+ | はじめに |
はじめに
1954年の歴史学会は土地制度史に取って大きなものであったと言える。この年、太閤検地について討議が執り行われ、その中で封建社会の特質をはじめとした新たなもんだいが噴出したからである。 このころ、農村での史料調査が各地で行われ、それと共に農村史研究が広く行われるようになっていったのである。 この巻で扱われるのは、太閤検地以降の1世紀における、農民と大名の動きである。 (Spheniscidae) |
+ | 小百姓 |
小百姓
1684年、駿河国駿東郡にて人別帳提出が行われた。それに先立ち、名主の与惣左衛門は村の農家の戸主を書きあげた。そこには名主の譜代下人も数多く記されている。譜代下人とは、主人に農地・農具を借りて使役される人々のことで、売り買いされるものであった。彼らは名主の屋敷に澄んでおり、代々名主の下人として働いている物であった。名主から田を分けてもらって実質的に自分のものとして耕作する他、徭役として、名主の田畑の耕作を行ったのである。 従来より名主は年貢の納入に困った農民から土地を買い、そこをその農民に代わって名主が耕作するということが行われていた。しかしこのころから状況が変わる。名主が土地を抵当として農民に金を貸し、農民はその土地から取れた生産物を返済として名主に払う、という質地小作体制が始まったのである。この結果、名主は下人を集めて耕作経営する必要が無くなっていった。 さて、この時代の耕作形態を、加賀藩内、加賀国能美郡と越中国砺波郡の比較から見てゆく。明暦年間から延宝年間の間に、砺波郡では1人当たりの耕作可能面積が1反ほど増大してるのに対して、能美郡ではむしろ1反ほど減少している。元来より砺波郡よりも能美郡の方が生産力は高いが、これはそもそも能美郡が砺波郡より単位面積当たりの生産が多いということ、能美郡がより集約的な生産を行っていたこと、用水維持費などの諸経費が能美郡では諸経費に繰り入れられ、砺波郡では給飯米に入っていることが挙げられる。 この様相から、砺波郡では自立性の弱い農民が労働力であり、能美郡は自立性の高い農民が労働力であったことがわかる。前者の農民とは、下人や傍系家族を多数抱えて経営されるもので、家父長的地主である。一方で能美郡では小農による生産が中心となっている。家父長的地主のうちから下人らが独立してゆき、解体した結果と言える。これは明らかに一つの夫婦を中心とし、直系親族のみを構成員とする農民と言える。 家父長的地主に隷属する小百姓は様々な形で独立を目指していた。彼らは主に庄屋の権限削減――小百姓への課役転嫁阻止と、給人の搾取軽減、農民逃散による年貢転嫁阻止があり、小農の要求とは大きく異なる。 このような状況から小百姓が自立し、独立性を高めた能美郡的小となるには、生産力の発展を要し、それゆえ長い期間を要した。畿内では早くよりその動きが見られるが、地方ではこれが遅れている。太閤検地は小農の支配を前提としているが、その実は家父長的地主制との妥協の中で行われざるをえなかった。 (Spheniscidae) |
+ | 太閤検地 |
太閤検地
慶長年間に行われた検地では多くの最下層農民が記録されているが、寛文年間となるとその多くが名主のものとなってしまっている。これは、慶長の検地が小百姓の持つ地を、その百姓の名請地として記したからだ。しかしその生産体制は未熟であり、それゆえ再び名主のものとなった、といえる。 さて、中世の畿内では領主―名主―作人という重層的な土地所有関係があり、それを職の体系と呼んだ。中世は主にこのような土地体制であったが、末になると名主が領主職を買い取るようになってゆく。ここに作人から生産物を受け取る権利、得分権のある職が統一され、職体系が否定されるようになるからである。これを一職支配とよび、これは太閤検地の基礎となってゆく。 戦国時代末というのは、この土地所有の方向性を掴み封建制の基礎を築くのが誰か、という時代であったと言える。そしてそれを成し得たのは畿内直轄化を成し得た秀吉である。秀吉は太閤検地によって、一職支配を全国に広め、耕作地とその耕作者を確実に捕えたうえで年貢を耕作者から直接取るようにしたのである。これを"作合の否定"といい、家父長的地主が中間搾取を行うことを否定した。また、田畑はそこより取れる年貢によって記されるようになり、これによって石高制が成立したのである。