第二巻 古代国家の成立(直木孝次郎 著)

+ 新王朝の出発
新王朝の出発
 飛鳥時代は発展の時代、奈良時代は衰退の時代だった。この書籍では、大化の改心以前を飛鳥時代、大化の改心意向を白鳳時代と呼ぶことにする。明確な区分がないからである。
 六世紀には小古墳が急激に増加するが、これは民衆の死に対する意識が変化し、また生活にゆとりができたことの証左と考えられる。帰化人からの技術伝達が生活レベルの向上の原因と考えられている。集落単位ではなく、家族単位での墓も見受けられるので、これは生活の単位が集落から家族へと変遷している様子を示している。もっとも、豪族がこれらの家族をまとめ上げて地方で権力を振るったのは従来と変わりがない。
 日本が属国扱いしていた任那は、北の高句麗が新羅と百済を追い詰め南下させたことにより、その領域が侵され始め、莫大な軍事費をつぎ込んだにもかかわらず、支配を継続することができなくなった。中国への遣使も478年で中断されてしまい、外交が衰退する。
 六世紀には、朝廷は権力基盤を固めるため、屯倉(収穫物を修める倉がある朝廷または天皇の所有地)の設置、朝鮮出兵(前述の通り失敗する)、氏姓制(地方豪族による分権政治)から官司制(官吏による中央集権政治)への改革を行った。天皇と蘇我氏は表向きは地方豪族をまとめ上げるために協力していたが、朝廷内ではどちらが覇権を握るかの争いをしていた。
(Jiyu)
+ 保守派物部氏の没落
保守派物部氏の没落
 物部氏は古代の神前裁判を掌理していた。警察権力・裁判権力を有していた物部氏は、次第に専制政治を目指す天皇に接近していく。五世紀最大の専制君主である雄略天皇のときは最もその繋がりは強かった。物部氏は排仏派・保守的氏姓主義、蘇我氏は親物派・進歩的官司主義であるので、その対立は次第に強まっていった。権謀術数の果てに、576年物部守屋が滅び、蘇我氏および崇仏派は自由に活動ができるようになった。物部氏はこれ以降、二流の氏族に甘んじることになる。この翌年、法興寺の建設が始まる。
注:簡単にいえば、氏(うじ)の一部分が姓(かばね)である。
参考: 氏と姓の違い
(Jiyu)
+ 推古女帝
推古女帝
 その死により物部氏と蘇我氏の争いの原因となった敏達天皇には炊屋姫という皇后がいた。炊屋姫は敏達天皇死去後も政権内で大きな権力を持っていた。崇俊天皇即位の際にもこれを推薦した(実際の推進者は蘇我馬子である)。蘇我馬子(炊屋姫とは伯父と姪の間柄)は政治上重要なことを行う場合は、形式的に炊屋姫を表に立てて、政治的正当化を図ったのである。蘇我馬子、炊屋姫の権力強く、即位した崇俊天皇は影が薄かった。実質的に、天皇は政治から締め出され、蘇我氏の独裁政権となる。
 崇俊期の政策は三つ。(1)仏教興隆・(2)東国経略・(3)任那復興の三つである。
 (1)物部氏が衰退したことにより、蘇我氏は堂々と仏教政策が行えるようになった。百済からの仏教関係の技術者や僧侶を優遇し、さらに使者も出して、飛鳥時代の仏教の基盤とした。このとき法興寺(飛鳥寺)の建設も始まる。
 (2)東国には国造(ヤマト王権の地方分権的支配形態の長)が大勢おり、天皇家にとって経済的・軍事的に重要な基礎であった。経略(統治すること)が天皇主体か藤原氏主体かで、天皇の軍事基盤が強まったか弱まったかが異なる。天皇が行えば東国におけるその威厳は増し、天皇の勢力は強くなるが、蘇我氏が行えばその逆となる。時代背景から察するに、蘇我氏が主体だったのではと思われるがはっきりとはしていない。
 (2)蘇我氏の勢力で、継体天皇以降半世紀ぶりに任那進出が目指される。任那復興である。このころには随分と戦力も安定してきたものと思われる。九州に2万の兵を待機させたが、後述する崇俊天皇の殺害により、任那には渡らなかった。
 592年、崇俊天皇が蘇我馬子により殺害される。天皇に不穏な動きがあったとされている。この後、推古天皇が即位する。他の候補が病弱であったり、政治的に微妙な立場であったりしたからという理由での、異例の女性天皇即位であった。
