第十六巻 元禄時代(児玉幸多 著)

+ 由比正雪の乱
由比正雪の乱
 1651年に家光が死去すると、その後を継いだのは長子家綱だったが、幼すぎるため会津藩主保科正之が補佐官として登場する。
 そんな中、江戸の軍学者由比正雪が、大乱をおこす計画を立てた。火事を起こし、慌てる将軍の家臣たちを打ち取る計画であった。
 ところが、いまだに理由はわからないが、この計画は漏えいする。江戸で待機していた彼の同心は捕えられ、駿府に潜伏していた正雪は自害した。
 理由は正雪の遺書からは、政治の乱れを憂い、怒る人民を代表して蜂起したとされている。だが、牢人の救済という理由があるかもしれないので、結局のところはわからない。

 国家の転覆を狙ったクーデターは日本で何件か起きた(大塩平八郎の乱、五・一五事件、二・二六事件)が、成功したものは数少ない。
 この由比正雪の乱もまたそうであるが、この乱が与えた影響は小さくなかった。幕府はこれを牢人の扱いのひどさに起因する蜂起とみた。
 牢人というのは失業した武士であり、彼らを放置すれば危険であることはだれでもわかる。しかし、幕府は彼らを放置していた。
 幕府は会議を開き、末子養子の禁を緩めるに至った。

 由比正雪の乱が起きてまもなく、次々と乱が続いた。幕府はこれらの事件を牢人によるものとして、牢人たちの名前をいちいち記録することにした。
 彼らの活動は君主への尊敬を薄めるキリスト教の思想によるものかという説があるが、結局のところはわかっていない。

(ほたるゆき)
+ 明暦の大火
明暦の大火
 江戸の町において火事は、つねに人々の脅威だった。庶民だけでなく幕府でさえも必死になる事態だ。
 だからこそ乱を起こすときは放火、と定番化されていたのだろう。
 それゆえ、江戸の人々は火事が起こらぬよう、つねに注意を払っていた。
 1654年には玉川上水が完成し、水路の通る町ができるようになった。また1655年には細かい防火令が出された。
 しかし、こうして対策を取っているにもかかわらず、火事がなくなることはなかった。

 明暦3年――1657年、「明暦の大火」と名付けられる大火事が起こる。日蓮宗の本妙寺において、供養のために焼いていた振袖が舞い上がり、寺の屋根を焼いた。
 その炎は風に乗り、瞬く間に江戸中に広がった。数日雨が降っておらず、乾燥していたためなす術がなかったのだ。
 人々は逃げるが、焼死したり、川に逃げ込んだため溺死・凍死するものが多く、火事がはじまって間もなく9600人近くが亡くなった。

 翌日になると火は弱まったように見えたが、まだ消えていなかった。火は火薬に燃え移り、再び猛火を巻き起こした。
 火が消えたあと、江戸の町を見た人々は驚いた。ほとんど廃墟になっており、火事によって異様な形になった無数の死体が転がっていたらしい。
 こんな状況下で火事場泥棒が蔓延し、このおかげで巨大な財産を築いたものも少なくなかった。
 明暦の大火での死者は不明である。しかし、少なくとも3万人、多くとも10万人ではないかと言われている。

 先ほど、この火事は寺から起きたものだと述べた。しかし、同時に放火したものがいたのだということも判明した。
 彼らは普通に捕まったものだけでなく、密告によって逮捕されたものもいた。警察制度が固まっていなかった当時、密告制によって犯人を捕らえることが多かったのだ。
 しかし、たとえ犯人でも仲間がいたことを密告をすれば、密告したものは褒美を与えられた。そのせいで、本来犯人だったものが許されるケースがあったのだから、考えものである。
 このころ江戸では、供待所(主人を待つところ)での喫煙を禁止するなどの対策が取られた。一方で、「柴垣」というものが流行し、そこでは「人々の欲望が火事を大きくした」と述べられている。

 火事の後、大雪が降った。火事の前は雨が降らなかったのに、だ。
 食べものがなく餓死するものや、寒さで凍死するものが後を絶たない。幕府は寺にお金を与えて、死者たちを供養させた。
 また、大火による米価の高騰を抑え、飢民のために安く払い下げた。また、一般物価も払い下げていたことが記録されている。

