第十一巻 戦国大名(杉山博 著) 後編

+ 混迷する畿内
混迷する畿内
畿内の政治情勢に目を向ける。中央の政争で敗死した細川高国に代わり、その追討にもっとも力をふるった細川晴元の被官三好元長は、国内経済の中心地である堺を中心にその勢力を固めていた。しかし高国敗死の翌年(1532)には、元長の主君晴元が木沢長政や三好政長らの讒言を入れて、さらに本願寺証如光教を引き入れ元長を討った。光教率いる門徒勢力は物質的にも経済的にも巨大な力を誇っており、以後信長・秀吉の時代に至るまで畿内の政局を大きく左右する、安定勢力が不在の十六世紀中期の空位時代にあって、ただひとり抜きがたい実力を持っていた存在であった。
元長打倒に端を発した堺への攻撃は、しかし元長が斃れても収まることはなかった。急進化した農民たちの一揆勢は証如の思惑を超えて、やがて各地で晴元・木沢長政派と対立を始めたのである。細川晴元・木沢長政は危急を案じ、一向宗と対立していた法華宗徒の力を利用してこれを鎮圧した。この戦いで山科本願寺は灰となり、証如はその本拠地を大阪の石山に移した。一方、晴元側と一向一揆の対立で漁夫の利を得た法華宗は、にわかに京都で力を伸ばし町政を握るようになっていったが、やがて領主から独立しようとする動きを強めるにつれて圧迫は強くなり、ついに天文法華の乱となった。領主側には叡山の衆徒が加わり、法華宗は町衆勢力を動員してこれに対抗したが、まもなく京都の法華宗は完全に敗北し、宗徒の多数は堺の末寺に敗走した。
こうして農民・町衆らの動きは強引に弾圧され、以後中央地帯の実力者として君臨したのが、三好元長の子長慶であった。長慶は将軍義輝・旧主晴元らの旧勢力と対立・和解を繰り返しながら、本国阿波をはじめ讃岐・摂津・山城・河内・和泉を次々と制圧し、ついに将軍義輝を傀儡化して京都を押さえることに成功する。また1559年には入京してきたヴィレラ神父らに布教の許可を与え、飯盛・三箇城下でキリシタンを篤く保護した。
またこの時期に威力を奮った戦国群雄として、松永久秀が居る。彼は長年相談役として長慶を助けてきた家臣であるが、晩年には堺を握り、主君長慶と肩を並べるほどにのし上がった。やがては主家の打倒を企て、1563年には長慶の子義興を毒殺、ついで長慶の弟安宅冬康を讒してこれを殺させた。また長慶が死ぬと、将軍義輝をも殺している。こうした久秀の急進に対して、三好三人衆と呼ばれる三好長縁・同正康・岩成友通らが制圧に乗り出したが、久秀は反撃に三人衆陣する東大寺大仏殿に火を放ち焼き払うという暴挙に出た。世に言う久秀の三悪事とは、これら三好家への反抗・大仏の焼却・将軍の謀殺である。
しかしこうした勢力者たちもその発想は古く、戦国大名らしい領国経営も示さないまま傀儡将軍を頂く形の政治掌握に終始し、少しも畿内の事態を解決することはできなかった。中央の政局混迷の解決は、信長の進出を待たなければならなかったのである。
(Shiraha)
+ 村の姿
村の姿
畿内が混迷している主な理由は、古い公家や社寺勢力、従来の支配体系を守ろうとする守護大名やその被官といった勢力が入り乱れており、有力者がこれらの勢力と妥協せざるを得ないところにあった。そうした中で新たな歴史の方向を示したのは、一向一揆とその頂点にたつ本願寺であった。すなわち、農民的勢力の伸長である。
ところで、当時の農民あるいは畿内農村の姿はどのようなものであったか。その村落生活の実情を知る上で、九条政基がその所領である和泉国日根野荘へ下向し、荘務を司った四年間(1501-1504)に綴った記録『政基公旅引付』が貴重な手がかりとなる。本章ではこの日記記録を元に、日根野荘の農民生活を概観していく。
日根野荘は日根野村と入山田村の二村からなり、あわせて三十町程度の反数(免田を除く)を持つ九条家の荘園である。村人は千人から千五百人程度であり、男子は四百人程度と推定される。
