第十巻 下剋上の時代(永原慶二 著) 後編

+ 応仁・文明の大乱
応仁・文明の大乱
 応仁元年(一四六七)正月、山名持豊・畠山義就派のクーデタがおこり、管領畠山政長が罷免され、かねて持豊の後援をうけていた斯波義廉が新管領に任命された。失脚した政長派の兵士たちは京都市街に火をかけ、酒屋・土倉の掠奪をはじめた。持豊・義就は将軍義政に圧力をかけ、政長を支援する細川勝元の問責を要求、つづいて義視が政長に擁せられることをおそれてこれを幕府に軟禁した。
 義政は急遽、持豊・勝元以下の諸将にたいし、義就・政長の戦いに介入しないようにという布達を発した。義就は政長の御霊社の陣を襲い、この間、持豊は兵を動かしはじめたが、勝元は義政の命を守って動こうとしなかった。孤立した政長は敗北し、義就は勝利した。政長はひそかに勝元邸にのがれた。

 五月、中央で一歩おくれをとった細川方の反攻が、地方からいっせいに開始された。細川党は室町幕府を本拠とし、相国寺および北小路町の勝元邸を陣とした。山名党は五辻通大宮東の持豊邸を中心に陣を張った。このときの陣の位置からして、細川党は東軍、山名党は西軍とよばれた。そして両軍ともに大兵力がぞくぞくと入京した。東軍の兵力十六万千五百余騎、西軍の兵力十一万六千余騎というのは、この段階について『応仁記』があげる数字である。

 五月二十六日から、京都市中における両軍の正面衝突がはじまった。緒戦では東軍が優勢となり、西軍の陣地は多く焼きはらわれた。
 六月になると義政は立場を明らかにし、義視・勝元に命じて持豊を討たせようとした。こうして、畠山義就と政長の私闘というかたちで始まった戦いは、将軍派とその反対派という名分上の根拠を背景とする戦いにかわっていった。
 かくして条件は東軍に有利となったが、八月下旬に入ると大内勢が入京し、西軍が優位に立った。緊迫した情勢の中で天皇は上皇とともに東軍のよる室町幕府に移った。ここで東軍は将軍とともに天皇をも擁することとなり、官軍としての形式をも確保した。
 大内の参戦によって西軍側が攻勢にまわったが、西軍は補給線が長く、東軍に比して戦略的にははるかに不利な立場にあった。そのため戦局は西軍の有利とみえながら、東軍もまた容易に屈服しなかった。

 室町幕府の中央政治は人々の諸大名の寄合いで運営されたため、その二つの心棒であった勝元・宗全(持豊)が争えば、他の大名もおのずからその争いにまきこまれざるをえなかった。他面からすれば、戦いにさしたる必然性がなく、戦意なき合戦という特徴を生み出した。

 京中の戦禍をいっそう大きくしたのは足軽の乱暴掠奪であった。足軽が合戦のおりに注目すべき新兵力として無視できなくなったのは、この大乱からである。足軽の特徴は、敵との正面衝突をさけて相手の虚をついて目標につっこみ、放火・掠奪というふうな活動を容赦なくくりかえすところにあった。しかも、足軽は敵にうしろを見せることをなんとも思わぬてあいであった。
 このような新型の兵力は、京都の陣に随時参加してきた一種の傭兵隊で、その出身は京都周辺の没落農民や浮浪民たちであった。この大乱では、両軍ともに積極的に農民兵の動員をすすめたため、それに乗じて都の近辺の一部の貧農・浮浪人たちや京中悪党も足軽と称して自由勝手の掠奪をはたらくものが多かったとみられる。

 応仁二年、戦局にひとつの転換がおこった。足利義視が西軍にくみしたのである。
 自分自身の力の基盤をもたない義政・義視は、争いに巻き込まれ、翻弄されているといってよい。だから、勝元にとっても持豊にとっても、頭にいだくシンボルはどちらでもよいということであった。
 一四六九年正月、五歳の義尚が将軍家の家督相続者と決定され、諸将に披露された。一方、東軍に擁せられている義政は権大納言義視の官爵をけずり、公然と義視を敵とすることとなった。
 西軍は義視につづき南朝=大覚寺統の皇胤小倉宮王子を奉戴した。
 こうして東軍が天皇と義政を奉ずるのにたいし、西軍は小倉宮王子と義視を戴き、双方ともに名分をととのえる形となった。

