第一巻 神話から歴史へ(井上光貞 著)

+ はじめに
はじめに
 東京帝大教授・津田左右吉は、日本書紀・古事記に対する歴史的考察を行い、これらを政治的意図に基づいた著作であると示した。この研究は、日本が右傾化するに従って批判が強まるようになり、戦中期には排除されるに至る。
 戦後になると、戦前の皇国史観的古代史にメスが入り、神話は歴史としては否定されて代わりに石器時代から歴史が始まるとされた。しかしこの結果として日本書紀・古事記は必要以上に否定されることになった。記紀は政治的所産にすぎぬ一方で、やはりその土台に古代日本の思想・習慣が編み込まれているからである。
 そこでこの本では、記紀神話と発掘の双方から一つの日本古代像を映してみようと思う。
(Spheniscidae)
+ 日本の神話
日本の神話
 日本神話を語るのは6世紀に成立した古事記・日本書紀の二冊の本であるが、これらは異なる経緯から編纂されており、内容は基本的に異なっている。しかし一方で、帝紀・旧辞という二冊の本から双方の書が成立した点では共通している。帝紀は歴代天皇の系図、旧辞は天皇家にまつわる物語が記された本であるが、記紀の比較の結果としてこの帝紀が初代・神武から33代推古まで、旧辞が神代と初代・神武、10代崇神から23代顕宗までということが想定されると津田は述べた。

+ 豊葦原瑞穂国
豊葦原瑞穂国
 諸国の神話が天地創造によって始まるように、日本神話もそこに始まっている。だが、これにはいろいろな違いがある。古事記では天の中枢の神の存在を描くが、これは道教の影響を強く受けていると言える。それは、推古朝以降の話であり、そうである以上古事記の神話もそれ以降に成立したものであるだろう。
 またカオスより天地発生したという話も、道鏡にそっくりであるが、これは旧辞にもある話であって日本古来のものと言える。これは、東南アジアの影響を強く受けているという。
 大地発生の神話についても、陰陽五行の影響受けながらも、民間による話を元にしていると考えられる。この神話は南太平洋の神話の影響を元に、低湿地での農耕を行う日本で形成されたと言え、ポリネシアの神話区分では"進化型"に属す。また国生み神話は、国家の範囲を明確化したという点で、非常に政治的な物と言えるが、これも南太平洋方面の神話の影響は拭えず、こちらは"創造型"といえる。この二つの神話が存在する点は、ポリネシアのことを鑑みるに、決して偶然とは言えないのである。
 その次にくる黄泉国神話は、日本固有の生死観をよく表すものであるが、これもまた南太平洋の神話に近しいものがある。ここに出る黄泉国には厳しさが欠けるが、これは却って日本の思想をよく表しているといえるだろう。
(Spheniscidae)
+ 日の司祭者
日の司祭者
 日本神話の主神ともいえる天照大神は、皇祖神と日の神という二つの側面を持つ。元来、天照大神はどうやら日を祀る巫女的側面が強く、そこから日の神に昇華したと考えられる。そして大和朝廷が太陽信仰を独占してゆく過程において、皇祖神という側面が習合されたのだろう。
 そしてもう一方の主神ともいえるスサノオは、大和朝廷の政治的対立者として描かれている。また彼の犯した罪を通して、律導入以前の日本の罪について考察することも可能だ。則ち、灌漑施設の破壊・土地所有・収益権の侵害・公共宗教行事妨害を天津罪とし、殺人・傷害・近親相姦・呪詛などを国津罪とした。この区分はそれぞれ公共への罪、個人の罪と区分することが可能である。古代人は罪を物質的な物と捉え、それゆえ制裁のみならず災いを祓うことが必要だと考えていたようだ。
 天岩戸神話について、これを日食神話と捉える傾向もあるが、鎮魂祭として捉える説もある。これは、冬至に天皇の魂を呼び返す儀式が行われていたことをその根拠にする。天皇の魂を呼び返すことで、日の神でもある祖霊神を奮い立たせ、天皇の権力を強大化するのである。
(Spheniscidae)
+ 国づくりの英雄たち
国づくりの英雄たち
