第十七巻 町人の実力(奈良本辰也 著)

+ 御蔭参り
御蔭参り

「おかげでさ するりとさ 抜けたとさ」
「おかげでさ するりとさ 抜けたとさ」

単調なリズムに合わせて、同じように菅笠をかぶり、小脇に茣蓙を、腰に柄杓を差した一団が通り過ぎる。子供たちも草履を引きずりながら、それに続いて声を張り上げて「おかげでさ」と唱和する。
野良着姿の百姓や、着飾った娘方、仕事場から抜け出してきた職人、老人を乗せた駕籠や女子供を乗せた馬も通り過ぎる。
彼らは日常から解放された空気の中で互いに親しげに言葉を交わし、道中では報謝といって、食事や日常品、寝床を提供して無銭旅行の支えとなった。

1705年、京都の丁稚長八が貯めた給金を握りしめ、主家の子守の赤子を背にして伊勢へお参りした事は、霊験あらたかな話に脚色されて洛中洛外、諸国に伝え広がって多くの人の心をとらえた。閏4月には京の人々が伊勢へ流れ始めて日に10万人、これが収まると今度は、大阪から日に23万人が伊勢へ押しかけた。
こうして5月29日まで続いた伊勢参宮の群衆は、わずか50日あまりで362万人に上ったという。

この後にもほぼ60年周期で1705年、1771年、1830年に大規模な御蔭参りがあった。
当時の町人百姓は、他所で一泊でも過ごすならば5人組、名主、組頭に届け出ねばならなかったし、その他日々の細かな行動にも制限がかけられていた。
しかしその一方で、施行についての法令や、刑罰の規定が存在せず、役人の心情その時次第であった。だから民衆は、その曖昧な政治の元で安全に暮らすため、ひたすら自戒して自らの生活の幅を縮めながら、肩身の狭い思いをして生きていた。

ところが、江戸時代も中期に入りると、民衆の生活程度も向上し文化的な欲求も高まってきて、自戒ばかりの生活も耐えがたいものになってくる。欲求が高まる一方で、「生類憐みの令」など、封建君主の気まぐれによる抑圧があり、民衆のエネルギーが発散される機会は中々なかった。
ここに来ての御蔭参りなのである。

「おかげでさ するりとさ ぬけたとさ」
と大群衆の一員となって唱和し、宗教的なエクスタシーに身をあずける。
1705年の前にも大規模な御蔭参りが1615年、1650年にあったが、1705年以降において一段と大規模になったのは、この民衆の生活程度の向上があったと思われる。

「翁草」筆者神沢杜口は1771年の御蔭参りで費やされた旅費の総額を銀3万3500貫と計算している。米換算で68万石、これだけの大金が民衆の中に蓄えられていたのである。
また、道中では先に書いた「報謝」として大町人達が金品の施行をしていた。
京室町三井が銭1000貫と米五百石、大阪の鴻池は一人100文ずつ配る、といったように、京・大阪をはじめとして大津・堺・松坂などで相当額の施しがされた。

彼ら町人商人が出てくるようになったのは、廻船問屋など、海の力が大きかった。日本中を1枚に結んで、商品流通の海路が四通八達するにつれ、それらを司る商人たちの金の力は大きくなっていった。
17世紀半ばには幕政も厳しくなり、諸藩借銀している一方で、大商人らを筆頭に町人の金の力は、幕藩が制御できないほどに実力を伸ばしてきていたのである。
(hanaze)
+ 六代将軍家宣
六代将軍家宣
前に好学の犬公方綱吉、後に米将軍吉宗が控えた6代将軍家宣は、何かぱっとしない印象を受けるかもしれない。が、彼ほど失政の少なく、民政に注意を払っていた将軍はまれである。君主というのは平凡で、気まぐれの少ないほうが民衆も苦しまずに済むものである。

家宣は、綱吉の兄甲府徳川家の綱重を父とし、自らも甲府藩主として藩政を執っていた。彼は年齢からして綱吉の次の将軍になるはずであったが、綱吉が自信の執政に自信を持ち、儒教の年功序列に反して、家宣ではなく自らの息子徳松を西の丸に入れるなど、将軍への道を阻害されている。しかし徳松が夭折し、その後も綱吉自らの子ができなかった。結局20年の遠回りをして家宣が将軍世継ぎとして確定した。
この間、別段心を乱すことなくじっと耐え、甲府の儒臣新井白石を師として授業を聞き、勉学に怠ることもなかった。この白石の授業は将軍になってからも日々休むことなく聞いていたという。その年月は19年にも及ぶ。