また農民を耕作地に縛り付ける――農民身分へと固定するという側面もあり、地主は農村から独立して武士化するか、農民に押し込まれるかの二者択一となった。 この検地に対抗すべく、地主は被官百姓に対して、支配権存在を誓約させるなどの抵抗を示す。また後進地域ではこの家父長的地主制の結合から国人勢力が形成されていた。それゆえ検地への不満は国人連合の反感を買うことになる。 検地はまた、自立不能の小百姓にもぶつかることになる。この場合、検地では分付百姓とされ、耕地主を分付主、耕作人を分付百姓とした。その表記故、検地帳の上から百姓の階層を見出すことができる。具体的に関東地方の検地帳を見てみると 1.分付主とのみ記され、主作地を持つ 2.分付百姓とも分付主とも記され、主作地を持つ 3.分付百姓と記され、主作地を持つ 4.主作地を持つとのみ記される 5.分付百姓と記され、主作地を持たない 6.検地帳に記されぬ下人 の五種が存在し、これからは二つの百姓階層が見出せる。則ち、6から5、3、4と進む小百姓であり、もう一つは2から1へと進む地主の領主化の流れである。 この状況に対し、小百姓もまた逃散などの形で抵抗を繰り返しており、それは不作地を生んだ。この激しい対立の中から、年貢徴収体制を築き上げるのが江戸幕府の方策であるが、これは2点の重要な原則があった。則ち、一つは領主化の停止であり、一つは小百姓の自立化である。これは中間搾取層の排除が目的である。 そしてこの検地による記録は事実、小百姓の自立は進んでいる。また名主の領主化は完全に否定され、以後農業経営に専心してゆく。 畿内の検地では、小百姓の自立が次第に進んでいき、その結果として家父長的地主の没落が進んでいる。検地はこれをさらに促してゆく。その一方で土地を集積してゆく地主もあり、必ずしも小百姓の自立は順調とはいえない。 また畿内では農村の荒廃が進んでいるが、これは年貢の取り立ての厳しさがあり、また綿作の発達があった。綿作の発展は小百姓の自立を阻害し、綿商人とのつながりのある家父長的地主の経営維持に寄与していた。この時代において家父長的地主は、譜代下人に対して土地を与え、そこから収奪を行おうと試みたのである。また、夫役負担強化は、家父長的地主がその負担を小百姓に対抗するという形で行われており、その為に小百姓の自立は阻害される側面があった。地主は下人に土地を与えることで夫役を下人に転嫁し、その点で小百姓の自立は妨げられた。しかし与えられたこの土地は小百姓自立にとって重要な橋頭保であり、17世紀初めに居たって小農自立を成し遂げるのである。 (Spheniscidae) |
+ | 地方知行 |
地方知行
小百姓が自立すると、領主になるのが本来当然だった。しかしながら、ここで語られる百姓たちは、領主になれなかった。 それは、 兵農分離 の政策が強化されたからである。 本来武士とは、武装農民集団であった。しかしこの政策によって、農民は農民以上の何物でもなくなってしまう。本来領主になるはずだった 家父長制 的地主は、成長を規制される。 こうしたゆがんだ成長をしてしまった地主を、名田地主(みょうでんじぬし)と呼ぶことにする。大名領において彼らは役家と呼ばれ、 知行 の基礎になっていたらしい。
17世紀前半において、多くの豪商(=大商人)は大名から証文をもらっていた。証文には税の免除や、領内での自由商売の許可などが記されている。
じつは当時、大名の市場はただ1つではなかった。小市場がいくつもあり、それぞれが全国的な商業と結びついていたのだ。 すると、証文を与えられた商人がひろく商売をする場合、小市場が彼らに干渉すると困ったことになる。だから大名たちは、商人が商売できるように保証する。 商人にとっては、まさしくこれが特権だった。
大名領の市場がこうだった理由は、地方知行(じかた ちぎょう)が大きく関係している。
これは、大名の家臣(以下、給人とする)が知行をその地方で給与される方式である。つまり、米を農民から受け取る方式。 これには2つの内容があり、
1つ、知行地がどの村にあるどの土地と指定される。
2つ、それだけでなく、百姓まで指定される。
やがて知行制が俸禄制――大名から米を受け取る制度になっても、前者は変更されなかった。
