第九巻 南北朝の動乱(佐藤進一 著)

+ はじめに
はじめに
 戦前、南北朝の時代解釈が制限的であったことを述べ、導入部としている。
 参考→ 南北朝正閏論
(Jiyu)
+ 公武水火の世
公武水火の世
 後醍醐天皇は1288年(正応元)に生まれた。二度目の蒙古襲来から八年後である。この当時、皇室は持明院統、大覚寺統の二系に分かれて皇位を争っていた。鎌倉幕府の調停により、三十一歳でようやく皇位についた。後醍後は朝廷と幕府の利害調整のために即位させられた天皇であり、その地位は「一代限り」と通知されていた。そのため、彼の権力に対する執着心は尋常ではなく、最期まで徹底した専制政治・マキャベリズムを展開させることになる。後醍醐天皇は以前からあった貴族間の主張を発展させ、国家権力が天皇に集中するのが理想であると考えていたのである。
 後醍醐は二度倒幕運動を行うも、いずれも失敗している。後醍醐は隠岐に流されるも、その皇子護良親王は畿内の地でゲリラ戦を続ける。1333年(正慶二)に後醍醐は隠岐を脱出し、また幕将足利高氏の協力も得て、京都の六波羅を倒す。六波羅が倒れたと聞いて、近隣の武士は後醍醐側に次々と付いた。
 しかしここで後醍醐の予想外のことが起きる。『太平記』によると、高氏は六波羅を倒すと同時に、京都近隣の御家人を次々と吸収し、権力基盤を固めだしたという。護良は高氏の野望を知り、彼を滅ぼすために兵を起こそうとする。後醍後は 護良 を征夷大将軍に任命する。武家政治を否定したがっていた後醍後にとって、これは苦渋の決断であった。
 後醍後新政は芳しくなかった。それにはいくつかの原因がある。まずは司法制度の欠如である。万事を天皇の直接採決とする制度では、仕事が間に合うはずがない。また、武士の間での法的慣習の無視や、所領没収方針に対する旧幕府系武士の反発という政策も反発を招くものであった。彼らの不満を代弁できる人間は、六波羅探題の後継者足利高氏ただ一人である。こうして高氏勢力と護良勢力の対立は深まっていき、後醍後はその間で板挟みとなる。
 後醍後は高氏の動きに合わせて、旧領地回復令と朝敵所領没収令の修正を行う。その内容は適用範囲の縮小であり、すなわち新政の後退である。しかしながら、但し書きで天皇は拘束されないと付け加え、専制体制を維持することは忘れなかった。
 そのほか、地方分権から中央集権へ遷移させるため、国司制度の改革も後醍後は行った。国司の権限が縮小されたのである。同時期、高氏が武蔵守に任命される。彼は後醍後の名「尊治」の一字を与えられ「尊氏」と改名する。尊氏は武蔵の守護と国司を兼ねて、完全にこの国を握れるようになった。同時期に御家人制度も廃止されたと考えられており、公と武は水火の仲となっていく。
 護良は後に征夷大将軍を解任され、次第に勢力を失っていく一方、尊氏はますます隆盛を極めていった。
(Jiyu)
+ 建武の新政
建武の新政
 1334年(元弘四)、十一歳になる恒良親王が皇太子となった。後醍後はその年に「建武」と改元する。幕府を倒して王朝を復興したという偉業を示す意図があったといわれている。後醍後はこの他にも大内裏の造営・造幣を行い。天皇の絶対的地位を天下に知らしめんとしたが、いずれも頓挫している。