(Shade)
+ 下剋上の怒涛
下剋上の怒涛
 応仁の乱は、たちまち地方にも波及していった。地方では大名同士の争いよりも、地侍・農民の変革的・反権力的なたたかいが動乱の基調となっていた。
 たとえば新見荘では、荘民たちが領主権そのものをさえ否認しようとしていた。

 この時代の上級領主は勧農策らしいものはほとんどやっておらず、農民たちにとってみれば単なる収奪者にほかならないという性質がつよかった。つまり、庇護の代償としての年貢という相互扶助的な秩序は成立しない。土一揆をおこす農民たちが年貢を納めようとしなくなった背景には、そのような事情が根底にあるからだと考えられる。

 新見荘民、とりわけ金子衡氏のたたかいとならんで下剋上のもうひとつの典型を示したのは、越前の国人朝倉孝景であった。孝景は一四七一年、はやくも主家斯波氏にかわって越前守護となった人物である。
 孝景ののこした「朝倉孝景十七箇条」には、革新的・合理的な物の考え方が大胆に示されており、そこに古代以来の形式主義的・権威主義的考え方がみごとに打破されていく過程を発見することができる。

 大乱に伴う諸国のうごきをみると、どの地方でも、だれが東軍であり、だれが西軍であらねばならないかがけっして確定的なことではなかった。対立はひとつの地域のなかの国人同士の争いであり、あるいは一族内部の分裂であった。だから、戦局がどちらに優勢といってもそれはたいした意味をもっておらず、戦況はたちまち流動していった。
 その戦いは中央における山名・細川の争いとほとんど無関係に、国々の内部で国人たちが互いに力をきそい、主家の分裂を利用しつつ自分の力をのばしていく戦いだといってよかった。

 関東のばあい、情勢の進み方は中央地帯にくらべるといくぶん緩やかであった。
 太田道灌は新興実力者のひとつのタイプを代表するものであり、そこに東国がそれなりに生みだしつつあった下剋上の方向をみることができる。
 東北地方は応仁・文明の大乱中もなお一種の孤立のなかにおきさられ、豪族が新興層にとってかわられることもなく、そのまま生きのこって戦国時代にうつっていく。

 この時代、現地に根を張って成長してきた国人や地侍たちが戦局と政情とを左右する力を発揮しつつあった。国人たちは血縁以外の農民・地侍らを積極的に若党などのかたちでその武力に編成し、同族を横から縦の関係にくみかえて家臣化することによって、全体として一元的なまとまりのある武力を強化しはじめた。そこに国人領主の成長があり、かれらが守護大名にとってかわる条件があった。

 一四七三年三月、山名持豊が亡くなり、つづく五月には細川勝元も死んでしまった。こうして東西両軍の主将が相前後して世を去ってしまうと、この戦いは、のこされた諸将たちにとってまったく意味のないものとなった。翌年の四月初め。持豊の子政豊と勝元の子政元は和平のためにあい会し、講和をした。
 その後もだらだらと戦争状態はつづいたが、一四七七年十月になると、ついに最大の武力をもつ大内政弘が幕府=東軍に帰順するかたちをとり、畠山義就も領国河内にくだった。こうして乱のはじまりからほとんど十一年に近い歳月を浪費して、大乱は終幕に達した。