このことから、問題になるのは後者だとわかる。 給人は、不法をしてはいけないという決まりしか課されていないのだ。つまり、農民支配はほとんど給人に任されている。 なぜこの形態がとられているのかというと、農民を大名課役に利用するためである。 それは戦争だけでなく、城の新築・修理、そして治水工事まで含まれる。 つまり、労働力として農民を利用するためだったのだ。
しかし、労働力を提供しなくてはならないわけだから、農民にとってそれは大きな負担だった。
農民たちはありとあらゆる手段でこれを逃れようとした。 一方大名も、労働力がなければ大名課役を消化できない。だから、こちらも必死である。 大名たちは農民の調査を行い、徹底的に人数を調べるのだった。
この調査結果から、役家についての説明がある。役家を掌握するための制度が太閤検地であるということだ。
役家は夫役を負担する存在であるが、彼らに付いて負担を免れている人を無足人と呼ぶ。役家は無足人を支配している。 農村においてこれは太閤検地以前から一般的な体制であったが、太閤検地はこれを改めて作り出したに過ぎない。 だから、太閤検地による日本社会の変化は、それほど大きくなかったのではないだろうか。 なお、これによって1つの説が浮かぶ。 名寄帳 は、ナヨセではなく、土地を 名(みょう) ごとに管理したミョウヨセではないかという説である。これを、役家体制論という。 ただ、どちらの場合も無足人が支配されているという事実に変わりはないのではなかろうか。
名寄帳には
名請人
を基準として土地がまとめて記載されている。
これは、年貢計算の簡略を図ったものだ。これによると年貢が村単位にかけられることになる。こうして村役人たちが農民から年貢を集める制度を、村請制という。名寄帳箱のための帳簿である。 以上より、名寄帳は農村の実態をよく表しているといえる。 が、役家体制論には賛成しきれない部分があると筆者は言う。以下が理由だ。
1つ、これでは
労働地代
がそれほど重要に考えられない点。主な地代は米であるから、ここから社会関係を見るのはむずかしい。
2つ、農政の基本台帳は検地帳である。これに対して、村請のためだけの名寄帳では権力者の性格を見ることは不可能であるという点。
ここまで見ると、役家という農民は家父長的存在であったと言える。
そして無足人は小農民、あるいは「小農」である。 彼らを支配したり、地方知行によって家父長制を強めることは、彼らの自立を妨害することになった。 しかし、自立農民の数が多ければ多いほど、年貢の量は多くなる。よって、無足人の自立妨害は大名たちの首を絞める。 この矛盾は社会的混乱を招き、17世紀半ばまで続くことになった。
矛盾をはらんでいながらも、地方知行制は多くの大名がとっていた政策だった。
給人たちはこの機会に、なるべくたくさんの年貢を農民から取ろうとした。再生産に必要な部分以外を取るという、激しいものだった。これを、全余剰労働の搾取という。 結果として農民たちは没落、あるいは逃亡する。どちらにしても幕府や大名の年貢集めは難航することになった。 これについての詳細は、『『不法』の支配者』にて。
給人は搾取した年貢から、必要経費を得ていた。年貢を売る場所が、小市場である。
見てわかるが、俸禄制と違って給人と大名の経済生活が完全に分離している。 この時代、大名の財政と給人の財政は、完全に独立したものだったのだ。
(ほたるゆき)
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+ | 御家騒動 |
御家騒動
栗田元次氏の研究によると、慶長年間から貞享年間の間に、内訌(内乱)によって改易された大名は9人らしい。 改易とは大名などの武士が受ける刑罰のことだが、内乱、つまりお家騒動を起こした場合この罰を受けなくてはならない。 先ほど、9人の大名が改易されたと述べた。そのうち8人が外様大名(関ヶ原の戦い以降に徳川の家臣となった大名)である。この時代のお家騒動を調べてみると、外様大名が起こしたものが非常に多い。 それはなぜなのかを、この章では見ていくことにしよう。
そこで、数々のお家騒動の共通点を上げると、以下のようになった。
その1、大名が色欲におぼれたり、幼すぎるなどの理由で政治能力が欠如していた点。 その2、特異な才能によって登用された人物(=出頭人)が、昔から仕えていた家臣たち(=譜代直臣)と対立した点。 その3、お家騒動の判決が、すべて幕府に任されていた点。つまり、大名にはお家騒動を鎮める権利がなかったという点でもある。 その4、上層部が家臣たちの経済状況を理解しておらず、ことの重大さに気づいていなかった点。
