第十三巻 江戸開府(辻達也 著)

+ はじめに
はじめに
 日本における中央統一政権の成立過程を述べ、家康がそれをいかにして握るに至ったかがこの巻の主たる内容であると述べている。

(Jiyu)
+ 六十年の忍耐
六十年の忍耐
 徳川家康の生涯は「忍」の字がこれを表しているという。
 彼の人生は松平氏と織田氏が争っている時に始まりを告げた。竹千代(家康)は1541年(天文十)三河刈谷の城主水野忠政の娘お大と、松平広忠の間に生まれる。翌十一年、水野忠政が死ぬと、お大の兄信元は小田川についてしまった。お大の機転によりなんとか危機を乗り越えるが、このような事情があって家康は家族との縁が薄かった。母とは竹千代三歳の時に別れ、父はのちに人質に取られている最中に失った。しかし母であるお大は長生きし、家康の天下一統を見届けて七十五で死んだ。
 水野氏と縁を切った松平氏は、織田氏に勢力を奪われ、今川氏への従属を進めていく。その際竹千代は今川氏に人質に出されることとなった。1547(天文十六)のことである。が、駿府へ向かう途中に欺かれ、尾張の織田氏のもとへ送られてしまう。そしてその間広忠が二十四歳の短い生を終える。側近に殺されたという。松平氏は当主が二代続いて不慮の死を遂げている。竹千代は八歳で孤児となった。
 同年、今川義元が織田軍を攻め圧倒する。織田軍は竹千代と交換で織田信広(信長の兄)を引渡してもらい、安祥の城を放棄した。竹千代は二年半ぶりに岡崎に戻ることができたが、それもわずか半月ほどのことだった。今度は駿府へ今川氏の人質として行かなければならなかった。
 竹千代は実の祖母源応尼に養育され、禅僧太原雪斎から学問を教授された。太原雪斎は儒学・軍学・指揮官として非常に優れていた。家康の知識・見識の基礎はこのころ養われたと言われている。
 竹千代は弘治元年、十四歳で元服し、今川義元の名を一文字もらって松平元信と名乗った。同三年、今川義元の甥関口義広の娘・瀬名を娶った。後に 築山殿 と呼ばれる人である。すぐに元信は名を改めて元康とした。祖父清康を慕ってのことだろう。
 松平氏は悲惨な生活をしていた。領地からあがる年貢はことごとく今川氏に奪われてしまうので、家臣たちは百姓同然に鎌や鍬を取り、田畑を自作した。今川の将兵には期限をとって、主君竹千代にもしものことがないようにはからった。その上年に何度かある織田軍との戦いには、松平の家臣はいつも最前線に立たされた。親や子は一人、また一人傷つき倒れていった。東西二大勢力に挟まれて、自立しえない国の悲劇がそこにあった。その中でも家臣は志を失わず、主君の帰国と独立の夢を抱き続けた。
 1556年(弘治二)十五歳となった家康ははじめて義元に許されて、墓参りのために岡崎に帰ってきた。家臣である伊賀守忠吉は密かに家康を蔵に案内し、今川氏に隠れて蓄えた金銭や糧米を見せた。彼らは主従手を取り合って泣いたという。
 1560年(永禄三)今川義元が尾張に攻める際、家康はその先鋒となった。このとき敵方であるお大の方を家康はわざわざ訪問している。よほど肉親の情に飢えていたのだろう。家康は十九歳であった。この戦い――桶狭間の戦いで今川義元は倒され、家康はようやく今川氏の束縛から逃れ岡崎に戻ることができた。
 その後しばらくして、織田氏との間に和平の機運が起こってきた。松平氏はここで今川氏に見切りを付ける。1561年(永禄四)春頃から松平氏は東三河の今川氏の部将を攻撃するようになった。翌年、松平元康は名を家康と改めた。今川義元から譲り受けた名を削り、その縁故をすっかり断ち切ったのである。
 ようやく発展の途を歩み始めたと思ったその時、一向一揆が台頭し始めた。1563年(永禄六)一揆が勃発する。家康が軍事力強化のため、農民や社寺に多大な負担をかけたのが一大原因である。反松平勢力も背後についていて、容易ならざる敵となった。家康は奮闘し、一揆側に和解を持ちかけた。寺僧はもとのまま、敵対者は赦免、本領安堵、張本人の助命といった内容である。一揆は収まった。
 ところが家康は一向宗の改宗をその後命じた。僧徒は契約違反を訴えたが、家康は聞き入れず、激しい弾圧を加えた。反抗のエネルギーが高いときには宥和策でそれを鎮め、その後急に態度を変えて敵を叩き潰す。このやり方は五十年後、難攻不落の大阪城を攻め豊臣氏を滅ぼしたときの方法とそっくりである。家康が「狸親父」と呼ばれる由来となった狡猾さは、このころから遺憾なく発揮されていた。
 一向一揆も鎮め、松平氏の三河統一の基盤が固まった。やがて1566年(永禄九)には松平氏を改めて徳川氏を称するとともに、朝廷から従五位下三河守の官位を与えられた。公家は前例を重んじるので、はじめは先祖に国守に命じられた者がいない家康に官位を与えることを渋った。しかし貧乏を極めていた公家は金の力に弱かった。胡散臭い系図を持ち出して、徳川ははじめ源氏で、途中から藤原氏に変わったという証拠とした。神祇官吉田兼右が鼻紙に写したというそれを、鳥の子紙に清書させて天皇に上奏し、勅許を得た。こうして松平家康は源氏―藤原氏を経て、徳川氏を名乗ることとなり、官位を賜った。
 当時は偽系図作りが流行っていた。成り上がり者が権威を欲したというのと、支配の正統性を求めたのがその原因である。家康はその後、源氏と藤原氏を適当に使い分けた。戦国大名にとって系図や氏姓などは、それらの持つ伝統的権威を利用するための便宜でしかなかった。