将軍になった家宣は猿楽師の弟子から取りたてられて側近になった間部詮房や、新井白石を両腕に政治を執った。
綱吉の治世に苦しんでいた民衆も家宣には期待をかけていたようであり、これに応えるようにして、先ず家宣は、先代綱吉が何よりも気にかけて大事にしていた「生類憐みの令」を撤廃した。家宣の断固たる態度に先代の側近柳沢吉保もその堂々たる態度に返す言葉もなかったという。柳沢は先代の命を守るのは不可能と判断し、鮮やかに政治の舞台から身を引いたという。

また新井白石と共に力を注いだのは幕府財政の立て直しであった。
財政については勘定奉行荻原重秀一人に任されており、これまで幕府財政が苦しくなると彼が改鋳を行い貨幣の質を落とし、出た利益で生きながらえる、という体制を正すことであった。白石は改鋳をせずに「入るを計って、出るを制する」事で財政も立て直せる、と幾度も家宣に進言したが、江戸の火災・関東の地震の復興費用、家宣の邸宅建築等、多額の臨時出費に対応できないので、結局貨幣改鋳に踏み切らねばならなかった。
ただし、これまで多額の賄賂などで勘定奉行に居座り続けていた荻原は、白石の度々の進言によって、職を追われた。

白石と共によく働いたのは間部詮房だった。彼は家にも帰らず事務を見るなど、非常に仕事熱心であって、学の足らないところは白石に求めるなど、補完し合う関係であった。

前将軍綱吉が好んだ学問と能楽、そこから身を立てた儒臣新井白石と猿楽師の弟子間部詮房の2人が、綱吉の政治の修正を行ったというのも、歴史の皮肉と言えよう。
(hanaze)
+ 新井白石
新井白石
家宣の頭脳として働いたのがこの新井白石である。
上総久留里城の土屋利直に仕えた豪胆の武人新井正斉を父に、また素姓は知れぬものの、教養ある女性だった母を持つ白石は、幼い頃から父に耐える事を学び、母の影響に書物に関心を持ち、また城主利直からの覚えもよく、その母正覚院にも気に入られて中々に幸福な環境に身を置いていた。

8歳から字を習い、只管に耐えて毎日4000字の稽古をして、また撃剣にも汗を流していた白石17歳の時、中江藤樹の「翁問答」に影響されて本格的に学問を始めた。
学ぶべき師も周りにはいなかったが、四書五経を読んでいたが、父がお家騒動に巻き込まれ牢人になって一家は暗い日を迎える。それでも屈せずに学問にはげみ、大老堀田正俊に仕えるを経て、35歳で木下順庵の門下となった。

当時官学の総本山として林羅山の林家が君臨していた。中には白石の才能を惜しんで順庵の門下から去るよう勧めたものもあったが、報いるべき父も主君もなくした以上、師に報いずして立派な人間とはいえようか、と答えてあくまでも順庵の門下として学び、また官学に実力で競争しようという気迫に満ちていた。

37歳の時、甲府藩主徳川綱豊、のちの家宣に儒臣として仕官する道が開けた。
甲府は先に林家に儒臣として人を出すよう依頼していたが、林家としては将軍綱吉に冷遇されている甲府家に関わって、難しい問題に絡みたくなかったのが本音のようである。
甲府は私学で学ぶ白石に格安の給与を提示してきた。順庵も之が今後の門弟の就職に影響するといけない、と反対していたが、甲府の僅かばかりの譲歩があって白石も之に応じて仕官する運びとなった。

この頃、これまでの、武功の譜代の世襲制による臣下ではなく、一代限りの儒臣が広く用いられるようになった。
これまで戦国期~江戸前期の頃は、道徳と法が一致した関係であった。例えば、「文武弓馬の事、専らたしなむべきこと」という規範そのものが法令として存在している事である。
しかし、「商業=悪」と道徳の面では言いながらも、実際には商売が国家に欠かせないものとなってくると、道徳と法(現実)が乖離してくるのである。

法が支配者の意思を超えて、動かざるものとして存在すべき事が望まれるようになったのである。現実の秩序を維持する事を最高善として目的に掲げ、現実の習慣に基づいた、常識的な判断について、新しい法の立場からする説明が、施政者に必要とされ、それが儒臣に求められたのである。政治が儒学的立場、あるいは学問によって権威付けられる必要に応じて登場してきたのである。

