第四巻 平安京(北山茂夫 著)

+ 女帝没後の政局
女帝没後の政局

称徳天皇の皇嗣には藤原百川らが支持する白壁王が立てられ、光仁天皇となった。
彼は先ず、銅鏡とその一派、及び皇嗣となる際の対立候補を支持した吉備真備らを政界から一掃、また聖武天皇の娘でおのれの妻である井上皇后と子の他戸皇太子を幽閉し山部親王を皇太子に立てた。後の桓武天皇である。

彼光仁天皇以下の政権は、「官人がやたらに多く、人民を食いつぶしている」と指摘、官人削減の方針を採り、人民を苦しめ、農業生産を痛めつける雑徭について、兵士数を減らし、徴兵も「殷富百姓」からのみ行うとした。

「殷富百姓」とは、農村に於ける支配階級的存在であった。
この時代、個々は独立していた農民を、大化以前からの土着勢力である「土豪」、およびその周辺の有力農民が束ねていた。この有力農民が「殷富百姓」である。
かれら土豪や殷富百姓は、口分田を放棄した農民や浮浪人を組織し開墾をしたり、有力な寺社や貴族の土地開墾に絡んで勢力を伸ばした。

北方、蝦夷の地では伊治公呰麻呂が胆沢を中心に反乱を起こし、多賀城を攻略した。
彼は胆沢周辺の地域の長であったが、朝廷に下り外従五位下を叙せられていた。
が、朝廷から派遣されてきた仕事場の同僚や、陸奥按察使紀広純らに夷浮として辱められていた事などから部族の元に帰る決意をした。
(NINN)
+ 桓武天皇の登場
桓武天皇の登場

老いた光仁天皇は反乱の一報にひどくショックを受けた。それでも老体に鞭打って政を行っていたが、気力尽き果て山辺親王に譲位、桓武天皇となった。
彼は前光仁天皇の政治路線を引き継ぎ、まず朝廷内の改革に取り掛かった。
天下の民を食いつぶしている過多の官人を辞めさせる方針を出し、2省2司を廃した。
この時、造営省を廃しているので、まだ遷都は考えていなかったのであろう。
また、調、庸の収奪に力を注ぎ、税収システムを揺さぶる土豪、殷富百姓を牽制した。

同時に彼は征夷の準備にも取りかかった。
先の乱により、胆沢を中心に結束を固めていた蝦夷側に対し、乱後ふるわなかった征東軍を解体、新たに大伴家持を鎮守府将軍とし、次なる攻撃に備えた。

征夷事業に刺激されるように、遷都問題が持ちあがった。
これをバックアップしたのは百川の甥、種継で、造営使に任命された。
遷都の主な理由としては、先の章で述べた井上皇后らの亡霊が揺曳し、千の無能の僧どもが跋扈する平城京から脱出するためである。
彼は急ぎ長岡京造営に取りかかった。が、785年、造営使種継が暗殺された。
捜査の結果、大伴、佐伯両家を始め多くの者が処罰され、桓武の弟、早良皇太子も罪に問われ、憤死した。

結果、桓武の子が次の皇太子となったが、この事件は桓武の血筋を天皇とする為のでっち上げ立ったのでは無いか、と筆者は述べている。
(NINN)
+ 征夷大将軍坂上田村麻呂
征夷大将軍坂上田村麻呂

征夷大将軍坂上田村麻呂・・・4代前は壬申の乱で名を上げた老(おゆ)、父は先の藤原仲麻呂の乱などで活躍した苅田麻呂、武官の一族である。

782年に鎮守府将軍に任命された大伴家持の後をついで、788年、多治比宇美が職に就いた。
今度の徴兵は坂東の他、東日本全土から5万2千余りが徴発され紀古佐美がこれを率いることとなった。
789年、胆沢を目指して北進を開始したが、大きな戦闘はなかった。都からの要請で漸く精鋭6千が進軍した。が、川を渡っていた最中に、阿弖流為率いる蝦夷軍が山の陰から急襲、征東軍1000名以上を川に沈めた。大敗を喫した征東軍は帰郷。紀古佐美も都へ帰った。

こうして刃を交えた双方だが、蝦夷人と公民の間ではなごやかな交易が行われており、蝦夷人が鉄を入手する機会となっていた。
また、蝦夷人も陸奥国府に下ると「田夷」と呼ばれ「山夷」と区別された。彼らの間に入植したのは、クーデターの失敗などで没官、平民にされた者が送られていた。

