第十二巻 天下一統(林屋辰三郎 著) 中編

+ 京都御馬揃
京都御馬揃
 織田信長の政権は、中国の雄毛利氏との対決に持ち込まれた。
 将軍足利義昭が毛利氏をたより、尼子氏が信長と結ぶ、対照的な成行きであった。
 一五七一年六月、毛利元就が病没した。そのさきより尼子氏を攻撃中だった輝元・隆景は看病のために吉田へ帰ったが、吉川元春ひとり出雲高瀬に陣し、山中幸盛、尼子勝久をやぶった。幸盛と勝久は京都に難を避け、再挙の機をうかがっていた。
 一五七三年の末、勝久・幸盛はふたたび出雲に入るため但馬にくだり、因幡の山名豊国にたよった。豊国は旧主勝久の依頼に応じ、勝久は因幡の諸城を攻めて、ついに鳥取城をおさめるにいたったが、その後豊国は毛利氏からの後難をおそれ、ふたたび翻って毛利氏に属し、勝久を撃ってこれをやぶった。
 勝久はなおも機会をうかがっていたので、一五七六年九月、輝元は小早川隆景を遣わし、元春とともに鳥取城の山名豊国に加勢して勝久らを包囲した。
 この間の尼子氏の勢力の背後には信長の援助があったと思われるが、毛利氏から強く質されても信長はこれを否定していた。

 山陰にも山陽にも、信長と毛利氏とのあいだがしだいに険悪となってきたが、一五七三年七月、義昭追放のころより直接の交渉がはじまっていた。毛利氏側からの主張は前将軍義昭の復職であった。その間に毛利氏側の使僧として奔走したのは、安芸安国寺の住持恵瓊であった。
 恵瓊は安芸国守護であった武田氏の末裔で信重の遺児である。かれは弁才と奇智にめぐまれて毛利氏に重用されるようになった。朝山日乗と秀吉との三人で毛利・織田両氏の調停をはじめたが、日乗が凋落し去ったので、毛利と織田は恵瓊と秀吉に代表されることになった。
 恵瓊の第一次の交渉は義昭の上洛を実現することはできなかったが、その西下だけは食い止め、織田・毛利両氏の表面的な和平関係を樹立した。しかし、信長の側での尼子氏援助や三村氏援助が裏で行われ、義昭が下向して毛利氏に身を寄せたので、平和的情勢はたちまち後退してしまった。
 さらにこうした一触即発の情勢に点火したのは、信長の石山本願寺攻撃であった。毛利氏が義昭を奉じて石山救援にたった背後には、いわゆる安芸門徒とよばれた安芸・備後にかけての一向宗門徒の勢力が後押しをしていることも考えねばならない。

 一五七七年四月、毛利の軍は石山後援のため安芸を出発し、備前の宇喜多直家とともに播磨の室津に着陣した。このとき播磨御著城主小寺政職は信長に心をよせ、五月に同国英賀において毛利軍と戦ってこれをやぶり、一時を食い止めた。しかし閏七月には上杉謙信の出馬が伝えられた。八月、信長は柴田勝家と羽柴秀吉を加賀につかわして謙信を禦がねばならなかった。
 八月、松永久秀・久通父子が突然信長にそむき、摂津天王寺の砦を去って大和信貴山城に拠った。しかし久秀父子の謀叛は時期も未熟であり、準備も不足であったため、十月、織田信忠・惟任(明智)光秀・長岡(細川)藤孝に攻められて信貴山城に自殺した。

 この間に、北国の謙信は九月、能登七尾城を攻めてこれをおとしいれた。一五七七年、謙信はあらためて諸将をあつめ、明春の雪解けをまって大挙して出陣することを定め、その準備にとりかかった。毛利氏の出征がしだいに日程にのぼる段階になって、信長を挟撃する一大勢力である。
 しかし、翌年の三月、突然に謙信は脳溢血のために倒れ、四十九歳をもって卒した。
 謙信の目標がどこにあったかという点につき、一般の通説は上洛説である。畿内の反信長党の期待にこたえて、前年九月の能登一国・加賀北半の平定の基礎のうえに、さらに一大上洛作戦を企画したとみるのである。
 ただ、これは信長の側からの観方がきわめて強い。そこで注目されるのが、三月の出陣を関東に向かって北条氏政を攻伐するためであったとみる見解である。したがって、この場合、当面の謙信の猛襲をまぬがれたものは、実に氏政であったことになるし、その意味で謙信の「天下」はあくまでも関東であったことが知られるのである。