 スサノオ追放以降、"出雲神話"と呼ばれる神話が始まる。この神話は必ずしも出雲地方の神話ではないことが推測される点で"出雲神話"の名は正しくなかろうが、しかしこれまでの神話と異質な点を持つのも事実である。これまでの高天原神話が天上的であるのに対し、出雲神話は地上的・人間的であり、生活的側面が強い。それゆえ、より多く古代人の信仰が含まれていると考えられるだろう。
 ヤマタノオロチ神話は、西はヨーロッパから東アジアまで広がる、ペルセウス・アンドロメダ型神話であるが、その中でも中国南部の神話と近いということがわかっている。
 大国主の神話は、旧辞には含まれておらず、後に出雲人の神話を古事記へ取り入れたと考えられる。これは壬申の乱で出雲臣一族が天武天皇に味方したことも大きいようである。
 スサノオによって大国主が数々の試練を与えられ、それを乗り越えて娘と結婚する説話は、東南アジアに多い服役婚――則ち、結婚前に婿が一定期間働くという習俗を表すもの、また成年式の習俗を表している、とも言う。
 ともあれ、この逸話は成年や婿となる以上に、出雲の王となるための試練であることを表している。つまり、この試練を乗り越えて王となるという逸話は、出雲系独特の王者観を示している。
(Spheniscidae)
+ 天孫降臨
天孫降臨
 この大国主とて、敗北者であることは間違いない。それゆえ、高天原に国を譲ることになる。この神話は出雲が大和に下ったことが政治的に重要であったということを示している。
 この後の天孫降臨の神話は、天孫が高い峰の頂きに降臨したとしている。この神話は朝鮮から内陸アジアに分布する神話と相関関係がある。だが一方で、降りてきた神が穀霊的であるといえる点で、南方的とも言える。これはおそらく、北方的な物と南方的な物が南朝鮮で合体し、日本に入った物であると推測できる。
 コノハナノサクヤヒメの伝説は、非常に南方の性質が強い。またそれに続いて海幸山幸の話がある。これも南方の説話であるが、この二つの説話は隼人の説話を、神代史に組み込んだものと考えられる。
(Spheniscidae)

 記紀神話はあくまで政治的意図を多分に含んだものである一方、必ずしもその全てが述者による創作とはいえず、土台はあくまで大和朝廷によって伝えられたものであるということができる。そしてその基礎は、東南アジア的農耕文化を基本とした上で、北方アジアの遊牧民的要素が加わり、さらに中国文化の影響も受けているのである。
(Spheniscidae)
+ 石器時代の日本
石器時代の日本
+ 旧石器時代の発見
旧石器時代の発見
 世界的には、旧石器時代は氷河の前進した時代として知られるが、日本に於いては赤土の堆積した時代と捉える事ができる。その赤土の下から石器が発掘されないため、戦前期には日本に旧石器時代は存在しないと考えられていた。しかし、岩宿遺跡の発見を境に旧石器時代の遺跡発見が相次ぎ、また人骨も発見されるようになった。
 同時にローム層の区分もなされるようになり、旧石器時代の文化類型も行われるようになっている。
 当時の日本は、大陸と陸続きであり、象等の大型動物も流入していた。
(Spheniscidae)
+ 狩猟・漁撈の時代
狩猟・漁撈の時代
 縄文時代については、古く明治時代のエドワード=モースによって大森貝塚が発見されたことによって研究が始まった。それ以降、土器の編年などを通じて文化が次第に明らかになり、これまで縄文時代の始まりは5000年前ではないかと言われていたが、近頃C14による年代測定が発達し、それによって縄文時代が約9000年前に始まったという説が提示され、これが妥当ではないかという結果が次々と提出されている。
 縄文時代は、海進が起こっていたが、中期ごろより次第に海は退き始め、それゆえ次第に貝塚も海沿いへ動いていくことになる。縄文人は狩猟採集によって生活し、土器による煮炊きを行っていた。また竪穴住居を築いて集落もつくり、これは時代が進むごとに次第の置きな物へと代わっているまた、縄文時代の間でも幾らかの農業がおこなわれていたと考えられる。。