 通説は厩戸皇子(聖徳太子)の摂政によるものであり、皇太子中心の政治の発端となったというものであるが、当時厩戸は18~19歳であるので、現実的ではないという意見もある。これから、その意見を前提とした説を述べる。
 女性天皇即位には、皇后の経済的安定も影響していると考えられている。敏達天皇の時代に私部(キサキベ)という部が中国から伝来してきた。この制度は、后妃と皇帝を切り離すというもので、論理的帰結として后妃の財産は国費ではなく后妃の私有財産となる。この制度が日本の后に及べば、女性皇族の経済的基盤が安定するという塩梅である(それまでは正妻と妾の区別が曖昧であった)。后が安定するのならば、上に立つ大后(おおきさき=皇后)は絶大な権力を持ったと思われる。このとき、みこ(皇子)とひつぎのみこ(皇太子)の区別も生じてくることになる。このような権力の安定化が、後の蘇我氏打倒のための地力となったのであろう。
 このころ近親婚が多かったが、天皇はその血筋が重要とされるので、他の氏族から人を求められなかったからだろう。逆に近親の度合いが大きいほど、天皇家の勢力が強く安定しているといえる。
(Jiyu)
+ 聖徳太子の立場
聖徳太子の立場
 聖徳太子は敏達三年(574年)に産まれた。父は用明天皇、母は穴穂部間人皇女で両親とも皇族であり、蘇我氏と近い血縁にある。当時中の悪かった堅塩媛系と小姉君系の両方の血族であったため、政界での入り組んだ関係の結び目に属していると言える。太子自体の婚姻関係も、天皇および蘇我氏とのつながりが強かった。崇俊天皇暗殺時には、他にも有力な皇子がいたので、太子が推古天皇の即位と同時に太子に定められたかは疑わしい。厩の中で生まれたから厩戸皇子と言い、これは唐から伝来したキリスト教のイエス降誕の影響がある、十人の訴えを同時に聞いて判断を誤らないなどという逸話が残っているが、いずれも後世の創作と思われる。『日本書記』以降はどんどんそう言った、太子の天才ぶりを表す内容が増えていく。
厩戸皇子は推古八年ごろまでには太子の地位につき、推古天皇の摂政となり、権力のすべてではないが、かなりの部分を握ることになる。蘇我馬子も天皇を補佐する役割にあった。馬子は当時50代、対して太子は26歳。経験の差が大きいのを悟り、太子は馬子との正面衝突は避けつつ適宜横暴を抑えるという政治的立場を取った。馬子としては、天皇の伝統的権威を祭り上げつつ、実際の政治は蘇我氏を中心とする豪族連合の強化・官司制の整備に務めた。天皇を不執政の立場に置き、実験を蘇我が握ろうという魂胆である。図らずも近代の象徴天皇に通ずるものがある。太子は朝廷の権力を強める官司制には同調し、天皇の専制的地位の回復に努めた。
 新羅征伐は崇俊朝からの継続事業である。591年に二万の兵を派遣し、598年には新羅を恭順させた。600年には新羅に再び攻め込むと共に、隋に使者を送った。これは、実力を以て新羅を討つことの承認を求める意図があったと言われている。新羅征伐は、任那が滅んで得られなくなった貢物を新羅に肩代わりさせる目的であった。貢物が具体的に何であるかはわからないが、金・銀・鉄、錦・綾などが伝説には書かれている。鉄は武器になり、貴重品は装飾により朝廷の権威を高めるのに役立つから、恐らくそのような目的だったのだろう。602年、朝廷は再度新羅に兵を送る。このときの兵力は二万五千人であり、皇族が指揮官となっている。皇族が外征軍の指揮官となるのは前例がない。これは太子の計画だったと思われる。太子は豪族をまとめ上げ、軍隊を編成し、朝廷の権威の復活をはかり始めた。
(Jiyu)
+ 日出ずる国からの使者
日出ずる国からの使者
