最近澪先輩との距離が近いと思う。
気のせいかなと思うものの、だけど確かかもしれないとも思う。
今こうして、一緒に部活へと向かっているのがその良い例なのかもしれない。
偶然近くにいたから、とは言っていたけど。毎日とは言わないものの、最近よく起きるイベントだ。
勿論、それに何らかの拒否反応を示している、なんてことはない。
尊敬する澪先輩と一緒にいられること、それは喜びこそすれ嫌がる理由なんてないし。
部活でも合わせる機会を多く取ってくれるから、有意義に過ごすことができているし。
以前よりティータイムの切り上げを早くするよう、強く言うようになってくれたし。
帰り道も、わざわざ私に合わせてくれたりしてくれて、他の人にはできない音楽面の相談にも乗ってくれたりした。
そう、これが軽音部だよ、なんて思えたりもしている。
――多少の戸惑いを感じたりはしていたけど。

思えば、そのときの私がそれをもう少し深く考えていれば――
なんて、いまさら後悔しても何か変わるわけではないけれど。
それはまさしく、意味のないことだと思う。

あの日の出来事も、よくよく些細な出来事だった。
特別なことは何もなく、日常のワンシーンのその範疇に収まるくらいのこと。
教室にまた澪先輩が迎えに来てくれて、それに浮かれていた私は、ワックスのかけすぎで滑りやすくなっている廊下に気が付かず、まるで絵に描いたシーンのように鮮やかに転んでしまった。
勿論、それは私の運動神経が云々という話ではなく、滑ったその瞬間に自分をかばうか背負ったギターをかばうか迷ってしまったからで。
まあつまり、反射的な何かが不足していたということだ。

廊下で転ぶなんてことは、まあそんなに起こることじゃないけれど、四葉のクローバーを見つけることよりは高確率だろうから。
特別なことなんてない、ということにしておきたい。自分の名誉とかプライドとか、そんなもののために。
だから、その後のことが問題だったのだと思う。そのときしたこと起こったことではなくて、ただ純粋にタイミングの問題として。

結局はギターをかばうことにしたけれど、そのときには既に手を突くとか、そういう受身的な何かをとる猶予はまったく残ってなかった。
地面にたたきつけられるのを覚悟した私だったけど、その瞬間はいつになっても訪れなかった。
澪先輩が、その寸前に私を抱き上げてくれていたからだ。それも、本当に鮮やかな手並みで。
それは自分は小柄で、先輩は立派なスタイルだと思ってはいたものの、こうされてしまったときそれがこんなに顕著になるとは思っていなかった。
「大丈夫か」なんていつもより真剣さを交えた声をかける姿は、もうかっこいいとしか言いようもない。
おそらく傍から見れば、まるで劇画のワンシーンのように私たちの姿は映っていたことだろうと思う。それは主に、澪先輩のせいで。
まあ、澪先輩がかっこいいなんてことは、既にわかっていたことだけど。
唯先輩なら、きっと私を助けようとして、一緒に転んじゃってたかな。
なぜそこで唯先輩のことを浮かべたのかわからなかったけど、それを契機にして私は澪先輩から身を離した。
澪先輩も特にその動きを拒むことなく、手を離してくれる。当たり前、といえばそうなんだけど。
ありがとうございます、と少し赤くなった頬を隠すように、小さくうつむきながら視線を巡らしたときに、私はそれに気が付いた。
床に落ちている小さな手帳。見慣れたその表紙は、すぐに私にそれが生徒手帳であることを気付かせる。
落し物かな、と拾い上げ、その持ち主を確かめようと表紙をめくる。
そのとき私の中に生じたものを、そのときの私は言い表すことができなかった。
おそらくは硬直して見えただろう私に怪訝そうに問いかけてくる澪先輩に、知り合いのものだから預かっておいて後で渡すことを答えた。
そのまま澪先輩から隠すように、自分でもその存在を忘れてしまうようにと鞄の中に入れる。
その可能性に気付かないように。これがもし、ほんの今落とされたものだとしたら、先ほどのシーンをその人は目にしていたということになってしまう。
なぜそれを忌避してしまうのか、自分でもわからないけれど。
そう、今すぐじゃなくていい。いずれ返せばいい。それを忘れてしまったころに、さりげない振りをして。

どうせ、これを落としたあの人は、しばらくは自分がそれを落としたなんてことに気が付かないだろうから。


「やっほー」なんていつもどおりの挨拶で、本当にいつもどおりにあの人は音楽室に現れた。
逆に私のほうが戸惑ってしまって、「どうしたの?」なんてきょとんとされる始末。
いつもどおりのティータイムに、いつもどおりの練習、いつもどおりの帰り道。
澪先輩は今日は付いてこなかったから、最後はこの人と二人きり、お喋りしながら帰る。
本当にいつもどおりで、だから私はすっかり安心してしまっていた。
私がそこで、もう少し用心していたらひょっとした何か変わっていたのかもしれないけれど。
だけど結局ばいばいって別れるその瞬間をもって、私はいつもと何も変わらない日だったと結論付けていた。
そう、信じ込んでしまっていた。
何故なら、それは私の望む状況だったから。

