ヴォフリール惑星連盟

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ヴォフリール惑星連盟



目次



設定


国の標語 万国の労働者よ、団結せよ
国歌 連盟国歌
公用語 ヴォフリール語 
国家元首 ヨシフ・アガフォノフ評議会最高会議幹部会議長
首都 パシコフスキー
最大都市 サルトィコフグラード 
公式略称 惑星連盟、PL
英語国名 Vofrel planet league
通貨 ユール






国歌


1.Союз нерушимый республик свободных
Сплотила навеки Великая русь
Да здравствует созданный волей народов
Единый, могучий Советский Союз!

Славься,Отечество наше свободное,
Дружбы народов надёжный оплот!
Знамя советское, знамя народное
Пусть от победы к победе ведет!

2.Сквозь грозы сияло нам солнце свободы,
И Ленин великий нам путь озарил:
Нас вырастил Сталин-на верность народу,
на труд и на подвиги нас вдохновил!

Славься,Отечество наше свободное,
Счастья народов надёжный оплот!
Знамя советское, знамя народное
Пусть от победы к победе ведет!

3.Мы армию нашу растили в сраженьях
Захватчиков подлых с дороги сметем!
Мы в битвах решаем судьбу поколений,
Мы к славе Отчизну свою поведем!

Славься,Отечество наше свободное,
Славы народов надёжный оплот!
Знамя советское, знамя народное
Пусть от победы к победе ведет!






政治

ヴォフリール共産党による社会主義体制
  • 政府
【元首】
評議会最高会議幹部会議長:ヨシフ・アガフォノフ
【首相】
人民委員会議議長:ワディム・アントニオヴィチ・コチョルキン
【閣僚】
外務人民委員:セルゲイ・ウラディミロヴィチ・ナズドラチェンコ
内務人民委員:コンドラト・ヴァレンチノヴィチ・ヴォフク
財務人民委員:エレオノーラ・イーゴレヴナ・ヴィウチェイスカヤ
司法人民委員:ニコライ・ラビノヴィチ・ズボフ
国防人民委員:ゲオルギー・パーヴロヴィチ・カミンスキー
陸軍人民委員:ドミニーカ・イーゴレヴナ・プルジェズドムスカヤ
海軍人民委員:ヴァレンチナ・アレクセエヴナ・バユノワ
宇宙軍人民委員:ゲオルギー・パーヴロヴィチ・カミンスキー
民族人民委員:クセニヤ・ボリソヴナ・マニロワ
労働人民委員:キーラ・コンスタンチノヴナ・ウラジーミロワ
貿易人民委員:レイラ・イリイーニチナ・エヴスチグネエワ
教育人民委員:オレグ・レオニドヴィチ・ポノマレンコ
食糧人民委員:アレクサンドラ・ヨシフォヴナ・マゴメドワ
交通人民委員:パーヴェル・フョードロヴィチ・トポルコフ
  • 人民委員部
【連盟級】
国防人民委員部
宇宙軍人民委員部
陸軍人民委員部
海軍人民委員部
外務人民委員部
通信人民委員部
宇宙産業人民委員部
中機械製造人民委員部
弾薬人民委員部
兵器人民委員部
一般機械製造人民委員部
工作機械製造人民委員部
造船産業人民委員部
重機械製造人民委員部
電気産業人民委員部
発電所人民委員部
非鉄金属人民委員部
鉄類金属人民委員部
化学産業人民委員部
ゴム産業人民委員部
交通路人民委員部
河川船団人民委員部
海洋船団人民委員部
建設人民委員部
対外貿易人民委員部
調達人民委員部

【構成共和国級】
内務人民委員部
国家保安人民委員部
法務人民委員部
建築資材産業人民委員部
軽工業人民委員部
食品産業人民委員部
漁業産業人民委員部
繊維産業人民委員部
国内貿易人民委員部
農業人民委員部
穀物・畜産ソフホーズ人民委員部
林業人民委員部
国家監督人民委員部
保健人民委員部
財務人民委員部

