第十八巻 幕藩制の苦悶(北島正元 著) 前編

+ 天明の大飢饉
天明の大飢饉
 田沼時代には幾度か飢饉に見舞われ、不作が続いたが、天明の大飢饉は大きな物であった。天明三年に浅間山が大噴火し、江戸や仙台でも降灰が確認され麓では多数の死傷者が出た。この年は異常気象に見舞われ、その結果特に東北地方で人まで喰らうような地獄絵図が現出することになる。
 このような大飢饉では幕府諸藩も様々な対策を講じるが、同時にこの米高騰状況で臨時収入を得ようと米価釣り上げなども行おうとした。故に餓死者増大を招き、また一揆を引き起こす原因ともなる。
 しかし、大量の餓死者を出したのはあくまで東北地方や山間部に限られる。その他の地方では貨幣経済の発達から農民が商品作物を通じて現金収入を得ることが可能であったからと考えられる。それでも農村が疲弊することには間違いなく、特に中流の農民の没落を招いた。その中で農村内での矛盾が高まっていく。そしてこれは一揆・打ち壊しの激増という形で現れる。関東地方では豪商や地主の襲撃が頻発し、関西では国全体の蜂起である国訴もおこった。
 このような政治不信の高まりのなか、田沼意次の嫡子・意知が暗殺される事件があると、その犯人である佐野政言は世直し大明神として祭り上げられることにもなる。田沼は政治的に苦しい立場に追いやられ、ついには老中から追われて失脚の憂き目を見ることとなった。田沼はこの時期、自らの政権の延命を図るためにあくどい手を様々使ったと言われ、この時期に亡くなった将軍・家治や将軍世子・家基は田沼によって毒殺されたとも言われる。
 しかし田沼失脚後、暫く次期政権担当者が定まらず、政治は混乱を見せる。これに伴って社会混乱が広がると、全国各地で打ち壊しが勃発した。この流れの中で江戸大打ち壊しも行われ、政情はますます不安定となる。しかしこれは、この時奉行に任命された伊奈忠尊が、米を買い集めて江戸に送るなどの諸政策を施し、割合早く安定を迎えることができた。
 そしてこの打ち壊しの直後、田沼派を排斥する形で松平定信が就任するのである。
(Spheniscidae)
+ 松平定信の登場
松平定信の登場
 松平定信は吉宗の次男・田安宗武の七男に生まれた。定信の兄弟は治察を除いて皆夭折しており、定信も体は強くなかったという。しかしその明晰さは著名で、将軍家治にも可愛がられた。だからこそ田沼意次には目をつけられ、定信はやがて白河松平家に養子として送りだされることになる。兄・治察も体が弱く、故に治察の養子として定信を置く予定だった田安家は反対したも押し通され、その後治察の死によって一橋家から養子を貰うことになる。
 白河藩では天明の大飢饉の直後に藩主を襲職し、最初から難題へと取りかかることになる。しかし定信はそれを上手くこなし、東北諸藩が十万単位の餓死者を出す中白河藩からは餓死者を出す事がなかったという。これに始まる藩政の刷新は白河藩をよみがえらせ、定信の名を挙げることになる。
 また定信は田沼政権下において、他に不満を持つ有能な譜代大名たちと頻繁に語りあった。また意次の政治壟断に憤慨するあまり彼の刺殺を決意したり、或いは幕閣となるために賄賂を盛んに送ったりと活動を活発にした。その結果、田沼意次の罷免の後、晴れて定信は老中に就任した。これもかなりの抵抗を受けた物であったが、御三家・御三卿の支援の元で成し遂げたことであった。定信が老中首座となると、将軍補佐の地位を得て地位を確立し、その上で田沼派の粛清に乗り出している。結果として役人の殆どから田沼派は一掃され、幕府体制は一新された。また大奥へも手を伸ばし、田沼に近い女中は追放の処分をした。
 彼の政治は、御三家・御三卿とも協議しながら老中が合議で決裁する形で行われ、経済政策に関しては在野の知識人からの建策も受け入れた。また幼い家斉の薫陶にも力を注いだが、これは家斉が定信を煙たがるのみであった。
(Spheniscidae)
+ 足の裏までかきさがす
足の裏までかきさがす

