第五巻 王朝の貴族(土田直鎮 著)

+ 源氏物語の世界
源氏物語の世界
 源氏物語は紫式部の作であり、書かれた時期は一〇〇一年から一〇〇八年ごろまでの約十年間のうちであろうといわれている。
 源氏物語が一千年間にわたって、国文学の最高地位を確保しているのは、構想の妙や文章が良いからというだけではない。第一に、源氏物語が平安時代中ごろの宮廷を写実的に描き出しているからであり、第二に、人間の運命というものにたいする詠嘆と、男女間の人情の機微とを、みごとに写し出しているからである。
 主人公である光源氏のモデルについての議論は古くから積み重ねられているが、その有力な候補者の一人としては、藤原道長が挙げられる。
 源氏物語の史料としての価値についてだが、これを読めば宮廷生活・貴族生活だけはじゅうぶんにわかるのかといえば、否である。源氏物語は女性である紫式部によって書かれたものであり、男には彼女たちと離れた、別の活動分野があったであろうからである。
(Shade)
+ 安和の変
安和の変
 冷泉天皇、すなわち憲平親王が皇太子に定められた九五〇年、村上天皇の元には、藤原実頼・師輔の兄弟が左右大臣として筆頭の地位にあった。ふたりは共に後宮へ娘を送り込んだが、憲平親王を生んだのは師輔の娘の安子であった。
 村上天皇の第一皇子として広平親王が生まれていたが、外祖父である中納言藤原元方は非力であったため、憲平親王が皇太子となったのである。この元方の怨みが怨霊となって、憲平親王を狂気となさしめたと言われている。
 師輔が九六〇年に、九六四年には皇后安子が、そして九六七年には村上天皇が亡くなり、外祖父および父母の後援をうしなった狂気の冷泉天皇の即位ということになった。
 冷泉天皇即位のとき、朝廷の代表的な有力者は三人あり、それは左大臣藤原実頼・右大臣源高明・大納言藤原師尹であった。
 天皇が異常な人物であったため、外戚関係にない実頼が関白となり太政大臣に任ぜられ、高明・師尹がそれぞれ左右大臣に昇った。
 冷泉天皇には皇子が生まれていなかったため、つぎの立太子が問題となった。東宮の候補としては、天皇の同母弟、為平親王と守平親王の二人しかいず、順序からすれば東宮となるのは為平親王のはずであった。しかし、為平親王は源高明の娘との縁組があったため、藤原氏に警戒され、九歳の守平親王が新東宮となった。
 九六八年、伊尹が女御として進めた懐子に、天皇の第一皇子である師貞親王(のちの花山天皇)が誕生した。

 九六九年、左馬助源満仲・前武蔵介藤原義時の二人が、中務少輔橘繁延・左兵衛大尉源連の謀反を密告した。累は左大臣源高明に及び、これを大宰権帥に左遷することが決定した。高明の占めていた左大臣の職は奪われて右大臣藤原師尹がこれに代わり、右大臣には大納言藤原在衡が昇任した。以上が安和の変の概略の経過である。
 この事件が高明を失脚させるために仕組まれた藤原氏の策謀によるものだということはあきらかだが、事件の首謀者として有力なのは右大臣師尹であろう。また、師輔の子の伊尹・兼通・兼家といった連中も疑わしい。
 この事件を最後として、藤原氏の他氏排斥の運動は終わった。権勢争いは、もっぱら藤原氏の内部で激化することになる。

