第七巻 鎌倉幕府(石井進 著)

+ 日本中世の開幕
日本中世の開幕
 平治の乱で敗れた源義朝、その子供である頼朝は捕えられ、伊豆に流された。
 紆余曲折を経て、かれは北条時康の娘、政子と結婚する。1177年のころと考えられる。
 1180年4月、後白河法皇の皇子以仁王と源頼政は平氏打倒の兵をあげ、敗死する。6月半ば、京都にいる乳母の妹の子三善康信からの密使により、諸国の源氏追討計画の話を聞いて、頼朝はついに挙兵。謀反の話が京都まで達していることを知り、一か八かの先制攻撃をかける。それが、当面の敵である伊豆国の政庁の支配者、目代山木兼隆の館への夜襲であった。8月17日のことである。
 夜討ちは成功したものの、頼朝にとって四方はみな敵。わずかに箱根山をこえた関東平野には、相模の三浦氏一族という来援を期待できる武士団がある。頼朝はかれらと合流するため、東方へと血路をひらこうとした。

 頼朝は二十日、かれのもとへ集まってきた三百騎ほどの武士たちをひきいて東へ山をこえ、二十三日午後おそく、ようやく相模国石橋山に到着した。そのときすでに、大庭景親以下平氏側の相模・武蔵の武士三千余騎は前方に、後方の山には追尾してきた伊豆の伊東祐親の軍三百余騎が控えていた。
 大庭勢は多勢をたのんで強硬策に出、暗夜、雨の山中に血みどろの戦いがくりひろげられた。翌日、一帯の山々には頼朝軍残党の掃討戦が展開された。頼朝の一身も危険な状況にさらされたが、かれは奇跡的にも一命をたすかった。頼朝との関係が深かった箱根権現の別当は弟に山中を捜索させ、頼朝一行を発見し、箱根権現へと案内したのだった。
(Shade)
+ 東の国々
東の国々
 頼朝たちの乗り出していこうとしていた関東平野の情勢はどんな具合であったのだろうか。
 この地方は新たに征服された植民地であり、さらに新たな征服運動をおこなうための軍事基地であったといえる。こうした歴史的経緯から、この地帯には数多くの武士団が並び立つようになっていた。

 武士団とは、館を中心とする開拓農場の別名であり、その政治的表現にほかならない。関東武士団は、うちは百姓たちを支配し、かれらから年貢をとりたて、また外部からの侵入に対しては武力をもって農場を守った。
 それぞれの国でもっとも強力な武士団がいずれも国府の在庁官人の有力者であり、また有力武士団は国府政庁におかれた軍事警察面の司令官でもあった。かれらはまた国府の政庁に関係をもつだけではなく、庄園を根拠とし、その現地管理人である庄司・下司などの地位にあった。
 館を中核におし進められた開拓事業こそが、武士団を成立・成長させた真の原因なのであった。
 開発された農場は、「別府の名」、略して「別名」とよばれる一つの特別区域として国府の田所に登録され、館の主人は「別名の名主」として、年貢の徴収をし、国府の税所に支払う役となった。


 国―郡―郷の三段階の地方行政組織からなっていた律令制度は、ながい平安時代のあいだにすっかり変化してしまい、国―郡・郷の二段階の組織が生まれた。
 新しい郡も、郷も、ふるい郡を分割して生まれた単位である条も、みな同格の地域的な徴税単位となり、それぞれに「郡司・郷司」などの役人が任命され、徴税と国司への上納をうけおうようになった。郡司・郷司にはだいたい地元の有力者が任命され、かれらは国府政庁の在庁官人を兼任することも多かった。
 一方では、中央の大貴族や社寺に属する私有地としての「庄園」や、また庄園に類似したものであり中央の役所などの所有する支配地域である「保」も生まれてきた。それにつれて郡・郷に保をふくめて、いちおう国府の政庁の支配下に属する地域を「公領」または「国衙領」とよび、庄園と区別する風がおこってきた。