607年、多利思比孤、これは聖徳太子の事と思われるが、彼によって日本から隋への使者が送られた。しかし「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という日本と隋を対等にみる内容の国書に隋の皇帝、煬帝が悦なかった。隋からしてみれば生意気な文章である。だがこの時、隋は高句麗と交戦しており、苦戦を強いられていた為に日本と手を結んだほうが良いと見て、翌年の遣隋使の帰りに裴世清らを返礼の使者を同伴させている。
また、帰路に於いて小野妹子は百済人に隋の煬帝からの国書を奪われている。
この事について豪族達から大きな失態であるとして小野妹子を流罪に処するようにとの判決が下った。しかし天皇は小野妹子を罰するよりも、国書を奪われた事が隋からの使者に知られることを恐れ、彼を赦した。
ところで、この事件において小野妹子に厳罰を下すように判決が出たのは何故であろうか。隋と国交を結ぶと言うのは従来の朝鮮諸国との外交を出し抜く物であるから、蘇我氏を始めとした遣隋使に反感を持つ勢力があったと思われる。
大和朝廷は小野妹子らに同伴してきた隋からの使者に対し、国力を示すためか盛大に出迎えをしようと試みる。
だが、当時の日本の国力からは厳しいものがあったのか、準備期間が必要で、この間隋からの使者は難波で待たされていた。1ヶ月半後、ようやく彼らは都入りし、天皇の御前で儀式を行った。
この時天皇は使者に姿を見せていない。小野妹子も隋の都洛陽では皇帝煬帝に直接あっていないと思われるが、日本は隋と同格である事をたてまえとするので、煬帝と同じように使者に顔を見せないことでこれを示したのでは無いだろうか。
隋からの使者の帰りに小野妹子らが同伴し、使節とされた。この時煬帝にあてた国書もまた隋と日本が同等である事を表す内容であった。
こうして宮廷内では天皇が隋の皇帝と対等である事が示され、天皇の権威は高まっていった事と思われる。
又、「天皇」の称号は推古朝の時、「日本」の国名はその少し後、大化の改新の頃から用いられたと推測される。
(NINN)
+ いかるがの大寺
いかるがの大寺
日本書紀によると、605年から聖徳太子が住んだという斑鳩宮跡が法隆寺の敷地内から発見されたが、この周辺には飛鳥時代創建と伝えられる寺院が多く、斑鳩に移った後の太子が仏教興隆に力を注いだことが推し量られる。
この事から、現代に残る多くの書物が太子について誇張して語っているが、仏教に熱心だった事については全く根拠の無いことではないと思われる。
また、法隆寺は太子の創建と伝えられているが、太子による創建当時の法隆寺は670年に雷火で焼けている。その為現在の法隆寺は再建されたものであり、このことは今でこそ誰もが認めるところであるが、この意見にまとまるまで、僧侶を中心とした「現在の法隆寺は再建されたものではなく太子による創建当時のものだ」という非再建派の反発があった。
太子は日本書紀によると621年に没し、神聖とされる二上山の西麓に葬られ、後に推古・孝徳天皇もこの地に葬られている。

(NINN)
+ クーデター前夜
クーデター前夜
聖徳太子が亡くなった後、蘇我馬子が官僚のトップに立って揺るがぬ権力を持っていたが、太子の功績により天皇の権威が高まり、豪族達の気持ちも天皇家に向きつつあった。この事から晩年の馬子は焦りがあったようで、政治手腕にも以前のような鋭さが失われてきていた。特に、623年、調の催促のため蘇我馬子の計画によって大船団が送られたが、先に大和朝廷の名の下に送られた使者と新羅で鉢合わせしてしまい、新羅に日本の政治の不一致を暴露してしまう結果になった。
また、権力が蘇我蝦夷・入鹿父子に移ってからは、温厚な父蝦夷を押しのけて、生まれながらのエリート、勝気で傲慢な息子入鹿が台頭してきた。彼は同じ血の流れる古人皇子を皇位につけるため、対立する皇子を打ち滅ぼすなど少々血気が盛んであったようだ。
また、これまで蘇我一族を支えてきた豪族連合との協調を無視して独裁者の様な振る舞いをしたため、天皇家だけでなく、上・中流豪族を敵に回しつつあった。
そんな中、中臣鎌足は打倒蘇我家を掲げ、軽・中大兄の両皇子や曽我家の有力者石川麻呂を味方につけ、迅速にクーデターの計画を進めていった。
