第十四巻 鎖国(岩生 成一 著)後編

+ 日本町の人々
日本町の人々
 この当時、東南アジア各地に日本人町が散在していた。ベトナムのフェフォも例外ではなく、日本の貿易船の拠点として日本人町が形成され、そこには追放されたキリシタンや貿易商の関係者などが住んでいた。自治が許されており、基本的には日本の慣習に従って高い生活していたようである。このような在住日本人は、最初のうちこそ日本人同士で婚姻を行ったが、次第に土地の有力者と通婚するようになってゆく。これは、日本から新たな渡航者が来なくなったからであり、その結果として次第にその地域の文化と同化していくことになる。
 カンボジアにあるアンコールワットには日本人の落書があり、それは当時に日本人がそこまで進出していたことを示している。シャムの山田長政もまた知られた人間である。彼は日本人町の人々を率い、シャムの王家の争いに参戦した人物であるが、この当時シャムには日本人傭兵もまた多かったと言うことが伺えるだろう。
 マニラの日本人町も非常な発展を遂げていた。最も古い日本人町でもあるこの町は、朱印船貿易の開始から飛躍的に拡大。元から住むイスパニア人との対立も引き起こしながら、キリシタンの追放先としての役割も会って大きな力を持ったのである。
 このような日本人町は、全く政府の保護をもっていない。だが日本の貿易のウエイトは、この地域の貿易の中でも高いものであり、それゆえ交易に携わる日本人は各地に移住してその地域の貿易をも握った。また日本での戦乱終了に伴って、武士も相当数渡航している。
 しかし、日本人はすぐに帰りたがる傾向があり、また男ばかりであることからすぐに地元の人間と雑婚し、地元へと同化していくようになる。日本人町の近くには中国人町が形作られ、次第に日本人町に代わって力を持つようになる。
 この結果として、日本人町は次第に力を失うようになっていくのである。
(Spheniscidae)
+ 鹿皮と生糸
鹿皮と生糸
鹿皮と生糸
 当時、台湾は北端をイスパニアが、南端をオランダが占拠していた。ここはベトナムの東京やフィリピンのマニラと並び、日本の商人の活躍する舞台だったようだ。
 さて、日本の輸入品において額が大きかったのは生糸や絹織物、綿織物、鹿皮、鮫皮、錫、鉛などである。一方、輸出で大きかった物は銀・銅・銅銭・硫黄・樟脳であった。
 これらの輸出品のうち、とりわけ重き物は生糸や絹織物であった。日本国内で非常に喜ばれたこの品を買い付けるために、朱印船が各地へ渡航したとさえ言える。秀吉の時代はこれをポルトガルが締めていたが、やがて中国船やオランダ船もそこに介入するようになり、また朱印船が生糸貿易の多くを担うことになってポルトガルはその存在感を失うことになる。
 さて、この時代の台湾は日本と明との貿易を仲介する良い市場であった。日本はもちろん、オランダもここを重要視している。台湾での生糸貿易を巡って、衝突が起こるのは必然であったといえる。まずオランダは台湾での貿易に課税を行おうとし、日本側は拒否。ついで、長崎奉行が用意した朱印船からの借船要求を拒否した。これに機嫌を損ねた幕府はオランダ商館長と将軍の会見を拒否、一方で台湾に居る朱印船の要求に応じて船を新たに派遣した。台湾についた応援の船をオランダは強く警戒してこれの貿易を強く妨害した。これに怒った彼らは朱印船の乗組員は、オランダ商館へと乱入して脅迫。ここにオランダ側も折れ、朱印船の貿易を認めた。これでも強硬な立場を折らぬ幕府へオランダは最大限譲歩をして、ようやく対日貿易を認可させたのである。
 朱印船による輸入のうち大なるものに、鹿皮があった。これは羽織などで頻繁に使われるものであり、それゆえ需要あるものであった。朱印船はこれを大量に買い占めるため、オランダらの諸国はやはりこれに圧迫された。同様に、刀の柄に用いる鮫皮も輸入品として重要視されている。
