01-639 :由梨と上原先生:2010/07/23(金)00:41:56 ID:uxTDdKqe
11

「っと!」
 ドサッ、ガラガラ…

 ファイルを積み重ねた瞬間、ギリギリで均衡を保っていた資料の山が崩れ、溜め息が出る。
 放課後、闇が辺りを覆い尽くす時刻。
 僕は職員室に人が居なくなるのを見計らって、棚に整理されている資料を片っ端から調べていた。
 勿論、僕の前任者達の事を調べる為なのだが。

「特に気になるってモノは無いなー…」
 引き継ぎ作業の際に関連資料のある場所は聞いていたので、
履歴、資料ノートなどそれなりの情報は出て来るものの、結局めぼしいものは見つからなかった。

「まあ…そりゃそうか」
 僕は何に期待してたんだろう。
 自分がしている事が何だか馬鹿らしくなり、ぼんやり資料の顔写真を眺める。
「確かにイケメンだな」
 桜井先生は当時23歳。確かに、俳優にでもなれそうな爽やかな男性だった。
 反して久保田先生は、言っては悪いがいかにも風采が上がらない、中年男性という感じ。
「で、青柳先生が26歳…2つ歩美先生より年上」
 て事はやっぱり、歩美先生と付き合ってたのは青柳先生か。
 青柳先生は三白眼が特徴的な、いかにも仕事の出来そうなエリート、という感じだった。

 つまり。
 藤本の話を鵜呑みにすると、襟沢はこの教師達の誰かとは付き合って(脅迫して?)いた。
 歩美先生も1人目と3人目の講師と付き合っていた、という事は分かっている。
 しかも先生のあの様子だと襟沢と歩美先生が、
かつて1人の男性を取り合っていたのでは?という構図が浮かんでくる。

「となると…青柳先生が何か知ってそうだな」
 青柳先生の高坂の講評や歩美先生の反応をみる限り、彼があの2人により関わっているのは間違いない。
 となれば青柳先生に、実際に聞いてみるのが……
「ん?」
 あれ?

「上原先生」

「こんな時間までお仕事ですか?」
 不意に声を掛けられ慌てて振り向くと、スコップを持った平塚先生が背後に立っていた。

01-640 :由梨と上原先生:2010/07/23(金)00:49:17 ID:uxTDdKqe
 パラリと、スコップから砂粒が落ちた。

「平塚先生こそ、こんな夜更けに土いじりですか?」
 いつから居たのだろうか?全く気が付かなかった。
「花壇は私の人生ですからね」
 聞いてみると、夜になるまで作業をしていたのだという。
「なる程、本当に熱心ですね」
「上原先生こそ。お探し物ですか?」
「いえ何となく見ていただけで…」
「ではそろそろ私達も帰宅しませんか?もう真っ暗だ」
「あ…」
 ここで妙な行動をすれば、変に怪しまれてしまうかもしれない。
 僕は平塚先生に従い、一緒に帰宅する事にした。
 一つの疑念を胸に。
 そうそれは、ささやかな疑念。
 青柳先生の資料だけが、殆ど見つからなかったのだ。





「大丈夫だよ由梨ちゃん、上原先生多分気付いてないとみるりは思う」
「…みるりアイツと喋ったの?」

 月曜日の放課後、私の部屋にはみるりが見舞いに来ていた。
 見舞いに持ってきたみかんを自分で食べながら、みるりは続ける。
「うん、前の先生の話が聞きたいって」
「! それって」
「うーん多分由梨ちゃんの話じゃなくて、歩美ちゃん先生の事で聞かれたっぽい」
「て事は…」
「また歩美ちゃん、悪い癖出てるみたいだね」
 …もうあの女のアレは殆ど病気なんじゃないかと思う。
「だから、心配しないで学校来たらいいとみるりは思うよ。
上原先生がよっぽどな奴じゃない限り、ボイスレコーダーも返してくれると思うし」
 みるりは、くりくりした瞳を一心にこちらに向けて私に訴える。
 みるりが心配しなくても、上原はそんな事やんない。
 何故かそう確信してしまう自分が腹立たしく、同時に戸惑う。
 あんなキモくて情けないバカ男なんて、信じられる訳がないのに。

「大丈夫だよ由梨ちゃん…明日ボイスレコーダー返して貰お」
 みるりは幼い顔を綻ばせて、私にきゅっと抱き付く。
「へへ、由梨ちゃん大好き」
「もうアンタ、本当にレズっぽいよね」
「みるりは幼なじみだもーん」
 ニコニコと、子猫のように私にじゃれつくみるりを見ながら考える。

 そうだ、明日で全て終わらせよう。
 私のテクを持ってしたら、あのウザい男を黙らせる位簡単な筈だ。
「わぅー、こちょこちょっ」
「ギャッ!くすぐるなっ」
 それに。
 こんな私を慕ってくれるみるり。
 みるりをこれ以上面倒な目にも合わせたくない。
 どんな事をしてでも、私は私の信念と、自分の地位を守るんだ。

01-641 :由梨と上原先生:2010/07/23(金)00:52:24 ID:uxTDdKqe
「……」
「だからこのwithを使って…」
「……」
「そうそう、はいOK!じゃあまた明日」
「先生」
「ん?ああ何だ襟沢か」
「あっ」
 振り返った上原の顔はあまりにも普通で、思わず言葉に詰まってしまった。

 水曜日。
 風邪が思いの外長引き、私が登校して来たのはアノ日から早5日後の事だった。
 私が居ない間も何一つ変わる事なく日々は流れ、
私は空いた小さな隙間を埋めるようにして学校へ戻ってきた。
 底冷えする廊下に、冷え切った足の指が凍り付くようにして張り付く。
 まるで、その場に縛り付けられるように。
 私はこの停滞した空間が嫌いだ。
 停止し続けるから淀んでいく、沈んでいく。

 そんな中で上原は、きっと私の事を考えて思い悩んでいるに違いなかった。
 バカ正直で愚かなあの男は、私の登校を気が気でなく待っている筈。
 だったのに。

「……」
「な、何かな…?」
 何で私を見ても動揺しないの?
 おかしい、いつものクソ上原なら「あわわわ」とかカスみたいに動揺する筈なのに。
「襟沢…?」
 あれ、なんかムカつく。
 何か凄く、滅茶苦茶腹立たしい。
「っ」
 バッ!
 苛立つ気持ちを押し込み、私は勢いよく頭を下げた。

「先生この前はいきなり帰って…ごめんなさいっ」
「いや、僕こそ何と謝っていいか!」
 私が頭を下げる姿を見て、上原はあからさまに狼狽える。
 ハハ何だ、やっぱりいつもの情けないバカ男じゃない。
 内心ニヤリと笑いながら、私は言葉を紡ぐ。
「それで、ボイスレコーダーなんですけど、あれは」
「ああ勿論返すよ。もし良ければ今日また放課後、生徒指導室の前に居てくれないか?」
「えっ」
 信じられない。
「行けそうか?」
「…………あ、ハイ」
 あの上原から誘ってきた。

01-642 :由梨と上原先生:2010/07/23(金)00:57:24 ID:uxTDdKqe
 やっぱりおかしい。
 もしかして私の予想が外れて、実は上原もアイツらと一緒で…。
「…っ」
 そこまで考えて、自分の発想に愕然とする。
 教師なんて、皆一緒に決まってる!
 どいつもこいつも、上原も、下半身だけで生きてる低俗な生き物なのに、私は今何の期待を

「じゃあまた放課後にな」
「ハイ…」
 上原はくしゃりと私の頭を撫でて、教室を後にして行った。

「……」
 残された私は無意識に、上原が触れた髪に手を触れていた。
 自分の体温なのは分かっているのに、奇妙な温かみを感じて何故か吐き気がした。
 奥歯を噛み締める。

「襟沢さん!」
 不意にクラスメイトに呼び掛けられた。
「え…?」
「どうしたの?顔真っ赤だよ」

 私を保つ歯車の一つ一つが、今静かに狂い始めようとしていた。




「じゃあまずは、コレを返すな」
 そして放課後。
 指導室に呼ばれた私は、傾く夕日を背に上原と向き合っていた。

 上原はボイスレコーダーを胸ポケットから取り出し、コトンと机の上に置いた。
「中の録音は聞いてないよ」
「本当すみません。授業を録音しようと思って持って来たもので」
「勉強熱心はいいけど、ボイスレコーダーを使うのはちょっと賢過ぎだなあ」
 僕も大学生時代その手を使っておけば良かった、と上原は屈託なく笑う。
 夕日の淡くくすんだ橙色の光を受け、上原の瞳が静かに輝く。
 その様子に耐え難い程苛つく。
 まるで金曜日の出来事を全て忘れてしまったように、平然としている。
「……」
 いや、上原はあの時の感情を「忘れてくれ」と私に言ったのだった。
 ならば、この態度は当然で。
 それに私は、脅す価値もないと、コイツを見逃そうと。

「用はこれだけだよ。時間を取らせてしまって済まなかったね」
「上原先生」
 でも先生。

「何かな?」
「ねえ先生。この前のだけじゃ、物足りなくありませんか?」

01-643 :由梨と上原先生:2010/07/23(金)01:00:04 ID:uxTDdKqe
 私はにっこりと微笑みながら、足を組む。
 日が傾き、私の顔に影が色濃く差す。

「私…やっぱり先生の事忘れられない…ううん、忘れたくない」
 そう、私は永遠に影に棲む人間なのだ。
 私は立ち上がり、上原の隣に腰を下ろす。
「ねぇ先生…キスして」
「襟沢…」
 上原は相変わらず間抜け面で目を見張り、硬直している。
 内心、ほくそ笑む。
 それがアンタにお似合いの顔、私の心を掻き乱すなんてエラそうな事するからだ。

 ちゅ、
「んっ」

 私は上原の返事も待たず、そのまま体ごと上原にのし掛かり、キスをした。
「ん、はぁ…」
 ちゅ、ちゅくっ
 無理に舌を引き出し、唾液を救って飲み込む。
「は…」
「んんっ」
 唾液が甘い。
 頭が、唇が痺れる、心臓が張り裂けそうに痛い。
 頭がおかしくなってしまったのかもしれない。

「センセ…」
 下唇を吸い、一度離す。
 上原は息を荒げて、潤んだ瞳で私を見つめる。
 私はやはりにっこりと微笑み、言葉を紡ごうと唇を広げ
 上原は寂しげな顔で微笑み、囁いた。

「ボイスレコーダーのスイッチを入れておこうか?」
「 」
 時が止まった。

01-649 :由梨と上原先生:2010/07/25(日)21:56:02 ID:A4fTCJfy
12

 橙色が今あるモノを焼き尽くすようにして、部屋を染め上げる。
「…なんで?」
 私は、無様な言葉しか吐くことが出来なかった。

 何で上原がそんな事を言うの?
 何で何もかも分かったような顔でそんな
 上原は。
「僕は、別に何でもいいんだよ」
 私の見開いたままの瞳を見つめ、言う。
 私の腰を支えていた手が背後に回り、優しく背中を撫でる。

「僕は、襟沢が襟沢であるなら、何でもいいよ」
「……」
「襟沢が強迫するために僕に近付いていたって
本当は僕の事が好きなんかじゃなくても
何人の教師に同じ事をしてきたとしても
僕にとってはどうでもいい事なんだ」

 何故。
 何故こんな事までコイツは知ってるの?
 誰がこんな事を?
 いやそれよりも何故。
 コイツは私を赦しているの?


「僕にとって大事なのは、君が傷つかず、死ぬまで笑顔で居る事だ」
 上原は私の瞳を真っ正面から捉える。
「だから襟沢、聞きたいんだ」
「…ア」
「なんで襟沢」
「アンタみたいなクソ教師に同情されるいわれはッ!!!」
「何に苦しんでいるのか教えてくれ。命に代えても、僕は君を守る」


「ま、」
 胸の奥から何か大きな固まりが込み上げて来て、息が出来なくなった。
「まも、る………」
 文字通り、開いた口が塞がらない。
 僕が君を守るって?
 一体いつの時代の口説き文句?
 恥ずかしすぎて爆笑してしまう、意味がわからない。
 何のナイト気取り?今の時代そんな事言う男が何処に居るってわけ?
 私はまだ一度も
 そんな人に、一度も会ったことなんてなかった。

「襟沢、泣かないで」
 上原の声で、初めて自分が涙を流している事に気が付く。
 みっともない。恥ずかしい。
「これは…っ」
「うん」
「アンタみたいな奴の為に流してる訳じゃっ」
「うん」
「…だから……ッ」
 息が詰まって、何も喋られなくなって、私はスーツの裾を握りしめて、上原に抱きついた。
 落ちまいと必死でしがみつく、幼子のような心許なさが胸中に広がった。

01-650 :由梨と上原先生:2010/07/25(日)21:59:01 ID:A4fTCJfy
「落ち着いた?」
「うん」
 ひとしきり泣いた後、襟沢は腫らした目を擦り、僕の方に向き直った。
 蓋を開けてみれば、やはり襟沢は年相応の少女だった。
 分不相応に何らかの闇を抱えて人を騙して、それでも人間を諦めきれない、ただの子供だ。
「落ち着いた所で聞きたい事があるんだけど、いいかな」
 出来るだけ安心させる様な口調で、襟沢に問いかける。
「…いいよ」
 泣き疲れて少しぼんやりした表情で、コクンと襟沢は頷く。
 今までの得体の知れなさが一掃されたせいか、そんな様子が可愛く見えて仕方がなかった。

「確認の為に訊くけど…レコーダーで、今までの先生に強迫をしていたんだね」
「警察に連れてくの?」
 さっと顔色を変えた襟沢に、慌ててフォローを入れる。
「そんな訳ないだろ、何で先生の僕が大事な生徒を売らなきゃいけないんだ」
 安心させる為に言ったセリフだったのだが、何故か襟沢は妙な表情を浮かべていた。
 その表情が気になったが、とにかく質問を続ける事にする。
「えっと…それは今まで辞めた先生達全員にかい?」
「…」
 襟沢は口を開いたまま言葉を発しなかったが、暫くするとポツリポツリと応え始めた。

「ううん…久保田先生と、青柳先生だけ」
「桜井先生は違うんだね?」
「その頃はこんな事しようと思わなかったし、桜井は中島と付き合ってた」
 …なるほど。
 つまり桜井先生から久保田先生に切り替わる前に、襟沢に何かが起こったという訳だ。

 そして僕は、いよいよ一番知りたかった核心に触れた。
「答え辛いかもしれないけど……襟沢は何故、こんな事をしようと思ったんだ?」
「………」
 案の定、襟沢は俯いて黙り込む。
「今言える事だけでいいんだ、言いたくない事は言わなくていい。少しでもいいから先生にヒントをくれないか?」
「…先生、先生はこのまま、ずっとこの学校に居るの?」

01-651 :由梨と上原先生:2010/07/25(日)22:02:04 ID:A4fTCJfy
「え?」
 何だ急に。
 襟沢は僕を真剣な目で見上げている。
「えっと」
 戸惑いながらも、ともかく答える。
「あー…そうだね。まだ何とも言えないけど、人不足だしその可能性が高いと思うよ。僕も」
 襟沢の小さな肩を見つめる。
 何が自然だ。素朴だ。理想の教育だ。
 そんなモノで人が守れるもんか。
「…ココに居たいし」
「そっか」
 襟沢はフッと気が抜けたように、リラックスした表情を見せた。