さて、綱豊(家宣)が将軍継嗣に決まって西の丸に入るというとき、白石は駆けつけて自分の考えを家宣に述べ伝えている。この20日後、白石も将軍世継の侍講に任命された。
家宣が将軍になると、白石の活躍が始まる。家宣と共に先代の政治を修正しようという意志があった。そこで衝突する事になったのが綱吉の意のままに意見していた林大学頭信篤である。
白石は綱吉の棺を納める石槨の銘文についてや、武家諸法度の新令公布の時に信篤を言い負かし、大きくは朝鮮来聘使から商人の妻の夫を殺した父を訴えた、という事件にまで信篤との争いは及んでいる。

しかし、ひとたび家宣が亡くなると、白石の礼式・故実に基づく煩わしいやり方に幾分の反感をもった老中にそっぽを向かれ、以降は信篤の意見が採用されるようになる。この後も徐々に幕臣の信頼を失ってゆき、吉宗の代に至って政治上の地位を失った。
とはいえ白石は林家の権威主義的な学問に、正面切って戦った。このことによって、朱子学以外の学問分野の研究が活発になり、新しい学問の発達に大きな貢献をしたといえる。
(hanaze)
+ 白石の外交
白石の外交
 将軍の代替わりごとに朝鮮より来る来聘使の待遇についても白石は改革を行う。朝鮮よりの使者を日本は文化的先進者として珍重していた。一方でこれをどのように受け入れるかについて、白石は改革を行って形式に則ることとしたのである。白石は公家の邸宅にて有職故実を学ぶなどし、その結果、朝鮮からの使者の待遇は簡素化されることになる。
 また天皇家に宮家を新たに創設し、分家を多く持つ徳川家同様、血筋の断絶を防いでいる。政治についても理想に則った公平さを徹底した。
 しかし、荻原重秀を追って行った貨幣改革についてはその不案内から失敗している。
 長崎貿易についても彼は手を入れ、長崎新令を発布して海外への金銀流出を防いでいる。
 このころ、イタリア人宣教師・シドッチが日本に来航して逮捕されている。白石はキリスト教について学んだ上でこれを尋問し、西洋の学問に触れることとなった。そうして、西洋の学問の先進性に着目したことは、やがて吉宗による洋書禁制を緩めることにつながっていく。
(Spheniscidae)
+ 絵島疑獄
絵島疑獄
 大奥は幕政に大きな力を握っており、これの縁故によって力を持った者は多数数えられる。また、商人たちは大奥の女性へ盛んに賄賂を贈り、大奥付きの商人になろうと懸命になった。大奥は男子禁制であって、女性ばかりが多くの階級に分かれて暮らしていた。彼女たちは、将軍に伴って外出する他、寺社への代参や宿下り(帰省)を除いて大奥から出ることはならない。そして殆どが30代までの妙齢の女性であった。
 6代将軍家継は、将軍就任時まだ4歳であり、母親の月光院の下で養育されることになる。間部詮房ら側近たちは、しばしば月光院の下へ訪れて政治を行うが、それは有らぬ噂の原因ともなった。また、5代将軍家宣の正妻であった天英院側の反発も買うようになる。
 そのような状況の中で、月光院付きの女中である絵島・宮路が芝居見物の挙句に遅れ、門限ギリギリに大奥へ帰りついた。これは忽ち問題として取り上げられると、みるみる間に騒動は拡大した。結果、絵島の流刑を初めとして、縁者の切腹や芝居役者の入牢など、多くの人間が処罰される大事件と発展する。
 これについて白石は何も残していないが、これは白石は間部――月光院側に属する人間であったことを間接的に示している。
 この問題は次代の将軍に絡む問題だったと言える。幼い将軍夭折した場合の継嗣として、月光院や間部は尾張の継友を考えていたのに対し、天英院や間部に不満のある譜代諸侯は紀州の吉宗を考えていたのである。この対立関係の中で、天英院側によってこの疑獄が起こされたということもできるだろう。
 この後、絵島は高遠へと流罪になり、後に釈放されるも高遠でその生涯を閉じることとなる。
(Spheniscidae)
+ 文昭院殿の御遺命
文昭院殿の御遺命