 その原因は、先に述べた旧所領回復令による被害者の反発である。後醍後は適用除外規定を設け、幾分この令の適用範囲を縮小した。誤判再審の範囲も同様に縮小した。建武新政において、裁判の負担は異常なものであった。一つの裁判は提訴から判決まで数年を要し、十年二十年かかることもあった。加えて訴訟進行も当事者がやらなければならなかった。これらの原因もあり、萎縮して訴訟を諦めたり、途中で打ち切らざるを得ない事例が多発した。
 後醍醐の権威は政治的失敗により徐々に失墜していった。事態を挽回しようとして出されたのが徳政令・官社解放令である。鎌倉幕府が1127年(永仁五)に発行した徳政令では将軍の下文(売買確認書)がある場合には徳政令の適用除外になると記載されていた。しかし、今回の徳政令においては、承久の乱以後の下文を持っていても適用除外とならないとされていた。後醍後は承久の乱以後、王朝の政権は北条氏に奪われたと考えていたため、この時期の下文を正当なものではない。徳政令はあくまで後醍醐天皇の権威に基づいて行われる、と強調したかったのである。質主、貸主はこれに対処するために、ありとあらゆる迂回措置を試みた。官社解放令は、諸国の 一宮 二宮 を荘園領主から解放し、天皇の直接支配下に置く趣旨のものである。
 後醍後の専制は次々と批判者・反対者を生んだ。彼らの鬱積を解消してくれるものは誰か。「今は」尊氏である。「今は」というのは、他に有力なものが現れたら彼らはそちらに与するであろうという意味だ。後醍後と尊氏の勢力が拮抗していた当時、後醍後はこのような尊氏勢力の弱みを見逃さなかった。後醍後は彼自身の布陣を強化する努力を怠らず、常に巻き返しの機会を狙っていた。
 護良もまた勢力の挽回を狙っていた。だが、征夷大将軍を解かれ、求心力を失った彼にもう復帰するだけの力は残っていなかった。尊氏暗殺の計画(捏造であるとも言われている)が尊氏側に発覚し、護良は逮捕される。そして尊氏の手で鎌倉へ護送されたのち、禁錮の身となった。翌年直義の手にかかり、非業の最期を遂げる。当時武士の間では、私闘の解決策として加害者の身柄を被害者に引き渡しその処分にゆだねるといった慣習があった。後醍後は尊氏の強い請求に屈して、これを私闘とみなし、慣習法による解決を認めたのである。
 護良は 義経 と似ている。すなわち、卓越した武略と忠誠によって肉親に尽くすが、その後は疎んじられて反逆者のレッテルを張られるといった面である。忠才併せ持つ人物はその才により疎んじられ、その忠により滅びるのである。
 義経と同じく護良を英雄視する見方が死後に生まれ、『太平記』にもそれが反映されている。歴史書はともかく後の世代によって誇張や改変されたりするので、それをもとに忠実に歴史を再現するのは難しい。
(Jiyu)
+ 新政の挫折
新政の挫折
 この章では後醍醐帝の専制体制、そしてその目標について述べられる。
 建武新政下においては、後醍醐帝によって正当性が独占されていた。しかしそれは必ずしも公家らに受け入れられたわけではなく、北畠親房さえも批判対象としている。
 また彼の重用した千草忠顕・楠木正成・結城親光・名和長年の孰れもが、鎌倉幕府統治下では決して出世できる人間ではなかった。しかしこれは門閥性を打破するという点で、後醍醐帝の専制政治には欠かせない物であったと言える。
 八省を独自に掌握するため、官位相当制を打破して上級貴族たちを省の長たる卿に任じ、これらを個人的に把握せんと図っている。