 人々の救済だけでなく、幕府は思い切った改革を行った。町においては道路の幅を広げたり溜池を作る、屋根に土を塗るなど、火の足が遅くなる工夫を凝らした。
 火消役も改められ、火事への迅速な対応ができるようにした。新しく生まれた火消役は定火消役と呼ばれ、それに続いて町火消が作られた。

 忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり)の祖父である浅野長直は、火消であることを誇りに思っていた。
 彼は家臣にも徹底的に火消の作法を教え込み、家臣もそれに従っていた。
 この主君と家臣の強い絆こそが、後に忠臣蔵を引き起こしたのかもしれない。


<補足>

○振袖
 現在では未婚女性が着用する、もっとも格式高い着物。袖が長い。
 しかしかつては、男性も着用していたらしい。

○明暦の大火
 別名「振袖大火」「振袖火事」とも言われる。その理由について。
 振袖を着た寺小姓(僧侶の補佐、僧侶の夜の相手として寺にいる美少年)に恋をした女性が、同じ振袖を作ってもらった。
 ところが寺小姓はやがて女性の目の前から姿を消し、女性はやがて心を病んで死去。彼女が着ていた振袖は、質屋に出された。
 質屋から振袖を買い取った女性が振袖を身に付けると、その振袖の持ち主と同じ年で亡くなった。つぎに買い取った女性もまた、同じ年で死亡。
 不気味なこの振袖を供養してもらうことになり、本妙寺に手渡された。
 その供養中、火のついた振袖が舞い上がった。その煙から、最初に死んだ女性の顔が浮かび上がったという話がある。
 こうして、明暦の大火がはじまった。

