くらげ

515 名無しさん@ピンキー [sage] 2010/09/18(土) 20:20:10  ID:A2YAi/a8 Be:

     もうひとつSSです。乱文ですがどうぞお付き合いください。

    「くらげ」

     気が付くと真奈美は見慣れない畳の一室に敷かれた寝床に横になっていた。
     身体全体が熱を帯びていて、びりびりとした鈍痛が手足の先に感じられていた。全身に濡
    れたタオルのようなものが押し当てられていて、それで冷やされているようだった。

    「あら、気が付いたのね」
     穏やかな中年女性の声がした。
    「うっ……うん、ここ、どこ?」
     水際で軽く泳いでみようとした矢先になにかに刺された記憶はあったのだが、そこまでだ
    った。後の記憶は一切残っていない。
    「お嬢ちゃん、あなたね、クラゲに刺されてしまって気を失ってしまったのよ」
     ああ、そうか、と真奈美は自らの失われた記憶を繋ぎ合わせた。
     高校生活での最後の夏休みを過ごそうと、都心から離れたこの海岸へとやってきた真奈美
    だったが、楽しい思い出づくりのはずが、とんだハプニングである。
     立ち泳ぎをしていた自分の四方から音も無くゆらゆらと近づいてくる半透明の一群に襲わ
    れて、彼女は意識を失ったのだった。
    「ねえ、あなたのお名前、真奈美ちゃんって言うのよね、お友達から聞いたわ」
     女性は真奈美の額のタオルを外すと、話しかけていた。
    「ええ、それで……ミホたちはどこですか?」
     真奈美の視界の中に映っていたのは四十くらいの年齢のやや肥満気味の女性だった。温和
    そうな目元に落ち着いた物腰で、見る者に安心感を与える容姿だった。
    「うん、彼女たちには先に帰ってもらったわ。あなたの手当には時間がかかると思ったから」
     とは言え、日はまだ高いうちにある。
    「えっ、でも、まだ昼過ぎごろですよね」
     真奈美は少し不審げに尋ねた。
    「ええ、そう。だけどあなたが刺されたのから二日後の、ね」
     女性はおだやかな口調で諭すように言った。
    「そんな……あの、クラゲってそんなにひどく刺すものなんですか?」
     真奈美は彼女自身の全身をきっちりと包んでいるガーゼに目を配ってから、女性に尋ねた。
    「ええ、そうね。ちょっとこの辺りでも珍しいヤツでね、ギゼンヤコウエボシっていう猛毒
    を持った種類なのよ。刺され方によっては死んでしまうことだってあるほどなのよ」
     死ぬ、という言葉を突きつけられて、真奈美はびくん、と身を固くしてしまった。すると
    女性は表情を少しだけ緩めて、
    「ああ、でも大丈夫よ。私、ユウコっていうんだけど、これでも医者の端くれでね、一応の
    解毒処理はしておいたから、だからそこまでの心配はいらないわ」
     

