窓ガラス越しに見える空は、嘘みたいに鮮やかな赤橙に焼きついていた。
その光で二色に染め上げられた音楽室。それと同じ色に染まった先輩は、ぼんやりと窓の外を眺めている。
私はその隣、ソファーに腰を下ろしたまま、弾くでもないギターを抱えながら、その横顔ごしの夕焼けをぼんやりと眺めている。
先輩が部室を訪れるのは、いつもこの窓が夕焼けに染まる辺り。ここが私の特等席と言わんばかりに、ソファーに腰を下ろし、頬杖をついて窓の外へと視線を向ける。
挨拶程度の会話の後は、特に言葉を交わすこともない。仮に交わしたとしても数回程度で途切れ、また静寂へと戻る。
それが、ここ暫くの私たちの放課後の過ごし方だった。
沈黙による居心地の悪さはなかった。逆に、落ち着くと言ってもいいのかもしれない。まるで、この時間を何十年も繰り返してきたような、そんな類の錯覚すら覚えてしまうほどに。
先輩がここにいて、私もここにいて、赤橙に埋め尽くされた空間でただ座っている。
それだけでどうしてこれほどまでに私の心は穏やかになれるのだろうか。
今は部活時間で、ここは軽音部。本来ならば、私は無心になって練習に打ち込んでいなければならないはずなのに。
一人になったからってサボっていたら、毎回毎回そろそろ練習しますよと言っていたあの頃の私に顔向けできないはずなのに。
ああ、そう。私は一人になったんだ。先輩たちは引退して、今軽音部に席を置いているのは私だけ。
ときどき先輩たちが顔を見せてくれるけど、皆がここでそろうことはなくて、あの賑やかな日々はもう遠い記憶へと移行しようとしていた。
焦点を変える。通り過ぎさせていた視線を、その横顔に向ける。見慣れた横顔は、今はオレンジに染め上げられていて、それでもこの人だと一目でわかる彩りを残していた。
薄い橙の皮膜を帯びた瞳は、今は私には向けられてはいないけれど。
それは容易く私の記憶を掘り返してしまう。
私の名を呼び、人懐っこい笑顔を浮かべていたこの人の姿を。
私の名を呼び、優しげな微笑を浮かべていたあの人の姿を。
私の名を呼び、明朗快活な笑みを浮かべていたあの人の姿を。
私の名を呼び、頼りがいのある笑みを浮かべていたあの人の姿を。
皆がまだここにいて、騒ぎあっていたあの頃の記憶を。
――5人で過ごした、あの楽しかった日々のことを。
もし戻れるのなら、そのための方法がもし今目の前に現れたとしたら、私はどうするのだろう。
そう思い浮かべて、私は苦笑と共にかき消した。そこにはきっと楽しそうに笑うそのときの私がいる。今の私が入り込める隙間なんて無いし、それに意味があるとも思えない。
視覚が焦点を取り戻し、再び私の視界は赤橙と黒の光景へと戻った。そこに在る、変わらないこの人の横顔へと。
変わらないということはないか、と私は思う。
少しだけ伸びた髪、ほんの少しだけ大人びた目元と眼差しと、その表情。
思い出の中のその姿と照合したからこそわかる、その差異。僅かではあるけど、それは確かにあのころとは違う。
今の私の傍にいる、今の先輩の横顔。今の先輩を見つめる、今の私の眼差し。
あの頃なら、この人は私のあだ名を呼びながらぎゅーっと良く抱きついてきていた。だけど今は頬杖をついたままぼんやりと空を眺め続けているだけ。そのまま、ただ私の傍にいる。
本来なら、私はもうここでは一人でいるべきはずなのに。だけど、この人は今私の傍にいる。だから私は一人ではなくて、二人。私の傍にはこの人がいる。それは、五人でいたあの頃とどこか共通点のようなものを私に思わせるけど。
それを探してしまえば、やはり違うものだと認識してしまう。その、繰り返し。だからこのところの私は、今と過去が織り交ざったようなそんな不思議な時間を過ごしているような感覚に包まれていた。
目の覚めるような赤橙の中。きっとそのせいなのかもしれない。日々迎えているその光景とはいえ、やはりそれは、その色彩は何処までも幻想的で、美しいものだから。
それが、私の感覚を酔わせてしまっているのかもしれない。
「どうしたの?」
そんな言葉が、不意に私の鼓膜を打つ。柔らかく甘い、あの人の声で。
気がつけばオレンジ色の横顔は私の目の前には無くて、私の眼前にあるのはオレンジ色に染められた柔らかな笑顔。
私を真っ直ぐ見つめる、優しい先輩の眼差し。
不意にそれを綺麗だと思ってしまった。まるで魅入られてしまったかのように、私の視線はその瞳に吸い込まれ、動かせなくなる。
どうして、と冷静な私が呟く。だって、私は先輩にそんな感想を抱いたことは無かったから。記憶のどの姿を引っ張り出してきても、ふんわりとかあたたかとか、時にかわいいという感想を抱いたことならあったけれど。
けれど確かに綺麗だった。赤橙に輝く窓ガラスを背景に、頬杖をついた姿勢から顔だけをこちらに向けた少し気だるげともいえる体勢で私を見つめるその姿が、今の私にはどうしようもなく綺麗だと。そう思わされていた。