(Jiyu)
+ 江戸の内大臣
江戸の内大臣
 家康は東海および甲信五ヵ国を領し、日本有数の大名に成長した。そして明智光秀を破り、信長継承者の優位にもたった。全国制覇に邁進するもう一人の雄、豊臣秀吉とは一度は対決せねばならぬ運命にあった。
 1584年(天正十二)の小牧長久手の戦いは、家康がこれまで体験してきた戦争とは別次元のものであった。この戦いは軍事・外交を含めた広義の政治力の戦いであった。
 家康は信長の次男・信雄を取り込み、秀吉と戦う大義名分を作る。小牧で戦闘が行われることはなかった。小牧に軍を置いて牽制し、長久手に秀吉軍を誘い出して奇襲をかけたのである。長久手の戦闘は家康の快勝であった。この他にも各地で戦闘は行われた。
 対決はこれで終わらず、その後も臣下の裏切りや財政問題に家康は悩まされた。戦闘での死傷者の多くは馬も甲冑もない百姓であるので、戦闘が続けば続くほど農村は荒れてしまう。長久手では勝利したが、戦争は家康の敗北であった。家康は敗北を敗北とせず、有利な講和をする必要があった。秀吉は家康と戦い、無駄な損害を発生させることは避けたかった。両者の利害は一致し、両者の対決は終わった。
 家康がその後、領国統治の体制を固めているときに、1590年(天正十八)秀吉の小田原征伐が始まった。このとき北条氏が滅ぶ。秀吉は家康に対し、北条氏の旧領である伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総の六カ国に移るよう命じた。家康はこれを受け、江戸に入った。これを関東入国という。
 入国後の家康の最初の仕事は、北条氏と武田氏の遺臣を懐柔することであった。家康は無理な圧迫を避け、徐々に支配力を浸透させていった。
 秀吉の下についた家康は、領国内で徐々に大きな力をつけていく一方、中央では秀吉の従順な家臣を演じた。家康はわざと愚かしく振る舞い、そのためあらぬ疑いをかけられることはなかった。
 家康は各大名と秀吉の仲介役をして、大名たちの信頼も得ていった。それは親切心からではなく、豊臣政権の中央集権化を防ぎ、徳川の影響力を相対的に高めておく利己心からであった。
 秀吉の死後、豊臣政権は大名五人の合議制となった。しかし、家康の実力が時とともに群を抜いて大きくなり、徳川家康対前田利家・石田三成という対立関係が形成された。のちに利家は死に、三成は殺されそうになり家康に助けを求めたので、家康に対抗できる力はなくなった。
 家康は着々と領国経営をして力をつけてきた。それが秀吉の死後に実り、強大な勢力となることができたのである。