 一五七七年十月、秀吉は中国平定の任務をおびて京都を出発した。
 秀吉は姫路城に入り、但馬国にも手をのばして山口岩淵城を攻略し、竹田城をも攻めて退散させた。秀吉は近江の役以来、軍の参謀格であった竹中半兵衛重治にくわえて、この播磨攻めで黒田官兵衛孝高をえたことは第一の収穫であった。十一月、この両人をして備前宇喜多直家の居城であった播磨福原城を攻略させ、みずからは同国七条城(上月城)をかこんだ。
 翌年二月、秀吉はふたたび播磨に入り、書写山に陣した。三木城主別所長治が毛利氏に通じて挙兵したためである。秀吉は三月、三木城をかこんだ。毛利方の作戦は、播磨に入り、尼子勝久・山中幸盛のこもる上月城のほうをかこむことにあった。
 秀吉は摂津の荒木村重とともに陣を播磨高倉山に移し、毛利氏と相対した。毛利氏の結束ははなはだ固く、六月、さすがの秀吉も毛利氏の軍と上月城下に戦ってやぶれ、上月城の救援を放棄して三木城に向かった。上月城は秀吉の来援という頼みの綱をうしない、毛利氏の軍門にくだらざるを得なかった。
 秀吉の三木城攻囲は尼子氏の上月城を犠牲に供したのだが、その陥落は容易ではなく、実に満二年におよぶ持久戦となったのである。

 秀吉が播磨の三木城を包囲しているあいだに、荒木村重が信長にそむいた。一五七八年十月のことである。
 石山攻囲中に村重の配下の者が大阪城中へひそかに糧食を送っていた。この行動が織田氏の兵の発見するところとなり、部下の利敵行為の責を追って、敵に内通するものとして安土に伝えられた。村重は当初母を人質として二心なきをちかい、みずからは安土におもむいて陳謝せんとしたが、中川清秀らの勧説により謀反の意を決したといわれている。
 信長は十一月に入京して村重としたしい細川藤孝・秀吉をして慰論せしめたが、村重が聞き入れなかったため、摂津に出陣し、諸将をして村重を討伐せしめた。このときの謀叛に、当時畿内においてキリシタン大名として知られた高山友祥らが相応じたことも、信長としてはキリスト教保護を考慮していたときだけに大きな衝撃であったようである。

 高山友祥は、すなわち通称右近のことである。
 高山父子は高槻城主であった和田惟政にしたがっていたが、惟政の没後、子息の惟長が高山父子の声望をねたんで謀殺しようとはかったので、右近も敵方の荒木村重と通じて一五七三年に高槻城を乗っ取り、やがて同年八月、右近は正式に高槻城主となったのである。そのような関係で、右近は村重に属し、高槻城も荒木方の有力な属城となった。
 信長は高槻城の軍事的魅力と、キリシタン大名としての高山右近の名声を考えて、戦を交えることの不利を知っていた。そこでキリシタン宣教師オルガンチノを呼び出して右近と交渉させたが、右近は村重の信長にたいする謀叛を批判していたため、いま村重から離反することは心苦しかった。
 そこで右近は、信長と村重との和平工作もこころみてみたが、失敗に終わった。城内の大勢は父ダリヨ飛騨守をはじめ主戦派によって動かされ、信長の使者を追い返してしまう。村重のほうからは右近と信長との交渉につよく抗議して、人質を殺害すると脅迫してくる。
 かくして右近は、キリシタン宗徒として意を決し、信長のもとにいたって、高槻城と教会の保証をとりつけ、みずから出家することを申し出ようとしたが、その決意が右近の側近を動かし、かれらは高槻城内の主戦派に対し、クーデターを行った。ダリヨ飛騨守らは城をのがれて村重方につき、高槻城派開城することになった。
 十一月、織田氏の諸将によって村重の有岡城攻撃がすすめられた。十二月十一日に信長は陣を摂津古池田に移した。信長も村重の伊丹の守りが意外にかたく、持久戦となることを覚悟して将士に諸塁を守らせ、羽柴秀吉は播磨の陣に、光秀を丹波につかわして自分もいったん安土に帰城した。
 村重の叛は、毛利方にははなはだ吉報であって、義昭も吉川元春に書状をおくって、村重の帰属に乗じて輝元の出兵をすすめさせたから、輝元からも援兵がつかわされた。