 この事件のきっかけを作った密告者源満仲は、清和源氏の嫡流である。満仲のすぐれた点は、たんに武力だけではなく、武士たちのなかで、もっとも巧みに中央貴族と縁を結ぶことに成功したその政治性にある。
 満仲が主人にしていたのは、師尹であった可能性もある。すくなくとも、結果として満仲は摂関家のために働き、東国の藤原氏の首領である千晴は失脚したことは明白である。清和源氏が、摂関家の忠実俊敏な番犬として抬頭する経過は、この安和の変において第一段をきざんだのであった。
(Shade)
+ 道長の出現
道長の出現
 安和の変の五ヵ月ののち、冷泉天皇が退位し、皇太弟守平親王が即位した。円融天皇がこれである。外戚関係に変化はなく、実頼が摂政太政大臣の地位にあり、新東宮には冷泉天皇の第一皇子師貞親王が立った。
 九六九年十月、左大臣師尹は病気になり、薨去した。その翌年五月、摂政太政大臣実頼が薨去する。そののちは伊尹が摂政となり、さらに二年後に伊尹がなくなるとその弟兼通が関白としてあとを継ぎ、藤原氏の態勢はくずれない。

 他氏との対決が終わると、藤原氏内部での勢力争いが目立ってくる。そのなかで第一に有名なのが、兼通・兼家兄弟の衝突である。
 兼家は兼通に裏をかかれ、九七七年に兼通が死ぬまで、ながらく昇進を止められていたが、後宮関係には恵まれていた。兼通も頼忠もその娘を後宮に送り込んではいたが、皇子を得たのは兼家だけだった。
 九八四年、円融天皇が譲位し、花山天皇が即位すると、新東宮には懐仁親王が定められ、兼家は次帝の外祖父としての地位が保証された。
 九八五年、天皇の寵愛深かった弘徽殿の女御、忯子が亡くなると、天皇は意気消沈した。この後期に乗じ、兼家の子道兼は蔵人として天皇の側近に使える立場を利用し、天皇に出家をすすめた。そして天皇の外戚である義懐などの裏をかいて、九八六年に天皇を出家させたのであった。
 夜が明けて、懐仁親王が帝位について、一条天皇となった。七歳であり、兼家は外祖父として摂政となり、いままでの関白頼忠は引退した。

 兼家は、一条天皇の、さらにまた東宮居貞親王の外祖父として安定した地位を占め、子供たちの位階官職を強引なまでんい引き上げていった。そのなかに、当時二十一歳の青年、藤原道長がいたのである。
 道長は兼家の四男であり、兼家の長かった不遇期の被害をほとんどこうむることなく、二十三歳で権中納言という記録的な好スタートを切ることができた。そして、それからわずか六年ののちには、父も兄もすべて死亡して、かれ自身が摂関家の筆頭格にのしあがった。
 道長の兄、道隆と道兼が九九五年に流行った病に倒れ、道長と、道隆の子である伊周とが相対することとなった。そして、道長の姉で、天皇の生母である東三条院詮子の推薦により、道長が右大臣に進み、完全に朝廷の首位を占めた。時に三十歳である。
 内大臣伊周は失望・不満をいだいたが、九九六年の正月、伊周の誤解によって、その弟の隆家が従者に、花山法皇へ矢を射かけさせるという事件が起こった。その結果、伊周らは流罪となり、道長と伊周の争いには決着がついた。
 伊周・道隆の配流はごく短くてすみ、ふたりとも数年のうちに本位に復し、道隆はもとの中納言の位にもどったが、もとより政治的に活動することはできず、道長の独走態勢はこの事件で確立した。
 事件の発生から処分まで三ヵ月余をかけて、じゅうぶんに事件の固まるのを見とどけたあたりには、政治家としての道長の非凡な手腕がうかがわれるであろう。
(Shade)
+ 家族と外戚
家族と外戚
 政界首脳部の政権交代の経過を見てくると、そこで問題となっているのは、だれが天皇の外戚に当たるか、天皇の外祖父はだれで、外叔父はだれであるかということであった。外戚とは母かたの親戚のことであるが、なぜ天皇の外戚であることが重要なのであろうか。

 その不思議を解く手がかりのひとつは、当時の結婚生活、家族生活の実態である。
 外戚が尊重されるのは天皇にかぎってのことではなく、当時の貴族全般においてのことだった。その理由は、当時の家族生活において、人間の生誕・生育が父の一族内ではなく、母の一族内で行われるからである。