【付属機関】
国家計画委員会
国立銀行
芸術問題委員会
高等学校問題委員会

  • ヴォフリール共産党指導部
【最高指導者】
アルトゥール・グリゴリエヴィチ・ロギノフ
【最高会議・最高会議幹部会】
最高会議幹部会議長:ヨシフ・アガフォノフ
最高会議幹部会議員:アルトゥール・グリゴリエヴィチ・ロギノフ
最高会議幹部会議員:ワディム・アントニオヴィチ・コチョルキン
最高会議幹部会議員:ドミニーカ・イーゴレヴナ・プルジェズドムスカヤ
最高会議幹部会議員:ヴァレンチナ・アレクセエヴナ・バユノワ
最高会議幹部会議員:ゲオルギー・パーヴロヴィチ・カミンスキー
【中央委員会】
中央委員会委員長:アルトゥール・グリゴリエヴィチ・ロギノフ
中央委員会委員:ワディム・アントニオヴィチ・コチョルキン
中央委員会委員:ゲオルギー・パーヴロヴィチ・カミンスキー
中央委員会委員:エヴゲニー・エゴロヴィチ・ワクリン
中央委員会委員:ニコライ・ラビノヴィチ・ズボフ
中央委員会委員:クセニヤ・ボリソヴナ・マニロワ
中央委員会委員:ライサ・ボリソヴナ・プロトコポワ
中央委員会委員:リンマ・ワディモヴナ・ダンコワ
中央委員会委員:オレーシャ・ウラディミロヴナ・クラスノピフツェワ
中央委員会委員:オレグ・レオニドヴィチ・ポノマレンコ
中央委員会委員:オリガ・アルノリドヴナ・イグナチェンコ
中央委員会政治局長:アルトゥール・グリゴリエヴィチ・ロギノフ
中央委員会政治局員:ワディム・アントニオヴィチ・コチョルキン
中央委員会政治局員:ゲオルギー・パーヴロヴィチ・カミンスキー
中央委員会政治局員:エヴゲニー・エゴロヴィチ・ワクリン
中央委員会政治局員:リンマ・ワディモヴナ・ダンコワ
中央委員会政治局員:ニコライ・ラビノヴィチ・ズボフ
中央委員会政治局員:オレグ・レオニドヴィチ・ポノマレンコ
中央委員会書記局長:アルトゥール・グリゴリエヴィチ・ロギノフ
中央委員会書記局員:ゲオルギー・パーヴロヴィチ・カミンスキー
中央委員会書記局員:エヴゲニー・エゴロヴィチ・ワクリン
中央委員会書記局員:ライサ・ボリソヴナ・プロトコポワ
中央委員会書記局員:クセニヤ・ボリソヴナ・マニロワ
中央委員会書記局員:オレーシャ・ウラディミロヴナ・クラスノピフツェワ
中央委員会書記局員:オリガ・アルノリドヴナ・イグナチェンコ


外交

【国交を有する国家】
  • ハルベルト騎士連合
  • ルメリア社会主義統合体

【所属組織・締結条約】
  • ヴォフリール惑星連盟とルメリア社会主義統合体の友好及び相互協力援助に関する条約
  • ベレズニキ友好条約
  • ヴォフリール、ハルベルト協力条約(仮)


経済

 計画経済体制がしかれ、農民の集団化が図られている。また医療費等が無料で税が全く無い。高い経済成長率を維持しているが、これは政治犯や思想犯を中心とした強制労働に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されている。しかし現在まで社会主義経済は躍進に躍進を続けており、また完全雇用と社会保障を実現している。
 だが第一次産業に限れば流通の整備が遅れているため、農製品の生産が十分にあったとしても、それが消費者の手元に届けられるまでに腐敗してしまうという体たらくである。そのために闇市場のような闇経済や汚職が蔓延し、そのような中で共産貴族がはびこるという結果になっている。


交通

 国民の自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られているだけでなく、国外からの旅行者の国内における移動に大幅な制限があることもあり、国内外の交通に対する需要は非常に限られている。リニア網は、長距離や近距離を問わず軍事転用が容易なことから比較的整備が進んでいるが、個人所有の自動車の数が限られていることから、高速道路などの自動車インフラは貧弱なままである。
 また外国への個人的理由での渡航は、亡命と外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能である。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能である。しかしながら、国力と友好関係を誇示することを目的に、国外への定期便は比較的整備されている。





惑星ヴォフリール


惑星ヴォフリールはカイバー星系第十惑星である。ヴォフリールは岩石惑星であるが、そのほとんどが卑金属で構成されている大陸と流体金属の海、空には重金属雲がたちこめる炭素系生命体にとっては死の惑星である。しかしながら金属元素生命体によって豊かな生態系がはぐくまれている。重力は人類標準重力の7.2倍



