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仙台で藤子不二雄Aさんサイン会-トキワ荘時代の思い出語る(仙台経済新聞)

仙台駅前の商業ビル「イービーンズ」(仙台市青葉区中央4、TEL 022-715-5222)で4月29日、漫画家・藤子不二雄Aさんのトークショーとサイン会が行われた。

同イベントは、今月19日から同施設で開催されている「春のまんが祭り」の関連企画で、「怪物くん ベスト・セレクション 友情篇」(小学館、1,100円)の発行を記念して行われたもの。同書は過去の作品から選りすぐりの9話を収録したもので、「怪物くん」のテレビドラマ化に合わせて刊行。5月28日には同「奮闘篇」も発売予定。

イベントには子どもからお年寄りまで幅広い層の約200人が来場。トークショーで、藤子さんは「トキワ荘はみんな兄弟みたいだった。同業者同士でも一切ジェラシーがなく、いい意味の相乗効果があった」「赤塚(不二夫)氏は売れないころ、石ノ森(章太郎)氏のご飯を作っていた」など、トキワ荘時代のエピソードを披露。かつて藤子さんが暮らしたトキワ荘14号室の再現展示をバックに行ったサイン会では握手や写真にも快く応じ、ファンとの会話を楽しんだ。

「昔、手塚治虫先生と一緒に並んでサイン会を行ったとき、手塚先生の前には行列ができたが、僕の前には2~3人しか並ばなくてあっという間に終わってしまった。それ以来、サイン会にはあんまり出ないようにしていた(笑)」と藤子さん。「今日はお父さんが50代、子どもが20代で親子2代のファンだという方もいらして、とてもうれしかった。僕ら漫画家は、読者の方が読んでくれて成り立つもの。だから今日は大勢のファンの方に来ていただいて、うれしくて元気をもらった」と話した。 

「春のまんが祭り」は5月9日まで。営業時間は10時~20時。
2010年04月30日 仙台経済新聞
手塚治虫さんから藤子不二雄の2人に受け継がれた「伝説の」トキワ荘14号室-イービーンズ「春のまんが祭り」で再現展示(関連画像) カメラに向かってピースサインを出すお茶目な藤子不二雄Aさん-イービーンズ「春のまんが祭り」のサイン会で

ぷらっと北陸 氷見を行く(asahi.com)

海と立山が育む夢   「食都」氷見市
 水平線ごしに立山連峰を望む富山県氷見市。富山湾の海の幸が自慢の「食都」の漁港に18日、鮮魚売り場が特別に設けられた。
 年に一度の「キトキト(新鮮さを表す富山弁)まつり」だ。
 朝からあいにくの雨だったが、催しの名前に胸が躍る。かっぱを羽織りながら、季節違いの寒ブリの姿が頭に浮かんだ。
 売り場に足を踏み入れると、氷の上でまぶしく光る、魚のかたまりが迫ってきた。
「新鮮だよ。安いよ」。威勢の良い売り文句が場内に飛び交い、幾重にもできた人垣から、競うように手が伸びる。フクラギ2匹が500円、カマス1山500円、アオリイカ1山千円。魚の山が消えては、あらたな魚が並ぶ。それを繰り返したのち、昼ごろ店じまいとなった。
 氷見市によると、07年に漁港に水揚げされた魚は約1万4千トン。氷見発祥と言われる越中式定置網で多くは捕れる。富山湾ではぐくまれる魚は数百種類に上る。
 「取れたての魚を海水と氷で冷やす努力を船上で怠らない。だから氷見の魚はうまいんだ」。地元漁師の語り口は誇らしげだ。漁港内にある道の駅「海鮮館」は、魚を買い求める客で週末を中心に、にぎわう。