松平定信は1787年に将軍補佐に就任して以来、6年にわたり、所謂「寛政の改革」として様々の幕政刷新に努めた。しかし、改革も後半になると
「孫(吉宗の孫、定信)の手が かゆい所に 届きかね 足の裏までかきさがすなり」
「白河の 清き流れに 魚住まず 濁れる田沼 いまは恋しき」
という落首に表わされるように、最初は定信の清新を喜んだ都市民も、重箱の隅をつつくような奢侈の禁止に失望するようになった。
定信も政治は最初清新だと民衆に歓迎されても、やがて飽きられるものだ、と述べているが、まったくその通りとなってしまったのである。

定信は重箱の隅を、と揶揄されながらも、田沼時代に政権と結びついていた株仲間を解散させ、貨幣相場の調整、米価の安定、幕府が直接物価調整に乗り出す足がかりとなる金融市場を設け、また地方の取引にまで目を光らせて、諸物価の人為的な価格調整を続けた。
またなんといっても、民衆の目に映るのは過度な奢侈の禁止だろう。儒教的な考えを持つ定信は、自ら率先した禁欲生活をしていた。
同様の事を幕臣、また国中に強制し、遊女の取り締まりをはじめ、日常生活と風俗を厳しく取り締まった。
こうして日常生活を圧迫する定信から、民衆の心は徐々に離れていった。

(hanaze)
+ 農村復興
農村復興

1790年11月、定信の行列に駆け寄る者があった。代官の不正を直訴する為に単身河内からやってきた、又右衛門である。
彼の言うには、代官が賄賂によって各村の税率を上下させるので、適正な税率を定めてほしい、という事であった。
定信はこれを聞き入れ、不正を働く代官を淘汰したが、その一方で、公平な税率にすることを口実に年貢増徴を行った。
幕府も年貢搾取に血眼であり、それに又右衛門の訴願は利用されてしまったのである。

こうした幕府の執拗な年貢の収奪は農村を疲弊させ、日本の人口は減りつつあった。
しかし、三都には農村で食べて行けなくなった農民が流入し、逆に人口は増えていった。
幕府も旧里帰農令(人返し令)を出して、都市に流入した農民を農村に返し、農業生産向上を図ったが、中々結果は上がらなかった。

一方で、倫理的、且つ土地の実情に即した政策を実行し、名代官と呼ばれる働きをした代官達や、藩政改革に努めて、一時は版籍奉還寸前にまで追い詰められた米沢藩を復活させた上杉鷹山と藩士莅戸大華(のぞきたいか)など、定信の政治に対する熱心な姿勢に応ずるべく、各地で結果を出した者もいる。
(hanaze)
+ 米価調節と御用金
米価調節と御用金
 1793年、老中松平定信が突然辞職した。もっとも、光格天皇が父に太上天皇の位を与えることを定信が反対した、尊号一軒の責任を取らされたのではないかとも言われている。
 しかし、結局のところ理由は不明である。

 ちょうどこのころ、米価低下の真っただ中であり、逆にそれを引き上げる政策がとられていた。
 幕府は江戸に金融機関を設置し、利貸もついでにさせることにした。しかし、根本的な解決策にはならなかった。

 第2の解決策として、衰退しつつあった菱垣廻船を復活させることを狙った。
 しかし、海難の多発や速度が遅いこともあって、菱垣廻船はやはり衰退する。代わりに台頭するのが樽廻船だった。
 幕府は菱垣廻船を利用する者の仲間を作るなど、さまざまな抵抗を試みたが、結果的に米価が下がることはなかった。
 幕府はこの原因は、仲間を統括していた人物にあるとして、彼を追放した。その後、米を原料とした食品の物価を下げる方針に乗り出した。
(ほたるゆき)
+ 諸国国産品
諸国国産品
 藩主たちは、国産品の生産に力を入れていた。国産品こそが、藩の経済を支えるものだからだ。
 これは儒教における貴穀賤金の思想と対立するものだ。なぜなら、このように国産品に力を入れることこそ、藩の商人化だと考えられるからだ。
 藩はこうしてそれぞれの経済的自立を目指すが、どうやら幕府の経済を助けようという、国益の思想はまだ浸透していないようだ。