住民

惑星ヴォフリール発祥の金属元素生命体である。非常に長命で平均寿命は実に250年にもなる。そのため時間感覚の違いや体構造の違いなどから非金属元素生命体(炭素系生命・珪素系生命など)をつい最近まで生命体と認識していなかった。そのため在来種に対する同朋意識、種別はあまりなかったが、人類とコーディネータという星団外生命の来訪を受け、星団及び星系に対するナショナリズムが高まりをみせていたが、星団の動乱を経て星団内生命は朋友、機械種は同胞、星団外生命は敵という非金属元素生命体にたいする線引きがなされた。


歴史

サルトィコフ革命

  • 前史
 サルトィコフでは3826年の農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対する不満が継続的に存在していた。また、産業革命により工業労働者が増加し、社会主義勢力の影響が浸透していた。これに対し、ビンジュコフ朝の絶対専制を維持する政府は社会の変化に対し有効な対策を講じる事を怠っていた。皇帝パーヴェル2世が暗殺されるなどテロも頻繁に発生していた。この結果サルトィコフ帝国は惑星の盟主としての立場を失い、改革に成功した属国や辺境領が次々と分離・独立し、列強とその衛星国を形成していった。

 3955年には首都パシコフスキーで生活の困窮を皇帝に訴える労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出した。この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市で労兵協議会が結成された。

 これに対し皇帝アキーム2世は十一月勅令で国会開設と憲法制定を発表し、立憲民主党の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功した。

 3956年に国会が開設されると、首相に就任したヴァレンチン・アドリアノヴィチ・ムズィカンツキーによる改革が図られたが、強力な帝権や後進的な農村という社会の根幹は変化せず、さらにヴァレンチン・アドリアノヴィチ・ムズィカンツキーの暗殺(3961年)や第七次世界大戦への参戦(3964年)で改革の動きそのものが停滞してしまった。

一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指した社会民主労働党は方針の違いから、3962年にキリル・セルゲエヴィチ・マチャショフが指導するボリシェヴィキとエドゥアルド・グリゴリエヴィチ・ヴォイキンらのメンシェヴィキに分裂していたが、農民の支持を集める社会革命党と共に積極的な活動を展開し、第七次世界大戦において深刻な打撃が伝えられるとその党勢を拡大していった。

  • 八月革命
 八月革命は3966年の大寒波などによる食糧不足を原因に、市民が帝政への不満の声を上げた散発的な抗議デモから始まった。市民の不満はサルトィコフの第七次世界大戦への参戦継続にも向けられた。抗議デモが数日の内に首都圏全域にまで拡大をとげると、様々な革命的政党が活動を始めた。九月前半には首都の連隊に所属する多くの兵士も反乱を起こし、多くの市民を巻き込んで抗議運動は猛烈なものとなった。これらの動きを見た政府や軍首脳は専制の継続を無理と判断し、アキーム2世に退位を勧告し300年余りにおよぶビンジュコフ朝は終わりをつげた。

  • その後
 首都のデモに端を発する3967年の八月革命後、漸進的な改革を志向する臨時政府が成立していたが、第七次世界大戦での西部戦線は既に破綻しており国内の政治的混乱にも収拾の目処は付いていなかった。

 翌年二月にヴァレンチン・ロジオノヴィチ・モロゾフ将軍による反乱が失敗した後、ボリシェヴィキに対する支持が高まった。そこでボリシェヴィキは武装蜂起の方針を決め、四月下旬に権力奪取を成功させた。その後の列強による干渉戦争や内戦にも勝利して権力を確立した。ボリシェヴィキは1919年に共産党と改称した。

国家樹立

 3972年に行われた全連邦大会で国家樹立が宣言され、マチャショフ社会主義共和国連盟が成立した。しかしその僅か2年後の3974年1月にキリル・セルゲエヴィチ・マチャショフは死去する。

 マチャショフの死後、ユーリー・アキモヴィチ・スホフは政敵であるティマフェイ・アキモヴィチ・ソロマトキンの国外追放(その後ソロマトキンは亡命先で、スホフが送り込んだ刺客により暗殺された)を皮切りに、反対派を排除して、スホフら官僚派主導の一国社会主義路線を確立した。

 3976年には、刑法が成立した。全体主義から罪刑法定主義を排除し、社会主義に有害な行為は全て犯罪となり、犯罪者は刑罰でなく社会防衛処分に付されるとされた。

 3978年から行われた第一次五ヶ年計画の中核に置かれたコルホーズが代表する、強引な農業集団化に伴う「富農」絶滅や飢饉によって死亡した人数は、推計によって最大約7000万人に達する可能性もあると言われている。