 この時代になると砂糖の輸入量も増えた。日本では黒砂糖が白砂糖よりも高値で売れ、ポルトガルはより高い利益をあげた。また日本では白粉の需要もあり、ヨーロッパ側を驚かせるほどの量を輸入している。
(Spheniscidae)
+ 大殉教
大殉教
1616年のキリシタン禁令以後も、伴天連は朱印船に身を潜めて入国することが絶えなかった。そこで1620年英蘭両国は、当時互いに余り仲が良くなかったが、この時ばかりは共同で幕府に上申書を提出した。上申書に於いて英蘭は、カトリック教国家の侵略的殖民政策とキリスト布教とが切り離せない事を強調し、イスパニアやポルトガルに牽制した。
これを裏付けるかのように同年、台湾海峡でイスパニア、ポルトガル人宣教師を乗せた日本人キリシタン平山常陳の朱印船が拿捕され、拷問の後、1622年二人の宣教師は常陳や日本人船員と共に処刑された。
これに先立つ事1617年、家康が死去の翌年だが、先ず大村で宣教師の斬首があり、この殉教に沸き立った宣教師は白昼堂々教会を興した。これを領主側も黙って見過ごすわけにはいかず、各地で信者の逮捕がうち続いた。しかしいよいよ殉教の熱意に燃えた宣教師が、死を決して次々密入国してきた。当然捜索・逮捕の手も厳しくなったが、1622年、常陳の一件に続いて、長崎で大殉教がおこった。
1622年9月10日、各地で逮捕された各宗派の宣教師をはじめ、これを匿ったもの、信者など合わせて55名で、イスパニア人、イタリア人、日本人、朝鮮人の3歳から80歳までの男女が長崎の刑場へ引かれていった。彼らのうち宣教師ら25名は火刑に、大半の女性や子供は斬首された。彼らの処刑後、遺体を二日間焼き、刑場の土もろとも袋に詰めて海中に投棄し、さらに水夫らは体を洗い、船体まで洗ったといわれている。
こうして幕府はキリシタン禁圧に厳しい態度を表し、背教を肯んぜぬ者を大いに弾圧した。
一方、之を知った各宗派は決死の布教団を組織し、マニラから日本に送り込もうと画策したが、イスパニア政府は日本との国交を考慮して渡航を極力抑えさせた。それでも潜入は絶えず、1615年~鎖国直後までの伴天連入国数は75名に達し、大半はマニラからの渡航であった。
幕府はこれに打開策を求めたが、そのきっかけとなる事件がシャムで起きた。
1627年にポルトガル・イスパニアとオランダ間のいざこざに長崎町年寄高木作右衛門の朱印船が巻き込まれ、イスパニア船団に拿捕された。オランダはこれを利用し、幕府に事件の報を知らせ、幕府の反イスパニア・ポルトガル感情を高めた。いちおうこの問題は事なきを得たが、幕府は伴天連密入国の本拠であるマニラ征討を画策した。幕府の了解のもと、征討の主導者島原領主松倉重政らはマニラの軍備を視察するために渡航した。が、出帆後まもなく松倉は病没し、その主導者を失いマニラへの遠征は一時中止された。が、依然として伴天連による布教が続き、日本人の対イスパニア人への反感は薄まらなかったようで、遂には幕府もマニラ遠征に乗り出してきて、オランダとの軍事協力もかなり取り付けたようだ。
尤も、たまたま島原の乱が勃発して幕府も手一杯になり、マニラ遠征は流れることとなった。
1623年、イスパニアは日本との貿易促進の為、600tの大船で大使を送った。彼らは面倒ごとの多い長崎への寄港を忌避して薩摩南端の山川港に入った。彼らは多額の金品を用意して将軍へ貿易促進を願い出たいと申し出、先ず長崎奉行の元へ赴いた。
長崎奉行長谷川権六は彼らの強い要請に押され、江戸へ使者を走らせた。
翌1624年、江戸城内で老中土井大炊守を始めとして、金地院崇伝らが、イスパニアの要望である上京及び将軍への挨拶についてなど協議したが、将軍に謁見させる事は無いと拒絶し、その旨を文章にしたためて長崎奉行へ送った。