(ほたるゆき)
+ 旗本奴と町奴
旗本奴と町奴
 正雪のように直接的な反抗ができない人々は、他の人間とは異なるいでたちをしてみせ、それによって体制への反抗を見せた。この人々をかぶき者と言う。そのような人々はあちこちで乱行を行い、故に幕府の取り締まる所のものとなり、縁者も含め多くの者が処罰の対象となった。
 そもそも、島原の乱にて戦乱が収束すると、武を以て鳴らす武士は瞬く間に居場所がなくなっていった。その結果、彼らは悪所通いや乱行に出、また小姓との男色に走り、かぶき者へとなったのである。最初は旗本出身の者が多く、やがてそれを真似する町人も現れるようになった。
 彼らの中には、信義・侠気を重んじるという独特の価値観を有するようになる人々がいる。彼らを奴(やつこ)といい、言葉も奴詞という独自のものを使った。彼らは狼藉も度々行い、故に騒擾の原因ともなっている。
 そしてこのような文化は地方にも広まっており、各藩も禁制を打ち出している。綱吉代となると取り締まりは厳しくなり、次々に罰せられることなる。
 彼らは体制への反抗者として、庶民の間にもてはやされることとなるが、それは庶民の代弁者として形作られた偶像であり、その本質は弱者を虐する存在でしかなかった。
(Spheniscidae)
+ 江戸八百八町
江戸八百八町
 この時期の江戸の町は一気に発展する。江戸の町へ来た外国人たちが驚いているように、当時江戸は世界有数の都市であり、人口は百万に近いものであったと考えられ、そのうち半分が武士であった。
 その土地の6割は武家地であり、2割が町人地である。彼らはその職能に応じて集住し、故に紺屋町・鍛冶屋町などの町名も生まれている。明暦の大火以後の江戸町整理の後、漸次江戸の町は拡張され、その町の数は900を数えた。
 その広い町を統括するのが町奉行であり、おおよそ北と南の二つが置かれた。奉行の下には与力25騎・同心100人が従っており、それぞれ与力は裁判の補助を、同心は警察の補助を行った。同心は前科人を金で雇って捜査を行わせており、彼らは目明しと呼ばれている。
 町奉行の指令を受けて具体的に事務を行うのが町年寄であり、その元で町名主が実際に町人たちへ命を伝えた。町名主は1つの町に1人とも限らず、数人いる町もあれば、月行事町と呼ばれる、輪番制の町もあった。
 町人という言葉は、広義には町全体に住む者を指すが、実際はもっと意味はせまい。そもそも江戸の町に住む人々には、土地を持つ"地主・地主の命を受けて家賃徴収等を差配する"家守"・土地を借りて家を建てた"地借"・家も借りる"店借"と分けられる。狭義の町人はそのうち前者ふたつを指す。家の貸し借りの際には五人組や地主の裁可を必要とし、そのために身元は充分調べられた。それゆえに不審なものは入り込みにくく、治安の安定化を齎した。
 他、治安維持のためには辻ごとに辻番が置かれたが、これは次第に名目化して役に立たなかった。また火災防止のために自身番というのもおかれ、これは家主の輪番制からやがて雇用するように変化する。
 町に於いては、間口の長さに応じて税が賦課され、それは地主・家守が対象となった。彼らは税を払う代わりに公民権を認められ、税を払わぬ地借や店借は権利も認められなかった。
 この町人たちの元で働くのが、奉公人である。この主従関係はかなり重いものであり、その間での争いは常に主が優先された。
 江戸の町は常に水が不足しており、それゆえ水道が通されていた。中でも玉川上水は重要な役割を果たしているが、その開削の由来は数説あって一定しない。また、この水道の為に地脈が止められ、火災が呼び起こされるという風聞から上水が廃された所もある。
 町人として一人前になるには、時間が非常に掛かるものであり、それまでは妻帯すら許されず、家を構えることも許されなかった。
(Spheniscidae)
+ 夜の世界、新吉原
夜の世界、新吉原
徳川家康が江戸に幕府を開いて以来、江戸八百八町、全国一の城下町が形成されていき、その中には旗本や町人が遊ぶ傾城屋、つまり遊女と遊ばせる店も方々に開業していた。
傾城屋を営んでいた庄司甚右衛門は、彼の店が江戸城普請の為に召し上げられるに際し、江戸中の傾城屋を1箇所に集めるように請願して、これを許された。こうして江戸南東部の芦の生い茂る湿地を開いて出来たのが葭原、字を改めて「吉原」と呼ばれる遊郭である。またこの甚右衛門は吉原で「おやじ」と呼ばれ、庄司の家は代々吉原の町名主を勤めた。
寛永19年、ここで働いていた遊女達の記録がある。容姿良く、歌の上手く、扇を持って一節舞う最上の遊女、太夫が75名、それに次ぐ格子が31人で、これは京都では天神と呼ばれた。その下は端、端女郎、局女郎などと呼ばれるのが881人に上ったという。その他にも手伝い役の「かぶろ」や遊女の指南役である「鑓手」など多数の者が働いていたようだ。
さて1656年、吉原を御用地として召し上げられる事が通達され、吉原の傾城屋・また遊女を揚げて遊ぶ揚屋は、浅草田んぼの一角、日本堤のあたりに移転することになった。これに際し幕府は、1万5千両を与え、夜間営業を許可、町役の免除、また江戸中にあった、吉原の商敵であった風呂屋を悉く取り潰すなどの特典を与えた。こうして明暦の大火後1657年に吉原の店々は移転し、新吉原として再出発した。
しかし、余りに町はずれに位置する新吉原は交通の不便の為、江戸町内の手近な茶屋等に町人の客を取られ、加えて武家財政の困窮が影響して衰微し始めた。