それからの日々も、特に何も変わらなかった。
澪先輩との距離も近いまま。時々部活に行くとき迎えに来てくれるのも、たまに帰り道を共にするのも変わらない。
あの人も、相変わらずにこにこといつもどおりの笑顔で、いつもどおりに私に笑いかけてくれていた。
本当に、それはいつもと変わらない日常。それが、本当に驚くほど順調にカレンダーの日付を埋めて行っていた。
私の鞄の中の生徒手帳、その存在を私自身が忘れてしまうくらいに。
だからそれを見つけたときは、私はすっかりそれはあのときじゃなくてその前に落としていたものだろうと思い込めるようになっていた。
だから、安心だと。それを返してしまっても大丈夫だと。そう思えていた。
そうしてしまっても何も変わらないと。
あの人は変わらずににこにこ笑いながら、あずにゃんって私を呼びながら、私の傍にいてくれると。
そう思っていた。
そう思ってしまっていた。

きっと私は馬鹿だったんだと思う。
気付くべき全てに気付かず、それでも何も変わらないでいられると妄信していた。
いわば、全てに甘えていたんだと思う。
だって私は部活の中では最年少で、みんなの後輩で。
あの人の可愛い後輩で。
だからきっと、私は許されると思っていたのかもしれない。

だからその日もいつもどおり、音楽室の扉を開けた。
唯先輩が私より先にそこにいるのはわかっていたから。
教室を訪れた私に、私の知らない唯先輩の友人が、先輩がもう部活に行ったことを教えてくれたから。
いつもどおり挨拶して、そして生徒手帳を返してしまおう、なんてそう思っていた。
そこまでは本当にいつも通りだったから。
だから私は。

その瞬間私の目に映った光景を、どう捉えれば良いのか全くわからなかった。

そこには唯先輩と律先輩がいた。そこまではいい。澪先輩は私の後ろにいるし、ムギ先輩はきっと用事で遅れているんだろう。
だから、この二人だけが音楽室にいることには、何の不思議も感じない。
ただ、それがいつもと違ったのは。それも決定的に違ったのは――

その二人が口付けを交わしていたということ。

その言葉を、その様子を表すに足る言葉をようやく頭に浮かべられた瞬間に、私の思考は真っ白く塗りつぶされた。
そのとき何をしたかわからない。何を言ったかわからない。
ただ気付けば、私は廊下を全速力で走りぬけ、人目に付かない場所を探し続けるままに、屋上へとたどり着いていた。
そのまま倒れこむように、いや実際倒れるようにして私は地面に崩れ落ちていた。
コンクリートは容赦なく私のひざを削ったけれど、跳ね上がった鼓動と呼吸は文字通りマラソン直後のような気持ち悪さを与えてきたけれど。
そんなものはどうでもよかった。
そんなものとは微塵も関係ないところから、次から次へと涙があふれ出てきていた。
そのまま声を上げて私は泣く。まるで子供みたいに、声をはばかることなく、泣きじゃくる。
そこでようやく私は気が付いていた。
私が本当に抱いていたものは、何だったのかを。
私が本当に望んでいたものは、何だったのかを。
そして。
あの人が、その笑顔の奥で、望んでいたものが何だったのかを。
私の記憶に最後に残る、駆け出すその一瞬前に垣間見えたあの人の表情が、何よりも明確にそれを私に教えていた。

もっと早く気が付くべきだった。
もっと早く、気が付いてあげるべきだった。
その材料なんて、たくさんあった。生徒手帳なんて、そのひとつに過ぎない。
逆に、あそこまでわかりやすいヒントを与えられても、私は何も動けないままだった。
変わったことはいくつもあった。
ただ私が、それを変わらないと思い込んでいただけ。
澪先輩との距離もそう。澪先輩に何があったかまではわからないけど、それ以前に比べて明らかにそれは変わったものとすべきだった。
あの人に関してもそう。確かにあの人の笑顔は変わらないままだったけど。
だけど、思い返してみればそうだった。以前は毎日のように抱きついてきたあの人は、澪先輩と私の距離が変わってからそうしなくなっていた。
澪先輩が私と帰り道を共にしようとするとき、あの人はいつも妹から頼まれた買い物のことを思い出していた。
それでもあの人はいつものように笑うから、私はそれに気が付かなかっただけ。
どうして先輩がそうしていたか、私はそれに気が付かなかった。
だって、私は妄信していたから。
たとえ何があっても、この人は私のことを好きでいてくれて、私の傍にいてくれるんだって。
それは、なんて残酷なことだったんだろう。
私はそれを思い知らされるまで、全くそのことに気付かなかった。
今私の胸を切り裂いているこの痛みを、あの人はきっとずっと抱え続けていたんだろう。
それでも、いつもどおりの笑顔のまま私の傍にいてくれたんだろう。
私がそう望んでいることを、きっとあの人は気付いていたから。
だから、あの人はそうしていてくれた。
私にそれを悟らせないように、本当にそれまでどおりに。