生駒騒動
の観点から整理してみると、以下のようになると予想される。
生駒藩は、俸禄制(=年貢を領主がすべて集め、そこから武士に給料として渡す制度)を自分の領土で施行しようとした。そのために、出頭人を登用した。 結果として譜代直臣たちの反発を受け、生駒騒動へとつながった。 これが、 地方知行制 から、俸禄制に切り替えようとした結果だと言える。
今度は、
伊達騒動
を見てみよう。
この事件の原因もまた、先ほどあげた『その1』に当てはまることがわかる。伊達騒動をもう少し掘り上げると、財政窮乏であることがわかる。 では、この財政窮乏の理由はなんだったのか。
まず、大名の石高には2種類ある。表高と内高である。表高は負担の際基準になる石高で、内高は実際の所有高である。
この内高の収入中から家臣に払う必要があるのは、およそ8割。さらに、幕府への負担も圧し掛かる。 このような事情から、伊達家はつねに赤字だった。
財政危機の対策として行ったことは、新田開発だった。
これが結果として自立農民の数を増やしたことは、評価されるべきだ。さらに男女の売買が禁止され、10年以内の奉公人として扱われるようになった。
これと同じ年、津留令が出された。これは、藩内の人や物が藩外に出ることを規制するものだ。
津留令は必要な物資が流出することを恐れたためなのだが、同時に農民たちを規制する効果をもたらした。このころから、農民たちの抵抗が目立つようになってきた。
新田開発と農民統制によって、伊達藩は封鎖的、かつ強固な存在となった。その過程で起きた、内部対立は避けられなかったのだが。
もっとも、様々な政策を成功させたことから、結果的に努力が実ったことになるだろう。
伊達騒動を見ると、お家騒動における1つの特徴が見えてくる。
それは、大名領がなんらかの理由で危険に陥る。それを解消するための行動の過程における対立だということだ。
しかし、伊達藩では騒動が起きた際、階級が確立していなかった。お家騒動とは、階級が確立したところで起きる騒動である。
だから、伊達騒動はお家騒動の中でも、特殊な騒動だったと言えるだろう。
つぎに上げるのは、越前騒動という事件だ。これは、
親藩
大名である越前松平氏の家臣である久世但馬が成敗されるという事件である。
但馬の農民と町奉行の農民が私闘をしたのがことの発端だったのだが、領主であった松平忠直は罪に問われなかった。 しかし忠直は、後に改易された。この事件とは関係のない、大坂の陣に出陣しなかったという理由でだ。 つまり幕府は、親藩・譜代大名に対しては、軍事的結びつきを重視していたことが分かる。 軍事的役割を果たさなかったので、忠直は改易されたのである。
しかし、このようなお家騒動は珍しいと言えるだろう。親藩や譜代大名は、そもそもお家騒動が起きるような状況下にないのだ。
ここまで見るとわかるように、やはりお家騒動は外様大名が起こしやすいのだ。 将軍に屈するしかない状況下だからこそ、それに耐えるため出頭人を登用するようになり、譜代直臣との対立を呼ぶようになるからだ。 このような不安定な外様大名が抱えている矛盾を強引に解決させる方法が、「御一門払い」と呼ばれている。具体的にいえば領地没収、追放などである。 この方法ならばお家騒動は起きないのだが、多くの大名ではこの手段が用いられることはなかった。
(ほたるゆき)
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+ | 財政窮乏 |
財政窮乏
幕府が親藩・譜代大名を基礎にして、外様大名の力を弱めていくことで、外様大名たちは自立性を失いつつあった。
この時点で参勤交代や、江戸での住み込みを定められていたのだが、外様大名たちはさらなる追い討ちを受ける。 数度にわたる武家諸法度の制定が原因である。元和偃武から寛永にかけて、大名政策は著しい進展を見せた。 寛永10年には、あたらしい軍約規定が作られた。そこには、農民夫役を基礎におくこと、地方知行を前提とするということが書かれている。それは今までと同じ。 違うのは、この法令に従うべき大名の幅が広げられたことだ。これと武家諸法度によって、大名支配はほぼ完成した。 なお、この寛永10年前後は家光政権の成立や鎖国といった、江戸を象徴する制度が急激に整った時期である。
この時期におきたことを大きく4つに分けると、以下のようになる。