 当時、官職の多くは一定の貴族によって世襲されるものとなっていた。しかし、後醍醐帝はこの先例をも崩している。だが、このことは官職世襲を行っていた下級貴族の大きな反感を蒙る結果ともなった。
 しかし、決断所における綸旨の混乱は一向に収まらず、様々な確認手段等が取られることとなる。しかしこれは却って綸旨の効力の減退を誘引することになる。
 このような状況にあって、地方各地で反乱が勃発している。これは北条氏の旧領で発生していることが多く、北条氏の家人が参加している場合がほとんどであった。一方で地元の豪族もそれに参加している場合が多く、中央の状況を上手く利用している場合もあった。また、足利尊氏に与えられた所領での反乱も発生している。
 この状況において、北畠顕家は諫奏文を後醍醐帝へと提示している。これは天皇政治の前提として、天皇が貴族の支配者であり、門閥の保護者であることを示しており、彼の貴族的立場をよく示している。しかしこれは後醍醐帝の貴族制解体の政策とは大きく異なっていた。
 このような後醍醐帝の政策は、宋学のみならず宋朝の制度の影響も大きく受けていたと考えることができる。しかし、官僚層が欠如していること、そして兵農分離がなされていないことから、この政策は非常に難しいものであった。
(Spheniscidae)
+ 足利尊氏
足利尊氏
 北条氏の残党である北条時行が信濃で挙兵するとその軍はたちまち鎌倉を攻め落とした。これを中先代の乱と言う。鎌倉を守る足利直義は三河に逃れ、その元に監禁されていた護良親王は殺害された。
 この三河は足利従来の所領であると同時に、東国と西国の分かれ目である。直義はここで、自らは留まる一方で従っていた成良親王を京都へと返している。これは足利政権の樹立を意味していたとも考えられるだろう。
 この事件に際し、尊氏は征夷大将軍と総追捕使の称号を後醍醐に要求している。これは尊氏が武家政権を作ろうとしていることの意思表示であるということができるだろう。尊氏は出発までにこの公認を得ることはできなかったが、尊氏東上の知らせを聞くと後醍醐帝はこれを追認している。
 尊氏は時行を瞬く間に壊滅させると、そのまま直義の勧めに応じて鎌倉に留まっている。ここに尊氏は武家政権の樹立を明示し、後醍醐帝との対決姿勢を明示した。その結果として各地での争乱は一気に拡大してゆく。
 この争乱で、後醍醐帝は新田義貞を利用している。これは義貞もまた源氏の棟梁、そして武家の棟梁を狙う存在であって、尊氏の対抗馬たりえたからである。
 また、この時期の尊氏の行動には複雑性が見られる。これは凡そ尊氏に躁の気質があり、また足利家当主の側面と尊氏個人の側面に挟まれたからと解釈することができるだろう。
 一方で政治的には鎌倉幕府の状況へ戻すという反新政的なスローガンを掲げている。これは基本的に、執権専制以前の守護体制への回帰であるが、一方で執権専制を踏襲せざるを得ない部分もあった。
 これに対し後醍醐帝側でも、新政に対する不満が噴出している。公家衆の申し入れを受けて建武を改元したことや楠木正成が足利尊氏との講和を提言したことが挙げられる。
 その結果、遂に京都を陥落せしめられた後醍醐帝は、延暦寺に籠って猶半年の籠城を行う。延暦寺は京の流通を握っており、抵抗は頑強であったが陥落は時間の問題であった。
 一方、尊氏は新帝を持明院統より擁立し、政権の合法化を図っている。
(Spheniscidae)
+ 南北朝の分裂と相克
南北朝の分裂と相克