 同母の兄弟姉妹は成長期はともに暮らすが、邸宅を継ぐのは女であって、兄妹はいずれ外へでてゆく。ただし、本邸を継ぐ女の婿取りについては、一族として父母とともに兄弟もまた一緒になって世話をする義務があるのである。
 他家へ出た男は、婚家先で婿として平均十年から二十年の長きにわたって世話を受けて独立する。住居についてはたいてい妻の一族の世話になる。生まれた子供は外祖父母が第一の責任者として養育する。
 公的には官職・地位や、同氏同族の統制は父系をもって律せられているが、私的には、実生活に密着したものとして母系が強固な力を持っていた。この両面をそなえた姿が、当時の貴族社会の実態なのである。

 貴族が娘を後宮に入れるのは、いわば天皇を自家の婿に迎えるのである。ただ、天皇という公的な立場上、天皇を自邸に迎えるわけにいかないから、宮中の局を自邸の出張所として天皇を迎える形をとるわけである。そして娘が懐妊すれば自邸に下げて、そこで生まれた皇子は外祖父として自邸で一心に養育するのである。
 その皇子が他日皇位につき、摂政を必要とするとき、その任に当たるべき者は、当時の生活の通念として、天皇の外祖父ということになる。それに次いで、天皇の生母の兄弟が責任を分担することになる。

 外戚の立場がなぜ摂政関白の地位と直結するか、それは外祖父を主軸とする外戚の一族が、一家の女子に生まれた幼児の養育・後見に当たるべき義務と権利を持っていた当時の社会の在り方によるのである。
(Shade)
+ 身分と昇進
身分と昇進
身分と昇進

タイトルの通りである。

年2回、定例の人事異動が発表される。これを除目(任官)の式という。
これによっておのおの官位相当職が与えられる。
また、高級貴族の推薦で位(特に五位)を授けられ、これを叙位という。
この際、推薦を受けたものは推薦してもらった高級貴族に推薦料を払い、これが収入の一部にもなっていた。
この2つの為に、どの貴族も挙って自己アピールをする。彼らの位階と職に対する執念は恐ろしいほどであった。

また、先の叙位などで五位を受けたものは国司になることがあるが、本書で散々述べてきたとおり、国司になると言うのは経済的な大チャンスであった。
だが、赴任先の国にもそれぞれ、大・上・中・下とランクがあり、上位の国の国司に任命されたもの、下位の国の国司に任命されたものの喜びよう、悲しみようも大変なものだった。
上記のような位階、職とは別に、昇殿人という、御所で天皇の身の回りの世話をする事が許されている人達が居り、これはとても名誉なことであった。

また、平安中ごろまでには貴族の格の値打ちも下落し、専ら五位以上のみが貴族として扱われるようになった。
そして、そのトップに経つのが四位以上から任命される参議以上の最高幹部達で、おおよそ20名前後である。こういった高級の職になると本人の努力だけではほぼどうすることも出来ず、家柄がものをいう。
(NINN)
+ 中宮彰子
中宮彰子

「道長の出現」の章で藤原伊周を内大臣から失脚させた道長は、正二位左大臣に上る。
ひとまず足場を固めた道長は、一条天皇の後宮に娘の彰子を送ろうと画策する。
一条天皇には伊周の妹の中宮定子が居り、懐妊、後宮から退出していたが、その身に起きた不幸はやはり先述である。
彼女は更に不幸に見舞われ、退出先の中宮御所二条邸が火災に見舞われ、叔父の邸に避難した。後に、更にその叔父の邸も焼け、粗末な先但馬守の家に移った。
そんな彼女ではあったが、天皇の寵愛は変わらなかったのが唯一の救いだっただろう。

998年、道長は病に倒れ死を覚悟したが、半年ほど掛けて回復、この頃には彰子も12歳で、裳着すにも丁度良い年齢となり、入内の準備が始まった。道長は準備に公卿から法皇まで協力を仰いだ。これ対抗したのが中納言藤原実資であった。彼は絶対的な権力を持つ道長に唯一正面から対抗したものである。

