第七巻 鎌倉幕府(石井進 著) 後編

+ 貴族文化の革新
貴族文化の革新
 平重衡の焼討ちによって灰と化した東大寺の再建は、あらゆる階層、すべての地域にわたる人々の幅広い協力を得てはじめて可能なことだったのであり、それは鎌倉時代の新しい文化を創造するための大舞台となり得た。
 東大寺再建に尽力したのは俊乗房重源という老僧であった。かれは勧進職に任ぜられ、勧進聖として全国にその活動をくりひろげ、東大寺再建の資を集めた。また、かれは宋に渡ること三度、さまざまな実際的な技術を学んできた僧でもあった。ゆえに再建にかかる経済的・技術的困難を克服することが可能であったのだ。
 東大寺の伽藍は、天竺様とよばれる新しい様式で建てられた。それは重源が宋で学んできた手法であり、部分品の規格を統一して量産し、工法も単純にして組み立ててゆくという合理的な方法を基礎にするものである。
 南大門の仁王像の制作者は、運慶・備中法橋・快慶・越後法橋の四人の大仏師である。ただ、それは一段の仏師たちを率いて製作に当たった大仏師の名であり、その背後にはすぐれた技量をもつ多数の小仏師がいて各部を分担し、その下にはさらに多くの工人がいた。仁王像はわずか二ヵ月余で作りあげられたが、それは大仏師の統率力や木寄法という方法の発達によってはじめて可能なことだった。
 東大寺再建では、当時貴族たちの間ではなお大きな支持を得ていた京都仏師ではなく、奈良仏師のみが独占的に造仏をおこなった。重源が奈良仏師のもつ新しさを見出す眼を持っていたからでもあり、また再建の有力な支援者頼朝も奈良仏師と関係が深かったからであると考えられる。
 運慶が、その作風や活動の場からして武士的であるとするならば、快慶は庶民的ともいうべきで、鎌倉時代の文化の特色を示す二面をこの二人は分かち合っていたと考えることができる。
 東大寺再建の運動は西行をも動かしていた。西行はかつて弓馬の道にも通じた武士で、佐藤兵衛尉義清といった。ところがかれは浄土教の影響を受け、二十三歳の若さで出家遁世し、社会的な束縛から自由になり、旅に出たり、さまざまな人々と自由に交わったりして自分を深めていった。

 南都焼打ちの最高責任者重衡は、焼打ちから三年余ののち、一ノ谷の合戦で生捕りにされ、頼朝の意向で関東に送られることになった。
 その前に、かれは法然の教導を受けた。
 法然は、修行の末、ただ南無阿弥陀仏と唱えれば救われるという称名念仏を選択する立場に到達した。それは、叡山でおこなわれていた貴族的な仏教を民衆に開放し、また知識として学ばれ、国家に奉仕するものでしかなかったそれまでの仏教を日本人自身の主体的な宗教に転換させたということで、日本の歴史上画期的なことであった。

