第九巻 南北朝の動乱(佐藤進一 著) 後編

+ 京都争奪戦
京都争奪戦

 直義と比べ、尊氏は状況主義者であった。思想を曲げない直義に対し、尊氏は直義を討つために南朝と手を組もうと使者を出した。南朝はこれにかこつけて強硬な要請を出した。それに従って、北朝の崇光天皇・皇太子直仁親王は廃され、年号(国家権力のシンボルの意味を持つ)は南朝の正平に統一された。観応二年(1351年)は正平六年と呼び代えられた。
 南朝は北朝の 神器 は偽物であるとして、接収すると宣言するとともに、北朝の正当性を否定した。このほかにも、尊氏の元弘没収知回復令を無効として、以前の状態に差し戻そうとするなど混乱を招く政策を打ち出した。 義詮 はこれを南朝の自専として抗議した。
 そうこうしているうちに、南朝軍は武力行動を開始する。南朝は京都を軍事支配することを目的とし、北畠親房を中心とした武力行動が各地で始まった。軍事力に乏しかった義詮は、多少不利な条件でも和議をしようという方針であったが、見通しはなかなか明るくならない。南朝が義詮の和議提案を承諾し、さてこれからかというところで今回の京都進軍が起った。義詮は南朝が和議を破ったとして、正平の年号を廃して観応と呼号して諸国の武士に動員令を発した。幕府は観応、南朝は正平、直冬は貞和と、三種の年号が並立する形となった。南朝は八幡に退き、義詮は一カ月足らずで京都を奪回する。
 八幡に立てこもった南軍は飢餓に苦しんだ。もともと京都は飢饉状態で、農民も兵糧の徴収に激しく抵抗したからである。このような事情もあり、形勢はしだいに幕府軍に傾いた。後の鎌倉攻撃も失敗し、南朝軍は駆逐された。

(Jiyu)
+ 南朝と九州
南朝と九州

 三度の京都の奪回が失敗に終わり、指導者親房も死亡し、南朝は大きな打撃を受けた。親房の政治思想は旧体制と新体制の中間に存する、折衷的なものであった。幕府の存在は否定せずとも、幕府が朝廷から政権を「奪い取る」ことは否定していた。後醍醐の後に彼が長期に南朝を統一できたのは、この思想、経歴、そして政治能力によるものが大きい。
 天皇といえども、儒教的な善政を行わなければ衰退する。神器を伝える者は、神器の表す三徳(正直・慈悲・智恵)を備えていなければならない。そして南朝の 後村上天皇 は神器を持っている。これは逆にいえば、三徳を持った者に神器が収まったといえ、南朝は正統であるということになる。正統なものが人臣を納めるのは当然である、といった論理が南朝のイデオロギーであった。
 親房の死んだ歳の重月、御村上は河内天野(大阪府)の金剛寺に移る。この地は大覚寺統の経済的基礎をなす八条院領に属し南朝の武力としても最有力視されていた。尊氏の宥和政策も影響し、1355年(文和四)から三年余りは南朝に平和が訪れた。しかし、1358年(延文三)、尊氏が病死してからは自体は一変する。義詮は関東から大軍を西上させて、南朝を攻めんとする。しかしここで義詮は伊勢の守護で幕府の最有力者の一人であった仁木にとらえられ、状況は一変し南朝に有利となる。南朝は上京し、一時的に南朝年号が復活するが、二十日後には義詮が京都を奪回する。
 1336年(延元元)、後醍醐は尊氏の和平申し入れに応じて叡山を下るに先立ち、王子 懐良親王 を九州に下した。その時懐良は征西大将軍の称号を与えられたが、僅か八歳であったため、従者の筆頭の 五条頼元 が筆頭として動いた。懐良一行は肥後の菊池氏・阿蘇氏を頼ろうとした。余談であるが、菊池家の置き文(家の掟)には血判が押されており、これが史料で最古の血判であるという。血判には呪詛的効果があると考えられていた。呪詛にまで頼らないといけないほど人が信用できなくなった時代となったことの傍証であろう。
 南朝は東方勢力を失うにつれて、地方経営に重点を置いて生き残ろうとする。点加算分の形勢となって、直冬が九州・中国に勢力をふるうようになると、瀬戸内海上権の争いはますます激しさを増した。九州には鎌倉幕府創業以来の有力な守護が三人存在し、いずれも中央で敗れた尊氏を迎え入れて再起させたという大功がある。尊氏に対する発言力は並大抵ではない。彼らは国土の加増と独立軍事権を尊氏に要求した。尊氏はこれを一部受け入れ、幕府の九州に対する支配力は弱まってしまう。
 九州は大宰府という機関が官庁があり、平安時代には九州全体を統轄し、外交・貿易・対外防衛を行ってきた。鎌倉になると頼朝が武士を派遣して大宰府の上に付け、大宰府の権限は縮小する。南北朝時代になると、幕府の権威も不安定であったので、それに伴って九州の権力図も目まぐるしく入れ替わった。