(Jiyu)
+ 関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦い
1599年3月13日、徳川家康は伏見の自邸を出て伏見城に入り、いよいよ中央政権を意のままにするべく本格的な権力強化を図りはじめた。有力な諸大名を帰国させてしまったのもそのための政略である。諸大名が国に帰れば、家康にとって攻撃の口実は作りやすい。検地などの実施は土豪層の反乱を招きやすく、その鎮圧のために軍隊を出動させれば、謀叛の口実を設けられる。多くの大名から信望を得ている家康にとって、そこに何らかの口実さえあれば、中央政権の名を借りて特定の大名討伐のため諸大名の軍隊を動員することは可能だったのである。

1600年5月3日、度重なる上京の催促を上杉景勝が強く拒否したことを受けて、家康は会津出兵を決定した。伊達政宗をはじめ諸大名に中央政府軍の統率者として会津出兵を指令、自らも6月16日には大阪城を発して遠征の途についた。
7月2日、家康の命に応じて会津遠征に参加した大谷吉継は、美濃垂井で旧友石田三成の招きを受け、家康打倒の陰謀を打ち明けられた。協力を求められた吉継は覚悟を決めてこれに従い、兵を近江に返して佐和山城に入った。三成の同志増田長盛は、三成と吉継の計画をいちはやく家康の側近に報じるなど、ひそかに家康側にも通じる一方、同日には毛利輝元と通じ、その他の諸大名にも家康弾劾文を送っている。
家康は三成挙兵の報を得て、7月21日、江戸を出発して下野小山に到着、諸武将を集めて会議を行い、西軍と戦うべく西上を決定した。一方、大阪には近畿・中国・四国・九州の諸大名が集まった。その兵力は九万三千余という。7月19日、西軍の諸将は伏見城に至り、守将鳥居元忠を攻撃して8月1日、ついにこれを陥落させた。

石田三成らは自分たちこそ中央政権の正統派と主張し、故太閤と秀頼への忠節を旗印に自陣への参加を呼びかけた。そうして家康を、故太閤の遺言に背き秀頼を見捨てた異端者であるとして攻撃した。しかし東軍に与した秀吉恩顧の諸大名は、これまでの家康の行動を、豊臣政権の樹立した中央集権における責任者としての正当なものとして認め、むしろ三成の行動を反逆と認めたのである。またやむを得ず西軍に加わったものの、戦意のない大名も少なくなかった。こうした内外の事情に、三成の最大の誤算があった。
9月15日、東西軍の戦端は関ヶ原に開かれた。西軍ははじめ大垣城にこもって戦い、後に大阪から毛利輝元を総大将とする援軍を呼び寄せ、東西から家康を挟み撃ちにする作戦をとった。しかし家康の急遽大阪城を攻めるかという巧みな陽動作戦により、三成らは大垣城を誘き出され、関ヶ原盆地に押し込められた。西軍はこれを見下ろす桃配山に本陣を構えた。
このとき、ちょうど家康の背後にある南宮山に毛利らの部隊が陣していたが、最前線の吉川広家はあらかじめ家康に内通しており、出撃すべきときになっても動かなかった。このため毛利秀元、安国寺恵瓊、長宗我部元親の諸隊もとうとう戦闘に参加することができなかった。
また昼ごろ、突如として盆地の西南松尾山に陣していた小早川秀秋の軍が、同じ西軍である大谷吉継の陣を攻撃した。かねて家康側に通じていたものの様子を見ていたところが、家康軍の催促によって裏切りを決意したものであった。これを機に西軍は総崩れとなり、諸将敗走の完敗となった。六時間の激闘の末、家康は完全勝利を収めたのである。