 また、平安時代の末に、宋の文物が停滞した貴族の文化にとって新しい活力を与えるものとして注目されるようになったとき、宋で発達した禅宗も新しく脚光を浴びるようになった。禅宗の広がりに影響力を及ぼしたのは、栄西である。
 しかし、鎌倉武士たちは禅僧としてよりも、葉上流台密の効験あらたかな僧として栄西をうやまっていたのであり、禅宗が日本人の間に根をおろすには、まだかなりの年月がかかるのである。
(Shade)
+ 悲劇の将軍たち
悲劇の将軍たち
 頼朝が亡くなり、長男である頼家があとをついだ。年はわずかに十八歳である。
 頼朝が亡くなってすぐ、京都朝廷のリーダーである通親が幕府派への総攻撃をするなど、幕府の前途は早くも多難を予想させた。
 頼家の手腕に不安を感じた側近の老臣たちは、母の政子とはかって、頼家が直接訴訟を裁断することを停止し、元老や御家人代表たちが合議で裁判することにきめてしまった。
 頼家がだまってこの処置をうけいれるはずもなく、かれはお気に入りの近習たち五人を指名し、かれらでなければ頼家にお目通りできないと定め、またかれら五人の従者たちが鎌倉の中でどのような乱暴を働いたとしても、手向ってはならない、という無茶な命令まで下した。五人の若い近習たちとは、いずれも比企氏の一族や、それと縁のつながる人々であった。頼家にとって、能員以下の比企氏一族は、この上ないうしろだてだったのである。
 頼家は、五百町以上の恩賞地没収や、境界争いの裁判につき墨引きをするなど、諸了知支配権の保護と所領をめぐる争いの公正な裁決という、幕府をつくり上げる原動力となった東国武士たちの最大の要求を正面から踏みにじるような政治を行った。これでは、東国武士たちが何のために鎌倉殿を主君とあおいでいるのか、わからない。
 もともと鎌倉に幕府をうちたてる構想自体、東国武士のものであり、頼朝をおし立てて幕府の樹立に成功したのも、かれらの武力のたまものだったはずだが、成立した幕府体制は頼朝と側近による独裁政治であった。
 頼朝の死により、こうした初期幕府の専制体制は、東国武士の横の団結によって修正されねばならない、という武士たちの機運が高まってきた。

 その最初の表現が、梶原景時の粛清事件であった。
 景時は侍所として有能であり、独裁者頼朝の無二の忠臣であったが、その立場が頼朝の死後、微妙にゆらぎ始めたことは想像にかたくない。
 『吾妻鏡』によれば、将軍御所内の侍の詰所での結城朝光の発言を景時が訊きこんで、謀反心のある証拠だと将軍に告げ口したため、朝光は殺されることになっている、と阿波局が朝光にささやいたので、おどろいた朝光は同志をつのって景時を糾弾することにした。そして、景時は鎌倉追放を申し渡され、鎌倉の屋敷はとりこわされた。翌一二〇〇年の正月、大がかりな反乱をたくらんだ景時は、ひそかに一族従者をひきつれ、京都へと出発したが、その途中駿河国清見関近くで、付近の武士たちに発見され、一族もろともあえない最後をとげるに至ったという。
 しかし、この『吾妻鏡』の記述が事件の真相のすべてをつたえているとは、とうてい考えられない。筆者は、景時粛清事件の裏で糸を引いていたのが北条時政ではなかったか、と述べる。景時糾弾のいとぐちをつくった阿波局は時政の娘、政子の妹にあたるし、景時事件の当時、駿河国の守護として国内の治安警察権をにぎり、御家人を統率していたのも、時政だったからである。
 景時粛清事件は、独裁将軍を夢みる頼家にとって、もっとも有能な部下を見殺しにしたものであり、致命的失敗であったといえる。
 この事件は御家人グループの成長によるものでもあるが、時政自身がそのグループの代表的存在であったかといえば、そう簡単なものではなかった。

 北条氏は最初から他の東国武士を圧する、とびぬけて強力な豪族だったという見方には、いくつかの点で疑問がある。第一に北条氏が桓武平氏の子孫という点であるが、北条氏系図は、いずれも時政以前の世系が一致せず、疑問が多い。第二に、時政以前にわかれた同族がひとつもない。第三に、四十を越えた時政が、なんの官位も持っていない。
 これらの点から考えて、北条氏は伊豆においても中流クラスの存在とみられるのである。だが、時政の正体はどうもはっきりしない。
 ともかくかれは相当なくせものであり、側近兼東国御家人という二重の立場を利用しながら、相ことなる二つのグループを操縦して頼家を倒し、実朝を立てようとする、その第一着手として、最大の強敵で一般御家人のうらみの的となっていた景時にねらいをつけたのであった。
 景時の滅亡後、三年の歳月はまずまず平穏であったが、一二〇三年、七月なかばすぎから頼家は急病にかかり、八月末には危篤状態に陥った。このとき、頼家のあとは六歳の長男一幡がつぎ、日本国総守護と関東二十八ヵ国の総地頭となり、十二歳の弟千幡(実朝)には関西三十八ヵ国の総地頭を譲ることになった、と発表された。
 これを聞いておさまらないのが、頼家側の黒幕比企能員である。かれは病床の頼家と面会し、北条氏征伐のはかりごとを相談したが、それを障子のかげで立ち聞きしていた政子の急報を受けた時政は、先手を打って比企一族を滅ぼした。頼家の近臣として威勢をふるっていた連中もみな処罰され、九月七日には頼家は鎌倉殿の地位を追われ、実朝がこれに代わった。かくて時政は幕府の中枢にすわり、新たにかれ一人の署名による「下知状」という文章を発行して、御家人たちの所領安堵などの政務をおこなうようになった――と『吾妻鏡』にはある。