「あ、えっと」
口篭る私に、くすりと笑って見せる。おそらくはこの人から呆けて見えていたのだろう私を、少しだけ珍しがるように。
そして、また気配が離れる。この時間、私たちが時折交わす会話は本当に短いものだけで。だから、今のこれもここまでと言うことなのだろう。
今私に向けられている先輩の眼差しも、一瞬後にはまた夕焼けへと向けられてしまうのだろう。
「どうして――」
咄嗟に、そんな言葉が口をついて飛び出していた。その私の声に、先輩はきょとんと、外しかけていた視線を元に戻す。
私はきっとその目論見が成功していたことに喜びを覚えつつ、そして戸惑いを覚えていた。
それはつまり、常に無いこと。日々繰り返すこの空間において、未だ踏み出したことが無かった領域。
だから先輩もまた、何処か戸惑ったようなそんな表情で私を見つめている。その意味を、私に問うかのように。
だから私は、そのえもいわれぬ空気に背中を押されるように、その言葉の続きを探し――
「どうして、ここに来てくれるんですか?」
そして思ったよりもずっとあっさりと口できたその質問は、先輩の表情を更にきょとんとしたものに変化させた。
無理もない。だって、それは今更だ。本来ならそれは、最初に先輩がここに訪れたときにこそ、かけるべきはずのもの。
だけど私はそうすることなくそれを受け入れ、そして今ではもう、このシーンはまさに日常というべきレベルまで達していた。
なのにどうして、本当にどうして今更、私はそんなことを口にしてしまったのだろう。
それを、終わるべき会話のその続きとして口にしてしまったのだろう。
「来ちゃダメかな?」
ほんの僅かな沈黙の後、そう返される。
「まさか」
私は即答した。
「そっか」
そんな私に先輩はにこりと笑ってみせる。どこか安堵したように見えるその笑顔に、私は先程の質問が拒絶の意味にも捉えられることに今更ながら気付いていた。
もちろんそんなことは無い。この時間は――先輩が私の傍にいてくれることは、やはり何よりも変えがたいものであるということは確かだったから。もう、そうではないシーンを想像できないくらいに。
だけど、それなら――
「ちゃんと勉強はしてるんですか?」
私は続けてそう確認する。
先輩はまたきょとんとして、そして苦笑を私に返してくれた。
「してるよーもう、憂みたいなこというんだから」
ぽんと鞄を叩いてみせる先輩。おそらくは、ちゃんとしてるよというアピール。
「それでね、ギー太もちゃんと弾いてるよ」
続けられた言葉に、私は少し驚いてしまう。
そう、昔のままの先輩なら、片方をやれば片方がなおざりになるのが常だったのに。
だけど、小さく見せたその素振りは確かにそれを続けている人のもの。その形と、その音色までまるでそれがそこにあるように私に感じさせるものだったから。
それに、先輩はそういうところでは嘘はつかない。だから、本当にちゃんと勉強をして、ギターの練習も欠かしていないと言うことなのだろう。
「先輩が両立させるなんて珍しいですね」
そう返した言葉はその驚きを見せないための、何処かおどけて笑いを取ろうとするものだったけれど。
だけど先輩は、ほんの少しだけ暖かなその眼差しに真剣さを混ぜて、そしてまた微笑んで見せた。
「そして、あずにゃんに会いに来てる。それじゃ、ダメかな?」
「え?」
不意に予想もしなかったことばを投げかけられ、今度は私の方がきょとんを浮かべてしまう。
一瞬の間を置いて、私はそれが最初に投げかけた質問の答えだと気がついた。
「それじゃ答えになっていませんよ」
「そうかなあ」
私の返答に、先輩は苦笑の形へと笑顔を変化させて、少し照れくさそうな素振りでつい、とまた視線を夕焼けへと戻した。
おそらくそうすれば、その赤くなった頬を私に知られることは無いと信じるかのように。仮にそうだとするなら、その目論見は全く無意味なものだと教えるべきかもしれないけれど。
嘘です、本当はちゃんと答えになってますよ。私はそう思う。
部活を引退して、その分勉強をするのは当たり前のこと。
ギターを弾き続けていると言うことは、つまりはこれからもそうしていこうとする意志の現れで、つまり当たり前のこと。
そして、あのときから今この瞬間も私の傍にいてくれるのは、つまりはそれが当たり前のことだと、そうして行きたいという先輩の意志の表れなのだろう。
それはひょっとしたら私の盛大な勘違いかもしれないけれど。だけど、少し青みがかったオレンジの中、先程より確かに赤みがかった頬の先輩の横顔は、それであってるよと私に告げてくれたから。
「唯先輩」
気がつけば、私はそう呼びかけていた。あくまでもそっぽを向き続ける先輩に。
「なあに?」
そして、こちらを振り返らないまま返事をする先輩に私は