関ヶ原の戦いの勝利した家康は、9月27日、大阪城に入った。中央政府軍統帥者としての家康の立場はここに確立したといってよい。つづいて家康は、諸大名の所領処分を徹底的に行った。没収地の合計は六百万石を越しており、かなり思い切った大名の配置換えが可能である。その土地再配分は、主に豊臣系の大名を加増しながらもその地を中国・四国・九州へ移し、近江から関東までを一門・譜代で固めるというものであった。江戸から京都・大阪への道をしっかりと押さえたのである。
このように家康が、まだ征夷大将軍に任じられる以前から、多くの大名の所領を没収し、再配分し、大幅な配置換えを行ったことは、彼が単に中央政権の軍事統帥権のみを握っているのではなく、既に中央政権の主権者の地位に登ったことを意味するものであった。また1602年に、備前岡山に封じられていた小早川秀秋が死去したとき、家康は秀秋に後嗣のいないことを理由にこれを没収した。江戸時代において、大名が戦争以外の理由で取り潰されたのはこれが初めてである。明らかに日本全国の土地が中央政権の所有であることを主張する権力行使であり、注目すべき出来事である。
(Shiraha)
+ 覇府の建設
覇府の建設
1603年、前年末迄に島津氏に至るまで悉く他大名を主従関係の内においた家康は、征夷大将軍に任じられた。之によって源頼朝以来の全国の武士の棟梁、全国支配者としての地位の裏づけ、また朝廷の権威と切り離された全国支配の権力を確立するための肩書きとした。
というのも、秀吉は天皇の代理施政者である関白に留まったが、家康は政治権力者ではない、元来は軍事統率者である征夷大将軍となった。征夷大将軍は頼朝以来の武家の伝統として政治的にも権力を持つようになったものである。
また、1590年に入城した東国江戸を政権の所在地としたのも、朝廷と政権を切り離そうとしたのではないかと思われる。

さて、この江戸城だが、1590年に家康が入城した当時は、知ってのとおり荒れ放題であった。そこで本多正信が玄関周りだけでも綺麗にしては、と進言したが、先に領国支配を固めるため相手にしなかったというあたり、実質的な家康の精神が見受けられる。
とまれ、1592年に入って西の丸を建設したのだが、そこから10年以上空いて征夷大将軍任命後の1604年になって大拡張工事を開始した。3千艘の船を28家の外様大名に用意させて伊豆から石を運んで石垣をなすなど、大きな負担を課しつつ1607年までに大天守閣を含む大部分の工事を終えたが、1657年の大火により焼失、以後天守閣は築かれなかった。
また家康は城下町形成のために、当時低湿地が多く、海岸線も現在よりはるか西まで入り込んでいた江戸の埋め立てを始め、運河造営、上水道、船着場などを建設し、江戸-上方を結ぶ東海道を始めとして幹線道路たる街道を整備した。街道には伝馬・宿場が整備され、年々需要が高まるので、近隣農民から人馬を徴発して不足を補った。これらの道路については日本を訪れた西欧人が良くほめている。

家康はこうして造営した江戸の地に家臣の邸宅を配置、町人を呼び集めて城下町を形成していった。城の西部の平野には城の防備も兼ねて家臣団の邸宅をおいた。また武家諸法度で明文化されるより前に諸大名は江戸に証人として妻子などを住まわせ、江戸に参勤していたので、これに対し家康は邸地を諸大名に与えた。こうして諸大名は江戸に邸宅を持ったが、何れも豪華絢爛に造ってあった。対して江戸初期の武士の食事は質素なものであって、そういう逸話が多く残っている。
町人は関東・小田原や徳川氏の旧領東海諸国等から呼び集めた。町人には年貢が免除される代わりにその技術や労力の提供が課された。近世の大名は城下町に住まわせた家臣団から発生する需要を補うために、町人の技術や労力の提供が必須だったのである。

