へと所領寄進を行ったことが、朝廷内で伊勢平氏の勢力が拡大するきっかけとなった。平氏はこれ以降、院とのつながりを深めてゆき、その庇護のもとで勢力を伸張させてゆくのである。
 また、正盛は源義家の子・義親の反乱の征伐にも成功し、そのことで武名を挙げることにもなった。これにより平氏は完全に源氏へと伍すことが可能となり、源氏と並んで天下弓矢の者と称されることとなる。また従四位下にも任じられ、これは貴族らを驚かせる結果となった。
 その子、忠盛も平氏の拡大に大きな貢献をなした。院との関係深い忠盛はわずか20にして従五位を受け、瀬戸内での海賊討伐を通してその権力基盤を築いた。一方で貴族との関係も保つことにも尽力し、宮廷的素養も身に付けていた。正盛が死ぬと間もなく、忠盛は従四位下に任じられ、その後ついには昇殿を許されるまでに至った。
 この忠盛の躍進の裏には、貿易があった。彼は中国との貿易を握ることで大きな財力を得ていたのである。そうして忠盛は平氏躍進の土台を築きあげて、保元の乱の三年前に死去するのである。
(Spheniscidae)
+ 完成する荘園体制
完成する荘園体制
 後三条天皇によって始められた荘園整理は白河院の代にも続け、院の寵臣でもある受領たちは権門家に媚びず荘園整理を遂行していった。だがこの荘園整理によって荘園は却って国衙領との差異を明確にする結果となり、また荘園整理令上で合法となった荘園については、その権利は盤石となってゆく。則ち、荘園整理令で合法となれば、荘園領主は国から国家的支配権の一部を委譲されたことに等しくなるのである。
 この荘園で働く農民たちを田堵と呼び、その田地を名田とした。田堵の中にも莫大な田地を持つ者がおり、これらを特別に大名田堵と読んだのである。
 これらの荘園は、不輸租権・公事夫役の免除を得ることで、完全な成立を見ることになる。
 この荘園整理には、在家支配の確立・万雑公事の賦課・名体制の編成、という三つの側面があった。在家支配の確立とは、領主による地域ごとの支配の確立である。万雑公事の賦課は、荘園に対する多様な物品・夫役の賦課であり、これを行うために名体制の再編成が行われる。田地を名として編成した上で、田堵を名主として名の私有を認めた上でその賦役を強化したのである。またこの名編成に際しては名主の負担均等化のために均等に名を割り振った場所も存在する。
 こうして、荘園整理の結果として荘園制は強固なものとなった。その結果、都の貴族たちも荘園無くしては生活できなくなっていたのである。この荘園から兵士が編成されるということも多かった。
(Spheniscidae)
+ 法皇と僧兵
法皇と僧兵
 院が武士を重用した一つの背景に、興福寺や延暦寺の強訴が挙げられる。この両寺は、朝廷へ希望が聞き入れられぬ際に神輿や神木を持って朝廷へと押し寄せ、希望を通そうとした。この時に押し寄せたのは、当時大衆・学侶と呼ばれた僧侶たちである。本来、僧侶は国家の公認を得た者に限っていたが、だがやがてそのような規律は崩れ、この時代には僧の数は膨大な数に達していた。彼らは学問を行うよりも武事を好み、それによって寺に武力が蓄えられるようになっていた。
 その上荘園からの兵士が集められており、また堂衆と呼ばれる寺院内の雑務を担当する人間たちも多かった。強訴の際にはその力が結集されることとなり、強大な力を得ることになったのである。
 また神輿や神木も絶大な威力を発揮した。神とは、得てして怒って祟りを下すものと信仰されており、それゆえ傷つけることは憚られた故である。
 これらから寺院の要求を排除する術を朝廷は遂に持つことができず、興福寺(山階寺)の要求ならばどのような非道でも通ってしまうことから"山階道理"という言葉も生まれた。
(Spheniscidae)
+ 保元の乱
保元の乱
白河天皇は子に譲位し堀河天皇が即位、自らは上皇となり院政をはじめた。即位した堀河天皇の方も熱心に政務に取り組んだが、父親の専制ぶりに嫌気がさし、次第に音楽にのめりこむようになり政務から疎くなったが、この為に天皇上皇間で争いが起きずに済んだ。
堀河帝が崩御すると、まだ5歳であった上皇の孫を皇位につけ、鳥羽天皇とした。
上皇は鳥羽帝の中宮として待賢門院を入宮させたが、この時に上皇は彼女と密通し、胤子を生んだ。上皇はこの胤子が鳥羽天皇即位と同じ5歳になると、皇位につけた。崇徳天皇である。