 播磨の戦線と丹波の帰趨はきわめて深い関係にあった。地理的な接触、姻戚による結び付き、しかもこんどは摂津の荒木村重とも気脈を通じていたのだから、丹波経略が必須の課題となった。
 信長は、丹波の方面は明智光秀に担当させていた。一五七六年正月、丹波の波多野秀治が光秀にそむいてその営を襲撃し、これをやぶって以来、丹波の土豪たち、国衆の去就は安定していなかった。ここにおいて一五七八年十二月、荒木村重の叛とも関連して丹波平定が焦眉の急となったのである。
 光秀は八上城を包囲し、兵糧攻めを行った。そして波多野氏が弱ったところを見計らって伯母を質として秀治ら三兄弟を誘い出し、これを安土に送って信長に和睦を申し入れたが、信長はこれを磔にかけてしまった。そこで八上城に残留の将らは光秀の詐謀となし、人質の伯母を楼上で殺し、一同死を決して籠城した。光秀は急迫して八上城をおとしいれ、城中余すところなく殺戮したのであった。
 一五七九年七月、光秀は藤孝とともに波多野氏の余党を蜂山城に攻めてこれをおとしいれ、同時にまた一色義有を丹後弓木城に攻めてこれと講和した。かくして十月、光秀は丹波・丹後の平定を復命した。
 翌年八月、その功によって丹波を光秀に、丹後を藤孝に宛がわれた。

 秀吉の三木城包囲は、その間に荒木村重の叛をはさんでいっそう長期戦となっていた。別所長治や毛利氏が三木城に食料を輸送しようとするなど、三木城の攻防はしだいに両軍の焦点となってきていた。しかし秀吉はこれらの三木城との連繋をことごとく絶ち、これを孤立させることによって、「三木の干殺」といわれる兵糧攻めを敢行していたのである。
 その間に一五七九年三月、宇喜多直家が秀吉に応じて毛利輝元の属城美作三星城を攻めるにいたった。直家は、その地理的位置から自然毛利氏側にたっていたが、信服していたわけではないので、信長の勢力が播磨以西におよぶ形勢をみて、ついに投降の意を決したのである。
 荒木村重も、有岡城をかたく守っていたが、城中は飢渇にせまられ、一五七九年九月、数騎をもって城をのがれて、尼ヶ崎城に入った。村重の謀叛は、しだいに戦局における重要性をうしなってしまっていた。
 秀吉の干殺戦術は一五八〇年の正月に攻城戦に転じ、十七日、長治・友之らは自殺して城はおちいった。ここにおいて属城もまたつぎつぎに落ち、播磨の平定はなったのである。

 信長の中国征伐の過程で、毛利氏との対決が急迫してくるにつれて、なお未解決にのこされた石山本願寺との対抗関係が、大きな課題として立ち現れてくる。
 一向一揆の実力についてはかなりふかい知識を持っており、討伐の必要と至難を痛感していたであろう信長が、討伐にあたってもっとも動揺したのは荒木村重謀叛の報をえたときであった。一五七八年十月である。他方、本願寺としても信長に敵対することは大きな冒険であった。
 そこで、立入宗継らがあいだにたって和平が試みられたが、毛利氏と同盟関係にある本願寺側が輝元とも同時に和談あるべしという条件を出し、その調整を行っているときに村重の有力な属将であり謀叛の端緒ともなった中川清秀が信長方に帰参のことが定まり、村重の謀叛も大きな波紋をつくらぬ見通しがたってしまった。そこで信長は勅使の下向をとどめ、自然に和談も破れてしまった。