農民構成は、番頭・職事という有力百姓、公事屋と呼ばれる中堅百姓、脇百姓・小百姓・下男下女の下層百姓という三階層から成り立っていた。番頭は、荘園領主が集落の有力者を任命するもので、領主命令の衆知や神事・祭礼の主宰を主な職務とする、惣村自治の中心的存在である。その補佐役が職事である。成人男子への出役の命令は個人別ではなく家別に出され、その出役する家のことを公事屋と呼んだ。公事屋の維持は村にとって死活問題であり、非常な関心事であった。
裁判は原則として領主が行う決まりであったが、実際には個々の農民による場当たり的な処置が横行する村裁判であり、領主はその慣習的な規制に対して事後承認の形で肯定するという、言わば領主権力の完全には及ばないところであった。また重要な生活設備である用水は、その施設を守っていくための必要上、領主支配を超えて近郷・近村と連合する必要を生み、地域的なつながりを強化した。
(Shiraha)
+ 西の雄将、毛利元就
西の雄将、毛利元就
 毛利元就は、元々安芸の山間・吉田荘の国人であった。大江広元を祖とする名族であったが、室町時代の終わりごろには宗家吉田の他、麻原や坂といった分家も力を付け、互いに衝突を繰り返した。しかし応仁の乱を経ると麻原氏を滅亡させ、坂氏を臣従させて宗家の権限は確立された。
 この毛利氏の二男として生まれた元就は、有力家臣の井上氏の庇護という屈辱的な生活を送ることになる。この中で元就は隣国・吉川氏の娘を嫁とした。
 しかしこのころ、当主で会った甥の幸松丸が俄に亡くなり、毛利家の中で後継争いが起こった。元就は井上一族の力を借りると、対抗勢力であった弟の相合元綱を倒して毛利家の当主となる。
 さて、南北朝の終わりごろより安芸では国人衆の連合が成立していた。これは共同防衛や租税保障を目的としている。中世国家の公権は国単位で分割されており、国人の支配も安芸という国を単位として成立していたのである。
 また1532年、毛利家の重臣たちは用水管理・負債者の追及・逃亡下人の捕縛について、領内へ毛利家の権力の立ち入りを許可する証文を提出した。この三カ条は大名権力の基礎といえ、このことは毛利氏の戦国大名化への道を築くことになる。
 そのころ、中国地方では山陽の大内氏と山陰の尼子氏が鋭く対立していた。この中で元就は巧みな外交手腕で勢力を拡大する。両氏の衰退に乗じて元就は安芸を南北に貫くように勢力を得、またこれを統制するために吉川氏・小早川氏に二男・三男を送りこんで傘下に収めた。吉川氏は山間部に勢力を握っており、また小早川氏は瀬戸内に勢力を握る国人である。
 このように宗家の権限を確立した元就は、ここで専横を極めた井上一族を誅殺。この機に乗じて家臣から主な権限を奪い、毛利家の集権を確立した。
 1551年、大内氏は陶晴賢の謀反によって崩壊する。1555年、元就はこの晴賢との戦いを決意して厳島で決戦を行い、これに大勝した。この勢いにのって元就は周防・長門へと侵攻、1557年には大内義長を自刃させることに成功した。しかし、周防・長門の山間部の土豪たちが一揆を起こし、元就はこれに苦しめられる。結局、分裂工作によって鎮圧することになるが、農民たちを弾圧せねばならなかった所に戦国大名の矛盾がある。
 このころ家督にあったのは、嫡男の毛利隆元だが彼は家臣の突きあげに苦しんでいた。軍事緊張の中で勢力を拡大した毛利氏の家臣は、軍事拡大による利益享受を欲し、故に侵略は止められない状況だったのだ。これに対し元就は家臣と唐傘連判状を作成するなど家臣統制に努めたが、この事は却って毛利氏の体制の弱体ぶりを表すものとなった。
 毛利氏は防長攻略のころから、家臣に知行を与える前にそこを検地するようになっている。このことで家臣の領主化を阻止するものであり、軍事緊張の中で毛利氏による一貫軍事動員体制構築が要請されたことに起因する。その上で毛利氏は反銭帳を作成し、家臣の所領をこの反銭の貫高によって一括表示するようにしたのである。しかしこのことは毛利氏が現地掌握を行わぬことを前提としており、この大きな矛盾を抱えたまま統一政権と毛利氏は相対することになった。