 しかし、この記述もまた多くの真実が伏せられたままである、と筆者は述べる。
 比企氏の反乱そのものが、巧妙に仕組まれたでっちあげ事件だったのではないか、という可能性もある。頼家側近や比企氏のなかに、北条氏の手先やスパイが潜入していたのではなかろうか。頼家のお気に入り五人のなかの、中野五郎能成という信濃の武士がいたが、かれは時政から所領安堵を受けており、疑惑の対象になりうる。

 ところが、こうして幕府権力の表面におどり出た時政も、調子に乗り、実朝を殺して若い後妻の牧ノ方の寵愛深い娘の婿である平賀朝雅を鎌倉殿に立てようとして、政子・義時に幕府から追放された。

 父に代わった義時は、きわめて柔軟な態度を示し、政子と将軍実朝をつねに表面に立て、旧側近官僚グループとの連絡をさらに密接にしながら、御家人たちの信頼獲得につとめた。
 他方で、かれは北条氏の勢力を確立し、かれに対抗する有力武士団の力をけずるためには、あらゆる努力を惜しまず、どのような機会をものがさなかった。
 義時は幕府創立以来侍所の重職にすわっていた和田義盛にねらいをつけ、和田合戦において、義盛を一族親類共にほろぼした。

 和田合戦の結果、義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と兼任して、幕府のもっとも重要な政務機関長のポストを独占するようになった。北条氏の幕府指導者としての地位は、ここにほぼ定まったといってよい。

 鎌倉殿独裁政治に代わる、北条氏が幕府権力を握る執権政治はこうして始まったが、執権政治成立の時期については、かならずしも明白ではない。「執権」の職名自身が当初から存在したわけではないので、北条氏の権力が伸長したそれぞれの時期をもって、執権政治成立の時点と主張することが可能となる。
 本書では、時政の実権掌握をもって執権政治の成立とみなし、和田合戦後をもってその確立と考えることにする。

 一一二九年正月、実朝が公暁に暗殺される。
 この暗殺事件の背後関係であるが、義時がひそかに公暁をそそのかして実朝を暗殺させ、さらに一味の三浦義村に命じて公暁を葬ったというのがこれまでの通説的見解であった。
 しかし、公暁は義時のつもりで仲章を殺しているため、義時が黒幕だとすると少々おかしな話になる。そこで、三浦義村が公暁の背後にあった、という解釈にも筆者は魅力を感じる、と述べている。

 名もない東国の一地方武士の出にすぎない北条氏の覇権獲得は、東国武士たちによる権力獲得の第一歩であり、武士の政権としての幕府の純化と発展の過程を示しているといえよう。
(Shade)
+ 承久の乱
承久の乱
 実朝が頼家の子に殺害された報が京に届く。後鳥羽上皇はこれをいかにして受け止めただろうか。上皇の性格およびその統治体制を考察することによって推測してみよう。