 このように本願寺はしだいに不利に追いこまれたが、信長もまた石山を攻めなやんでいた。石山本願寺は難攻不落の地であり、城兵は信仰に生きるかたい団結の人々であったからである。信長としてはふたたび和談を思うようになっていた。そこでもう一度晴豊らによる和睦交渉がすすめられた。閏三月五日、本願寺にたいし、勅旨によって信長と講和せしめられることになった。顕如は大阪退城を約して和議がなった。
 顕如としては前途の見通しをもってこの終戦の機会をつかんだのであったが、長男(教如)は、徹底的な打撃をうけたわけでもないのにみすみす開城することにたえられなかったのと、諸方の門徒からもつよく要請かつ支持されて、顕如が退居したのち、大阪にとどまって兵を諸方に徴して再挙をはかった。
 この報に足利義昭などは大いに力をえて毛利氏に信長討伐の出兵をすすめたりしたが、紀伊の顕如は驚いて息子をいさめた。しかし教如の決意もかたく、ついに父子の義絶ということになってしまった。顕如は光寿の弟光昭(准如)をたて、嗣と定めたが、それはのちの東・西本願寺分立の端緒となるのである。
 教如のほうは門徒らがかたい決意をもって団結していたから、信長もただちに兵をくわえようとはかった。しかし、和平の機運が高まってきて、教如は七月十七日、ついに信長に赦免を請い、和議をととのえた。こうして八月二日、教如も大阪を退出した。
 石山の力を遠くからささえた加賀門徒も、本願寺の和睦を大きな不満としたが、信長の側としては一揆鎮圧には絶好の機会であり、一五八〇年閏三月、信長の将として北国に鎮する柴田勝家は一向一揆を討伐して加賀に入り、諸所を攻略したうえ、金沢城を攻めた。

 一五八一年の正月は、畿内の完全な平定、北国・中国・山陰におよぶ戦果を祝うよろこびのうちに明けた。石山の会場によりもっとも有力な反抗勢力である一向一揆が実際上解体したのであり、大きな意義を持つ新年であった。
 ここ数年のあいだで特筆すべきことは、北条氏政との新しい友好関係がむすばれたことである。徳川氏を仲介として北条氏とむすばれたことは、信長にとって、いっそう東側に懸念なく、西に向かうことを可能とした。
 信長は光秀に仰せて京都で「御馬揃」を計画し、朱印をもって分国に触れた。時日は二月二十八日。こうして、京都御馬揃は、統一の一段階に到達した信長政権の全力をあげた行事となったのであった。
(Shade)
+ 本能寺の変
本能寺の変
 御馬揃のため信長方の大名たちが在京中であった虚をついて、上杉景勝の部将河田長親は越中松倉城にたてこもり、これに応じてたった一向一揆とともに反撃に転じてきた。
 この軍事行動はもちろん上杉景勝の計画だった。北国は風雲急を告げたものの、景勝も兵をかえし、河田長親が病死したので、越後勢は急速に意気喪失してしまった。
 それとほぼ時を同じくして、東国では徳川家康が遠江高天神城を落とし、遠江一国が完全に家康の手に帰した。この攻城戦は、家康にとっては両国平定の完了を、武田勝頼にとっては領国支配の不安と将士の不信感を招くものだった。

 御馬揃のころ、秀吉は姫路城の修築にかかっていた。かれは播磨三木城の陥落のあと、美作・備前に転戦し、四月には備中高山に小早川隆景を包囲しようとしていた。
 秀吉は一五八一年六月に、毛利方の吉川経家のまもる鳥取城をかこみ、三木同様に干殺をはかった。十月二十五日、鳥取城は落城した。「鳥取の渇泣かし」といわれる悲惨な落城であった。
 その後、秀吉はいったん姫路に戻り、十一月に淡路へ兵を進め、岩屋城と由良城を攻略した。信長方は瀬戸内海の制御と、四国経営の根拠地をあわせうることとなった。