(Spheniscidae)
+ 農業のはじまり
農業のはじまり
 弥生時代になると農耕が始まる。これには中国や朝鮮よりの渡来人が強い影響を与えたと言われるが、担い手は縄文人の子孫と考えるべきであろう。つまり、中国・朝鮮からの渡来人たちが農耕の端緒を開いたとはいえ、殆どが縄文人の手によって行われた、ということである。
 遺跡から中国の銅鏡が発見されることで、絶対年代の特定が行いやすく、土器の編年においても絶対年代で行われつつある。農耕は北九州で始まるが弥生後期には青森県まで北上し、耕作の急速な普及を物語る。遺跡でもコメの栽培の証拠は大量に出る一方、木の実も大量に出土しており、これらも食事のレパートリーからは脱していなかった。
 また青銅器や鉄器の普及もこの時期であり、祭器や農耕具に利用された。それゆえ、中期以降は石器は発見されなくなっている。
 後期に入ると大規模集落がつぎつぎと出来上がることになるが、このことがやがて国家の形成に繋がってゆく。

(Spheniscidae)
+ 歴史のはじまり
歴史のはじまり
 日本についての文字記録は、初め中国の史書によってなされた。この記録と考古学資料を合せることで、古代の日本というものが見えてくることになる。

+ 北九州の国々
北九州の国々
 『後漢書』には奴国の王に印綬を授けたという記述が存在しており、後に志賀島からこの記述に符合する「漢委奴国王」印が発見された。この印は漢代の印制から外れるという点で、贋物説もあったが、現在では本物ではないかと言う説が主流となっている。これらの国々は現在の郡ほどの大きさであったが、とりわけ北九州ではこれらの国々は中国との交流によって文化的には先進地域であった。北九州の文化的特徴としては、銅鏡等青銅器の出土と共に、甕棺・箱式石棺・支石墓などが挙げられ、これらも後漢の記述にある国々の比定地に並んでいる。このころの墓に副葬される品には、銅剣・銅鏡・勾玉が挙げられる。これはどうやら祭祀に利用された品々のようであり三種の神器とも関係のあると考えられている。
 これらの物品の中には、朝鮮半島より持ち込まれた物も多く、また文化的に朝鮮半島南部と共通するものがある。それらのことから朝鮮半島と北九州とには大きなかかわりがあったことが推測される。
 また少しの治、帥升という王の後漢への朝貢も記録されるが、これも北九州の末廬国ではない。そしてこのころから各国の連合の機運が見られた。
(Spheniscidae)
+ 女王卑弥呼の時代
女王卑弥呼の時代
 『魏志倭人伝』には邪馬台国の卑弥呼という王が記載される。邪馬台国の卑弥呼は魏に朝貢し、「親魏倭王」という印をもらうが、これはれっきとした魏の臣であることを認められたしるしである。
 魏志倭人伝には当時の日本の習俗・文化が詳細に記され、後の記紀等の記録と符合する部分も非常に多い。一方で必ずしも日本でなく南方の文化と思われる部分も記載される。また邪馬台国は、諸国の自立を認めている点で決して中央集権的とは言えないながらも、国家連合と言う範疇を超え、一つの国といえる機構を整えていたことも推察される。
 魏志倭人伝にも当時の日本人が稲作を中心とした生活を送っていたことは記録される。牛馬などはまだ存在していない一方で、米より作った酒は既に存在していたと考えられている。また、麻や絹によって衣服を作っていたようである。男の髪形は所謂みずらで、女性は髪を垂らしその末を頭頂で束ねていたと言う。これらの記載は非常にに南方的で、筆者の先入観が入っている可能性もある。また大家族制であり、その家族がいくつか集まって集落を形成した。また、身分制も存在していたことがわかっている。
(Spheniscidae)
+ 邪馬台国論争
邪馬台国論争
 邪馬台国の場所については諸説あり、主に東大派の九州説と京大派の畿内説にわかれる。これは魏志の本文が非常に曖昧だからであるが、狗奴国の場所の比定や発掘によってわかった当時の文化圏等を考えると九州説が有利であるといえよう。また「倭国大乱」とされた時代から一世紀ほどで九州から畿内にいたる広域国家が成立したと考えにくいこともこの傍証となる。