また江戸城築城、城下町形成と同時に彦根・駿府・名古屋城の造営を各大名に命じ、これまた大きな負担となっていた。そこで名古屋城築城の際、福島正則が不平を言ったところ、加藤清正が「せっせと仕事をして早く休むことにしようや」と答え、福島を始め諸大名も之にならったという。加藤・福島などの猛将ですら既に反抗する気を失っていたのである。
(NINN)
+ 大御所と将軍
大御所と将軍
1605年、家康は三男秀忠に将軍職を譲り、自身は大御所と称されるようになった。
京都で行われた秀忠将軍宣下の儀式は、家康将軍宣下の儀式が関が原合戦後のあわただしい中に行われたものと違い、外様大名に至るまで多数の大名が参列した。彼らは秀忠に忠誠をあらわし、大阪に豊臣秀頼がいたが、此方に出向くものは一人もいなかった。
これまでの将軍と諸大名の関係は、家康への畏服という面が大きかったが、それが今後は個人を超えて徳川将軍家に臣従する関係に進めようとしていた。故に家康は2年にして秀忠に将軍職を譲ったのであった。
さて、此処で政治上の実力者大御所家康と、中央政権の法的な権力者将軍秀忠の間に、二元政治が行われる心配は無かったのか。家康は、秀吉が関白職を甥の秀次に継がせ、秀吉自身は前関白として権力を持ち二元政治を行い、結果として秀次が秀吉にそむこうとしたとの疑いで秀次と縁者30余名が斬られるという事件を目の当たりにしていた筈である。
だが家康は二元政治と成りうる大御所と将軍の体制を築いた。これについて、先ず秀忠が過度なほどに律儀であることが家康に安心感を与えていたこと、そして家康が自らの側近を通じて将軍をリモートコントロールすることで、大御所と将軍の二元政治を円滑に進めることを目論んでいたのである。

1606年こんな事件があった。家康は鷹狩りが好きであったので、江戸近郊に鷹場を設けていた。ところがこの鷹場に野鳥が多く、麦の芽を食べてしまって困っているとの百姓からの訴えがあり、町奉行・関東総奉行を兼ねていた青山忠成・内藤清成が命じて鷹場に野鳥を獲る為の罠をはった。これを聞いた家康は、自らの猟場で勝手なことをする、と大いに怒り、秀忠はさっそく忠成・清成に切腹させようと命じた。
それを本多正信が止めて、家康に2人の罪を免じてやって欲しいと述べた。家康はこれを聞き入れ、二人にしばらくの謹慎を命じたのである。
こう見ると、家康は大分わがままを言ったように見られるが、実はそうではない。
家康にも、2人は百姓が困っているからそれを助けようとしたという道理は分かっていた。彼が2人について許さなかったのは、2人が道理によって家康の権威を犯したことであった。
もし道理によって大御所の権威を犯すことを認めるとどうなるか、おそらく今後家康の命に対して、江戸の老中や奉行が、各々考える道理によってこれを拒否したり修正したりすることが発生したであろう。
将軍や老中、奉行達は大御所家康にとって、家康のリモートコントロールで忠実に動く機械でなくてはならなかった。
今度の事件で将軍以下が自身の権威に忠実に動くことをチェックした家康は、駿府に隠居し、主にここから江戸へ指令を送っていた。

家康が江戸をリモートコントロールするに活躍したのは彼の側近達である。彼が最も信頼する、手腕家の本多正信を二代将軍秀忠の幕閣に送り込んだのを始め、隠居先の駿府に正信の子正純を置き、その下に成瀬正成・安藤直次・竹腰正信らをおいて手元で政治家として養育し、後々徳川御三家の家の家老として送り込んだ。家康のリモートコントロールが江戸のみならず、子供たちの藩の政治にも行き届かせるようにしたのである。
他にも僧侶の金地院崇伝や儒学者林羅山、財務官僚としての大久保長安、貿易関係者やウィリアム=アダムスらが家康の側近グループとして活躍した。

本多正信は三河の貧しい鷹匠の出身であった。1563年の三河一向一揆の際には一気に加わり家康と戦った。一揆が鎮圧されてからは各地を転々とし、後に大久保忠世のとりなしで家康に帰参した。そして伊賀越えの難で功を立てて家康から絶大の信任を得、1590年家康の関東入国後は関東総奉行として領国経営、江戸市街の建設に活躍し、家康からの信任はいよいよ厚くなった。こうして武勲ではなく内政で功をあげた正信は、命を懸けて家康に尽くしてきた譜代の大名から厭われる存在であった。
この様に頭で活躍した正信は色々と陰謀を巡らしたと言われているが、それは個人的な欲から発したものではないようである。家康からの絶大の割には2万2千石の領主でしかなかったという点からも、彼は自身の能力を私欲に使っていた訳ではないように思われる。
仮に、先の青山忠成・内藤清成の事件が正信の謀略だったとしても、それは同僚を失脚させようとした訳ではなく、大御所によるリモートコントロールが機能するか、家康の引いた路線に沿って将軍秀忠以下が忠実に働くかをテストしたのではないか、と筆者は述べている。

