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横浜FCとは?(誕生編)

横浜FC誕生


さて、1999年1月1日をもって消滅した横浜フリューゲルスですが、愛するチームを失ったサポーターの力は、この年次々と軌跡を巻き起こします。

天皇杯決勝からわずか11日後の1月12日、チーム再建の立て役者である辻野臣保氏を中心とするグループが株式会社横浜フリエスポーツクラブの登記完了。

翌月2月には、チーム名を「横浜FC」としJFLへの加盟申請。
2月22日にはJFL評議会が横浜FCの準会員加盟を承認します。

通常新規チームには地域リーグからの参戦が課せられますが、横浜フリューゲルスの後進である、という事情からか川淵チェアマンのおそらくは権限でJFLからの参加が認められました。

そしてゼネラルマネージャー(GM、後に社長)に奥寺康彦氏、監督になんとJEF市原、ブランメル仙台で活躍したピエール・リトバルスキー氏(リティ)を迎え、急増新興チームは「横浜フリューゲルス」の魂を受け継ぐチームとして1999年シーズンより2シーズンJFLで戦いました。


1999年シーズン横浜FCは、18勝3分3敗でぶっちぎりの年間優勝。JFL準会員の資格のためJ2昇格は果たせませんが、そのモチベーションと潜在能力の高さをアピールしました。

続く2000年シーズン。晴れてJFL正会員となった横浜FCはその実力を爆発させ、なんと20勝2分0敗で全勝優勝します。

そして2000年12月19日、Jリーグ理事会で横浜FCのJリーグ入会が承認されました。

2001シーズン、ついに横浜FがJリーグに帰ってきたのです。



2001年、1年目の横浜FCは、15勝1分28敗の9位。Jリーグ初挑戦の年としては上出来ではないかと思える戦績を残しました。

しかし、ドイツに帰ったリティの後がまに座った永井監督の守備的かつ保守的な指揮の元、前半こそ光るものを見せた横浜FCイレブンもだんだんとその足取りが重くなるシーンも多々見受けられるようになりました。

ナビスコカップでヴェルディを敗るなどの健闘も見せましたが、川崎に全敗するなど精彩のない戦いも多かったです。

そんなJの重圧に負けそうになった2001年9月8日の敵地での新潟戦で1-5と大敗し6連敗を記録したあと永井監督は辞任。後任の決まらない中、夢の島で行われた仙台戦で阪倉ヘッドコーチの指揮で戦った横浜FCは、0-4と前半で決まったかと思われた試合を執念で3-4間で押し戻し、「再生」へのアピールを高らかに歌い上げます。

この試合後、元ベルマーレ平塚の信藤健仁氏を監督に迎えた横浜FCは永井時代とは正反対とも言える「超攻撃的サッカー」を標榜し、常識破りの2-4-4フォーメーションで4勝を記録。

リーグ戦後の天皇杯では、1回戦埼玉SC戦を14-0、2回戦アルエット熊本戦を5-0と危なげなく大勝したあと勢いに乗ってFC東京を1-0と撃破。準々決勝でまたしても川崎に1-3と敗れましたが健闘。横浜FC健在をアピールしました。

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