天理教の事物

てんりおうのつとめは、天理教の喜びに満ちた神楽の儀式であり、その儀式をもとにした現世での嬉しき、神人一体での使命である。親神は道の子(信者)につとめを課す。そのつとめは、神楽と手踊りによって表にあらわれた親神と一体となり、日々陽気に普請(喜びに満ちて使命)をなし、ともに世界の立替えを図るべしというもので、これが天理教における神一条、救け一条となる。天理教の教えではつとめは、めづらしく、たのもしく、おもしろく、にぎやかしい、喜びに満ちた性質を持つ神楽の名にふさわしいものと説く。 また、神楽というものは、世界一列の心を合わせた手踊りや鳴り物の演奏と、その演奏のコンセプトをもとにした諸々のひのきしん(仕事)を含むことばである。この神楽のもとのひのきしんこそが、救けが実をあげていく大元であるとも説く。神事と人事の一体化、理と事の一体化も陽気な神楽(神人合一)があってのものだねと説かれるのである。 なお、てんりおうのつとめには大和の親里ぢばでなされるかぐらづとめと一般教会でのつとめがあるが、前者は後者の元となるもので、獅子のおめんなどをかぶり、行われる。

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ひのきしんは、天理教でたすけの根幹となる鮮やかな守護を召喚する前の儀礼的行為(報恩感謝の発露)である。

概要

具体的には信者による教団内外での奉仕活動を指すことが多いが、その本質を探ると<病むほどつらいことはない わしもこれから ひのきしん>(みかぐらうたの一句)にみられるように、病気平癒などを目的とした超自然的能力(だめの教えの力)の優しき心、科学的知識への呼び込み(吹き込み)を指向した活動であると考えられる。

また、<もっこかついでひのきしん まだあるならばわしもいこ>(みかぐらうたの一句)にみられるように、つとめなどの 複雑な構造でなく、幼児にも分かるような単純な構造によって、鮮やかな守護を召喚するとき、ひのきしんという表現を用いているとも考えられるし、 <夫婦そろうてひのきしん これがなにより肥えとなる>(みかぐらうたの一句)にみられるように、 月(水)と日(火)によって、優れた地盤に上等の檜の柱(真柱)を建てる守護力召喚の儀礼構造(甘露台社会構築への大工心の基盤構造)をひのきしんと命名したものとも考えられる。

なお、天理教より分派した新宗教であるほんみちほんぶしんでも同一の用語が使われている。

外部リンク

  • 天理教Webサイトより(教理解説)《何れも2014年1月28日閲覧》
    2000年11月17日時点に於ける教団Webサイトより《前出現行サイト内掲載分とは異なる解説方がとられている》。同日付でインターネットアーカイブに保存された
  • 天理教災害救援ひのきしん隊《下記何れも2014年1月28日閲覧》
    天理教布教部Webサイトより。現在は『災救隊の活動紹介は、天理教ホームページで』と題された記事が掲載されているのみ。ちなみに教団内では災害救援ひのきしん隊を「災救隊」とも呼称
    「ひのきしん隊」Webサイトのトップページ《教団サーバー内に開設されていた》。既に現存せず、上記リンク先は2003年2月12日付けでインターネットアーカイブに保存されたもの
    天理教Webサイト内に存在していた活動アーカイブページ。既に現存せず、上記リンク先は2011年11月19日付けでインターネットアーカイブに保存されたもの
  • 少年ひのきしん隊の活動 - 天理教少年会本部Webサイト内『活動~こどもおぢばがえり』より《2014年1月28日閲覧》

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神一条、救け一条は、天理教における、道の子(信者)の意識の中の最も枢要な、聖なる言葉であると考えられる。意識記憶の中の、この言葉が活性化するとき、道の子は天理王命と一体不二となるともいえる。

信仰によって、得られるとされる心の聖なる鏡に、神、天理王命が入りこみ、映し出され、活動されるとき、その光によって、救けの深い事情が鮮やかに示され、道の子は、もっとも道の子にふさわしい意識空間、霊威空間を持つと解せられる。

<そばが勇めば、神も勇む>(おふでさきの一句)という状況を現実のものとするには、また元の因縁に基づく、陽気ぐらしの道を通るためには、この言葉を使って、うまく身上(みじょう)、事情を吹き分ける必要があるものとも推察される。


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元の神、実の神は、天理教における神認識である。 元の理(元はじまり)と呼ばれる神の大計画の一環として、 教祖(おやさま)こと中山みきに天降った日より、 世界一列陽気ぐらしへの神の新しい計画がはじまったと いうことを信者が意識する際には、神をこのように神認識する。 これにより、実なる働きにつながる思考回路を自らのうちに形成する。

神を元の神、実の神と呼ぶとき、この世のものは すべて神の体であり、神のめぐみであり、神からの借り物であるという種と なるべき芯がえられ、さらに陽気ぐらしに向けて、それらを巧みに組み合わせ、 暮らしに生かすための思案(思考回路)が生まれる。このことを道の子(信者)は利用するのである。つまり、この呼び方によって、をや(神)の光を、 陽気な救け一条の実の働きに、活かさせていただくのである。

