第十四巻 鎖国(岩生 成一 著)

+ 日本島の発見
日本島の発見
十三世紀末、元の世祖フビライに仕えたイタリア人マルコ・ポーロは、その著『東方見聞録』の中で「黄金の国」ジパングを紹介した。それまで名前も知られていなかった日本国の存在が、ヨーロッパ人のあいだにはじめて伝えられたものである。
それから十六世紀まで、西欧諸国は活発な探検航海と植民貿易により近世世界への道を急速に進んで行った。1498年にはバスコ・ダ・ガマの船団がインドのカリカットに到着し、東方新航路が開拓された。1492年には、大西洋を横断したコロンブスによってアメリカ大陸も発見された。1521年にはマゼランがフィリピン群島に到着。そうして天文年間、いよいよ日本島はポルトガル人によって発見されるのである。

日本の発見は、ただちに鉄砲の伝来と結びついている。後年「種子島」と呼ばれたこの新兵器は、瞬く間に戦国争覇の世へ流通し製作されるようになった。そうして織田信長が武田軍の騎馬隊を打ち破った長篠の合戦に象徴されるような、戦術上の一大革命を引き起こしたのである。軍事技術上の改革も多々施された。信長による鉄艦の建造もそのひとつである。鉄砲防御のため船に鉄板を採用し、大砲を搭載したことは、当時としては画期的な改善であった。
鉄砲の伝来に遅れること六年、もうひとつポルトガル人によってもたらされた日本史上極めて意義の深いものがある。キリスト教である。1549年8月15日、聖母マリア被昇天の大祝日、イエズス会設立者の一人フランシスコ・ザビエルが、東方布教の熱意に燃えて鹿児島湾に到着した。彼はさっそく九州を中心に伝道をはじめたが、その成果は一進一退であった。また彼の希望は日本の主権者に会い、その許可を得て公然と全国に布教することであったが、折しも京都は応仁の乱で荒れ果てて、天皇は既にまったく無力であった。大々的な布教の目処は立たず、ザビエルは日本滞在二年三ヶ月にしてインドに立つ。その後は残ったトルレスらが布教に尽力し、領内反対派と仏教徒による弾圧の中、キリシタン宗はじわじわと拡大・発展していった。

日本におけるキリシタン宗の伝道は、基本的にポルトガル船の貿易に追随して、貿易港を中心に移動・発展した。ときには宣教師が商人と連絡して、布教に好意を向けない地方には貿易船の渡航をしないよう働きかけている。そのため一般諸侯はキリシタン宗を受け入れ伝道を許可することによって、広く貴重な海外物産を搭載するポルトガル船との貿易を図ったのである。貿易統制の本拠ゴアのインド副王や、イエズス会の司教などに使節を派遣したり、進物を贈ったりするものも少なくなかった。新宗教の保護と貿易の発展はいまだ不可分の関係にあったのである。
(Shiraha)
+ 長崎開港
長崎開港
幕末開港以来、昭和年代のはじめまで、生糸や絹織物は日本の主要輸出品であったが、江戸時代の中頃までは、生糸はむしろ日本の主要な輸入品であった。輸入先の産地は中国である。しかし日・明両国のあいだは倭寇の活躍によって、長らく通行貿易関係が途絶えていた。その間隙に目をつけて商権を拡大したのがポルトガル人である。
彼らはゴアから積んできたヨーロッパの銀貨やオリーブ油、葡萄酒、香辛料などを、マカオで生糸に積み換えて日本の港にやってきた。船が碇泊すると、たちまち待ち構えていた地元の有力商人や遠く近畿から潜り込んだ商人たちが取引を始める。対価は銀で支払われた。その額は極めて膨大で、ポルトガル人による日本貿易の中心は、いまやまったく中国の生糸と日本の銀の交易となったのである。
それでも全ての交易が順風満帆とはいかない。貿易はつねにイエズス会の布教と繋がりを持っていたため、特にキリシタン宗へ好意を持たない大名の領地では度々問題にぶつかった。そんな中、交易のための安住地を求めて宣教師ベルシオール・デ・フィゲレイドが発見した港こそ、以後日本の対外交通交易の窓口として繁栄を辿る良港、長崎である。