 富山湾に沿って弓なりに続く海岸線、太陽にきらめく海面、水平線ごしに望む立山連峰――。国民的なマンガ「ドラえもん」を生んだ漫画家ユニットの一人、藤子不二雄(A)は、海に近い寺に生まれた。
 「なにか夢が広がっていった」
 少年時代に感じたふるさとの情景を、そう回想している。
 鮮魚売り場を後にすると、ほどなく20人ほどの行列にぶつかった。地元のブランド牛「氷見牛」を使ったコロッケだ。揚げたてが1個200円。ホクホクをほお張った。地元産のコシヒカリなど農作物も人気が高い。
   ◇
 阿尾城跡と伝わる高台に上った。そこは海岸線に突き出たがけの上。真正面に海が一望できる場所だが、この日の立山連峰はかすみ、姿を見せてくれなかった。振り返ると、牛や米を育む里山は紅葉に染まっていた。
 翌日は快晴。ふたたび氷見に車を走らせた。雪化粧をし始めた立山連峰を、海越しに眺める。藤子の言葉をゆっくりとかみ締めた。
(久永隆一)

【DATA】
■藤子不二雄(A) 「忍者ハットリくん」「笑ゥせぇるすまん」「プロゴルファー猿」といった人気漫画の作者で、氷見市出身。漁港近くにある光禅寺が生家。高岡市出身の藤子・F・不二雄とは小学生からの付き合いで、合作もした。市の中心部に07年オープンした「氷見市潮風ギャラリー」(氷見市中央町3の4)は、忍者ハットリくんなど代表作の原画を複数展示している。当初は1年間の限定企画だったが、今は「期限なしの延長で展示しています」と担当者。生家周辺の商店街では、忍者ハットリくんらのオブジェが潜み、観光客を楽しませてくれる。ギャラリーは大人200円、高校生以下は無料。午前10時~午後5時。年末年始は休館。問い合わせは、市企画広報室(0766・74・8011)へ。
■海鮮館 氷見漁港内にある道の駅。新鮮な魚介類が目玉の鮮魚店や海鮮レストランのほかにも、氷見牛のコロッケや氷見産の米、土産物を売る店も入る。午前8時~午後6時。定置網の見学をする遊覧船は海鮮館に隣接する船着き場から出港する。
2009年10月27日 asahi.com

漫画家・藤子不二雄Aさんに聞く 遊びも仕事も好奇心! 小田急線のロマンスカーで出勤(多摩人)

【1】トキワ荘から、マムシの地へ?
吉村  なんだかこうして改めてお話しを伺うのは照れますね(笑)。藤子さんはなぜ、都心ではなく、この多摩区生田に居をかまえられるようになったのですか?

藤子  いやぁ確かに当時駅前は何にもなかったし、世田谷通りもまだ完全舗装じゃなかったころでね。しかもマムシが出る場所だった(笑)。それまでトキワ荘の4畳一間の部屋に住んでいたんですが、漫画家になって6、7年経ってやっとひとり立ちできるようになったんです。もともと僕も藤本君(注:藤子・F・不二雄さんの本名)も早くに父親を亡くして、長男だという気持ちもあって母親を呼んで一緒に暮らしたいと思ったんです。それで生田にそれぞれ一軒家を建てたんです。

吉村  確か昔のサラリーマン川柳に ”マイホーム 手が出るところは 熊も出る “っていうのがありましたが、マムシが出るとは(笑)。でもそのころ25、6歳でしょ? 大したもんじゃないですか。

藤子  あのころ漫画というのは講談社が主流で、その影響から練馬沿線に漫画家は大勢いたけど、小田急線は珍しかったんです。藤本君が結婚したときに某出版社の重役が「多摩川を越えて成功した漫画家はいない」って言ったんですよ(笑)。だから頑張ってくださいね! っていう励ましの言葉だったんですが、僕も藤本君も落ち込んでね(笑)。

吉村  お祝いの言葉にしては変化球ですね。

藤子  まあ、その言葉のおかげで頑張れたというのもあるんですがね。

吉村  でもこの辺りもずいぶん変わったでしょう。

藤子  そうですね、駅前はずいぶん変わりました。昔は寂しいくらい静かでステキなところだったけど。今は新百合ヶ丘も開発がすごく進んでいるものね。

吉村  生田へいらっしゃったころは忙しかったんですか?