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喜びの日々(よろこびのひび)とは天理教による利他(ひのきしん)に伴う法悦(功徳、神聖、聖別の日々、さづけの日々)である。唯一の所有物として許された神聖な心で、かりものであるすべてのものを道具として使って、生きる日々のことである。

30年来の清貧(寒さ、神聖、清潔、謙虚な生活、聖を得ようとする強い意欲の土壌)を通して、本席(大工)との出会いなど、たすけあいの人間関係(集団)の土台(甘露台と用木たち)ができ、心と生きる場(陽気の元)が大調和してくると、胸の芯から真実の思案(ひながたの道)と生きる喜びが、聖なる湧水のごとく溢れてくるが、それを味あうとき、喜びの日々と説く。お筆先の知性のもと、30年来(その追体験)の到達点として、自由自在な、そして肥沃なる、利他に伴う潤いある、末代にいたる、喜びの日々(陽気の実)を得る、このような、元の神、実の神に沿った日々をおくることが深い信者には求められる。<水飲めば水の味がする>など浅い信者にはむっとするが、天理教における聖を根幹から深く理解するための、厳しい口記(泥海を水で変容させたことを示す授記すなわち古記の根幹ーーー水のさづけ)として、深い信者には納得するものであると説いている。

現代社会の清貧(貧困)に関する善良な市民による思案の土台として、鳴り物に感謝しつつ、不平をふくらませず、幸せに生きるとはどういうことかを思案する土台として、清貧と富の関係を知る(富を基盤とした聖なる清貧生活の)土台として、富者のあるべき行動規範としても、そして世俗にまみれた邪見を捨て、神聖を得る道の険しさと神人(神通力ある聖人)としてのすがすがしさ、神との一体感の心地よさを示す証人の日々として、宗教的には(だめの教えとしては)位置づけられると言えるだろう。 イスラム教(喜捨)やキリスト教(感謝ーーー聖体の秘跡、聖母マリア、典礼、ルターにおけるキリスト者の自由、聖霊派)、仏教(阿弥陀を尊ぶ龍樹)における聖(神聖)との接点でもある言葉であり、司教権、教導権のむづかしい舵取りが求められる分野を示す人類普遍の課題(典礼問題を一例とする永遠の課題)ーーーだめの本質ーーー神聖なたすけあいによる縁起(末代つづく聖なる守護因縁、相互供養の喜悦の日々)への道を示すことばでもある。

なお、喜びの日々は真柱 中山善衛氏の陽気暮らしの幸福論(書籍)の表題ともなっている。

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陽気暮らし (ようきぐらし) とは、天理教が目指す生活のあり方。神にもたれて危なげなく、よき地を受け、恵みを受けて、日々陽気、たすけあいの心で、感謝、慎みの中で、喜びに満ちて暮らすこと。陽気(感謝、慎み、たすけあい)の心を引き出して、心どおりにうつった鏡(ストック)を得て、あるいはそれに映る道具の陰気を掃除して、道具衆(別席あるいは本席)として、水、火、風の力をいただき、取り次いで、自由自在にいきること。また神の社の構成員として、責任ある仕事(さずけ、神人への慎み深い抜苦与楽の授記)を通じて、より大きな助けあい社会(甘露台社会)をともに築いて、陽気に生きて行こうとする考え方。 神とともにあって、その恵みをもって、たすけあい、勇みあい、誠の理を治めあい、不思議を感じあって、楽しみつつ、優しき心で神聖を生きる、このようなことを陽気暮らし(喜びの日々)と呼ぶ。

<めんめん楽しんで、後々のもの苦しめるようでは、ほんとの陽気とはいえん>(おさしづの一句)に見られるように、教友を得て、思案(求道)していくものと説かれるが、一方人間思案でなく神の視点で、神にもたれて、この世は神の体と思案して、神の田地を得て、暮らすとも説かれており、陽気暮らしは多くの教友との豊かな関係と神の恵みの融合によって形成される(キリスト教における隣人愛と神への愛での形成)と説いていると考えられる。

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元の理(もとのり)は天理教の<人間創造>に関する教えである。

教祖(おやさま)が農事の多忙なときに、また夜深に熱心な信者を相手として 説かれた命の真実の話とされる。

現在では天理教教典第三章に簡明かつ要点を説かれており、 そこでは人間は皆<どじょう>であったことや、目うるおいを司る<くにとこたちのみこと>」などの 十柱の守護神や、どじょうを育んで、にっこり笑って出直しした母なるめ猿についてなどの人知を超えた人間元はじまりの教え(世界設計図)が 明文化されている。

また、元の理は天上、地上、泥海と三界に別れて示されており、天上では月日を中心とした星をもって、 地上では教祖(おやさま)を中心とした人々をもって、泥海中では、大龍、大蛇を中心とした水中 動物をもって示されており、これらの神意は天理教最高行事かぐらづとめの意義付けに ありともされている。

このようなことから「元の理」は、また陽気や甘露台やひのきしんや鳴物(神の眼、耳、鼻、口、両手、両足、骨と皮膚)などを深く深く理解するために必須のものとして、天理の別席などで聞かせて頂ける。