彰子は12歳で入内、天皇の女御となった。
道長は立場を更に確かなものとする為、彰子を皇后にしようと奔走。天皇の生母で彼の姉の東三条院詮子、天皇の側近である蔵人頭藤原行成と協力して中宮彰子とした。

こうして皇后定子と中宮彰子の二后が並立。そして1年足らずの内に定子が崩御し、彰子は皇后となり、道長は天皇の外祖父となる資格を手に入れた。
(NINN)
+ 一条天皇の宮廷
一条天皇の宮廷
一条天皇は左大臣で外叔父である道長を関白としなかった。
が、公卿のトップである彼は一条天皇と共に政事を取り仕切った。一条天皇は道長を信頼していた様で、998年、道長が病に倒れて職を辞したいと申し出たときもそれを却下し、再び共に政務を行っている。

ところで、摂関政治と言うと天皇はあたかも摂政関白の操り人形のように思われがちであるが、摂政は天皇が子供であるので置かれるが、その際は天皇の生母の意見がものを言うようであるし、関白は天皇と一々打ち合わせをし、天皇の判断を仰ぐという形である。

そして、この一条天皇の時代の宮廷は優れていたようで、天皇も進んで綱紀取締りを提案、実行させている。この優秀な天子の下には優秀な人材も多数生まれており、それは平安時代後期の学者大江匡房の著書「続本朝往生伝」に記されている。
彼は「時の人を得たるや、ここに盛んなりと為す」と評して八十六名を挙げ、「皆これ天下の一物なり」と結んでいる。
六十八名の「天下の一物」は本文参考の事。