 応仁・文明の大乱の意義としては、各地の国人たちの成長と荘園領主・将軍・守護大名の後退と没落とがあげられる。そして、その背後には民衆の力のおそるべき伸長があった。

(Shade)
+ 東山山荘とその周辺
東山山荘とその周辺
十一年に亘る大乱の中、自らの意志を貫き得なくなった義政は次第に政治世界から遠ざかり、風流の世界に生きがいを見出すようになっていった。そうして1473年、義政の妻・富子の計らいで義尚が将軍職に就くと、いよいよ失意と孤立のうちに隠遁生活を余儀なくされる。無理押しな利益追求で金まわりを牛耳る富子との折り合いも悪く、孤独を深めるばかりの義政は1482年、東山山荘の造営に着手した。義満の北山山荘造営にならったものであったが、財政状況は当時より遥かに悪く、経済的には極めて困窮している中での造営である。大名から経費・人夫を徴収することも叶わず、もっぱら社寺・公家から取り立てるという惨めな有様であった。
1482年6月に常御所が完成すると、義政はそこへ移り自ら築庭の指揮を取った。彼が精魂を打ち込んだこの山荘は、東山文化の粋を尽くしたものである。全体の構成や雰囲気はふかい幽寂さを持っており、「わび」の世界がつよく現れている。このような東山の山荘、特に作庭の精神が、禅宗の思想に支えられたものであり、禅的手法の目立つことは強調されてきた。しかし浄土思想に通じる部分も数多くあり、一概にすべてを禅的なものに帰することはできない。東山山荘の精神には、言わば禅的なものと浄土的なものの融合が見られるのである。
義政を中心とする東山文化には、かなり様々の要素が溶け合っている。禅宗的な脱世間性と浄土思想の融合した東山山荘、宗教性を強く示しながら農村的・民衆的な生活に密着している能・花・茶などの芸能文化。義政は多種多様な文化要素を容認・庇護することで、言わば寛容なパトロンとして調和ある文化体系を作り上げたのである。
狂言やお伽草子の中には日常の口語が盛り込まれ、文学の中に民衆の話し言葉が進出した。広い文化圏での交通・コミュニケーションの促進は大地域にわたる方言を生んだ。食べるもの着るものなど、衣食住の習慣も変わっていった。「床の間」という新たな生活習慣が発生・発達したのもこの時期である。この時代は生活のさまざまの分野で新しいもの、しかも今日のわれわれにかなり接近したものが発生してきた時期なのであった。
(shiraha)
+ 流亡の貴族と僧侶
流亡の貴族と僧侶
 東山文化の周辺に、もうひとつのやや性格をことにする文化の花がひらいていた。
 応仁の乱後、公家・武家を問わず古典を学ぶことがひとつの流行となっていた。古きものがことごとく焼きつくされ、伝統をになった公家貴族の没落が決定的となると、かえって復古的な思想や好みがわきおこってきたのであろうか。
 和学流行は応仁の乱で貴族や僧侶たちが邸宅・寺院を焼き払われてしまった結果、各地に流亡離散したことと深い関係がある。貴族・僧侶の、京都から各地への離散は、その多くの所領が武士たちに横領されてしまい、年貢がいっこうにあがってこなくなったためである。だから所領の確保は人任せというわけにはいかず、かれらは地方へくだったのであった。

 旧支配階層の危機と没落は、かれらのなかに、みずからの祖先たちがのこしてきた文化遺産を保存し、あるいは顕彰しようという気運を強くひきおこすようになった。その代表的人物が一条兼良である。
 かれの学問は、有職故実の研究から発し、やがて古典文学の研究に進み、さらに神道・儒教・仏教などにもおよんでいった。しかし、かれの学問は有職故実についての厖大な知識と古典の解釈などにとどまっており、とくに注目すべき思想や主張があるのではなかった。これは公家貴族の死滅をも象徴するものであろう。
 だから、和学の流行も、じっさいには公家社会で発展してゆくというよりは、大名たちの文化的関心のなかに吸収されていく方向をたどった。兼良・三条西実隆らも、大名たちの求めに応じる代わりに財政的援助を受けていたのである。

 公家がその知識や学問を形ばかり切売りするようになったのと似た現象に古今伝授があった。古今伝授とは、『古今集』のなかの難解な語句を解説する切紙の秘伝と、全部にわたる講義の口授からなっていたものらしい。このころの貴族文学の主軸としての和歌は精彩を失い、ただ『古今集』が偶像視されるばかりであったが、そうした状態がかえって秘伝やその個人的授受を流行させたのである。

 故実尊重は公家社会のみならず、没落に向かいつつあった将軍家・守護大名など武家上層にも強くあらわれだした。その前提は南北朝期以来つくられていたが、義満の時代に将軍家と公家社会との融合が進められる中でこの傾向はますます強められ、武芸に関わる作法のみならず、それぞれの「分」に応ずる儀礼作法が強調された。現行の秩序に対する下剋上などの危機が進むほど、道に儀礼・格式などが強調されるのだ。

 応仁の乱で公家貴族とともに大きな打撃を受けたものには五山叢林の禅僧たちがあった。かれらは当代一流の学僧であり、その学問・知識は地方の大名・国人たちから喜んで求められ、地方にくだっていった。
 同じ禅僧といっても、一休宗純の生き方はこれらの儒僧たちとはまったく違っていた。かれはさまざまな逸話の持主であり、いわゆる風狂の生き方に徹した人物だった。一休は、あらゆる欺瞞的・権威的なものにたいして反抗したといえる。