 吉宗が生まれたのは綱吉による生類憐みの令発布の前年であった。母の身分は決して高くなく、また四男であるということもあって、身分はそれほど高くなかった。元来より体格は丈夫であり、また質素な生活を好んだ。彼は幸いにして綱吉の目にとまり、越前丹生3万石に封じられ、大名となる。
 しかしこれから間もなく、兄が次々と亡くなり、吉宗は紀州藩主を襲う。彼は紀州へ入国すると、経済の健全化や風俗の改良をしきりに行い窮乏した藩の立て直しを図った。
 家継が亡くなると、文昭院殿――家宣の御遺命を称して吉宗が将軍に推薦され、就任することになる。しかし、実際には家宣はむしろ尾張を頼ろうと考えていたようである。しかし、尾張藩では当主・吉通が変死し、続いて息子の五郎太も夭折し、その過程で藩内での抗争が巻きおこる。この結果、将軍継嗣は紀州吉宗がよいとされるようになっていたのである。
 吉宗の将軍就任を家宣の遺言と称したのは、天英院である。そしてこれに対立する白石は、家宣が元来尾張を推していたこともあって、吉宗に対して大きな反感を持っていた。しかし、絵島疑獄による月光院派の衰退や、譜代諸侯の烈しい反発の中で、間部や白石は次第に力を落としていた。その結果が、吉宗の就任だったといえるだろう。
 吉宗は将軍に就任するや、先代の否定から政策実行を行っていく。つまり、白石の政策は大きく否定されることになった。また倹約を奨励して自ら率先して行い、華美に走る諸侯を注意している。
 武事の奨励も行っており、自らもしきりに鷹狩を行うほか、撃剣の見物や剣豪の取り立ても行っている。
 風俗の取り締まりも行っており、大きく引締めが行われた。書籍や絵曹子の検閲が行われる他、博打の取り締まり、遊女街の打ち壊しなどが行われている。
(Spheniscidae)
+ 享保の改革
享保の改革
 吉宗の改革は、白石による改革の否定によって始まる。結果、朝鮮外交の変化や武家諸法度の改定は全て覆された。しかし完全に否定されたわけでもなく、清・オランダとの貿易統制である長崎新令については継続された。
 結局、吉宗の改革は吉宗が先頭に立った点で目立ったとはいえ、大きい変化があったわけではない。時代の流れは顕然として存在しており、その上にのって行われる政治もまた結局似たような形態を取らざるを得なかった。その一方で、吉宗の政治は新鮮さを感じさせるものであったことは違いはない。目安箱の設置や上米の制などはその代表と言える。
 そんな吉宗の最大の改革が、定免制である。これによって年貢率を一定とし収入の安定化を図ったのである。また永代売買禁止令を発布して自立農の独立を促進し、新田の開発を積極的に行わせた。
 吉宗がもっとも重要視してたのは、米価である。この時期米価は下落の傾向をしめし、その結果人々は困窮していくことになる。これに対して吉宗は買い上げなどで米価のつり上げを図った。ところが、翌年には飢饉に伴って米価は騰貴した。今度は蔵米の開放などによって米価下落を図らねばならなかったのである。
 その翌年以降、再び豊作が続くと米価は再び下落。吉宗は米価公定を図るが、これも失敗した。結局、米の相場を操りえなかったのである。
 朱子学の考え方の上では、商業とは賤しい物であった。農業こそが天に従う労働であり商業は不道徳であるとかんがえたのだ。それゆえ、商業は常に抑えられるものであったが、商業発展に及んで商業の統制が必要となると、徂徠学のような新しい学問が取り入れられ、その中で体系化されてゆく。
 また、この時代から実学が勃興していく。漢訳の洋書の輸入が解禁され、事実に即した研究が促進されたのである。その一方で吉宗はやはり朱子学を重んじており、その点では徂徠よりも室鳩巣を重用している。
 このようなことから吉宗は後にも理想の将軍として描かれるのである。家臣にも分け隔てせず接し、実学を奨励した吉宗は名君であるといえる。
(Spheniscidae)
+ 吉宗の反対派
吉宗の反対派