(Spheniscidae)
+ 謎の世紀
謎の世紀
+ 神武天皇
神武天皇
 『古事記』『日本書紀』によると、皇室の祖先は、 高天原 という天上の国から日無化の高千穂の峰に降臨し、南国の日向でしばらく時を過ごしたのちに、神武天皇が多くの 氏族 を従えて九州を発向し、やがて畿内ヤマトの地に至り都を営んだとある。神武天皇のころから、古事記・日本書紀ともに神の世界から人の世界へ叙述が移っていくことになる。このように神の物語から人の物語へと続いている構成は世界的に稀である。神武天皇の実在性については、 神武東征 は天孫降臨に続く日本神話の一部であり、実在はしなかったという考えが主流である。
(Jiyu)
+ 崇神天皇
崇神天皇
  記紀 によると、初めて国を統治した天皇は二人存在する。一人は神武天皇、もう一人は崇神天皇である。崇神天皇の実在性については未だ議論を残しているが、仮に実在したとしても日本全土を統一していた可能性は低い。せいぜい大和を中心に畿内を支配する程度の政権を樹立したにすぎないと考えられている。大和の三輪山の神を祭って大和国家の基礎を固め、同時に諸国の統一に乗り出したと考えるのが相当である。
(Jiyu)
+ 騎馬民族説
騎馬民族説
 1948年、江上波夫氏は、大和朝廷の起源について破天荒な説を発表した。朝鮮から南下した北方系騎馬民族が、日本の倭人を征服し、日本の支配者となったという説である。これに関して当時の学界やジャーナリズムを中心に議論が巻き起こり、さまざまな学説が飛び交った。騎馬民族など来ていない、騎馬民族は来たがそれはもっと昔で二世紀ごろだ、騎馬民族は来たがそれは狗奴国である、などである。
(Jiyu)
+ 古墳の発生
古墳の発生
 古墳とは、日本の学者の言い習わしでは「大きな墳丘を持つ墳墓」(高塚式古墳)を指す言葉である。古墳を作るのには大変な労働力を要する。これにより、祭られた者が相当な権力者であることが推察できる。古墳は支配体制と直接関係のある問題なのである。
(Jiyu)
+ 前期古墳の発掘
前期古墳の発掘
 古墳には被葬者の名は一般に書かれない。しかし 天皇陵 であれば話は別である。こちらは陵墓の位置や大きさを示した資料が現存するからである。天皇陵の調査は現在宮内庁により厳しく制限されているので、この節では過去に発見された棺や副葬品、航空写真などから考察を行っている。
(Jiyu)
+ 倭建命の物語
倭建命の物語
 倭建命という物語が古事記と日本書紀に存在する。しかしそれらは、ところどころ食い違っており、後から挿入された物語であると指摘されている。 旧辞 が作られたのは六世紀以降である。遠い昔に大和朝廷の命令によって戦いに赴き命を落とした者たちの数々の物語が、この時英雄譚に形象化されたのだと考えられている。
(Jiyu)
+ 神功皇后と朝鮮の記録
神功皇后と朝鮮の記録
 神宮皇后は『新羅征伐』という物語に登場する。この物語が伝説であり、史実ではないということには争いがない。新羅との関係が悪化した際に作られた物語という説も、純粋に宗教的祭儀から生まれた神話であるという説もある。いずれにせよ、朝鮮出兵とともに国土統一が起こったことは間違いなく、そこから応神天皇の歴史が開けてきたのである。
(Jiyu)
+ 最初の統一王朝
最初の統一王朝
+ 応神天皇の出現
応神天皇の出現
 三世紀末から四世紀までは謎の世紀と呼ばれている。基本的に古代の日本の歴史は中国の資料を頼りにして考察を進めるのだが、この時期は中国が日本に勢力を及ぼせなくなっていたからである。この節では、応神天皇の実在性及び実在すると仮定した場合どのような政治的行為をなしたかを学説をいくつかあげて紹介している。
(Jiyu)
+ 古墳は語る
古墳は語る
