横浜FCとは?(前身編)
横浜フリューゲルス消滅
1993年Jリーグ初年度、ぼくは横浜マリノスのファンでした。
しかし、その年の9月に三ツ沢に見に行った横浜マリノス対横浜フリューゲルスのダービーマッチでいっぺんにフリューゲルスの虜になりました。
レゲエ好きのファンキーなGK森。岩井、渡辺一平、大嶽の鉄壁のDFライン。鈍足ながら力強く左サイドをオーバーラップするモネール。小さい体で縦横無尽にフィールドを駆け回る桂、そしてFK職人エドゥの芸術的なプレーに魅せられてしまいました。
1994 年1月1日の天皇杯決勝ではジーコ率いる鹿島アントラーズを延長の末6-2で撃破し、日本一に輝きます。その後、前園、三浦と言った生え抜きの成長や(前園ではその後の海外移籍問題やヴェルディへの引き抜きで悲しい思いもしました)、ジーニョ、サンパイオと言った新戦力を加え、途中低迷をしたこともありましたが1997年には敗れはしたものの鹿島アントラーズと再び天皇杯決勝で対戦。
このチームの未来は順風満帆であるかのように思っていました。
ところが1998年10月29日、共同スポンサーである佐藤工業が経営不振を理由に撤退すると、全日空は半ば強引にサポーター等の合意をとりつけることなく横浜マリノスとの合併を決定してしまいます。横浜フリューゲルスはそのシーズンを持って横浜マリノスに吸収され、フリューゲルスはマリノスの前に「F」を入れることで存続するという納得のいかないものでした。
それからの横浜フリューゲルスの戦い振りはまさに鬼神のごとく、次節のセレッソ大阪戦を7-0で大勝したのを皮切りにリーグ戦を4連勝で終わり有終の美を飾ると、そのままの勢いで天皇杯になだれ込みました。
天皇杯では、4-2で大塚を、3-0で甲府を危なげなく敗ったあと、磐田を2-1、鹿島を1-0と薄氷を踏むような緊迫した試合で下し、決勝へ進出します。
そして1999年1月1日横浜フリューゲルス消滅の日、この日は全てのサッカーファンに忘れられない日となりました。前半に先制されたフリューゲルスは後半見事に巻き返し、みごと2-1で勝利、前代未聞のカップ戦で日本一に輝いた消滅チームとなったのです。逆転を決めてからの横浜の選手達の奮闘は、今でも目に焼き付いています。ゲーム終了の笛を聞いた瞬間には涙があふれてきました。
遠く福島の地でTV観戦していたぼくの目の前で山口が天皇杯を観客席に立ち上がって高々と掲げていました。選手達もサポーターも、「フリューゲルスにいて良かった」と思った瞬間でした。
遠く福島の地でTV観戦していたぼくの目の前で山口が天皇杯を観客席に立ち上がって高々と掲げていました。選手達もサポーターも、「フリューゲルスにいて良かった」と思った瞬間でした。
そしてフリューゲルスは正式に消滅しました。
しかしそんな現実を許せるサポーターなど独りも存在しなかったのです。