この間にイスパニア大使らは海路を兵庫へ向かっていたが、備後の室まで来たときにこの幕府の命令に接し、やむなくマニラへ引き返した。こうして鎖国を待たずして日本‐イスパニア間の国交は断絶した。また、これより先に平戸のイギリス商館も業績不振の為に日本から撤退し、残るはポルトガル、オランダのみとなった。
(hanaze)
+ 鎖国への道
鎖国への道
鎖国への道
家康の時代より、大名や商人など様々な人が幕府から朱印状を賜って、各国へ出かけていって貿易をしていた。しかし1609年、幕府は軍事的目的として大船召上げ令を出して大名から500石以上の船を少しの例外を残して悉く引き取り、よって島津、松浦ら西国大名は朱印船貿易から手を引かざるを得なくなった。次いで1612年、初めてのキリシタン禁令が出ると、大名は貿易から全く手を引くこととなった。
キリシタンの禁止は1616年家康が死去して、大御所秀忠の政治となると、その弾圧が厳しくなってきた。同年、以前からの禁令に重ねてきつくキリシタンを禁止し、またヨーロッパ船の貿易は長崎・平戸に限定する旨が伝えられた。この貿易地の制限は、大名がその領地内で貿易をしない為の配慮であり、キリスト教=ヨーロッパ人と日本人の接触を制限する為であった。
ここで驚いたのはイギリス人であった。家康の時代は大きな特権を得て貿易をしていたが、ここにいたって他のキリスト教国家と同じように扱われることとなった。イギリス商館長や三浦按針は幕府に掛け合って緩和・撤廃に奔走したが、一度出た令を取り下げることは叶わなかった。また、この裏では幕府に縁故のある商人が外国商人よりも有利に商売をして利益を上げる為、策動していた。このイギリスは1623年に平戸の商館を閉じて対日本貿易から撤退した。
1620年、英蘭の上申書の提出、そして平山常陳の事件があり(大殉教の章参考)、キリスト教弾圧のいよいよ厳しくなってきたのにつづいて、1623年、ポルトガル人航海士の雇用の禁止、日本人のマニラ渡航を禁じるなど、その制限の幅は広まってきた。
こうして朱印船貿易の制限が厳しくなってくると、例えば鎖国直前の頃は三浦按針や貿易銀を握る銀座の年寄らのみが貿易を許可されることとなり、さらに朱印状だけでは飽き足らず、三老中連署の渡海許可証が必要となった。これは1631年に設けられた奉書船の制度である。これには、当時限られた特権階級のみが貿易の利益を得られるようになっていたために発生していた朱印状の偽装などの脱法行為を取り締まるためでもあった。
1632年、家光の独裁となると、いよいよ鎖国の第一段階に踏み切った。この後5回に渡って似通った文章の鎖国令が出されるが、いずれも日本人の渡航禁止、キリシタンの禁止、外国船貿易の規定からなっている。また、3回目の1635年の鎖国令では日本人の渡海を完全に禁止し、また海外からの帰朝も禁じた。これらの禁令は限られた特権階級の貿易家に多大な影響を及ぼした。ところで、この禁令によって東南アジア方面の貿易拠点から日本人が除かれた訳だが、そのために今まで各拠点で膨大な資本の元に幅を利かせていた日本人商人がいなくなり、オランダ商人らは大いに喜んだ。
鎖国令には伴天連以下キリシタンの取り締まりについても規定されているが、その懸賞金も徐々に大きくなった。またヨーロッパ人の子孫が日本に残留することを禁じるなど、他の条例と合わせれば全くヨーロッパ人と日本人の接触は断たれた。
4回目1636年の鎖国令に於いては唐船にも糸割符を適用し、また貿易も平戸・長崎に限定することになった。このほかポルトガル船の入港出帆期日の規定、また積荷は全て売りさばくか、持ち帰る事として、日本人に積荷を預けて親睦を深めたり、密取引などの余地をなくした。