(NINN)
+ 清少納言と紫式部
清少納言と紫式部
 女房というのは、部屋を持った侍女のような存在である。多くの役職が存在しているが詳しい制度はわかっていない。
 この女房のなかで双璧であったのが清少納言と紫式部である。清少納言は定子に仕えた女房であるがその経歴にはわからない部分が多い。枕草子についても様々な議論があるが、それが清少納言の卓越する才智を窺わせる。また彼女は人との応対が上手かったようである。また強気な女性でもあった。定子がいる間、彼女は存分に活躍するが、定子が亡くなると身を引くことになる。それに代わって登場するのが紫式部である。
 紫式部も、彰子に仕えた女房であると言うこと以外はよくわからない。だが『紫式部日記』から彼女の動向を知ることができる。それによると、源氏物語は当時の宮廷でも評判だったようであり、道長がそのスポンサーであったという説も存在する。
 東宮である敦成親王が病であったという『小右記』の記事の中に紫式部が登場するが、紫式部が男の日記に登場するのはこれだけである。そのことから、実資と関係が深かったとも考えられる。
 また紫式部は日記の中で、才智を明らかにする清少納言へ苦言を呈してもいる。
 このように輝かしい後宮であるが、必ずしも女房とすることが歓迎されたわけでもなかった。高貴な家では娘を女房とはしたがらなかった。
 だが、上流貴族が後宮に目を向けたのは事実である。天皇の外戚であることを背景にして政柄を握っている以上、皇子の誕生する後宮もその役割は大きかったのである。
(Spheniscidae)
+ 儀式の世界
儀式の世界
 後一条天皇即位の時、固関の儀が行われた。これを主催したのが藤原顕光であるが、彼は無能として知られており、この儀式の際にも多数のミスを犯す。それゆえ、道長も苦り切った。
 儀式は非常に煩雑であるため、公卿たちは杓に式次を書いた紙を貼るものである。またこのような儀式は多数行われた。しかしそれは形式重視であり必ずしも実用を伴ってはいない。だが、失敗すれば朝廷での笑いものになり、また無能のレッテルが貼られることになるのである。
 この時代が丁度儀式の形式の成立の時期であった。それゆえ、幾つか流派に分かれることもあり、またちょっとした機転で儀式が変わることもあった。
(Spheniscidae)
+ 日記を書く人々
日記を書く人々
 当時の人々は、儀式の次第を書きとめて先例と為すために記録を行った。それゆえ、他の人間にも読まれることを意識した、半ば公的な文書である。また現代の我々からすれば、平安時代を知るための貴重な史料となっている。信憑性を期待できるからである。その点、歴史物語は史料という点ではすこし劣る。
 その例としてまず『御堂関白記』が挙げられる。これが道長自身の日記であり、具注暦の余白に記されたものである。日によって大きく分量も変動する、非常に気まぐれなものである。また漢文法も適当であり、読みにくいものとなっている。
 だが史料を解読することが歴史学者として重要なことであるというのも、また事実である。原典から出発し論を積み上げることが、最も大切なのである。
 この日記を書く以上、教養というものが必要となるが、上流貴族は必要な教養を家庭教師に教えてもらう程度で、あまり懸命に勉強する必要はなかった。。これに対し、中流以下の貴族たちは、漢籍を勉強して大学に入り、そこで紀伝道を学ぶ。その大学に入るために試験勉強が必要になる。
 また、子供は様々な『口遊』を通して基礎的な教養を付けていった。
(Spheniscidae)
+ 栄華への道
栄華への道
 一〇一一年、一条天皇が亡くなり、三条天皇の治世となった。この三条天皇と道長はそりが合わなかった。三条天皇は道長に対抗しうる勢力として、大納言藤原実資に注目し、数々の相談をした。
 三条天皇の東宮時代には数人の配偶者があったが、その一人は道長の二女姸子であり、もう一人は故大納言藤原済時の娘の娍子であった。二人は三条天皇の即位ののち、同時に女御となったが、一〇一二年、姸子が中宮に立ったのに対し、娍子はとり残された。しかし娍子にはすでに六人の皇子皇女があったため、姸子立后のすぐのち、娍子を皇后に立てた。
 娍子の立后に対し、道長は中宮姸子の参内の日取りをぶつけ、いやがらせをした。娍子立后と姸子参内が同じ日に行われれば、公卿以下はこぞって姸子の行事のほうへ集まってしまうことは明らかだったからである。
 このように、三条天皇と道長とのあいだは険悪になり、一〇一三年の賀茂祭において華美禁止が無視されたように、道長はいわば陰でいやがらせをするという手段に出たのだった。

 東宮には道長の外孫である敦成親王があったため、道長は三条天皇の譲位を考え、天皇は退位の遠くないことを恐れた。
 ここで、天皇には、眼病という決定的に不利な現象が起こった。また、内裏の火災も相次いで起こり、道長の譲位要求などもあって、一〇一六年の正月、天皇はついに譲位した。こうして、九歳の幼帝、後一条天皇が出現し、道長は外祖父として摂政の地位を得たのであった。
(Shade)
+ 望月の歌
望月の歌
 摂政となった道長は、一年余で摂政の地位を長男の内大臣頼通に譲った。こうして藤原家の栄達をはかるうえで、問題となったのは東宮敦明親王のことであった。敦明親王は三条天皇の皇子であり、道長の外孫ではないからだ。
 一〇一七年の八月六日に、敦明親王は東宮辞退の決意を道長に打ち明け、三日後の九日には後一条天皇の弟であり、道長の外孫である敦良親王の立太子の式典が挙行された。これがのちの後朱雀天皇である。
 敦明親王は、東宮の地位を退いてのち、小一条院という称号を受け、太上大臣に准ずる待遇を受けることになった。
 一〇一七年十二月、道長は太政大臣に任ぜられた。そしてわずか二ヶ月間でこれを辞し、前太政大臣に変わっている。これは太政大臣という最高の官職が、たんに箔をつけるだけの形式的なものとして考えられていることを示すものといえよう。
 道長が一家繁栄の路を開く最後の布石としてねらったものが、後一条天皇の後宮に娘を送りこむ、すなわち威子の入内・立后という一件であったが、ここまで来てしまえばそれはたやすいものであった。一〇一八年三月に、入内は達せられた。
 一〇一八年十月、威子は中宮に立った。中宮職の職員任命が終わり、威子の自邸である土御門邸で祝宴が始められた。
 この宴の席において道長が詠んだ歌が、有名な望月の歌である。