「田夷」となった蝦夷人は支配者から貢物にもなる馬の飼育を勧められた。
かれら蝦夷人はこの馬を用いて連絡を取り合い、それぞれが独立していた蝦夷の諸集団をまとめ、朝廷軍の攻撃に耐える生命線を築いていた。

789年の第1回目の攻撃に失敗した朝廷は、794年に再度進撃するため、今度は2倍、10万を徴発するとし、財のある公民には甲を造る事を命じた。が、これは凶作と疫病にあえいでいた農民を苦しめる事となった。

794年、第2回目の攻撃も遂に蝦夷側の本陣胆沢に届かなかった。この際、征東副使に田村麻呂が任命されていた。

(NINN)
+ 平安京の建設
平安京の建設

種継の暗殺、早良親王の死、相次ぐ皇族の死など、長岡京は汚されてしまった。また、造営の為に徴発された役民も、逃亡する者が多く、工事もなかなか進まなかった。更に疫病も流行り、多くの死者を出した。
桓武はこれを死んだ者達の祟りと信じてやまなかった。
天下の公民に更なる負担を強いるとしても、桓武は遂に2度目の遷都を決意した。
これを和気清麻呂がバックアップし、造宮使に任命された。
794年、第2回蝦夷攻伐の頃、急ピッチで新都造営がすすめられ、桓武はひとまず皇居が落成した平安京に移った。但し、それ以外の建物の工事は、未だ全く手がつけられていなかった。
とかく、桓武は2度の造都と、蝦夷攻伐に力を注いだ。結果、国家財政は行き詰まり、地方官の精励に期待するほか無かったが、彼らは彼らで、特権を振りかざした土地開墾で私服を肥やすことに力を注いでいた。
彼らは開墾した土地と共に土着化し、国司の交替を渋るようになった。
これを督察する為、政府は勘解由使を設置。また、地方に問民苦使を派遣、地方民の苦情を受け付けたが、国司の乱脈ぶりに手を打つことが出来ず、軽度の営田などの問題は見逃すほか無かった。
班田収受も行ったが、従来の6年1度を保てなくなっていた。

前章にもあったが、雑徭の軽減も行った。というのも、雑徭や出挙の為に口分田を捨てて逃げ出すものが多かったからである。
調・庸を確実に収奪するため、彼ら浮浪者を検挙したりしたが、根本的な解決には至らなかった。

桓武朝の政治は軍事(蝦夷攻伐)と造作(造都)の強行と停止に尽きると思う。
強行は上記のとおり、農民の疲弊にもかかわらず行った攻伐、造都である。
病の床に伏した桓武は、宮中の論議の際、農民の負担軽減のため、軍事と造作の停止を提案し、806年に逝去した。
(NINN)
+ 平城上皇の変
平城上皇の変


平城上皇の乱

桓武の後を継いだ平城天皇はまず、即位5日にして六道観察使を各道に送った。
これは、問民苦使と勘解由使を合わせたようなものであった。
これにより私腹を肥やす国司・土豪・裕福な百姓をの不正を正したが、それ以外の面では殆ど成果がなかった。

807年の終わりごろ、皇族の重鎮伊予親王が謀反の罪に問われ幽閉の憂き目にあい、自害した。これに連なり藤原南家の大官2人が没落した。
事件の背景には種継の子、仲成・薬子がいた。薬子は藤原縄主の妻でありながら、平城天皇の寵愛を受けており、彼らはこの事件を契機に更に天皇に接近、薬子の為に仲成も大幅に昇進している。

809年、平城は体調不良を理由に弟賀美能親王に譲位、嵯峨天皇として即位した。
皇太子には高岳親王がたてられた。

天皇側は、上皇になった平城の命に従い、旧平城京の地に宮を築いた。
この平城の宮と平安京をさして「ニ所朝廷」と呼ばれたりした。が、平城の宮は少数の官人グループが居たのみで、政府機能は持って居なかった。

翌年、平城上皇は平安京を廃し、平城京に遷都するように命令した。これに対し、天皇側は、信頼の篤い田村麻呂などを造営使の名において平城の地に送り、上皇をけん制した。
また、旧三関などを固め、平城上皇と繋がりのあった仲成を捕らえ、射殺した。

平城上皇は挙兵を決意して東国へ向かおうとしたが、朝廷軍に行く手を阻まれ、悪あがきの内に終わった。
天皇は上皇を罪には問わなかったが、上皇の子、高岳皇太子を廃し、大伴親王を皇太子につけた。
(NINN)
+ 内裏・院・神泉苑
内裏・院・神泉苑