そこで新吉原は町奉行に訴え出て、江戸中の茶屋を新吉原に移転させた。これら官許の遊郭以外からやってきた遊女は張りが無いので、他の遊女と差別して散茶女郎などと呼ばれた。このころからは、この散茶女郎などの安い遊女が増え始めた。
さて、この遊郭で遊ぶには多額の金銭に加え、男の器量、そして暇が必要であった。
最初に吉原に入ったときは最低10両の祝儀を持っていかねばならなかったし、2回目以降も太夫であれば2,30両の心付け、その他の店員にもそれぞれチップを必要とし、年末には4,50両に及ぶ贈り物をしなくては相手をしてもらえなかった。
これだけ金銭を費やしても、遊女達を楽しませるだけの器量が無ければ見向きもしてもらえず、また吉原へ行く前には前もって茶屋に通いつめて、女の扱い方を学ばねばならなかったのである。
多額の金銭が流れ、華々しく見える吉原や京都の傾城屋街島原であったが、そこで働く遊女達の大半は貧苦の為に身売りをしてきた者たちであった。彼女らは家族に金銭の渡る代わりに働いているのである。遊女達が自由になれるのは、なじみの客に身請するときだけであった。しかし大抵はそんな幸運に巡り合えるでもなく、太夫になっても次第に客も離れてゆき、格子、局と身を落とし、暗い生活を送るのであった。
(hanaze)
+ 殉死の禁
殉死の禁
 4代将軍家綱は、病弱であったが穏和な性格であり、また自制のできる将軍であった。その元、松平信綱・保科正之ら老中たちは集団合議で政治を行っており、これが機能した15年は日本史上珍しい時代であったと言える。またこの家綱治下では災害が続発し、その対応に幕府は追われる。また旗本・御家人の窮乏は次第に酷くなっている。
 家綱が出した施策としては、殉死の禁止がまず挙げられる。この当時、主君に殉じて切腹する殉死が流行を見せており、家綱はこれを抑えようとしたのである。既に一部の大名は殉死禁止令を出していたが、それが幕府の法として正式に定められ、堀田正信が家綱に殉死したことを以て江戸時代の殉死は断絶する。また人質として重臣の子弟を江戸に置く制度も緩められた。既にこれらのことで忠誠を確かめる必要はなかったのである。
 一方旗本の困窮は酷く、その身分を売るものまで現れていた。幕府はこれを禁止し、代わって役料を給付している。これは職務に付随して与えられる米のことであり、遂行に多額の支出を要する職務に多く支給された。
 家綱治世後半は、有力者の死去に伴って酒井忠清が大きな力を握るようになる。その権勢故に彼は"下馬将軍"とさえ呼ばれた。
 家綱には子供がいなかった。それゆえ、彼が危篤となると次代の将軍が問題となった。ここで忠清は有栖川宮幸仁親王を立てようとしたが、老中に反対され、弟・綱吉が選ばれた。この忠清の意見は、既に将軍が徳川一族でなくともよくなったという事実を示しており、つまり幕府とは将軍よりも機構そのものに重点が置かれていたのである。
(Spheniscidae)
+ 東廻りと西廻り
東廻りと西廻り
 この時代、町人に対して倹約令が度々発布されている。これは則ち、町人が華美に走りがちであったということを示しており、つまりは都市での消費が増加していたということを表している。
 このころあった寛文の大火では、人々は家財を地面に埋めるという形で防火を図り、故に被害はそれほど大きくならなかった。またこれに伴って、将軍の親衛隊に当たる番士に休暇が与えられるなどされる。これは、幕府の官僚機構が整ってきたことを良く表している。また、このような大火は江戸の町における最大の消費であり、幕府らは大きな出費を迫られることとなる。
 江戸の繁栄に伴って、江戸は多額の物資を要することとなる。これに伴い、上方から船で物資を運ぶことが行われるようになった。これは、菱垣廻船・樽廻船と呼ばれ、大坂を中心として大きく栄えた。幕府はこの海運に対しても不正を禁じる法を出しており、これは商人の協力もあって徹底、結果として海運は安定した運送として確立される。
 このような海運の拡大に大きな役割を持ったのが川村瑞賢である。彼は伊勢の百姓に生まれたが、その才幹によって次第になりあがり、明暦の大火の際に木曽の材木を大量に買い付け、江戸へ売りさばいたことで大きな利益を得て大商人となった。
 その彼に目を付けたのが、財政が窮乏しつつあった幕府である。幕府は遠隔地の天領からの年貢米運送に困っており、その改革を行わせたのである。瑞賢はこれに応えて、東東北から銚子・三崎を経由する東廻り航路、西東北から日本海・下関・大坂を経由する西廻り航路を開拓した。これによって、大消費地である江戸・上方と生産地である地方とが直結されることと為り、その結果として日本全国が一つの経済領域として成立した。
 都市での莫大な消費は、生産の発達を呼び起こした。それに伴う運送の発展は、元禄時代を支える一つの大きなファクターだったといえる。
(Spheniscidae)
+ 天下の台所、大阪
天下の台所、大阪
 大坂、とくに中之島・北浜は、日本経済の心臓だった。
 ドイツ人医師ケンペルによると、大坂は娯楽の町であったことも述べられている。
 この地が幕府の直轄地になると、幕府はただちに大坂城の修復をはじめた。10年を費やす大事業だった。
 ここに赴任し、城中の警護、および西国大名の監視を行うのが、大坂城代である。
 後に大塩平八郎がこの城を占拠しようと挙兵したが、失敗。大坂城の警備の強さが証明されることになった。