大久保長安は甲州で武田氏に取り立てられ、甲州が家康領になると大久保忠隣に使える事となり、ここで忠隣に気に入られて大久保姓を与えられたものである。
長安は民政・財政・治水・土木等内政面で大いに活躍したが、特に鉱山経営に於いて彼の活躍は目覚しいものだった。武田氏の下で甲州金の採掘の経験を積んでいた長安は、1601年家康の直轄領石見銀山の奉行となった。長安が石見銀山に赴任すると採鉱の成績は飛躍的に上昇し、ついで佐渡の鉱山の奉行も兼ねる事となった。此処でも採掘量を飛躍的に伸ばし、更に伊豆諸鉱山の経営も任された。
彼がこの様に採鉱量を飛躍的に伸ばしえたのは、従来坑道を地上から掘り下げていく竪穴掘ではなく横穴掘の技術を用いたからであった。ヨーロッパの技師からもたらされたであろうこの技術は、竪穴掘では直ぐに湧き水によって坑道が使い物にならなくなっていたところを、横から掘る事で湧き水の排水を容易にした。
ところがこの技術も程なく限界に達した。1607年、家康の命で金銀の産出量が落ちてきたことに対する調査をしてみると、坑道が海面より低い位置に達したため湧き水の排水が行えず、採掘できなくなり始めていた。こうして近世初頭の鉱山の盛況は短くして終ってしまったのである。

他にも近世初頭には、六本槍の政商と呼ばれた御用商人、職人頭らが将軍の下で活躍した。
ところが彼らは身分制度が整ってくると将軍に近づくことは出来なくなり、その特権性を失っていき、代わって京・大阪・江戸三都の問屋層などの豪商に経済界における立場を奪われていった。