     女性が医者だとわかって、真奈美はほっと息を吐く。だが、彼女に向ってさらにユウコが
    続けるのは、
    「……でもね、あなたにはかなりショックかもしれないけれど、だけど現実は受け入れても
    らわなければならないわ」
     眉間にぎゅっと皺を寄せて、同情の意味を言葉に孕ませながら、ユウコは真奈美の目を見
    つめた。
    「現実……って、なんですか、それ」
     その言葉に直接答えることはなく、ユウコは真奈美の腕を覆っていたガーゼのテープを外
    してそれらを露わにした。
    「辛いだろうけど、あまり心を揺らさないようにね」
     するすると巻き付けられていたガーゼの下から現れたのは、締まりなく弛んだ二の腕と、
    そこから繋がるぱんぱんに膨れた手の甲と、そして芋虫のような太い指だった。
     真奈美はよく事態が飲み込めずに、少しの間、ぽかんとしてしまった。
     その間にもユウコはガーゼを外す作業を続けていた。
     肉割れを起こしつつあるむっちりとした足が両方現れ、そして臀部のだらしなく垂れた肉
    が、腰部のぼっこりと段を作る弛みが、そして重力に完全に敗北している胸の膨らみが、じ
    ょじょに現れるうちに真奈美の顔色はさあっ、と真っ青になっていく。
    「あわわ、何、何、何、なんで、なんで?」
     真奈美が恐慌に陥ったのも無理はないことである。だって、それらは完全に彼女の知って
    いた彼女自身の、すばらしい肉体とは別物だったから。
     ユウコは手鏡を差し出して、真奈美に持たせた。
    「さあ、そしてこれが今のあなたの顔なのよ」
     おそるおそる視界のうちにずらしていく鏡面には、今まで見たことのない中年女性の緩ん
    だ顔が映っていた。そしてわずかに、そこに自分の顔の名残りがあることが認められた。
    「ひいっ!」
     恐ろしさのあまり、真奈美は鏡を投げ出す。そして、それらが本当ではないことだと願っ
    て頬に沿わせる指先に期待をこめていた。
     しかし、それはむなしくかなわないことだった。
     彼女の手に触れた頬には指先に余るほどの弛みを生じていて、それらが顎の側面部にまで
    おちこんでしまっている。顎にしても同様で、首筋にまでも脂肪は付着してしまっていた。
    対して眼窩はくぼみ落ち、眉と目の間にはかさかさとした嫌な感触があった。
    「これは違うわ、これ……こんなおばさん私じゃない!」
     自らにおこった変貌を信じられずに大きくかぶりを振る真奈美。

    「そうね、わかっているわ。私のところにあなたが運ばれてきたとき、あなたの姿はとって
    も素敵な女の子だったもの。とてもスマートで、胸も大きくて、そして顔もとっても端整で
    健康的な美人だったもの」
     慰めるようにユウコは真奈美の背中を抱きしめる。
    「だけどね、あのクラゲの毒は遅効性でじわじわと身体の形質を変異させてしまうのよ、あ
    なたはみるみるうちにその姿を歪めていって、そしてそうなってしまったわけなの」
    「いや、そんなの。戻して、はやく戻してよお」
     涙をこんこんと湧かせながらユウコの手にしがみつく真奈美。しかし、ユウコは首を横に
    振る。
    「それは……すぐにはできないことよ。それこそ何年もかけてゆっくりと治療していくしか
    ないわ」
    「……何年もかけて、なんて、そんな」
     今の真奈美の姿はほとんど眼前のユウコと変わらないほどの年代に見える。これから先の
    青春をこの姿で生きていけと宣告されるのはもはや死刑宣告と大差ない。
    「大丈夫よ、きちんと食事を節制して、運動して、それからコラーゲンやヒアルロン酸注射
    なんかを定期的に受けるようにしていけば、元に戻るとまではいかなくても、きっとそれに
    近いレベルにまでは回復するはずよ。すぐにとは言えないけど、いつか、また」
     真奈美にとって、自らの容姿は唯一にして最大のステータスだった。大多数の男子を魅了
    しながら、大多数の女子に羨望の念を植え付けるしなやかな肢体と整った顔と。
     勉強にも運動にも才能がない彼女にとって、それだけが彼女の拠り所だったのだ。
     しかし、今、彼女の明るい栗色のロングヘアーの下にある顔は、紛れもない中年のもので
    ある。身体もまた、見苦しいとまでは言わなくとも魅力的とはお世辞にも言えないほどに、
    ダウングレードしてしまっていた。
    「……私、いやよう、いやだよう」
     すんすんとすすり泣く真奈美をきゅっと抱き寄せて、ユウコはしばらくの間、彼女が泣き
    疲れて眠るまでの間を支えてやっていた。
    「大丈夫よ、ホントにおばさんの私なんかと違って真奈美ちゃんは若いんだもの。新陳代謝
    がきちんと働けば、きっとまた、魅力的な姿に戻れるわよ」
     小さく震える背中をぱんぱん、と軽く叩いてやりながら、ユウコは何度も何度も励ましの
    言葉をかけ続けてやったのだった。