 このころ、京都の西陣では、機業者が株仲間を作るなどのさまざまな手を使って独占的地位を守ろうとしたが、糸の高騰により、深刻な打撃を受ける。
 追い討ちをかけるのが天保の改革での、株仲間の解散であった。これにより、徹底的に崩壊してしまうのだった。
 また、糸といえば1849年になると、分業にもとづく工業――すなわち、マニュファクチュアの基礎が完成しつつあったらしい。

 ところで、この時代発展しつつあったのは、関東地方であった。とくに江戸の周辺は大量の商品流入により、市場が激変するほどだったようだ。

 なお、国産品を大まかに分類すると、以下のようになる。

 縮緬:丹後、長浜
 藍玉:阿波
 蝋:肥後
 紅花:最上
 瀬戸物:尾張、美濃
(ほたるゆき)
+ 海防と探検
海防と探検
 近世に入って蝦夷地の支配を幕府に公認されたのは松前藩であり、内地商人とアイヌとの取引は、すべて松前藩の許可を必要とするようになった。
 蝦夷地は米ができないので、藩ではおもだった藩士に全島沿岸の漁場を知行として与えた。この漁場が「商い場所」略して場所といわれたのである。
 近世の蝦夷地はさまざまの資源に恵まれており、場所をもつ松前藩士は酒・煙草・衣料品・米などをアイヌに渡し、返礼として鯡・鮭・鱒・昆布などを得た。しかしアイヌを弱小種族として軽蔑する松前藩は、交易にあたってひどい不等価交換を強要した。
 ただ、松前藩士のアイヌとの直接の交易は長続きせず、経営不振で商人からの借金がかさんだ結果、代償として自分の場所の経営を商人に請け負わせる者がふえ(場所請負制度)、明治初年までには全場所が商人の請負いにかわった。場所請負制度にかわっても、アイヌの不遇な地位はいっそう低下した。
 このような場所請負制度の弊害や松前藩のアイヌ虐待は、様々な識者などが指摘しており、アイヌの過半はロシアに心を通じているとさえ極限する者もあった。したがって幕府としては、ロシア人の南下に対する警備とからめて、なんらかの対策をたてる必要に迫られてきた。そんなとき、ロシア使節ラクスマンの渡来に直面したのである。

 寛政四年(一七九二)九月三日、根室にラクスマンの乗ったロシア船が入港し、松前藩に、漂流日本人を江戸に送致するために来航したむねを告げた。ロシアは安永七年(一七七八)に、日本との交易の開始を松前藩に拒否されたことがあったので、今度はラクスマンを公式の使節に任じ、漂流民大黒屋光大夫、北浜磯吉を送らせ、江戸で幕府に引き渡し、あわせて通商のきっかけをつかもうとしたのである。
 ロシアが日本との通商に執着したのは、北太平洋開発の促進が、ベーリング海をさしはさむ広大な海域における毛皮獣猟業の巨大な利益とからむからであった。
 松前藩からの連絡を受けた定信は、国書・献上物は受け取らず、江戸への来航も許さず、漂流民を受け取り、礼を厚くしてその労をねぎらい、通商の願意があるなら長崎に廻航させることなどを決し、長崎入港を認めた信牌(信任のしるし)を宣諭使からラクスマンへ渡させた。しかし、無理押しを避けたのか、ラクスマンはそのまま帰国の途へついた。