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天理王命(てんりおうのみこと)は、天理教において世界人類を創造したとされる単一のである。 天保9年(1838年)に「教祖(おやさま)」こと中山みきの体に宿ったとされている。

天理王命とは、天理の地(かんろだいのぢば)に末代授けられた神名でもある。 おさづけとよばれるたすけや、日々のつとめの際にはこの神名で行われる。 <救け一条>において、をやと子一体の神人を発揮する時使われるので 最も神聖な神名といえよう。

(例)あしきをはらいたすけたまえ天理王命

とてもかみな(神名)を呼び出せば はやくこもと(十全守護の道具を備える子元ーーー甘露台)へたづねでよ 南無天理王命 南無天理王命

天理王命は、十柱(十善)の神の分身の総体でもあり、全宇宙の恵みの総体でもあって、 わが子である全人類に、神の立腹に応じた心の掃除や、それを踏まえた上で、十全の守護(泥海古記を起点としたさまざまな前世の因縁を集めた末代にわたる守護ーーー転生輪廻を使った守護)を行うとされる。

(例) 天理王命の原因は元をはじめた神一条である。

なお、天理教においては愛情を感じて親神とよび、 授けの取次ぎなどの使命を果たすために天理王命とよび、 よろず守護されていることを感じて月日(月日のやしろ)と呼ぶようである。

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月日の社(つきひのやしろ)は、天理教の教祖(おやさま)の 別称のひとつである。天理教の特徴である<夫婦(月日)の大事>を象徴する別称と なる。神聖を強調する時は神の社といわれる。元の神、実の神と一体である 教祖の、心、口、体、霊威などを総称して、月日の社と称する場合もある。 信仰によって得られるとされる鏡屋敷を月日の社と称する場合もある。

月日の社は、大宇宙たる天理王命、われわれを心底より可愛いがるをや,実の働きのための路銀を授ける場所としてのかんろだいと一体のものでもあって、元の神、実の神(親神)を教示する1つの視点(科目)ともいえよう。



かしもの・かりものとは天理教における身体観、道具観、地球観、自然観、そして命の観に関する教えであり、すべては親神天理王命から借りているもの、親神からみれば(可愛い子どもたちへ)貸しているものとする教えである。他者のものを借りて使う場合、人は些細なものでも大切に使う。ましてや親神天理王命から借りているものである。大切に、また親神の思いである陽気ぐらしのために生かす(陽気に親孝行をする)べきとする教えである。

この教えではまた、親神の思いをともに抱くとき、実の親からの贈り物である潤いとぬくみによって、自然法爾のコントロール(自由自在な神通力)が顕現すると説かれる。恵みの非物質的ななにかが、光子群のごとくになって自他の脳神経系や感覚器官に充満し、わがものである心を統治し、借り物である身(からだ)を素敵に統治すると解釈される。

一方この教えは(戒律)としての側面もある。道の子は多かれ少なかれ、元(もと)を知ることによって、福男、福女の特性(福智)を持つようになるとされる。これらに伴う、ほこり(高慢など)を掃除するための教えとしても、かしもの・かりものの教えは位置づけられよう。

なおこの教えは、日常的に一句で、元はじまりの理と永遠の命なる陽気の心の芯から、また神の息(風)をいただいて、<身のうちかりもの、心一つがわれのもの>と吹き分けられる。



8つのほこりとは、天理教における罪業観の名称である。

概要・解説

8つのほこりはそれぞれその罪業の内容により、「をしい」・「ほしい」・「にくい」・「かわい」・「うらみ」・「はらだち」・「よく」・「こうまん」の各種類に分類される。天理教においては、すべての罪業という結果は、これらの埃(ほこり)が心の鏡に積もるという原因によって生ずると教示され、この埃を親神の力を使わせていただき、心の掃除を行ってすべての罪業を消し、心の反省を促させるものとする。 これ等8つの罪業に加え「うそとついしょう(追従)これきらい」という教祖の言葉も残されており、この2つを含めて全部で10個となる。

仏教における十善戒(不殺生などの十種の宝戒)やキリスト教の「丸太の教え」の更なる原因を、庶民にわかりやすく、楽しく、更にはそれを除く神の道具(水の授けなど)について具体的に言及しつつ、陽気に説かれているところに、天理教の罪業観の特徴がある。この特徴によって、空海(真言宗)や道元(曹洞宗)や最澄、日蓮(天台宗)や法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西や白隠(臨済宗)、明恵(華厳宗)などの各祖師、出雲大社春日大社の気品ある和(神道)の教え、カトリック教会プロテスタント教会の歴史や地盤のある優れた教えがあるにもかかわらず、明治、大正、昭和、平成にかけて教勢を伸ばす不思議が現れたといえよう。

また、これらのほこり(授けやたすけ)は親神から<<いんねん>>といわれるメッセージによって示されるとも説かれ、<<たんのう>>とよばれる一種の陽気な修行とも関付けられ、龍樹が中論で述べているような、縁起の重要を説いたものとの、深い理解へ誘われる(参考 中村元著 龍樹) 。


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最終更新:2014年07月30日 00:28
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