(NINN)
+ 改新断行
改新断行
 中臣鎌足と中大兄皇子は、高句麗・百済・新羅三国の調をすすめる儀式を騙り、蘇我入鹿を暗殺する計画を立てた。
 六四五年六月十二日、クーデターは決行された。翌日、甘橿岡の邸宅にて蘇我蝦夷は自殺した。
 皇極天皇は中大兄皇子に位をゆずろうとしたが、中大兄は辞退し、軽皇子が皇位についた。これが孝徳天皇である。六月十四日のことであった。
 即位の式から五日目の六月十九日、大化という年号が定められた。
 新政府の基本方針は、官制を唐にならって整備し、天皇の権力を強化してゆく、という点にあったと思われる。
 孝徳即位の翌月、高句麗・百済・新羅三国の調をすすめる使者が来朝した。いままで新羅が担当していた任那の調を、百済がかわって納めた。新政府は代納を認めたが、調の物が不足であるとしてつきかえした。新政府の意気さかんなさまがうかがわれる。
 調をつきかえした翌日、天皇は左右大臣に詔して、大夫と伴造たちに施政方針についての意見を出させるよう命じた。
 大夫と伴造は、最下級をのぞいた中央官僚の大部分を含むことになる。かれらへの意見の提出の要求は、新政が天皇権力の強化をめざしながらも、朝廷が氏族連合によってなりたち、朝議が群臣の合議によってきまる、という伝統を無視できないでいることを示している。
 やがて形成される日本の律令制の中央政府は、この合議制と天皇専制のつりあいのうえに組織されていることを特色とする。左右大臣と大夫以上を成員とする合議制が、日本独特の政策決定機関である太政官制の母体となるのである。
 革新的意義を持つ政策は、次の五つである。

 第一に、全人民の戸籍の製作と、田の面積の調査を命じたことである。
 第二に、大和にある天皇の直轄地である六県に使者をつかわし、造籍・校田を命じたことである。
 第三に、朝廷に匱と鐘を置き、自分の属する伴造や族長の裁判に不服のあるものは、その匱に投書して直接朝廷に訴えることをゆるし、朝廷の裁定になお不満のあるものは、鐘をならしてさらに訴えることをみとめた(鐘匱の制)。
 第四に、男女の法を定めた。男女間に子どもが生まれたとき、子を父母のどちらの所属にするかをきめた法である。良民と賤民の区別をきびしくしようというものである。
 第五に、僧侶を統制するための十師と、寺院を統制するための寺司・寺主・法頭を任命した。
 以上は、公地・公民制を基軸として中央権力の強化をはかろうとする新政府の政治方針にのっとったものといってよい。

 この間、古人大兄皇子の謀反のくわだてが露顕し、中大兄は古人皇子を殺した。

 六四五年の末、都は飛鳥から難波にうつった。その難波宮で、新政の大綱が四つの項目にわけて発表された(大化改新の詔)。
 それは、第一条で公地・公民の原則を明らかにし、第二条で京および地方の行政組織と交通・軍事の制をととのえること、第三条では、戸籍・計帳・班田収授の法を立てること、第四条では、古い税制をやめて田の調以下の新しい税制をおこなうことを定めたものである。
 しかし、改新の詔に関する『日本書紀』の文は、その編者が「浄御原令」や「大宝令」の条文を参考にして文章を飾り、形式をととのえ、りっぱなものにしあげたのではないかと思われる。
 とはいえ、すべてが編者の造作ではなく、従来の制度から見れば大革新の制作発表であったことに異論はない。

 改新の詔を発した政府は、その実施に邁進した。
 地方豪族は公地・公民制をこころよくうけいれたとは思われないが、土地を要求する民衆の、下からの圧力におされていたこともあり、あまり抵抗の姿勢をもたなかったようである。
 政府は、大化二年八月にふたたび、天皇以下臣・連らの豪族にいたるまで私有の部民を収公するむねを明らかにし、最下級以外の朝廷の官吏全員に、あらたに百官と位階をもうけ、官と位をさずけることを約束した。
 また、同じ年に風俗矯正にかんする詔も出されている。