 中央では、高位の皇族・貴族、大社寺が各国の国衙領からあがる年貢などの収入を個人的な収入とする「知行国」制度があらわれ、やがて一般化してきた。

 このような環境のもとで、別府の名主たちがまずねらったのは、郡司・郷司のポストであった。徴税と上納の責任があるが、免税地がみとめられ、年貢徴収の際のたし前をとりあげることも、担当地域内の農民たちの使役権限も公認されるからである。
 こうして支配圏を強化し、拡大していくことが館の主人である武士たちをつき動かす原動力であった。
 ただ、郡司や郷司は規定額の年貢を収めないなどの事由により免職される危険があり、また近隣の館の主人に取って代わられる危険も大きく、不安定であった。
 そこで新たに発案されたのが、「庄園としての寄進」という方法であった。何らかのつてを求め、知行国主や国司よりさらに有力な中央の高級貴族や大社寺、あるいは上皇に、一定範囲の地域を自らの支配領域であるとして庄園に寄進してしまうのである。
 土地を寄進した館の主人は、今度は庄司・下司、あるいは「地頭」などとよばれる現地の管理人に変じ、本所と呼ばれる庄園の名義上の所有者に年貢などを送るようになる。郡司・郷司として従来もっていた権益は保障され、相続も認められ、上納する年貢の高も減少する。しかし、寄進先の貴族や社寺の実力如何により庄園としての承認をとり消されるなどの不安定さがあった。場合によっては、郡司・郷司としてとどまるほうが有利な場合もあった。
 こうして武士たちは、その支配権の維持・拡充のために、つねに周囲の状況の変動に細心の注意を払い、中央政局の行くえにも敏感とならざるを得なかった。

 こうした不安定な状況をぬけ出すためにかれらが模索し、さぐりあてたのが、中央貴族の出身で、数々の武勲にかがやく「武家の棟梁」の源氏を主君とあおぎ、その下に結集して発言権を高めてゆくことであった。
 だが、この棟梁義朝は平治の乱にて敗れ、以後、平氏の全盛時代がやってくる。東国の武士たちはその下で不遇をかこち、いつかかれらのねがいにこたえてくれる理想の主君の出現を待ち望んでいたのである。
 頼朝軍の一隊がのり出してゆこうとしていた関東平野は、当時まさに以上のような情勢にあった。
(Shade)
+ 鎌倉殿の誕生
鎌倉殿の誕生
石橋山の一戦に敗北した頼朝は三浦氏一族とともに海路を伝って安房へと逃れるが、当時房総半島に勢力を張っていた下総の千葉介常胤、上総の上総介広常の二大豪族を従えて一気に威を取り戻すと、その後も休むことなく次々と関東の豪族を従えながら南下して、1180年10月には大群を率いて鎌倉に入った。
石橋山敗戦から僅か四十日余という短い時間で、この奇跡の復活を可能ならしめた要因は何か。ひとつは頼朝が、武家の棟梁である源氏の先代義朝の遺児中もっとも年長で、正妻の出であるという権威を持っていたということ。いまひとつは既に東国では天皇に等しい至高の存在となっていた以仁王の令旨を掲げていたことである。さらに頼朝の政策の基本線である「目代への攻撃」「在庁官人ら武士たちの結集」は、当時の現状に不満であった東国武士たちを惹きつける最大の魅力であった。東国の武士たちが頼朝に希望を託して次々と与して来たのも不思議ではない。
鎌倉入りした頼朝は鶴岡八幡宮を現在の山寄りの地に移し、その東側の大倉郷に新たな館を立てる。後の鎌倉幕府の基礎である。
ところで同年九月には頼朝挙兵の知らせを受けて平維盛・忠度らを大将とする頼朝追討軍が派遣されていたが、甲斐源氏一族との富士川の合戦に大敗し潰走、火の手は鎌倉まで及びもしなかった。平家東征軍の指揮力不足と、鎌倉という拠点の位置、沿道諸国の武士の挙兵、延暦寺以下の僧兵の反乱、凶作・大飢饉の影響、一方の東日本の豊作という食糧事情など、頼朝にとっては有利な条件が揃いに揃っていたのである。