そして1637年島原の乱が勃発すると、これにキリスト教徒の関わること濃厚とみて、一層外人の取締りを厳しくし、1639年、老中7人の連署のもとカレウタ船(ポルトガルの小型商船)渡航禁止令を出し、約1世紀続いた日葡貿易は完全に禁止された。また、対日貿易によって成り立っていたマカオは特使を日本に派遣し、通商再開を求めたが、1640年13人のシナ人船員を除いた特使以下船員61名を禁止令の通り斬首に処し、禁令を厳しく実行する事を表した。
外国人の取り締まりは、これまで上手く立ち回ってきたオランダにも降りかかってきた。マカオ特使の斬首から3ヶ月、平戸のオランダ商館の取り壊しを命じられた。商館長カロンは下手に反抗せず素直に了解し、直ちに商館を取り壊して長崎の出島に移転した。又、これからオランダにも糸割符制が適応されることになった。
この後も荷物のやり取りなどに大きく制限が加えられてゆき、各方面から禁令の緩和を求められたが結局揺るぐことはなかった。但し、当初のあいだ幕府は貿易量に制限はしなかったので、オランダ、シナの対日貿易額は一時期大きく上昇もした。
また、この間に幕府は諸藩に命じて禁教を厳重にさせる共に、宗門改役、踏み絵や起請文などの制度を設け、またキリシタンでない旨は全て寺僧の証明が必要となった。
(hanaze)
+ ジャガタラ追放
ジャガタラ追放
 「アンボイナの悲劇」という史劇があるが、それはイギリス人、ポルトガル人、そして日本人が経験した悲劇をもとにしている。
 悲劇の舞台であるアンボイナ島は、香辛料の産地であり、中継地である。
 イギリスとオランダが支配権をめぐっていたのだが、イギリスは国内の経済恐慌により力を失い、オランダの圧迫を受けるようになった。また、この年にイギリスは平戸にあった商館を閉鎖してしまう。
 さて、アンボイナ島には日本人がおよそ60人住んでいた。彼らは勤勉で勇敢、さらには低賃金で雇えると評判で、現地の人々に歓迎を受けたという記録がある。
 彼らはかつて日本に住んでいたが、バタヴィア(現在のジャカルタ、ジャガタラとも)を経由してアンボイナにたどり着いたものが多数だった。
 バタヴィアにたどり着いた日本人は、労働力として使いやすい青年男子が多く、そのなかでも未婚の人々が多かった。
 この日本人たちに関しては、バタヴィアにある中央文章館内の資料に詳しく書かれている。資料によると、バタヴィアに渡った日本人の多くが九州出身であったらしい。とくに、平戸と長崎の出身者数が圧倒的である。
 日本人たちはさまざまな仕事で活躍した。彼らは器用で勤勉なため、すぐに職を得ることができたようだ。
 しかし、彼らの多くは追放された身分である。よって、日本を恋しく思う人々は多かった。その話は、今日まで語り継がれてきた。有名なものとして残る資料が、「ジャガタラ文」である。ここには、少女が日本を恋しく思う気持ちが切実に表わされている。
 しかし、バタヴィアの人々の嘆きが、この資料にだけ残されているわけではない。
 ジャガタラの悲劇は、今でもなおたくさんの文章に残されている。これらの文献の中には追放の嘆き、そして鎖国の痛ましさが、鮮明に書き表されているのだ。
(ほたるゆき)
+ 出島の蘭館
出島の蘭館
 1641年、平戸にあったオランダ商館は長崎の出島へと移ることになる。この出島での貿易は、非常に厳重な管理がされたもので、出島にオランダ船が入港すると幕府によって厳重な臨検が行われた。とりわけキリスト教に関係する物品の持ち込みは厳しく制限されている。持ち込まれた物は交易品の他私物まで幕府によって調査され、処々の規制が行われてそれに基づいた貿易の身が許されている。また出島への日本人立ち入りも、ごく一部の人々を除いて禁じられていた。
 このように制限の厳しい出島での生活は、穏やかであったが無聊と束縛感にさいなまれる物であり、オランダ人たちはそれにたいそう悩まされていた。
 この出島商館は、オランダ東インド会社の出先機関であり、各地の行政の他軍隊までも保持していた。それゆえこの幹部には行政的・軍事的手腕を持つ商人が任命されており、この出島商館長も例外ではない。そのほか、医師なども出島におり、日本の学者との交流を通じてヨーロッパ文化吸収に大きな役割を果たした。