 幕府は寛政三年・四年と、重ねて海岸に領地をもつ諸藩にたいし、警衛に万全を期するよう令達し、その防備の実情について幕府に報告させた。定信は寛政四年十月、江戸湾の防備体制を強化することを建議した。これまで長崎だけを防備地域として九州諸藩に警護させていたのを、ここに江戸湾と蝦夷地が新しく防衛の重点地区として選ばれたのである。
 江戸湾防衛計画は定信の退職により中絶されたが、この計画はやがて天保改革の上知令にもっと進んだ形でうけつがれることとなる。
 蝦夷地の防備については、定信の計画を継いだ老中本多忠籌のもとで、東蝦夷地の収公や文化四年(一八〇七)の東蝦夷地の直轄化という形で実現する。
 そのきっかけとしては、千島における日露の勢力がきわめて近接するにいたるなどの情勢であった。これらが、幕府をふたたび北方問題の対策にかりたてることになったのである。
 幕府は寛政十年四月、大調査団を派遣して蝦夷地全体にわたる実地踏査をおこなわせた。翌十一年一月、東蝦夷地の一部をむこう七ヵ年試験的に幕府の直轄の直轄に移した。同年七月、高田屋嘉兵衛がエトロフ航路の開拓に成功、翌年には近藤重蔵がエトロフに渡り、そこを統治した。

 幕府は東蝦夷地の仮直轄にともなって、同地方の場所を請負制度を廃止し、これまでの運上屋を会所と改称して幕吏の監督下に直捌制(直接交易)を実施した。この直捌制は、「御救交易」と幕府みずから称したように、交易の方法を正して幕府にたいするアイヌの信用をたかめ、かれらを北辺防衛のとりでにするのが主眼であった。その結果、これまでアイヌを苦しめていた場所請負人の誅求もいちおうなくなり、現地の風俗も改善されたが、それにともなう出費が多く、赤字となった。
 他方、場所請負人の復活を狙う裏面工作や、松前藩の復領運動が老中に対して繰り返され、文化九年に直捌制は廃止となり、東蝦夷地の各場所はすべてもとの請負制度に復帰した。
 しかし幕府は、とにかく東蝦夷地の開拓が進んだことに自信を得て、享和元年(一八〇一)に大規模な蝦夷地調査を実施した後、三年七月には東蝦夷地を永久に直轄することに決めた。

 文化元年(一八〇四)九月六日、ロシアの遣日全権大使レザノフが、十二年前に定信の幕閣がラクスマンに与えた約束の履行を要求することを目的として、漂流民を携えて長崎に入港し、通商を求めた。
 レザノフは軟禁同様の体で幕府からの通商許可の報を待ったが、翌二年三月、通商拒否の幕命を申し渡され、傷心のうちに長崎を去った。
 幕府は、翌三年三月、露艦が今後また海岸に近付いたら穏便に帰るよう諭し、もし食物・薪水を要求したら与えるようにせよと令達している。これが文化の撫恤令といわれるものである。
 しかしレザノフは、武力をもちいて日本との通商の道をひらく以外にないと決意し、部下に命じてクシュンコタンやエトロフ島を襲撃させた。
 これらの事件により、幕府は文化四年(一八〇七)三月、東西蝦夷地直轄の令を発し、奉行所を箱館から松前に移して松前奉行と改称した。その翌々月にまたもや露船が事件を起こし、結果、翌五年には蝦夷地の防備体制はさらに強化された。

 このように寛政から文化期にかけては、ロシアの南下に刺激されて幕府関係者の対外危機感が深刻化した結果、一般の士気が昂揚し、積極的に世界の事情をさぐろいうという冒険的な探検精神が横溢するにいたった。間宮林蔵のカラフト島・韃靼(シベリア)大陸間の海峡発見も、そうした気運の所産であった。
 間宮海峡の発見が、十九世紀前後に高まる日本人の進取的な探検精神の現われであるとすれば、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の完成も、その気運に支えられた日本の経験科学の業績の一つである。