 将軍継嗣争いの結果、吉宗に敗れた尾張藩も彼に膝を屈することになる。しかし時の当主・継友は吉宗に対抗するだけの力はなく、尾張藩は上米を課せられながら倹約令を厳しくすることで乗り切ってゆく。
 しかし継友が死ぬと、様相が変わってきた。後を継いだのは異母弟の宗春であった。彼は表を切って幕政を批判している。しかしそれを述べた著作『温知政要』は立派なものであり、これだけのものを記せる点で既に彼の逸材ぶりを示していた。
 彼は家を継ぐや、倹約令を解いて祭礼などの制限も除いていった。結果、元々生産力の大きい尾張藩は忽ちにぎやかに発展し、名古屋は大都市として躍り出ることになる。これに吉宗は反感を示すも、尾張藩はその介入をもはねのけている。
 しかし吉宗の改革への反動政策をとっていた宗春は、突如として失脚させられることとなる。吉宗は改革を邪魔する者には容赦することがなかった。
 これは質地制限令の例を見てもわかる。これは百姓の騒擾を招く結果となったが、これを幕府は完全に弾圧し、法令を撤回した。
(Spheniscidae)
+ 大岡越前守忠相
大岡越前守忠相
 この吉宗の時代はまさに、幕府の統治体制の整備が完了した時代といえ、同時に欠け初めの時代であるとも言える。
 吉宗の人事は、役職についている間のみ加増される足高の制によって積極的に有能な人材が登用された。例えば、天領石見銀山領の代官に登用された井戸平左衛門は、さつま芋の栽培を積極的に奨励し、飢饉に備えた。彼自身は飢饉において無断で代官所から米を放出し、その責任を引き受けることになる。
 また大岡忠相は、中級の旗本に生まれながら、間部詮房に認められて徐々に出世を遂げる。彼は吉宗就任直後には若いながらも町奉行として任用される。
 彼については様々な逸話はあるものの、史実として確認される物は少ない。しかし名裁判官として著名であったことは違いないだろう。彼は連座制の廃止や拷問の抑制を積極的に行い、また民政への深い知識を持っていたのである。
 この時代、火事は相変わらず続発していた。それゆえ、対策として火除地とよばれる空き地をあちこちに置いた。また火事の拡大防止のため、庶民の逃亡が防止されたが、これは被害の拡大を齎してしまった。また火事の多発による不満を、被差別民たる非人を犯人として処刑することで解消している。
 また火消がこのころ江戸の町で火事のたびに活躍していた。しかしこれは旗本の定火消と大名の大名火消からなり、広大な江戸の町を守るには足りなかった。ゆえに、大岡忠相は町人による町火消を設立し、防火体制の充実を図った。
(Spheniscidae)
+ 天災と飢饉
天災と飢饉
吉宗の享保の改革によって、表向き幕府財政は幾分立て直したかのように見えた。
しかしこの頃から、全国的に大幅な人口減が目立つようになる。殊に農村では向上する生活水準に対して収支は常に赤字であり、食べていくことができないのである。
諸藩は公務の為に赤字財政である。多額の借銀をし、領内の特産物を過剰に搾取する。一時しのぎの為に行った搾取は、特産物を生産する土地、あるいは人民を痛めつけて立ち直れなくし、恒久の利益を失うことになるのである。当然年貢率も上げ、7公3民にまで引き上げられている。
厳しい年貢の取り立てによって傷ついた百姓は、もはやこの国の多々ある天災に抵抗することが出来ない。台風水害、蝗害、地震、冷害などの天候不順。
特に東北は天候不順が多かった。今でも「やませ」などが猛威をふるう年もある。当時も稲の品種改良等盛んに行われていたものの、激しい寒気を克服できなかった。一度稲がやられてしまうと、その年に数万人と餓死して、さらに翌年以降の労働力が失われていく。対して荒れ地になった田畑は多くの手入れを必要とする。残っている人間も既に農業を十分にこなせるほどに体力が残っていない。
この封建制度は「貴穀賤金」、農業生産を第一として考えている。しかしその担い手たる農村が崩壊を始めていたのである。