長崎湾内はどこも水深が深く、湾岸三方は高峻な岳に囲まれている。湾口の外には島が点在し、風波は完全に遮られていた。マカオ・長崎ルートは、アジア貿易で最短にして確実かつ利益のあがる貿易路線となった。交易を求めて、あるいはキリシタン迫害から逃れて、近隣各地から移り住んでくる人々によって街は繁昌した。
カブラルらの宣教師は、このような長崎を中心根拠地として布教活動を進めた。その成績は大変良好で、布教半年のあいだに信仰に加わった者は二万人にも上ったと言われている。やがて領主大村純忠は、この繁栄する長崎が龍造寺や島津らの攻略にさらされるのを恐れて、急ぎこの地をイエズス会に寄進した。長崎は教会領となり、イエズス会の本部サンタ・マリア天主堂などが建立され、いよいよ西日本における布教と貿易の中心となったのである。

キリシタン宗が最初から各地で仏教徒ら激しい抵抗を受けたにも関わらず、伝来後わずか三十年で広く多数の信者を獲得したことには、社会事情や布教方法などひとくちには言い難い様々な要因が関係している。しかしなによりもまず対立宗教である仏教が、当時諸宗分裂して互いに抗争をつづけていた点は大きい。仏僧は教義を忘れて腐敗・堕落し、戦国大名と変わらず現世的勢力の獲得に狂奔していた。キリシタン宗は巧みにこの弱点をついたのである。くわえて次々と来朝した宣教師の人格や学識、熱意にも特筆すべきものがあった。
信長もまた自身が手を焼いてきた仏教徒への反感から、絶えず宣教師を厚遇していた。言わば反対勢力を抑えるための牽制手段として、キリシタン保護を用いたのである。信長はキリシタン宗を積極的に利用しつつ、彼らのために便宜を図ってやった。このような政治的な互恵関係が築かれていたことも、キリシタン宗の拡大に充分寄与している。
多くの好条件に恵まれて、キリシタン宗の勢力は大いに発展した。1582年、その興隆の象徴として、九州三大名のローマ遣使が決行された。その正使は二人の少年貴族である。教皇グレゴリオ十三世はこの使節を非常に歓迎し、イエズス会はその多年の努力を認められて正式に日本布教の特権を与えられた。遣使は大成功であった。
しかし使節一行が出発してからわずか半年のあいだに、日本国内では恐るべき変化が起こっていたのである。本能寺の変により信長というもっとも有力な保護者が没し、使節を派遣した大村純忠も死去した。そして1587年6月、秀吉が唐突に伴天連追放令を出したのである。
(Shiraha)
+ 伴天連追放令
伴天連追放令
 キリスト教布教活動も、信長に変わって秀吉が政権の座につくと変転を余儀なくされる。秀吉の九州征伐の直後、突如として伴天連追放令が発布され、弾圧が始まったのである。この問題は当時の二本の倫理観念とキリスト教での倫理観念の矛盾もはらみ、また九州征伐終了によってキリシタン大名の協力が不必要になったことも理由に挙げられるだろう。また畿内に向けられたその文章には南蛮人の来航・通商の禁止はなく、あくまでバテレンを追放することが明記されていた。キリスト教については、他宗派への不寛容を譴責している。
 九州に向けて発布された別の文章によれば、キリスト教が、一向宗同様に封建体制を否定することに対する反発もあった。仏教的には禁止される食用家畜の屠殺や、当時広く行われた日本人奴隷の売買も禁止されていた。
 しかし伴天連追放令はこれに留まらぬ理由を持っていたといえる。九州征伐時、イエズス会は長崎に直轄領を持っていたが、これを秀吉は没収している。ちょうどこのころ、土佐に来航したフェリペ号の船員が、キリスト教布教をスペインの植民地拡大の方法だ、と暴露する事件もあった。それゆえ、秀吉はキリスト教布教をスペインポルトガルの侵略活動の一環とみなし、バテレン追放を行ったともいう。