 このころの信長の統一過程は東西両面作戦であった。
 東国では、一五四二年二月、武田方の木曽義昌の謀叛を契機として、織田・武田の戦端が開かれることとなった。
 しかし、武田方の士気はいっこうにあがらず、各地で敗走した。勝頼は夫人北条氏と子信勝とともに自尽し、武田氏は一ヵ月ほどで滅亡することとなった。こうして甲・信は平定され、上野もまた信長の治下に入った。
 信玄の没後わずか十年で、武田氏領国の甲・信の一門や将兵が精神的に離反していたのにはいろいろな理由があるが、一つは富国強兵策の反動であり、もう一つは信玄の存在が大きく勝頼の立場が軽小に見做されたことが挙げられる。
 勝頼が最期をとげ、上杉景勝は信長軍の北上の気配を感じ、警戒を高めた。

 信長が武田氏征討に向かっているあいだ、秀吉は備前を中心として毛利氏征討準備をすすめていた。
 秀吉はじゅうぶんに機会をうかがい、東の問題の解決をまって、一五八二年三月十五日、播磨・但馬・因幡三国の兵をひきいて姫路を発し、備中に向かった。
 備中守備の中心は高松城主清水宗治である。秀吉は外部からの援助の道を絶ったうえで、五月七日、高松城をかこんだ。秀吉は水責を行い、ついに安国寺恵瓊をもって毛利氏と秀吉とのあいだで和を議せしめるにいたった。
 しかし、秀吉側の条件は現在の係争地のみならず、備後・出雲という山陰の毛利軍の基地をもくわえた領国の割譲と、城主清水宗治の切腹という過酷なものであった。毛利方は、人情として宗治は救わねばならず、講和は暗礁に乗り上げた。

 この時期の四国は、土豪長宗我部元親の統一過程にあった。
 四国の平定をめぐり、信長は土佐の長宗我部氏を支援するか、阿波の三好氏を支援するか二つの道があり、前者は光秀がとりつぎ、後者は秀吉と連繋していた。
 信長は長宗我部氏討伐にふみきり、光秀の面目はつぶされることとなった。

 甲斐の征旅から安土に凱旋した信長は、心せわしい日々を送った。
 信長は四国征討をおしすすめ、西征の意図を明らかにした。ところが五月十四日には信忠が信濃より凱旋し、翌十五日には家康と穴山信君が来賀した。信長としては家康の功績を考えると、かれをもてなすことが必要であり、光秀に御馳走役を命じた。
 その饗応の最中に秀吉からの備中高松城の包囲と毛利氏の全力での赴援の報が届き、信長は出陣を決意した。饗応が終わらぬうちに、光秀に先鋒として備中への出陣を命じた。
 二十一日、信長は家康らに京都・大坂・奈良および堺などの遊覧におもむかせ、家康は信忠とともに上京した。二十九日、信長も近臣二、三十人とともに入京して本能寺に宿をとった。

 備中出陣の準備のために安土をたった光秀は、二十六日に居城である丹波亀山城に入った。
 光秀が信長を怨む理由としては、家康の御馳走役をつとめる光秀にたいして信長があたえた屈辱や、丹波八上城において波多野秀治兄弟をかこんだとき、信長が光秀の言を無視して人質の秀治兄弟を殺したために、光秀が人質として城中に送った伯母を殺されたという経緯などが考えられるが、光秀の場合、信長とのあいだに完全な相互理解がなかったことが問題であった。
 光秀は秀吉のような子飼いではなく、一五六八年に足利義昭を信長にむすびつけて、信長の家臣にくわわった新参である。義昭との縁故関係という就職条件は、義昭と信長との関係が切断されるとき、はなはだ微妙なものとならざるを得ない。
 加えて、光秀が四国で長宗我部氏側に取次ぎをしていた失点や、追い打ちをかけるような備中の秀吉への援軍という命令が持ちこまれたこともある。
 こうして、光秀の中では、信長打倒、謀反の気持が急速に大きくなっていったと考えられる。