1336年中ごろ、100日に及ぶ後醍醐軍と尊氏軍の攻防の末、凡その勝敗が決し、尊氏は比叡に居る後醍醐の下に講和の使者を送った。後醍醐はこれを受け入れ10月に下山、帰京した。尤も、この講和交渉は後醍醐の独断であり、義貞の家来が、自分の奉じる帝が一人帰京したら我々は逆賊になってしまう、と猛烈な抗議を申し入れている。
また、この際の講和の条件が何であったか史料は残されて居ないが、後醍醐・光厳の和睦を建前として後醍醐の面目を保つと共に、大覚寺・持明院両統の迭立の案が出されただろう事は想像でき、実際後醍醐が上皇とされ、尊氏側の光明天皇に神器授受が行われ、後醍醐の皇子成良の立太子があり、尊氏側が両統迭立の約束履行の意思を示している。

後醍醐が下山したのち、後醍醐側の者はそれぞれ後醍醐に与する勢力のある伊勢、吉野、紀伊、河内などへ下り、敗走していた義貞も越前で勢力の立て直しを図っていた。各地に勢力を配した後醍醐は下山から僅か2ヶ月ほどで京都を脱出、吉野へ赴いた。
一方京都では、軍事を担当する尊氏に対し、弟の直義が政務を担当していたが、彼は後醍醐を「先帝」から「廃帝」と呼び変えた。ちなみに、直義は後醍醐脱出の事を知って直後、これを捜すように指令したが、尊氏の態度は大らかであった。これは前章で述べられた後醍醐と尊氏の性格によるものと思われる。とかく、此処に南朝と北朝が出現した。筆者は、この二つの王朝がどの程度、どの時期まで権力を持ちえたのか、という点を扱うのが本巻の課題であると述べている。

北朝は先ず、光明天皇に神器授受が行われた5日後に2項17条からなる建武式目を制定した。この式目では鎌倉幕府全盛期を模範にすべしとしている。また、この式目は普通の法令ではなく、施政者の心構えと当面緊急の施策とを扱った答申書の形式を取っていた。
式目に依って京都市中の混乱を治めて京都市民の支持を得んとし、後醍醐のスローガン「延喜・天暦の徳化」を「義時・泰時父子の行状」と共に模範とすることとして、反対派の存在理由を失わせた。
また、先程述べたように軍事を尊氏が、弟の直義が政務を担当する二頭制としていたが、前幕府の将軍が武家の棟梁として、北条氏執権が幕府の権力を握っていたことに倣っている。

さて、陸奥の北畠軍が本拠地奥州での反乱で足止めをくい、京に進出してこない為、北陸の義貞が足利軍の標的となった。尊氏は若狭の守護に斯波家兼を任じ、義貞の軍勢を攻撃させた。この時の義貞軍の実態は国の土豪である、或いはやはり土地の小土豪が足利軍に与しており、地方の土豪たちが国々の情勢を動かしていた。結局、義貞は1337年金ヶ崎城で敗退、後醍醐から託された彼の皇子は自殺、或いは捕らえられ、義貞も翌年7月戦死した。翌月、この戦勝に合わせ、光明天皇より、かねてから望んでいた征夷大将軍に任命された。
また、金ヶ崎城の陥落から5ヵ月後、8月11日にようやく北畠顕家軍が上洛に向け進軍を開始した。下野小山氏との攻防で手間取ったが、小山城攻略から40日余りで美濃に迫った。さらに此処で足利軍を破ったが、北畠軍も痛手を負ったらしく、更に顕家の父親房が武家を嫌うために義貞との合流を諦めて伊勢路をとり、ここで幕府軍に敗北、1338年5月に和泉で戦死した。
主力の北畠・新田軍が相次いで敗北した南朝は勢力再建が緊急の課題となった。
後醍醐は吉野から方々に指令を下したが、中央集権では情報の伝達がうまく行かなかった。その為、死の直前に顕家が記した諫奏等より、各地方に然るべき人を派遣し、これに軍事民政の両権を与えることとし、顕家の弟顕信に陸奥・関東に於ける将軍の地位を与えた。足利に対抗するために、足利と同じ体制をとらざるを得なくなっていたのである。
1338年9月には然るべき人達がそれぞれの地方へ赴いた。そして、後醍醐は翌年8月に後村上天皇に帝位を譲り、翌日吉野で没した。贈名は生前の希望どおり後醍醐となった。
(NINN)
+ 動乱期の社会
動乱期の社会