 後鳥羽上皇は多芸多才、百科全書的な万能人間であった。『新古今集』を率先して編纂し、自身も時代を先導する歌人として君臨した。蹴鞠・管弦・囲碁・双六などの遊戯、相撲・水泳・競馬・流鏑馬・犬追物・笠懸などの武芸に精通し、京都の内外で狩猟もしばしば行った。刀剣に関心深く、時には自ら焼いて近臣や武士たちにこれを与えた。太刀は菊の紋で飾り、「菊作りの太刀」と称せられた。「菊花の御紋章」の起源は、これだと言われている。天皇家において、これほどまでに武芸への関心が強い者の存在は異例であり、周囲もこれに倣って武芸に励んだ。将軍実朝が武芸に無関心な現実逃避型の人間であったことと対比すると、まことに異様奇怪あべこべである。上皇は道楽好きな専制君主としての側面も持ち合わせていた。熊野三山に信仰のため参拝すること三十一回、同中での遊興費は多額に達し、その負担は民へ向かう。善悪功罪はさておいて、強烈な人間性を有していたことは間違いない。気分屋な側面はしばしば側近を辟易させた。
 このような人間も唯我独尊ではいられない。育ての親には頭があがらなかった。当時齢五十を過ぎた藤原兼子がその人である。彼女は上皇の愛人、美少年の斡旋を行うなど、下の部分までの世話役として振る舞っていた。彼女は 従二位 にのぼり、卿二位と呼ばれ影の実力者として君臨する。といっても周囲にとっては影どころか後光が差すほど明らかに眩しかったようで、立身出世を望む数多の貴族が彼女の元へ金品と共に馳せ参じた。賄賂により財宝は山のように積まれた。上皇の勢力に出家をさせられた 慈円 は著書『 愚管抄 』にて、その 売官 ぶりを痛烈に非難している。しかしながら、それは当時において経済合理性がある行動であることの証左でもあった。
 上皇の財政を最もよく支えたのは膨大な荘園群であった。「荘園整理」を口実に、荘園を院の直轄とし、摂関家への寄進という流れを断ち切った。最高の権力者の元には、その威を借ろうと多くの者が集まってくる。院はさらに荘園の寄進を受け、その土地はますます広大となった。これらの土地は、寺院や上皇が寵愛する女性、皇女に分け与えられ、院周辺の者に相伝されることになる。後鳥羽上皇の浪費を支えた経済的基盤は、ここに存在したのである。

 しかしながら、寄進する側も馬鹿ではない。荘園現地の実権は上皇でなくあくまでも寄進した当事者が握り、他に好条件で権威と安全が得られる組織があれば、そちらに移れる体制を残しておいたのである。こと東国においては、農場主は幕府の御家人となり、鎌倉殿から 地頭 に任命されることによって権力と安全を確保していた。
 上皇にとってこれは面白くないことである。地頭になってしまえば、その荘園は完全に幕府の管轄に入ってしまい、年貢の滞納などの不法行為にも 鎌倉殿 のお伺いを立てて処分してもらう他ないからである。
 上皇はたびたび地頭の免職を訴えたが、実朝はこれを拒否。上皇の妥協に傾きがちであった彼に毅然とした態度で臨ませたのは、当時御家人の利益を代表していた執権北条義時の助言によるものであった。

 上皇の専制君主的な性格はここでますます発露するに到る。院政主導による京都鎌倉の融和策がうまくいかないとわかると、彼は次第に反幕・討幕的思想に染まっていく。歌の中にも憤懣・慷慨を露にするものが増えた。上皇はうっぷん晴らしのためか、討幕の予備のためか、ますます武芸に打ち込んだ。1207年(建永二)には最勝四天王院という寺院を設立した。ここで彼は関東の調伏・呪詛を行ったと後世に伝えられている。