藤子  住んだころは、寝る間もないくらい忙しくて家に帰れなかった。徹夜徹夜で。漫画家には描くスピードというのがあって、手塚治虫先生や石ノ森章太郎氏は速い。僕や藤本君、赤塚不二夫氏は遅いんです。トキワ荘で机を並べてると分かるんだけどね、僕らが1ページ描くうちに石ノ森氏は4ページくらいは描いてる。これはもう先天的なものでね。だから毎日仕事仕事で机に向かっていました。寝る時間もなく牛乳飲みながらコッペパンをかじって描いていましたよ。よく生き延びたなと思います(笑)。

【2】二人で一人の漫画家の誕生
吉村  藤子さんが漫画家になろうと思ったきっかけは何だったんですか?

藤子  僕は富山県の氷見で600年以上続く禅寺で生まれたんですけどね、親父がちょうど終戦の前年の昭和19年に突然亡くなったんですよ。そうすると本山から新しい住職が家族を連れてやってくるから、僕らは寺を出なくちゃいけなくなった。その時に伯父が高岡というところにいて、そこに引っ越したんです。高岡の小学校に転校して、休み時間に1人で絵を描いてた。そこに細い少年が寄って来て「お前絵うまいのぉ」って富山弁でね、言ったのが藤本君だったの。でも後で彼の絵を見せてもらったら僕は足元にも及ばないくらいすごく上手かった。

吉村  その時がおいくつですか? 

藤子  小学校5年生。そのあと中学は別だったんだけど、隣同士の学校だったから、よく待ち合わせして一緒に帰ってましたね。それで昭和22年に、手塚治虫先生の『新宝島』という単行本が出たんですよ。富山県っていうのは教育県でね、普段本屋には漫画本なんて一切置いてなかったんですよ。それが、1冊だけあった。それを買って2人で公園で読んでびっくりしたんですよ。へぇーこんな漫画があるんだ! って。その漫画には映画的手法を取り入れてたんですよ。とにかく革新的な漫画でね、最初にピート探偵という少年探偵がオープンカーに乗って登場してね、その後2ページ何もセリフがないまま、車が走ってく。それはもう、紙に描かれた映画でした。赤塚氏も石ノ森氏も、みんな田舎でこれを読んで漫画家を目指したんですね。僕も藤本君も、この本がきっかけになって、漫画家を目指そうって決心したんですよ。

吉村  でも藤子さんは高校を出た後、富山新聞社に勤められたと聞きましたが…。

藤子  そう、ちょうど伯父が富山新聞の重役だったんですよ。それで2年ほど勤めました。給料もいいし、取材でいろんな人にも出会えるし、満足してましたよ。それに漫画でも少し稼いでたんでね、新聞社の月給は母に全部渡してました。

吉村  そのころ藤本さんは? 

藤子  彼は工芸高校に行ってたんだけど、なぜかお菓子会社に就職した。それで朝出勤して昼には辞めたと言って帰ってきた(笑)。あのころ、就職といったら一生の時代ですよ。それを一日で帰って来た。「俺は家で漫画を描き続けるけど、おまえは新聞社へ勤めていろ」って言いに来ました。それが、僕が新聞社に勤めて2年目の夜、藤本君がやって来て「新聞社をやめて一緒に東京へ出ようよ」と。藤本君が「辞めろ」と言った。

吉村  漫画家をめざして一緒に東京に出ようって? 

藤子  そう。命令口調でしたよ(笑)。母に話したら、「とんでもない!」って言われるかと思ったら、うちの母は呑気な人でね、「あんたの好きにしなさい」って。それで僕も若いから ”夢に懸けよう “とかっこいいこと思ってね。新聞社をやめたんです。伯父にはえらく怒られたけど。次の年の6月に上京したんです。

吉村  それで東京に行って、すぐにデビュー出来たんですか? 