嵯峨・淳和・仁明天皇の治世、承和の変に至るまでの割と平穏な33年間について述べている。

まず、地方に於いて、農民たちは地方官(富を蓄えた彼らの勢いは、この章の最後3節に記されている)のサボタージュにつけこみ、戸籍調査にて老人の戸主と女、子供ばかりの家であると記載し、正丁にかかる諸税から逃れようと必死であった。対して政府も、農民の生産力を上げようと水車の普及などに努め、長い間の問題である治水、池溝の保全について法を定めた。
また、私服を肥やしてばかりの地方官の間にも時々善政をしく者が居た。彼らは「良二千石」と持て囃された。

京では治安対策として新たに検非違使をおき、警察権の一部を握らせたが、その権力が拡大、司獄・行刑にまで力が及ぶようになった。
また、桓武朝で停止された「軍事」を引き継ぎ、征夷大将軍文室綿麻呂が北進、閉伊・爾薩手方面に進撃した。

802年、嵯峨は弟に譲位、淳和天皇が即位した。彼は特に目ぼしい政策を打ち出すでもなく、10年の治世の後譲位、仁明天皇が即位した。
彼らは執政よりも「山水に詣でて逍遙し、無事無為にして琴書を翫ぶ」事を欲していた。
また、彼らの頃から臣籍に下った皇族、嵯峨源氏などが政治の舞台に現れ、藤原諸家の冬嗣、園人、緒嗣ら、小野岑守などと共に天皇に代わって政を司った。

光仁・桓武朝から嵯峨・淳和・仁明天皇の3代を経てその後に掛けて、日本書紀など「六国史」が作られた。
また官府的編述事業が成果を挙げ、これまでの政治のある総括となった。
(NINN)
+ 最澄と空海
最澄と空海
 八世紀中期以降、政府がしばしば問題にしていた僧侶の堕落とは、主として次の二点であった。すなわち、仏法を脱税のための看板として利用していたことと、政治への介入である。
 光仁天皇は僧侶の政治介入を完全に排除し、山林修道をゆるした。そして、私度僧をとりしまった。桓武天皇の仏教対策は父天皇の方針をうけつぐものであり、また厳しく寺院の経済活動に圧迫を加えた。それらは、より根本的には、桓武とその政府の土豪・有力農民との対決の一局面であった。
 他方、そうした平城京の諸寺での生活に安んじることのない者は、山林にこもって仏道に精進した。最澄と空海もまた、そのような求道者のひとりであった。

 七六七年、最澄は生まれた。僧となり、比叡山に入った。鑑真のもたらした典籍の天台宗にかんするものに導かれ、関心を深めていった。空海の誕生は七七四年である。はじめは学問の道を志したが、仏門に入り、山林の徒となった。そして「大日経」を発見し、密教への関心をわきたたせた。
 二人は、桓武天皇の特旨により、八〇四年の遣唐使の一行にくわえられた。最澄は八ヵ月、空海は足かけ三年、それぞれ唐で学び、典籍や仏像・仏画などを持ち帰った。
 最澄は八〇五年に帰来し、天台法華宗の開立を勅許され、比叡山寺をその本拠とした。空海は八〇六年に帰朝し、嵯峨天皇の愛顧を受けた。八一〇年には高雄山寺での修法をゆるされている。

 最澄と空海は、当初は協力関係にあったが、その後に不和が生じた。
 最澄のなした東国巡化は、土豪・有力農民にも感化を及ぼし、本山と末寺の関係を形成する契機を築いた。また、最澄はその後、南都の仏徒と教義上の論争を繰り広げた。
 最澄が八二二年に亡くなった後、嵯峨天皇によって大乗戒壇の設立がゆるされた。八二三年に比叡山寺は寺号を延暦寺とあらためた。
 空海は高雄山寺をおもな拠点とし、真言への布教にしたがった。後に、嵯峨天皇から高野山を与えられ、そこを本拠となす。八二三年に、嵯峨天皇から東寺を与えられた空海は、そこを密教化した。八二六年に、教王護国寺と寺号をあらためた。空海は、密教芸術にも新風をもたらしている。