南朝の武将の多くが死んで、北朝の有利なるかに見えたが、北朝内でも尊氏党、直義党の内訌が発生し、三者鼎立する。この根幹には寝返り・離散集合の激しさがある。当時の武士達の忠誠の義務はその主人一代限り、子の代になれば話は別というものであった。鎌倉の御家人達も鎌倉将軍が廃された以上主従関係はなくなり、誰につくかも自由であったし、1335年の新田足利両軍の激突必死の頃の武士達は、尊氏・義貞の優劣はいかんと見守り、その結果によって去就を決めようとしていた。
また、鎌倉の頃から降参人の所領は半分、或いは3分の1没収して許すという慣習があり、後に法制化された。そのため、所領を半分棒に振る覚悟であれば投降できた。これを降参半分の法という。

また、これまで一族の分裂というものも頻繁にあったが、これは己が仕える支配階級が分裂した場合、一族が二つに分かれて分裂した支配階級のそれぞれに味方する。したらば、どちらが勝っても家名は存続する。更に13世紀初めからは、敗者の没収地を同族の者に再給付する慣習が成立しており、財産も維持されていた。
だが、鎌倉末期~南北朝期にかけて、庶子が惣領を圧倒、自分が惣領になろうとして袂を分かつというケースが増えてきた。鎌倉幕府も惣領が一族を治める体制を利用し、惣領を支配することにより、全国を支配していた。が、惣領に一族の庶子が従わなくなっており、その為に幕府の支配が行き渡らなくなっていた。これらは、財産の分割相続が原因で、嫡子が庶子をに対してなんらかの権力を持つことに対する庶子の反感、そして相続の際、分割された所領を庶子も受け取れるので、独立の足がかりとなっていた。
このため発生したのが単独相続で、こうなると庶子は嫡子の家臣という地位に転落していった。

また、古来の戦闘ルールを破り、楠木正成が悪党と共に歩兵を用い、ゲリラ的戦法をとっていたが、騎兵の一騎打ちから歩兵が大幅に用いられるようになった。同様にその他の戦闘ルールも変わり始め、戦功確認も首を持って軍忠状(戦果を記し、指揮者の認めをもらう書類。行賞の際の証拠となる)をつかったものから、戦闘中に近くに居るものに取った首を示して戦功を確認してもらうものに変わった。騎馬から歩兵に変わり、失った機動力を補うためである。
戦闘の方法も、騎兵の馬を狙って射るようになるし、歩兵の持つ槍が現れる。鎧も軽くなり、斬撃戦中心となる。こうした変化は、武士以外の者が武士になる道を開いた。
(NINN)
+ 直義と師直
直義と師直
 南北朝の対立は北朝の勝利に終わった。しかし北朝においても新たな内紛と分裂が起こる。この章においては、幕府を代表する足利直義と、尊氏の執事高師直を中心に論じていく。
 直義は尊氏が政務を譲った時、いったんは辞退しようとしたが、尊氏に強請されて職についてからは仕事に専念した。熱心で論理を好み、自制心があってけれんみのない誠実な人であったらしい。わかる人には信頼されるが、大衆受けはしないタイプである。
 直義が管轄した政治機関の中で規模が最も大きいものは引付方という裁判所である。官僚には足利一族以外の武士も多く登用した。北条一族の轍を踏まないためであろう。
 政治は直義と尊氏の 二頭制 であった。軍事的な危機にあるときは尊氏、政局が安定しているときには直義の意向で人事が決まったので、党派が形成され党派同士の対立が強まった。荘園管理に関しても直義と尊氏はその立場の違いから対立を深めていく。そこに高師直という人物が登場する。
 師直はかつては尊氏の親衛隊長に過ぎなかったが、尊氏の出世に伴い、一族と共に勢力を強めていく。師直・師泰兄弟は直義とは対照的なタイプの人間であった。彼らは既存の権威を徹底的に蔑視し、古い秩序に一片の価値も認めず、力こそ正義と考えた。北条氏という昔の権威に軽んじられていた彼らは、伝統的権威というものをまるで信頼していなかった。朝廷や幕府の瓦解によりそれは確信となり、伝統的価値観のもとでは反倫理的な言動を彼らは次々と行った。後醍醐然り、尊氏然り、直義然り、外部の環境が彼らの人間性を決定づけたのである。
 師直・師泰は幕府の首都である京都への外敵を駆除する任務を与えられていた。既存の価値観にとらわれない彼らは、神社・仏閣でさえも必要とあらば次々と焼き討ちにした。仏罰も神罰も天皇も恐れず、ただ目的を達成するためだけの純粋な戦闘行為を彼らは行った。時代が変わればルールも変わる。彼らはいち早く新しいルールを見抜き、実行し、慣習にまで昇華させた。
 北朝で尊氏と直義の対立が進む中、南朝でも対立の兆しが現れ始めていた。南朝の豪族は、強者の圧力に対していかに自立を保つかということを強く意識していた。ゆえに南朝に勢力が集中することがなく、有力者を中心とした小国がいくつも分立する形に近かった。公卿の 北畠親房 は王民論、すなわち天皇を尊重してこそ民の繁栄がある、尊重せねば民は滅びるという考えを持って各所の武士を説得しようとする。親房著 神皇正統記 も武士の説得を目的とした著書といわれている。しかし武士はそれを主従関係の基本と考えない。権威ある王は欲しいが、王に実際に支配されるのは好まないのである。王民論的な古来の風儀は、鎌倉時代のもので、時代が変わった今となっては古びて魅力のないものでもあった。武士の不満は高まっていく。
 1341年(暦応四)、藤氏一揆が起る。前関白、近衛常忠が藤原氏の子孫と称する関東の豪族小山氏・小田氏らを呼び掛けて一揆を結んだのである。親房の王族支配的考えに反対であった勢力が、有力武士の支配を目指して反親房運動を起こした結果がこの一揆といわれている。藤氏勢力は北朝との講和を望んだ。力を失った親房は幕府軍によって滅ぼされた。