 この地大坂の民政を仕切っていたのは、大坂町奉行と呼ばれる人だった。
 ただし、事実上支配していたのは惣年寄と呼ばれる人々だった。彼らは糸割符なども務めたが、これは慶長年間に糸割符の役を務めた町人が引き継いだかららしい。
 この町人から選挙によって町年寄が選ばれ、彼らを補佐する役として町代が作られた。
 町代は公事場の手伝いをしたものの、その仕事が増えると専任の惣代が作られるようになる。

 1634年、大坂に住む人々が払う税(地子銀)が免除された。
 同じころ、大坂は浮き沈みの激しい地として知られていた。
 貧しい人がいる一方で、商人として栄える人々もいた。ではこのような人々が携わる商業は、どのように発展してきたのか。

 まず、蔵屋敷。ここは各藩の物資を保管する場所である。ときに町人にはここの管理を任されることもあった。そして、それを藩の了承を得たうえで販売するのである。
 また、町人の中には大名に対して金貸しを行っているものがいた。
 そしてなにより大きいのは、蔵米の販売を任されていたことだろう。

 こうして大坂は天下の台所として認知されてきたのだが、これに対する反論がある。
 大坂が市場経済の中心だったという証拠は、わずかな期間に限定されたものしかない。そこからは江戸もまた大市場になっているので、江戸と大坂の2つともが中心的市場だという意見である。

 だがそれでも、日本中の生産物が大坂に集められていたことには変わりない。
 結局のところ大坂を天下の台所と呼ぶのは、この形態こそがゆえんではないだろうか。

(ほたるゆき)
+ 犬公方
犬公方
 徳川綱吉は、戌年生まれの将軍である。
 綱吉は就任してからまもなく、越後騒動と呼ばれるお家騒動についての決断を改めた。
 綱吉は民の苦痛を減らし、幕府自身も倹約を掲げるなど、家綱とは対称的な政治を行った。
 庶民だけでなく大名に対しての取り締まりも厳しくなり、緊張した状態が続くようになった。
 そうなると、大名たちも安息を得ることができなかった。いつ、だれの身になにがおこるかわからないからだ。

 1683年には厳しい制限令が出され、服だけでなく輸入品にも制限が加えられた。
 江戸市民には評判が悪かったが、もし彼らが贅沢をすると、以下のような弊害が予測できる。

 江戸市民が裕福になる。
⇒武士がたくさんお金を使うから。
⇒武士が農民に対して厳しい搾取をするようになる。

 だからこそ、倹約はよいことだという意見もあった。江戸市民の不満が、すぐに悪政に繋がるとは限らないのだ。

 また、ちょうどこのころ、大老の堀田正俊が刺殺される事件が起きた。理由は複数あるものの、正俊の方針が受け入れられなかったからと言われている。
 将軍の綱吉自身も彼を疎んじていたらしく、この事件後、大老を置かなくなった。自分の方針を貫くためだ。大老の代わりに台頭するのが、側用人と呼ばれる人々だった。
 側用人の中で有名な人物としてあげられるのが、柳沢吉保である。彼は本来 親藩の土地か、幕領として定められていた土地を受け取るなど、ずいぶんと寵愛されていた。

 これだけでも綱吉の個性がずいぶんと発揮されているが、他にも特徴的なことがある。外様大名や旗本を幕府の役職に就任させたことだ。
 じつはほかにも、小唄・踊り・音曲などの芸能を、家臣にさせたり自ら演ずることもあったらしい。ドイツ人医師ケンペルも、その犠牲になっている。

 これだけでは済まない。ストッパーになる存在がいないのをいいことに、自由気ままに改易・減封を行った。
 家綱の時代で減っていた改易・減封は、家綱の時代に大増加を迎えたのだった。

 そして極めつけは生類憐みの令である。家綱の考えがそのまま反映されたこれは、彼が死ぬまで続いた。
 これを続けるために必要な費用は、江戸をはじめとする関東の町人が負担させられることになった。