 応神天皇は巨大な古墳に埋葬されたと古事記に記されている。古墳を観察することにより、その時代の文化が見えてくる。たとえば応神陵からは馬具が出土しており、これはこの時代に乗馬技術が伝わった可能性が高いことを示唆している。また、古墳の規模から、当時の土木技術の程度も推測することができる。古墳は盗掘されることが珍しくないが、この応神陵だけは盗掘の形跡がほとんど見つからないという。
 この時期に日本の統一王朝は南朝鮮に領土と支配権を確立して拡大し、鉄資源が豊富にもたらされたということも武器などの出土品から判明している。鏡や玉類がこの時期多く、弥生時代に流行った腕輪はほとんどなくなってしまう。鉄により甲冑や武具が作られるようになり、さらには馬専用の鉄仮面も現れる。これは、戦争の形式が歩兵戦から騎馬戦にシフトしてきたことを示している。このほか家の形をした埴輪により当時の住居形態が窺えるなど、古墳は語る歴史は枚挙に暇がない。
(Jiyu)
+ 大陸文明の摂取
大陸文明の摂取
 大和朝廷は五世紀には漢文を作成していたことは確かであるので、漢字の伝来はそれ以前ということになる。古墳の出土品から漢字は応神朝以後に急速に普及したと著者は考えている。応神朝は帰化人を管理する役職があり、これによって言語だけでなく手工業技術も彼らから得ることができた。このころの日本は百済をほとんど属国扱いしており、410年ごろには王位の交代まで干渉して人質を取り、政治的優位にものを言わせて技術者を盛んに呼び寄せるなどを行っていた。これにより機織術や窯業が発展する。工業により富を蓄えた者が身分を高め、さらに技術が地方にも伝達して国レベルで生活水準が向上していく。
(Jiyu)
+ 応神王朝の落日
応神王朝の落日
 応神朝の権力は次第に衰え、六世紀を迎えるころには朝廷での実力を失ってしまったとされている。この原因は、天皇家とその最有力の協力者であった葛城氏が皇位継承を巡って反目しだしたのが原因と考えられている。朝鮮の拠点であった任那も反乱を起こし、それに有効な対処をすることもできず、応神朝は没落の一途を辿っていった。
(Jiyu)
+ 古代国家への歩み
古代国家への歩み
+ 磐井の叛乱
磐井の叛乱
 520年代には北九州の豪族磐井が乱をおこす。このあたりの記述を欠く「古事記」でも、よほど重大な事実だったので、日本書紀とともに記されている。結局磐井は朝廷に討たれる。北九州は平定され、その後朝鮮の支配力を取り戻すために、多くの族が朝鮮に送り込まれている。
(Jiyu)
+ 蘇我氏の抬頭
蘇我氏の抬頭
 大伴氏は朝鮮経営の失敗の責任を蘇我氏に追及され失脚。大伴・物部政権から物部・蘇我政権に移ることになる。この時代、朝鮮からの貢物が多くなったので、財産を管理する三蔵(大蔵省の期限)を設立し、貿易への課税、課税のための戸籍制度などが発達した。七世紀後半には、律令制により全ての農民に戸籍が割り当てられることとなる。
(Jiyu)
+ 仏教伝来
仏教伝来
百済に仏教が伝わったのもこのころである。初めは迫害されていたが、部族を超越した主権を設立するに当たり、仏教のような思想は便利であったので、次第に時の政権に組み込まれていくようになる。
仏教は日本でも政治的に扱われた。最初は迫害され、蘇我氏が私的な礼拝を許される程度であったが、六世紀末、用明天皇が死に、蘇我氏と物部氏が皇位継承をめぐって対立。蘇我氏が物部氏を倒し、崇峻天皇を立てて蘇我氏が独裁政権を築くことになる。
仏教政策も行われ、588年(崇峻一)に法興寺(飛鳥寺のこと。「法興」は、新羅で仏教を初めて保護した王の名前)の設立が決定。その後崇峻天皇と蘇我氏は対立し、崇峻天皇が殺害される。そして推古天皇が即位することになる。このとき七世紀に入り、聖徳太子の政治がはじまり、604年の十七条憲法、645年の大化の改新、672年の壬申の乱に繋がっていく。
(Jiyu)
最終更新:2010年05月16日 18:13
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