筆者は幼少期の一時期に瀬戸内海の島にて過ごしていたとの事だが、一緒に遊んでもらっていた農家の子供達に教えられて、様々な野草や木の実の類を口にしたそうだ。飢饉に喘いでいた島のご先祖の知恵が、子供らの遊びの中に隠されていたように思う、と述べている。
天災の後の飢饉とは、この筆者の経験通り、木の葉草の根で命を繋がねばならぬ深刻なものであったのである。
幕藩の供出する食物を御救小屋に求め、或いは筆者が幼少期に口にした様な雑草の類を山野に求め、一族を養う為に娘を売ったのである。

(hanaze)
+ 諸藩の経済と商業資本
諸藩の経済と商業資本

江戸幕府には暴君もおらず、権力を傘に勝手振る舞いをする臣下もいない。お上の指導のもと倹約にも努めている。だというのに諸藩は数百、数千貫という単位で、収入の3分の1、或いは半分以上にも及ぶ赤字が、毎年発生するのである。やはり参勤交代の時、江戸、或いは道中で費やされる莫大な費用の影響が大きい。しかし封建支配体制の要である参勤交代は、幕府としても、諸藩大名としても、制度の廃止を求める訳にはいかないのである。

諸藩は財政の不足を補う為に様々手を打った。
先ず、土地の特産品を専売にする。しかし、借銀返済の穴埋めとばかり考え、一時期に強力な支配を行うので特産品を製造する人民は逃散してしまう。こうして育成せねばならなかった産業を衰えさせ、有力な財源を涸らしてしまう。
百姓から搾取するにも、前章で述べたような7公3民などが既に行われており、もはやこれ以上の搾取は望めない。

すると、支出を抑えるしかない。武士の俸禄を差し引くのである。
例えば長州藩65万石では、これを借り上げと称して行っていた。尤も借り上げとは言っても返済の義務などない。
最初は二分減と言って2割を借り上げていたが、後々半知といい、半分を借り上げるようになった。俸禄を削られると、武士が自らの石高にあった体面を維持するのは難しく、城下町から自らの領地へ引っ込んで、百姓仕事をするようになる者も少なくない

最後は商人から借銀するしかない。しかし、借銀つもりつもって、もはや収入を上回る程の借銀となる。返済できない利息は元本に繰り入れられ、複利計算で増えていく。
すると諸藩は踏み倒しにかかる。例えば借銀している商人に俸禄を与える。商人は喜んでこれを受ける。すると藩は、おまえは家来なのだから、家来の物は主君の物であるといって踏み倒す。
こうして大名貸しをした故に破産した大商人は多い。それでも藩という大きな客が生む利益は大きなうまみであった。

年代が下ってくると、諸藩は江戸・上方の大商人だけでなく、地方の城下町に出現し始めた豪商から借銀するようにもなる。そして地方の豪商は、藩に貢献したとて徐々にその地位を上げていき、藩から俸禄を受ける、或いは武士や上方の商人と同じ待遇を与えられるようになった。
諸藩は大都市の商業資本や、新たに現れた藩内の豪商から力を借りて生きながらえていたのである。

また他方で支配者は、国産の奨励を始めた。特産品をして金銭を工面し、また農村にも商品作物が広まっていった。国家の礎たる米穀生産から、商品経済へと移行せざるを得ない状況になっていたのである。
また地方に商品作物の生産という産業が発展するにつれ、マニュファクチュアが現れてくる。服部之総氏は、日本の江戸期において、マニュファクチュアの発生を経験したからこそ、明治期に入って他のアジア諸国のように欧米列強の植民地となることなく、欧米列強が歩んだように、マニュファクチュアから資本主義、機械制大工業へと発展することができたのではないか、と述べている。
(hanaze)
+ 揺れる天下
揺れる天下
 1744年、徳川吉宗は60歳になったが、いまだ政界から引退することはなかった。彼はこの年に至るまで米の相場と戦っていた。
 しかし、次第にまわりから飽きられるようになり、62歳のとき、長男の家重に将軍職を譲った。
 もっとも吉宗は完全に政治から離れたわけではなく、大御所となって家重を支援した。

 家重は将軍となってから早い段階で、功臣の松平乗邑を罷免した。
 彼は、政治を一新するという意味で、吉宗時代の責任をすべて背負わされたのだ。封建制度のもとでは、責任がこのように個人に集中することが多いからだと考えられる。

 家重は、吉宗が死ぬまで彼に後見されていた。
 しかし、吉宗が死亡すると、力を伸ばすのは大岡出雲守忠光という人物だった。
 彼は、言語障害を持つ家重のことばを聞きわけることができたのだ。その功績で、彼は側用人にまで出世した。
 彼は常に政治を謝らないように努めていたが、彼が側用人として活躍したため、後の幕政は側用人が権力を握ることになる。

 吉宗から家重の時代にかけて、百姓たちの一揆はすさまじいものだった。
 諸藩の財政はほぼ破綻し、参勤交代もままならない状況だったのだ。大名たちは年貢を高めたが、百姓たちは命を守るためこれに対抗した。

 たとえば、久留米藩においては8万人近くの百姓が抵抗を起こした。
 8歳以上の男女は、1人につき銀札6匆を納めなくてはならないという命令を藩が出したからだ。
 この命令は人別出銀というが、この令はやがて廃止される。なお、一揆を起こした百姓の中には紅花や藍玉の専売禁止を願うものもいた。
 専売が、百姓たちの経済を圧迫しているからだ。だからこそ、百姓たちが専売機関である庄屋に攻撃を仕掛けたのは、うなずけることだろう。