 天台、真言の開宗は、平安朝初期の天皇たちの積極的な庇護という世俗的外力によるところが多い。その宗義は鎮護国家をうたい、桓武以下の歴代天皇の仏教統制に対応・協力し、それぞれ独自のゆきかたで推進した。
 最澄は論争によって、空海は懐柔によって、伝統的な南都勢力に対応した。その影響で、旧大寺の学僧たちもみずからを教団に組織することとなった。
 また、新宗の創始者たちは、一切衆生成仏説や即身成仏というテーゼの力説において、仏教が民衆の生活・精神をよびさます可能性をはらませた。
 最澄の死後、円仁によって天台宗はいちだんと密教化され、教団の力は強大となった。空海の死後、真言宗は天台に比べふるわなかったが、東寺の存在は、ぬきがたい伝統と力を擁していた。
 真言・天台の二宗は、教団創設の直後から寺領の拡大に力をいれた。新興宗派の根本道場は、はやくから道・俗両界を圧する庄園形成者の相貌をおびていた。
(Shade)
+ 王朝の詩人たち
王朝の詩人たち
 嵯峨天皇は唐風文雅への傾向をみせていた。
 最初の勅撰漢詩集『凌雲集』は、嵯峨天皇が小野岑守に詔を下し、菅原清公、勇山文継らとともに編成された。
 桓武、嵯峨の時代に、唐風化を推進したパイオニアとしては、仏教界の最澄・空海、儒林の菅原清公、政界に藤原冬嗣・小野岑守らをあげうるであろう。
 八一九年の嵯峨天皇の詔書により、天下の儀式、男女の衣服、五位以上の位記は唐風となった。また諸宮殿・院堂・門閣には唐風の新額をかかげた。七世紀以来の唐風の模倣は、律令の諸制度・宗教と学問から、宮廷行事の形式にまでひろくおよんできた。
 宮廷の公けの場で詩賦が行事となり、筆蹟に美をもとめる傾向が強くなった。嵯峨にはじまる三代にいたって、書道の世界がひらかれた。空海・嵯峨・橘逸勢をくわえて三筆という。これも唐風受容の一側面とみなせる。
 また、八世紀の初頭に唐帝国の支配から脱して独立した渤海との交歓も行われた。
(Shade)
+ 応天門の炎上
応天門の炎上
 嵯峨上皇が八四二年に没し、その二日後、仁明の政府は伴健岑、橘逸勢らを逮捕した。仁明天皇には皇太子恒貞親王と、良房の擁する長子道康親王がいたが、伴健岑と橘逸勢を謀叛人と断じて、その責を恒貞親王にも問うことで、皇太子の地位をうばいさったのである。数日後に良房は大納言となり、源信は中納言に、源弘、滋野貞主は参議となった。翌八月に、仁明天皇は道康親王を皇太子にたてた。これが承和の政変である。
 承和の変は、政治疑獄くさい。良房は、阿保親王の密書を手がかりとして、皇室の大家父長制に入り込み、嵯峨源氏との結託をいちだんと深めた。また同族の高官で競争相手の二人を政界の外に追い出し、古い名門である伴・橘の両氏に一撃をくわえた。

 良房は冬嗣の二男である。
 かれは淳和朝で蔵人になり、東宮亮として皇太子時代の仁明と親密な関係をつくり、その即位に際して蔵人頭についた。まもなく三十一歳で参議に、その翌年に権中納言となった。
 承和の変において、良房は仁明天皇・皇太后嘉智子に働きかけ、藤原一門の政敵を政界から放逐した。官職の方面においても、大納言のほかにも要職を経ていた。
 良房は恒貞親王を皇太子の地位からおいはらい、妹の腹にうまれた道康親王をあとがまにすえ、自らの娘である明子を皇太子の宮にいれた。道康親王(文徳)と明子の子が惟仁親王(清和)であり、こうして良房は天子の外戚となった。

 仁明帝が四十一の壮齢をもってたおれ、道康親王が即位し文徳天皇となった。文徳朝の初政には、政策において新味はなく、仁明朝末期からの政治や治安の乱れは一層ひどくなっていた。班田については良房の全執政期を通じていちどもまともに問題にされていず、地方行政における中央政府の指導性は、意外なほどこの時代に後退している。
 こうした情勢の推移の中、良房は八五七年、左大臣をへないで太政大臣となった。その主な理由としては、かれが天皇の外舅にあたるためであった。
 八五八年に文徳天皇が死去し、惟仁親王が即位し清和天皇となった。かれはそのとき九歳であった。幼帝清和については、良房の専横によるものとして世上の不評がつきまつわっていた。清和の妻は良房の姪(養嗣子である基経の妹)の高子である。良房は、幼帝出現の日から摂政としての役割をになった。

 清和期の良房による政治指導は、文徳期の延長としてしか評価できない、事なかれの消極的なものであった。班田は放置され、戸籍計帳の制度もひどい状態であり、国司の不正は横行した。律令国家による公民の支配はくずれていった。
 貞観の初年は不作続きで疫病もはやった。都の人々はこれを御霊の祟りとして、御霊会をおこなっていた。ここにいう御霊とは、崇道天皇や橘逸勢など、いずれも宮廷における紛争の渦中に憤死した人である。
 八六三年、朝廷でも神泉苑において盛大な御霊会をもよおした。民間では、こうした御霊会はながくつづいたが、政府のがわは、いつもそれにたいして警戒的であった。