 実朝暗殺の報が届いたのは、まさにこのときであった。かつて後鳥羽上皇は実朝の昇進の便宜を図ったことがある。その実朝の死自体に関して上皇が何を思ったのかを推測するのは難しいが、これを機に鎌倉幕府が自壊してくれれば、とほくそ笑みはしたのではないだろうか。いずれにせよ、後の承久の乱が示している通り、上皇はどこかで討幕の決意を固めている。実朝の死という事実がこの決意を下すにあたって大きな影響をもたらしたのは想像に難くない。なお、この死によって源氏の将軍の血筋は完全に絶えることとなる。
 暗殺前年の春に、尼将軍(北条政子)と卿二位の間で既に上皇の皇子を鎌倉殿に立てる合意がなされていた。実朝暗殺を予期しており、あえてこれを看過したというよりは、一向に実朝が子をなさないことを案じて万が一に備えておいたと考える方が現実的であろう。頼家も実朝も政子の子である。頼家は暴虐により北条の手によって暗殺されたが、実朝は温和な性格であり政子に従った。いかに尼将軍といえども従順な子を切り捨てる行為は母性が許さないであろう。
 上皇は鎌倉の申し出を「いずれ考えるから」と体よく拒絶する。院政組織の再編成と共に卿二位の神通力が絶対的ではなくなりかけていたのと、上皇の幕府自壊の狙いの二つがこの回答の主要な理由と考えられる。院はやがて鎌倉に使者を送り、摂津国長江・倉橋両荘の地頭の免職の要求を突きつけた。事実上の交換条件である。かねてより院はこの地頭に手を焼いており、今こそ好機と考えたのだろう。しかし鎌倉には鎌倉の理があった。「頼朝時代以来、御家人武士に与え、安堵した所領は、よほどの大罪を犯さぬかぎり免職にはしない」というのが執権政治以来の大原則であった。交渉は決裂し、地頭は存続、皇族将軍の話は流れた。 九条道家 の子である三寅(頼経)の母系が頼朝の血統であることを理由に、彼を鎌倉殿に迎える許可を上皇におろさせた。このとき三寅は弱冠二歳、後に言う藤原氏将軍第一代となった。これで落着したかにみえたが、双方の内心には大きな猜疑と憎悪が残っていた。それは不可視でありながら、時代を闘争へと誘う推進力としては十分すぎた。

 1219年(承久元)、頼政の孫で皇居の大内裏を守護していた源頼茂とその一族が後鳥羽上皇の軍勢によって攻め滅ぼされる。頼茂が将軍になろうという陰謀が発覚したというのが院の言い分であったが、これほどまでに緊張した関係において院が鎌倉を気遣うのはまことに不自然なことである。異様な出来事はこれにとどまらなかった。事件に連座して上皇の近臣藤原忠綱が失脚し、最勝四天王院が突如取り壊される。真相は不明だが、討幕計画とかかわりがあったのではないかと推察される。

 討幕計画は水面下で進められていた。慈円は『愚管抄』にて、この討幕計画は実現可能性がまるでなく、失敗は明らかであるとの予言を行った。彼は書物で批判を進めながら、神仏に祈願し国家の救済に誠を尽くした。
 知者の理性は権力者の衝動に敵わない。1221年(承久三)、計画はいよいよ進められ、各地の神社で大規模な祈祷が行われた。順徳天皇もこれに賛同し、自ら皇子に皇位を譲って上皇となり、自由な立場で討幕運動に専心するようになった。流石にここまでの規模になると鎌倉にも勘付かれ始める。躊躇している暇は最早ない。院は諸国の兵を集め、幕府側の勢力を逮捕・拘禁あるいは討伐した。 北条義時 討伐のため、上皇の元へ馳せ参じるようにという院宣が全国に発布された。
 院側は宣旨は絶対であるという認識のもとに、義時に従う者は千人に足らないという楽観論が支配しており、「万は下らない」などという慎重論は聞かれもしなかった。院の権威への信仰は過信であり妄信であったという事実にこの後彼らは直面することになる。

 院の楽観的な態度とは対照的に、幕府は実に慎重であった。敵の権威と影響力を良く理解し、慎重かつ迅速な判断をなすように努めたのである。急報を聞いて将軍御所に参じた多くの武士たちを前に、北条政子はその口を開いた。

「心を一つにして私の最期の言葉を聞きなさい。亡き右大将(頼朝)殿は幕府を草創され、京都大番役を軽くし所領を安堵されました。そのご恩は山より高く、海より深きものです。御家人として名を惜しむ武士ならば今こそ一致団結するのが道理。……御恩を忘れて院に下ろうと言うのなら、まず私を殺し、鎌倉全土を焼き払った後に京都に向かいなさい」