 貴族や僧侶の地方への疎開や没落にともなう知識・文化の武士への切売りは、古代以来中央に集中していた文化を地方に伝えることになった。しかし、文化が地域的にもまた社会層の面でも京都の上流社会の独占をやぶってひろまっていったことは、その受容者側の主体的要求が原動力なのであって、その原因を公家や僧侶の地方疎開という現象だけに求めることは正しくない。地方大名・武士たちが新しい支配者に成り上がっていく過程で、なによりもまず治者の心がけともいうべきものを学び、身につけようとしたのである。

 ところで、このころ地侍・農民上層など地方民衆のなかに、どのていどの文字の理解や読み書きの能力がひろまっていたのだろか。
 そうした疑問についての正確な解答を求めることは不可能だが、参考になる史料はある。
 この時代にもっとも普及したのは往来物の中でも『庭訓往来』(消息=手紙の文例や当時の生活でよく使われた単語などを集録した文典)である。このころ、地侍クラスの人々までは、おそらく女子といえども一定の教養をもつものが多くなっていただろう。
 また、この時代からそれ以後の時期の民衆教育に大きな役割をもつようになったものに『節用集』がある。これは文安―文明年間に京都の建仁寺の僧侶の手によって編まれた一種の字引であり(編者未詳)、いろは順に音引き分類して、各音のなかを天地・草木以下十数種類の部門にわけて語彙をあつめ、簡単な解説をつけたものである。

(Shade)
+ 町衆と郷民の哀歓
町衆と郷民の哀歓
応仁の乱前後の不安定な世間の中、民衆はいつ災難に見舞われるかという不安と同時に、勝ち取った自らの実力に自身や幸福を見出そうとしていた。そういった民衆の不安と開放感との交錯は、様々の形で表現された。

踊りもその一つで、異様な風体の者が数千も集まり鐘や鼓を打ち、念仏を唱え、踊り狂う。
芸能の中でも踊りは自らも参加し主演者になる、そこに彼らの感情が率直に表れている。
また、踊りなど大勢の民衆が集まることは土一揆などにも繋がり、権力者にとってそれは恐怖であった。幕府や興福寺などの権力者は集団での飲酒や集会を禁止したが、民衆はこれらの禁制をおしかえしても踊りを強行した。民衆の踊念仏などの集会は支配者側と常に対立の中で行われるものであり、弾圧が加えられるものであった。その為、集会には反抗的・政治的な雰囲気が漂っており、そこに興奮、エクスタシーを感じていたものだろう。

また、都の祇園祭・葵祭や村々の祭りも、それぞれ規模は違うにしろ、娯楽的要素を持ってきらびやかになり、或いは後者ならば村人同士・外部の人との交流の場となり、市が開かれる、また発展して門前町とも成り得、経済活動を活性化する一環ともなっていた。

農村などから発生した土着的な要素を持つ狂言は、支配者層の為に上演するにつれ貴族化されていった。しかし、同時に支配者達を風刺する反権力的な面も持っており、貴族を嘲笑する狂言を貴族の前で上演する者も居た。
狂言の種類の一つ「小名物」に分類される物に「成上り」という作品がある。狂言に広く登場する太郎冠者なるものが主人から預かった太刀を盗まれた事について、主人を煙に巻くために成上りの話をするものだが、成上りそのものに民衆の願望を反映している、そして機知に富み、それでいながら素直で悪意ない太郎冠者に、下克上の時代の民衆は人間愛を見出したのだと思われる。
この時代は民衆達も成上ることが可能で、ただ隷属する身分から脱出し、自ら人間愛を表現できるようになった。その事から、民衆はこの作品に共感を覚えたのだろう。

御伽草子にもこの「成上り」の風が現れている。文学性は高くないが、当時の民衆の気持ちがよく反映されている。金に纏わる話も多く、草子の背景に町衆が居たことが伺われる。中でも出世譚は上昇期にあった町衆の夢と感情を表現するものであり、田舎から出てきて都で大臣になるといった話に仮託され、出世の夢を抱くことが出来るようになった事が表されている。

また、字の読めない地方の農民達なども「語り」によってこれらの成上り・出世譚の世界を楽しんだ。鎌倉末期の平曲から始まって、この時代も太平記等が語られていたが、語りの文学の集成の一例として室町期に完成された義経記がある。この貴種流離譚、高貴の者の没落流亡の悲劇は貴族社会にも受け入れられた。