 防長掌握後、毛利氏が重要視したのは石見の銀や出雲の鉄といった資源である。毛利氏は長い時間をかけながらも尼子氏を滅亡させてこれを掌握した。この際には隆元を亡くすといった痛手も蒙っている。
(Spheniscidae)
+ 九州四国の大名
九州四国の大名
 応仁の乱以降、九州の権威であった少弐氏も九州探題も力を失い、此処での権威は消滅していた。しかし大内氏の侵入によって九州は在地勢力の拡大を妨げられることとなる。
 大宰府をおわれていた少弐氏であるが、九州の在地勢力に担がれ、応仁の乱の隙をついて大宰府を奪回している。しかしこれも一時のことで、大内氏の攻撃に耐えられずに当主政資は自刃を余儀なくされた。しかし三男・資元は大内氏の支援を得て再起し、肥前に拠った。このころ大内義興は上洛を計っており、それゆえここでは一時講和が結ばれることになる。これは大内氏の存在を許したと言う点で在地勢力のもくろみは達成されなかった。
 肥前では、南北朝に活躍した菊池氏が断絶している。菊池氏は同じ肥後の阿蘇氏や相良氏、豊後の大友氏によって度々介入を受けた。これは菊池氏内部の一族内紛が激化したからであるが、最終的には大友当主・義鑑の弟・義武が養子として菊池氏を継ぎ、直系はここに滅亡した。
 大内義興が死ぬと、少弐資元は拡大を開始。大内氏は一時衰退することになる。だが、大内氏の工作によって少弐重臣・龍造寺家兼が大内氏に降ると少弐氏も下ることになった。しかし大内氏は少弐を越える大弐の地位を手に入れると、資元を攻め滅ぼした。子・冬尚は仇討ちとして龍造寺家兼を攻撃したが破れている。また大友氏も博多を巡って大内氏との対立を先鋭化させていた。
 ところが、大内氏は陶氏の反乱によって崩壊。大内氏による九州支配は幕を閉じることとなる。
 一方、南九州では島津氏が一族の内紛に苦しんでいた。島津氏は海外貿易による利益を得ていたが、これは室町幕府から特権を得ていたからである。
 この混乱の中、島津氏を統一したのは貴久である。さらに島津氏は薩摩大隅日向の統一をもくろむが、これを達成したのは子・義久の代であった。
 肥前では龍造寺氏の勢力が拡大していた。家兼の死後、大友氏の介入を跳ねのけた龍造寺隆信は一気に勢力を拡大、少弐冬尚を滅ぼして戦国大名へと成長した。
 大友家では、二階崩れの変によって義鑑が殺害され、義鎮が当主となった。かれはキリシタンとして有名であるが、二面性のある屈折した人間だったようである。彼は反対派を粛清すると肥後へも侵攻、叔父・菊池義武を殺害して肥後守護となっている。
 陶氏の反乱によって大内氏が崩壊すると、弟・義長を大内家の当主として送り込んだ。また大内氏の崩壊によって空白となった北九州へ勢力を広げ博多も支配している。毛利氏によって大内氏は滅ぼされることになるが、この際に援を求めた弟・義長を拒否しているが、これも大友氏が北九州を掌握するためだったと言える。この結果、大内氏は九州の九国のうち六国を掌握することとなった。しかしこれは一時的なことであり、毛利氏による九州侵攻に義鎮は苦しめられることとなる。
 九州ではキリシタンの活動も活発であった。九州ではポルトガルとの貿易も活発であり、特に鉄砲や火薬が珍重された。また1549年、ザビエルの鹿児島来航に始まるキリスト教布教も南蛮貿易と斬っても切り離せない関係にあったと言える。
 ザビエルは島津氏には受け入れられなかったが、平戸の松浦隆信には歓迎されている。また大友義鎮(宗麟)については、最も偉大な友として彼を呼んだ。だが、宗麟が洗礼を受けたのはかなり後のことであり、貿易を行いたかったという下心は否定できないだろう。