1、譜代、旗本、御家人の強化、および大名の統制。
2、大坂を中心とした商業の発展。 3、幕府を支える諸制度の完成。 4、鎖国(海禁政策)の断行。
歴史的にみると、鎖国への道は決して避けられなかったということがわかる。その結果、日本国内を超えることができなくなった武力は、日本国内で発散するしかない。
そのピークが、島原の乱である。 しかし農民を置いてきぼりにして変化しようとしたあまり、幕府の、武力のはけ口がないという危機は避けることができなくなってしまった。
幕府がこのような危機を迎えている中、大名たちは財政的な危機を迎えていた。
たくさんの収入があるにもかかわらず、「お手伝い」として幕府への大量の支出があるのだ。 大名たちは負担の軽減や免除を願っていたが、その申請をすると知行が没収されることもあった。 だから大名たちは、なるべく節約を図ろうとするのだった。
普請助役という負担があるが、これは軍事動員と同じ意味を持つ。大きな負担に見えるが、大名たちが窮乏したのは、これが原因ではない。
大名財政の支出を見てみると、三都(京都・大坂・江戸)と密接に結びついていることがわかる。 なぜこうなったのだろうか、理由は以下である。
1、参勤交代と在府制により、江戸での消費を否応なくされていたから。しかもそこでの生活は贅沢を強制され、大量に出費せざるを得なかったから。
2、非自給物資を、領国へ運ぶ必要があるから。
その2の非自給物資であるが、じつはさらに細かくわけられている。したがって、以下の数字はその2に内包するものだと考えていただきたい。
1、農民や町人の必要とする農具、食糧、鉄、貨幣。
2、甲冑、馬具、鉄砲などの軍需物資。
軍需物資においては、三都――あるはその周辺都市に依存せざるを得なかった。このため、大名財政は商業に巻き込まれることになる。
これに対して大名はある方法をとった。 年貢米の販売である。しかしながら、売るべき市場はやはり三都。彼らの経済は、こうして形が定められてしまう。 石高制である以上、避けられない事態と言える。
もう少し掘り下げると、以下の疑問が浮かんでくる。
大名たちが物々交換を行わないのはなぜか。
畿内が消費の中心である理由はなにか。 大坂が発展するのはなぜか。
これを知るためには、
『毛吹草』
という本に頼らなくてはならない。この本には、以下の3つが書かれている。
1、畿内では手工業が発展しているということ。
2、室町時代の発展を受け継いでいるということ。 3、江戸時代に入ってからも、新たな生産物が作られたこと。
これらは、江戸に入ってからも発展を続けていた。これが、先ほどの疑問に対する理由の1つである。
2つ目の理由は、幕府がなるべく手工業技術の流出を抑えたことである。
商人が発展できるのは幕府の力なくしてあり得ない。商人たちはこれに従ったため、安泰だったのだ。
以上2つが、先ほどの疑問の理由である。
三都と結び付けられた大名の話に戻るが、彼らは非常に苦しい経済状況下にあった。
大名の中には「借銀」と言って、商人から銀(貨幣として使われていた)を借りるものまで現れた。 大名は蔵米を売ってお金を返そうとするが、困難が伴った。 理由は以下参照。
1、米を売れる期間が限られているから。
2、年貢量が年によって変化するから。 3、大名が消費する文も必要であるから。
当然、返済が不可能になるものまで現れてきた。
しかし、借銀自体が大名の家を潰すということはない。だが、増えれば増えるほど大名たちの軍役に支障が出るので、ないに越したことはない。 したがって大名たちは、借銀の対策を取るようになった。 年貢を増やしたり、地元でしか取れない価値のあるものを売り出すことだ。 また、税の徴収を増やしたり、農民たちの負担を緩めて人数を増やすことを考える大名たちもいた。 知行地を減らして 蔵入地 を増やす少し変わった「検地」も行われた。
この寛永期、財政窮乏に陥るのは西国大名に多かった。また彼らは、商業との結びつきが非常に強い大名たちでもあった。
商人たちの利益追求の犠牲になり、次々と経済力を弱められてしまうのだった。 しかもこの上に参勤交代の負担が重なり、彼らはつねに火の車だった。 この状況下から脱却するために大名たちが取った政策は、給人の財政から搾りとることだった。すでに『地方知行』で述べたように、大名と給人の財政は独立していた。だからこそ、可能だったと言える。