 フェリペ号の船員の暴露によって、キリスト教への態度が強固になった秀吉は、宣教師や日本人の信者を捉えると長崎にて処刑し、見せしめとした。この26聖人殉教の知らせに、マニラ総督は秀吉に使者を送って寛恕を求めるも、秀吉はこれを拒絶している。
(Spheniscidae)
+ 強硬外交のうらおもて
強硬外交のうらおもて
 関東の北条氏が降るや、秀吉は本格的に威嚇外交を推し進める。これまで大名ごとに行っていた外交を秀吉政権のもとに集約してゆく。琉球に対しては、朝貢や明と日本の国交回復斡旋を求め、スペインのマニラ総督に対しても貿易推進とキリシタン禁令を強く申し渡している。
 このころ、マニラは中国と日本の貿易中継地として重要度を増していた。それゆえ、日本側ではマニラ遠征の計画も立てられるほどであり、同じように台湾出兵計画も存在していた。このような意を伝えながら、南方に対して日本へ服従するように強く求めているのである。これに対し、台湾を治める明は軍勢を派遣しており、マニラのスペイン総督も警戒を非常に強めている。
 一方で秀吉は、南蛮交易は相変わらず推進しており、長崎を直轄として貿易の統制を行っていた。また海賊停止令を発布して横行する海賊を次々と捉え、海上の治安の安定を図っている。
 このころ、秀吉は需要の大きかった金・生糸などの買占めを行い、莫大な収益を握っている。フィリピンの民芸品であり、茶室に重宝されたルソン壺や朝鮮出兵で需要の見込まれた銃弾用の鉛についても、交易へと積極的に干渉した。
(Spheniscidae)
+ 家康の経済外交
家康の経済外交
 秀吉が諸外国に強硬的な姿勢を見せたのに対し、家康は親善関係を結ぼうと努めた。フィリピン政庁からの使節で、ひそかに布教を行っていたジェロニモ・デ・ジェススが捕えられた際も、これを殺すことなくフィリピンとの外交の足がかりにした。さらにフィリピンからの渡航を薩摩の海賊が妨害していることの連絡を受けて、これを罰することさえした。
それでもなお、布教については拒絶の意をはっきり示した。キリシタン禁圧の政策が廃止されたわけではなかった。家康の目的はあくまで貿易の奨励であった。家康は 朱印状 を発行することで貿易の保護をおこなった。
 慶長五年(1600)、リーフデ号という黒船が九州の東北に漂着した。この船はオランダが東洋貿易に派遣したうちの一隻であった。そのころ大阪に来ていた家康は、これを聞くと即座に代表者を招いた。家康はポルトガル語通訳を介して、諸外国の情勢を熱心に尋ねた。ポルトガル商人、イエズス会などの在日カトリック勢力はプロテスタント勢力であるリーフデ号の漂着を恐れ、家康に彼らを即刻死刑にすべきであると提言した。しかし、家康にとっては宗派の違いより貿易によって利益をあげることの方が重要であったので、この提言を聞き入れることはなかった。家康はリーフデ号の船員のうち、特にイギリス人アダムズを厚遇した。アダムズは相州三浦郡の逸見(横須賀市)に二百五十石を与えられた。これはいまだかつて外国人には与えられたことのないほどの優遇であるとアダムスは自負していた。
 慶長十四年(1609)、オランダに朱印状が与えられた。オランダとは自由に貿易をおこなっていいという内容である。ポルトガル商人やイエズス会の恐れた自体がまさに起こった。彼らは貿易が盛り上がりを見せぬうちに、オランダの海賊行為を幕府に訴えた。オランダはイスパニアから独立を宣言し、イスパニアから貿易路を断ち切られたので、新たな貿易先としてアジアを目指すようになった。先にアジアでの貿易を行っていたポルトガル勢力とたびたび衝突したというのも、オランダとポルトガルの対立の一因となっている。