いまや南関東一帯を中心にした東海道東半部諸国は頼朝の手になった。頼朝は鎌倉の主という意味で「鎌倉殿」と呼ばれるようになり、これを主君と仰ぐ新しい東国の政権が生まれようとしていた。
鎌倉殿となった頼朝には果たすべき二つの責任がある。本領安堵と新恩給与である。関東武士団が期待し願っていたのはなにより彼らの所領の安全・確実な保護と、公正な裁判であった。この要望に応えることこそ、かれらの支持を獲得する道である。東国内の職や地位の任命・罷免を行うことによって、頼朝はこの仕事を地道に進めて行く。
(Shiraha)
+ 政治家頼朝の成長
政治家頼朝の成長
平清盛必死の立て直し策も敢無く、蜂起と反乱は全国に拡大していった。鎮静の気配はいっこうにない。一方混乱する京都を横目に、頼朝は東国の地がためを着々と進めて行った。東国武士団の連携も今のところはまだ反平氏の同盟関係に過ぎず、頼朝を完全に主君と認めたわけではない。より多くの武士を御家人として確実な権威を築くべく、内政に集中したのである。
1183年、平氏軍は北陸に勢力を張っていた木曽義仲討伐を目論むも、義仲はこれを返り討ちにし、7月には京都に迫った。平氏一族は幼帝安徳天皇と「三種の神器」を奉じて京都を去る。平家の都落ちである。
ところが荒れに荒れ果てた廃墟のような京都の地である。統率もなく寄り集まっただけの急造軍に義仲は十分な権威を振るうこともできず、法皇以下貴族たちに翻弄されつつ孤立無援のまま京に居座るだけであった。空白となった皇位には、後鳥羽天皇が即位した。
同年10月、後白河法皇からの上京を促す使者に応じて頼朝は、国衙領・荘園を国司・本所に返還することを命じる勅令発布を後白河法皇に要請する。この提案は窮境にある中央貴族の大歓迎を受けた。さっそく要請通り「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は国司・本所のもとに進上せよ。もしこれに従わぬ者があれば、頼朝に連絡して命令を実行させよ」という勅令が宣旨として公布される。十月宣旨である。この功績により頼朝は朝敵の名を逃れて従五位下に復帰した。
十月宣旨は一見頼朝にとって譲歩に見える。しかし宣旨の後半部分に注目すれば、命令の実施は頼朝に一任されており、武士たちにとって当時最大の問題である土地問題の解決に必要な権限が頼朝に与えられたことが確認出来る。つまりこの宣旨によって頼朝は、以仁王の令旨と違い、源氏の中でも彼一人だけが掲げることのできる錦の御旗を手に入れたのである。
さて京の義仲はやがて自ら征夷大将軍となり独裁体制を敷いたが、所詮は内実無き孤独な独裁に過ぎず、かつてともに入京した武士たちも義仲を見放して行った。1184年1月には、義経率いる東国軍に滅ぼされることになる。
義仲を破った義経軍はさらに平氏追討の宣旨を受け、西に勢力を張っていた平氏一族を一ノ谷に破る。屋島に逃れた平家は瀬戸内海一帯の制海権を握って抵抗するが、義経はこれを壇ノ浦に追いつめ、1185年3月、ついに平氏を全滅させる。
こうして対抗勢力を弱体化させつつ、頼朝は、支配体制を整え、勢力圏の拡大を一歩一歩進め、新政権の中枢機構を着実に発展させていったのだった。
(Shiraha)
+ 東西武士団の群像
東西武士団の群像
 富士川合戦の場面で描かれる斉藤実盛の東西武士比較は、源平合戦の本質の総体を突いたものであると言うことができよう。
 実盛が最初に示すのは弓と馬であり、これらは武士の象徴ともいえた。当時の合戦は馬上の一騎打ちであり、馬上での弓術が重んじられる。その点で馬術に長ける東国武士は有利である。