 一方、四国に目を移す。四国でも応仁の乱を境として細川氏の守護領国体制が崩壊。その中で土佐の長宗我部氏が勢力を拡大した。長宗我部氏は名主層を一領具足として組織化。養子縁組や武力制圧などを用い、天正年間には土佐の統一に成功している。

 しかしこれらを見ると、西国の大名が戦国大名へと脱皮するのはかなり遅いと言えるだろう。
(Spheniscidae)
+ 城下町の形成
城下町の形成
 城下町の形成は、戦国時代の建設的な方向を象徴すると共に、諸大名たちの戦力の根源として、あるいは領国経営の拠点として、歴史の舞台にクローズアップされてくる。
 中世の城と町は、いくつかの段階を経て変わっていった。各段階の城と町のありかたは、それぞれの時期の政治や社会経済のありかたと微妙に対応し合う関係にあった。

 その第一段階は、鎌倉時代の地頭・御家人の館(たち)と定期市の結びつきまでさかのぼる。武士の館のすぐ近くには定期市が開設されており、年貢米を売り払って武器や骨董品、日常必需品を購入するという結びつきがあった。こうした両者の関係の中に、後世の城と城下町の原型を見いだすことができる。
 城と町の関係が第二段階へと移り変わっていったのは、室町から戦国にかけて、下剋上や弱肉強食が日常茶飯事になった時である。いくさという目的のために城は山の上にうつり、その構えも複雑で厳重なものとなった。こうした山城の築城は、それまで農村に広く散在していた家臣たちの、領主館周辺への集中をともなった。家臣団の城下集中がすすむと、かれらの膨大な軍需・民需物資への需要供給をめぐって、ほうぼうから商人や職人が山城の下へ集まってきた。こうして自然発生的にできた町が、根小屋・山下町である。
 戦国もなかばを過ぎ、天下の形勢が定まると、一国ないし数ヵ国にわたる広大な領地を支配し、経営しなければならなくなってきた諸大名たちにとって、辺鄙な場所につくられた山城と館は、なにかにつけて不便であった。領国全体の民政、経済的発展を考慮すると、城は領内の政治・経済・交通上の要地に構えられるべきであった。さりとて、軍事をおろそかにすることもできない。
 このような戦国後半期の諸大名のジレンマにいちおうの解決を与えてくれたのが、いわゆる平山城であった。そしてその下に楽市・楽座令などによって形成されたのが、城下町である。