    「昨日は本当にすみませんでした」
     ようやく回復して帰り支度が終わった段階でようやく真奈美はユウコに迷惑をかけ続けて
    いたことに気付き、そして謝罪をしていた。しかし、そんなことは構わない、という様子で
    ユウコも手をぱたぱたと振る。
    「いいのよ、あんな辛いことがあったんですもん。誰だって取り乱すのが普通よ」
     真奈美は、ユウコからブラウスと丈の長いスカートを借りて着衣していた。元着ていたも
    のはサイズがあわないということもあったが、それ以上に今の姿を他者の人目に触れさせた
    くないという理由でそれらを譲り受けていたのだった。その上からつばの広い帽子でもって
    完全防護の格好だった。
    「ん、大丈夫よ。あなたが思っているほどその格好も悪くないわよ」
     ユウコの言葉にお世辞はなかった。その感情を受け取って、ようやく、真奈美の顔にも明
    るい表情が戻ってきていた。
    「私ですね、これからきちんと勉強して大学に行こうと思うんです」
    「んん、そうなの?」
    「ええ、ちゃんと勉強して内面を磨いて、それから……この外側もそれまでになんとかして」
     くっ、と暗い感情を飲み込んで、
    「ちゃんとした美人になろうと思うんです」
     そう決意した真奈美の目元には、細かな皺がいくつも浮かんではいたけれども、それでも
    彼女の表情には将来今まで以上にいい女になれるだけの片鱗がありありと浮き出ていた。
     わずかに揺れ動く下腹の弛みや、内股に擦れる違和感を感じながらも、真奈美は背を伸ば
    して歩きだしていた。 
     日差しを纏った真奈美のその眩しさに少しだけ目を伏せながら、ユウコは去りゆく真奈美
    にずっと手を振っていた。
     

     舞台はその日の深夜、ユウコの診療所兼一人暮らしの海の家でのことだった。
     ユウコはその日の残った仕事を全て片付けると、戸に『しばらく休業します』の札を掛け
    付けて、そして奥へと戻っていった。
     今かかりつけている患者の全員に、他の医院への紹介も済ませていた。もう、彼女を縛る
    ものは何もない。
     彼女は上下を脱ぎ捨ててバスタオル一枚だけの姿になってシャワー室へとゆっくりと歩い
    ていく。手には黒い何かの布切れと、コーヒー缶くらいの小さなプラスチックケースに入っ
    た何かの液体が握られていた。 
     シャワー室の片隅に置かれている潮干狩りなどで使う程度の小さなバケツの蓋をユウコは
    外す。そして、その中に入っているわずかに発光している半透明の生物に視線を落とした。
    「偽善……夜光……エボシかぁ、我ながら安直な名前を付けたものね」
     桃色に輝きながらひしめきあうそれは、間違いなく真奈美を襲ったクラゲだった。それが
    どうしてここにあるのかは、仕掛けた本人であるユウコのみが知りうるところである。
     苦笑しながらユウコはそこに手にしたケースから薬剤を垂らしていく。
     するとクラゲはじゅうっ、と音を立てて溶解していき、どろどろになってゲル状のピンク
    の液体になってしまっていた。 
     クラゲはもともと不思議な生命体であるが、その中でもひときわ特異なカツオノエボシと
    同様の機構的生命体であるこのクラゲは、ユウコの研究により生み出された産物である。
    「……それにしても、はあ、真奈美ちゃんくらいなら、まだマシな方じゃないかな」
     手にした布切れとバスタオルとを脱衣場に投げ出したユウコは、姿見に映る自らにこぼし
    ていた。
    「齢取ってるだけじゃないものね、これって」
     下腹の弛みは掴めるほどにまで肥大しており、段になることもなく大きく前方にせり出し
    ている。彼女は別に不摂生というわけではなかったが、もともとが太りやすい体質だったの
    だ。もちろん、首筋も足も尻も同様に肥満していて中年女性の悲哀を物語っていた。
    「……若い頃から、ずっとこうだったもんね。そりゃあ、彼氏の一人もできやしないか」
     寂しそうに呟く彼女はもちろん独り身であった。のみならず四十半ばにして生娘だった。
     恋愛はもとより見合いにすら上手くいかないこと続きで、詐欺まがいの被害にあったこと
    さえもある。ユウコはずっとそれらを飲み込んで一人でずっと過ごしてきたのである。
    「だから……いいわよね、少しくらい幸せをわけてもらっても」
     視線に暗い影をおとしながら呟く彼女の手はバケツにかけられていた。
     