「大好きです」
ただ一言、そう告げていた。
最後のピースを組み合わせた、そのカチリという音が確かに聞こえた気がした。
僅かな沈黙。置かれたその刹那の後、先輩はやはりこちらを振り返ることなく
「私もだよ」
そう、返してくれた。
本当にあっさりと、緊張も逡巡も焦燥も後悔もなく。その類のものは欠片も存在する余地のない、自然さと共に。
だから私は驚くことすらできず、ただその横顔を見つめ続けることしか出来ない。ああきっと、そもそもその必要は無かったのだろう。
ずっと考えていた。私はそれに気が付いてなかったけど、ずっと考えていた。
あのときまで同じ部活の先輩と後輩という関係にずっと甘えていたもの。その当たり前に埋めてしまっていたもの。
その関係が終焉を迎えても、やはり私たちはこうして二人で同じソファーの上に座っていて。
その形を、私たち二人のことを、私はどう呼べばいいのか。
どう呼べば、この時間がずっとこれから先も続いていくのだろうか。
私はそれを、どう呼びたいのかということを。
先輩にとってはきっと既知のことで、私は今ようやくそれに気がつけたということなのだろう。
私はそれに気付く為の、その答えを得るための切符を探していて。先輩は私がそれを手にするのをずっと待っていた。
そういうことだったのだろう。だから、私が浮かべるべきものは驚愕ではなく、ようやくここにたどり着くことができたという感慨。
私がそう告げて、先輩がそれを受け入れてくれたこと。それを交わし合えたということへの。
視界を埋める光景は、ゆっくりと赤橙から青紫へと移り行く。同じソファーに並んで座る私たちは、まるで昨日の焼き直しのようにそれと同じ光景を作り上げている。
それは私にとって、とても心地よくて、落ち着く時間。まるで、何十年もこの時間を繰り返してきたような、そんな類の錯覚すら覚えてしまうほどに。
だけど。
「唯先輩」
呼びかけて、それでもまだこちらを向こうとはしないこの人を、私はぎゅっと抱きしめた。かつてこの人が私にしてくれていたような、そんな仕草で。
久しぶりのこの人のぬくもりは、やはり相変わらず暖かくて柔らかくて優しくて、そして確かにあのときのものとは違う。あのときよりずっと深くて、いとしい。
突然の私の行動に先輩はやはり慌てて、だけど私はそれを許さないようにぎゅっと抱き寄せた。引かれるままにこちらにもたれてきたその体を、支えるようにまた強くかき抱いた。
昨日までと同じ、は嫌だったから。だって折角、私たちは新しい関係を手に入れたのだから。
これから先も、ずっと一緒にいられると、そう取り交わせたのだから。
宵闇に消えてしまう夕焼けのような儚いものではなく、永遠ではないにせよそれに負けないと思えるほどの力強い絆を。約束を。誓いを。
だからきっと、もう私たちにはあの赤橙は似合わない。もっと強い色で塗り潰してあげたいと、そう思う。
「あ、あずにゃん……もう」
困ったような声のあと、するりと先輩の腕が私の背中に回り、ぎゅうっと強く抱きしめられる。本当に久しぶりの、とろりと私を溶かしてしまう感触。
ふわりと力が抜けて、支えを失ってソファーに倒れこむ私と、そして唯先輩。びっくりして目を閉じる私とは対照的に、先輩はそれも織り込み済みだよとばかりに更に強く私を抱きしめてくる。
それは本格的に私を溶かしてしまって、まるで夢見心地のように私の意識はぼんやりとしてくる。ここ暫くのブランクで、私の耐性は随分低下してしまっているようだった。
だけど感覚だけは鋭敏に、貪欲に、私を包み込み、覆い尽くそうとするこの人の全てを感じようと目一杯開かれていて、寸での所で私の意識を繋ぎとめている。
「あずにゃんはあったかいね」
耳元で、先輩はそう囁く。そういうべきは、本当は私のはずなのに。暖かいのは先輩のほうですよ、と。暖かくて柔らかくて優しくて、私をあっさり溶かしてしまうんですよ、と。
ああでも、そう。私が先輩にとってそうあれるのだったら、今まで暖められているだけだった分、そうしてあげたいと思う。
「先輩こそ、ですよ」
視界の隅には青紫の上に伸びる一つの影。昨日までは二つだったそれは、今は一つ。ただひたすらに、私たちのその形を床に焼き付けている。
それに負けないようにと。すっかり弛緩してしまった腕にそれでも何とか力を籠めて、私はぎゅうっとただひたすらに強く、その体を抱きしめた。
- なんか -- (名無しさん) 2010-08-24 19:03:23
- 綺麗(途中送信した) -- (名無しさん) 2010-08-24 19:03:48
- 良いなあ -- (名無しさん) 2014-02-02 16:43:27
- こういうの好きです -- (名無しさん) 2014-06-27 03:58:56
最終更新:2010年01月15日 04:55