「今の質問はなにか関係が」
「私ね。入学して暫く経ってから、レイプされたの」

 え。
「学校帰りに、いつも通らない道を歩いてたら、山の中に引きずり込まれた」
「……」
「田舎ってさ。街灯もないから、本当に夜は真っ暗なんだ。近くに公衆電話も、コンビニもなくて、民家だって疎らで」
 笑みさえ浮かべながら、襟沢は喋り続ける。
「レイプしたのは、スーツ着てる只のサラリーマン。『只の大人』だった」
「…」
「その時、『ああ、大人ってこういうものなんだなぁ』って思ったの。
大人はいつだって一方的で、私達子供の弱みに付け込んで、食い物にするんだって」
 それは違う襟沢、それは
「だから私も、やられたらやり返そうって。今度は私が大人を食い物にしようって思ったの」
 襟沢寂しい。それはあまりにも
「ただ、それだけだよ」
 襟沢。

「…先生泣かないで、大人でしょ」
 襟沢は僕の頭を撫でて、少しだけ笑った。



 漸く気持ちが収まり、僕は襟沢の両肩を掴み、今日一番言いたかった科白を口にした。

「襟沢、こんな事はもう止めるんだ」
「うん…止めるよ。私には先生が居るから」
 襟沢はそう言って、瞳を潤める。
「え、あ」
 その答えに、情けない位動揺してしまう。
「あのっ襟沢!その、君の事は知っての通り僕も……なんだがっ、えっと」
「うん、私ちゃんと待つよ」
 僕の慌てっぷりを笑いながら、襟沢は余裕の発言をする。
 どっちが大人なんだか……。

01-652 :由梨と上原先生:2010/07/25(日)22:10:57 ID:A4fTCJfy
 そして襟沢は、これまで訊くのを我慢していたらしく、
会話が途切れた所で待ちかねたようにある質問をして来た。
「先生、警察に言う気もないなら何で前の先生の事、あんなに訊いてきたの?」
「ああ…」
 実を言うと、その話が今日襟沢の話に次いで、聞きたい事だった。
「ちょっと、青柳先生について聞きたいんだ」
「えっ」
 青柳、という言葉に、ビクリと襟沢の肩が震えた。
「青柳が…どうかしたの」
 その反応に妙な確信を覚えながら、僕は自身の鞄を手繰り寄せ言った。
「妙な事が分かったんだ」



「青柳洋介が失踪してる」
 僕の持ってきた資料を見ながら、襟沢は不審げに眉を顰めた。
「青柳が…?」
「実は襟沢が学校を休んでる間に、青柳先生の家に行ったんだよ」

 襟沢が学校を休んだ2日目の放課後、僕は青柳先生の自宅へと向かっていた。
 先生3人に連絡した所、桜井先生も久保田先生も住居を変えたのか
電話が繋がらず、青柳先生の自宅だけに連絡がついた。
 電話口で失踪した旨を説明されたものの「詳しく話を伺いたい」と、無理を言って翌日上がらせて貰ったのだ。

「それで…」
「青柳先生のお母さんに寄ると、失踪したのは、今年の7月15日」
「…」
「ちょうど終業式頃だね」
「終業式の日には、もう青柳は居なかった…」
 襟沢は、真っ青な顔をしていた。

01-653 :由梨と上原先生:2010/07/25(日)22:16:10 ID:A4fTCJfy
「話に寄ると、当日青柳先生は学校に行ったきり、そのまま帰って来なかったそうだ」
 捜索届も出したそうだが有力な情報も見つけられず、今日に至ってるらしい。
「襟沢知らなかったのか?学校にも警察が来ていた筈だけど」
「分からない…少なくとも先生達は何も言ってなかった」
「そうか。夏休みと被っていたし、うやむやのうちに伝えられなかったのかもな…」
 どうやら青柳先生の失踪は、本当に一部の人間の間でしか知られていないようだった。
「僕としては青柳先生が心配だし、君とも関わりの深い人だから、どうしても気になるんだ」
「7月15日…」
「襟沢、何か知っていないかい?」
 僕の言葉に、襟沢はピクリと身動ぎする。
 彼女は明らかに何かを知っている。
 知っていて、僕に話すか迷っている。
 かつての僕になら、彼女はそれを話さそうとは思わないだろう。
 だが今なら、今の僕たちなら。
「…知ってる」
 襟沢は僕の目を真正面から捉え、答えた。


「15日はテスト最終日だったんだけど、選抜クラスはテストの後に授業が入ってたの」

 確かに襟沢のAクラスは、受験に向けて成績別に分けられた中でも、トップ組だと聞いていた。
「だから私も青柳も遅くまで残っていて、皆が帰ったのを見計らって呼び出したんだ」
「何で?」
「ちょうどその頃は、やっと青柳から脅しのネタに使えそうな声が録音出来て、いよいよ脅迫って時だったの」
 サラリと襟沢は恐ろしい事を言う。
 そして、脅しのネタに使えそうとはつまり…。
 胸が苦しくて声に詰まるが、何とか襟沢の言葉に反応する。
「それで呼び出して…どうなったんだ?」
 襟沢は当時を思い出すようにじっと一点を見つめ、感情を込めずに言った。
「殺されそうになった」

01-654 :由梨と上原先生:2010/07/25(日)22:23:36 ID:A4fTCJfy
「こっ殺されそうにって…!」

 衝撃の余り声が大きくなり、慌てて自分の口を抑える。
「脅迫したら私の身も危ないなんて、当たり前の事なんだけど」
「どういう事だ、何があったんだ」
「……『ダビングしたCDを友達数人に持たせてるから、私に何かあったらネット上に流して、
学校や親、各関係者に郵送で送りつける事になってる』って言ったら久保田の時は大人しくなったからいけると思ったの」
 襟沢のやり口は冷酷で容赦がなく、逃げ道がない。
 無表情で淡々と語る姿は、その心の闇を映し出すようだった。

「それでも、いつでも逃げ出せるようにドア側に立って。油断しないで」
「青柳先生は何を」
「青柳は逆上して、私の首を絞めたの」

「あ…」
 彼女の声を聞いて、僕の脳裏に奇妙な情景が再生される。

 北の土地に訪れる、短い夏の夜。
 薄闇の中、男の目が光る。
 黒髪が机に散り、闇の中で同化する。
 小さな箱の中で。
 少女は白い喉元を震わせ、息絶える。
 彼女の瞳は何も写さない。
 それは彼女がもう

『ガキの癖に騙しやがって』
『ぶっ殺してやる!』

「その声だけ、覚えてる」
 襟沢の声に、ハッと現実に引き戻される。
「あ…その後はどうなったんだい?」
 襟沢は眉を顰めながら、自身でも困惑げに顛末を話した。
「私は途中で頭を打ち付けて、気を失って」

 気が付いたら家のベッドで寝てたの。

 ……。
「……飛んだな」
「記憶が全くないの、ホントに」
「親に聞いたら、みるりが見つけて送ってくれたみたいで」
「高坂みるり?」
 ここで、思いも寄らぬ名前が出た。

01-655 :由梨と上原先生:2010/07/25(日)22:28:41 ID:A4fTCJfy
「友達なの。幼なじみで親友なんだ」
 そうだったのか…。
 しかし高坂は、襟沢の事情を知っているのか。

「みるりに聞いたら、正門で待ってたけど、いつまで経っても私が来ないから教室まで迎えに来て見つけたみたい」
「その時の様子は…」
「教室には私以外誰も居なかったし、私に乱暴された跡も全く無かったって」
 そして翌日、もう青柳は出勤して来なかった。

「正直何が何だか分からなくて、今まで放置してた。怖くて忘れようとしてた」
「襟沢、気持ちは分かるよ。でも」
「分かってる…それっておかしいよね。絶対に、何かあったんだ…」
 キュッと唇を結んで、襟沢は視線を床に落とす。

 僕は襟沢の顔を両手で押し上げ、僕と視線を合わさせた。
「目を背けるのは簡単だ。だけど襟沢、これを解決出来たら、僕も君も自分を変える事が出来るかもしれない」
「変える…」
「今までのしがらみを捨てて、本当の自分を、また生きたいように生きる事が出来るかもしれない」
「……」
 襟沢はポカンと僕を見つめていたが、すぐに目を逸らしてしまった。
「どうしたの」
「私…こんなに醜いのに、変われたりするのかな…」

01-656 :由梨と上原先生:2010/07/25(日)22:31:12 ID:A4fTCJfy
 襟沢は小さく震えていた。
 僕の手を両手で掴み、縋るような瞳で僕に訴える。
「だってこんな話…軽蔑したよね、最悪だって、醜い女だって」
 声に涙が混じる。
 襟沢の手は、氷のように冷えていた。
「軽蔑なんてしてないよ」
 僕は襟沢の手をギュッと握り返し、笑いかけた。
「襟沢がしてきた事は、先生側に過失があるにしても悪い事だ。だけど」

「必死で生きてきた人間を軽蔑するなんて、そんな資格は誰にもないよ」
 彼女の冷えた手を擦ると、青白い肌に少し血が通った気がした。



「そうか、藤本が切りつけた可能性も」
 青柳先生の件を考えながら帰り支度をしていると、不意にそんな発想が浮かんだ。
「藤本?」
「アイツ確か人を切りつけた事があるとか何とか…」
 襟沢は僕の考え込む姿を訝しげに見つめている。
 そうだ、あの藤本の事だから、その日現場に居たって何もおかしくはない。
 アイツが何か知ってるんじゃないのか。
「なあ襟沢、藤本が何か青柳先生の件で言ってなかったか?」
「藤本って」
「ほら、君の幼なじみの」
「ああ藤本君…なんで?」
「何でって」
「確かに昔から近所だし、同じ学校に居るけど」
 襟沢は本当にキョトンとした顔で、僕に真実を突き付けた。

「今は会っても挨拶位しかしない仲だよ?」

「―――」
 一体どれが真実で、どれが虚構なのか。
 僕は見極める時期に来ていた。

01-662 :由梨と上原先生:2010/07/29(木)01:09:28 ID:LYS4yGgr
13

「という訳で俺のストーカー事情が露見してしまった訳ですが」
「自分で言うな…悲しすぎるぞ」

 翌日、早朝7:00。
 朝練中に顧問を介して呼び出すと、暫くして物凄く不機嫌な顔をした藤本が現れた。
 今にも殴りかかってきそうな殺伐とした空気を漂わせていた藤本だったが、
テイクアウトの牛丼(ギョク付)が入ったビニール袋を突き付けると、一転してニヤリと笑顔を見せた。

「ていうか朝牛って、リーマンの発想ですよ」
「嫌なら食うな」
「で、俺に聞きたいんでしょ?青柳の件」
「…やっぱり昨日も居たんだな」
 驚異の張り付き具合に、こいつのプライベートはどうなってんだと変な勘ぐりをしてしまう。
「はっきり言って俺、完全なストーカーですからね」
「僕はてっきり。事情もよく知ってるし、歩美先生からも幼なじみで付き合う寸前だと…」
「事情はストーキングと高坂と喋ってるトコを立ち聞き。中島には一度だけ『幼なじみだ』
って言った事があるんで、由梨を牽制する為にアイツが適当に吐いた嘘だと思いますよ」

 また歩美先生か…。
 名前が出ただけで、思わず頭を抱えてしまう。
「その様子だと、中島に結構やられたみたいっすね」
「…その件については、ちょっと放っておいてくれないか」
「まあ中島も、青柳には手痛くやられたっぽいですね」
「え」
 思わず頭を上げると、藤本は相変わらずすました顔で牛丼をかき込んでいる。
「先生ー紅生姜もっと貰ってきて下さいよ」
「藤本それはどういう」

 ジャー、ピチャピチャッ

「冷っ!?はっ?」
 雨?え、あ?!
 一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 藤本は。
「上原先生、アンタには本当に殺したい位腹が立ってるんですよ」
 藤本は僕の頭上で紙パックを握り潰し、無表情で飲料水を浴びせかけていた。

01-663 :由梨と上原先生:2010/07/29(木)01:15:34 ID:LYS4yGgr
 髪が萎れ、水滴が滴る。

「なっ何を!」
「何が守るだよお前はどっかのヒーローか。古いんだよウザいんだよキモいんだよ!」
 藤本は、これまで溜まっていた鬱積を晴らすかのような怒声を張り上げていた。
「そ…そんな事言われても」
「またそれだ、何が純粋だよ、いい人ぶんな。この偽善者!」
「……ッ」
 藤本は、僕にナイフを突き付けたあの時の表情をしていた。
 久々に生徒に罵倒を浴びせられ、体が竦む。
 だがここで萎縮してしまう様では情報は得られない。

 僕は藤本に負けない位の気迫で言い返す。
「偽善でも何でもいいじゃないか!」
「何の開き直りだよっ」
「僕も君も、襟沢の事以外で大事な事なんて無いだろ!」
 その言葉に、ピクリと藤本の表情が動いた。
「何が言いたいんだ」
「僕の言動なんか、君の気持ちなんか、どうでもいいって事だよ」
 そして僕は、自分なりに至った境地を吐露した。

「襟沢をどうやったら救えるか、僕達が考えなきゃいけないのは、たったそれだけの筈だろ?」
「……」
 饒舌な藤本が、初めて沈黙した。


「ウザいとか目障りとか、偽善者とか。だからどうした。偽善でも襟沢が救えるならそれでいいんじゃないのか?」
「……」
「お前のつまらない感情で、チャンスを潰すなよ」
 僕の言葉に、ギリ、と歯を軋ませる藤本。
「クソが」
 敵意は消えない。和解はない。だが。
 藤本は頭は悪くない。
「青柳は……」
 口火は切られ、事態はまた動く。
「確かに由梨を殺そうとしていた」

01-664 :由梨と上原先生:2010/07/29(木)01:20:33 ID:LYS4yGgr
 何か揉めているような声は聞こえてた。
『放して!何しっ……』
『ぶっ殺してやる!』
 最初に聞こえてきたのは、そんな悲鳴と罵声だった。

 俺はすぐに扉を開けて中に踏み込んだ。
『お前が!お前が!』
 教室の中で青柳は、机の上に由梨を押し倒して首を絞めていた。
 本当だ。アイツ、生徒を殺そうとしていたんだよ。
 それを見た瞬間頭が真っ白になって、青柳が振り返った所をそのままナイフで切りつけたんだ。
 場所?
 勿論心臓なんか狙ってないよ。
 何だかんだ言ったって、俺は只の臆病なガキなんだ。
 カッとなったからって人を殺す事なんて出来ない。
 胸を切りつけた。こっちに向かって来たからぶん殴って、何回も何回も気絶するまで殴る蹴るを繰り返した。
 女相手じゃ有利だったんだろうけど、あんなひょろい奴、一瞬だったぜ。
 …ああ大丈夫、あんなもんじゃ死なない。