白河上皇が倒れると、鳥羽上皇が院政をはじめた。白河上皇時代の反発で近臣の交代が起き、鳥羽帝の関白であった藤原忠実が重用された。
また、待賢門院と不仲になり、代わって美福門院が入宮。まもなく彼女と上皇の子が生まれると、生後3ヶ月にして立太子、3歳の時に崇徳帝をだまして譲位させ、近衛天皇となった。
また、摂関家の中では父の藤原忠実・弟の頼長の二人と兄の忠通が対立していた。

頼長は博識で、日本一の大学生と称された。多くの書物を読み、集めた書物を自ら設計した、保管に適当な建物に収め、頼長文庫とした。だが、次第に厳格さが度を増し、殺人をも敢えて行うようになり、世の人は悪左府と呼んだ。
兄の忠通は父に厭われていたが、彼も筆の名手などと立派な人物であったが、父と弟の勢力が増したので自衛上対立せざるを得なくなったものである。

近衛天皇は皇子のないうちに17歳で崩御した。美福門院の養子守仁親王が皇位を継ぐまでの中継ぎの天皇として、守仁親王の父雅仁親王が後白河天皇として即位。
これは美福門院と忠通の共謀らしい。頼長は守仁親王に対抗できる人とつながりが無かったし、また本人も妻の喪中など、忠通に対抗することが出来なかった。
さらに忠通たちは、忠実と頼長が近衛天皇を呪い殺したと上皇に密告、頼長は失脚した。

1156年7月2日、鳥羽上皇が崩御したという知らせを聞き、崇徳上皇が駆けつけるが、後白河天皇勢が門前払いし、上皇と天皇の対立が表面化した。双方は武士を集め始めた。
天皇方は先手を打ち、上皇方の者を捕らえ、摂関家の本宅を占拠。この時の双方の勢力は、
崇徳上皇方に藤原頼長(弟)に対し後白河天皇方に忠通(兄)、上皇方平忠正(叔父)に対し天皇方平清盛(甥)、上皇方源為義(父)と源頼朝(弟)に対し天皇方源義朝(兄)といった具合であった。
上皇方の行動が足並みそろわなかったのもあり、天皇方優勢の内に乱は静まり、上皇は讃岐へ流罪、天皇の側近藤原信西の言により、清盛と為朝にそれぞれ自らの叔父や父親をはじめとして、上皇方についた同族を切らせ、源氏の勢力は衰えた。また、祟徳院や敗死した頼長の怨霊がこの後都を苦しめたのは、言うまでも無いだろう。東方的に。
また、この乱の褒美として信西に取り入った清盛に正四位下、義朝に正五位下が授けられたが、義朝がこれを不服として、平治の乱の遠因となる。

(NINN)
+ 平治の乱
平治の乱
保元の乱以後、後白河天皇は親政をしやすい状況にあったにもかかわらず、二条天皇に譲位、院政を始めたために、後白河上皇と藤原信西を中心にした院政派、二条天皇ら親政派、源氏、平氏の間で対立が起きた。

保元の乱のフィクサーであった信西は、少納言藤原道憲が出家した法名である。
大学頭の祖父、文章生の内になくなった父の元に生まれ、頼長にも勝る博学の人であった。
頼長が経学を重んじたのに対し、彼は史学を重んじた。
彼が出家したのは、いつの世とも同じように、学者に対して冷遇の世の中を嘆いて出家したのである。先の保元の乱は頼長と信西の才と学をかけた駆け引きでもあった。
信西は保元の乱の処理で、摂関家とその武力であった源氏に対して大変厳しかった。
摂関家領を没収し、源氏については先に述べたとおり、多くを斬首したのである。
また、権門、寺社の荘園を取り締まる新政七ヶ条を下した。新政に際し、彼らを刺激しない為、寺社への配慮は大変細かかった。また、緻密な計算の元に、焼失した内裏の再建なども行った。
以上信西がもっぱら政務を執り行ったのは、後白河天皇が今様(流行歌)に没頭していたためである。信西は後白河を愚昧な君主と称している。
又、後白河が上皇になると、関白以下他の公卿の圧力もなくなり、勢いも更に強くなるが、自らに頼り、周りから孤立し始める。
彼の運命を決めたのは、藤原信頼が役職を欲したのを阻止して恨みを買ったためである。
1159年、信西の武力的後援者であった平清盛が熊野詣に行っている隙に信頼と源義朝が兵を挙げてクーデターを起こし、信西を討った。清盛が早馬からクーデターを聞いて都に戻ってくると、義朝に従うふりをして、天皇と上皇を内裏から脱出させ、信頼・義朝追討の宣旨を得てこれを討った。こうして衰勢だった源氏を殆ど壊滅させ、時の権力者信西も滅んで、平氏の天下になってゆく。