 尼将軍・北条政子、一世一代の大演説であった。

 御家人たちは思い出していた。幕府無き頃に、どれだけ武士が惨めで退廃的な生活を繰り返していたか。幕府ありし今、どれほど安堵に満ちた生活が保障されていたか。恩に報いて命を差し出すのは今この時、この時しかない。朝廷の権威に逆らうことに疑問がなくはなかった。その迷いを涙と共に拭い去り、集まった御家人はみな幕府を守護することを誓った。

 夕刻に早速首脳部会議が開かれた。いったんは抗戦の策が多数派を占めたが、大江広元が京都出撃を提案し、次第にこちらの意見が優勢となった。大江広元は頼朝以来政治顧問として幕府の枢機に参与した、老政治家であった。この作戦が功を奏し、東国の武士たちは道中で次々と参戦の意を示し、幕府軍は万を遙かに超す大軍となった。武士たちにも迷いがあった。ある地方武士は土地に根ざした神にその判断を仰ぎ、その加護を背に立ち上がった。こうして立ち上がった武士の士気は高く、大将北条朝時の到着を待たずに次々と前進した。義時はこの功を賞し、「一人残らず殲滅せよ。山に入れば『山狩り』をしてでも召し捕れ。焦って京を目指すな」と指令した。

 上皇側は慢心していた。ひとたび院宣を下せば、諸国の武士がたちまちにこれに従い、義時の首を持って上洛するであろうと確信していた。
 この予想は半分は的中した。確かに武士は上洛した。しかしそれは義時側についた幕府軍であった。院側はこれに驚愕し、ただちに主力を美濃・尾張の堺、尾張側(木曽川)の沿岸に展開して防衛線を張ろうと試みた。幕府軍の勢いは止まることはなく、彼らが防衛陣地を築きあげぬうちに攻撃を開始する。寄せ集めかつ戦力分散という愚策が災いし、西軍は惨めな敗北を喫した。
 この敗報を聞き、京都はさらに動揺し、洛中の上下貴賎は東西南北に逃げ惑う有様となった。上皇は自ら武装して比叡山に登るが、以前の大社寺抑制策がたたって、その庇護を拒絶される。上皇はあえなく下山し、全兵力を宇治・勢多に投入し、最後の一線に備えた。時は六月、豪雨により宇治川はその水位がかなり増していた。しかし鎌倉軍は引くことなく、多数の犠牲者を出しながら渡河し、ついに勝利を掴んだ。

 東軍の優勢が明らかとなると、略奪を始めとした暴虐が始まった。戦争の常である。人は殺され、家は焼かれ、財は奪われた。武士に関しては義時の指令もあり、特に悲惨を極めた。
 上皇はこの時に至って、義時追討の宣旨を取り消し、その責任が「謀臣」たちにあるとし、彼らの逮捕を命ずる宣旨を発布した。専制君主を象徴する政治的無責任である。後鳥羽上皇は猛者ではあったが、武士とは決定的な違いがあった。矜持を持っていなかったことである。上皇に身捨てられた西軍の武士は散り散りとなり、ある者は自殺し、あるものは捕縛され、ある者は逃亡した。義時追討宣旨が発布されてわずか一か月のことだった。承久の乱はこうして終焉を迎えた。慈円の予言を超えて、この乱が生み出した弊害は苛烈であった。僧の祈りは悉く塵芥に帰し、神にも仏にもついに届かなかったのである。

 乱後の幕府側の処置は実に厳しいものであった。後鳥羽上皇・順徳上皇はそれぞれ隠岐・佐渡に島流され、追討反対派であった土御門上皇も自ら進んで土佐に流された。九条天皇は廃位され、後鳥羽上皇の兄である行助法親王の子が新たに天皇の位を継いだ。後鳥羽上皇所轄の荘園はすべて没収され、後高倉院に寄進されるも、その真の支配権は幕府の手の内にあった。京方として討幕計画に参加した貴族は例外なく処罰された。流罪、免職、謹慎、そして死罪といずれも実質的な処罰であり、形式的なものは一つもなかった。武士の大半は斬首された。幕府は京都に北条泰時と北条時房を残し、朝廷の監視や乱後処理を行わせた。二人の館は平氏の根拠地である六波羅にあったので、この地位は後に 六波羅探題 と呼ばれるようになった。