 気絶させてから初めて、由梨を見た。
 幸か不幸か由梨は気絶してて、俺は考える時間を与えられた。
 勿論興奮状態で考えるもクソも無かったけどさ、それでも考えたんだよ。

 警察には間違っても通報出来なかった。
 言ってしまえば由梨も青柳も俺も、皆加害者だからな。
 それに俺が由梨をおぶって、アイツん家まで行っても不審過ぎる。
 だから、高坂みるりにメールしたんだよ。

01-665 :由梨と上原先生:2010/07/29(木)01:23:53 ID:LYS4yGgr
 え?何で高坂って?
 知ってるだろ?アイツは由梨の幼なじみで親友だって。
 いつも一緒に帰ってるから、その日ももしかして学校に残ってるんじゃないかと思ったんだよ。
 そしたら案の定、
『正門で待ってるのに約束の時間にまだ来ない』
って返ってきたもんだから、シメたと思った。
 適当に事情を話して、由梨をおぶって、みるりと由梨ん家の近所まで行った。
 そんで家に入る段になって、みるりにバトンタッチした。んだ。

 何、襟沢はみるりから何も聞いてない?
 そりゃそうだよ、口止めしたもん。
 由梨とは疎遠になっちまったけど、みるりと俺は近所同士、昔から仲が良い。
 その程度の事なら黙っててくれたんだろ。

 由梨も馬鹿だな。よく考えたら、身長141センチのみるりが160センチの由梨を背負える訳がないなんて事、分かる筈なのに。
 …ん?ああ、みるりは141センチだよ。中2以来1ミリも変わってない。

 そんでその日は一日中、戦々恐々としていた。

 明日朝起きたら警察が来てるんじゃないのか?
 青柳が仕返しに来るんじゃないのか?
 そんな事ばかり考えて一睡も出来なかった。
 翌日、教室は綺麗に片付いていた。
 自分の犯罪がバレないように、青柳が戻したんだと思った。
 青柳は学校に来ていなくて、学年主任の平塚に訊いたら『体調不良』と言われた。
 『体調不良』のまま夏休みが始まり、青柳はそのまま帰って来なかった。
 警察も来なかった。
 夢かなんかみたいに全部過ぎ去って、新しい学期が来てそして

「アンタが来たんだ」
「……」
 話を聞き終わり。
 僕は今、初めてこの学校においてのスタートラインに立った気がした。

 何もない田舎の片隅の、抑圧された小さな箱の中で営まれる、逃げ場のない愛憎と凄惨な悲劇。
 感覚の鋭敏な子供の目には、それがどのように映っているのだろうか。
 僕には検討もつかなかった。
 それは僕がこの土地の者でないからなのか、僕が「大人」だからなのか。
 しかし僕が外の人間で、大人だからこそ。
 停滞したこの状況を動かす事が出来るんだ。

01-666 :由梨と上原先生:2010/07/29(木)01:31:36 ID:LYS4yGgr
「じゃあお前が知ってるのはそれだけか?」
 衝撃的な内容ではあったが、青柳先生の失踪に一歩踏み込むには情報が足りない。
「あー…どうだったかな」
 いつの間にか時刻は8時を回ろうとしていた。
「先生、準備いいの?」
「ああまだ…」

 今聞いた話を考えながらグラウンドの方を眺めていると、裏門の方に一台のタクシーが止まったのが見えた。
「あれ、タクシー」
「ああ」
 藤本はそれを見て、まるでよく知っているものであるかのように、ニヤリと口元を歪めた。
 そして不意にとんでもない質問をぶつけてきた。
「先生さー、中島フってから今日で何日目だっけ」
「あ、6日目かな…ってええっ!今何を」
「ああ、じゃあそれそろか」
 藤本は嘲笑を含んだ口調で言葉を吐き出した。
「いよいよ『歩美様』ご登場って訳だな」


 歩美様。
 藤本のその言葉を理解するのに、そう時間は掛からなかった。
「あっ?え?ちょっ歩美先生!?」
 タクシーから降りてきた先生は。
 大きな大きなサングラスをしていた。
「……!?」
 加えて服が、毛皮のコートにミニスカピンヒール。
 絶望的な事に、車を出ると歩き煙草をしながら、グラウンドを闊歩していた。
 何というか、スローモーションの映像効果に、BGMにはゴージャスな曲が掛かってそうな迫力すらあった……。

「……『歩美様』!?」
「男にフられたり、嫌な事されると、文字通り『グレる』んだよね。アノ人」
「おい藤本!あれ最早別の物体だぞ!」
「先生相当衝撃受けてるね……あれ」

 動揺しまくる僕をニヤニヤ見ていた藤本が、不意に表情を真顔に戻した。
「何だ?」
「そういや…あの日、帰り際に中島に会った」
 藤本の顔が青白く、血の気を失った。


「どういう事だ、それはどんな状況だったんだ?」
「待てよ。そうだ、すっかり忘れてた…」
 藤本は頭を両手で押さえ、考える素振りを見せる。
「そうだ。由梨を背負って、教室の鍵を閉めて。帰り際廊下で中島に会った」
「それで何かあったのか?」
「『何で襟沢さんを背負ってるの』とか訊かれたけど、その時は適当に返事したんだ」
「それで?それだけか?」
「それで、俺は由梨を背負った姿を教師にこれ以上見られたくなくて、だから」
 藤本は言葉を止め、とんでもない過失を犯したかのように、呆然と僕を見つめた。

「『職員室に返しといて下さい』って、2-Aの教室の鍵を渡した」

01-671 :由梨と上原先生:2010/07/30(金)23:48:08 ID:gpmAvoKi
14

 僕に与えられた役割は、あまりにも荷が重いものだった。
 だが、やらねばならない。逃げてはいけない。
 逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ…

「あっっあーゆみ、先っ生!」
「……」
 職員室、お昼前の4限目。
 僕は6日ぶりに、歩美先生に声を掛けた。


「…何ですか」
 予想通り、歩美先生はこちらを振り向こうとはしなかった。
「うっ」
 香水の匂いのキツさに思わず顔をしかめる。
 …いやこんなものに負けてはいけない。僕には果たすべき役割があるんだ。
「あの、その先日は失礼しました」
「そうですか」
 暖簾に腕押し状態の問答に冷や汗をかきつつ、めげる事なく質問を繰り出していく。
 とにかく会話しなければ話にならないんだ。
「えっと…体調の方はもう大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ」
「あのそれで「私は怒ってるんですよ」
 僕の声を割って、歩美先生は漸くこちらに向き直った。

「……」
 歩美先生はいつもの何倍も派手なメイクだったが、同時に変に雑だった。
 取れかけの付け睫毛や、少し歪んだ赤い口紅が、妙に痛々しくて直視出来ない。
「怒ってる…それは当然ですよね」
 なにせラブホテルに女性1人、置いてきてしまったのだ。
 男性としてはあるまじき、配慮や常識に欠けた行為だ。
「はい。上原先生の天の邪鬼に付き合うのは大変ですよ」
 すると歩美先生は僕の予想に反して、奇妙な返しをしてきた。
 天の邪鬼?
「天の邪鬼って…」
「あれから考えたんですよ。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も」
 人も疎らな職員室内で、歩美先生の語調は次第に強くなっていく。
「何で隆さんは、あんな嘘を言ったんだろうって」
 嘘…?何を言ってるんだ歩美先生は。
 嫌な予感がする。
 鈍感な僕にさえも気付けるような危険が、背筋が凍りつくような悪寒が
「そしたら分かったんです」
「分かったって」

「先生はイジワルでそんな事言ってるだけで、本当は私の事を愛してるんだって!」

 歩美先生は幸せそうに、化粧の崩れた顔で弾けるような笑顔を浮かべた。
 悪夢はまだ続いていた。

01-672 :由梨と上原先生:2010/07/30(金)23:51:50 ID:gpmAvoKi
「愛して……」
 ない。愛している訳がない。

 しかし今ココでそれを主張する事は出来ない。
 彼女に今離れられては困る。
「それか、襟沢の売女に騙されてるか」
「そんな!」
「あ?」
 思わず反論をしかけると、瞬間射るような視線が僕の体を貫く。
「いや何でもっ!」
 ダメだ…。
 僕は、自分を殺す事に躍起になる。
 嘘だ…頑張って嘘をつくんだ……
 ………

 そして。

「ハハハ、襟沢みたいな女に騙される訳がないじゃないですか。僕はあ、歩美せ…あゆみ一筋だよ!」
 頭を振り絞って考えた、世にも白々しい台詞を吐いた。
 こんな白々しい言葉に騙される人間が居るのか?
 流石の歩美先生も僕の大根っぷりに、逆に疑念を持ってしまうのでは…

「何それ歩美、超嬉しい」

 歩美先生は目をカッと見開き、真っ白な歯で真っ赤な下唇を噛んで笑顔を浮かべていた。
 それは昔流行った『口裂け女』を連想させる、世にもグロテスクな表情だった。

「あ、いや!ハハハ!」
 無理。
 もう、無理だ。
 笑う以外の選択肢がない。
 最早笑う事しか出来ない。
「アハハハ…ハハハ…」
 口が「ハ」を連発しながら、頭をフル回転させる。
 これ以上の会話は僕には不可能だ。
 もうこの流れだ。この流れで、勢いで持っていくしかない。

「歩美、もし良かったら明日の放課後、歩美の家に行って良いかな?愛する人の生活が知りたいんだ☆」
「オッケーマイダーリン愛してる!!」

 歩美先生の絶叫は、職員室中に響き渡った。
 明日から『公認カップル』として地獄の日々が始まるのは、間違いなさそうだった。

01-673 :由梨と上原先生:2010/07/30(金)23:58:47 ID:gpmAvoKi
 まず前提として、皆と共有しておきたい事実があるんだけど。
 そう前置きして、藤本は僕達の前で断言した。

「はっきり言って、中島は頭がおかしい」

「「「……」」」
 襟沢、高坂、僕の3人は、無言で首を縦に振った。
 翌日の昼休み。
 襟沢、藤本、高坂、僕の4人は、雁首揃えて中庭の芝生スペースに集まっていた。


 事の発端は、先日の藤本の発言だった。
『歩美先生に、青柳先生が居る教室の鍵を持たせたって…』
『酷いミスだよ先生…あの抜け目の無い中島が、
天敵の襟沢が倒れた現場を見に行かない筈がない…』
『天敵?』
『中島は由梨と、青柳を取り合っていたんだ。
中島は付き合っていたつもりだったから、実際には由梨がリードしていたのに、
「糞ガキが私の彼氏に手を出そうとしてる」
って勘違いして、当時は由梨にちょくちょく嫌がらせしてたんだ』
『嫌がらせって』
『テストの点数改竄とか、おかしなデマ流したり…まあどれも犯罪レベルだね』
『歩美先生が…そんな人道に劣るような事を?』
『そうか中島か…アイツなら何やっててもおかしくありませんよ』
『何って』
『倒れた青柳を見て、中島は何を思うでしょうね』
『……襟沢に何かされたと思って、怒るとか』
『だけど2学期以降、由梨は一切手を出されていない』
『だったら』
『きっと「違う事」をしたんですよ、先生』
『……何だ?』
『何でしょう。調べてみる価値はある』
『どうやって調べるんだ』
『…上原先生』
『ん?』
『赤信号、皆で渡れば怖くない。って言葉知ってますか?』


 という訳で。
 前代未聞の藤本の提案で、僕達が集められたのだ。
『どうせだから由梨、みるりにも手伝ってもらいましょう』
 と藤本は僕に二人を呼び出すように指図し、
僕は事情を掻い摘んで襟沢に説明し、襟沢は高坂に事情を説明した。
 襟沢は最初、藤本の存在を知り驚き眉を顰めたものの、高坂からフォローがあったのか、
翌日現れた襟沢は、特に目立った動揺も見せずに僕の隣に立っていた。

01-674 :由梨と上原先生:2010/07/31(土)00:07:25 ID:B3U27PII
「知っての通り。中島は桜井と付き合っていた頃は比較的マトモな奴だったけど、
1年の夏休み明け辺りからアイツは変わった」

 藤本は、状況の整理と僕への説明を兼ねて、これまでの経緯を語り出す。
「逃げた桜井を追っかけて学校を休んだり、おかしな行動をとったり。
…まあそのロスタイムで久保田が助かったんだろうけどな」
 久保田が助かった、という表現に首を傾げる僕。
 それを見て藤本が言い添える。
「今回の上原先生でハッキリしたんだけど…中島はどうやら『教師』に異常な愛情と執着を持つみたいなんだ」
 桜井・青柳・上原…、と襟沢がぽそりと呟いた。
「周りに男が居ないのか、何か固執する理由でもあるのか」
 これまで付き合ってきた教師達への愛情は、常軌を逸している。
「最初は皆、仲の良いカップルだと思うんだよ。
多分男自身も。それが段々、おかしな事に気付いていく。
『あれ、何か気持ち悪いな』
『不自然だな』
ってな具合にな」
 まあ上原センセは今までの奴より、大分気付くのが遅かったけど。
「それは…」
 正直歩美先生の事は本当に苦手になってしまったが、
彼女が犯罪まがいの行動をしているという事までは、未だに信じる事が出来ない。
「だから桜井は逃げて、青柳は適当にあしらって次の女に行って…消えた」
「ロクな末路じゃないね」
 襟沢は軽侮の念を込めて言葉を吐き出す。
「桜井はどんな目に遭ったのか、青柳は何処に行ったのか…知りたいですよね」
「勿論!」
 当然だ!と僕が大きく頷くと、藤本はニッコリと僕に笑いかけた。
「じゃあ…」
 そう、それは初めて見るような、藤本の爽やかな笑顔だった。

「という訳で今回上原先生には、皆と同じ末路を辿って貰います」
「は!?」

 藤本は悪魔の様な言葉を僕に宣告した。

01-675 :由梨と上原先生:2010/07/31(土)00:11:01 ID:B3U27PII
「ちょっと藤本君!何言ってんの!」
 藤本が言葉を発した瞬間、弾かれたように襟沢が藤本に歩み寄った。

「このまま中島に先生を食わせろって訳!?」
「いや違う襟沢!」
 僕は慌てて襟沢の手を掴んで引き寄せる。
 ていうか何て事言うんだ襟沢。
「だって先生!」
「藤本にはきっと目的がある。今からそれを語ってくれるんだ。な?藤本」
 口と頭の回る藤本なら、気の立った襟沢にうまく対応出来る筈だと藤本を見やる。
 と。

「あっ…、あの、え、襟沢さんその、違うんです。訳があって…えっと」
「…藤本?」

 敬語?襟沢さん?どもってる?
 先程までの小賢しさが一変、藤本は顔を真っ赤にして俯いてしまっていた。
「アンタ…」
 襟沢もびっくりしたように目を丸くしている。
「由梨ちゃん止めたげて、圭君緊張しぃなんだよ」
 それまで沈黙を守っていた高坂が、よっぽど見かねたのか服の袖を掴んで襟沢を見上げる。
「う…」
 その瞳を見て、流石の襟沢も言葉をつまらせる。
 そうか、藤本お前…。
 僕は思わず真顔で藤本に話し掛ける。