(Jiyu)
+ 天下三分の形勢
天下三分の形勢
 幕府への軍事的脅威が遠のくにつれて、文を重んじる直義の声望が上昇した。これに呼応して、師直の声望は失墜する。戦いこそが彼の武名をあげるものである。彼ら一族が南軍討伐の将として派遣された理由の一つとしてそのような背景がある。1348年(貞和四)、河内で激戦が行われた。結果は何軍の惨敗であった。師直と師泰はこの戦いで活躍し、声望を取り戻した。これにより、直義派、師直・尊氏派、南朝という三者で覇権を争うという構図が次第に形成されていく。
 師直がクーデターを起こし、直義は敗れる。尊氏は両者調停というスタンスで巧みに振る舞い、弟を守ると共に息子を後任に据えるという最大の収益を得た。尊氏の政治手腕が光る。その後、直義は共同執政の約束を破られ、出家させられてしまった。しかし直義は京都をのがれ、態勢を立て直し、諸国に蜂起を呼び掛けて師直を破った。直義は尊氏・師直の両者を出家させる旨の和議を結んだが、帰京途中で上杉能憲によって師直をはじめとした高一族は皆殺しにされる。争ったのは師直と直義であり、尊氏自身には敗軍の将という認識はなかった。尊氏と直義は共同執政という形式をとったが、実際には権力のほとんどは直義が握っていた。その後再び尊氏が反乱を起こし、防衛のために京都を離れて北国に向かった。北陸一体の守護職は直義が固めていたので、北へ向かったのである。このほかにも、直義は九州とのつながりもあった。これに対して尊氏は、東海・四国および山陽の勢力を頼って畿内で勢力を固めた。南朝もまた畿内から京都進出を狙った。
 直義が北へ向かうと、尊氏は即座に南朝と直義に和平の使者を送った。交渉は共に失敗する。尊氏派その後鎌倉に入り、直義を滅ぼす。しかし直義を中心とした直義党の勢力はこれによってますます強まり、天下三分の情勢はますます激化していく。

(Jiyu)

最終更新:2010年02月01日 13:11
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