     ユウコはゆっくりとそれを持ち上げ、そして内容されているどろどろの液体を呷るように
    飲みはじめた。
     ぐぷぐぷっ、とおよそ四リットルほどもあるバケツの中身はユウコの喉へと流し込まれて
    いく。途中、苦しさのあまりにわずかに吐き戻すことはあってもその気色悪さを押し込めて
    涙をにじませながらも、さらにユウコはそれをおのれの中へと流し込む。
     口の端からこぼれ出した液体をユウコは左手で自らの首筋に、頬に、乳房にローションの
    ように塗りたくっていく。すると、それらは全て、砂漠の砂に吸われる水のように、肌の内
    へと吸収されていくのだった。
     はあはあ、と喘ぎ声を漏らしながら、ユウコは嘔吐感と格闘した。今、これらを吐き出し
    てしまえば全ての計画が水泡に帰してしまうのだ。顔色を紫に変色させながらも、彼女は手
    で口を押さえつけて、必死に口の中に残ったもの全てを胃の腑へと留めようと奮戦した。
     ついに、ユウコがそれら全ての障害にうちかったとき、彼女の身には大きな異変がおこっ
    ていた。
     まず、全身から吹きあがるように蒸気が立ちこめて、その次の瞬間には肌の表面に、強い
    臭みを伴った、黄褐色の堆肥のようなものをじわじわと生じさせていたのだった。
     顔となく、腰となく、足となく、全身をびっしりと覆い隠すその泥は、しばらくの間、ず
    りずりと湧き出し続けていたが、七、八分ほどの時間を経て、その発生を終了させていた。
     全身が泥人形のようになり、目も開けられないほどのユウコだったが、手探りでシャワー
    のバルブをひねり、熱い湯でそれらを洗い流していく。
     と、厚い層となって彼女を覆っていた腐臭のする泥が清められていくユウコの姿には、劇
    的な異変がおこっていたのである。どろどろと、まるで蝋人形が熱で溶けていくような変化
    の中で、彼女の姿は細く引き締まったものに変化していたのであった。
    「ん……ふ、んふふふふふ、やったわぁ」
     肌には以前とは比べ物にならないほどのハリと潤いが戻り、まるでハイティーンの輝きで
    あった。
     肥満していた尻は半分ほどに縮小しながら上向きになり、果実のような形の良さに引き締
    まっていた。
    「この細いウエスト……大きな胸。そしてこの小顔、まさに計算通りかそれ以上ね」
     アンダーバストの無用な脂肪が溶け失せた胸元には形良く張り出したバストが再形成され
    ウエストはぐっと引き締まり、コントラストが絶妙であった。そして、顔に付着していた余
    分な弛み、皺、くぼみにてかりが消え失せて、彼女の顔は目鼻立ちのくっきりとした若い娘
    のそれになっていた。
    「ひい、ふう、みのよ、と……凄いわね、七頭身半もあるわ。やっぱり最近の若いコの身体
    ってモデル並なのね」
     鏡の前で細まった腰を軽くひねったり、半身に立って細くしなやかな足を組んでみたりと、
    ユウコは新しく生まれ変わったおのれの身体を存分に堪能していた。
    「うふふ、腰をひねってもお肉がつっかえないだなんて、なんて素敵なのかしら」