「藤本お前…本当に襟沢と疎遠だったんだな!」
「先生…先生の純朴さが今ほど身に染みる時はありませんよ…」

 何故か泣きそうな顔で藤本はそう呟いた。

01-676 :由梨と上原先生:2010/07/31(土)00:14:46 ID:B3U27PII
 暫くして、漸く藤本は続きを話し始めた。
「要するに上原先生には、中島の巣。つまりアイツの家にあがってもらいたいんです。目的は2つ」

 1つは、先生が実験体となって、中島が男に対してどんな行動を取るかを見極める。
 2つ目は、中島から青柳の話を聞き出すなど、青柳の痕跡を探る事。

「これで仮に、中島が上原先生に殴りかかるような事があれば、2つ共いっぺんに解決しますけどね」
「藤本!!」
 とうとう襟沢が、藤本を呼び捨てにし始めた。
「すっすいません調子乗りましたごめんなさい!」
「由梨ちゃん!」
「襟沢!」
「だってこいつが!」


 そして。
「……」
 軽妙なやり取りに一瞬気を削がれるも、
一転して重苦しい空気が僕達の間に流れた。
 そう、言葉には出さずとも、誰もが考えていた事だった。

 人気のない放課後。
 先の見えない暗闇。
 傷を負い、意識を失った青柳洋介。
 中島歩美はそれを見て思う。
 とうとう彼が自分のものになる。
 
 青柳が桜井のように逃げたのでなければ。

「監禁しているか、殺しているか、どちらかだ」

 藤本が無機質な声音で、言葉の重さを背負った。

01-680 :由梨と上原先生:2010/08/02(月)14:05:43 ID:B66zqQ1n
15

 全員の意志が一致してから、話は迅速に進んだ。

「堂々と家へ侵入出来るのは、先生しか居ないんだ」
「僕が…探ってくればいいんだな?」
「じゃあ私達は何をすればいいの?」

「あっえっと」
 襟沢がずい、と藤本に攻め寄ると、藤本は脂汗を流しながらもたどたどしく答える。
「ぼ、僕達にはそれぞれ役割があります」
「何よ」
「実は昨日、中島を尾けて家を見て来て、その!」
「藤本落ち着け、家を下見してきたんだな?」
 僕が慌てて間に入ると、藤本はあからさまにホッとした表情に戻り。
 そして言った。
「それで…見つかったんだ。限定一名、外から侵入する方法が」



「綺麗に咲いていますね」
「ああ、これは上原先生」

 放課後。
 曇天の下、僕は相変わらず花壇で作業をする平塚先生に声を掛けた。

 平塚先生は花壇に、ビニールの囲いをせっせと設置している所だった。
「今日も精が出ますね」
「夜から強い雨が降るそうで…心配になって」
「ああ、大分酷いみたいですね」
 天気予報では深夜から朝方にかけ、激しい雷雨の
恐れがあるらしく、警報必至の様相を呈している。
 今日の歩美先生のお宅訪問は、出来るだけ早くあがった方がいいな…。
 頭の片隅でそんな事を考えつつ、花壇の方に歩み寄る。

「そういえば上原先生、何かご用ですか?」
「あの実は…そこの秋桜を数輪分けて欲しくて…」
 僕は、淡いピンクが揺れる秋桜の花壇を指さした。

01-681 :由梨と上原先生:2010/08/02(月)14:08:54 ID:B66zqQ1n
「秋桜を?」
 キョトンとした顔で平塚先生が僕を見つめる。
「あ、あのですね」

 僕は何だか気恥ずかしくて、顔を赤らめながら平塚先生に事情を説明する。
「じ、実は今日歩美先生とデートというか、その、それで何も持たないというのは…」
「ハハハ!なる程ね」
 僕の挙動不審な様子が余程おかしかったのか、
平塚先生は「良いモノを見た」とでもいうような笑顔で笑い出した。

「どうぞどうぞ何輪でも。上原先生の恋路のお役に立てるなら」
「笑わないで下さい!」
 平塚先生はくつくつと笑いをかみ殺しながら、
プチプチと秋桜を数輪切り取り新聞紙にくるんで僕に渡した。
「どうぞ、一番育ちの良い場所のやつです」
「すっすみません!」
「形は不格好ですが、きっと上原先生のお気持ちは伝わりますよ」
 平塚先生は穏やかな笑顔を浮かべて、そう言い添えてくれた。

「そうだと良いのですが…」
「でもまあ今日はデートも早めに切り上げた方がいいですね」
 大事をとって生徒たちの部活動も切り上げさせましたし、と平塚先生は空を見上げる。
「酷く荒れなければいいんですが」





「隆さん!ようこそ我が家へ!」
「あ、ありがとう…」
「勿論親は急な旅行で今日は帰りませんから☆」
 急な旅行って…まさか無理やり追い出したんじゃないだろうな。
 夕闇の中、嵐の前の緩い風が頬を撫でる。
 秋桜の簡素な花束を携えて。
 上機嫌の歩美先生に連れられ、僕は中島家にお邪魔していた。

「しかし…大きな家ですね」
 藤本から話は聞いていたものの、予想より立派な門構えに些か驚いてしまう。
「両親は只の教師なんですけどね。祖父が不動産をやっててちょっと」
 歩美先生の親も教師をやっているのか。
 何でもないように喋っているが、実際なかなかのお金持ちの家の娘らしかった。
「どうぞ、入って下さい♪」
「じゃあ…お邪魔しまーす…」
 ガチャリ。
 靴を脱ぎ、歩美先生に連れられてリビングへ向かう。
「わあ…広い…ってテレビでか!!」
「ふふ、そんな事ないですよ~。あ、お茶入れてきますねっ」
 歩美先生はニコニコと軽やかな足取りでキッチンに向かう。

「…凄いな」
 玄関に入った瞬間、強烈な芳香剤の薫りが鼻をつく。
 靴箱を見やると、高そうな生花の漬かった芳香剤が、幾つも置かれていた。

01-682 :由梨と上原先生:2010/08/02(月)14:14:22 ID:B66zqQ1n
 なる程…。
 リビングはソファ、テーブル、テレビと、スタンダードな配置になっていた。
 窓も大きく取り付けられ、見晴らしがいい。
 玄関で見た間取りから考えるに、1階にリビングや和室、
2階に歩美先生の自室や寝室があるようだ。

 そして僕が見ているこの窓の向こうには…
「~~っ!」
 不意に窓からヒョコリと黒髪の頭が見えて、心臓が跳ね上がる。
 頭はすぐに引っ込んだが、心臓は収まることなくバクバクと早鐘のように鼓動を打ち鳴らす。
 ア、アイツら…本当に大丈夫なのか?
 …だが、やるしかない。
 拭いきれない不安を胸に、僕は歩美先生に呼び掛ける。
「歩美先生」
「はい?」
「あの、トイレってどこですか?」



「藤本!アンタ背高いんだからもっと屈みなさいよっ」
「はいっすいません!」
「圭君、メール来たよ」

 私達は藤本の指示通り、中島の家の窓の外で待機していた。
 高塀のお陰で外から見咎められる事はないだろうが、
それでもかなり危険な行動を私達は取っている。

 メールを開いた藤本は、小さく頷く。
「…よし、予想通りの間取りだな。例の窓も開いているようだ」
 例の窓、という言葉にビクリとみるりが反応する。
「けっけい君…あの作戦、本当に…」
「大丈夫だみるり、自分の体型を信じろ」
 体型を信じろ、という言葉に一層「ひうううぅ…(泣)」とみるりは涙目で怯えた。

01-684 :由梨と上原先生:2010/08/02(月)14:29:54 ID:B66zqQ1n
「移動だ」と、私達は藤本と更に家の裏に回る。

「藤本、アンタみるりに何かあったら只じゃおかないよ」
 ドスを効かせて軽く脅しつけると、藤本は脂汗を流しながらコクコクと頷く。

 ったく…ホントに情けない男だ。
 私をストーキングするような奴は、大体こんな意気地無しばかりだ。
 先生は私がストーカーに動揺していない事を不思議がっていたけれど、
正直こんな奴が憑いているのが日常茶飯事過ぎて、何の感情も抱けない。

「ここだ」
 藤本が指をさした所は、3メートル程上に取り付けられた小さな窓だった。
「上原のメールと窓の位置・サイズから想定するに、
多分階段の途中で換気用に設置された小窓だと思う」
「確かに開いてるわね」
「1階から入れば流石にバレるし、2階の窓は高すぎる」
 確かに入るならここがベスト。但し。
「見ての通り、子供が入れるギリギリのサイズだ」
「だから何で皆みるりを子供扱いするの!?」
 もう目にいっぱいの涙を浮かべ、殆ど泣いている状態で、みるりが最後の抵抗をする。
「みるりにやってもらいたい事は1つ。
皆で中島を1階に引き付けている間に、2階の中島の部屋を探ってきて欲しいんだ」
「探るって結局、何を探せばいいの?」
「運が良ければ腐乱した本人が見つかるかもな」
「ヒッヒィイイイイ!」
「無駄にみるりを怯えさせないで!」
「すいません!すいません!すいません!」



 そして結局、みるりが折れた。
「う…怖いけど…みるりこんな事でしか役に立たないし」
 みるりはビクつきながらも、中へ侵入する事を決意したようだった。

 数分後。

「ちょっと藤本!靴脱いで乗りなさいよ!」
「あっごめんなさい!」
「たっ高いいぃ!」

 私は、何故か四つん這いになって藤本に乗られるという、屈辱的な役割を果たしていた。
 簡単な話で、藤本の目算よりも窓が高かったのだ。

 ガラ
 藤本に高々と上げられたみるりは、窓を全開に開けて中の様子を窺っているようだった。
 四つん這いになっているせいで様子が窺えないが、
微かにカタ、ゴト、と物音が聞こえる事からみるりが侵入を試みている事が分かった。
 と。
 不意に物音が止まり、小声で藤本とみるりが言い争う声が聞こえてきた。

01-685 :由梨と上原先生:2010/08/02(月)14:33:33 ID:B66zqQ1n
 小声過ぎて聞こえないが…このクソ重いのを我慢してるってのに、アイツら何やってんだ。

 暫くして漸く諍いは収まったようで、コト、コトとまた音が伝わり出す。
 フワッ。
 すると同時に、何かが空から降ってきて私の頭に被さった。
「え、何?何?」

 するとみるりが中に入りきったのか、藤本がゆっくりと私の腰から足を下ろした。

 藤本は何故か複雑な表情をしつつも、達成感溢れる表情で断言した。
「よし、思わぬ難関があったが侵入成功だ」
「難関ってアンタ…さっき何揉めてたのよ」
 私は痛む腰を押さえつつ起き上がり、頭に降ってきた物体をつまみ上げる。
 瞬間、目が点になった。

「…ぶらじゃー?」

 悲しい程小ぶりで、白いレースのブラジャーが私の頭に乗っかっていたのだ。
「何これ…もしかしてみるりの?」
「変に見栄を張るから」
 藤本は心底呆れた顔で、ブラジャーを指さした。
「ブラに詰め物しまくってたせいで、窓に肩を突っ込んだ時に引っかかったらしい」
 誠意ある交渉の末、彼女には一時女性を忘れてもらう事にした。
 そう大真面目で語る藤本の頭を、私は全力で殴りつけた。

01-689 :由梨と上原先生:2010/08/03(火)00:53:00 ID:L1G8XTku
16

「あら?今何か音がしました?」
「そうですか!?ぼっ僕には聞こえなかったなぁ!」
 白々しく大声を張り上げ、僕はコーヒーを一気に胃に流し込んだ。

 おいおい、あんな物音を立てるなよ…。
 緊張の連続に、僕の心は折れ掛けていた。
 だが、状況的には順調この上ない。
 歩美先生の自宅に侵入。
 間取りと、階段の窓が開いているかチェックのメール。
 そして高坂みるりの侵入。

 高坂の侵入は、歩美先生が2階へ直行した場合は中止の予定だったが、
歩美先生が暫くリビングに腰を据える様子だった為に、決行となった。
 まあ、襟沢を使って歩美先生を1階に足止めしている間に
2階で僕が捜索する、パターンBよりはリスクが少ないもんな…。

「隆さん聞いてますっ?」
「あっすいません!何でしたっけ」

 僕が慌てて現実に引き戻ると、歩美先生はほっぺを膨らませて僕を睨んでいた。
「もー。先生が歩美の事知りたいって言うから色々話してるのに」
「ええと今は」
「ふふ、元カレの話ですよ」
 歩美先生はネイルの施された指でスプーンを摘み、コーヒーに継ぎ足したミルクをかき混ぜる。
 その所作は本当に静かで穏やかで、まるで激情に走った時とは同一人物のようには思えない。

 茶けたセミロングを揺らし、歩美先生は小さく首を傾げる。
「それにしても隆さんが、桜井先生や青柳先生のお話を知ってるなんて」
「やっぱりちょっと気になって…生徒たちから仕入れてきました」
「あら、じゃあ色々聞いたんですね」
「ま、まあ…」
 何だか調子が狂う。
 家に入るまでは、いつも通り異様なテンションの歩美先生だったのに、
リビングでお茶をし出してからというもの、歩美先生はすっかり落ち着きを取り戻していた。
 そうまるで、初めて出会った頃のように。

01-690 :由梨と上原先生:2010/08/03(火)00:58:26 ID:L1G8XTku
「桜井先生はね、カッコイイだけじゃなくて優しい、とても素敵な人だったんです」
 歩美先生はミルクが混ざりきった後もスプーンをくるくるとかき回し、
手を遊ばせながら僕の質問に答える。

「私オクテで、お付き合いとか初めてで。でも親と同じ『先生』だから大丈夫かなって」
「そうだったんですか!歩美先生モテそうなのに」
「父親が教師なだけに、異性関係に厳しくて」
 恋愛とか、男の人と何かするって、凄く悪い事のように感じていたんです。
 と、照れながら話す歩美先生。
 カランカランと、スプーンが回る。

「でも桜井先生なら大丈夫。『先生』は正しい事が出来る人だから、って」
「…歩美先生は、教師という仕事を信頼しているんですね」
「ええ」
 僕は妙な所で、歩美先生の教師に対する真っ直ぐな想いに感銘を受けてしまった。

 良くも悪くも歩美先生は素直で、真っ直ぐだ。
 それが常に良い方に向かっていれば…。
「でも、桜井先生は正しい事が出来なかったんです」
「正しい?」
「最初は小さな事だったんです。約束を忘れてたとか、少し乱暴な物言いをしたとか」
 カラン。
「でもそのうち、桜井先生は色んな事を忘れるようになりました。ズボラになっていきました」
 歩美先生は、キラキラと銀色に光るスプーンを眺めている。

「お早うのメールを忘れました。
お休みのメールを忘れました。
電話をするのを忘れました。
約束の時間に来なくなりました。
私が毎日240通メールを送っても、50回電話をしても、
2時間に1回約束の日時を指定しても、現れなくなりました」