 北条氏は京方の所領三千余か所に地頭を新たに任命し、西方を支配する。勝利の美酒に酔った武士たちは、生来の豪気も影響して、地頭に任命された各地域で慣例に反した不定期の租税や、既存勢力の追放を行い、領土を拡張していった。住民がこれに黙っているはずがなく、各地で訴訟が相次いだ。幕府は地頭を諌め、 新補率法 という先例のない場合の地頭の標準収益を定め、各国ごとに荘園・ 国衙領 の面積・所有者などの情報を記録した大田文を作って新たな土地支配の秩序をうちたてようとした。

 「天皇御謀叛」という言葉が鎌倉時代末から南北朝時代にかけてしばしば用いられた。律令国家において、もともと「謀叛」は最高権力者=天皇への反逆を表すので、原義から考えるとこれは矛盾もはなはだしい。このような言葉が流行った事実は、天皇はもはや唯一絶対の支配者とはみなされなくなったということの傍証であり、その契機は承久の乱にこそある。神聖な権威ではなく、政治能力を以て支配の正当性を認識する傾向が国民に現れ始めていた。中国の徳治思想の表れとも考えられる。天皇は天皇であるから支配者たりうるのでなく、正しい政治を行うことによってはじめて支配者たりうる。そのような認識が承久の乱を通して人心に芽生えたのである。政治思想史上、承久の乱の意義は大きい。

 幕府はこうして朝廷を打倒し、その権威を明らかにした。長い間武士を脅かしてきた朝廷の権威を打倒したのである。 天皇が完全に幻想に帰する 1946年>(昭和21)の 宣言 と並んで、歴史に残る大事件といえよう。
(Jiyu)
+ 親鸞と道元
親鸞と道元
 法然の思想を最もよく受け継いでいた親鸞は、日野有範の子として生まれている。彼の家族には文章生がおり、知識のある人間が多かったようである。9歳の時、彼は慈円の元で出家し、それから20年間の間叡山での修行に励んでいる。
 法然の門下に入って以後も、修行にはげみ、その一方で彼は妻帯にも踏み切っている。だが法然の元ではその頭角を現している。その彼は、念仏を一度唱えれば救われる、とした一念義を主張し、それゆえ法然門下ではラディカル的な立ち位置であると言えた。だが親鸞が法然と過ごしたのは6年のみであり、ここで法然の流罪が決まり、親鸞も流されてしまうこととなった。
 一方の道元は、親鸞の叡山下山の1年前――源平合戦の完全に終わった後に源通親の子として生まれている。下級貴族の生まれであり源平合戦下での生まれである親鸞とは、その点で対照的とも言える。
 幼くして両親を失うこととなった道元は、13歳のときに良観のもとで出家し叡山に籠った。だが翌年、道元は叡山を下り、流浪の挙句に建仁寺へと入門している。栄西の弟子・明全の元で禅を学んだ道元は、24歳の時に入宋している。
 禅宗とは、インド僧・達磨を始祖とし、唐代には中国の仏教として確立していた。だが北宋代には、寺院は貴族とのつながりを深めて堕落の一途をたどることとなっていた。だがそれでも道元にとっては禅の本質を学ぶ良い機会となった。天童山にて学んだ道元は、26歳の時に悟りを開いて印可を貰うこととなり、それから2年間猶修行を続けた。
 道元が叡山を降りた頃、親鸞は流罪地・越後を離れて布教活動を始める。関東へと布教を行った親鸞であるが、一度浄土三部経の千回読経を試みてしまった。これは名号を唱えれば救われるという念仏に反するもので、これには大きな反省をすることとなる。だがそのような経験をもう一度体験しており、その二回の宗教体験を通して親鸞はその思索を深めている。親鸞は自己を見つめることによって仏法を解釈してゆき、道元は正しい仏法を求めて遍歴する。その点で二人は、決定的に異なっている。
 この親鸞が書いたノートが『教行信証』である。これは『選択集』の注釈とも言える、様々な古典の抜き書きであった。また、彼は次第に信者を増やしてゆき、その信者の中で小さな道場を設ける者もふえていた。だがこの道場の僧の中には、他の寺と信徒の奪い合いを行う者もおり、その結果として念仏禁止令が出ることとなってしまっていた。
 一方で、道元は帰国すると"正法"を広めるべく活動を始める。彼は坐禅こそが仏法の正しい道であると主張し、しかしそれゆえに叡山からの迫害を受けた。これに対して道元は波多野義重の庇護のもと永平寺を建立。禅林を得た彼は、思想を円熟させる一方で修行僧の規律を整えた。道元は再び厳しい修行生活へと入り、その生活の中53歳で示寂することになる。
 一方、親鸞の教団の中では内部対立が顕著となっていた。道場主の中での思想対立が噴き出したのである。その中、息子の善鸞が教団を破壊し、自らのものにしようとしていることを知り、親鸞は善鸞を破門している。
 そのような苦難の中、『自然法爾法語』で究極の信仰を著した親鸞は、90年の生涯を閉じている。