 無理な農業集団化の強行により、3982年から3983年には大飢饉が起こり、5000万人とも1億人とも言われる餓死者が出た。 特にチェリャビンスクにおける飢餓は甚だしく、4000万人から7000万人の餓死者が出た。

 3980年代に大恐慌により多くの資本主義国が不況に苦しむ中、マチャショフ連盟はその影響を受けずに高い経済成長を達成したが、その経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働(実質的な奴隷制度)に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分された。

第八次世界大戦

 政権を掌握したスホフら官僚派は、東パルーマ諸国を社会主義化し、自国の衛星国として、第七次世界大戦後にその勢力を急速に強めていたルナキア共和国やフラリス連邦などの「帝国主義」国との緩衝地帯にする計画を持っていた。

 しかし3980年代に入ると、西パルーマ諸国に「共産主義打倒」を掲げた政権が次々と成立し、パルネシア条約機構を結成した。その後両者はパルネシアの支配権を巡って激突することとなる。

 しかし3989年、それまで敵対していたパルネシア条約機構と不可侵条約を結ぶと同時に『マ連はパルネシア条約機構の南パルーマ侵攻を黙認する代わりにパルネシア条約機構はマ連による東パルーマ諸国を社会主義化を黙認し、グルクランドは両国で東西に分割する』という密約が交わされた。これを受けマ連は、同年のパルネシア条約機構によるグルクランド侵攻の際にはグルクランドの東半分を占領した。これにより第八次世界大戦の火蓋がきって落とされた。またカラキア三国に圧力をかけ、マ連軍の通過と親マ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに三国に進駐した。さらに親マ政権を組織し、ついにこれを併合した。同時にマ連はラルバートにセタサシアを割譲するように圧力をかけ、3990年6月には国自体を併合した。

 3991年6月にはパルネシア条約機構との戦闘が開始され、その結果マ連はルナキア共和国やフラリス連邦を中心とした連合国側として第八次世界大戦に参戦した。パルネシア条約機構軍の猛攻により、開戦後まもなく首都に迫られた他、チェリャビンスク攻防戦やヴォロネジの戦い等により軍民併せて数百万人の死傷者を出したものの、圧倒的物量を背景とした正面攻撃を繰り返し、最終的にの首都パルネシア条約機構であるロマーナを陥落させ勝利した。

 その際にマ連軍は、「ロマーナ入城は連合国揃って行う」との密約を無視したばかりか、ロマーナ陥落後もパルネシア条約機構領内侵攻を続けたため連合国を慌てさせた。マ連軍は兵士や市民が降伏、投降した後でも多数の市民の殺害や婦女暴行など傍若無人の乱暴な振る舞いを続けるため、マ連軍を恐れた条約機構軍は防衛地域を放棄して反転南進し連合国軍に降伏するようにした。これによりマ連軍はパルネシア条約機構領を難なく占領することができた。


 第八次世界大戦の勝利によりマ連はパルネシア条約機構領を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 また、開戦前に併合したカラキア三国への支配、ラルバート領有を復活させた。この結果、マ連はヴォフリール全土の七割を支配下に置くこととなった。これを受けマ連は国名をマチャショフ社会主義共和国連盟からヴォフリール惑星連盟へと変更した。

大粛清

  • 大粛清の始まり
 ユーリー・アキモヴィチ・スホフの死後、後継として3992年3月アルトゥール・グリゴリエヴィチ・ロギノフが党内の実権を掌握したが、共産党の中には党人派古参党員を中心にロギノフの暴走を掣肘しようという者が多数存在した。そんな中、3994年12月に共産党幹部ステパン・コンスタンチノヴィチ・ポリヴァノフが暗殺されるという事件がおこる。この事件については、当時ポリヴァノフの存在に脅威を感じるようになっていたロギノフが部下のウラディミル・セミョーノヴィチ・ドロズドフに命じ暗殺させたという説が有力視されているが真相は不明である。

 ロギノフは、この犯人グループはヴェニアミン・アドリアノヴィチ・フロロフ一派(党人派主流)であるというでっちあげをおこない、その逮捕を口実に、自らの反対派抹殺に乗り出すこととなった。まずヴォルゴドンスクの共産党関係者が5万人ほど逮捕され、強制収容所へ連行された。さらにかつて反フロロフでロギノフと手を組んでいた大物たち、グレープ・キリロヴィチ・ソロマチンとウラディスラフ・エドゥアルドヴィチ・トラヴニコフらも「共産党本部爆破未遂事件」を企んだとして逮捕され、3996年の第一次パシコフスキー裁判にかけて銃殺刑に処した。先に逮捕されたヴォルゴドンスク共産党の関係者5万人もこの裁判の後に全員が銃殺刑に処されている。大粛清時代最初の大規模殺戮だった。