 平山城の構築、家臣団の城下集中、城下町など都市の建設は、戦国大名の領地支配の、絶対的な条件になってきたといってよい。支配の拡大と安定にとって、これら三つの要素は、つねに一定のバランスを保つことが必要であった。
 十六世紀なかば行こう、諸大名の商工業者に対する各種課税の免除、保護措置にかんする史料が急激にふえてくるが、これは商工業者の城下集中政策に関連していた。
 楽市・楽座令は、諸大名の城下町など都市建設、そのための商工業者確保の政策を、もっともあからさまに示したものといわれている。同令は、城下町の建設や経営のために、市座の独占や、ギルド的な座商人の否定を目的にして発布されたものであるとする点では、ほとんどの研究者の意見は一致している。しかし多くの楽市・楽座令がかかげていたいろいろの条文のうちのどこに重点を見いだすかにより、いろいろな見解が分かれる。
 それを大まかに整理してみると、三つくらいに大別できるが、本書では次の説がもっとも同令の本質に迫ったものではないかとされている。
 すなわち、同令は、戦国大名が推し進めていた商農・兵農分離政策の一環として、都市や商工業者に対しておこなった、再編成ないし統一政策として理解すべきであるとする説である。
 いずれにしても、楽市・楽座令によって城下町には領国はもちろん、他国からも商工業者が集まってきたのは事実であった。しかし、城下町の一見自由な空気にあこがれて、百姓までが田畠をすてて移り住むようになると、戦国大名たちはそれを許さなかった。

 本書では、城下町の具体例として、東の小田原、西の山口、そして越後春日山が挙げられている。

 城下町の生活様式については、あまりに平凡な身近な問題であるせいか、適切な史料が意外と少ない。しかし、地方城下町に断片的に残された手がかりを再構成してみると、それは想像以上に貧しい姿であったと考えられる。屋根も草ぶき、藁ぶきがほとんどであり、たてつけも悪く、床には莚(むしろ)を敷いただけであった。

 戦国のころは、城・武士と城下町とは、それぞれが孤立してまったく別の世界をなしていたといえる。これは、城壁の中に領主・商人・職人・農民たちがともに住まっていた西欧の城下町との相違点であるといえよう。
 日本では、まず城と武士たちの屋敷があって、城下町は城の外に武士たちの必要からつくりだされるという経過をたどったのに対し、西欧の城は、領主だけでなく。商工業者や農民たちの安全のためにつくられた例が多い。日本と西欧の城や町の構造上に見られた違いは、風土的・地理的なものではなく、成立事情の差にもとづくところが大きいのかも知れない。
 両者のちがいは、都市自治、住民の意識といった点になると、いっそうきわだってくる。日本では、都市の自治や自由というのは例外的なものであった。

 十五世紀から十六世紀になると、城下町はさらに大きな転換を迫られた。
 城は軍事的な観点ばかりではなく、政治的・経済的観点が強く考慮され、領民に対する威圧感が重視された。戦国の山城や平山城はこうした要求をみたすことがむずかしくなっていた。戦国の戦闘中心の、いわゆる「城堅固の城」は、領内統治のための城、すなわち「国堅固の城」へと変わっていったのである。

(Shade)
+ 戦国の家法
戦国の家法
 戦国時代の主従の法、つまり主従関係のありかたは、当時の主従道徳のありかたと深く関係し、法律書として規定されていたのではなく、主として慣習法という形で存在していた。
 下剋上の世相は応仁・文明の乱後ことにはなはだしくなり、従者の仕官がえや、主家をとりしきったり、あるいは反逆して主家をのっとったりすることさえ頻々とみられるようになるが、こうした新しいタイプの行為が当時の武士たちのあいだで容認されていたのであろうか。下剋上や反逆行為をささえ、それらを容認する倫理とはいかなるものだったのだろうか。