(ほたるゆき)
+ 湯島の聖堂と貞享歴
湯島の聖堂と貞享歴
 徳川綱吉は非常に学問好きな将軍だった。林信篤ら儒学者に命じて学問(主に儒学)が広く普及するようにしたのも彼だった。
 家綱が朝廷の崇拝や、親孝行に力を入れたのも、儒学の影響と切り離すことができない。
 家綱が朝廷に対して忠誠を誓ったためか、家光時代までの緊張した朝幕関係は回復しつつあった。6代将軍家宣のときには、さらに回復する方針が固められた。

 このように書いてみると、まるで家綱の時代から学問がはじまったようだが、そうではない。すでに家康が藤原惺窩を招いて、彼の門人である林羅山を儒官にしているように、家康からすでに学問ははじまっていた。
 この羅山は家光にも仕えていた。1630年には尾張の徳川義直が、彼のために孔子堂を建てている。釈奠(孔子をまつる儀式:せきてん)が翌年に行われてから、儒学者の地位は高まるようになった。
 1633年には光地院崇伝に任されていた「武家諸法度」や外交文書のことが、林家に任されるようになった。

 1688年、孔子堂(改造され、聖堂となる)が上野から昌平坂に移された。
 上野にあった寛永寺から遠ざかったため、仏教と朱子学の関係はここで切れた。理由は、聖人を祀るのに仏の近くではまずいからだという。
 これももちろん綱吉の指示によるものだ。綱吉が学問好きであったことがわかるエピソードである。

 また、学問好きの綱吉の指示により、たくさんの出版物が世に出回った。
 それに触発され、各地の大名も学問を志すようになった。結果、たくさんの出版物が完成した。徳川光圀の、『大日本史』が有名である。
 彼が藩主を務める水戸藩では、これ以外のものとしては天皇を支持する書物がいくつも書かれた。これが幕末になって、尊王思想を高める原因であったと言われている。

 また、学問が広まったことにより、学者が多く産出される結果となった。
 武功によって出世できないので、学問によって出世を狙ったのだ。
 まとめると、以下のようになる。

 朱子学者:山崎闇斎(垂加神道を開く)
 陽明学者:熊沢蕃山
 古学者:荻生徂徠
 古義学者:伊藤仁斎

 またこの元禄時代、非常に出版が盛んだったため、学問もまた盛んになったと考えられる。
 江戸以前から印刷については変化してきており、慶安ごろからは木版印刷がほとんどである。
 日本語には漢字が多いことや、挿絵の流行により、活字印刷が厳しくなりつつあったのだ。

 ところでこの元禄時代、貞享暦という暦法が採用されることになった。安井算哲が提唱したもので、当時のものとしては非常に正確だった。
 時差などの、地理的な状況が計算されていたためだと思われる。

(ほたるゆき)
+ 忠臣蔵
忠臣蔵
元禄14年3月14日、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、江戸城殿中にて高家旗本の吉良上野介義央を切りつけた。石高は低くとも、名門たる高家の吉良の驕った態度が怒りを買ったようであるという。
浅野長矩は殿中抜刀の罪で切腹となり赤穂藩は改易となったが、一方の吉良家には何の咎めもなかった。

これに憤る急進派の遺臣達は、すぐさまの仇討を唱えた。しかし赤穂で藩政を見ていた筆頭家老大石内蔵助は御家再興のチャンスを伺うべきだ、と抑え、方々に御家再興を嘆願しつつ時機を待った。彼は赤穂城の引き渡しが済むと京都山科へ移住している。
江戸にいる急進派堀部安兵衛らは幾度となく内蔵助に敵討ちの催促をする手紙を送っていたが、穏便派の内蔵助も、浅野長矩の養子だった浅野大学長広が広島藩に永預かりとなったことで御家再興の望みが断たれると、もはや討ち入りのみ、と思い急進派との対立も解消された。

これまでに討ち入りのメンバーから脱落した者も多く、300余名の家臣中、130名あまりが討ち入りに名乗りを上げていたが、最終的に47名となった。
彼らは翌15年12月14日に吉良屋敷に討ち入り、手向かいする者16名を切り捨て、23名を傷つけて吉良上野介を首級を挙げ、そのまま主君浅野長矩の眠る泉岳寺へ詣でた。そこから彼らは細川・松平・水野・毛利の4家に留め置かれた。
そして、義ではあるが、私の論である。長矩が殿中で抜刀し罰された事について、吉良氏を仇として公儀の許し無く騒動を起こした、という荻生徂徠の進言をとった幕府評定所の判決により切腹を申しつけられた。