 そして六月一日、光秀は一万三千におよぶ軍兵を率い、本能寺を目指した。
 信長は刺さった矢を抜いて薙刀でしばらく戦ったが、腕に弾創をうけ、室に入って切腹した。
 信長が切腹するころまでには、森蘭丸以下の近習も七、八十人ばかり、ことごとく討死にした。
 信忠はいったんは本能寺赴援を志したものの不可能をさとり、村井貞勝とともに二条御所へ移った。その後、光秀の二条御所攻撃がはじまり、信忠も自殺した。

 光秀はその後に近江へ向かい、五日には安土城に入った。
 二日の変後、光秀は安芸の小早川隆景のもとに一通の書札を飛ばしていた。それは、将軍義昭に代わって逆臣信長を討ったという内容のものであったが、この書状をもった使者は高松城で秀吉の軍に捕らえられ、首を刎ねられた。

 本能寺の事変は、各地にある諸将のもとに伝わった。
 家康は、家臣に弔い合戦をすすめられ、四日には三河に帰り、五日にはただちに出陣の行動をおこした。
 北陸道で上杉景勝の軍と戦っていた柴田勝家らは、四日に変報がとどき、ただちに軍を返すことにしたが、領国内の手当てや景勝軍の追撃への対処などにより、時期を失してしまった。
 かくして残るところは中国にある羽柴秀吉であるが、かれは光秀の使者を捕らえたことにより事情を知り、四日には高松城主清水宗治の切腹をもって毛利氏との講和を締結し、姫路城へ取って返したのであった。

(Shade)
+ 七本槍の時代
七本槍の時代
1582年6月6日、羽柴秀吉は姫路城に帰り軍備を整えると、9日には明石へ出発した。同じ9日、光秀は軍を率いて上洛し情報収集と配備にあたっていた。10日には筒井順慶の参戦を待って洞ヶ峠に陣したが、順慶は光秀に同心しないことを告げて秀吉に応じた。既に山崎付近には秀吉軍が出没しており、ようやく光秀は秀吉の迅速な東上を知ったが、天王山を占領するには時既に遅く、いったん勝竜寺城に退いた。
明けて13日昼、援軍の到着した秀吉軍はいっせいに明智攻略を開始した。攻める秀吉軍4万、対する明智軍1万6千、三分の一の劣勢である。秀吉軍の総攻撃に、明智軍はたちまち崩れ立った。光秀自身も勝竜寺城に逃れ、近江へ帰るべく夜陰に乗じて脱出したが、途上に土民の襲撃を受けて殺されてしまう。光秀亡きあとの明智軍は四分五裂の総崩れであった。光秀の首級もやがて秀吉軍に発見され、本能寺に梟された。こうして明智謀反は一応の終末を告げた。

信長亡き後の天下は皆の関心であるが、まずは遺領処分のため、柴田勝家、羽柴秀吉、惟住長秀、池田恒興らが清洲城に会した。織田家の宿老が顔を揃えた形である。戦後の収拾策を会議によって決定する方式が打ち出されたことは、これまでの日本には例がなく、まったく新しいことであった。秀吉はこの会議において、織田信忠の嫡男三法師(秀信)を後嗣として主張することを除き、領土分配などすべて諸将に譲り争わなかったが、それでも明智討伐の実績は秀吉に諸将を凌ぐ大きなウエイトを持たせていた。秀吉が織田氏の大業を継いでいくことは、もはや誰の目にも明らかであった。
この秀吉と早晩対立する運命にあるのは勝家である。清洲会議は彼らのあいだに暫定的な安定をもたらしたが、その安定も長くは続かなかった。1582年10月には、秀吉は本願寺及び惟住長秀、池田恒興らと結び、勝家に対する抗争意思をはっきりと示している。一方、勝家側でもっとも秀吉排除の意志を見せているのは信孝であり、柴田勝家、滝川一益は言わば信孝の意向に引き込まれた形で秀吉と対していた。