 スプーンが回る。
 1秒に1回スプーンを回しているとすると、かれこれ840回、歩美先生はスプーンを回している。

「学校でも避けられて、話もして貰えなくて」
 それって正しい事じゃないですよね?
「それは…桜井先生が自分の意志をキチンと伝えていなければ、確かに…」
 桜井先生は恐らく、怯えきっていたのだ。
 歩美先生の愛情に、正しさへの拘りに。

01-691 :由梨と上原先生:2010/08/03(火)01:04:21 ID:L1G8XTku
「私は桜井先生の『返事』が欲しかっただけなんです。だから、辞めた後も、追い掛けた」

 その時期が、藤本が言っていた久保田先生が赴任してきた頃か。
「追い掛けて…見つかりましたか?」
「見つかりましたよ」
 歌うように朗らかに、歩美先生は言った。
「見つけた時、可愛い女の子と歩いていました。だから聞きました。『その子は誰』って」
「誰と」
「『新しい彼女』だと」
 カランカランカラン。
 カップからコーヒーが溢れ出す、零れていく。
「やっと返事を貰いました」
 歩美先生は変わらず笑みを浮かべていた。
 僕は桜井先生と彼女がどうなったのか、訊かなかった。



「青柳先生ですか?」

 そして桜井先生の話の後。
 漸く僕は核心に触れようとしていた。
 高坂が侵入してから20分、何か情報は得られただろうか。

「ハイ、彼とはどうだったんですか?」
「もう隆さんったら知りたがり屋さんですね~」
 カランカラン。
 歩美先生はまた照れるようにして、顔を赤らめた。
 それだけなら可愛らしい妙齢の女性そのものなのに、
彼女の周りにはコーヒーの雫が点々と飛び散っていた。

「青柳先生は」

 ビシャリとスプーンがコーヒーを撒き散らす。
「桜井なんかと違って大人で、」
 ガチガチとスプーンが打ち鳴らされる。
「凄くカッコよかった。カッコよくて、変な女にまで手を出されて凄く困ってたんです」

 歩美先生の様子はあからさまに異常だった。
 話が進むにつれ、目の焦点がぼやけ、スプーンが機械的に回り続ける。
 カップの中のコーヒーは殆どが飛び散り、底に溜まった澱を一生懸命かき混ぜ続けている。

 ガリ、ガリ、ガリ、ガリ。

 体が、凍り付いたように硬直してしまって、動けない。
 頭だけがくるくると思考を巡らせる。
 連絡は?高坂は?襟沢は?
「困って…どうしたんですか」
「ある日、青柳先生が酷く乱暴に私を扱いました」
「乱暴な言葉を吐いて、私を殴りました」

 すると歩美先生は不意に顔を上げ、僕を見つめた。
 いや、僕でない。

01-692 :由梨と上原先生:2010/08/03(火)01:13:14 ID:L1G8XTku
 歩美先生は、僕の膝に置いた秋桜の花束を見ていた。

「ソレ、綺麗ですね隆さん」
「あ…」
 膝に置きっぱなしにしていたせいで、花は少し萎れ、元気をなくしていた。
 僕は慌てて花束を歩美先生に差し出す。
「すみません、すっかりお渡しするのを忘れていました。良ければ花瓶にでも」
「ふふ、秋桜。もうそんな時期なんですよね」
 漸くスプーンを捨て、歩美先生は花束を受け取った。
「とっても綺麗だわ」
 花の薫りをすんすんと嗅ぐ彼女からは、すっかり先程の狂気が霧散してしまっていた。

「あの先生、先程の話の続きを」
 張り詰めた空気が途絶え、とんでもなくホッとするが、
それでも現状から逃げる訳にはいかない。
 恐怖心を抑え、話に戻ろうとする僕に、歩美先生は真顔で答える。
「ちゃんと話してますよ」
「いや花じゃなくてですね」

 状況は停滞していたが、決して悪化していた訳ではない。
 計画は概ね上手く進行していたのだ。
 この時までは。

 どこからか声がした。


「ヒッ―――」


 あ。
 微かな微かな、か細い女の声。
 幻聴で無ければそれは。
 高坂みるりの声だった。
「……あ」

 ヤバい。

 素早く歩美先生を見やる。
「あら」
 歩美先生は明らかに声に反応した。
「今何か聞こえませんでした?」
 ヤバい、誤魔化せ。
「ああ、きっと外に誰か居るんですよ」
 僕は必死で笑顔を取り繕う。

01-693 :由梨と上原先生:2010/08/03(火)01:21:55 ID:L1G8XTku
「にしては室内で聞こえてきたような…」
「もう~、恋人の僕の事が信じられないんですか?」

 奥の手、必殺キーワードを口にした途端、歩美先生の疑いの表情が一変した。
「まさか!隆さんの言う事を疑うなんて!歩美がそんな事する訳ないじゃないですかっっ」
「ハハハハありがとう、じゃあちょっと僕はトイレに」
「どうぞどうぞ!」
 誤魔化せたのか?
 僕はいてもたっても居られず、リビングを飛び出した。

 リビングの入り口のすぐ側に、2階へ通じる階段がある。
 その奥に洗面所と脱衣場が。
 僕はトイレの明かりを点け、扉を閉める。
 これで数分は凌げる筈だ。
 僕は足音を立てないように細心の注意を払い、階段を登りだした。

 1段、
 2段、
 3段…

 ギシリ、と階段が軋む音がした。
 うっかり強く踏んでしまったのか。
 気を付けないと…。
 ………
 ……いや?

 繰り返す。
 僕は細心の注意を払って階段を登っている。

「 」
 自然に呼吸が止まった。
 電気の点けられていない階段は真っ暗で、足を闇に浸けているようだ。
 どこかで雷の音が聞こえた。
 ゴロ…と猛獣のような低い唸り声。
 そう。
 嵐が来るのだ。

「 あ  」
 歩美先生は頭がおかしい。
 しかし同時に。
 頭がよく回る。

 閃光の様に雷鳴が、階段の闇を切り裂いた。


「隆さん、どこへ行くんですか?」
 僕の後ろにピタリと、歩美先生が張り付いていた。


「―――」
 躊躇いもなく、僕は中島歩美を階段から突き落とした。

01-698 :由梨と上原先生:2010/08/06(金) 01:40:47 ID:fd07vpkh
17

 ゴッゴッゴッ
 背後から、人間が頭と体を強打しながら滑り落ちる音がした。
 それでも僕は振り返らずに、階段を駆け上がる。

 バリバリッ
「テメェ!」

 後ろで硝子の割れる音が聞こえ、罵声が耳をつんざくが、それをも無視して2階へ到達する。

 2階にはドアが4つあり、そのうちの1つが僅かに開いていた。
 そしてすぐ、異変に気が付く。
「ウッ」
 何か、強烈な臭いがする。
「ッ高坂!!」
 僕は胃から湧き上がる嘔吐感を抑え、僅かに開いたドアを開け放った。

 そして。
 僕は、一生忘れることの出来ない光景を見る事となる。


 強烈な腐臭で、一瞬にして鼻が麻痺する。
「げほっ…うっ…ヒクッ」
 高坂みるりはベッドの側で四つん這いになって、嘔吐していた。
「…ッ」
 僕自身も一気に胃がせり上がって来るが、歯を食いしばり目の前にあるモノを直視する。

 ベッドの下の収納棚の中に、死体が入っていた。

 が、髪が短い事から辛うじて男である事が判断出来るだけで、
男の体は部位という部位から肉が削げ落ち、目に見えて骨格が浮き上がっていた。
 僅かに残った黒く変色した肉の中からは、白い蛆が湧きかえり、
辺りには羽化した蠅が縦横無尽に飛び回る。
 とりどりの虫達の蠢く音色が細波の様に重なり、
生命誕生の「歓喜の歌」を、絶望的な様相で奏でる。

 正に地獄絵図が、そこにあった。

 何故この臭いに気が付かなかったのか。
 陳列された芳香剤が頭をよぎる。

 気の狂うような恐怖に駆られながらも、僕は高坂に手を掛ける。
 高坂の吐瀉物が足に触れるが、構わずに呼び掛ける。

「高坂!大丈夫か!」
「せっせんせ…ひぅっ…げぼっ…」
 高坂は目に涙を溜め、必死で僕の背広を掴む。
「コレっ…青柳…」
「喋るな!」
 僕は高坂の背中をさすりながら、目を背けたくなるのを堪え、死体を見つめる。

01-699 :由梨と上原先生:2010/08/06(金) 01:45:31 ID:fd07vpkh
 この死体は男だ。
 が、本当に青柳なのか。
 青柳に決まってる、早くこの場から出て行きたい。
 そんな気持ちを抑して、目を皿のようにして死体を観察する。

 目立った特徴などはない。
 服も肉と共に腐り落ちたのか、辛うじて背広を着ていると判断出来る位だ。
 背広…やはり青柳なのか。
 にしては、ここまで白骨化するなんて腐敗が早過ぎる気もする。
 夏だったからか?
 その時僕は、死体の側で、微かに光る小さなプラスチックを見つけた。
「…」
 恐る恐る拾い上げ、電球に透かして見る。
「…あ」

 ネームプレートには『桜井』と書かれていた。

「青柳じゃない」
「え?」
 初めて高坂が顔を上げた。



「高坂、部屋は全部見たのか?」
「みっみたよ…沢山あったから時間が掛かったけど…その分キチンと調べた筈だよ」
 漸く吐き気が治まったのか、もう吐くモノも無いのか、
高坂は涙を流しながらも的確に僕の質問に答える。

「でも…これがあった」
 高坂は吐瀉物の側に散らばる、ファイルや紙を指さす。
「これは…」
 それは、僕が探していた青柳先生の資料だった。
「歩美先生が盗んでいたのか…」
 という事は、やはり青柳先生も歩美先生の手に…。

「他に死体はなかったんだな」
「ない!ない!!」
 絶叫するように高坂は否定する。
「じゃあ出るぞ!」
 僕は高坂を抱き上げ小脇に抱え、階段を下った。


 ダッダッダ!
 階段を下りるとそこでは、同じく地獄絵図が繰り広げられていた。

「テメェぶっ殺すぞ!!」
「何で邪魔すんの?ねえ何で藤本圭君と糞女がココに居るの?」

 藤本が腕から血を流しながら、中島歩美の腕を掴んで背中に乗り上げていた。
 二人は、窓を破って侵入して来たのだ。
 襟沢は恐怖で涙をこぼしながらも、暴れる歩美先生の足を押さえていた。

01-700 :由梨と上原先生:2010/08/06(金) 01:50:00 ID:fd07vpkh
「先生!」
 振り絞るような弱々しい声で、襟沢が呼び掛けた。

「どうしたの!?何があったの!」
「二人ともそのまま押さえとけ!」
 藤本と目が合う。
 殺気立った目で藤本は、端的に問う。
「…青柳か?」
「居ない。桜井先生の死体があった」
 ヒッ、と襟沢が息を飲む。
 鼻がやられて匂いが分からないが、扉を盛大に開けて出て来た事で
腐臭が階下にも広がっているようだった。

「青柳は何処なんだ?オイ!!」
 ガンッ!
 最後の罵声と共に、藤本は思い切り歩美先生の頭をフローリングに打ち付ける。
「はぐぅっ!」
 奇声を上げ、歩美先生は体を仰け反らせるが、気を失った様子は無い。

「やめろ藤原!そんな事をしても歩美先生は話さない」
「隆さん…」
 僕の声に反応して、ズルリと歩美先生の頭が起き上がる。
 歩美先生は鼻血を垂れ流し、やはり幸せそうに微笑んでいた。

「歩美先生、青柳先生は何処ですか?」
 僕は怒りを殺し、必要な言葉だけを歩美先生の前に並べた。
「話の…続きでしたね」
 それに対し、歩美先生はよくわからない返答をする。

「話?」
「ほら、秋桜の話ですよ…」
「話を逸らさないで下さい!」
「さっきも『ちゃんと話してる』って言ったじゃないですか」
 歩美先生は、やはり真顔で僕に訴えた。

「あ」
「え?」

 出し抜けに発した間抜けな声に、藤本達が不審げにこちらを見やる。
 不意に僕の中で、彼女の言葉と言葉が繋がった。

 青柳と秋桜は関係が
 秋桜が綺麗だと彼女は

「秋桜、よく育ってましたね」
 歩美先生は歌うように、うっとりと呟く。

「きっと栄養が良いからですよ」

 僕は、握り締めていたネームプレートを取り落とした。

 歓喜に満ちた中島歩美の嬌声が、階下に響き渡った。

01-701 :由梨と上原先生:2010/08/06(金) 02:00:31 ID:fd07vpkh
 中島歩美を手持ちのロープで縛り上げると、僕は一目散に玄関へ駆け出した。

「高坂、とにかく警察に通報しろ!」
「あ、はい!」
「藤本は歩美先生を見張っとけ!」
「おい何処に行くんだよ!」
 藤本の問い掛けに、僕は簡潔に叫び返す。
「確かめにいく!」「私も!」
 思いもよらない所で襟沢が立ち上がった。
 
「襟沢、君は」
「お願い先生!」
 襟沢は混乱し、恐怖しながらも真摯な瞳を僕に向けていた。
 一瞬の逡巡の後、僕は無言で家を飛び出し、その後を襟沢が追った。

 ゴッ!!
 ザアアアアッ
 闇天の下、土砂降りの豪雨が僕を襲う。
 風に叩き付けられよろめく、が、それでも僕は走り続ける。
 
「っ!」
 後ろから手が伸びてくる。
「せんっ…せい!」
 それは白い白い、襟沢の手だった。
 打ち付ける雨の中、苦しそうな襟沢の手を取り、僕らはまた走り出した。
 一つの目的地に向かって。
 

 
 見上げた時、それはまるで巨大な墓石のように思えた。
 雨に晒され、闇が落ちる。
「学校…」

 呟く襟沢の手を引き、僕は裏門に回った。
 打ち付ける雨は激しさを増し、痛みさえ伴う。
 濡れそぼった髪をかきあげ、僕は鉄柵を握り締め、勢いを付けて門を乗り越えた。
「ほら」
 僕は内側から手を伸ばし、襟沢に足を乗せて踏み台にするよう指示する。
「うんっ」
 襟沢は小さな足を乗せ、飛び上がった。

「先生、どこに行くの!」
 襟沢の問い掛けに答えず、僕は一直線に用具倉庫へ向かう。
 ガラガラ…ッ
 偶然開いていた倉庫の中を、携帯のバックライトを頼りに物色する。
「あった」
 僕は土がこびり付いたシャベルを2本、取り出した。


 ザクッ、ザクッ、ザクッ…、ザクッ、ジャリッ

 規則正しいようで不規則な、土を掘り返す音。
 それに合わせ、荒い息遣いが耳に纏わりつく。
 咲いた秋桜はとうに、掘り返した土の下に埋まっている。

02-003 :由梨と上原先生:2010/08/06(金) 02:12:38 ID:fd07vpkh
「……っ」
「…」
 お互いに、何も喋らなかった。
 僕と襟沢は、秋桜の花壇を掘り返していた。

 こうなって来ると、むしろこの豪雨は好都合だった。

 水を含んだ土は、いとも容易く襟沢の細腕に攫われていく。
 確信があった。
 所詮女の手で掘れる深さだ。
 見つかる。

 まるで狂ったように僕は墓を暴いていく。
 掘るんだ、今は掘ることだけを考えろ
 全部後から考えればいい
 僕は何よりも見たい
 追い求めてきたものを、目に入れたいんだ
 ザクッ!
「―ッ」
 僕は、青柳の死体が見たい。

 ゴツ、とシャベルに鈍い手応えが伝わった。

 あった?
「…!…!!」

 一瞬にして頭に血が上り、興奮状態に陥った僕は、
何度も何度も何度も何度もその場にシャベルを打ち付けた。

 ガン!
 ここだ。
 ガン!
 ここだ!
 ガン!
 ここだ!!