(Jiyu)
+ 苦闘する幕府政治
苦闘する幕府政治

 1355年、幕府は京都奪回に成功した。三度目のことである。三分の形勢は継続しつつも、趨勢は幕府へと向かっていた。元々三勢力は諸国の利害関係を代表していた。幕府が勝利したと言っても、イコール社会の安定とはならない。幕府の苦闘が始まる。
 南軍および直冬党の京都侵入を三度も許したとあり、義詮の権威は失墜していた。そのため各地の守護は将軍の権威を無視して従わぬことがたびたびあった。これとならんで、荘園領主の権利回復要求も幕府を苦慮させた。幕府が混迷していると見るや、彼らは強訴を用いて強硬に要求を突き付けた。荘園領主は守護としばしば利害を対立させ、幕府は彼らの間で板挟みとなった。
 このころ九州では、懐良親王が1355年(文和四)に博多に入る。南九州では依然として南軍が幅を利かせていたので、僅かな足利軍はしきりに京都へ使者を送って将軍の助けを請うた。北陸においては、孫子を敵視する越中の桃井、直義が股肱と頼った越後の上杉が健在であった。関東では新田一族の反幕活動が絶えず、これらの勢力は幕府の頭痛の種となった。
 幕府において、統治は義詮が担当し、重要な部分は背後で尊氏が指示を与えた。これにより幕府の構造的問題である二元制は一応の解決がされた。
 幕府は所領裁判機関である引付の規模を縮小して、義詮の親戚をそこに参与させ、義詮の裁判権を形式的なものから実質的なものに変えた。これにより裁判は簡単になり、迅速に処理されるようになった。複雑な裁判は当事者双方を利さない。この簡易裁判は、将軍権力の確立とともに、荘園領主を保護する実効性もあった。
 また 半済立法 という法令も発布し、半済を限定的に認めた。半済は元々戦乱期に生まれたものであったが、決定的な勢力を持てない幕府はこれを認めるという苦渋の決断をした。
 幕府はまた、降伏すれば本領は返付するとの条件を提示し、南朝党と直冬党に降伏を促した。翌1356年(延文元)、直冬党の最有力者である越前の斯波が帰参し、この政策の最大の効果となった。尊氏は南朝党・直冬党に対して、従前通りの宥和策で臨んだ。
 1358年(延文三)、尊氏は島津の請援に答えるべく九州進出を決意するも、果たせぬまま四月三十日に五十四年の生を終えた。尊氏の後は予定通り義詮が将軍職を継いだ。ブレーンの 賢俊 、ライバルの文観も同時期に死に、そして義詮の子である義満が生まれる。老人は死に、新しい世代に歴史が受け継がれていく。
 尊氏の死後、各地の有力守護が再び台頭し始める。義詮はこれに対して、武力で鎮圧するという強硬策を採る。尊氏の宥和政策とは対照的である。
 1362年(貞治元)になると、ようやく幕府に安定が見えてきた。 斯波氏 を執事に任命して将軍の家来とするとともに、その地位を拡大させた。地位・権限が高まった執事の職は、 管領 という職称で呼ばれるようになる。斯波氏に権力を与えつつ、民衆には譜代の家来と化したことを示すというこの政策は、幕府の安定に大きく寄与した。この翌1363年(貞治二)、山陽の大内・山陰の山名を帰服させることに成功する。実際にはこれは降伏というより対等な条件での和睦という側面が強かったが、ともかく統一への一歩となったことは間違いない。
 義詮と斯波の関係は1365年(貞治五)終わりを告げる。義詮がひそかに呼んだ近江の守護佐々木氏が挙兵して入京したのである。斯波誅伐のふれが直ぐに在京の諸将に向かって出され、斯波には京都からの退去命令が同時に発せられた。去らねば討つということである。 斯波高経 は家来を連れて一族家来を率いて将軍邸に近い三条高倉の邸宅に火を放ち越前に下った。義詮はこの事実を報じて、近国の守護を討手として越前に差し向けた。斯波の突然の没落は、幕府財政回復のための所領没収による恨みが根源的な原因と言われている。斯波が失脚すると、斯波の政策により被害を受けてきた者が次々と幕府の要職に登用された。