 このような専売が問題になる世の中で、そもそも支配階級や宗教、学問の否定を行った思想家がいた。
 働く農民たちしかいない平等な世界を理想とした、安藤昌益だ。
 幕府はもちろん、仏教や儒教でさえ批判する彼の思想は、江戸時代中に世の中に出ることはなかった。
 しかし、思想家の中ではかなり異端であったことが、後の世で判明した。

 ちょうどこのころ、宝暦事件と明和事件が勃発した。
 前者は竹内式部が朝廷で、後者は山県大弐と藤井右門が幕府で尊王攘夷論を唱えたのだ。
 竹内式部は島流し、山県大弐と藤井右門は処刑された。
 武家体制の根本を揺する彼らの思想に対して、幕府はいよいよ本気で対策をとらなくなってきたのだろう。
(ほたるゆき)
+ 田沼登場
田沼登場
 封建社会においては、米穀を重んじ、金銭を賤しめるという『貴穀賤金』の思想が基本とされていた。
 しかしそれでは幕府は安定せず、やがて『貴金賤穀』という考えに移り変わっていた。
 それでも幕府は前者の考えかたを変えようとせず、将軍の教育もそうだった。すなわち学べば学ぶほど、現実とかけ離れていくのだ。
 当然古い考えを持つ武士たちの性格も通用せず、今の世をうまく渡るのは商人になりつつあった。
 つまり、時代は商人のような官僚を要求していたのだ。

 その官僚こそが、田沼意次だった。
 彼は常に謙遜の態度を忘れず、大奥でも人気だった。そのためか、すぐに出世し、老中になる。
 彼は早い段階で倹約の限度を見切り、貨幣の新鋳を試みた。新しい貨幣には、銀が多く使われた。
 当時ヨーロッパでは銀の値段が下落しており、それを用いたのだ。

 また、新鋳と同時に行われた政策として、産銅の独占がある。
 田沼は平賀源内などの新しい知識に目をつけていたのだが、それはこのような開発技術に役立つと考えていたからだろう。

 田沼はほかにも、専売政策をとり、株仲間に運上というものを課した。
 これは、江戸の十組問屋、大坂の二十四組の問屋から冥加金を出させるものだ。
 あらゆる生産・商業にこの専売と運上が組み込まれるようになると、携わるものの特権を認めなくてはならなくなる。
 このため、田沼時代の幕府と町人(工業者や商人が多い)は、緊密な関係になりつつあった。

 士農工商の最下位である町人たちが、実力を持ちはじめる。町人たちの手には、利益が次々と舞い込んでくる。
 町人の実力が、田沼のもとで発揮された時代だった。
(ほたるゆき)
+ 町人道徳と文化
町人道徳と文化
 商人たちは、特権を用いて富を築いていた。
 例として俸禄である米切手米やお金に交換する者である、札差がいる。
 彼らは生活ぶりも気質も、まるで大名のようだったらしい。

 彼ら札差は当然江戸だけにいるわけではない。彼らや商工業者が集まったからこそ、三都の繁栄、地方都市の発展は可能だったと言える。
 時代の中心は、商工業者になりつつあった。
 悲惨なのは武士で、彼らも商工業者のように生きなければ生活はできない状況下にあった。
 この時期にはすでに、武士と町人の生きかたが逆転していた。安定しているのは武士ではなく、町人の生活だった。

 町人層が進出するにつれて、彼らは独自の道徳を持つに至った。
 まずは、自分たちは役に立たず、むしろ害であるという儒教の教えを払拭することからはじまった。
 こうして、謙虚、勇気、礼儀、勤勉、正直、学問などが、あたらしい町人の道徳になる。

 しかしまだ、精神的な支えとなる教えがない。その役割を果たすのが、石田梅岩の心学だった。
 男女平等をも説くこの教えは、手島堵庵や、中沢道二によってさらに広められた。
 この学問は、四民という枠を超え、町人を中堅的な階層に育て上げることが目的だったと考えられる。

 心学が発展する中、1人の思想家が国学という学問を誕生させた。
 これは「もののあはれ」を知る人間を理想とする本居宣長である。彼は、感情を表に出すことを肯定した。
 それまでの理想では、感情を表に出すことに関しては否定的だったから、まったく逆だと言える。
 つまり本居宣長は、儒教に対して否定的だった。
 感情を表に出すことにより、相手の心を理解することを、この学問は目指していた。
 『人の真心』において考え、『実の情』によって理解する、と彼は主張する。
 儒教からの解放により、主情的な人間を作り出すという風潮の中で、このような学問が作りだされたのだと考えられる。