 此の世をば我世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば

 道長をこれほどまでに喜ばせたものが、すなわち威子の立后による布石の完成である。布石とは、天皇も東宮も自分の外孫で占め、太上太后・皇太后・中宮と、歴代の后の地位を全部自分の娘で固めることにほかならない。
 こうして、道長一家の栄華はその絶頂に達した。道長は威子の立后をもってみずから満足し、そののちは急速に世事と離れて法成寺の建立に心を傾けはじめたのだった。
(Shade)
+ 怨霊の恐怖
怨霊の恐怖
 源氏物語に描かれたようなもののけの話は、実話とはいえないが、そこに現れているようなもののけの活動や、それにたいする祈禱・調伏の様子は、そのままの形で当時の記録に出て来る。
 政治上の陰謀・暗闘の際におだやかな処置と思われるものが多いのも、ひとつには怨霊の祟りを恐れたからではないか。

 邪気や悪霊を払い除く方法はいろいろあったが、密教の祈禱はそのひとつであった。当時の仏教界の主流といえば天台・真言の二宗であるが、これはともに密教をとり入れて加持祈禱をおこなった。
 もののけは人間の死霊・生霊であるが、平安時代の霊界に活動していたのは人間の霊ばかりではなく、動植物も、天体自然も、人間世界に禍福の影響を及ぼすものと考えられていた。これをもっぱら扱ったのは陰陽道である。
 異変があればすぐ占いをするのも陰陽道の役目だった。占いの結果をも含めて、一般につつしむべき非を物忌といった。これに似た謹慎には触穢があり、この触穢の考えは日本古来の潔斎の風習から来たものであった。

 平安時代の人間が、こんにちにくらべて、きわめて迷信深かったのには、多くの理由が考えられるが、やはり当時の社会全体の気風というものから考えてゆく必要がある。
 重大なのは、当時の社会が身分や家柄を主眼として組み立てられていて、自力で運命を切り開いていく余地の少ない、停滞的な社会であったということである。当時の人々が望んだのは権力と富力であり、それは朝廷での昇進によって得られるものであるから、かれらが朝廷の官職を望む心の強かったことは、はなはだしいものがあった。そして、その望みが実現するかどうかは、個人の技能よりも運命の力の作用によるところが大きかったのである。
 運命が、神仏の力を借り、陰陽五行の術を施すことによって好転するとなれば、人々の努力はもっぱらその方向に向けられ、祈禱や法術もそれに応じてますます複雑化して行くわけである。
(Shade)
+ 公卿と政務
公卿と政務
 公卿というのは、摂関・大臣・大納言・中納言・参議の二十人程度の人々を指し、すなわち彼らは太政官の最高幹部である。彼らは陣定と呼ばれる会議に出席し、また持ち回りで儀式の当番を行った。陣定は非常に重要な会議であるが、必ずしも公卿は出席したわけではないようだ。
 また、命令には官符と官宣旨があった。官宣旨は符よりも略式であったが、符と併用されて良く使われた。
 儀式等の当番のことを上卿と称したが、これは非常に大変な物で、滞りなく行うのは非常に難しいことであった。
(Spheniscidae)
+ 刀伊の襲来
刀伊の襲来
 1019年、大宰府から急使が到着した。これは997年の南蛮の賊以来のものであった。これは刀伊という賊が九州を襲ったという事件であった。京都に於いてこの事件は、あくまでそれほど大きな事件として捉えられることはなかったが、実際には九州で大きな被害を齎した事件であった。
 刀伊は、小さな船を多数擁して対馬・壱岐・北部九州を荒らして回ったと言う。彼らは人を攫い、穀物を奪うなどの乱暴を働いた。
 この時、大宰権帥であったのが藤原隆家である。伊周の弟である彼は、豪傑として知られ、また人々に慕われていたようだ。その指揮は正確であったが、賞されることはなかった。
 刀伊は、対馬判官代の調査の結果、どうやら高麗を以前襲った女真族の一派とわかった。彼らは日本を撤退した後、高麗を襲って逆に撃破されたという。これによって刀伊に捉えられていた捕虜は解放され、後に高麗より返還された。
(Spheniscidae)
+ 盗賊・乱闘・疫病
盗賊・乱闘・疫病
 このころ、平安京には盗賊が跋扈していた。この盗賊は、武装集団として平安京を駆け回る暴力団的な存在であった。これらの中には、武士的な人間も多分に含まれていた。彼らは内裏にすら侵入し、様々な所で猛威をふるった。
 このような状況であるから、乱闘も非常に多いものであった。貴族の周辺の世界は非常に荒れたものであったと言える。
 また、放火も頻発した。公卿の家や内裏すら放火の憂き目にあうことになったのである。
 天災も多い。とりわけ、疫病は猛威を振るい、死骸が堀を埋めるほどの死者がでることもあった。とりわけはしかや天然痘が流行したようである。
 これに対して、非常に様々な祈祷が行われた。また医術も様々なことが行われたが、それは迷信めいたものも多く、治療効果に関しては非常に微々たるものであった。
(Spheniscidae)
+ 平安貴族の衣食
平安貴族の衣食
<衣>
男性:束帯
計七枚の衣、袴に加え、革帯、靴下、沓、笏を身につけ、武官や公卿の内で特に許されたものは飾太刀を佩用する。
平常服はもう少しばかり服の数を減らすが、それでも動きづらく、どうも運動不足気味になったらしい。