 一方に日本側は長崎奉行がこの長崎交易を管轄した。また出島オランダ商館に関する事務は出島の乙名がこれを行っている。そのほか特筆すべきはオランダ通詞であり、彼らは通訳としてオランダ人との接触を頻繁に行い、西欧文化摂取に大きな役割を果たした。
 ここでの貿易も幕府によって厳しく制限されたものであり、まず生糸の値段が商人との交渉によって決定され、それからそのほかの品の貿易が行われた。しかしその交易の利益は東アジア最大のものであり、故にオランダは日本から撤退することはなかった。
 ところで、日本の実情がわかってくると、日本が金銀島ではないことが明らかとなる。と同時に、金銀島捜索が行われた。1643年、南部藩内にオランダ船が漂着したのもこの探索船で会った。この際も厳しい取り調べが行われ、オランダ船であり宣教師でないとわかるに至って漸く解放されることになっている。この時の取り調べから、諸藩もキリシタン取り締まりの役人が配されていて、キリシタン禁制が徹底されていたことがうかがえる。
 此の事件の後、オランダ商館長は解放を謝すために江戸へ参府している。商館長の江戸参府は義務であり、大名による参勤交代と同様に捉えられていた。この際は将軍に謁見も行うことになっていた。またこの際には江戸在住の学者の訪問をひっきりなしにうけ、多忙を極めていた。しかしこれを通した洋学の知識は、江戸の学問充実に大きく貢献している。
(Spheniscidae)
+ 国政爺の使者
国政爺の使者
 家光が将軍となり、鎖国体制が固まってくるころ、中国では大変動が怒っていた。1646年、先に清の攻撃によって北京を失陥した明が、日本へと援軍を要請してきたのである。これを送ったのは、福王を擁立して明復興を目指す鄭芝竜であり、彼は一時期平戸にも住して日本とも関係が深かった。彼が日本人妻と作った子は、後に鄭成功と名乗り、国姓爺としても知られる。
 この援軍要請に対し、日本側は正式な要請なれば出兵も考えていたようであるが、福州城の陥落によって出兵は中止されている。後、1648年・58年にも鄭成功は援軍を求める死者を送っているが、これを幕府は受け入れなかった。
 さて、芝竜は日本との交易も積極的に行っている。日本に入る唐船の大半が彼の支配下にあり、利益を上げたのである。彼の子・成功も盛んに長崎貿易を行い、長崎貿易を牛耳った。オランダを追い落とし、台湾で清への抵抗を続けた鄭成功だが、やがて清の封鎖を喰らって次第に衰退することになっている。しかし台湾での中継貿易は続行され、鄭氏政権が清に降伏するまで続いた。
 鄭氏政権崩壊後、清は方向を転換して日本との貿易を行うようになる。とりわけ日本の銅は、清にとって重要な貨幣材料であり欠かせなかったのである。また銀の輸入も積極的に行っている。一方清は生糸や絹織物などを積極的に日本で売りさばいている。
 この唐船貿易は、長崎の唐人屋敷において行われていた。ここでは遊女などによるもてなしが頻繁にされており、唐商人は多額の金を遊興費として使った。一方、こうして唐人貿易を囲い込むことで、日本側は銀輸出を出来るだけ抑えようとしたのである。また清では解禁されていたキリスト教が流入することを強く警戒していたことも理由に挙げられる。
(Spheniscidae)
+ オランダ人のアジア貿易制覇
オランダ人のアジア貿易制覇
 1639年、日本へと出航していたオランダ船が、バタヴィアに帰ってきた。その船が持ち帰った情報に、オランダは狂喜する。
 オランダの策が成功し、日本はイスパニアとポルトガルとの貿易を中止したというのだ。
 オランダの策は日本人の、イスパニア、ポルトガルの両国に対する反感を挑発したものだった。これはのちに、ルソン遠征を引き起こす要因となる。