 しかしこれはまだ序の口で、粛清はこの後さらに過激さを増すことになる。ヴォ連では3994年7月以来国防人民委員部が秘密警察としての機能を兼務し、一連の粛清の指揮をとっていたが、ロギノフはその長官ドロズドフの取り組み方が手ぬるいと考え、3996年9月にはドロズドフを解任した。後任のヨシフ・アルトゥロヴィチ・スースロフのもとで、粛清の規模は一気に拡大することとなった。

  • 党人派・ドロズロフ派大粛清
 ロギノフに抜擢されたスースロフは、その期待にこたえるべくまずドロズロフ体制の刷新にあたった。国防人民委員部の体制の刷新はスースロフが長官に就任した3996年9月の前後と3997年2月から3月の間の中央委員会総会中の二度にわたって大きく行われた。3996年9月前後の刷新は、要職をスースロフ派で固めることであり、ドロズロフ派の左遷であった(が、この時はまだドロズロフ派の多くは引き続き職務にあたっていた)。続く3997年の総会中の刷新がドロズロフ派の粛清を意味していた。


 大量粛清で国防人民委員部の組織を固めたスースロフは、共産党幹部たちを徹底的に調査させ、政治的逮捕の組織化を行うとともに、地域ごとの逮捕人数の割当まで指示している。スースロフ就任直後の3996年秋ごろから逮捕の範囲が一気に拡大している。また粛清の理由として「右翼」「反動分子」「ファシストの手先」などかねてからのレッテル貼りに加えて「産業破壊活動」を理由にするようにもなった。ヴォ連の経済的混乱・貧困などロギノフの失政を「反ヴォ分子の陰謀」のせいにして覆い隠すためであった。

 大粛清の正当化を図るため、ジャーナリスト招いた「公開裁判」を行うことも忘れなかった。リュドミール・ヴェニアミノヴィチ・ズヴォリンスキー(重工業人民委員第一代理)、アズレト・ピョートロヴィチ・イロフスキー(元財務人民委員)、コンドラト・ワディモヴィチ・パンクラチェンコ(最高会議幹部会員)ら大物被告は、3997年1月の第2次パシコフスキー裁判にかけて、「議事堂陰謀事件」の首謀者として死刑判決を与えた上で銃殺刑に処した。さらに3997年2月の中央委員会総会中には、リュドミール・ミハイロヴィチ・シロテンコ(元党政治局員)、レオニード・エゴロヴィチ・サヴォスチン(前人民委員会議議長・元党政治局員)、ドロズロフ(前国防人民委員)らを「右翼陰謀事件」を企んだとして逮捕し、翌3998年の第3次パシコフスキー裁判において死刑にした。

 粛清は、単に反ロギノフ的な人物だけに留まらず、ロギノフに忠実だった者たちへも及び、ヤコフ・ウラディミロヴィチ・バラクシン、イリヤ・キリロヴィチ・チェルヌィショフ、スタニスラフ・アズレトヴィチ・アファナシエフスキーのような3980年代にユーリー・アキモヴィチ・スホフの粛清や集団化を支持した共産党幹部たちも次々と粛清されていった。

 また3997年春ごろからは地方党組織にも粛清を開始した。まずスースロフは各地域の内務人民委員部トップの首を挿げ替えて、実質的な指揮権を現地の党組織から首都パシコフスキーの国防人民委員部へと変えた。そして革命以来、領主のようにふるまっている地方党組織の大物たち、ヴェニアミン・ワディモヴィチ・ブベーニン、ニコライ・セミョーノヴィチ・ソルヤノフなどを続々と粛清していった。

 第十七回共産党大会において、中央委員または中央委員候補だった者139人のうち98人がこの時期に国防人民委員部によって逮捕・銃殺されるに至った。

  • 軍部大粛清
 第一次パシコフスキー裁判では、ゲルマン・アルトゥロヴィチ・スクリャロフ将軍(ベレズニキ軍管区司令官)やスタニスラフ・ウラディミロヴィチ・クプツォフ将軍(パルネシア方面赤軍司令官)など軍部高官も処刑されていたが、彼等は軍人としてというより、ロギノフに並ぶ古参ボリシェヴェキとしての側面を恐れられて粛清されたとみられる。