(Jiyu)
+ こ守護の領国
守護の領国

 鎌倉幕府における守護は、軍事指揮者のほかに地方官吏としての性格を要求されており、室町幕府もこの方針を継承した。守護が領国体制を確立するには、任国内の地頭・御家人層を自分の組織に繰り込む必要があった。また彼らの抵抗も強かった。守護・地頭・御家人はいずれも幕臣という立場であったから、いずれか一つに他の二つが従うという理には納得ができないのである。諸国に散在する所領を保障できるのはあくまで幕府であったため、地頭・御家人は守護でなく幕府に付こうとした。
 この他にも、 一揆 を形成して幕府からの独立性を保つといった方策も盛んに採られた。ここで言う一揆は武士間の同盟である。分家に次ぐ分家を重ね、勢力が弱まった武士が再び力を取り戻すために結成された共同体である。惣領からの独立といった観点もあった。彼らは契約書を交わして同盟の掟とした。いずれも平等に一致団結するという観点から、 傘連判状 なる署名方式が採られた。
 このような中、守護に付く者も現れ始める。しかしながら、この結びつきは排他的なものではなく、守護に付きながら幕府にも付くと言ったことが多かった。守護は主従関係を解消されないように、常に警戒をしておく必要があった。
 地頭・御家人を臣下にするのが難しいならば、と守護たちは荘官・名主層獲得を目指し始めた。彼らは荘園領主からの支配を抜けだそうと、活発な活動を行っていた。この場合も、荘官・名主は荘園領主と守護の両方に主従関係を結ぶことが多かった。守護は軍事的必要性に応じて、荘官・名主を動員して軍事力として使用した。
 守護の権威は家来である武士の動向に強く依存していた。命令を遂行してもらうためには暴力が必要で、その暴力を実行するのは武士だからである。政情が安定しないこの時代において、武士たちの機嫌を損ねないことは必要不可欠であった。そのうち、武士は守護の相続問題、政治的意思決定にまで影響力を持つようになった。
 守護は既存の体制を否定するほどの力を持てなかった。既存の体制に寄生して、徐々にその権威を奪取して力を強めていく、という方法で国の支配体制を作り上げていった。非力な中下級貴族や小社寺は、守護や近隣武士の相次ぐ侵略に苦しまされた。