 オランダは、建国以来イスパニアとポルトガルを敵視しており、貿易において様々な妨害を行ってきた。
 それだけでは飽き足らず、オランダはイギリスまでもを敵視するようになった。ついには、平戸の商館からイギリスを撤退させるまでに至った。
 こうしてオランダは海上貿易を支配した。元から持っていた支配力を、さらに強める結果になるのだった。

 1635年、日本船の海外渡航が徳川家光によって禁止された。これにより朱印船は姿を消し、オランダは貿易がしやすくなる。
 さらにオランダはシャムにも使節を派遣し、アユタヤに商館を置くことに成功する。これは、日本と中国が貿易をする際、中継地点として役立つことになった。
 こういったオランダ商館から積み出した商品によって、オランダは莫大な経済力を得ることになるのだった。

 1642年、オランダ商館の総督アントニオ・ファン・ディーメンは、幕府に意見書を提出した。
 まず、オランダ人を優遇してほしいということが書かれていた。さらに読むと、南蛮が日本の侵攻をたくらんでいる、と書かれている。
 2つ目の文章は、キリスト教の勢力をオランダが警戒してのことだと思われる。だから、日本には入れないようにと先手を打ったのだろう。
 ところがちょうどそのころ、イギリス船が日本に来航したのだった。

 イギリスは、再び日本との貿易を求めてやってきたのだった。しかしながら、成功することはなかった。
 オランダの策謀によって、イギリスは日本に嫌われる結果となってしまったのだった。
 このころ、フランスもまた東インド会社を設立していた。イギリスと同じように日本との交易を望んだが、やはりオランダに妨害される。
 オランダの策により、日本は徐々に、国際社会から隔離されていくのだった。

 続けてオランダは、シナ船(中国船)をも排斥しようとした。様々な策略を凝らして排除しようとしたものの、受け入れられることはなかった。
 シナの排斥は、あまりにも大胆すぎることだったからだ。オランダ商館長カロンは続けてシナの排斥を推奨するが、日本とシナとの貿易は発展を見せつつあった。

 シナの排斥をひとまず諦めたオランダだが、まだ対日貿易の独占を諦めたわけではなかった。シャム(現在のタイ)に日本人が住む日本町があるのだが、1630年ごろに焼き打ちを受けた。
 その際にシャムとの交易は中止されたのだが、シャムは再び交易を求めるようになった。オランダは、これを許そうとはしない。シャムはオランダの暗躍により日本に上陸することができず、交易は諦めざるを得なくなった。
 また、カンボジャも同じく妨害を受けていた。
 こうしてオランダは、対日貿易の独占にほぼ成功する。しかし、18世紀にはいると、状況は変化を見せる。
 ロシア、イギリス、アメリカなどが台頭を見せ、オランダは衰退することになるのだ。日本の鎖国もまた、続けることがむずかしくなってきた。
(ほたるゆき)
+ 世界とのつながり
世界とのつながり
 バタヴィアに行くと、今日でも日本の通貨を見ることができる。それらは鎖国前に、交易の際海外に持ち出されたものだ。
 国によっては質の悪い貨幣しか造れないところもあったらしく、日本の貨幣は大切にされたらしい。つまり、需要が高いのだ。
 それに応じて、長崎では輸出用の貨幣が造られていたらしい。

 日本の銅銭は、世界各地に輸出されていたらしい。当時銅は最も需要が高かったためだ。日本銅の輸出に力を入れたのはオランダで、莫大な利益を得た。
 逆に日本から銅の輸出がむずかしくなったときには、北欧の銅を供給する役目も負っていた。
 オランダに続いて輸出に力を入れたのは、シナだった。シナもまた、世界各地に日本銅を輸出して利益を上げていた。
 ところがやがて、日本の銅も少なくなってくる。国内需要を満たすことがむずかしくなると、貿易は制限されるようになった。

 日本の金・銀・銅の行方を追うと、おそろしく流出していることがわかる。日本はことの重大さに気づかず、次々と金属を売りさばいてしまっていたのだ。
 商人だけでなく幕府の高官までもが国際貿易に疎く、個人の利益を追求することにしか考えていなかった。
 幕府が事態に気づいて対外貿易は規制されたものの、すでにかなりの金属は流出していた。