私は、そんなあの人のことがずっとずっと好きだった。
そう、好きだった。
出会ったときから、とは言わないけど。
あの人のことを一つ一つ知るようになってから、どんどん好きになっていたんだろう。
私はそれに気付かなかったけど、気付けなかったけど。
確かに私は、あの人のことが大好きで、そして今も大好きでいる。
中野梓は、平沢唯の事が大好き――

それをどうして、私は――

もう、何もかも遅いのだろう。
あの人はもう、私の傍にはいないのだから。
どんなに手を伸ばそうとも、届かない場所に行ってしまったのだから。
そう思いかけて、自分の愚かさに心底呆れた。
今まで全くそうしようとしなかったくせに、何をいまさら手を伸ばそうとも、なんて言えるのだろう。
あの人はいつでも私の傍にいてくれたのに。
手を伸ばせば触れられたのに、捕まえることができたはずなのに。
私は、そうできたのに。

だけど本当に、もう何もかもが遅かった。
遅すぎた。
本当に、もう少しでも早ければ――そんな後悔すら、今の私には抱く権利はないのだろう。
胸の痛みは消えない。
いくら涙を流そうと、消える気配すらない。
深く刺さった棘は、幾重にもその切っ先を広げ、私の胸に根付いていた。
それはきっと、いつまでも消えることはないんだと思う。
だけど、それでいいと思う。
きっとそれは罰だから。
それくらいじゃないと、きっと割に合わないと、私は思う。
少なくとも、あの人が抱いたものよりも、ずっと強いものじゃないといけない。
それで私が許されるなんて欠片も思わないけど。

だからもう、泣くのをやめよう。
もうきっと、私にはそれすら許されないから。

嗚咽をかみ殺し、弛緩する体に無理やり力を込めて、私は立ち上がる。
それでも丸まってしまおうとする背筋を伸ばして、私は空を見上げた。
いまだあふれる涙も、そうしていればやがて止まってくれるだろうから。
そして、いつもの私に戻ろう。
いつもに見える私に戻らないといけない。
もうあの人の重荷にならないように。
それを背負うのは、もう私だけで十分だから。
今まであの人がそうし続けていたことを、今度は私が引き継ごう。
あの人がそう望む限りは、あの人の傍にい続けようと思う。
いつもの、私のままで。

だって、この状態になってもまだ、本当に浅ましいとしか言う他にないけれど。
それでもやはり、私は。
あの人のことが好きだから。

唯先輩のことが、好きだから。

――ねえ、だから。
それくらいは、許してくれますよね。
許されてもいいんですよね。

ああ、もう――本当に私は――


視界を埋める青。
何もかもをそこに預けてしまうように、私は一度目を瞑る。
そして、ゆっくりと目を開けた。
涙はもう止まっていた。
もう、いつもの私。いつものように音楽室に戻って、そして。
きっとそこはいつもじゃない様相になっているかもしれないから、それをいつもになるよう頑張って。
そしていつものように過ごしていこう。
それがきっと私のすべきことで、そして望める唯一の選択肢だから。

ガチャリ、と私の背後から音がする。
そして、キィと金属のきしむ音。立て付けの悪い、屋上の扉が立てるその音。
直後、あの人の気配が現れる。それを、感じ取れる。
きっと、飛び出した私を心配して追いかけてきてくれたのだろう。
本当に、こんな私のことなんて放って置いても良いのに。あの人は、本当にどこまでもあの人なんだ。
苦笑する。
本当に小さいけれど、そう私はできていた。
そのまま振り返ってしまおう。おそらく涙で腫れてしまった目元はどうしようもないけれど、それはきっといつもの私の表情だから。

私はきっと、大丈夫。
だから、心配ないってちゃんと伝えよう。
私なんか心配しなくてもいいんだって、そう教えてあげないと。

だから私は、精一杯の笑顔を浮かべて振り返った。
唯先輩、って。本当にいつもどおりに。
きっと数え切れないほどの――文字通り、万感の思いを込めながら。

(終わり)




  • 切ない… -- (名無しさん) 2010-11-11 23:03:37
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最終更新:2010年02月06日 01:34