彼らの行為は江戸期よりその善悪を論ずるもの多々あったが、綱吉犬公方の治下、吠えたてる犬にも逆らえぬ、抑圧された気分の民衆は、法を破ったという非難以上に忠義の武士達を慕った。
(hanaze)
+ 窮乏する財政
窮乏する財政
 まず、以下の表を見ていただきたい。財政に関するものである。

 ○=財政よし △=財政が傾きはじめる ▽=財政が危機

家康 ○:貿易、金銀の発掘が盛ん。
秀忠 ○:非常に多くの財産あり。
家光 ○:日光東照宮を造り、11回もお参りするが、破たんはしていない。
家綱 △:明暦の大火により、貨幣が溶ける。また、その後処理のため、莫大な資産を投じる。
綱吉 ▽:諸大名への御なり・下賜品の増大、寺院への莫大な援助。

 これより先はこの章の主題から外れるので、割愛する。
 この表を見ると、5代将軍綱吉が財政窮乏の原因であるかのように書かれている。
 綱吉時代、幕府の財政が窮乏する原因は、以下のような4つが理由が大きい。

1、諸大名への御なり、下賜品の増大。
 ∟近親者を支援して救助することや、下賜品の増大を頻繁に行った。

2、役料制の復活。
 ∟役料制とは、主君から知行をもらい、それに応じて軍役を負う制度。これにより、基準となる家禄以下のものにも、定額の給与が与えられた。

3、寺院への援助。
 ∟綱吉はあらゆる宗派に敬意を示し、寺社の救済などに当て、たくさんの資金を投じた。

4、悪貨の鋳造
 ∟金銀の量が減っているため、貨幣を造りなおして量を増やした。勘定吟味役の荻原重秀が将軍に勧めたことによる。
  これによりインフレが起こり、金融上の動揺が起きる。

 しかも、この状況において災害が連続で起こった。1707年のことだ。東海道から四国・中国に及ぶ地震、富士山の噴火である。
 勘定吟味役荻原重秀はこれに対して資金を投じたと言われているが、実際には横領したのではないかといわれている。
 彼の存在もまた、財政窮乏の原因の1つかもしれない。

 幕府が財政の破たんを目前にした1708年、綱吉はこの世を去った。

(ほたるゆき)
+ 元禄模様
元禄模様
 元禄時代、倹約の傾向であるにもかかわらず、女性が身を飾る文化が生まれつつあった。
 たとえば帯。本来帯は前で結ぶものだが、このころからは後ろで結ぶことが流行した。
 このように、元禄時代には女性がある意味最も栄えた時代だと考えられる。絵画史上で、女性が最も多く題材にされたのもこの時代である。

 また、男性の中にも飾りを行った人もいる。たとえば、若衆という少年。彼は男色の性行為において受け手になる人物である。
 この時代、芸能者の多くは芸能よりも、売色の仕事をすることが多かった。相手を誘うので、飾りは一生懸命やらなくてはいけないのだ。

 槍や刀の時代はおわり、お金が力を持つ世の中になった。建築も入札制になり、奉行に渡す礼物がなければ、ほぼ落札できない。
 このシステムこそが、幕府の財政を窮乏させていると新井白石は述べる。通常は安くできる工事も、このような原因から、過剰な資金が必要になったからだ。
 幕府はたくさんの資金を散布しなくてはならず、金座・銀座は貨幣をたくさん鋳造した。結果、インフレーションが起きた。
 幕府の財政危機は、目前に迫っていた。

 幕府と結びついていた大商人たちは次々と没落した。また、この時代、大きな商人が没落していることが明らかになっている。
 大名にお金を貸し、踏み倒されるからだ。大名たちも余裕がなくなり、返済ができないのだ。
 損をした町人の中には、別の大名に貸して元をとろうとするものもいる。そういった人々は、またもや踏み倒されて破産する。
 大名ならたくさんお金を持っているだろうという考えこそが、彼らを破滅に至らせるのだ。