 大化三年には、冠位の制をあらためて十三階にし、同五年には十九階とした。これには、左右大臣を官僚制の一部分に組み入れるというねらいもあった。

 大化改新の成果は、第一に、天皇を中心とする政治体制の確立、第二に、中央集権体制の樹立、第三に、公地・公民制の成立、第四に、政府が依然として地方の有力豪族をもって構成されていること、である。
 ゆえに、大化改新は社会構造の変革をめざす改革ではなく、政治改革であると考えられる。
 とはいえ、社会変革的な性格がまったくなかったのではない。
 大化改新の原因は、多くの議論があるが、六世紀以来の政治と社会の発展によって導きだされた必然の結果であり、それを促進したものとしては、大陸の影響があった。
(Shade)
+ 難波の都
難波の都
 左大臣倉梯麻呂が亡くなり、その後、右大臣である石川麻呂が謀反の疑いをかけられて処刑されることとなった。
 新しい左右大臣には、それぞれ改新当初の功労者である巨勢臣徳太と名門の長老である大伴連長徳が任命された。
 左右大臣は、このときから氏族の上に立ち天皇の政治を助けるという機能を失い、官僚になり下がった。天皇・皇太子の専制的地位の確立である。
 六五〇年に年号が白雉と改められたが、この時に行われた仰々しい儀式のねらいの一つは、天皇の徳を強調することにあったのではないか。天皇絶対の方針を形の上に表したのが、この祝賀の儀式であった。
 白雉年間に入ると、内政を改革・充実させるための新政策はほとんど出されず、天皇と政府の権威を高めるため、宮廷を飾り荘厳を増すことに多くの力が注がれたようである。
 六五一年十二月のみそかに、天皇は大郡宮から、難波長柄豊碕宮にうつった。
 その所在については豊崎村長柄説と上町台地説という二説があったが、大正二年に奈良時代の難波宮の所在地を支持する資料としての瓦が発見され、それを手がかりとして探索が進み、現在(昭和四七年)では上町台地の法円坂町の地が長柄豊碕宮の所在地と考えてまず間違いないというところまで来ている。
 この時、朝鮮の勢力関係は、強大な唐の介入によって一変しようとしていた。
(Shade)
+ 悲劇の皇子
悲劇の皇子
 六五三年に入り、孝徳天皇と中大兄皇子との不和が表面化した。中大兄皇子は大和への遷都を望み、天皇はそれを許さなかった。
 中大兄は母の皇極上皇や弟の大海人皇子、公卿・大夫・百官を引き連れて飛鳥川のほとりの川辺の行宮にうつった。孝徳天皇の皇后である間人皇女までが孝徳をすてて中大兄にしたがい、大和へうつったのは、中大兄と間人皇女が夫婦の契りを結んでいたからではないか。
 六五四年には孝徳天皇が亡くなり、天皇の位には皇極天皇がふたたびついて斉明天皇となった。中大兄は皇太子の地位にとどまった。いったん退位した天皇がもう一度皇位につくことは、日本史上はじめてのことである。
 中大兄皇子が天皇にならなかったのは、間人皇后との結婚が原因だったのではないか。
 斉明天皇が位についたのは、六五五年、飛鳥板蓋宮でのことである。
 天皇は、治世の最初から土木事業を好んだ。小墾田の瓦葺きの宮殿(中止)、岡本宮、両槻宮(未完成)である。度重なる土木工事に駆り出された民衆の不満は高まったと思われる。
 孝徳天皇の子供である有間皇子は、六五八年十一月に蘇我臣赤兄に唆され、謀反を企てた。赤兄の謀略により有間皇子は捕まり、十一月十一日に藤白坂で絞首された。
 これは、中大兄皇子の、自らの地位を脅かす可能性を有する有間皇子を打ち倒そうとする策謀によるものではないかと考えられる。(Shade)
+ 蝦夷征討と百済救援
蝦夷征討と百済救援
 蝦夷討伐のことは、『日本書紀』には景行天皇の時からみえるが、研究により、これらの記事はあまり信用できないことがわかってきた。
 大和朝廷が計画的に蝦夷支配をおしすすめるようになるのは、中央集権の体勢がととのってきた六世紀中葉以降と考えたい。
 五八九年に、近江臣満を東山道に遣わして蝦夷の国境を観させたという『書紀』の記事がある。