 家康の外交のおかげで、長崎や平戸の港はヨーロッパの商船でにぎわうようになった。だが家康が切望したのは明との貿易であった。家康は政権を得るとともに、即座に日明関係の修復に乗り出した。そのためにまず隣国である朝鮮との外交を回復する必要がある。 慶長の役 の後、日本軍の撤退が始まると、すぐに家康は対馬の宗氏を通じて朝鮮との交渉を始めた。当初に交わした文書では日明貿易に関する記述は伏せ、慎重な交渉が行われた。同時に琉球を通じて明に近づく手も打っていたが、琉球は朝鮮にまさる堅物であり、話を聞き入れようともしない。島津家久が幕府の許可を得て琉球に遠征し、 勘合貿易 の復活を琉球から明に要求させたが、明にいぶかしがられ成功しなかった。家康はこの他に、直接明国との交渉にも努め、捕虜の送還、使者の派遣などを行ったが、これも明に疑われ逆効果となった。
 結局正式な日明貿易は復活しなかったが、明からの貿易船自体はぽつぽつと現れ始めていた。家康はこれを歓迎し、朱印状を与え、争いの時も明側に有利な判断をさせるようにした。そのおかげもあり、寛永二十年(1624)には九十隻もの明の貿易船が来航した。
(Jiyu)
+ 生糸を取引きする将軍
生糸を取引きする将軍
 家康は将軍宣下を受けると共に奉行の入れ替えを行った。人的関係から貿易港長崎の管理を強化したのだ。貿易重視のこの政策は、秀吉が行ったそれの踏襲である。そのころマカオから生糸を積んだ貿易船が長崎に入港した。このころはまだ貿易の手続きも整っておらず、また飢饉に悩まされていたので、輸入品の生糸はなかなか買い手がつかなかった。
 その後、ポルトガル船はまた多量の生糸を積んで来航し、廉価でこれを売り出した。幕府はこれを受け、正式に生糸に関する取引法を作成することにした。 糸割符法 の起源である。取引の方法はこうである。まず幕府が京・堺・長崎など三都市の商人に命じて結成させた貿易商人グループを組む。グループはそのときどきの適正価格で生糸を全部一括で買い取る。その後一般商品の取引を公開し、ついで生糸を国内各地に配分・販売するのである。この方式では、しばしば買主のグループ側に買い叩かれるので、売主であるポルトガル側との悶着の種となることがしばしばあった。
 幕府はこのグループとは別に、その権威を利用して大量の生糸を売値の五割ないし七割で買い占めていた。幕府による生糸の買占めは何度も行われ、市場価格や販売許可も幕命で定められていたので、ときには一般商人の取引の一切が差しとめられ、幕府の専売となることもあった。
秀吉は黒船の貿易保護を積極的に図り、金・銀・生糸などの重要商品の買占めを図った。徳川の世ではさらにこの傾向が促進され、金山・銀山からの上納、大名や社寺からの寄進、そして貿易によって家康は莫大な金銀を蓄財した。家康の遺産は昭和41年時点で二億ドル(現在の貨幣価値で720億円)ともいわれた。まさに慶長の怪物である。
(Jiyu)
+ キリシタン禁令
キリシタン禁令
 マカオで有馬晴信の朱印船が襲撃されるという事件が起こった。経緯はこうである。まずマカオで晴信の朱印船の船員が暴力を働いた。これに対してマカオ当局が動き、六十人余りが銃殺されて鎮圧する。その後マカオ総督アンドレ・ペッソアは使者を駿府に送り、日本人のマカオ渡航を禁ずることを家康に願い出る。日本人に直接支那人の生糸を買われてはポルトガル人の商売の邪魔になるというのが実際の理由であろう。家康はこれを受け、朱印状を発行する。晴信は怒り収まらず、家康の許可を得てペッソアを召喚し、事実を確認しようとした。ペッソアはこれに応ぜず、マードレ・デ・デウス号という船で逃走を試みるが、晴信らは兵船を繰り出してこれを砲撃。もはやこれまでと考えたペッソアは火薬庫に火を点じてデウス号ごと自爆する。この商船には生糸が積まれており、これにより京阪で糸値が二倍に跳ね上がったと言われている。