 軍部自体への粛清は、当初はロギノフといえどもなかなかできずにいた。だが、3996年7月に逮捕されたレフ・アントニオヴィチ・シャタロフ将軍(アリメチエフスク軍管区戦車隊司令官)が、拷問のすえ廃人にされて軍部内の“共犯者”の名前を“自白”したことで、徐々に高級将校への粛清がはじまった。さらに3997年6月11日にはアラム・マルコヴィチ・ロマキン大元帥(国防人民委員代理)、ゲルマン・アルトゥロヴィチ・スクリャロフ一等軍司令官(ベレズニキ軍管区司令官)、ピョートル・スタニスラフォヴィチ・ヴォイルコフ一等軍司令官(カムイシン軍管区司令官)ら名だたる軍高官がまとめて“スパイ”として銃殺され、これを機に軍部の粛清がいよいよ本格化する。

 以降、翌3998年まで所謂「軍部大粛清」が吹き荒れることとなり、大元帥5人のうち3名、元帥25人のうち18人、軍司令官(大将)85人のうち73人、軍団長(中将)385人のうち262人、師団長(少将)795人中610人、旅団長(准将)1506人中820人、大佐階級も四分の三が殺され、高級将校の65%が粛清された計算になる。政治委員(共産党から軍監視のために派遣されている党員たち)も最低20万人以上が殺害され、また赤軍軍人で共産党員だった者は300万人いたが、そのうち半数の150万人が3998年代に命を落とした。

  • 大粛清の結末
 ロギノフとスースロフの粛清は広範に拡大され、おそらく人類の歴史の中でも名だたる政治抑圧の事例となった。その対象は政府や党の高級幹部に留まらず、作家エドゥアルド・アルノリドヴィチ・アバルキン、詩人イヴァン・キリロヴィチ・フヴァトコフ、演出家で俳優のオレグ・アドリアノヴィチ・ゴロホリンスキー、生物学者ヴァレリー・アズレトヴィチ・カリーニン、経済学者コンドラト・フセーヴォロドヴィチ・ココレフなど一般の文化人や市民にも広まり、社会は相互監視と密告に支配された。

 しかし3998年後半にはいると、大量抑圧によって国家機能や経済運営が支障を来たすほどになり、弾圧の実行者である治安機関がその責任を問われることとなった。3998年末になると、ロギノフはスースロフと国防人民委員部を批判するようになり、スースロフはついに長官の座をカミンスキーに奪われ、さらにロギノフ暗殺計画を企んだとして4000年に銃殺された。またオシプ・ニコラエヴィチ・クジミンはじめスースロフの部下たちも次々と処刑され、粛清にあたった関係者たちで大粛清時代を生き残れた者は多くなかった。4003年の第二十一回党大会でこのスースロフ粛清についてロギノフは「奴は人殺しだ。3998年に多くの無罪の人々を殺した。だから銃殺したのだ」と述べた。

 その後もカミンスキーの指導で政治弾圧は続いているものの、大粛清時代に比べるとはるかに縮小した。現在に至るまで何度か名誉回復運動が起きたが、すべて鎮圧されている。大粛清の死亡者数には諸説があるが、3990年代に反革命罪で死刑判決を受けたものは約720万人とされる。一説にスースロフ体制下の3997年~3998年にかけて1000万人が処刑され、数千万人が強制収容所における過酷な労働で死亡したとされる。他にも農業集団化に伴う「富農」追放や、飢饉によって死亡した人数は、推計によって最大約7000万人に達する可能性がある。ただし過酷な取調べ・尋問の過程で死亡した者や、有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した者の人数については正確な統計が残されていないため、その人数を合わせれば死亡者数は増大するはずである。このことについて自らの責任を問われたロギノフは「一人の人間の死は悲劇だが、数百万の人間の死は統計上の数字だ」と答えた。