藤子  当時は少年漫画というのは青年漫画より下に見られていたから、コミックも少なかったんですよ。それが昭和27年か28年の長者番付で、画家の部で手塚先生が突然2位になったんです。1位が横山大観。それで一気に漫画が盛り上がったんです。でも後続の新人がいないという時に、タイミングよく僕と藤本君が上京したもんだから、仕事のオファーが殺到したんです。

吉村  それは新人には嬉しいけれど、悲鳴を上げたいような環境ですね(笑)。

藤子  僕らは断るのはもったいないと思って全部引き受けたんです。半年間は寝る間もないくらい働いて、さすがにキャパシティを越えたんですね。そして正月に富山に帰省した時、2人とも疲労困憊していたから、5日まで寝るだけで、1ページも原稿が描けない。出版社各社から ”ゲンコウハヤクオクレ “って電報が来て、あせったけどまるで描けない。それが10日過ぎたら今度は ”ゲンコウオクルニオヨバズ ヨソヘタノンダ “という電報が(笑)。それで仕事の3分の2を落としてしまった。1年間は業界から干されて、仕事がもらえませんでした。それからは1度も原稿を落としたことはありません。これも良い勉強になりましたね。

【3】独自の漫画世界の発想は?
吉村  お2人の合作は『おばけのQ太郎』までで、その後藤本さんは『ドラえもん』、藤子さんは『忍者ハットリ君』と作品を発表していくわけですが、そのきっかけというのは? 

藤子  僕も藤本君も児童漫画を描いていましたが、僕は年を取り、お酒を呑んだり、ゴルフをしたり、女の子とお付き合いしたり(笑)するうちに、だんだん汚れてくるんですよ。児童漫画のような純粋なものが描けなくなってきてね。技術的に描けても、身が入ってないと、読者には分かるんです。それでだんだん路線が変わっていったんです。

吉村  お2人の作風が変わってきたということですね。

藤子  そうですね。そしてこのころ学生運動が盛んになって。大学生が紛争の最中に漫画を読んでいる、と週刊誌が報じたんですよ。少年から青年の世代にも漫画が広がったきっかけになりました。それで僕は『黒ィせぇるすまん』を描いたんですが、これが漫画家としてターニングポイントになりました。

吉村  大人向けのブラックユーモアの作品ですね。あとは『魔太郎がくる!!』も独特のいじめがテーマにある作品ですが、こうした発想はどのようにして生まれたんですか? 

藤子  あれは、僕の小さいころの思いが強い作品ですね。当時僕はチビでお坊ちゃんでしたし、赤面症で ”電熱器 “っていうあだ名だったんですよ(笑)。

吉村  今の人は分からないかもしれないけど電熱器はコンセントを入れてもすぐには赤くならない。じわ~っと赤くなるんですよね(笑)。

藤子  そう(笑)、それで思いついたのが、クラスにいじめっ子は1人か2人だけど、いじめられるほうは残りの40人か50人でしょ。だったらいじめられっ子を超能力のある主人公にして、いじめっ子に復讐する話にすれば共感も得られるし、カタルシスもあって面白いんじゃないかと思ったんですよ。それで描いたら反響が大きかった。その1年半後にいじめが社会問題になってね。

吉村  藤子さんの作品は、手塚先生のように時代を先行しているんですね。

藤子  手塚先生は飛び過ぎですけどね(笑)昭和20年代に、ロケットで宇宙に行っちゃうんですから(笑)。僕らも最初はSF漫画も描いてたんですが、手塚先生にはいつまで経っても追いつけない。それなら自分たちの漫画を描いていこうって、藤本君は『ドラえもん』、僕は『怪物くん』や『プロゴルファー猿』といった作品を描くようになったんです。

【4】ロマンスカーに乗って
吉村  今年で藤子さんは73歳と伺っていますが、今後の活動は何か決まっていますか? 

藤子  普通60になったらみんな定年でね、年金暮らしでしょ。僕はこういう仕事だから今まで現役で続けて来られましたけど、やはり創作するということは年々負担にはなってきているので量は減らしてきたんです。それであと数年かな、と思うと、それまでに何かもう1つ展開しておきたい、と。そう思ってると不思議なオファーが続々来るからびっくりしちゃってね。

吉村  じゃあ今までやったことのない仕事もオファーが来たりするんですか?