踊り、祭、狂言、草子に語りと、この時代の人々は様々な表現形態を得た。これらは下克上の願望と喜び、幾分人間的な生活を送るようになって得た人間愛の世界である。しかし、これらの喜びだけでなく、民衆には絶えず不安と恐怖が付きまとっていた。
この恐怖というのも、時代を生き抜くために犯す年貢の不納、時として横領、強奪、殺人、詐欺などの、乱世の罪という他無いものからくるものであった。
その為、この頃は俗信化した地獄極楽思想が強く人々の心を捉えた。地蔵菩薩も地獄思想に密接に関ったものであり、庶民から武士まで幅広く浸透した。観音信仰の霊場巡りや伊勢参りもこの頃から貴族、庶民に至るまで広まった。
これら観音・熊野・伊勢の信仰や、高野詣、霊場巡りはブーム的なもので、何か教義に基づいたものではなかったが、一生を村落に留まるところから一歩踏み出した積極性に価値を見出せると思われる。
また、俗信的なものより宗教として積極的な役割をもったのは仏教諸派であった。上流階級や武士に関係する土蔵衆は禅宗に帰依するものが少なくなく、また日親の功績で京の町衆には法華宗が広まった。

(NINN)
+ 蓮如とその教団
蓮如とその教団
 浄土真宗中興の傑僧といわれる蓮如が本願寺八代目の法主となったのは、長禄元年(1457年)のことである。悪政と天災とが横行する世相のなかで、伝統的な天台などの教派は加持祈祷など密教的な行事で人々から金品を奪い、同じ真宗とはいえ専修寺派や仏光寺派は、始祖の教えとは縁のない異端の説をとなえている。蓮如にはこれらの教えは悉く誤っているものに思われた。本願寺派は門徒の数は微々たるもので、法主の一族の生活も貧苦のどん底であったが、彼は自己への確信を携えて民衆のなかに入っていった。
 蓮如の最初の布教は近江の、堅田衆と呼ばれる人々から始められた。しかし彼の活動は平穏無事にとは行かず、伝統的な貴族仏教の牙城延暦寺(山門)の怒りに触れて、何度も様々な理由を持って、堅田の本願寺は山門に襲撃されている。これは蓮如の説く所が過激であり、排他的な側面を有していたためでもあるが、単純に財力を目当てにした襲撃でもあったらしい。これに対して蓮如は低姿勢でことを収めている。この理由として、本願寺派ではない真宗の諸派が、山門に接近して、本願寺派の足元をおびやかしていたことがあげられる。
 その後の文明三年(1471年)五月、蓮如は越前吉崎にくだり、やがてその地を新たな布教の拠点とした。ここで蓮如がとった布教の作戦は、活発な『御文』の作成・付与と講の組織であった。『御文』とは蓮如の教えを記したものであり、これは瞬く間に普及していった。もうひとつの作戦は、講(寄合)の組織であった。蓮如は人々が月々寄り集まり、そこで互いに信心を語り合うことを推奨した。僧侶と民衆、ではなく、民衆相互の接触を推奨したのだ。
 講を開く場所は道場と呼ばれ、主に信徒のなかの有力者の住宅で開かれた。道場の上部機関としては末寺があり、その更に上に本願寺が据えられた。
   本願寺(本山)→末寺→道場=講(寄合)
 真宗の布教方式はみごとに組織だっており、また、末端の寄合を通じて、門徒自身の手で門徒はネズミ算式に数を増やしていった。蓮如の布教活動は、実に戦術的・打算的なものであり、彼はまず坊主・年老・長といった支配層に教えを施した。下々のものは彼らに従うだろうという考えだった。また門徒からの「志」(納入金)も、門徒の喜びの表現であり、自然のこととして肯定している。「志」は師匠・坊主の手によって本山に集中した。
 吉崎での活動は目に見えて成果をあげ、門徒は膨大な数に増加した。それは見様によってはみごとに組織された一大武力であった。この一大武力に眼を付けたのが朝倉である。時は応仁・文明の乱のただなか、東軍・朝倉は蓮如に助力を請うたが、蓮如は拒否の態度を示した。しかし西軍・富樫幸千代が高田派門徒を誘いいれ、同門徒も本願寺派門徒に対して武力攻撃をしかけたことで、本願寺派門徒は蓮如の制止をきかず奮い立った。文明六年(1474年)七月、決戦の幕が切って落とされたが、それは加賀の守護方と本願寺派門徒の正面衝突という性質のものであった。門徒の圧勝で終結している。