「先生!先生!下ろして!止めて!!」
「襟沢ここだ!ここなんだよ!」
「もう見えてる!!」
「え?」

 僕は、漸く手を止め、まじまじと土塊を見つめた。
 そこには、青柳先生と見られる死体が掘り起こされていた。
 僕は頸部にシャベルの先を叩き付けていたようで、
青柳先生の首はパックリと切り取られてしまっていた。

02-006 :由梨と上原先生:2010/08/07(土) 23:25:16 ID:ugKGbEK1
18

 およそ3ヶ月。

 土中に埋められた青柳洋介の死体。
 一部は白骨化していたものの、桜井先生と比べればまだ、肉付きは良い方だった。

「ウッ」
 襟沢が口を押さえて、その場にうずくまる。
「吐け、吐いたら楽になる」
 僕はぼんやりと屍を見つめながら、呟いた。
 背後で嗚咽と、ビシャリビシャリと何かが飛び散る水濁音が聞こえてきた。

 終わったのか?

 僕は呆然と、自問していた。
 青柳洋介の遺体が出た。
 犯人は間違い無く中島歩美だ。
 まるで揺るぎのない真実に、実感がわかない。
 いや、実感なんて後回しでいい。
 今は襟沢を支えてやらねば。
 そして警察に通報して……


「おや、どうなさったんですか?」


 その声は、これだけの土砂降りにも関わらず、やけにハッキリと聞こえてきた。
「―――」
 振り返ると。
 5m程先に、青いレインコートを来た平塚先生が立っていた。


 青いレインコートは暗闇の中浮き上がり、奇妙な存在感を示していた。
 何故かシャベルを手にした平塚先生は、不思議そうに僕らを眺めている。

 僕は慌てて平塚先生に駆け寄った。
「平塚先生!何故こんな時間に!」
「いややはり花壇が気になりましてね。学校中の植物に防護ネットを張っていたんですよ」
 それで用具倉庫が開いていたのか。

「先生こそどうしたんですか、こんな夜更けに。それに…」
 平塚先生は僕の背後の花壇に目を移し、悲しそうに目を細めた。
「その花壇の有様はどういう事です?」
「あっ平塚先生これは…。聞いて下さい実はっ」
「上原先生ッ!!!」
 僕が喋り出す瞬間、悲鳴の様な襟沢の絶叫が言葉を掻き消した。

02-007 :由梨と上原先生:2010/08/07(土) 23:29:32 ID:ugKGbEK1
「そいつは駄目!」
 襟沢は。
 青柳洋介の死体を見た時よりも、青ざめた顔を晒していた。


「…襟沢?」
「わたし、分かった…」
 白い白い、能面の様な面で、襟沢は囁く。
 胃液を口の端に垂らしながら、必死で言葉を紡ごうとする。
「そいつなの。先生ッ!そいつなの!」
「何の話だ?襟沢何を」
「ごめんなさい先生!嘘吐いてごめんなさい!」
「嘘?」
「先生にずっと学校に居て欲しかったの!」
 襟沢は泣いていた。
 この豪雨の中、涙が判別出来る程に顔を歪め、泣いていた。

 襟沢は叫ぶ。
 この雨に、風に、嵐に負けないくらいの大声で、襟沢は叫んだ。
「コイツが犯人なんだ!!」
「何を」

「私をレイプしたのは平塚なの!!」

「その花は、折角良い場所に生えていたのに」
 平塚雅夫は。
 相変わらず、柔和な微笑みを浮かべていた。



 平塚先生が襟沢を犯した?
「何だって…?」
 俄には信じがたい襟沢の主張に、僕は平塚先生の顔を見やる。
 どういう事だ。
 平塚先生は一度だって、僕達に、青柳洋介に、中島歩美に関わる事は無かった筈だ。
 何処でどう関わる事が出来ると言うのだ。

「襟沢…それは確かなのか?」
「襟沢さん、君は何か勘違いしているんじゃないのかい? レイプなんてそんな恐ろしい…」
 平塚先生は、本心から困惑した様子で襟沢と僕を交互に見やる。

「本当だよ!コイツにヤられたの!」
 襟沢は必死に僕に訴える。
「コイツの花壇に青柳が埋まっているなんておかしいよ!
平塚が青柳を埋めたんだ!平塚が青柳を殺したんだ!平塚が!」
 襟沢は完全にパニックを起こし、平塚!平塚!と絶叫している。

「上原先生…襟沢さんは大丈夫なんでしょうか?」
 一方平塚先生は、オロオロと状況に戸惑いつつも、教師として襟沢を心から案じている。
「襟沢……」
 この期に及んで、僕は選択を迫られていた。

「……僕は」
 そして僕は、いつか藤本に言った言葉を思い出していた。

02-008 :由梨と上原先生:2010/08/07(土) 23:36:15 ID:ugKGbEK1
 『襟沢以外に大切なものなどない』

 襟沢が笑いさえすれば、それ以外に大切な事など存在しないのだと。
 それはそれで、そのままの事だ。
 真実で、真理だ。
 平塚先生の言葉は理屈が通っていて、冷静で、非の打ち所がない。
 しかしそれでは、襟沢由梨が笑ってくれない。
 そう。
 僕もいつの間にか、狂ってしまっていたのだ。

「平塚先生…お話を聞かせていただけますか?」
 僕はシャベルの切っ先を平塚先生に突き付けた。
「上原先生、君…」
 平塚先生は驚いた様な顔で僕を見つめ

 ゴリッ
「何をやってるんだね」
 僕の左膝を思い切りシャベルで殴りつけた。

「ッア」
 頭が一瞬にして真っ白になる。
 次いで激痛が足から頭へ駆け巡り、口から得体の知れない言葉が飛び出す。
「う、あアアあああああアあぁあっ!!!」
「先生!?」
 足を押さえ、僕はその場に崩れ落ちた。

 襟沢が顔を引きつらせ、僕に駆け寄る。
「先生大丈夫!?先生!!」
「襟沢近寄るな!」
「上原先生も厄介事に巻き込まれてしまいましたねぇー…」
 騒然とする現場に反し、平塚雅夫は至って呑気に呟く。
「平塚先生!何故こんな…」
「そうですね」

 青いレインフードの影で、平塚先生の目がキョロリと蠢く。
「確かに青柳先生を殺したのも埋めたのも私です」
 平塚先生は、いとも簡単に僕らの前で自供した。

02-009 :由梨と上原先生:2010/08/07(土) 23:43:22 ID:ugKGbEK1
「何故…貴方は何の関係も無い筈だ」
 僕の問い掛けに、平塚先生はいつもの優しい微笑みを浮かべ。

「上原先生、私はね。ここの生徒を何人も強姦してるんですよ」
 僕の頭を思い切り蹴り飛ばした。

「グッ」
「先生!」
「趣味でねぇ、もう止められないんですよ」
 左足は、完全に折れているようだった。
 殴られた衝撃で意識が混濁する。
 強姦、襟沢、生徒……。
「あ…」
 視界が歪む。
「だから僕も、叩けば埃が出る身なんですよね。
あの現場を見た時は、本当びっくりしましたよ」
 じり、と平塚先生が僕達に歩み寄ると、襟沢が吠える。

「先生に触るな!」

 襟沢は倒れている僕を庇いながら、平塚をキッと睨み付ける。
 何とか逃げ切れないか、裏をかけないか、襟沢は考えてる。
 しかしその手は震え、膝がカクカクと笑っていた。
「バカ襟沢…」
「……」
 逃げろと呻いても、襟沢は意固地に僕から離れようとしない。

「もう言い訳出来ない位の瀕死状態でね。
何とか外に出すのを引き留めて、とりあえず首を絞めて殺して」
 平塚先生は襟沢の罵声を意にも介さず、無頓着に話を続ける。
 今にも意識を失いそうだというのに、
耳だけが食い入るように平塚雅夫の話を聞き入っている。
 そうだ藤本が出て行った後、歩美先生が来た後、
平塚先生が来たのだ。

「私も警察は勘弁でねぇ。聞けば襟沢さん絡みだっていうじゃないですか」
 芋づる式に私まで挙げられたら大変でしょ?
 だから正門を閉めてから、二人で青柳先生を埋めに行ったんです。
「……」

 つまり。
 結局全ての事柄は、襟沢を中心に繋がっていたのだ。

02-010 :由梨と上原先生:2010/08/07(土) 23:54:38 ID:ugKGbEK1
 襟沢に対する、平塚雅夫の欲望が、青柳洋介の思惑が、
藤本の忠誠が、中島歩美の嫉妬が、お互いの運命を交差させる事となった。
 襟沢は自覚無く人を結び付け、罪の上に罪を重ねさせた。

 襟沢由梨のその美しさは、人を狂わせる。

「中島先生も嬉しそうでね。『これでずっと洋介さんと一緒に居られる』って。
なのに上原先生が来た途端乗り換えるなんて、とんだ売女ですよねぇ」

 執拗に花壇の手入れに腐心していた平塚雅夫。
 謎は全て解けた。
「ところで、どうして私が親切に全て話してあげたか分かりますか?」
 しかし。

「死ぬ前に心残りがあると、申し訳ないでしょう?」
「――」
 そして僕達は、驚く程簡単に命を奪われようとしていた。


「襟沢!」
「……」

 僕は力を振り絞って襟沢の名を叫んだ。
 しかし襟沢は逃げようとしない。
「襟沢さんも腰が抜けてるみたいで、楽で良かった」
 平塚先生は、まるでいつもの調子で呟きながら近付いてくる。

「うーん…二人いっぺんには流石に隠蔽出来ないですし、『痴情のもつれ』とかで良いですか?」
 状況は最悪だ。
 僕は動く事が出来ない。助からない。
 襟沢は逃げられるのに、僕を庇って動こうとしない。
「逃げろよ襟沢!何で逃げないんだよ!」
 半ば逆ギレのように叫んだ僕に対して、初めて襟沢は言葉を返した。
「上原先生」

「私ね、平塚に犯される前からずっと、幸せなんかじゃなかったんだ」
 襟沢の言葉は、この状況において異様な程静かだった。
「襟沢…?」
「でも先生に会って、ちょっとだけ幸せになれた。だからもう、いい」
 襟沢はキッパリとした口調で、一縷の望みを絶った。
「先生を見捨てて逃げる位なら、もういいよ」

「先生と一緒に殺されるなら、それでいいや」

「じゃあまずは元気な方から」
 平塚雅夫がシャベルを振り上げる。
 綺麗な綺麗な襟沢由梨の顔に向かって。
 ゴン、と鈍い打撲音が聞こえた。

02-011 :由梨と上原先生:2010/08/07(土) 23:59:26 ID:ugKGbEK1
 そして。
「え?」
 襟沢が思わず言葉を漏らした。
 僕も驚き、目を見張る。

「……ッ」
 倒れたのは、平塚雅夫の方だった。
 崩れ落ちる体の背後から、見覚えのある顔が現れる。

「私の隆さんに何するんですか♪」

 頭からダクダクと出血した中島歩美が、
金属バッドを構えて立っていた。



 死んだか気絶したか知らないが、
僕達を殺そうとしていた平塚雅夫が意識を失った。
 が、僕達は全く助かってなどいなかった。
「♪」
 第二の脅威は楽しそうに、バットをブンブンと振り回している。

「皆歩美に全然気が付かないんだもん!本当びっくりしちゃった☆」
「歩美先生…何で」
 何で中島歩美がここに?
 藤本はどうなってるんだ?
「あ、歩美先生どうやって此処に」
「たーかしさんっ♪」
 ドッ!

 歩美先生は金属バットを地に打ち付け、僕の顔を覗き込んだ。
「可哀相に…襟沢のせいで怪我しちゃったんですね」
「襟沢のせいじゃありません!」
 マズい。矛先が襟沢に行っている。
 襟沢は息を殺して様子を伺っている。

「生徒だからって庇う事ないんですよ、隆さん」
「違いますよ!本当に」
「……」
 今度ばかりは襟沢も、ジリ、ジリと僕達から距離を置き始めていた。
 今度のターゲットに、僕は含まれない。
「ふふ、妬けちゃうなぁ」
 歩美先生の顔は、もう笑ってなどいなかった。
「歩美がちゃんとぶっ殺してあげますからね」
「ッ!」

 悲鳴が上がった。

02-012 :由梨と上原先生:2010/08/08(日) 00:10:34 ID:e3n+o2On
「襟沢さん♪」
「ヒッ!?」

 カラン!
 中島歩美は金属バットを投げ捨て、一直線に素手で襟沢につかみかかった。

 不意を突かれた襟沢は、なすすべも無く地面に叩き付けられる。
「逃げんなよ♪」
「やっ!離れ…ッ」

 バシャン!
 歩美先生と襟沢は、もつれ合って泥水の中に倒れ込んだ。
「早く死んでね、襟沢さんは生きてるだけで隆さんに迷惑なんだから☆」
 襟沢は手足をばたつかせて必死の抵抗を試みるが、
歩美先生の体はびくともしない。
「クソッ!」
 ジャリ、ジャリ
 僕は自由の利かない体を腕の力だけで動かし、
痛みに耐えながら二人の背後に近づいていく。

 近くに金属バットがある。あれで殴れば殺せる!
 最早害虫か何かのような気持ちで、中島歩美に向かっていく。

「アッ!グ」
 襟沢が首を掴まれた。
 首を絞められている。
「死ぬ?死ぬ?やっと死ぬ?」
 中島歩美は嬉しそうにブツブツと語り掛ける。
 襟沢は苦しそうに喘ぐ。
 このままだと襟沢が死ぬ。
「 」
 襟沢が、死ぬ?