 金座や銀座が貨幣鋳造によって安泰するに対して、呉服屋は悲惨な状況下にあった。
 今まではオーダーメイドで服を作っていたのに、倹約の流れのせいで注文が減り、店をたたむものが多かった。
 ところが、のちに財閥となる三井は違った。
 堅実な方法で和歌山の徳川家に大名貸しを行い、両替や、新田開発を行った。こうした用心深い政策のおかげで、三井は潰れることなく、今日まで残っていると言える。

 ところで、このころ、農民の税が重かったのはご存じだと思う。
 だが、一方で、商人たちの税は実質0だったことはご存じだろうか。
 この体制に異を唱えた人物はいたが、真摯に受け止めたものは幕府にはいなかった。これにより、商人たちは力を持つようになる。
 彼らに大して税をかけたのは田沼意次であり、株仲間の結成を許した。特権を与える代わりに、税をとったのだ。
 この体制こそが、農業の発達妨害・消費の異常発達を促進し、元禄の華美な文化を作り出したと考えられる。

(ほたるゆき)
+ 絵の世界と侘の境地
絵の世界と侘の境地
 桃山時代に全盛を極めた狩野派も、狩野探幽以降は下り坂となる。一方で、土佐派や琳派が勃興していくことになる。また布に自由な柄を染めつけられる友禅がこの時期に現れ、大きな流行を見た。
 また浮世絵もこの時代に出現する。肉筆で描かれ高価だった絵は、こうして版画となることで数が出回るようになり、庶民の手にもわたるようになる。
 藝術がこうして庶民の間に広がるのはまさにこの時代であり、藝術の面ではこれまでとは異なった時代が来たと言うことができるだろう。
 またこのような動きは歌の世界でも見られた。これまで古今伝授の伝統が否定され、自由に解釈され、また歌われるようになったのである。こうした動きの原因の一つには、印刷技術の向上に伴う書籍出版の広がりが挙げられる。
 このような状況の中で誕生したのが芭蕉である。彼は日本の古典や唐詩に親しみ、また参禅もしている。そうして俳諧の中から人生の究極を掴みだそうとしたのである。彼は幾度も旅に出ており、その中で人生を旅そのものと捉え、そこに自己を捕えんとしていく。
 芭蕉の書く旅行記は芭蕉自身の創作の手が入っており、全てが事実ではない。またその態度は、現実の生活の中に風雅の世界を見出すにすぎぬもので、その点では現実逃避的である。時代の圧迫に対して、芭蕉は現実も変化する物々の一つと断じ、その中で普遍の真理を求めようとしたのである。
(Spheniscidae)
+ 一代男と曽根崎心中
一代男と曽根崎心中
 この当時、三十三間堂では端から端に矢を放つ通し矢が盛んであり、一日で何本通すかが競われた。これと同じくして一日で俳諧を何句詠むるかということ競われ、これは井原西鶴が一日で二万句詠んで決着となった。
 この西鶴が才を尤も顕著に示したのが、小説である。彼が最初に書き始めたのは好色物と呼ばれる、男女の情を描いたものであった。この中で西鶴は、人の世が思いがけぬ転回をすることを、見事に描きだしている。
 また西鶴は、武家物・町人物も書いているが、特に町人物の『胸算用』では才智では如何ともしがたき社会を描いており、西鶴の文学性を示す。
 この時期、浄瑠璃も流行を見せる。とりわけ、近松門左衛門が脚本を書き、竹本義太夫が人形操作をした際には大きな評判となった。彼らは最初竹本義太夫を座元としたが、後に竹田出雲が代わっている。
 近松の描くものは人情と義理の相克が表に出ており、中でも世話物と呼ばれる、人間の心情に主題を置いた作品群は評価が高い。
 近松はまた歌舞伎の作品も書いている。戦国末の女歌舞伎に淵源を持つ歌舞伎は、風俗取り締まりの影響でこの時期には大人の男が演じる野郎歌舞伎となっていた。歌舞伎では坂田藤十郎や市川団十郎が名を馳せている。
 この浄瑠璃・歌舞伎のような、一般庶民が広く楽しむことのできる藝術の誕生が、まさに元禄時代の特色だったということができるだろう。
(Spheniscidae)

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最終更新:2010年07月18日 19:55
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