とまれ、家康は鉱山、また御用商人を介した貿易により多大の富を築き上げた。
慶長十二年、伏見城に蓄えてあった金銀資材を駿府城に運び出しているが、筆者の計算によるとこれが凡そ78万両、米の金額に換算して約265億円、そしてこれは当時100万人以上の軍隊を動員できる金額であり、さらに1616年時の家康の遺産を、江戸・駿府両方の蓄えを合わせて600万両と見積もっているが、その富が如何に莫大なものであったかをうかがい知ることが出来よう。
(NINN)
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ここにタイトルを入れる
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+ 「強き御政務」
「強き御政務」
 1605年、秀忠が征夷大将軍となったころから家康は強硬に幕府内外へ服従を求めていった。秀頼に対しても新将軍への参賀を求めて一時戦争寸前までいっている。またこのころより諸大名の改易も行われるようになっている。
 このころ、女官と公家との不祥事があった。このことに激怒した後陽成天皇は極刑を望んだが、幕府の意向から下手人は流罪となっている。このことが気に入らぬ後陽成天皇は譲位の意を幕府に告げた。しかし丁度家康の娘が亡くなった時期と重なったために幕府が譲位の時期を延期しようとし、ますます機嫌を損ねたようである。
 結果、後陽成天皇は後水尾天皇に譲位することとなった。そしてこの譲位の儀の翌日、家康と豊臣秀頼は二条城で会見する。以前上京を拒否しえた豊臣氏もこの時点では拒否すること能わず、そのことから徳川と豊臣の主従関係を強めた物ということができよう。
 このころから武家や公家、寺社に禁令の発布も始めている。
 このような強権発動のなかで幕府内部に対しても統制を強めている。大久保忠隣の失脚はこの中でも最たるものである。これはキリシタンや幕吏の不正絡まる複雑な事件であるが、背景には秀忠の幕閣内での本多正信・大久保忠隣の対立が広がっていたことを背景とするのだろう。
 忠隣失脚の少し前、有馬晴信の旧領復帰運動に伴う岡本大八の問題が明らかとなっている。これは本多正純の家臣・大八が賄賂を得て偽の朱印状を晴信に渡していた問題である。結果は大八が火炙り、晴信も改易であったが、この二人がキリシタンであったことからキリシタン禁制へとつながる。
 また、対立する忠隣の臣・大久保長安がこの事件を処理したことは正純にとって大きな失点だったと考えられる。忠隣失脚事件は、このまき返しだったと言える。
 長安が死ぬと、突如として生前の不正が明らかとされ子は切腹。一族も罰せられた。そしてそれからまもなく忠隣も失脚する。忠隣は幕臣に人気があったというが、これはもしかすると幕臣の援助を彼が行っていたからかもしれず、とすれば幕府財政に権限を持つ長安とのつながりが資金源となっていたのかもしれない。
 とまれ忠隣の失脚によって本多正信・正純父子が力を持つ。この結果、家康は幕府をより動かしやすくなったといえる。
 またこのような幕府の態度こそが、豊臣氏が滅ぼされることとなった理由であったと言えるだろう。(Spheniscidae)
+ 大坂落城
大坂落城
 家康の上京要求を拒否した当の豊臣氏は、しかし行く末に不安を覚えていたようで神仏に幾度も頼っている。そしてそれから6年後、後陽成天皇の譲位の儀にあわせて二条城にて家康と面会している。この結果は平穏であり、平和な雰囲気が広がったようである。
 しかしこれからまもなく、豊臣氏が建立していた方広寺大仏殿の落慶間際になって、幕府は様々な難題を掛けてこれを妨害しようとしている。なかでもここにある鐘の銘に難題を付け、混乱を大きくしている。しかし鐘銘を家康が前から知らぬはずはなく、この時点では既に戦争の準備をしていた点からも、家康は混乱を大きくすることを目的としているようである。この鐘銘問題については五山僧の阿諛追従がよく見られる問題でもあった。
 また、このころより豊臣恩顧の大名が次々と亡くなっている。そのことも豊臣家の立場を悪化させている。
 この時点で豊臣氏がとるべき方法と言えば、史実の如く抵抗するか、大坂を出るかしか存在しなかった。しかしこの意見はついぞ取り上げられていない。
 片桐且元は専ら豊臣氏と家康との間の取り持ちを行っていたが、却って且元は裏切り者として扱われてしまい、結果として且元は失脚してしまう。結果、大坂城内では強硬派が実権を握ったのである。
 この結果大坂城では幕府と戦することがほぼ決まるが、諸大名は全く豊臣に味方することはなかった。すでに大名たちが御恩を受けているのは江戸幕府であり、故に奉公すべきも江戸幕府であったのだ。
 家康が豊臣征伐を決めると、諸大名は悉く家康に従って大坂へと近づいた。恩顧の大名は特別に免除されていはいたが、その息子は従軍しておりまた島津・佐竹・上杉といった関ヶ原西軍の大名も従軍させられている。
 大坂城包囲陣が完成すると、じわじわと攻撃を行いつつ講和交渉を行っている。これを飲ませるため、家康は大坂城中心部への砲撃や地下道作戦、堀からの水抜き等を行っている。
 朝廷からの講和斡旋については、朝廷からの政治介入の否定、幕府内問題としての豊臣氏の処理といった事情から、これを拒否している。それからまもなく講和は成り、二の丸・三の丸を破壊し堀を埋めることで合意している。これが、大坂夏の陣である。
 しかし、まず豊臣氏が10万の浪人を抱えることが不可能であり、それゆえ浪人たちはむしろ抵抗を主張していたということ。そして内堀までも埋められてしまったことから、大坂城での不満は増大していた。それに目を付けた家康は浪人の追放か大坂退去を要求、結果として豊臣氏は再び抵抗することとなる。
 この抵抗派多勢に無勢であり、一時は善戦しながらもとうとう全滅することとなった。秀頼・淀殿も結局切腹することとなり、そうして大坂の役は終わった。
 大坂の残党については厳しく追及されており、これは関ヶ原の際と大きく異なる。これは徳川氏の権力が浸透しており、厳しい追及を行っても解決可能であるという状況をよく示している。(Spheniscidae)

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最終更新:2010年04月18日 20:50
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