     もう、読者の皆様にはお分かりだっただろう。かのクラゲが持っているものは強いショッ
    クと肉体を劣化させる毒だけではなく、相手の形質そのものを剥奪してしまう吸収能力なの
    だということを。
     そして、それらを溶解し、飲み干すことによってユウコは、真奈美の備えていた若く美し
    い肉体の形質を自らの形質と置き換えてしまったのである。彼女の生来の形質は、今はもう
    風呂場の排水から流れていき、今頃は下水を漂っていることだろう。
     ユウコは脱衣所に投げ出してあった黒い布切れを手に取った。
    「ふふふ、最近の若いコって大胆な水着を着るのね、なんだか恥ずかしいわ」
     それは真奈美が忘れていった水着だった。いや、持って帰ったとしても、もはや今の彼女
    の身体では着こなすことができないものだったので、故意に置いていったのかもしれない。
     棚の上から安全カミソリを取り出して、腋下や下腹部の毛を剃り落とした後、ユウコは面
    積の少ないその光沢のある黒い布切れをその起伏に富んだ肉体にまとわせる。
     艶やかに輝くスパンコールで飾られた三角水着は彼女の肉体の隆起にあわせてぴったりと
    フィットしていた。あたかも、彼女が正当なこの水着の持ち主であるかのように。
    「まあ、ぴったりね。じゃあ、仕方ないからコレ、貰っちゃいましょっ、と」
     嬉々として水着の縁を何度も手でなぞるユウコ。彼女は今までの人生の中で一度として、
    こんな水着を着たことも、買ったことも、そしてこんな水着を着る機会を与えられたことも
    なかったのだった。
    「これなら……きっと、手に入れられるわ。愛だって、恋だって、きっと……人並みに……
    いいえ、それ以上に……う、ううっ」
     鏡の中に美しく佇む若々しいユウコの姿は、やがてその双眸から吹き出すように涙を流し
    ていた。
     ひとしきりの昂奮の後、ユウコは自らを情けなく、そしてあさましく感じてしまったのだ
    った。何の罪もない少女のたった一度きりの青春を吸血鬼のように奪ってまで、若さや美し
    さを手に入れた自分自身のザマを、とても醜く感じてしまったのである。
     もはや、ユウコは真奈美に謝ることさえもできなかった。それをする資格さえ無いものの
    ように感じられたのであった。
    「……だけど、仕方ないじゃないの」
     俯いていた顔を上げ、鏡の中の自分自身にユウコは言った。
    「人は誰だって他人から何かを奪いながら生きていくものなんだからね!」
     人生は究極のゼロサムゲームである。恋愛ならば誰かが笑う陰で誰かが泣き、競技の中で
    あれば勝利の栄冠を受ける一人の足元に数多の敗者が暗澹たる気に押しつぶされる。それは
    人間として生まれついた全ての命に課せられた業なのである。
     それを悟った瞬間に、ユウコの涙は涸れていた。もう、優柔な瞳はそこから消え失せて、
    かわりに虚無を知識った深淵のように深く暗い輝きがそこには湛えられていた。

     彼女が手に入れられた若さと美しさは、真奈美に語った新陳代謝の話の真逆で、そんなに
    長期にわたって保持し続けられるものではなかった。せいぜいが、二、三年ほど。その後は
    またつまらない、取り柄のないただの肥満気味の中年女に戻ってしまうのだ。
     それでもいい、とユウコは嗤った。
     たとえ、一瞬の際にでも、花火のように大輪の花を打ち上げることがたった一度の人生の
    うちにあるのならば、もう、何も悔いはないのだ、と。
     一度でも、どんな類いのものであっても、愛を、愛情を己の空虚な身に注いでもらえるの
    ならば、私はもう他に何もいらないのだ、と。
     黒い水着のその上から引っ詰めたスカートと持っている中では一番派手なデザインの白い
    チュニックだけを羽織り、よそいきのサンダルをつっかけて、安物のポーチを掴み、ユウコ
    はふらふらと夢遊病者のような足取りで繁華街のネオンの輝きだけを目印に歩き出した。
     その後の彼女の消息については、これはもう、この話の中では語るだけの価値もないこと
    である。

     海岸沿い、誘蛾灯に惹かれる虫たちがバチっバチっと小さくかわいた音を時折立てる他に
    は、ただ波音が湿った響きを持つ韻律を、絶えず刻み続けるだけだった。


     おわり  

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2010年09月30日 21:05