 当時の合戦の作法は、まず軍使を取り交わして合戦の日時を決めるところから始まる。両軍が対峙すると武士たちは名乗りを上げながら馬を走らせ、敵へと矢を放つ。矢が少なくなると、太刀を用いた乱戦となった。敵をうちとる際には組み打ちとなり、馬から敵を引き落として組み合いをした。そうして敵を弱らせ、首を取るのである。
 このように武士の戦いは、一騎打ちの空気が強い。だが一方で、源平合戦期とは集団合戦への移行期でもあった。
 武士たちの論功行賞は、首のぶんどりが最も大きな功とされた。また、討死や手負いも功とされる。先駆けも功の一つであり、これを争う話は数多い。
 東国が馬を主体とした軍であり、陸上でその威力を発揮したのに対し、西国では海上での戦が多く、船が大きな威力を持った。そのため源氏は平氏に度々苦杯をなめさせられている。
 また、未開の地であり大自然の猛威が荒れ狂う東国では、人も荒々しく命を惜しまない。そのことも東国武士の力強さを表していた。
 東国の武士団は血縁地縁による深い結びつきを持っており、それゆえ強固な軍団として機能した。これに対し西国武士は、あくまで令による結びつきであるために軍団として機能しにくかった。
 功を示すために、鎧の色や笠印なども重要視され、それゆえに様々な色形の鎧が現れることにもなるが、これも武士の功への意欲の現れである。
 またその所領を守ることには並々ならぬ意欲を持ち、中には所領争いに敗れると出家してしまった熊谷直実のようなものもいた。
 頼朝の挙兵では、大武士団の協力が不可欠であったことは事実だが、同時に小武士団より支持を得られたことが大きかった。彼らの独立へのエネルギーこそが幕府形成の原動力なのである。
(Spheniscidae)
+ 天下の草創
天下の草創
 壇ノ浦で平氏が滅亡したという報は、頼朝にとって義経との決定的なわだかまりのできる要因である。また三種の神器のうちの剣を失ったのも頼朝にとってマイナスであった。
 この義経の前半生については全く謎であるが、鎌倉武士から外れた辺境武士や僧兵などとの結びつきを強めた存在であり、そのことから、畿内での活動経験は想定される。
 義経は一の谷後の恩賞に与かることはできず、代わりに後白河法皇より官位を授かることになった。このため頼朝より大きな怒りを買うことになる。だが、代役の範頼は平氏討伐に失敗し、半年後に義経は召喚され、彼によって平氏は滅ぼされることになる。
 壇ノ浦後、義経と頼朝の対立は決定的となる。戦時から平時へと移行に際して、獲得した権益を守ろうと懸命な頼朝にとって、従わぬ者の存在は許されなかったのである。頼朝は権益保護の為に、朝廷との交渉にも必死であった。
 京都に帰った義経は、院より宣旨を戴いて挙兵するが、その支持者は少なく、あっという間に離散の憂き目にあう。一方その報を受けた頼朝は軍勢を上洛させ、其の兵力を背景に義経追討宣旨の発令と、守護地頭の設置を後白河院へ飲ませたのである。
 さて、この守護地頭であるが、吾妻鏡による記述には潤色がなされていることが、他の史料からわかっている。吾妻鏡の守護地頭の記述は玉葉の引き写しなのである。
 守護地頭の実態については今だ定説はないが、軍事警察権をはじめとした在地の統治権を頼朝が握った物として解される。
 ただし藤原氏の手にあった奥州は頼朝の完全勢力外であり、また西日本は地頭を全体に置くことはできていない。また守護という職種は存在せず、当時は総追捕使と呼ばれた。地頭の職掌は、年貢の徴収・納入であり、その結果として領主としての承認を得ることができた。
 また朝廷の体制変革も要求し、それを成し遂げることもできている。
(Spheniscidae)
+ 鎌倉幕府の新政治
鎌倉幕府の新政治