女性:女装束
十二単というのは女性の正装ではなく、袴、単の上に衣を12枚重ねた桂姿を表している。
正装、古い文献にはよく女装束と呼ばれているようだが、これは十二単に数枚の唐衣や髪飾りを身に着けて髪を結ったりする。
女性は現代と同じく化粧を施した。お歯黒などが有名なところ。
彼女らは天然痘のためにできたあばたを隠したりする為に厚化粧を施したようだ。

また、薫物、つまりお香も好んで用いられた。風呂に入る回数も少ない時代だったので、薫物で体臭を隠した。
また、そういった用途だけでなく、純粋に香りも楽しみ、歌同様、薫物合なども行われた。

衣の部分が贅沢だった反面、食に関してはあわれな程であった。
当時の貴族達が食の事について余り文献を残さなかったのも、食の話題はタブーに近いものだったようであるからだ。

(NINN)
+ 法成寺と道長の死
法成寺と道長の死
この世での栄華の極みに達した道長は、続いて来世の為に動き始めた。
1018年、52歳の頃から体調を崩れがちになった事もあり、翌年には剃髪出家、自邸の東隣に法成寺の建設を決意した。
また、剃髪した頃からか、現役だった頃は様々な肩書きも持っていて責任感も強かったようだが、それらの肩書きを脱ぎ捨てて責任感からも解き放たれたため、少しずつ我侭な振る舞いが見られるようになったようだ。
1021年に法成寺が完成、道長は此処で生活するようになると共に仏教的な生活になり、前年からは御堂関白記も殆どが空白になるようになった。

この法成寺建設にあたり、公卿、一般朝臣、そして特に受領たちから多くの寄付が寄せられた。勿論、道長に名前を覚えてもらうためだ。
この時、最も点数を稼いだのが伊予守源頼光だが、彼は諸国の受領を歴任するあいだに農民達から吸い上げた財で富を築いたと思われる。