しばらく警戒をつづけていた両者だが、ついに12月7日、秀吉の軍5万が行動を開始し、9日には近江に入った。勝家が雪に阻まれているあいだにその徒党を討つのが目的である。長浜城主・柴田勝豊は秀吉に降り、ついで岐阜城に信孝を包囲すると、信孝は人質を出して降伏した。つづいて滝川一益の将佐治新介の守る亀山城が落ちるに至り、勝家はいよいよ近江に兵を出した。
勝家の南下を知った秀吉は、転じて12日に近江佐和山に入り、長浜より柳瀬に向かってこれと対陣した。開戦まもなくの大岩山では、佐久間盛政をして中川清秀を破られ秀吉側の敗戦となったが、その報を受けた秀吉はただちに軍を近江木之本へ返し、その間十三里をわずか二時間半で馳せつけた。盛政軍は想定外に早い秀吉の着陣に狼狽し、本陣へ向けて退却をはじめた。秀吉軍はこれを追尾し、盛政軍の退却を援護する柴田勝政を賤ヶ嶽の惟住長秀と挟撃した。盛政軍は総崩れとなり、その報を聞いた勝家軍もまた狼狽のもとに大半が逃散する始末となった。
この決定的な勝家軍総退却の原因をつくった福島正則らの人々が、「賤ヶ嶽の七本槍」としてその名を伝えられる人々である。(ただし七という字は過去の軍功にならったもので、実際には七人でなく九人であったという。)賤ヶ嶽の戦後収拾を通じて、秀吉の地位は磐石たるものとなっていく。この点、賤ヶ嶽の戦いはこれより秀吉時代がはじまるという画期的な戦であり、家康における関ヶ原の戦いにも比せられる重要なものであった。
(Shiraha)
+ 大阪築城
大阪築城
1583年5月25日、池田恒興は大阪城を秀吉に渡した。秀吉は既にその根拠を要衝山崎に求めて築城していたが、この地は軍事上の要点でこそあれ、視野が狭隘で支配の拠点には相応しくない。大阪の要害と地理には比較にならぬ。大阪の優秀さは石山本願寺で証明済みである。9月1日には、いよいよ大阪築城がはじまった。

さて、本能寺の変後の一年に飛躍的な進歩を遂げた秀吉にも、依然として如何ともしがたい実力者は東の徳川家康である。家康は秀吉飛躍のあいだ、武田氏滅亡後の甲州経営にあたっていた。地道な経営により、主君を失った甲斐武士団を自身の軍団に編入していくことは、家康にとって実に大きな力となっていた。
このころにはまだ少なくとも儀礼的には交友関係を保っていた家康と秀吉だが、ここにひとつの事件が波紋を呼び起こした。信雄が秀吉と絶って家康と結んだのである。秀吉と信雄の疎通が絶えていたところへ、家康が介入した形であった。1584年3月10日、秀吉はただちに出陣し、大阪より入京して翌日坂本に向かった。対する家康は兵を率いて尾張に出ると、13日には信雄と会し、いよいよ行動を開始した。
戦闘は主として伊勢と尾張が中心となった。緒戦はまったく秀吉有利に展開していたが、信雄・家康はただちに清洲より小牧に出陣し、小牧山を占領することに成功する。小牧山は尾張平野の中央に孤立した山で、尾張を一望に見晴らすこの上ない軍事上の要衝である。この占拠は緒戦の失敗を補って余りあるものであった。
秀吉軍は小牧山に対し楽田を本営として対峙した。池田恒興は膠着状態を打開すべく、三河に攻め行って家康の本拠を撹乱する作戦を提案、自ら遂行したが、家康の追撃により長久手の戦に破れ戦死してしまった。楽田と小牧山はふたたび膠着状態となったが、長久手の敗戦は大きく、精神的には秀吉軍が劣勢となってしまった。秀吉はこれ以上家康と対峙することの不利を悟り、11月15日、信雄・家康と和を講じた。秀吉も一応の面目を保ったが、ここにおいて家康の立場は秀吉と対等以上のものになったのである。