最終戦争

  • グルクランド動乱
 グルクランドは、戦後アルトゥール・グリゴリエヴィチ・ロギノフに忠実だったリンマ・アレクセエヴナ・バタノワが全権を握っていたが、経済政策の失敗から生活水準は低いままに置かれていた。労働者の不満は、工場の自主管理と労働組合の結成の自由の要求という形となり、それは闘技場での暴動という形で現れていた。また、農民たちも政府の強制的な集団化から悲惨な状況にあり、農地の私有と耕作の自由を要求していた。ジャーナリストや文筆家からも労働環境の改善や言論の自由が要求され、学生も大学の狭き門と学ぶ環境を改善しようとして当局から独立した学生の組織を設立していた。国民全体から不平不満が巻き起こる中、独裁政党であったグルクランド勤労者党内でもリンマらロギノフ主義者を批判する改革派が台頭。そこへヴォフリール共産党内部でロギノフが病に倒れたため実権を握ったガリーナ・スタニスラフォヴナ・ジャジュチェンコ最高会議幹部会議長のロギノフ批判演説が、幹部たちに大きな議論を呼び起こした。

 4006年7月18日、ヴォ連の圧力によりリンマは党書記長の辞任に追い込まれた。しかしその後任には、ロギノフ主義者のステパン・ヤロスラヴォヴィチ・プザノフスキーが選出された。これに反発した市民は、集会禁止令にもかかわらず、クウアクェツウオで大規模なデモを行なった。ヴォ連指導部は急遽、党幹部会のセルゲイ・ドミトリエヴィチ・ドゥビニンとワレリー・ワディモヴィチ・メレミャーニンの派遣を決定したが、事態を収拾する間もなく、蜂起が勃発する事態に至った。

 ドゥビニンとメレミャーニンがグルクランドに出かけている間に、ヴォ連指導部はグルクランドに対する出兵を決定する。グルクランドから戻って真相を知ったドゥビニンは、ジャジュチェンコの自宅に押しかけて、自らの自殺をほのめかして派兵の撤回を求めたが、ジャジュチェンコはこれを拒否した。

 4006年10月23日、プザノフスキーの退陣を求めて学生たちがクウアクェツウオをデモ行進し、多数の労働者もそれに加わった。夜になりデモ隊と秘密警察との間で衝突が始まると、グルクランド勤労者党指導部は急遽、大衆に人気のあった前首相ヴィクトール・ピョートロヴィチ・シャムシンを復職させる決定をした。

 翌24日、シャムシンは正式に首相に任命されたが、その頃クウアクェツウオの町はすでに民衆とヴォフリール国防軍の戦闘状態にあった。他の地域はヴォフリール国防軍と革命派との間の停戦が行われたりヴォフリール国防軍が革命の動きを阻止した管区もあるなど、平穏な状態が保たれていた。その後クウアクェツウオのヴォフリール国防軍も結局は戦闘を停止した。

 夜のうちに労働者評議会と国民評議会が組織された。また3995年や3999年の弾圧以来、始めて政治的な要求を行う政党が結成されたが、大多数の民衆は社会主義を維持しようとする政党を支持した。このような中で教会の名士たちを含む多くの政治囚たちが釈放された。また大衆はヴォフリール惑星連盟からの脱退をシャムシン政府に迫ったが、このことは再びヴォフリール国防軍の介入を招くこととなった。

 10月25日、シャムシンは戒厳令を取り下げる。街の人々の中には、ヴォフリール国防軍の戦車に近付き、兵士と話し合う者もいた。説得に応じたヴォフリール兵らは、グルクランド人を戦車に載せ、国会前広場へと移動し約700人集まった。しかし、突然発砲が始まった。国会前広場は血の海と化し約100人が死亡、約300人が負傷した。この事件については秘密警察の発砲が原因であるとの見解もある。

 最も激しい戦闘はドスシン劇場のあるドスシン広場で起こった。民衆は火炎瓶を用いてヴォフリール国防軍部隊に抵抗した。ィチュドスツでは労働者によるストが起きクウアクェツウオでシャムシン首相と直談判をおこなっている。

 10月26日病床から復帰したロギノフは再び実権を掌握、動乱の責任はガリーナ・スタニスラフォヴナ・ジャジュチェンコ議長にあるとし、ジャジュチェンコ議長をグルクランドに派遣、首脳会談を行い事態の収拾するよう命じるとともに国防軍完全撤退終了から一週間の現地謹慎処分を命じた。

 10月27日夜には、ドゥビニンの報告によると、ジャジュチェンコとシャムシンとの会談が行われ、その結果ヴォフリール国防軍の撤退が宣言された。

 10月29日には警察、軍隊、市民による国民防衛隊が結成。翌10月30日にはドゥビニンが、軍に統制を任せるべきと報告している。これを受けて、ヴォフリール国防軍撤退が開始された。しかし同日午前9時頃共産党クウアクェツウオ地区本部で秘密警察隊員と民衆との間で衝突が始まり、建物から出る武器を持たない秘密警察隊員らが次々と民衆により射殺。その後も命乞いをしながら出てくる秘密警察隊員や勤労者党書記らがリンチされた挙句、遺体が街路樹に晒し者にされる事態に。この事件を聞いたドゥビニンは10月31日に反ヴォ連活動の活発化を報告しているが、ロギノフはヴォフリール国防軍の撤退を進めるよう指示している。