 義経は頼朝の手を巧みに逃れ、全国を放浪していた。彼は孤独ではなく、比叡山延暦寺や奈良興福寺、京都鞍馬寺・仁和寺、法皇御所、前摂政藤原基通邸などを転々としながら機を待っていた。これまでのやり方が手ぬるいと悟った頼朝は各寺院に圧力をかけ、法皇を恫喝した。これによって反幕派貴族たちの行動も次第に規模が小さくなっていく。
 1187年(文治三)の秋、義経が陸奥の秀衡に庇護されているという知らせが鎌倉・京都に入る。頼朝は詰問の使者を遅らせたが、秀衡はこれを黙殺。頼朝へ反旗を翻す準備を進めていた。しかし、秀衡は十月の末病魔に侵されてしまう。秀衡は義経を主君とするように遺言を残して死ぬ。頼朝は喜んだ。義経が畿内近国などの一大勢力が存在する場所ではなく、辺境の地に身を寄せていたことがわかったからである。そして後援者の秀衡ももういない。義経逮捕を口実に陸奥平泉の地に駒を進める時期がようやく到来したのである。頼朝は秀衡の後を継いだ泰衡に、義経の身柄を差し出せば恩賞を与えると告げる。これを聞いた泰衡は、迷いつつも義経の館を急襲する。義経は自害した。享年三十一である。
 民衆の間で英雄義経の人気は高く、生存説をベースとした逸話が多く創られた。いわく北海道を征服した、いわくモンゴルにわたりジンギスカンとなった、などである。前者は江戸時代、後者は明治時代に世上をにぎわした。義経の根強い人気が窺える。
 頼朝の奥州征伐は徹底的であった。彼は泰衡との約束を破り、義経隠匿を重罪とし泰衡を征伐。清衡以降四代に渡った奥州藤原氏がここで終焉を遂げることとなる。これにより陸奥・出羽両国は幕府の直轄地となり、日本領土の一部として緊密に結びつけられることとなる。平氏討伐から泰衡謀殺までを経て、内乱の時代は終焉を迎えた。
 頼朝は内乱を治めたことで「鎌倉殿」としての自信をつけ、ついに上洛して法皇と会談する。法皇とは余人を交えず長時間政治談議をした。この十年間、相対立してきた二人の大政治家が、何を語らい、どんな取引をしたのか。今となっては知る由もない。確かなことは、頼朝が渇望していた 征夷大将軍 の地位は認められず、右近衛大将(武官の最高位)および権大納言の職に任命されただけということである。頼朝は三日でこれを辞退し、単なる王朝の侍大将にとどまらぬ意思を天下に明示した。頼朝は法皇御万歳(法皇の死)を待った。一度流罪にかけられた頼朝は「待つ」ということを知っていたのである。彼は摂政九条兼実と連携を図り、裏で静かに権力基盤を固めていく。この作戦が功を挙げ、1192年、後白河法皇は腹病をこじらせて死亡する。動乱の時代を豪運と覇気で生き抜いて来た大人物も、全ての人間が背負いし無情の宿命には敵わなかった。
 法皇の死により、兼実は関白として朝廷政治の主導権を握るようになる。そして頼朝はついに念願の征夷大将軍に任命される。苦境から学んだ男が最後に勝利を勝ち取ったのである。頼朝は自らが頂点に立ち、今までばらばらであった各地の武士団を 御家人 組織として幕府の中に組み入れた。彼は偉大な指導者であり、それを傍証する多くの逸話も残されている。
 頼朝は幼少において父母と別れ、敗軍の将として流罪を受け、数々の逆境を経験した。その前半生が彼を怜悧冷徹な指導者の器に育て上げたのだ。弟と協力して敵を撃ち、そしてその弟をも政治的脅威とあらば滅ぼし、さらにはそれを口実に東北の地まで制圧する。そこで功を焦らず、機を待ちつつ地盤を固め、最後には頂点に立ち国をまとめ上げる。男子の本懐とも言える功績をあげた政治家・頼朝の胸中はいかようであっただろうか。
 頼朝は畿内・九州と幕府の支配力を強化する政策を取り、このまま順風満帆にことが進むかのようにみえた。しかし泰平は早くも陰りをみせることになる。「満つれば欠くる世のならい」とはよく言ったものである。