 八六六年、太政大臣の染殿第における天皇らの花見の盛儀から十日後の夜、応天門が炎上した。その直後、大納言伴善男は右大臣良相に対し、失火を左大臣源信の所為であると告げた。良房はこれを知り、天皇のもとに人をおくって左大臣の無実を主張させた。
 その五ヶ月後、大宅鷹取というものが伴善男とその息中庸らが共謀して応天門に放火したと密告した。伴大納言らは犯状を否認したが、九月の末に朝廷は、善男・中庸ら五名に応天門放火の罪をかぶせ、遠流の刑に処した。その累は古来の名門たる伴・紀の二氏におよんだ。
 貞観の政府は伴大納言家の私財を没収して国家の用に供したが、それは多様で豊富だったようだ。

 晩年の良房が強い関心を示したのは、法制と修史であった。
 『貞観格式』は、右大臣藤原良相が太政大臣良房と協議し、天皇に奏して、八二〇年以後八六七年までのほぼ半世紀間の格・式を編集したものである。
 また、八六九年に完成した『続日本後紀』二十巻は、良房のもとで編纂されたいわゆる「六国史」の一つで、仁明天皇の治世を対象としたものである。
 八七一年に応天門は再建された。翌年九月、良房は病死した。

 良房の執政の特質は仁明時代の政治の延長というほかはなく、新しい施策にとぼしく、法制・修史の事業を持って朝政をかざりたてた。それとともに、かれは平安朝における最初の太政大臣の地位につき、天子の政を摂行して人臣摂政の先例をひらき、藤原氏による摂関政治の前提をつくった。
(Shade)
+ 関白藤原基経の執政
関白藤原基経の執政
 太政大臣良房に代わり政界の大立者になったのは、基経であった。かれは政治家として非凡の器であった。
 貞観の末葉は、世情には不穏のムードがただよっており、火災が多かった。八七六年には大極殿が焼け落ち、清和はこれらの火難でつよい打撃をうけた。大極殿焼失の七ヶ月後、清和天皇は皇位をすてた。ときに二七歳で、高子の腹にうまれた皇太子貞明親王は九歳であった。この幼帝を陽成という。
 文徳の若死にによる幼帝の出現と、基経の摂政をあてにしての清和の退位は、事情がすこぶる異なっている。幼帝の即位と人臣の折衝が慣行化への一歩をふみだしているのである。
 陽成期において、京・機内の民心は安定を欠いていた。公卿は常平司を新設し、官米を売り出して米価抑制にのりだすとともに、河内・和泉の二国に特使を派して、貧民救護にあたらせた。八七八年、出羽国の蝦夷と俘囚が蜂起し、秋田城を急襲した。出羽国府がこの動乱に対してお手上げだったため、基経らの政府は藤原保則を出羽権守に任じ、討伐にあたらせた。
 保則は備中・備前の国守として善政をうたわれた人物であり、寛政によって夷を降した。保則が武力による大反撃をくわだてなかったところに、桓武の時代とは異なる国家権力の限界があらわれている。

 良房・基経の執政をあわせて前期摂関政治というが、基経は停滞した国政のマナリズムを打破しようという意欲をみせはじめていた。夷俘の反乱が、かれを国政へとたちむかわせる原動力となったのである。
 八八六年、出羽国守から中央政府へ、国府を新しい地に遷建することについての申請書がだされたが、そうした際に、高尚・春風そして保則といったすぐれた経験者の所見を聴取して政府の断案の資料にしたところに、基経の国政への意欲がうかがわれる。

 基経が征夷と同時にくわだてた大事業は、班田収受の実施である。五十年ぶりのことであった。基経は、律令制の基礎をなす土地の関係の弛緩に対処しようとしたのである。
 この五十年間に生まれた大部分の農民は国家から土地を分け与えられず、土豪・有力者から土地を借りるか、貴族・寺社の庄園につながれた。かれらは、田租とは比較にならぬ高率の地子稲を収奪されることになった。
 また、戸籍の制度がくずれ、中央政府は浮浪人対策がたやすくうちだせなくなっていた。
 八七八年に朝廷は五畿内の国府にたいして校田(土地調査)を明治、翌年には班田使の任命があった。土豪・有力農民は、班田中絶のあいだに口分田をうばいさり、自己の農業経営の要地に編入していた。班田を歓迎していなかったかれらへの対処が必要だったのである。
 五十年めに、基経らの政府が班田収受を断行したことが、律令的支配の瓦解をくいとめるために何ほどかの寄与をしたと判断できる。それは中央政府の、新しい勢力との農民の生産を場とした抗争でもあった。