 『甲陽軍鑑』などの史料によれば、讒言などにより、主君が家臣を誅殺するのは、当時かなりありふれた事件であった。また、オルガンチーノという宣教師の書簡によれば、召使いは誅伐の前に反逆するという場面が語られている。
 反逆があいついで成功するうちに、反逆そのものが公民権を得、いわば大っぴらになってきたのである。
 それでは、誅伐に対する反逆権、またそれをささえる倫理とは何か。それは「男道」とよばれる男子(武士)のまもるべき道、男のあるべき姿の根幹をなす要素であった。与えられた恥辱をきよめるのが男道であり、無実の罪や不当な過刑などといった主君側の与える恥辱に対しては、従者といえども、その恥をきよめるのが男道にかなうことだったのである。
 すべての反逆が男道にかなったものであるというわけではなかったが、そうした名分をもつ反逆がつみ重なるうちに、反逆一般が「名誉を失わなく」なるということである。
 主君側としては、反逆予防の政策として、不忠者の処分規定を設ける反面、忠信者の特典事項をきめ、喧伝している。利をもって忠を誘ったわけである。

 外には戦争、中には下剋上の風潮という混乱と不合理のなかで、戦国大名は、まず秩序と合理性を象徴する成文法を制定施行して領国支配にあたらざるをえなかった。当時のことばで、この成文法は「法度」「国法」「分国諸法度」あるいは「国の法度」などといわれた。
 戦国の家法には個別法規と基本法典とがある。個別法規は必要に応じて随時制定発布されたもので、守護大名も発布していた。これに対し戦国時代の特色は、大名たちの家に基本法典が作られたことにある。基本法典は、今日では八家の法典が残っている。

 鎌倉幕府の制定した『御成敗式目』がなお法の命脈を保ち、かつ必要に応じて個別法典をもって対処できたにも関わらず、このような法典制定が必要とされたのは、下剋上の風潮に対応して、主君の側から家臣を規制し匡風するためであった。こうした法典制定は一時的な効力しかもたない個別法規でおこなうよりも、恒久的効力をもつ基本法典の形にまとめるほうが、より効果的であったのである。
 法度の制定は、制定者がそれ相当の権力と権威をもつ者でなければできなかった。戦国の家法の主なものが、分国法と一般に呼ばれるのは、その制定者が分国の主であったからなのである。 

 法典の制定は主君の側から家臣を統制する意味あいが深いが、法が一方的な家臣統制の意味しかないならば、一般的に従者の抵抗の強かった戦国時代に法典の制定は不可能だったはずだ。それでは、家臣にとって成文法はどのような利点があったのか。
 それは、法は従者のみならず、主人をも規制する効果があったからだった。すなわち、成文法は主君の恣意による処罰を規制する役目を果たしたのである。
 法が主君を規制した積極的な例としては、家臣による法遵守の誓約により効力を有した毛利元就の記請文や、法制定の主導権が家臣にあった近江の『六角氏式目』がある。

 戦国の家法は、『御成敗式目』から承継された条目も多かった。それというのは、一つには式目が鎌倉以来武士の法典として尊重されてきたことによるものであり、もう一つには鎌倉時代から戦国時代までは、武士たちの生活のしかた、社会体制に共通する面が多かったことによるものである。
 式目と戦国の家法の違いの一つは文体である。式目はいちおう漢文で書かれていたが、より多くの人々に知らせるためには仮名文のほうがいっそう適切であったといえる。戦国の家法の中には仮名まじり文のものが見られる。

 戦国の家法の内容について、本書では甲州法度を具体例として説明している。
 地頭の恣意を抑制する条文(一条)や、家臣たちの無断での同盟の禁止(十条)などが見受けられる。
 甲州法度の十二条は喧嘩両成敗を規定したものである。喧嘩両成敗法の意義としては、過剰な威嚇により喧嘩を予防する意図と、喧嘩当事者の理非究明の労をはぶく効能とが指摘されている。
 また同法十四、二十三、二十四条には寄親・寄子制の規定がある。この制度は、戦国大名の軍事組織の根幹で、一族を惣領が統率する従来の方式にかわって、主君が有力家臣を寄親とし、これに小武士を寄子として配属したものであった。これは崩壊しつつあった族制的結合にかわるものとして、また農村の百姓や、牢人とよばれる他国から流浪してくる武士などを広範に軍事組織に組みこむためにも、たいそう便利な制度であった。
 甲州法度が目指すものは、きびしい秩序の確立と家臣の統制であったが、二十六最終条項で家臣に対する規律の要求に対する晴信の譲歩も示されている。