小牧の役から戻り紀伊を征討した秀吉が、征討すべきは四国の長宗我部元親である。秀吉来攻の風聞に、四国はにわかに動揺した。秀吉は弟秀長をして諸軍を率いて渡海させ、阿波・讃岐屋島・伊予の三方から攻略を開始した。元親は阿波白地城に本拠を置いて指揮にあたったが、三方攻撃は極めて迅速で、やがて合して本拠に迫った。1585年8月6日、元親は不利を悟って和を請い、秀長はこれを許して人質を取り凱旋した。
次の標的は越中、飛騨である。8月8日、秀吉は大軍を率いて京都を発し、18日には金沢に到着した。佐々成政は居城富山城に構えて対抗しようとしたが、秀吉軍の攻撃前夜、自ら剃髪して降った。秀吉はいったん成政に切腹を命じたものの、信雄からの助命の懇願もあって、ついにこれを許した。こうして小牧の役に付随した謀反者は残らず平定されてしまったのである。
(Shiraha)
+ 関白と五奉行
関白と五奉行
氏姓を持ち合わせない秀吉は、山崎の合戦以来、信長の家臣として平氏をとなえ内大臣に至ったが、ここに信長以上の権威を求めるとすれば、いつまでも信長の用いた姓に甘んじているわけにはいかない。秀吉はここで菊亭晴季の案を採用し、藤原氏の独占物であった関白に就任することにした。
右大臣晴季の奏請により、ただちに関白の更迭が行われた。姓も藤原と改められた。この任関白はさすがに朝野驚愕の出来事であった。こうして秀吉は、1585年7月11日をもって名実ともに政権の座についたが、藤原姓を冒したことへの批判や負い目はなお大きく、妥協案として源・平・藤・橘の四姓の他に新たな姓を賜ることにした。9月9日、新しい佳姓として豊臣姓を選び、これを朝廷に奏聞して勅許を得た。この賜姓は、関白就任に関する批判や不信に広く答えたものであり、政権の座を強化するのに役だったと考えられる。

さて、しかしその政治形態として摂関政治を踏襲するのは現実味がない。そこで秀吉は近臣を諸太夫に任命する一方、新しく関白に直結する政治機関として、幕府体制からの系譜をひく奉行制度を樹立した。頭は貴族政治的な関白で、手足は武家幕府的な奉行であるという、豊臣政権に極めて特徴的な、公武総合的な体制である。奉行に任命されたのは、浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家の五人であった。この五人という形式は、五大老に見合う形として後に五奉行制度として制度化されることになる。

また、秀吉が政権の経済的基盤として重要視したのは、京都・堺であった。「京の町・堺の町」で活躍する茶人たちは、茶の世界を通じて秀吉らと密接に結ばれていたのである。政権はこれらの都市の豪商と密着し、相互に協力しあった。
このように秀吉が豪商たちと膝をつきあわせる茶の世界に、信長以来の茶堂として権威を持ったのは千宗易である。秀吉としては、その権力の飾りのためにも、堺の豪商たちとの関係からも、この宗易を離すわけにはいかなかった。
1585年10月8日、秀吉は関白拝任祝いを兼ねて禁中小御所に茶会をひらき、正親町天皇をはじめとする貴顕に茶を献じることとした。茶堂をつとめる宗易は、禁中の茶会に無位の俗人であっては列することはできないので、このとき一日限りの仮名として「利休」の居士号を賜ったのである。これは宗易の権威を一段と高めることであり、自らも名誉なこととして利休の名を長く用いるようになった。

豊臣政権の確立するにつれて、改めて動向の注目されるのは徳川家康である。家康は甲斐・信濃に自家勢力を拡大し、対立関係にある北条氏直と和議を結ぶなど、もっぱらその関心は東国であった。秀吉、家康間は依然として冷戦状態であった。しかし1585年11月13日、ここに思いがけない事件が勃発した。家康の老将石川数正が三河岡崎より京都に出奔したのである。
秀吉は数正を大いに歓迎し、これに乗じて家康の上京を促したが、家康は諸将を浜松に会して協議のうえ拒絶した。秀吉東征の説も囁かれたが、秀吉としても家康と闘うことは本意ではない。織田信雄をして調停を図らせ、破局を回避しようとした。果たして信雄は1586年1月27日、家康と三河岡崎に会して秀吉との和議を議し、ついにこれを実現した。秀吉は異父妹旭姫を家康に嫁がせ、両家の親密を図ることとした。この結婚によって、豊臣、徳川両氏は一応の同盟関係に入ったのである。
(Shiraha)

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最終更新:2010年04月11日 20:00
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