 この事件の影響はその後も残った。老中本田上野介正純の 与力 岡本大八が、家康が晴信に対して恩賞として旧領肥前の三都を元通り領地替えしてやるつもりがあると告げたのである。晴信はたいそう喜び、大八に多額の金銭を送って斡旋を頼んだ。しかしその後詐欺がバレてしまい、大八は牢にぶち込まれる。大八はこれを恨み、晴信がデウス号の焼き討ちの際に、奉行長谷川左兵衛から攻撃が手ぬるいといわれたのに憤り、彼を毒殺しようとしたことを牢中で訴えた。こうして大八は火あぶり、晴信は流刑の末死を命じられた。
晴信も大八もキリスト教徒であった。家康の側近にも信者が数多く露見し、信仰をかたくなに守ったので、いずれも改易・島流しとなった。その中には人望厚いものもあった。家康がもともと持っていたキリスト教は危険ではないかという疑念が、ここで確信に変わった。家康は大八処刑の機会を利用して、キリシタンに対する激しい迫害を行った。秀吉の死以降、家康は貿易の利を得るために宗教に大しては宥和政策を採ってきた。そのためキリシタンは小康状態にあったのだが、このときそれが打ち破られたのである。
 これと併せて、オランダ・イギリス両国民は、貿易の利益を独占するために競争者カトリックを排撃しようとあらゆる讒言を行った。ポルトガル商船もこれに対抗して讒言を行った。
 国内が安定し、ようやく対外政策を行える余裕ができた家康は、さっそくキリシタン弾圧の政策をとりはじめた。利のために宗教と貿易を分離を声明していたが、宣教師は潜入してくるのでこれだけではなまぬるい。まず江戸・大阪・京・長崎に置いて会堂を墓石、布教を禁止し、宣教師を追放した。この政策に関しては、家康の外交顧問格のイギリス人ウィリアム・アダムスが裏で糸をひいていたとも言われている。
(Jiyu)
+ 朱印船の貿易
朱印船の貿易
 江戸時代初期、朱印状によって海外交易を認められた船を朱印船という。この制度は、秀吉が海賊や私貿易船との区別を行うためのものであった。家康の代となると、朱印状を持たぬ貿易の禁止が各国に通告され、朱印状は珍重されることとなった。この朱印状の交付は幕府の重臣の紹介状を元に禅僧によって書かれたものであった。そしてこの朱印状を拝領して朱印船を運行するのは、有力大名や有力商人、女性や在日の外国人であった。彼らが資本家となり、船頭を雇って実際に渡航させた。またこの際航海士として外国人を雇うこともあった。
 このような貿易に目をつけた人物に亀井茲矩がいる。茲矩は官途として琉球守・台州守を名乗るなど海外へと目を向け、朱印船の派遣も行っている。
 ヨーロッパ式の造船技術も取り入れ、当時の日本は造船技術も誇るものをもっており、フィリピン総督より発注を受けるようにもなっている。
 この朱印船は各地で交易を行ったが、これはヨーロッパ側にとっては商売敵であるといえた。それゆえ、朱印船の記録はヨーロッパ側に多く残っており、結果としてどのような活動をしているかと言うことが詳しくわかる。また中国船の貿易もこのころ活発となっており、その結果としてヨーロッパ勢力の価値は既に低下しつつあったのである。
 この当時、日本では非常に多くの銀が産出していた。この時代には世界に出回る銀の3割ほどが日本の銀であった。つまり日本は銀供給国として大きなウエイトを占めており、それゆえ日本との交易を開拓・推進しようと各国がしのぎを削ったのである。
(Spheniscidae)

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最終更新:2010年05月29日 21:12
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