 清和上皇の死の直前、基経は太政大臣に任ぜられた。
 八八三年、陽成天皇と基経とのあいだが疎隔し、険悪になった。太政大臣は天皇に対し、ボイコットの戦術をとった。そして八八四年、陽成天皇は譲位の旨をしたためた書を太政大臣のもとにとどけさせた。
 基経は、後継者として、仁明天皇と藤原沢子を父母とする時康親王を選んだ。このとき親王は五十五歳で、一族の間ですこぶる評判がよかったらしい。こうして光孝天皇が即位した。
 老天皇は親政を行うことを避け、太政大臣のポストにおいて万機の統裁を基経にゆだねる旨の宣明をした。
 光孝天皇の治世はごく短かった。不況により強盗・殺傷の事件があいつぎ、妖怪談がはびこり、大地震や大風雨がおきた。こうした天変地異の恐怖のなかで天皇はしだいに気力をうしない、危篤の状態におちいった。

 光孝天皇の次に即位したのは第七皇子であった定省であり、これを宇多天皇という。このとき二十一歳であり、基経とのあいだに外戚の関係がまったくない。
 即位の後、宇多が参議橘広相に作らせた基経への勅答に、「阿衡」という文言があった。紀伝博士の藤原佐世の説によれば、阿衡とは位が高くとも職掌がないものということであり、これが天皇と太政大臣の確執となった。結局のところ、天皇は阿衡の言葉の失当を認め、基経の圧力に屈服した。この一連の事態を阿衡の紛議という。
 阿衡の紛議は若い天皇の心に大きなシコリを残し、それが宇多を仏道に深入りさせる要因になったようである。この時期に、かれの発願によって京の西山に仁和寺が新造されている。宇多は父帝の時代のように国政は基経にゆだねて、文雅の一事に心を傾けた。

 関白太政大臣藤原基経は、八九一年に五十六歳をもって死去した。
(Shade)
+ 多恨の歌人在原業平
多恨の歌人在原業平
 在原業平は専門の歌人ではなく、朝廷の高官であり、歌は私生活のなかの心のすさびにすぎなかった。かれは、詩人としての天賦をその歌作に示した平安貴族の一典型であろうが、そうした貴族のタイプは、平安朝の業平以前にすでに出現していると考えられる。万葉最後の歌人、大伴家持である。

 業平は恋の遍歴と歌において、宮廷人のあいだではスター的存在であったが、権栄の座からは疎外されていた。在原氏の五男のかれは、ついに右近衛権中将どまりであった。
(Shade)
+ 受領と郡司・百姓の抗争
受領と郡司・百姓の抗争
 この時代、地方における土豪や有力農民の基盤は、在地にひろく根をはった農業経営そのものであり、かれらは豊富な労働力を支配していた。一般農民の困窮と礼楽が、かれらの農業経営をますます拡大させる。
 土豪・有力農民は中央省庁にツテをもとめその下僚となり、あるいは大官の家につかえて平安京に移住した。上京した土豪・有力農民はしばらく出仕して、やがて郷里にたちかえった。そして、脱税のために名ばかりの官職を悪用した。
 また、出家をめざす地方人もふえた。坊主どもも国家の見地からいえば脱税者である。これらが農民にシワヨセされていった。
 地方の豪族や農民は、国司への対処の仕方を脱税や権門勢家との結び付きにもとめたが、一般農民のばあいは浮浪と逃亡の行動によった。

 嵯峨以後の親政三代、さらに良房・基経の執政気になると、国司のなかで、現地に行かずその得分だけをふところに入れるものがふえた。これを遥任という。
 それに対し、任地に出向いて地方行政にあたる国司のことを受領とよぶようになった。かれらは徴税請負人にちかい官人であった。
 受領は、地方の豪族・有力農民の武装抵抗に対抗するために、それぞれの規模の私的な従者群を編成しはじめた。それを郎等(郎党)という。九世紀後半以降の受領たちは、こうした力をも行使しながら、もっぱら法外な徴税に狂奔した。