 また、ちょうどこのころ、海外では日本品が流行していた。
 特に流行していたのは醤油や酒、そして樟脳(薬、香料、衣料品、防虫剤などに使われる)だった。
 日本の製品は、世界的に通用する良品が多かったようだ。

 日本の商品として有名なのは金属や樟脳だけではない。磁器もまた、立派な商品である。
 もともと朝鮮侵略の際に連れ帰った技術者に作らせていたものだったが、やがて国内でも生産されるようになった。が、当時国内の磁器は数が足りなかった。よって、ほとんどはシナから輸出されていた。
 やはり輸出したのは、オランダとシナだった。
 ところが台湾が鄭成功に平定されると、そこから経由して輸出することがむずかしくなった。オランダはシナを見捨てて、日本の磁器を売るようになった。
 長崎のほうでは、磁器の大量生産・大量輸出による経済的な変化が激しかったようだ。

 以上のように日本の磁器は、欧州において大ブームとなった。美術的価値が認められた結果であり、模倣を行う職人まで現れた。
 この約1世紀後、再び欧州に影響を与える日本美術がある。浮世絵だ。
 それに比べると磁器のブームは日陰だが、ぜひとも注目されるべきである。

 鎖国といえば、ついつい国が完全に閉鎖したというイメージに結びつく。しかし、じつはそうではなかった。
 閉じられているようで、経済的には繋がっていたのだ。さらには、技術もまたしっかり輸入されていた。
 鎖国によってキリシタンは排斥されてしまうと、彼らが持ち込んだ学問や思想は弾圧されていくことになる。だが、風俗や習慣までが排斥されたわけではない。
 それらの文化は、今もまだ日本に生き続けている。

 幕府はキリスト教を廃止する建前から、洋書・薬を取り寄せることを禁じていた。が、やがて許可するようになる。
 医学への関心が高まるにつれて、オランダの医学を学ぼうという傾向が国内では強くなった。そこで招かれたのが、ウイルレム・テン・ライネである。
 彼は日本人医師に医術を教えるだけでなく、患者の治療にまであたっていた。また、彼の弟子はのちにオランダ書の翻訳をおこなうなど、偉業を成し遂げている。その書は、今日でも日本に保管されている。
 ライネの来訪は、日本に大きな影響を与えたと言えるだろう。
(ほたるゆき)
+ 鎖国をめぐって
鎖国をめぐって
 これまでの流れからわかるように、鎖国というのは必然的に起きた事件であると言える。
 ドイツ人医師ケンペルは、後に『日本誌』を著し、鎖国を是認している。この内の1章は後に全訳され、『鎖国論』として世の中に誕生した。
 この作品は幕末まで大切に読み継がれたが、1850年になると『異人恐怖伝』と改題され、絶版にされてしまった。

 ところでヨーロッパが日本に現れる以前、日本にとって世界とは、日本(本朝)、中国(震旦)、そしてインド(天竺)、場合によってはこれにタイ(暹羅)を加えたものを指した。
 ヨーロッパが日本にやってきて地図や地球儀を紹介したからである。織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康などの偉人はこれらを活用し、のちに影響を与えた。
 徳川家光においては、日本の狭さを知ってキリシタンの脅威を知ったと言われている。その結果が、鎖国である。
 この鎖国が原因で、日本人の世界知識は狭くなっていった。
 それだけではない。キリシタンを排斥した結果として、欧州からの知識も失うことになったのだった。

 わかるように、鎖国は日本人の知識を狭める原因である。
 江戸時代において鎖国の批判は不可能だったが、討幕後、幕政批判の1つとして鎖国が挙げられたのは言うまでもない。
 しかし、鎖国を擁護する説が存在することも事実である。欧州文化の輸入が停止したため、国内が発達せざるを得なくなったから、という内田銀蔵氏の説だ。
 賛成、反対の論が対立を繰り返す中、折衷論までもが誕生した。
 だが、筆者はこう述べる。
 現在の研究段階では結論付けることは不可能であり、今後のより綿密な実証的資料が必要である、と。
(ほたるゆき)

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最終更新:2010年05月30日 20:57
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