(Jiyu)
+ 名主と庄民
名主と庄民

 守護は、はじめは軍事・警察に関する権限を中央からもらって派遣されたのだが、次第に 被官層 を形成し、任国を領国化するに至った。荘園もこれに応じて支配されたのだが、では荘園内部での権力関係はどう変わっていったのだろうか。
 鎌倉時代以降、荘園は基本となるいくつかのを中心として成立していた。名は支配の単位である。ある名に割り当てられた田畑は、その保有者および権利者の名が付けられている。保有者および権利者は名主(みょうしゅ)と呼ばれ、年貢その他の負担は名主の責任で行われた。荘園領主が掌握する必要があったのはこの名主である。領主が名主を自身の都合に応じて代えることはたびたび行われた。
 名主職は領主の 御恩 で供与されるものであった。この時期は訴訟が頻発し、訴訟進行も証明が偽造文書で行われるなど不法な面が多く、名主の地位は安定しなかった。こうした状況が、南北朝内乱の社会的基礎をなしていた。
 南北朝の後期になると、名主は相続による安定職になっていく。荘民たちが荘園領主からある程度独立的地位を獲得したことが深く関係している。鎌倉後期に名が分裂し、その勢力を復興するために一揆が形成されていった過程で、荘民たちは荘園領主より荘民同士で自立する道を選んだ。そうなると各荘民に自立心が芽生え、そのトップである名主の地位も安定するという塩梅である。彼らは団結して請願し、年貢の軽減や代官改替を訴えた。この試みは恒常化され、領主もついに一揆という自治単位を承認するを得ない状況となった。この動きはさらに発展して、年貢の損免要求にまでなった。荘園を超えて、各地の農民たちが相互協力して幕府を含めた国家権力への反乱にまで成長した。領主の選択肢は二つ。荘民たちの要求を聞き入れるか、それとも武力で制圧するか。領主自体の武力は乏しい。そうであれば、軍事力・警察権力を持った者に頼らねばならない。そのような存在で、身近にいるものは誰か。守護である。