 郡司はだいたいその地方の名望家であり、国造の系譜をひく者が多かった。中央政府は地方行政を国司にゆだねたが、在地の土豪を郡司にすえて、その強大な勢力を利用した。
 郡司は受領の専横にたいして内心ではつよく反発していたが、通常は協力的であった。受領が天皇を頂点とした権力組織に身をおいているからである。
 九世紀後半になり、土豪・有力農民が農業経営を拡充し、受領の力をおそれないていどまでに成長してくると、受領と地方民との板挟みになっていた郡司は、地方民の側につくようになっている。
 地方の豪族・有力農民と受領との対立をいっそう深める要因になったものは、従来の人頭税を一種の土地税に変えたということであろう。戸籍の制度がくずれ、国府は精確に部内の公民の人口をつかめなくなっていたが、土地に税をかければ、そうした問題は回避できる。

 受領の攻勢にたいし、地方民は電池を権門に寄進して庇護を求めた。こうして寄進地系庄園といわれるものが、九世紀後半から諸国に出現した。諸院・諸宮・王臣家あるいは寺社は、この形成に乗じて庄園の獲得に熱を入れるようになった。

 受領と地方民との対立が、公然たる抗争の姿をとって政治の次元に浮かびあがってくるのは、九世紀後半の文徳・清和朝の一時期である。
 その構想には、地方民のある集団が国司の館を襲撃して受領らを殺傷するゆきかたと、土豪・有力農民が武力の行使を避け、中央政府にむかって受領の非法について陳情し、免職をねがう、いわゆる愁訴の方法という、二つの行動様式があった。
 前者の事例では、郡司が首謀者であり、国府の内部に分裂がふかまっていることがうかがわれる。
 後者の事例では、ほとんどのばあい、訴えられた受領のほうがまけている。この年代以降、愁訴事件はくりかえされ、道長・頼道のいわゆる摂関時代にそのピークに達する。かれらの愁訴によって、かなり多くの受領が罷免されている。

 このように、在地の土豪・有力農民らの階層は、経済的に伸びてきただけではなく、政治の力をいちだんと高めてきたのである。
 それが、親政三代ののちの良房・基経の執政期に生起した地方の新しい政治情勢である。
(Shade)
+ 時平と道真
時平と道真
 藤原基経死後、宇多天皇は親政を開始し、藤原時平の他、藤原保則や菅原道真を登用して北家・時平の対抗とした。保則・道真とも受領階級層ではあるが、実務に長ける保則に対し、保則の後に重用された道真は漢学に長けた吏僚であった。
 宇多天皇は行政粛正を行っているが、これは守旧的なものに終始した。これは下級官人達の要求によるものであり、それを基経や保則、道真が組み上げることで実現化した。
 この寛平の治の底にあったのは、「階級の分離への対策」「有力農民・郡司への接近と王臣家の牽制」「官制簡素化」が挙げられる。また対外策も変更が加えられた。長くなされなかった唐への遣使が企図されたのである。これは、新羅の牽制や文化移入、密教の要請によるものと考えられる。新羅寇の増加から、北九州の軍備増強も行われる。
 また宇多天皇は道真や時平に命じて歴史編纂も行わせた。これが『日本三代実録』である。これとは別に、道長に命じて『類聚国史』も編纂させている。
 だが藤原時平が執政となると、宇多天皇は息子・醍醐天皇へと譲位する。上皇となった宇多天皇は、まもなく出家して法皇となった。
 これによって道真は後ろ盾を失い、時平派より失脚させられることとなった。これで藤原時平は権力を確立し、朝廷を牛耳ることとなる。執政として力を得ると、時平は延喜と改元したうえで大きな改革に取りかかった。これは寛平の治をさらに推し進めた形といえた。地方で広がる荘園に対して掣肘を加え、律令国家の体制を維持しようとはかったのである。
 しかし、これも時平が若くして死ぬことで、挫折することとなった。