 儒教からの解放により、国学が生まれたことは述べた。浮世絵もまた、そうであったと考えられる。
 菱川師宣によって創始された浮世絵には、優姿の男女がよく描かれる。
 人々が手に取って楽しむために、人間の美しさを強調し、このような描きかたになったのではないだろうか。
(ほたるゆき)
+ 世界に開く眼
世界に開く眼
 モスクワ帝国がシベリアの存在を認識したのは、足利義満のころである。以来、原住民の抵抗を排除しながらモスクワ帝国は東進を重ね、1700年初頭に至って漸くカムチャツカ半島まで到達することになった。
 一方、蝦夷を管轄する松前藩は、既に財政の悪化から商業資本への依存度を強めており、原住民のアイヌの反抗をしばしば受けながらも蝦夷の統治を維持していた。彼らは漠然と、カムチャツカ半島からすぐ海峡を隔てたシムシュ島までを蝦夷の領域であると捉えていた。ところが、カムチャツカ半島から南下を開始したモスクワ帝国――ロシアは、次々と千島列島の島々へと進出し、一方で北海道に来航して日本との通商を求めるようになった。
 この状況を政柄の保持者である田沼意次は、工藤平助の『赤蝦夷風説考』によって知る。この本では、ロシアとの官営貿易を推奨しており、意次もまたそれに近い考えを持っていたようである。
 意次はまた、長崎貿易の輸出品である俵物を頻りに増産させ、そうして貿易を活性化することで大きな利益を挙げてもいる。このような重商主義的状況の中で、本多利明のような思想家も登場する。彼は日本の学者としては珍しく重商主義的な考え方を持ち、田沼時代の可能性と言うものを良く表していた。
 このころ、平賀源内の活動も特筆される。彼は国益を増強するということを念頭に置きながら学問を行っており、その点で時代に適合していると言えた。彼は意次にも重用され、長崎で書籍の購入に従事している。
 平賀源内自身は浪人であった。早くから鋭い才能と柔軟な思考力を持っていたが、身分制度の枠にははまらなかったのである。彼は西洋の科学をもとにして次々と新奇のものをつくった。中でもエレキテルは、当時ヨーロッパでも最新のものであり、大きな興行効果を齎した。一方でかれは鉱脈調査などにも従事し、一方で西洋画にも手を染め、浄瑠璃などの創作活動も行っている。しかし結局彼は、その癇癪故に不遇の最後を遂げる。
 エレキテルとほぼ同時のころに、杉田玄白は『解体新書』を刊行した。これは『ターヘル・アナトミア』の翻訳である。江戸時代初期までの医学では解剖などがタブーであり、故に人体の中については非常に不確かな知識しかもたなかった。玄白は罪人の解剖を通して『ターヘル・アナトミア』の正確さを知り、故にこれをオランダ語から翻訳したのである。
 このように田沼時代は、多様な才能が開花した時代であると言えた。
(Spheniscidae)
+ 近代精神の萌芽
近代精神の萌芽
 この時代の思想家として、三浦梅園を除くことはできない。彼は何事にも懐疑の態度で臨み、物事それ自身の動きから様々な法則を見出そうとした。彼は国東半島両子山麓で殆どの時間を過ごし、それゆえに情報の面で限界はあるにせよ、その思索の態度には特筆すべきものがあった。
 一方、衰退してしまった土佐派・狩野派に代わってこの時代に評価される画壇として、文人画・写生画が挙げられる。写生画では円山応挙・伊藤若冲が挙げられ、中でも応挙は当時の画壇を席巻している。一方文人画では池大雅が挙げられる。池大雅は万能な人間であり、様々なことに才能を輝かせたが、中でも文人画には優れた物があり、それは本国・中国にも見られぬような世界を描き出した。
 この時代は、必ずしも動きのある時代ではない。が、却ってこの穏やかな時代ははるかに様々な可能性を持っている。平穏な時代であり、人々は穏やかな一生を過ごしたが、その中には決して衰えぬ底力があり、だからこそこの後の激動の時代を完遂することができた。その点でこの時代は、興味深いのである。
(Spheniscidae)

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最終更新:2010年08月22日 17:42
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