(Jiyu)
+ 室町殿
室町殿
 義満の輔佐として政権を握った管領・細川頼之は、就任すると早速半済令を出している。しかしこれはむしろ寺社本所保護の側面の強いものであった。これは、頼之が旧仏教を保護し、一方でこれと対立する禅宗には統制を加えていたからである。
 また南朝との講和にも取り組んでいる。これは南朝側で強硬派・長慶天皇が即位したことによって挫折を余儀なくされ、楠木正儀の北朝転向のきっかけとなった。
 九州探題も、渋川義行から今川了俊へと代わった。それは義行が九州に入ることすらできなかったからという理由からである。しかし同時に、これは斯波派である渋川氏の排斥という側面も持っている。
 頼之は、前管領である斯波義将に対抗する反斯波派の長として行動していたのである。しかしその一方で、斯波派の反幕への転向を防ぐため、南朝への攻撃を行わせてその動きを潰している。
 しかし、所詮は管領も守護勢力と荘園領主勢力との均衡に立つものであり、それが変化すれば容易に失脚する。頼之もまた、守護の勢力均衡が崩れたことによって失脚を余儀なくされた。
 義満は、この守護の二大勢力――細川と斯波――の調停役として君臨するようになる。だがその性格は「弱きをくじき強きを助く」というものであったということができるだろう。また直轄軍の強化を行っており、そのための管領からの権限剥奪や、直轄領の増加などの政策を行っている。義満は諸機関を分割・統制し、そのことで絶対権限を確立したのである。
 守護の圧迫、勢力漸減にも義満は力を入れている。各地へ直々に訪れる一方、一族対立を利用し、土岐氏・山名氏といった大守護を壊滅へ追いやっている。
(Spheniscidae)
+ 王朝の没落
王朝の没落
 幕府は北朝を擁立し傀儡としてはいたが、北朝はまだ大きな権限を握っていた。彼らは荘園領主の長として独自の政治を行うことが可能だったのである。
 しかし半済令や武士の押領によって、北朝の権限は次第に失われることになる。荘園からの収入が激減したため、北朝は京都の営業税のみを財源とすることになる。
 当時の京都は、物資の集積地として大きな役割を果たしていた。貨幣経済は地方にも浸透しており、生産する地方と消費する京都が、座を組む商人たちによって接続され、その媒介として銭貨が利用されたのである。
 この財政諸策を行うのが、検非違使庁であった。これは元来警察裁判権を握る庁であったが、その座を次第に幕府が担うようになると、行政権を行う庁へと変貌することになる。また、叡山も京都の中で非常に大きな権力を持っており、座の多くを握っていた。
 その叡山と使庁からも幕府は次第に権限を奪うことになる。義満時代になると行政裁判権をも奪っている。
 また南朝との和睦にも踏み切っている。これは一つに、守護が反乱する際の大義名分を消す目的があり、また北朝の権威を絶対化するという目的があった。そうすることで、義満自身の権威をも高めることができるのだ。この合一は、南朝をも敬するという建前であったが現実では、南朝の権威は殆ど消し去られたものであり、以後もささやかな抵抗を南朝残党は続けてゆくことになる。
(Spheniscidae)
+ 日本国王
日本国王
 義満は1394年、征夷大将軍を辞すと同時に太政大臣となった。まもなく太政大臣を辞し、出家するとほぼ同時に、今川了俊を九州探題から解任している。これらは王権を接収する義満の事業が完成に近付いていることを示している。
 太政大臣になることによって、義満は王朝権力をも左右しうる地位を得たということになる。また出家することで、世俗の身分を超越する立場へ登り、そのことで家格の壁を取り払った。また、九州探題を解任し、明との通交権も握った。
 九州は最後まで南朝が抵抗を行った地域である。了俊はこの中で、豪族の切り崩しを図って南朝勢力の弱体化に成功している。しかし少弐冬資を刺殺したことは、三守護(大友・少弐・島津)の反探題意識を爆発させ、島津と南朝との二面作戦を取ることになってしまっていた。彼は将軍が絶対権限であり、その代官である自らもまた国人を指揮する権限がある、という論理から国人を説得にかかっているが、それは自らの手で国人を掌握するためであると言える。
 そのような状況ではありながら、了俊は南朝勢力をほとんど壊滅させることに成功している。しかしそれと同時に今川了俊は解任されることとなった。これは、上記の論理を通じて了俊が私的国人支配を強めていたこと、了俊が島津ら守護の抵抗を排除し九州を統一するのが困難だったこと、了俊が明との通行を握りつつあったことに由来するだろう。
 当時、明や朝鮮では倭寇が跋扈していたが、これは九州の南朝側諸勢力によって行われるものもあった。了俊はこれを取り締まり、対外的な立場を向上させていた。しかし明に関して言えば、日本の明服従を明らかにしなければ通交は叶わず、その権限があるのは義満一人といえた。そして明服従を飲むことで、九州統一も叶うといえる。
 そのための一つの障害である了俊を排除した義満だが、排除すべき相手はもう一人存在していた。それが大内氏である。大内義弘は大きな権力を九州に持つ一方、山名敗亡後唯一の、有力外様守護であった。そのため、義満はこれを徴発して反乱させた上でこれを討伐した。
 こうして障害を排除すると、義満は永楽帝へ使者を派遣して日本国王の称号を得ている。そのことで義満は外権力たる明から日本の主権者たることの権威を得、また明との交易を握ることで経済をも完全に掌握した。
 1408年、義満は危篤に陥り、俄にその生涯を終えた。これに対して、朝廷から"太上法皇"の地位を奉られたが、嫡子の将軍・義持はこれを拒否している。この際、義満は後継を決定しておらず、周囲の人々の推薦によって義満と正式に決定されている。
 この時代、守護や国人の後継を選ぶのは、家内の有力者であった。有力者に支持されるかどうかが最も大きな後継決定要因であったのである。これは惣領制解体によって血縁者による結合が期待できず、家内有力者の協力が必須となっていたからである。幕府もまたこのような状況にあると言う点で、義満の将軍絶対化もまた限界があったといえるだろう。
 つまり、国家権力の被支配者集団内部への浸透は、非支配集団の政治参加と相関関係にあったといえる。このありかたこそが室町幕府の特質であるといえる。前者は後醍醐帝の新政より始まっており、これは被支配者の抵抗によって解体された。前者と後者がともに成し遂げられるには、丁度70年ほどがかかったといえる。この動きは処々の武士たちの自衛行動によって起因するものであるといえ、この体制構築の為に長い争乱があったといえる。
 このような観点に立つと、義満による体制完成は既に次代への出発であると言えよう。この体制をもまた、新たな勢力によって打ち崩されてゆくのである。
(Spheniscidae)
最終更新:2010年02月07日 21:48
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