この二つの乱を通して、平安貴族の権威の弱まりは明らかとなった。
(NINN)
+ 平清盛と平氏政権
平清盛と平氏政権
保元の乱・平治の乱により武士団内の対立勢力は失われ、唯一残った平氏の棟梁平清盛は公卿となる。これより先に武士が公卿となった前例はない。天皇親政派に対抗しようとする後白河上皇の図らいと、彼自身の巧みな政界遊泳術により、昇進に次ぐ昇進、1167年には従一位太政大臣となった。
清盛の昇進に連れて彼の一家一族も相次いで昇進する。権中納言は平氏の参列により異例の十人となり、殿上人は三十人を超えた。諸国の受領や諸司にも次々任じられ、廟堂の大半は平氏一族で占められる。平氏の勢力はいよいよ最盛期を迎えていた。『此一門にあらざらん人は、皆人非人なるべし。』
やがて二条天皇が六条天皇に譲位後まもなく崩御すると、後白河上皇の意向により六条天皇は憲仁親王に譲位する。高倉天皇である。清盛は高倉天皇に自分の女徳子を入内させ、外戚の地位を得ようと画策する。果たして1178年には皇子が誕生、後の安徳天皇である。
この皇子の誕生は清盛を大いに感激させた。感激の裏にあるものは、反平氏の風潮強まる中、平氏政権の武力的背景の脆弱さという平家発展の不安要素である。もともと伊勢平氏は源氏勢力を斥けるために白河法皇によって取り立てられた成り上がりものである。武士としての基盤を整える暇はなかった。平氏の進出は武士団としての成長・発展ではなく、白河・鳥羽・後白河三代の法皇の戦略的引き立てによるところが大きいのである。故に平家にとっては、公卿と受領を占め天下の国政を我が物とする往年の藤原氏の手口が望むところであった。そうして外戚の地位を得ることは、まさにそのための橋頭堡であった。
地方行政を蔑ろにした全盛期の藤原氏に対し、平氏は知行国主や受領を一門で占めた。蓄財もさることながら、全国に平氏勢力のにらみを利かせることを目論んだものであった。また経済的な基盤を固めるために宗との外国貿易政策を重んじ、巨利を博すとともに、書物などの輸入を勧め学問の進歩にも貢献した。こうして平家はあらゆる面における地力を着実に蓄えていった。
(Shiraha)
+ 奥州藤原氏
奥州藤原氏
陸奥・出羽の二国に目を転じる。東北を支配していたのは奥六郡の主清原氏の遺産をついだ藤原氏である。当時の陸奥・出羽の生産力は畿内に匹敵するほど高く、数多くの特産品や金による経済力もあり、自立的に平和と繁栄を誇っていた。
奥州藤原氏の繁栄は特に清衡・基衡・秀衡の三代に見ることができる。初代清衡は後三年の役で源義家を利用し、戦後は彼を奥州から遠ざけることで奥羽両国にまたがる主権者となった。安倍氏の血をひき清原家をつぐ彼が主権者となることに在地の反対はない。彼が苦心したのは自らの地位を中央に認めさせることであった。清原姓ではなく都に通りのよい実父の藤原姓を用いて関白家との連絡を図り、やがて国守の権力を無力化することに成功する。
清衡の死後、跡目を相続したのは二代基衡である。彼は父清衡の摂関家に対する妥協を排した。たとえば悪左府藤原頼長の年貢増徴要求に対しても厳しく応じ、ついに初案の半額以下で押し切った。基衡の代にあって、奥羽の聖域化はいっそう固められることになる。
基衡の死去直前、京都では保元の乱が起こり、時代は変転の機を迎えていた。これを受けて奥州は政治的にも文化的にも成熟し、中央と対等の地位に上り始める。
こうした背景の中、三代秀衡が当主となる。あらゆる勢力と連携を図ろうという平清盛の取り計らいによって、1170年に鎮守府将軍に任ぜられ、翌年には陸奥守となったが、秀衡は奥州は奥州であるという独立的な立場を貫き、ついぞ平氏にも源氏にも靡かなかった。
やがて平氏は滅び、源頼朝は天下統一に動き出す。頼朝は秀衡に対し、中央との連携を断つ申し入れを送り牽制するが、ここでも秀衡は奥州を独立勢力として守りぬく態度を貫徹した。1187年、兄弟間の相克を危惧し、一家一丸となって頼朝に対抗することを言い残して死去。しかし彼の一家結束の遺志も敢え無く、彼の死後まもなく奥州藤原氏は滅びることになる。
(Shiraha)
+ 孤立する平家
孤立する平家