 鎌倉時代の文化は、院政期文化の完成といえる1198年ごろまでの第一期、動乱の中での自己形成・確立を行った人々による1220年ごろまでの第二期、貴族文化の退潮による思考錯誤の時期である1262年の第三期と、三分割することができるのである。
(Spheniscidae)
+ 東への旅・西への旅
東への旅・西への旅
 東西二大勢力の出現によって、東海道の重要性が高まってくることになる。
 この出発点は京の粟田口である。後鳥羽上皇の再建である法勝寺八角九重塔がまず目立つ。また鴨川の東には六波羅の探題がある。平安京としての京が衰退する一方で手工業者や商業者が発展していた。
 近畿の農村では、神社の祭礼などを共同で行う宮座が、すでに組織されていた。山野や水利を共同利用する村が、次第に成立してきていたと考えられる。
 十日に一回ずつ開かれる十日市は、鎌倉時代の貨幣経済発達に応じて全国に広がっていた。奴隷も含め、様々な物が売り買いされていたのである。
 だが旅をするということは危険を伴った。馬を利用するのは武士くらいで、殆どが徒歩。草鞋等を利用し、故に草鞋を売る店が街道には存在した。道路状況もよくなく、また川は大きな障害として立ちはだかった。盗賊もしばしば出没していたのである。
 このころ、東海道では宿場町が発展していた。これらの宿には遊女が少なからずおり、物語として語られることもある。遊女の他、傀儡女などの芸能民も東海道を中心として活動していたと言われている。
 乞食も多かった。この時代は飢饉も多く、農民の中には乞食に零落するものも少なくなかったのである。
 鎌倉とは、三方の山に囲まれた都市であり、入るには七つの切り通しを利用するしかない。またその入り口には木戸が設けられていた。鎌倉が過密都市であったことはまちがいないが、その人口は明らかではない。
 都市計画も行われたが、狭い鎌倉では京のように碁盤の目とはいかなかった。だが辻子と呼ばれる小さい道を通すと言うことは行われている。
 承久の乱ののち、幕府の権力は全国化し強大化した。また経済の中心の役割を担うことともなり、それゆえ鎌倉は飛躍的な拡大を遂げることになる。
 また和賀江島を港として築造し、そのために貿易港としての機能も持っていた。
 鎌倉では大路の中央に水が流れ、それを利用していたようだが、その上に張り出す違法建築もしばしばあったようである。
 鎌倉の大仏は、奈良の大仏が国家事業で作られたことに対して、阿弥陀信者の募金によって作られており、好対照をなしていると言えよう。

 1266年、親王将軍は京へと送還された。このことは、これまでの鎌倉幕府の歴史――地方社会のエネルギー噴出ということを、象徴する出来事である。一方、この時代東アジアを激動が巻き込みつつあり、鎌倉幕府の真価がためされようとしていた。
(Spheniscidae)
最終更新:2009年12月29日 17:52
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