 また、六四二年に服属した蝦夷の代表者が都へのぼってきたらしい。六世紀末以来の朝廷勢力伸長の成果を示すものである。
 中央権力の強化をめざす改新政府は、六四七年に渟足へ、六四八年に磐舟に基地を置き、蝦夷対策を積極的に進めた。
 ところで、蝦夷がアイヌであるという説と、これを否定する説とが存在するが、現在(昭和四七年)では、蝦夷は辺境にいたために文化におくれた日本人の一種とする説が有力である。
 阿倍比羅夫の遠征については、その記事について重複や矛盾があるが、ここでは遠征が二回二年であったとする説にしたがって述べられる。
 第一回目の遠征が六五八年、第二回目の遠征が六六〇年だったと考えられる。
 この遠征に関しては、北海道へ渡ったという説と渡らなかったという説があるが、第一回は秋田付近まで、第二回は津軽半島までで、北海道へはついに渡らなかったと考える。
 日本が蝦夷征討に力をかたむけているとき、朝鮮では新羅が唐と組み、百済を攻撃した。百済はほろんだ。
 しかし、挙兵した百済の遺民のうち、もっとも有力であった鬼室福信の使者が、人質として日本にきている百済の王子豊璋を、王として百済を再興するために、送りかえすことを頼んだ。
 百済を助けるということは唐を敵に回すということだが、廟議の末、百済救援が決せられた。
 六六一年、斉明天皇みずから西征の途にのぼった。その途中で大伯皇女が、翌年に草壁皇子がそれぞれ生まれた。
 この年の七月、斉明天皇が急逝した。中大兄は即位せず、皇太子のままで政治をとった。
 六六二年の正月に、先発部隊が出発し、百済に豊璋及び軍需品をもたらした。
 六六三年に白村江の戦いが勃発し、戦いは日本軍・百済軍の惨敗に終わった。こうして、百済は完全に滅びたのだった。
(Shade)
+ 額田女王と近江朝廷
額田女王と近江朝廷
 当時、中大兄皇子の他、皇位継承可能な有力候補は少なく、唯一中大兄の同母弟・大海人のみが挙げられた。それゆえ中大兄は大海人へ娘を嫁がせて結束を固めている。
 この兄弟と非常に関係の深い女性に額田女王がいる。彼女は最初大海人の妻であり、大海人との間に子供を生んでいるが、その後中大兄の妃となっている。だが天智天皇の妃として正式に記録されていないことを鑑みるに、額田女王は神事等に参与する采女的女性であったと推測される。当時、神に仕える采女へのタブーが緩められ、額田女王も自由な行動を許されたのだろう。
 さて、白村江の大敗北は朝廷の危機に直面するものであり、中大兄は称制として即位せぬままこれの対応に追われた。冠位の制度を定め、また部民制を復活させ、庚午年籍を編纂し、また律令の制定(尤も、この近江令は完成しなかった)に着手することで中央集権を推し進める一方、九州から難波に至る各地に城等の防御施設を築いて対外戦争に備えた。
(Sphenicidae)
+ 壬申の乱
壬申の乱
 皇位継承の問題によって、朝廷内で力を握っていた大海人と中大兄、則ち天智天皇との間は次第に冷え込んでいた。天智天皇と有力な氏族出身の女性との間には子がなく、天智天皇の子は孰れもそれほど身分の高くない女性との間の子供であり、確たる地位を築けなかったからである。それゆえ天智は大海人を排斥。大海人は吉野で出家することとなった。
 しかし天智が崩じると状況が変化する。天智の皇太子であった大友皇子は近江の朝廷の首班となった。彼は天智陵造営の為に人を集め、それが吉野の大海人の猜疑心を煽ることとなる。大人数に攻撃されては危険と感じた大海人は近江の朝廷に対して反旗を翻すと、吉野を脱出して東へと逃げた。
 これに対して近江側の対応は遅れ、結果として大海人を東へと逃してしまうことになる。大海人は東国の豪族を味方とし、一方で近江の大友皇子は西国の豪族を動員することに失敗した。大伴氏の反逆で大和国も失った近江側は大海人の敵ではなく、大津京は陥落して近江側は滅ぶこととなる。