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+ 古今の時代
古今の時代
 譲位して後、宇多法皇は風流の生活に明け暮れた。そしてこの空気は、朝廷にも蔓延することになる。三善清行『意見封事』は、唯一これに反抗する動きであったがこれも朝廷には取り入れられなかった。
 この時期、大和絵をはじめとする国風文化が発達してくるが、これは唐風に対するアンチテーゼとして取り入れられたものではなく、あくまで唐風を日本へアレンジしたものに過ぎない。依然として唐風が尊ばれるのは変わらなかった。
 また歌会が頻繁に開かれるため、宮廷人たちは歌の上手な者を集めるようになる。このようにして頭角を現したのが紀貫之で、彼は上級貴族の歌会に呼ばれて歌を披露することで名を馳せた。そしてこのタレント歌人の中から、『古今集』が編纂される。これに収録された歌は、『万葉集』と異なって優婉な歌が多いが、これは歌の芸能化を示していると言える。
 このように、所謂"遊び"の部分では下級貴族をも包摂して行われた。これが、醍醐朝の特徴的な風景である。
 貴族の歓楽が花開いた醍醐朝であるが、災害が頻発した時代でもあった。940年には雷が紫宸殿に落ちることになる。これからまもなく、醍醐天皇も譲位し、すぐに崩御してしまった。
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+ 東の将門と西の純友
東の将門と西の純友
 醍醐天皇死後、天皇の座に付いたのは皇太子であった朱雀天皇である。摂政には時平の弟・忠平がついた。彼を掣肘する者はおらず、よって彼は朝廷を切りまわした。
 一方、地方では受領たちの土着が進んでいた。彼らは一族で地方に土着し、勢力を拡大する。その中の一人が将門であり、純友であった。彼らは中央に行き、権門に従うことでより支配基盤を強固にしていた。
 また彼らは武装し、群盗として働くこともあった。彼らは自衛のために武装して社会的勢力としての地位を確立していたのである。
 瀬戸内海では、武装した彼らが海賊として跋扈し、純友はその長として名を馳せた。一方の坂東では、土着した平氏内の内紛から将門が貞盛を追放するという事件が起きた。
 畿内でも天災が相次ぎ、人々はそれに恐れを隠せなかった。空也上人が念仏を唱えて行脚したのはこの時期であり、人々は次々と彼に従うことになる。

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+ 天慶年間の大乱
天慶年間の大乱
 天慶に入ると、各地で国府を巡る乱が増える。尾張では国司が射殺された。また純友の勢力も拡大し、瀬戸内海一円に及ぶ。
 この状況は、忠平政権下のないがしろにされる国政や、地方土豪と中央貴族の荘園を介した繋がりなどを、如実に反映した結果である。
 武蔵で受領と郡司が対立したことに、将門は介入する。また源経基や平貞盛を追い、坂東での覇権を確立した。常陸での争乱にも介入して国府を襲撃した。このように強大な力を得た将門であるが、次第に独立性を高める。
 やがて将門は新皇を名乗って独立。国司を勝手に任命する等を行うようになる。
 このころ、純友も摂津まで接近。西と東に乱を抱えた朝廷は狂乱の体を為した。朝廷は神階を上げるとともに、追捕使を任じた。
 一方、将門は残敵掃討を行うも貞盛を討つことはできず、やがて藤原秀郷と結んだ貞盛の反撃を受けて、崩壊した。彼は国家への反逆者と記憶される一方、受領に対して反抗した人間としての親近感を以て坂東の人間に受け継がれた。一方秀郷は、貴族末裔の武人たちの目標となっていく。
 瀬戸内海の純友も、追捕使に任じられた小野好古によって本格的に討伐が行われる。博多湾での決戦に好古は勝利し、純友もその勢力を失うこととなった。
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+ 天暦の治
天暦の治
 この大乱にも関わらず、朝廷は旧態依然とした体制を護持したままであった。将門討伐も受領層によるものに過ぎない以上、ふたたび反乱が起こる可能性があった。にも関わらず、である。
 まもなく村上天皇が即位し、天暦の治が始まる。前後して忠平も死に、朝廷の中心は変化してゆく。忠平死去後は関白が置かれず、村上天皇による親政となった。だがそれは風流に偏るものであって、さしたる国政は行われなかったと言ってよい。ただ、詩画書の類は非常にもてはやされることになる。また和歌も取り行われたが、これは古今集のマンネリズムに陥っていた。
 修史も目指されたが、これは政治の混乱から終ぞ行われることはなかった。
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+ 天皇親政の終焉
天皇親政の終焉
 このような政治状況において、地方は酷い状況に曝される。承平・天慶の乱の底流となった、土豪や受領層の武装化が進み、有力な在地領主と化していた。また国府の押領使も暴虐を行うようになり、廃止されることとなる。
 火災や疫病も多く、藤原師輔は疫病で早くに亡くなり、また内裏は焼け落ちた。治安も悪化し、あちらこちらで闘争が絶えなくなっていた。
 この平安京の凄惨な状況から、人々は怪しげな宗教に熱狂したりするようになる。空也が出てきたのもこのころである。貴顕の救済しか行わぬ仏教勢力に対し、空也は庶民の救済を行うべく行脚したのである。
 村上天皇は結局亡くなり、天皇親政は終わりを告げるが、この間の政治とは非常に頽廃した物であった。彼らは受領の支援を受けて始めて成り立つもので、その蠕動が次の時代へと動いて行く。
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最終更新:2010年05月16日 18:12
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