この頃になると、農民から不正に取り立てて富を築こうとする郡司や国司を訴えるものが出てきた。特に尾張国などは訴えが多いが、反面、国司の善状、つまり善政を称え、重任を求める、という事もある。
また、集団で上京し国司などを訴えることもある。特に除目、受領功過定、つまり国司の成績判定の前が多く、訴える農民達も様々な情報を得て作戦を作っていたようである。
こういった陳情、訴え、いざこざなどは地方の農民だけでなく、京の中でも起こっていたようだ。

対して国司などは、摂関家に取り入って心証を良くして難を逃れたようである。
つまり、贈収賄である。摂関家も国司たちの賄を受け取って、莫大な財力を築いていったのである。

話を戻して1025年、道長の近親者が立て続けに病に犯されたり、亡くなったりした。
そして道長自身も翌々年の1027年12月3日の未明、62年の生涯を終えた。
(NINN)

+ 浄土の教え
浄土の教え
末法思想に於いて、西暦1052年は釈迦入滅から正法、像法の世を経て2001年目、其れの年にあたる。
平安貴族の政治的大黒柱とも言える道長の死後僅か25年のことである。
そんなことで、この前後には貴族を中心に厭離穢土、欣求浄土が広まった。

極楽浄土の信仰は、比叡山延暦寺で発達し、その流布には空也、慶滋保胤、恵心僧都源信などの存在がある。
空也は南無阿弥陀仏の名号を唱えながら土木工事を各地で行い、京都の街中で人々に念仏を勧め、鴨川のほとりで行った大々的な供養会には左大臣らも出席し、人々の関心を極楽浄土に向けさせた。
慶滋保胤は陰陽道の賀茂氏の出であったが、加茂から姓を改めて詩文の道で名を馳せ、後に出家し寂心と号した。また、彼の弟子寂照は文学の大江家の出で、三河守も務めたが、発心して官を捨てて入道した。彼らは熱心な浄土信仰者で、人に与えた感化も大きかった。

そして、源信は「往生要集」、要するに「どうすれば浄土に入れるか?」を分かりやすく示した、浄土についての名著である。
文章を簡潔にまとめて読みやすい、しかも内容の充実しているものを書くには大変な学識を持っていなくてはならない。その点で彼は優れた学僧であったと思われる。

また、極楽浄土を説くのに、いかに美しい極楽浄土を表現するか、という点から多くの来迎図が描かれた。そこには、当時の日本人が考えうる限りの「美」が映し出されている。

(NINN)

+ 欠けゆく月影
欠けゆく月影
017年には道長の後をついで頼通が後一条の摂政、1019年には関白となっていた。
彼を中心とする摂関家は揺ぎ無いように見えたが、道長を失うというのは、大黒柱が抜けてしまったようなものであるといえる、彼は一条、三条天皇の外叔父であり、後一条の外祖父として、そしてまた公卿の筆頭であり、太政大臣の地位を得、娘を後宮に入れて将来にわたって外戚の地位を確立した、理想的な摂関であった。
頼通は、執政者として十分な人物であったと思われるが、帝王の如し、と称えられた父親に比べると、どうしても劣るように見られてしまう。
その彼の上に、道長が背負っていた責任の全てが帰した。
彼は父の築いた体制を維持するのが精一杯だし、その上、彼は父と違って政敵になり得る有力な弟たちが公卿として地位を占めていた。
道長の時代に彼を支えた実資、行成、公任ら老公卿たちも次々と引退、或いは亡くなっており、必ずしも頼通に協調する公卿たちも減っていった。
更に彼は、後宮に入れた娘達が皇子に恵まれず、外戚体制を維持できなくなった。


かくて摂関家の衰運は明らかとなり、頼通の威令も弱まり、世間では暴徒、乱闘、殺戮が蔓延り、関白邸にも強訴の僧達が押し寄せ、放火される始末。
この頃の騒然たる世間が、道長の姪が記した更級日記に残されている。

1052年には末法に足を踏み入れ、王朝の貴族に代表される平安中期は幕を下ろし、院政期を経て、武士ら新興勢力が台頭してくる。

(NINN)

最終更新:2010年11月19日 01:23
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