ただ、給人もまた借銀に苦しんでいるのは当然だった。
きっと、思いつき同然に搾取をしていたものだから、しっかりとしたデータが残っていないのだろう。
では、
旗本
はどうだったのか。
彼らのデータを調査したところ、早くから商業に巻き込まれていたことがわかった。したがって、彼らもまた窮乏していった。 彼らを救出するために、幕府はいくつか手を打っていた。負担軽減や、倹約令などがそれである。
このような状況を見ていると、あることがわかる。
幕府自らが、先頭に立って大名たちを財政危機に陥れたということである。なぜなら、そして限られた搾取量において、あまりにも重い負担を課していたからだ。 こうして幕府は、大名たちの体制を破滅させようとしていたのだ。そのためには、幕府が全国の商業を把握していなくてはならない。 だからこそ鎖国を行って、長崎貿易を自らの支配下に置いたのだ。つまり鎖国とは、幕府の商業支配にとって必要な政策だった。 こうして幕府は、ひとまずこの政策に成功したのである。
(ほたるゆき)
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+ | 「不法」の支配 |
「不法」の支配
領主財政の貧窮は過酷な搾取を伴い、その苛烈さに応じて階級的反発は激しさを増す。しかし大名や旗本が過度の搾取を強行して、農民が生活出来ないほど追い込まれることは、幕府にとっては容認出来ないことであった。出羽村山の旗本酒井忠重は悪領主の典型であったが、訴状を受けて幕府は百姓惣代三十八人を越訴の罪で死罪打首とする一方、撹乱・越訴の張本人である忠重を改易している。彼の治政が、農民のみならず幕府にとっても捨て置けない悪政であったことを示している。 忠重に代表されるような農民を再生産不能な状態に陥れる「不法」の支配を、幕府は早くから禁じていた。1602年に定めた農政の法令「郷村掟」には、そのことがはっきりと書かれている。しかし当時にあってこのような「不法」は特殊なものではなく、他の大名や旗本でも事情に大差はなかったものと考えられる。代官が年貢米の売払の責任を負わされている仕組の中では、年貢米の一部を私して不測に備え、幕府の禁止する手作や高利貸活動を行うことは必要悪であった。代官の「不法」を無くすためには代官の機能を変える必要があり、代官の機能を変えるには、農政の新たな展開と商業の新たな発展とが必要だったのである。 (Shiraha) |
+ | 佐倉宗吾伝説 |
佐倉宗吾伝説
あるいは徒党を組んで兆散し、あるいは越訴・直訴を試み、あるいは蜂起して領主を攻めるというこのころの農民闘争の主体は、下からは小百姓の自立運動に突き上げられ、上からは領主的搾取の強化にさらされ、これら二つの動向のあいだでいよいよ自らの行方の決定を迫られた名田地主たちであった。 領主からの年貢諸役搾取が強化される一方、下人身分の上昇などにより小百姓の自立は着実に進み、板挟みの名田地主は大きく動揺しはじめていた。彼らは次第に反領主闘争を行うための有効な手立てを失いつつあった。1670年には下瓦林村で、庄屋九左衛門の譜代下人二郎右衛門とその倅が、九左衛門を訴えるという事件が起きている。譜代下人が自ら譜代下人であると名乗って、主人である庄屋を訴えるという珍しいケースであり、名田地主と小百姓が真正面から対立したものの一例である。 譜代下人がなんとかして自立し自分の土地保有を確定しようとする動きに対し、名田地主はこれを拒否して譜代下人を縛り付けておこうとする。寛永年間の末ごろに広く見られたこのような状況を通じて、少しずつ小百姓の力は強くなっていった。そうして小百姓の年貢諸役負担の事実が作られ、地主が小百姓から小作料を取る関係が生まれ、その小作料を負担出来る程度に「小農」の農業生産が発展してきたのである。 このように十七世紀中頃の農民闘争は、すべて小百姓の自立のための動きに基本的な原因を持っていた。したがって小百姓の自立の程度・進度によって農民闘争の形も変わってくる。著者はこの時期での農民闘争の進み方を、兆散――越訴・強訴――譜代下人の訴訟としている。有名な佐倉宗吾の伝説も、この越訴・強訴の最後に位置する闘争がもっとも美化して語り継がれた「国民的伝説」と言うことができる。 (Shiraha) |
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