 11月3日午前8時、ヴォ連指導部はグルクランド共和国を反革命国家認定し、ヴォフリール惑星連盟から除名した。そして同日午後2時、独立に沸くグルクランド共和国に対し、三発の核ミサイルと千発以上の通常ミサイルが降り注ぎ、グルクランド共和国は惑星上から消え去った。推定被害者数は1000万人に上った。これに対しルナキア共和国やフラリス連邦を中心とした連合国から非難声明が発せられ、ヴォ連国内からもロギノフ委員長に対し抗議が相次いだがこれに対し委員長は「では、われわれが農業集団化を実行したとき、なぜ黙っていたのですか。あの時だって2000万人も死んだのですよ」と応え、攻撃に踏み切った理由については「死が全てを解決する。人間が存在しなければ問題は起こらない」「愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする」と言い、この攻撃は連合国に対する牽制であるとした。

  • クラクナ事変
 4006年12月2日ルナキア共和国の首都クラクナにおいてサルトィコフ・マフィアの一斉摘発が行われ、国営企業や民間企業の乗っ取り、薬物売買、マネーロンダリング、武器の密輸などを行っていたシャモフグループなどの大組織までもが検挙されたために逮捕・起訴された人数は十万人に上った。このためルナキア各地でサルトィコフ・マフィアや共産党員がテロを引き起こし、被害件数は一日当たり200件に上った。事態を重く見たルナキア政府はクラクナに戒厳令を発し、軍を出動させた。
 これを受けロギノフは「ルナキア共和国と自称するに野蛮人どもによって善良な市民が無実の罪を着せられている。このような国家の存在を許してはならない」と中央委員会総会において発言し、総会において全会一致で「ルナキアに対する市民の開放命令」が採択された。
 当然ながらルナキア共和国側はこれに対し抗議を行いヴォフリール惑星連盟と連合国の対立は一層深刻なものとなった。
 そしてついに4007年1月14日ルナキア・フラリス率いる連合国は惑星連盟に対し宣戦布告を行った。





軍事

特徴

国防軍の特徴としては陸軍偏重主義とレーザー信仰の二つが挙げられる。

  • 陸軍偏重主義
そもそも大陸国家として成立した経緯から陸軍の整備が伝統的に優先されていたが、レーザーによる航空戦力の無力化を背景とした圧倒的物量による殲滅作戦の成功がそれに拍車をかけた。そのため現在では各軍管区に五個軍、総司令部直轄三個軍の合計三十三個軍総勢約1300万人に上る。

  • レーザー信仰
惑星統一期の初期には中距離大量破壊兵器と圧倒的物量による主要都市蹂躙作戦が行われていたが、連合国側が大陸間弾道弾の開発に成功したため連盟側主要都市もミサイルの危機に晒される様になり、更には連合側航空機の発達により徐々に制空権を奪われ、全戦線が膠着状態に陥った。その状況を打破すべくMG07型レーザーが投入された。命中精度は低かったが数で補い、制空権を奪い返すとともに建築物に対し用いることで蹂躙作戦の一端を担った。そのため連盟ではレーザーに対する過度な期待をもつ軍人が多い。

国防軍

  • 中央軍事会議
    • 国防軍参謀本部
    • 国防軍後方勤務本部
      • 主計部
      • 開発部
      • 施設部
      • 憲兵隊
陸軍
  • 陸軍総司令部
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    • 西部軍管区
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    • 東部軍管区
    • 南部軍管区
    • 南西軍管区
    • 極東軍管区
    • 陸軍督戦隊
    • 陸軍防空隊
海軍
  • 海軍総司令部
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    • 東部機動艦隊
    • 西部防衛艦隊
    • 東部防衛艦隊
    • 海軍航空隊
宇宙軍
  • 宇宙軍総司令部
    • 宇宙軍参謀本部
    • 軍事衛星局
    • 迎撃衛星局





名士

  • アルトゥール・グリゴリエヴィチ・ロギノフ
ヴォフリール共産党最高指導者

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最終更新:2009年08月20日 02:02
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