 この乱は皇位継承戦争である一方、中央集権に不満を持つ地方豪族の蜂起と言う側面をも持っていた。また、皇族も多数が大海人に味方しており、これは大友皇子の慣例にない即位への反発によるものであったといえる。
(Sphenicidae)
+ 「大君は神にしませば」
「大君は神にしませば」
 壬申の乱に勝利した大海人は天武天皇として即位し、近江にあった朝廷を天武は再び飛鳥の地へと戻した。壬申の乱によって有力豪族の大半が壊滅し、功臣のほとんどが中小豪族出身であったことから、天武はより中央集権的な専制君主として君臨することとなる。豪族に代わって朝廷では皇族が要職を占めるようになったが、その皇族も天武を頂点とするヒエラルキーの中に収められ、それゆえ皇族からの不満は高まった。しかし朝廷の官僚制度化には成功し、位階の制を新たに定めて君臣の別を強調し、皇族も臣に過ぎぬと示し、豪族に関しては八色の姓に基づいて順位付けすることで支配に置いた。
  また、天武は軍事の集権化も図り、地方豪族に分散する軍権を朝廷のもとに集約し、また五衛府制を採用して中央の軍事力強化に努めた。
 宗教政策も天武は積極的に行った。東国経営の点で重要な伊勢神宮へ手厚い保護を行いまた、多くの神社の修復を行う一方、寺院の創建にも力を入れ、仏教国家の骨格を確立せんとした。
 国史編纂もこの時代に始まった物と為り、後の記紀成立のきっかけが作られた時代であった。
(Sphenicidae)
+ 二上山の歎き
二上山の歎き
 天武もまた後継者に悩まされた。大津皇子・草壁皇子の二子は甲乙つけがたく、どちらを後継者とするにも決め手を欠いたのである。これは結局、皇后の子である草壁皇子が皇太子となることで決着がついた。だが、大津皇子も決して政治的な力を喪失したわけではなく草壁皇子同様政治に参画する。これは大津皇子が才に溢れた皇子であると認められていたからだろう。このことに皇后は大きな警戒感を覚えることになる。
 その結果、天武崩御の直後、大津皇子は謀反の疑いを掛けられて投獄され、処刑されることとなったのである。
 ところが皇太子である草壁皇子も急逝。草壁皇子の子である軽皇子はまだ幼かったため、皇后が持統天皇として即位することとなった。
(Sphenicidae)
+ 藤原宮のさかえ
藤原宮のさかえ
 持統天皇即位の前年、以前より編纂されていた浄御原令が施行された。これは日本初の総合的法典であり、これによって日本は律令国家の一歩を歩み出す。また同時に編纂された庚寅年籍は個人を把握した初の戸籍であり、これを以て日本は古代専制国家となった。
 中央官制の整備が進んだのもこの時期である。豪族合議から官僚による中央集権へと体制が変化し、またこれにともなって政府の規模が大きくなったために新たな都も必要となった。その結果が藤原京の造営である。
 持統天皇はこれより先、薬師寺の造営も行っている。この薬師寺に関しては建立年代に論争があり、未だに決着がついていない。
 藤原京造営直前、持統天皇は東国視察のために伊勢へ行幸している。以前壬申の乱の主力となったのは東国であり、東国の不満が朝廷を崩壊させる力があることを知る持統天皇は、力役の免除などを東国に与えている。
 また、柿本人麻呂などの歌人が活躍するのもこの時代である。もっとも彼らは天皇の古代的神性に心惹かれる者たちであり、官僚化の進む朝廷では肩身の狭い思いをしただろう。
 この時期になると有力豪族が力を盛り返してくることになる。その結果として成立したのが太政官会議である。これは有力豪族と皇族によって構成され、これによって朝廷の政策が決定されたのである。
 古代国家としての体制をひとまず整えた持統天皇は軽皇子へと譲位した。これによって日本の古代国家確立期は終わりを迎え、以後は安定期、そして衰退へと進んでいくのである。
(Sphenicidae)
最終更新:2010年05月16日 18:12
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