 頭が真っ白になる。

 ジャリ!ジャリ!
 僕の歩みは余りにも遅い。
 間に合わない。
「グ…」
 微かに襟沢の呻き声が聞こえる。
 遠い。余りにも遠い。
 襟沢が、襟沢が。

 その時、僕の目の前に影が指した。

02-013 :由梨と上原先生:2010/08/08(日) 00:24:58 ID:e3n+o2On
「お…」
 いつの間に追い付いたのか。
 怪我は大丈夫なのか。
 聞くべき質問は言葉にならずに。
「お前……」
 僕は目の前のソレを、呆然と見つめる。

 彼が手に持つ凶器を見つめる。
「おい、お前は駄目だ」
 何故か僕は、彼を止めた。
「駄目だ」
 止めても意味がないと分かっていた筈なのに。


 ザクリ
「ヒグッ」
 肺が裏返ったような、奇妙な声が漏れた。
 藤本圭はナイフで、中島歩美の背中を突き刺していた。

 
 ザアアアアアッ…
 雨粒の中に、鮮血が混じる。
 赤は土に混じり、黒く濁った。
「ア」
 中島歩美の動きがピタリと止まる。

「今が人生捨てる時だろ…」
 藤本が声を震わせて呟いた。

「……」
 饒舌な中島歩美が、ものも言わずにその場に崩れ落ちた。

02-014 :由梨と上原先生:2010/08/08(日) 00:29:14 ID:e3n+o2On
「先生!!」

 中島歩美の体を押しのけ、喉を押さえながら一目散に襟沢が僕に駆け寄る。
 良かった、目立った怪我はないようだ。
「ハハ…」
 一方の僕は情けない事に、足を折られ、
頭からは血がトクトクと流れ続けるような満身創痍だった。

「先生死なないで!」
 襟沢が僕の頭の傷にハンカチを押さえつける。
 バカだな、それ位で血が止まるわけがない。
 バカだな、これ位で死ぬ訳もないだろう?
 そう言ってやりたかったが、雨に長時間晒され疲弊した体
からは、何の言葉も発する事が出来なかった。

「先生、先生、私だけこんな所に置いてかないで!」
 襟沢は涙に濡れた声で僕に呼び掛ける。
「先生が私を連れて行ってよ…私を…!」
 遠くから、救急車の音が聞こえてきた。
 雨粒に混じって、温かな水滴が頬を滑った。


 うん、襟沢。

 君が望むなら、何処にでも連れて行くよ。
 ああそうだ、襟沢は東京に行きたいんだった。

 東京じゃなくたっていい、二人でこんな街から出て行くんだ。
 そんで東京に着いたら、君が行きたいって行っていた109に行こう。
 僕は服の事は分からないけれど、近くに行きつけの美味い店があるんだ。
 君さえ良ければ、そこで昼飯をご馳走するよ。
 君と一緒なら、デザートにも挑戦出来るかもしれない。

 考えれば何もかも、手に届く事ばかりだ。
 なのに何故君も僕も、動こうとしなかったのだろう。

 まだ間に合うだろうか。
 願えば届くのだろうか。
 ならば僕は

「   」
 そして僕は目を覚ました。

02-032 :由梨と上原先生:2010/08/12(木) 23:35:13 ID:HdKOcXNW
19

 桜には早いが、梅が綻び始めていた。

 年に一度の式に、校内は盛り上がりを見せている。
 別れを惜しむ先生や生徒達を振り払い、
目的の場所に着いた僕は、教室に彼女が来るのを待っていた。
 暫くすると扉が開き、目当ての人物が顔を出す。
 僕は彼女に声を掛けた。

「卒業おめでとう」

「…はい?」
 教室に入るなり掛けられた言葉に、
高坂みるりは可愛らしく首を傾げた。



 ひとしきり困惑の素振りを見せた後、
高坂は恐る恐ると言った感で僕に問いかけた。
「な…何でみるりにそんな言葉を」
「高坂にだけじゃないだろ。皆に言ってるよ」
「いやいや上原先生!卒業!教室!呼び出し!教師&生徒!
どう考えても『卒業→みるりにプロポーズ』プラグだよ!」
「ハハハ違う違う」
「ていうか先生、由梨ちゃんというものが
ありながらみるりに手を出そうなんて…!」

 相変わらず絶好調なテンパり具合に、思わず苦笑してしまう。
「うん、まあ話というかさ。確認というか」
 僕は高坂みるりの瞳を見つめ、切り出した。
「去年のあの事件について、聞きたい事があるんだ」


「去年の…」
 事件という言葉に、さっと高坂の顔が強張る。
「そ。幾つか高坂に聞きたい事があるんだよ」

「何で今更…折角みるり、やっと忘れられそうになってたのに」
 高坂は既に涙目になりながら、唇を尖らせている。
「ごめんな、ちょっと聞いてくれてるだけでいいんだ」
 自己満足みたいなものだから、と僕は優しく言い添える。
「う…うにゃああ…」

 高坂はオドオドと怯える様子を見せるも
「……」
 元来のお人好し気質が勝ってしまったようで、不承不承コクリと首を縦に振った。
「ありがとう」
 僕はそんな様子に目を細めながら、話を始めた。

02-033 :由梨と上原先生:2010/08/12(木) 23:40:18 ID:HdKOcXNW
 最初に「あれ?」と思ったのはさ、最後の最後だったんだ。
 その時点でも、相当事態は訳の分からない状態に陥っていた。

 何故中島歩美に逃げられたのか。
 何故『警察』が来なかったのか。
 何故あのタイミングで彼らが現れたのか。

 あの嵐の日だけでも、これだけの疑問がある。

「それは確かにみるりのせいだよ…」
 高坂は眉尻を下げて、床を見やる。
「みるりパニクって騒いで電話どころじゃなくて…
圭君に宥めてもらってる隙に、歩美ちゃん先生がロープを解いてて」
「そうだな、その話は藤本とも一致している」
「歩美ちゃん先生と圭君が、何分も揉み合って殴り合って…みるり怖かった」
「そうか」

 でも高坂、結局お前ちゃんと通報出来たよな。

「え?」
「最後だよ、学校にパトカーと救急車が来た時。あれはお前が呼んだろ」
「うん。圭君が『学校だ!』って言って追い掛けていったから…その時に学校に行くよう、連絡したの」
「110番と119番、どちらにも連絡したんだな」
 高坂はコクリと頷く。
「よく判断出来たな。『救急車と警察どちらも必要だ』って」
「いや、あれは」
「あとで警察の人に聞いたよ。
『凄く冷静で、119番の後に110番もして、話もしっかりしていた』って」
「あ、うん」
「何で119番を先にしたんだ?」

 高坂みるりの口元が、ピクリと引きつった。



 高坂は当時を思い出すように、視線を空にやった。

「藤本君は殴られて怪我してて…それが目に焼き付いちゃって。
『死んだらどうしよう』と思って119番の方を押しちゃったの」
「確かに混乱してたんだから、仕方ないよな」
 僕はあっさりと高坂の回答に同意し、話を続ける。

02-034 :由梨と上原先生:2010/08/12(木) 23:43:26 ID:HdKOcXNW
「高坂が救急車を呼んでくれたお陰で、僕は助かった」
 僕、意外と危なかったらしいしね。

「加えて中島歩美も平塚雅夫も、重傷は負ったけど死にはしなかった」
 二人とも殺人と死体遺棄、平塚雅夫の方は婦女暴行も加えて、
もう社会に出て来ることは無いだろう。
「歩美ちゃん先生は精神鑑定やってるって聞いたけど…」
「精神病院入り、なんて可能性も大だ」

 つまり、この学校の、少なくとも襟沢の周りの膿は全て駆逐された訳だ。

「うん…色々傷は残ったけど、それは本当に由梨ちゃんの為に良かったと思う」
「ああ。僕達はもう1つの犯罪について一切触れなかったからな」
「もう一つ?」
「襟沢の、教師への脅迫。十分犯罪行為だ」
「!」
 高坂の顔が、目に見えて曇る。

「だって…言える訳ないよ!」
 そうだな。お前も藤本も僕も、襟沢が不利になる事を証言する筈がない。
 平塚雅夫は脅迫の事までは知らなかったようだし。
 中島歩美の証言は、もとより信用されていない。

 平塚と中島が消えた。自身の犯罪も止められた。
 つまり、襟沢はこの事件において唯一得をするようになっているんだ。


「なっ!」
 高坂が語調を荒げ、僕に突っかかってくる。
「何その言い方!まるで由梨ちゃんが仕組んだみたいな…」
「ああ、気分を悪くしてしまってごめん。じゃあ話を変えよう」
 僕は両手を上げて、高坂の気持ちの高ぶりを静める。
「君の話に戻ろうか」

02-035 :由梨と上原先生:2010/08/12(木) 23:52:46 ID:HdKOcXNW
 窓から春風が吹き込み、赤い花弁が教室に舞い散る。

「襟沢に話を聞いたんだけど、僕が高坂に質問した時の事を襟沢に報告したんだってな」
「それが何か…」
「襟沢は報告を聞いて、『上原は私をまだ疑っていない』
と思って再び僕に接触したと言った」

「…?」
 高坂みるりは全く話が読めないとばかりに、ハテナ?と首を傾げている。
 僕は笑みを崩さずに続ける。
「それっておかしくないか。僕は『今まで居た教師』について聞いたんだぞ?」

 襟沢のボイスレコーダーを持ち帰った翌週の、僕のその言動。
「事情を知っている人間からすれば、僕の態度からして
明らかに感付かれた事が分かる質問だ」
「だって先生、歩美ちゃんに反応してたじゃん!てっきり私」
「だとしても。襟沢の話を聞く限り、君の話しぶりや断定は変に不用意だ」
「……」
 意図の分からない追求に高坂は表情を強ばらせ、僕を睨み付ける。

「…なんなの?先生、みるりを何かの犯人にでもしたい訳?」

 僕はその問いにも、穏やかに答える。
「いや、君は何の犯人でもないと思うよ」
 まして犯罪なんて、犯してもいない。
「だったら!」
 ただ僕は思ってるんだよ。

「高坂。もしかして君が、この結末に仕向けたんじゃないのか?」
「…え」



「何それ…」
 困惑しきりといった様子で高坂は呟く。

「みるりの勘違いの発言だけで、そこまで話がブッ飛んでるの…?」
「ああ、君が平塚雅夫と中島歩美を陥れたと思ってる」
「そんな」

 僕の身も蓋もない言葉に、弾かれたように高坂が反論を始める。
「上原先生、頭おかしいんじゃない!?」

 だってみるりが嘘発言をして、先生と由梨ちゃんを近付ける事に成功したとしても
それから青柳のルートにどうやって乗せる気だった訳?

 それに中島歩美の家に行くなんて展開、完全に偶然以外の何者でもない。
 ましてやそこで死体を見つけて、花壇の前で平塚に対峙するなんて。

02-036 :由梨と上原先生:2010/08/12(木) 23:56:10 ID:HdKOcXNW
「有り得ない。人の手を離れてるよ」
「確かに僕からも、そう見えるよ」

「ほら!」
「ああ、結局僕には情報が少なすぎる。どれが作為的で、どれが偶然かなんて断定は出来ない」
「見なさいよ!どの口が推測と妄想だけでほざいて」
「僕が確信しているのは大きく三つ。
一つ、君の言葉は襟沢と僕を近付けた。
二つ、君は怪我人が出る事を知っていた。
三つ、君が通報した時刻が余りにも遅いことだ」
「…!」

「藤本に聞いたよ」

 藤本は言った。
 逃げた中島が部屋で暴れまくって揉み合いになって、
頭をぶつけて気絶した所を逃げられた。
 起きるとみるりが『外に出て行った』と言うから、追い掛けていった。
「……」
 中島歩美が暴れても、藤本が気絶しても。
「君はただ、見ていただけなんだ」

 暗がりの中、罵声と血だまりの中、高坂みるりの瞳が右往左往する。
 惨劇に瞳は輝き、体は動きを停止した。


 僕と襟沢が中島歩美の家を出たのは9時前。
 最終的に学校に救急車と警察が来たのは、10時15分頃。
 という事は、君が通報したのは、豪雨で車が遅れたのを考慮しても10時過ぎの事だ。

 僕達が出て行っても、藤本が意識を失っても、
家に誰も居なくなっても、君は何一つ動かなかった。


「救急車も警察も、遅過ぎた。既に全員が満身創痍の状態だったんだ」
 藤本が体中に傷を負い、僕は足と頭をやられ、
平塚雅夫はバットで殴られ、中島歩美が背中を刺された後、漸く救急車が来た。

「だが逆に言えば、全員が揃っていた。そして尚且つ、襟沢由梨のみが無事な状態だった」

 高坂、君は歩美先生の家を出て、学校の近くに居たそうだね。
「もしかして僕らの様子を見ていたんじゃないのか?」
 僕達が殺し合って、いがみ合う様を君はつぶさに眺めて、
しかるべき時に、通報をした。

02-037 :由梨と上原先生:2010/08/12(木) 23:59:52 ID:HdKOcXNW
「僕に分かるのはこれだけだ、少なくとも君があの状況を作り上げたと考えている」
 高坂、そういやさっき君『藤本が家を出てから通報した』って言ったよな。
 学校に直接行くように連絡したなら、9時台に車は到着していた筈だ。


「嘘を吐いたね」
「――」


「これが僕が、君達の卒業まで考えて辿り着いた答えだ」




「…先生」
 高坂みるりが口を開く。

「先生、さっきから全然証拠がないね。机上の空論もいい加減にしなよ」
 冷たく僕の言葉を突き放す。
「大体よく『影で操っていた』なんて発想が浮かぶね。
普通は『動揺して通報が遅れた』で終わるんじゃない?」
 高坂はいつの間にか、いつもの舌足らずな喋り方を止めていた。
 それが彼女の、元の喋り方だったのだろうか。

 そして僕は、高坂の問いに答える。
「…僕は疑ったんだ」

 そう、僕は初めて人を、悪意を持って疑ってかかった。
 これまでの僕ならば、通報の時間がおかしかろうが、
高坂の言葉に違和感を感じようが、そもそも君が現れた事自体に疑問なんて抱かなかった。
 この妙に出来の良い勧善懲悪に、脳天気なハッピーエンドを描くだけだった。

「だけど現実は僕の期待するような世界じゃない、やっと気が付いたんだ」
 おかしいと思うなら、それは確かにおかしい事なのだ。
 独善的なフィルターで綺麗なものばかりを見つめ、
その『おかしさ』に目を背け続けていた。

 僕は自らを痛めつけるように、言葉を放った。
「純粋は無知で、悪だ」
「……」
 高坂の眉が顰められた。

02-038 :由梨と上原先生:2010/08/13(金) 00:04:16 ID:HdKOcXNW
「…私が様子を見て通報した?圭君の後に家を出たのに間に合う訳がないじゃん」

 高坂は、僕の述懐を嘲笑うように言葉を紡ぐ。
「……」
 僕は、何も反論する事が出来ない。
 高坂の言う通りなのだ。
 この推論は、高坂が自白しなければ成り立つ事はない。
 そもそもが圧倒的に不利な状況だ。
 だが、この期に及んで僕はどこかで期待をしていたのだ。
 高坂みるりは微笑む。


「まあ確かに、自転車使って、別の道から歩美ちゃんに追い付いたけどね」
 高坂は、僕にだけは喋ってくれるのではないかと。


「高坂……」
「はは」
 高坂みるりは穏やかに笑った。
 それはあの無邪気な笑顔でなく、目の奥に澱みを抱えた乾いた笑みだった。



「高坂…やっぱり」
「先生、もしかしてアレもおかしいと思ってた?
歩美ちゃんの部屋に青柳の資料があったの」
「!」

 僕が思わず表情を変えると、高坂はペロリと舌を出す。
「だよね。あの歩美ちゃんが、資料の隠蔽なんて思い付く訳なし…よく考えれば意味の無い事だもんね」
「…高坂があの部屋に置いたのか?」
「うん。歩美ちゃんの部屋に青柳の死体や証拠がないのは分かってたから。
調査を打ち切られでもしたらいけないと思って」

 一応桜井の死体はあったけど、あれが青柳だと勘違いされたら大変だから
、屍体探ってネームプレート見つけるの大変だったんだよ?