 平清盛の女、盛子の夫である摂政藤原基実が若くして死亡し、清盛はその家領を一手に握ることになった。これにより清盛は高い官位と日本最大の荘園領主の地位を併有することになる。しかしこれは当時の慣例に反した政治的な工作であったために、世間の反感を強く買う結果となる。事実盛子が死んだ際には、異姓の身で藤原氏の家を伝領したため、氏の明神(春日明神)から罰を受けたのだと噂された。二条天皇が崩御すると、もともと親皇派であった清盛は院と対立し始める。後白河法皇はさまざまな口実をつけて平家を弾圧する。
 1177年(治承元年)に加賀守藤原師高が白山領を焼き払う。法皇は大衆の意に反し座主明雲の職を解き、伊豆に流してしまう。これを聞いた大衆は大いに怒り、明雲を脱却する。法皇はこれを謀反とし、比叡山追討を清盛の弟経盛に命じる。経盛がこれを断ったので、清盛に命じてこれを承諾させた。 永久の強訴 により大衆の威力を認識していた清盛は延暦寺との連携を強めていた。法皇は平氏と延暦寺を衝突させようといった意図を持っていたのである。
 ところがその翌日、院の近臣集団が清盛追討の計画を立てているとの内通が届き、事態は急変する。院は平氏と対抗しうる軍事力を有していなかったので、事件の処理は平氏主導で進められ、あるものは殺され、あるものは流された。清盛はこの 鹿々谷事件 により、院が対立者であることを明確に認識するに至る。
 1179年盛子が没すると、法皇はその家領を没収してしまう。これによりついに清盛の堪忍袋の緒が切れ、数千騎の武士を率いてクーデターを起こす。法皇は仰天し陳弁したが清盛は聞き入れず、法皇を鳥羽殿に幽閉する。こうして清盛の軍事的独裁政治が始まった。
 しかしこれに対する反発の芽は既に崩じていた。1180年(治承四)に高倉上皇は社参(神社に参拝すること)を厳島神社に行うと発表した。これは清盛をなだめ、後白河法皇を幽閉から救い出す意図があったと考えられている。しかし慣例に反したこの社参に大衆は蜂起する。この蜂起により、今まで対立をしていた園城寺・延暦寺・興福寺が連合を強め、対して平氏は孤立していく。
(Jiyu)
+ 内乱から源平合戦へ
内乱から源平合戦へ
 平氏は旧貴族や大神社のみならず武士からさえも孤立してしまう。成り上がるスピードに即した統治体制を構築することができなかったからである。貴族、神社、大衆、武士その他多くの勢力の反感が集積した後に起こることは唯一つ。内乱である。
 1180年、東国伊豆で 源頼朝 北条時政 の支援を得て源氏再興の旗揚げをする。これが嚆矢となり、全国から次々と反逆者が現れ始める。延暦寺も源氏の軍門に下り、園城寺もこれに続いた。
 平氏もただやられるばかりではない。平知盛、平資盛、平清綱はそれぞれ別ルートから近江に向かい、たちまち源氏を逐電させる。そして近江の武士の三分の二を味方につけ、頼朝打倒を目指し始める。
 しかし寺院の結束は強かった。延暦寺と園城寺は結託して近江の平氏軍を討とうと計画を立てる。数日後さらに延暦寺も加わり、叛乱の勢いはさらに増していく。
 清盛はついに後白河法皇の幽閉を解き、政務を取るように懇願する。政権を法皇に返したのち、平氏は最後の力を振り絞り、反乱軍と戦う。この時東大寺・興福寺が全焼する。寺院が部分焼失でなく全焼するのは歴史上初のことである。これにより、寺院勢力および貴族を完全に敵に回し、ついに平氏は完全な四面楚歌となった。
 清盛を滅したのは刀ではなく、感冒(風邪)であった。感冒から肺炎を内発し、高熱と頭痛に悶絶しながら、清盛はその激動の生涯を終える。
 仏事を行う間もなく、平氏は平重衡を対象とし源氏との戦いを続けていく。院、源氏、平氏の三社が複雑に入り組んだ奮闘がしばし続き、 壇ノ浦の戦い でついに平氏は滅ぶ。
 源氏の平氏根絶への熱情は強く、決戦の後も追討の手は相次いだ。しかしながら、平氏の生き残りが存在するという言い伝えは多く存在する。それらのほとんどは孤島や山間など、外界と隔絶された環境が舞台となっている。現世から論理的に隔離された幻想的な表象と、華やかでありかつ哀れに過ぎ去った平氏の栄枯盛衰の光陰が、そのような物語の下地となっているのかもしれない。
(Jiyu)
最終更新:2009年12月06日 20:13
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。