藤子  そうなんですよ。今は携帯をみんな持ってるし、そこにお金を使ってるでしょ。だから携帯不況っていってコミックも売れなくなってきているんです。僕なんかはアナログ人間だから、携帯を持ってても家に置いて行く人間ですけど(笑)。

吉村  でも不思議ですね、それにしては藤子さんは僕らがこっそり飲んでいる場所を突き止めるのがお上手ですもん(笑)。

藤子  まあまあ(笑)。それであるプロデューサーが来てね、今は携帯で漫画が読めるし、携帯小説からベストセラー作家もどんどん出ている時代だと。そういう世界でチャレンジしてみないか、という話が来たりね。やれるかは分からないけど、この年で新しいチャレンジのお誘いが来るなんて、嬉しいじゃない。

吉村  それは今でも藤子さんの漫画のファンが、若い世代にも多いという証拠ですよね。

藤子  若い人に求められるのは嬉しいことだよね。今度、集英社から新しいコミック誌「ジャンプスクエア」という月刊誌が出るんですけど、そこに連載を描いてくれって頼まれたんです。それで僕は描くことにしたんですが、創刊号の漫画家を見ると30代、40代の若い世代なんですよ。でも、その中に70代の僕がいても面白いかなって(笑)。

吉村  前々から僕は思っていたんですが、藤子さんは常にプラス思考ですよね。

藤子  やっぱり寺に生まれたことが大きいんですかね。嫌なことはなるだけ考えないで、良いことを考えてたら、心広く人にも優しい気持ちを持てるじゃないですか。

吉村  藤子さんの周りに集まる人が多いのは、そういった精神があるからかもしれませんね。そういえば、藤子さんは今年「夜の世界はもうやめるぞ!」と宣言されていましたけれど、いかがですか? 

藤子  1週間も持ちませんでした(笑)。でも僕が好きなのは酒じゃないんですよ。酒場でいろんな人と出会って話すのが好きだから、1人では飲んだことがない。

吉村  藤子さんは人との出会いを本当に大切にされていますよね。

藤子  そうですね。仕事を離れていろんな世界の人たちと会うと、どんどん自分が広がりますね。人間というのは本当に面白いですよ。

吉村  以前、本田技研の本田宗一郎さんにお話を伺ったときにね、あの方も遊びが大好きな方だったんですが、「遊びは仕事にかけ算になって戻ってくる」とおっしゃっていました。

藤子  本当にそのとおりだと思います。仕事の中にも遊びが必要だし、ただまじめに仕事や勉強をやってるだけじゃマシーンと同じ。さっき出て来た「好奇心」。これは漫画家にとって本当に大事なことですね。
吉村  漫画の発想が生まれるのは日常生活の中が多いと思うんですが、普段の日常でのちょっとした気持ちの転換方法ってありますか?

藤子  僕は小田急線のロマンスカーというのが大好きでね。ここから新宿まで出勤するときにね、9時半に向ヶ丘遊園からロマンスカーに乗って出勤するんですよ。300円でね。向ヶ丘遊園からぴゅーっと新宿へ行くのでも、なんだかすごく贅沢で優雅な気持ちになるんですよ。箱根に行ってきて、新宿に戻るような気分! 本当は仕事に向かうんですけどね(笑)。

吉村  ほー(笑)。それが藤子さんの創作へと頭を切り替える方法なんですね。

藤子  あと、乗る時に ”ミルクティー “を買うんですよ。それを飲んで週刊誌を読みながら新宿に向かうのが、なんともいえない贅沢な時間でね。

吉村  そうしたちょっとしたことでも、日常から抜け出したような気分を味わえますよね。

藤子  漫画家といってもね、漫画だけ描いてればいいってものじゃないんですよね。やっぱり何にでも好奇心を持って、面白がっていかないと。僕も自分が読みたいものを誰も描いてないから、漫画を描こうと思った、つまり最初の読者は自分なんですね。それを忘れないで、仕事も「仕事だ~」と思うとつらいけど、自分が読みたい漫画を楽しんで描くことで仕事もエンジョイできるんですね。もうトシだし先があまりないけど、自分が楽しんで描ける間は漫画家を続けたい、と思っています。

2007・秋号(第25号) 多摩人

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