 幕府が北方問題に気を取られているあいだに、今度は南の長崎に突発事件が起き、防衛体制の欠陥が暴露してしまった。文化五年(一八〇八)八月十五日のフェートン号事件がそれである。
 これはイギリス艦フェートン号が、オランダの植民地占領に従事していたイギリス艦隊の行動の一環として、オランダ国旗を挙げてオランダ船だと見せかけて、オランダ船を拿捕しようとした事件である。艦長のペリー大佐は、人質のオランダ人との交換条件に食糧・薪水を強要したうえ、港内をくまなく探してオランダ船の碇泊していないことを確かめ、十七日の朝退去した。
 この事件を契機として、長崎の警備はにわかに厳しくなった。

 北方ではさらに、文化八年(一八一一)にゴロヴニン幽囚事件がおきて幕府を緊張させた。ロシアの海軍少佐ゴロヴニンは、南千島および韃靼海峡(間宮海峡)沿岸の測量を命ぜられていたが、その年六月にクナシリ島で幕吏に捕えられ、箱館から松前に送られ、幽囚満二ヵ年ののち釈放された。

 ゴロヴニン事件が解決し、再び北海に小康状態がおとずれた。
 幕府は文政四年十二月、直轄十二年におよぶ東西蝦夷地を松前藩に還付した。これには、ナポレオン戦争を契機としてロシアの極東戦略が後退し、北地警備の意義がうすれたこと、幕府の防衛体制と密接な関連のあった直捌制が、場所請負人の強烈な抵抗をうけて動揺し、また幕府財政にとっても蝦夷地直轄への依存度が低下したことなどが理由としてあった。
 蝦夷全島の還封は、北方におけるロシアの進出を対象として、寛政期このかた繰り返されてきた幕府の海防政策の前段階が、いりおう終結したことを語るものであった。海防政策の後段は、南方からの外圧、イギリス船との交渉によって新しく展開し、再び文政八年(一八二五)二月の外国船打払令の発布を経て、天保の対外政策につらなってゆくのである。

 鎖国日本は国内資本を遮り、発展していた商品の生産と流通を阻んだ。その結果、密貿易が盛んとなり、竹島密貿易の悲劇などが生じた。
 幕府が、密貿易をおさえるためには、むしろ外国貿易を開始すべきだと主張する識者の意見に関心を払いながらも、なかなか開国に踏み切れなかったのは、それによって幕藩体制が瓦解してしまうのではないかという恐れをいだいていたからであった。

(Shade)
+ もとの田沼に
もとの田沼に
 1818年、水野忠成が老中になった。彼は田沼意次に忠実だった水野忠友の養子である。そのためか、田沼政治に倣った政治を行った。
 忠成は家老である土方縫殿介の努力もあり、老中にまで上り詰めることができた。人々はこれを、田沼政治の復活と見たようだ。

 水の出て もとの田沼と なりにける
  そろそろと柳に 移る水の影

 当時詠まれた附け句である。
 田沼の政治と聞いて思い出すのは、わいろだ。そのわいろもまた、この時代になると息を吹き返していた。
 先ほど取り上げた家老縫殿介もまた、忠成を老中にするためにたくさんのわいろを贈ったと言われている。その勢いは、田沼に匹敵する。
 どうやらお金だけではなく、水野家の秘宝まで贈ってしまったようだ。

 ところで、忠成の政治を松平定信と比べてみると、大きな違いがある。
 定信は老中・若年寄の面会日に、猟官運動(官職を得ようとして競うこと)のための大名・旗本が群参することを制限した。しかし、忠成はこれを奨励する。
 当然こうなればお金の力が輝くようになる。これにより、お金によって動かされる幕政が誕生しつつあった。

 一方、財政はどうだったのか。こちらもまた、あまりよろしい状況ではなかった。しかも、限界に達しているためこれ以上年貢を取れない。
 すると、国益増大か、貨幣増発かの二つの道が示される。忠成が選んだのは後者だった。まずは、とさっそく仲間の廃止に踏み出した。すべての仲間を廃止したわけではないものの、大幅に仲間の数が減ることになった。