 戦国家法の根幹は主君と家臣の問題を規定する「主人の法」であったといえる。
 それに対し、民政に関する規定を「領主の法」と呼ぶとすれば、それが独立し、強力に全域的に施行されるのは安土桃山時代以後のことであった。

(Shade)
+ 戦国女性の立場
戦国女性の立場
 戦国時代、女性は男性の所有物であり、その地位は室町に比べて低下したといわれている。娘は隷属度が高く、男性より高価な財産であった。借金の形に女性を金貸しに持っていかれる話もこのころには存在した。
 結婚も厳しく制限されていた。他国と通づる結婚は不可であった。戦国大名にとって、女性は政治のための道具であり、商品であった。信長・秀吉・家康の時代になると、特に政略結婚が目立つようになった。嫁いだ女性は実家のスパイとして暗躍することもあったという。夫婦になっても気が抜けない。『女に心を許すな』という諺も生まれた。女性が嫁ぐと、周囲の監視は厳しくなったという。
 この時代の女性は不遇なことも多かった。結婚すれば居館の奥に閉じ込められ、政争に巻き込まれて若くして生を終える女性もしばしば存在した。
 恋愛結婚がないわけではなかった。『牛窪記』では、悲劇であるが情熱的な戀愛譚が語られている。
 彼女たちにとって、キリスト教は魅力的であった。一夫一妻制、結婚に際して女性の意志を尊重するなどと言った相対的な優遇があったからである。百姓・商人・職人・下人など、妻を二人以上持つ経済的余裕が無い者たちにも、キリスト教は受け入れやすいものだった。
 彼ら一般労働者たちは、男女問わず性に開放的であった。働きながらざっくばらんに歌い、男性に語りかけ、晴れの日(祝日)には祭りや踊りで集団で性欲をもてあました。下層社会には、このような健康で自由な女性の姿があった。

(Jiyu)
+ 東国の大名、織田・松平
東国の大名、織田・松平
 尾張・三河・遠江・駿河といった東海道の諸国は、京都―鎌倉間を結んでいたので、両国の文化や経済に接する機会が多かった。
 尾張は中国の四川省にある州名から由来した蓬州という異名がある。報酬は、蓬が茂っているからとも、不老不死である蓬來山―蓬が島になぞらえていった名称ともいわれている。いずれにせよ尾張が肥沃な大地をもつことが示されている。
 この地方は農村を支配する地侍・土豪が畿内に比べ強い力を持っていた。大名・有力領主は、地侍・土豪層を組織することにより、強力な軍事力を引き出すことができた。
 天文三年、織田吉法師(信長)が生まれる。信長は信秀が卒するやいなや、尾張守護代の織田広信
に先手を打って快勝を収めた。信長の輝かしい戦歴はここから始まった。
 今川義元は、三国同盟によって甲斐の武田信玄、相模の北条氏康と和を結び、尾張を攻め打って上洛を目指していた。今川軍は二万五千、あるいは四万と言われている。
 これに対して信長の軍は貧弱であった。ある家臣は今川氏の軍門に降るべきと言い、別の家臣は決戦すべしと言った。信長はこれらの意見を参考にせず、人を使って集めさせた情報により自信で作戦を計画した。そして夜に田楽狭間に奇襲をかけて、今川義元を破った。これがかの有名な桶狭間の戦いである。
 信長は足利義昭を後援し、征夷大将軍に就任させる。義昭はこの計らいに痛く感動し、彼を管領に任命しようとしたが、信長は辞退した。それが当時の世では役に立つものではないということを理解していたからである。信長三十五歳。天下統一への道のりはまだ遠い。

(Jiyu)

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最終更新:2010年03月07日 20:25
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