 頼朝はこれまで対立してきた木曽義仲とついに和解し、その子清水義高を人質に取り、北条政子との初子である大姫の許嫁とした。ちなみに大姫は五~六歳、義高は十一歳。いかに早婚の時代といえ、流石に正常の夫婦としてはふるまっていなかっただろう。遊び友達、もしくは仲睦まじい兄妹といったところだろうか。頼朝と義仲の関係はその後破局を迎え、翌1184年(元暦元)義仲は敗死する。頼朝はかつて父義朝を殺された恨みもあり、義高の殺害を決意するが、これを聞いた女房たちが哀れに思い義高をひそかに鎌倉から脱出させる。頼朝は激怒して武士を派遣し、義高を武蔵国入間川の川原で殺害する。信愛していた少年にもう会えない。六~七歳の少女にとってそれはどんな恐怖と絶望なのだろう……大姫は暗闇の中で泣いても無駄なのでただ憂愁に沈んでいるだけだった。
 頼朝もやはり人の子であり、悲しみに暮れている娘の笑顔を取り戻したいと考えたのであろう。追善供養・読経・祈願などあらゆる方法で大姫の心を癒さんと奔走した。しかし幼女が少女に成長するまでの十余年の間に、悲嘆の情はますます募っていく。幼心に抱いた自然で暖かな情愛は、少女に成長する頃には恋心までに昇華していたのだろうか。あるいは現在で言うところの鬱病の傾向を持っていたのだろうか。いずれにせよ、頼朝の手を焼かせたのは想像に難くない。
 頼朝はそれでも諦めなかった。1194年(建久五)の夏、大姫が小康状態にあった折、京都から一条高能という貴族がやってくる。歳は十八。大姫との縁談にはうってつけである。しかし大姫はこれを一蹴し、再婚するぐらいなら投身自殺するとまで言ってのけた。ここまで行くと恋慕の情を通り越し、狂気の偏愛である。
 その後、頼朝は誰かから一策を授かる。後鳥羽天皇ではどうかというものだ。天皇は当時十八歳、大姫は当時十六歳。年齢も近いし、玉の輿であれば流石に大姫も拒絶しないだろう。頼朝にとっても、これで京都の朝廷にも勢力を及ぼすことができるようになる……
 男を狂わすのはいつも女である。覇者たる頼朝と言えど、それは例外ではなかった。特殊だったのは、それが肉体関係のある女性ではなく、血縁関係のある子供であったということだ。この極めて人間的な誤りが、彼を徐々に蝕んでいく。
 兼実の娘も後鳥羽天皇の中宮であった。頼朝はかつての盟友であった兼実を出し抜く作戦を採る。しかし我が子への愛に盲目となった頼朝は、逆に院側近の源通親から利用され、当時その所有権を否定した荘園を彼らに与えてしまった。この時期に頼朝は征夷大将軍の地位も辞している。かつ兼実から授かった地位である。兼実が頼朝の指示を失ったことが、天下に知らしめられた。通親は立て続けに兼実と頼朝を対立させるように計らった。兼実は関白職を罷免され、九条家一門は忽ち窮地に陥った。
 かつての輝きを失った男に対して、運命は冷酷であった。大姫は1197年、齢二十歳にして死亡する。兼実以下の親幕府派は壊滅し、朝廷側には毟られるだけ毟られるという惨状だけが無情と共に残った。
 通親はさらに追い打ちをかけるように、自らの養女の生んだ土御門天皇を即位させる。頼朝は反対であったが、もはやそれを訴える代弁者はいない。通親は天皇の外祖父、上皇の院司となり、「源博陸」(源氏の関白)と呼ばれるほどの勢力となる。
 頼朝は中央貴族であった。彼もまた、名誉欲に目を曇らされてしまったのだろうか。全てを得てしまった男は、実にちっぽけな拘りで滅びてしまうのかもしれない。頼朝は翌1199年死亡する。享年五十三。全国を翻弄した彼もまた心弱き、一個の死ぬ人間であった。
(Jiyu)

最終更新:2010年02月28日 19:58
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