 高坂は涼しい顔で、とんでもない事を言う。
 つまり高坂は、あの蛆這う死体を素手で物色し、腐った屍肉の中からネームプレートを見つけ出したのだ。
 高坂の侵入から悲鳴が上がるまでの、妙なタイムラグ。
 それは、こういう事だったのか。


「中に侵入する事は分かってたけど…まさか小窓からなんて。
資料を服の下に隠し持ってたから、中に入るの大変だったよ」
「えっじゃあ、あのブラジャーは」
「只のカモフラージュだよ。『みるり』の貧乳を舐めないでくれるかな?」
 …変な所で叱られた。

02-039 :由梨と上原先生:2010/08/13(金) 00:11:28 ID:bcVwmRGJ
「やはり君は…青柳先生殺害の犯人が歩美先生と平塚先生だと、知っていたんだね」
「うん。だって由梨ちゃんを家に連れて行った後、
もう一回学校に戻って、2人が青柳を埋める現場を見たから」
 当たり前と言えば当たり前の答えを高坂は返す。

「戻ったって…、藤本に聞いたのか?」
「聞かなくても、何かとんでもない事が起こったのは分かるよ」
 だって由梨ちゃんが気絶して、圭君に運ばれてるんだよ?
「臆病でお人好しな圭君は家で震えてる事しか出来なかったみたいだけど、私は違う」

 学校に戻って、私は見た。
 平塚と中島が何かを埋めてる所を。

「翌日何を埋めたのか、青柳の欠席が証明してくれた」
 だから私は、あの証拠を使って復讐しようと思った。
「中島を、平塚を追いつめて罪を償わせよう。由梨ちゃんの仇を討とうって」

 高坂みるりは冷たい声音で、告白を始めた。




「これってさ」

 不意に高坂は、教室の黒板に目を向けた。
「え?」

 黒板には卒業式当日らしく、中央には白チョークで大きく『夢』と書かれ、
周りは生徒たちのメッセージで埋められていた。

『大学で彼氏つくりたい』
『絶対幼稚園の先生になる!』
『3-B最高!ずっと友達』

 たわいもないけれど、将来への希望に溢れた寄せ書き。
「これってさ」

「ホント、気持ち悪いよね」

 ガリ、ガリ!
 高坂は赤いチョークを手に取り、『夢』の字の上に、大きく×を描いた。
「高坂…?」
「ぬくぬく何不自由なく育って、
幸福が約束されているのが当たり前に未来を語って」
 高坂みるりは親指に付いた粉を、真っ赤な舌で舐めとった。

02-041 :由梨と上原先生:2010/08/13(金) 00:18:10 ID:bcVwmRGJ
「由梨ちゃんにも私にも、親は居ない」

 私達はすぐに似た者同士だって気が付いて、すぐに仲良くなった。
 周りは辛い事や嫌な事ばかりで、私達は泣いてばかりだった。

「由梨ちゃんはあんなに頭がいいのに、
先生に会うまでは大学進学すら諦めてたんだよ」
 高坂は静かに語り続ける。
「それでも私達、それなりに楽しく暮らしてたの」

 あの番組が面白いとか、あの子が気になるとか、下らない事で笑いあって。
 些細だけどちゃんと幸せだった。
 それなのに、ある日平塚がその幸せを壊した。
「……」
「由梨ちゃんは心を壊されて、暴走してしまった」
 許せなかった。私達の幸せを壊した平塚が。

「だけど平塚を訴えれば、由梨ちゃんの犯罪も露見してしまう」
 だから私は、平塚に制裁を与えられる機会を待った。
 そうしていると、青柳の事件が起きて、チャンスだと思った。
 動かぬ証拠が埋まってるのだから、後はいかに平塚達を陥れるか。

「そしたら、お人好し全開で扱いやすそうな、上原先生が赴任してきて」
「酷い言いようだな」
「だってそうじゃない。人を疑わない、真面目で誠実、これ程利用出来る物件はなかった」

 案の定由梨ちゃんも先生に目を付けて、うまくこの事件に巻き込む事が出来た。
 私が何もしなくても先生は由梨ちゃんの真意に気付き、
私の情報や、資料隠蔽の撒き餌で、先生は青柳洋介に辿り着いた。

「圭君も期待どおりのお節介を焼いてくれて、ますます事態は都合の良い方向に動いていた」
「…歩美先生の事はどうするつもりだったんだ?」
「中島も予想通り、いつもの病気を出して先生に接近してきた」

 元々、攻めるなら中島歩美からだと思ってた。
 平塚は慎重で立ち回りが上手くて、なかなか尻尾を見せない。
 だけどあの中島なら、男が話に持ち込めば
頭のネジを外す事が出来ると思った。

02-042 :由梨と上原先生:2010/08/13(金) 00:24:45 ID:bcVwmRGJ
 家に行くのは予想外だったけど、思わぬ所で桜井の死体も見つけられた。
「案の定先生に尋ねられたら、中島は喜々として青柳の居場所を吐いて」
 先生は、私が誘導するまでもなく平塚が待つ花壇へと向かった。

「待て、なぜ平塚が花壇に居る事を知っていたんだ?」
「神経質な平塚が、花壇が荒れる嵐の日に居ない訳がないし。それに」
 アイツ、殆ど毎晩花壇を植え込みから見張ってるの。

「――」
「異常だよね」

 情景が浮かぶ。
 深夜、人一人居ない中庭で一人、シャベルを握り締める平塚雅夫。
血走った目が爛々と輝き、花壇を一心不乱に見つめ続ける。
 それは血の気が引くような。

「本当なら、由梨ちゃんをあんな危険な目に合わせる予定じゃなかった」
 でも由梨ちゃんが自分から行くって言い出した時、気付いたの。

「今が生まれ変わる時だ、って」
「生まれ変わる?」

「上原先生言ったんでしょ?『この事件を解決出来たら、きっと君は変わる事が出来る』って」
「それは」
「その通りだよ。幾ら由梨ちゃんを社会的に救っても、
由梨ちゃんの心が救われないままなら意味がない」
 だから危険を承知で、先に2人を行かせた。
 リスクがあっても、由梨ちゃんの中で事件を終わらせるチャンスだった。
 心を溶かす最後のチャンスだと思ったから。
「それに上原先生ならきっと」

「由梨ちゃんを庇って死んでくれたでしょ?」
「――」

 つまり高坂みるりは1人、人よりも一段上の視点から物事を見ていたのだ。
 確かに殆どの情報を手にしていれば、人間を動かす事が簡単なのかもしれない。
 しかし。


「要は、いかに由梨ちゃんの犯罪がバレないように2人を陥れるか。だった」

「……」
「だから、平塚と中島を圧倒的な加害者にする必要があった。
由梨ちゃんを庇う人間も複数居ないと駄目だった。
由梨ちゃんを只の『可哀想な被害者』に仕立て上げなければならなかった」

 しかし彼女が行った事は常人では到底不可能な…
頭も精神力も尋常でなく働かせなければ、成功出来ない事だ。

02-043 :由梨と上原先生:2010/08/13(金) 00:31:38 ID:bcVwmRGJ
 柔らかな日差しが、教室に淡い陰影を生む。

「………」
「ねぇ先生。聞きたいならまだまだ教えてあげるけど、
先生はそんな事を聞きたいんじゃないでしょう?」

 高坂みるりのふわふわした髪が、春風になびいた。
 茶けた瞳が揺れ、睫毛が光を受けてキラキラと輝く。
 高坂みるりは幼いけれど、とても美しい少女だった。


「ああ。言ったろ?これはただの『確認』だ」
「最後にスッキリさせたかったの?」
「いや、君に伝えたい事があったんだ」
「?」
 その言葉に、高坂は愛らしく小首を傾げる。
 僕は高坂の肩にそっと手を触れる。
「ん」
 高坂はくすぐったそうに目を細めた。
 僕は屈んで、彼女の背に目線を合わせ。

「高坂、君は襟沢の友達なだけでなくて、僕の大切な生徒だ」

「偉そうな事を言うかもしれないけど、僕は君が心配だ」
「心配…?」
「君は強いから、きっと大丈夫なんだろう。だけど知っていて欲しかったんだ」
「何を」
「君は1人じゃないって事をさ」

 いいか、君は1人じゃない。
 襟沢も居るし、藤本も居るし、僕も居る。
 誰にも言えなくても、僕だけは君の秘密をちゃんと知っている。

「だから僕達が居なくなっても、1人で抱え込むな」

 困った事があったらすぐに連絡しろ。
 辛い事があったら相談に乗る。
 寂しかったら襟沢と駆けつけてやる。

「だから、安心して卒業するんだ」
「……」
 僕の言葉に高坂は。

「まだだよ」
 何かを堪えるように、奥歯を噛みしめて僕を見上げた。
「先生、まだ私誰にも言ってない事があるよ」


 高坂は小さな子供のようにしゃくりを上げ、瞳から大粒の涙を零した。
「私も平塚に抗議しに行った時に、アイツにヤられちゃった。凄く、怖かった……嫌だった…」


 高坂は俯き、僕の服の裾を握り締めた。
 それはきっと、高坂の精一杯の甘えだった。

02-044 :由梨と上原先生:2010/08/13(金) 00:36:50 ID:bcVwmRGJ
 暫くして、高坂は照れくさそうに僕に言った。

「やっぱり上原先生は純粋な、良い人だね」
「え?」
「上原先生、『純粋は悪だ』なんて言っちゃ駄目だよ」
「何で…」
「上原先生が純粋だったから、由梨ちゃんは恋をしたんだよ?」
 皆にないものを持ってる上原先生は、とっても眩しくて、私は憧れる。

「由梨ちゃんがまた性格悪い事考えてたら、
先生の純真オーラで浄化してあげてね」
「おい何だよ純真オーラって」
「ははは」
 僕の憤慨ぶりに高坂は楽しそうに笑う。
 まるで出会った頃に戻ったかのような、無邪気な微笑みが目に焼き付いた。



 彼女は教壇を降り、僕に向き直った。
「行きなよ先生、由梨ちゃんが待ってるよ」
「ああ」
「私なら大丈夫。圭君とおんなじ大学だし、1人じゃないよ」
「…ああ」

 高坂は考えるように一瞬目を伏せ、また僕を見つめた。
「こういうのを『おめでとう』っていうのか分からないけど」
「え?」

「退職おめでとう、上原先生」

 ガラリ。
 高坂みるりは、とびきりの笑顔で別れを告げ、教室を後にした。
 そして教室には、清々するほど大きな×が付けられた
『夢』と、間抜けな僕だけが残された。



 高坂みるりが立ち去った教室で。
 感慨を持って、僕は彼女の凛とした後ろ姿を思い返す。
 最後の役者が舞台を後にしたのだ。

 そして……。
 今は…
 で、そういえば
「……ん?」
 今、何時だ?

「ああああ!?」

 時計の時刻を見て、僕は絶叫した。

02-045 :由梨と上原先生:2010/08/13(金) 00:43:56 ID:bcVwmRGJ
「あっ上原先生!一緒に写真撮って~!」
「上っち何で学校辞めちゃうのー?」
「ちょっと逃げないでよ!!」
「ゴメン、本当ゴメン!急いでるんだ!」

 生徒で溢れかえる廊下を必死でかいくぐり、僕は全力疾走で職員室に向かう。
 あと何分だ!?

 ガラッ
「あっ上原先生」
「お疲れ様です!今までありがとうございました!」
 僕は殆ど叫びながら、机の側に放置していたキャリーバッグを引き、職員室を飛び出す。


 そして。
 ガラガラガラガラ!
「あああもう!」
 学校を出て僅か3分。
 キャリーバッグの動きの鈍さに痺れを切らし、バッグを小脇に抱えて僕は走り出していた。

 数分程走り続けると、漸く最寄りの駅に辿り着き、タクシー乗り場に直行する。
 適当なタクシーを捕まえ、運転手に行き先を口早に叫んだ。
「東北空港まで!」




『…空港経由の便は、2時14分より…』
 滑舌のよいアナウンスが耳をすり抜け、僕は床を見つめていた。

「うっ…はあ、はあ…はあっ」
「遅い」
「げほっ」
「一体何やってたの?」
「いっ色々と…」

 閑散とした空港の椅子に座る襟沢由梨は、少し怒った顔で僕を見上げていた。

 襟沢はすっかり制服を着替え、真っ白なワンピースを着ていた。
 荷物は殆ど送ってしまっているのか、膝には小さな鞄が一つ、チョコンと乗っているだけだった。
「ほら、もう行かないと。言い訳は後で聞くよ」
「あっうん」
 息を付かせるまもなく襟沢は、僕の手とバッグを引き、
ずんずんとゲートに向かい出す。

 僕は慌ててキャリーバッグを掴み、自分で転がしていく。
「ごめんな襟沢、遅れて」
「間に合ったからいいよ」
 襟沢は先程までの仏頂面が嘘のように、優しい微笑みを浮かべていた。
 スカートの裾が揺れる。

02-046 :由梨と上原先生:2010/08/13(金) 00:50:23 ID:bcVwmRGJ
 僕は誰にともなく呟いた。
「何だかおかしいな。東京から逃げ出した筈の僕が、
帰るのを心から楽しみにしてるなんて」

「私と一緒だからでしょ?」
 襟沢の悪戯っぽい微笑みに、僕も思わず笑みを零す。
「ああ、襟沢が東京の大学に受かったおかげだ」
「先生も、次の学校が決まって良かったね」

 東京に行けば、また排気ガスと人混みと現実にまみれた、灰色の生活が始まる。
 だけどこれからは襟沢が、僕の側に居る。

「…変なの。あんなに遠いと思ってた場所に、数時間で行けちゃうなんて」
 チケットに目を落としながら、襟沢は呟く。
「遠いなんて思うから、行けなかったんだよ」
 手を伸ばせば届くなら、それは掴めるものなのだ。

 現実逃避の幻想を見るのは止めた。
 でも自分を、人を、希望を諦める事は出来ない。
 これが馬鹿で、間抜けな僕の出した結論なのだ。

 キャスターがガラガラと回る。
 同じ歩幅で僕達は目的地に向かう。

 手を伸ばせば届く距離に、襟沢の白い手があった。
 僕はその手を握り、囁いた。

「由梨」

 襟沢由梨は少し瞳を見開き。
「うん」
 はにかんだ笑みを浮かべて僕の手を握り返した。





 飛行機が地上を離れる頃、僕は彼女に聞く。
「やっと、109に行けるな」
「……実はね、109って、私の着るような服があるお店じゃないんだ」
「へ?」
 ポカンとした僕を見て、襟沢由梨は幸せそうに笑う。

「だから、まずは先生の好きなご飯屋さんに連れて行ってね」


 デザートをつつく2人の姿が、脳裏に浮かんだ。




〈終〉

最終更新:2010年08月13日 12:38