 ちょうど同時期、金座の後藤三右衛門は改鋳を行っていた。元文金銀は文政金銀になったが、これはあまり評判のよいものではなかった。
 質がよくない悪貨だったらしく、大坂商人や両替商の中には大損をしたものもいた。
 三右左衛門は経済回復に貢献したとして、文政10年に帯刀を許可されるが、問題を天保期に先送りしたに過ぎなかった。


 文政期と言うと、わりと安定した時代だと考えられやすい。しかし、それは嵐の前の静けさのようなものであり、実は非常に不安定なものだった。
 その証拠となるのが、一揆である。いままでと比べると、圧倒的に定住していない人々が指導者となるケースが増えたのだ。あるいは、零細農民のケース。いままで弱い存在とされていた人々が立ちあがりはじめる時代なのだ。
 大和吉野郡で勃発した龍門騒動もまた、指導者は小勢力である小百姓だったことがわかっている。この原因は、年貢増加による抵抗だったらしい。

 龍門騒動をはじめとした村方騒動が、この時代には傾向の変化を見せる。いままで役人層であった人々を排斥し、中心的存在になったのは、弱者とみなされてきた小百姓たちだった。
 排斥の理由は年貢、祭典における座席の独占、行事の優先的実行に対する反発が多い。小百姓たちはついに、自分たちが生産者であるという意識を持ちはじめていたのだろう。

 領主たちを無力化しようという彼らの戦いが、この時代には盛んだった。
(ほたるゆき)
+ 博徒と八州廻り
博徒と八州廻り
 明和・安永期から盛んだった関東地方の経済活動は、化政期に入るといっそう多彩になった。商品流通が発達し、上方への依存から抜け出すなど、盛んな動きがみられた。この結果農民たちの作業率は低下し、放置された土地が増えるようになった。しかし一揆や村方騒動は依然盛んであった。この時期、市場を縄張りにした在郷商人が質地地主に成長するという事例がみられたものの、一方で土地を失った百姓が増加し、無宿人・博徒といった『遊民』が社会問題化する事態となりつつあった。
 幕府は関東取締出役――通称八州廻りを設置し、彼らの対策に当たった。警察機構の強化が見られるものの、遊民の抵抗が治まることはなかった。刑罰を厳しくしても、遊民たちはくじけない。幕府は1827年に『御取締筋御改革』という触書を公布し、村々を統合した。統括を楽にするためである。捕えた遊民たちを養うのは村を統合してできた組合であり、その負担は軽くなかった。
 さらに幕府は、村々の青年団体が反社会的行動をとることに注目し、その解体に当たった。しかし、村の伝統であるこの団体を解体するのは、そう簡単な話ではなかった。

 この時期に村を指導した人物たちの中で、無視することのできない有名人が2人いる。大原幽学と、二宮尊徳である。
 幽学は農民たちが共同の力で生活できることを教え、世界で最初の産業協同組合である先祖株組合を作り上げた。この組合には土地を失った百姓たちをも組み入れていたらしい。
 幽学は『性学』という学問を作り上げ、武士をあがめ、親に孝行することの重要性を説いた。これは当時の社会に反するものではないため、制限を受けることがなく、徐々に浸透していった。
 さらに幽学は、経営にも目を向けた。そして、農民たちの生産力を高めつつ、小作料を増加させて意欲を高め、地主の経営を確立することに成功した。
 幽学は社会の法に従いつつ、疑いのない成果を残していた。それを邪魔したのは、関東取締出役だった。
 彼らは幽学の指導に疑心を抱き、幽学を逮捕した。そして、彼が作り上げた先祖株組合を解散し、指導所も破壊した。失意にのまれた幽学は、釈放後まもなく、自刃する。

 村の指導を行ったもう1人の人物である二宮尊徳は、荒廃した土地を耕すことで、農村の復興を目指した。さらに「分度を定める」と述べた。これは、あらかじめ定めた以上の収穫があった場合、あまりを他者に施すという方針である。このモットーにより農村は発展を見せつつあった。
 彼の理論は重農主義とは異なるものの、儒教社会の農業論よりも進歩したものだったといえる。
(ほたるゆき)

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最終更新:2010年10月15日 00:22
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