 しかし翌年に状況は一変し、門徒は東軍・富樫政親との対立を明らかにし始める。蓮如はこれに対し、『編目』を発行して「現世の支配者と対立してはならない」と説いているが、惣型村落であり強い結合性や排他・封鎖性を有する吉崎の性質に、講によって結びついた集団性と平等性が合わさった門徒の勢いは止められなかった。恐れを持たなくなった門徒は守護に対する年貢を坊主らへの「志」に転換させていった。『編目』発行のわずか一ヵ月後、蓮如は吉崎を退去した。
 その後、蓮如は河内国の出口に根拠をおいたのち、さらに山城国山科郷に移っている。その間、山門の衆徒に圧力を加えられもしたが、すでに吉崎布教以前とは打って変わり、本願寺は簡単に山門の圧力に屈するものではなくなっていた。北陸はもちろん近内畿国でも門徒の数は飛躍的に増え、法主蓮如はやがていやおうなしに聖界領主としての性質を示し始めた。蓮如と門徒とが、領主と領民との関係に近づき、両者の立場や性質は乖離していった。
 延徳元年(1489年)、加賀の一向一揆により富樫政親が殺害された翌年、蓮如は七十五歳をもって山科本願寺の南殿に隠居する。もはや歴史は蓮如の時代というよりも一向一揆の時代に移りつつあったと筆者は言う。
(サバトラ)
+ 山城の国一揆
山城の国一揆
 蓮如が乱世に乗じて巧みに組織を作り上げていく一方、京都周辺でも激しい農民闘争が繰り広げられていた。嘉吉の大一揆以降、悪政と飢饉に悩まされていた農民のフラストレーションが爆発したのである。その中でも1480年(文明十二)に山城・大和・丹波で起こった一揆の規模は一線を画していた。土民・京中悪党などの下層市民、守護型の兵士なども一揆に参加し、関所の撤去や徳政を求めた。その後も次々と一揆が起こった。(453ページに土一揆年表あり)
 これら一連の一揆はこれまでとは違っていた。それは徳政を要求するものではなく、自ら地域の権力を永続的に掌握しようという動きであった。しかしながら、誰が地方の次なる統治者になるかは決定的ではなかった。備後の国櫃田村の百姓たちは、旧来の支配者である領主を防波堤にしながら、新興勢力の国人・地侍の侵入を阻止した。農民たちも、みすみす新興勢力に支配されてなるものかという強い意気込みがあり、それが地方での決定的な権力が発生することの妨げとなっていた。
 大和では他国と違い、興福寺が国の守護の地位をもらっていた。その半面ではまた政長か義就の被官となっていた。この二者は争い、戦いは数年間続いた。国一揆は、このような両軍対立の中ではっきりとその姿を現した。京都と奈良を拠点として二者が争うのであるから、この二地域では一揆が頻発した。ついには一揆が政長・義就両軍に要求をつきたてる。国人・地侍・土民が軍を退去させたのである。前代未聞、下剋上の極みであった。
 地方住民の集団である惣は、自検断の性質をもつようになり、ついには一国的規模にまで達した。惣は半済によって年貢徴収権を守護から略奪し、検断(≒裁判)も自己で行った。
(Jiyu)
+ "乱世"の国家像
"乱世"の国家像
 応仁の乱から山城の国一揆へと歴史の激戦が続いていく中、足利義政は1483年(文明十五)、東山山荘に移り、全ての世俗から抜け出してひそかに風雅の世界に生きようとした。妻の富子、子の義尚ともうまくいっていなかったようである。義政と義尚の不和の原因は、女性関係であったといわれている。義政はこのころにはすっかり政治的意欲を失い、世に諦観を抱いていた。相次いだ大一揆にも全く政治的無責任な態度で臨んでいた。一方義尚は勝気な性格であった。生まれてきたことが応仁の乱の原因となったのだから無理もない。彼は父と争い、母も捨てた。幕命に従わない地方の国々の領主を討伐するために征伐に出向こうとしたが、1489年(延徳元)ににわかに陣中で死亡した。過度の酒色が祟ったのだろう。義尚には跡継ぎがいなかったので、美濃に下っていた義視はすぐに子の義材をつれて上洛し、義政の跡継ぎにした。義政は義尚の死の一年とたたないうちに、後を追うように死んだ。
 将軍はもはや聖女の中枢に立つことはできなかった。地方は独自の権力体制を形成し、独自の道を歩み始めていた。為政者の無能が世の混乱を招く中、地方住民は独力で生きる道を模索し始めていたのである。
(Jiyu)

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最終更新:2010年02月21日 21:10
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