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2
 「当主って言っても、パキンブルツ家ってことを除けばお嬢さんだねぇ!」
 王国5侯の1つ、セイデン家の次男といえば品行方正であろうという予想は裏切られ
た。
 なにしろセイデン候が頭を抱えるこの次男は勝手に海峡を渡り、一応王国領地である
ものの辺境である島へ渡ってみたり、他宗教の文化圏を旅してみたり、およそ貴族として
は相応しくない行動ばかりであった。
 反面、その豪放磊落さは従来の貴族とまったく異なることから領民からは人気がある
ということだった。
 特殊な環境となってしまったパキンブルツ家、格の劣らぬセイデン家の問題児。セイ
デン候からの話となれば無下に断ることもできず、面会となったわけだ。
 旅をしているだけあって筋肉質の厚みのある身体は、私より頭1つ高い。
 僅かに黄色がかった砂色の髪、それを濃くした色の瞳がじっと私を見つめる。
 「んー……?」
 不躾にじろじろと私の身体を上から下までみる。
 「そうじろじろと見ないで貰いたいたいのですが」
 まったく動じる様子もなく、もう1度上下に視線を動かすとレクトールが腕を組んだ。
 「あんた、いい女だが……さすがに重荷なんじゃねーのか」
 いくらセイデン家の者といえ、初対面の男になぜこのようなことを言われなければな
らないのか。
 「……今日のところはゆっくりしていただいて、明日以降でもお話いたしましょう」
 「ああ、そうだな、そうさせてもらう」
 レクトールは笑うと、あてがった部屋へ下がった。
 私はため息をついた。
 「面白い人だけど……」
 家の庶務を取り仕切るグレハイムが尋ねる。
 「は……、ミネルラ様、どうなさいますか?」
 「あの手の男は範囲外です。多分、面倒になるし。セイデン家だから、丁重に」
 私はそう告げると私室に戻った。
 
 私室のベッドでしばらく横になっていたが、ふと思いつく。
 「ビット、鏡を持ちなさい」
 ビットが鏡を持って私の前に立つ。
 鏡の中に映る私。
 『重荷なんじゃねーのか』
 なにを言い出すのか。そのような苦労を顔に載せているつもりはない。
 まだ二十代半ばの私の顔に、皺でもあるというのか。
 自分で見て気づかないところにあるかもしれないが、あの男はそれほど近づいて私を
見たわけではない。
 ひとしきり眺めたが、目立つようなものは見つからず、ふっと息を吐く。
 「ビット、紅茶を淹れて」
 「はい、お嬢様」
 ポットに金属の箱から紅茶の葉を出し、いれる。
 「レクトール様は面白い方でしたね」
 「面白い?無礼な男だと思うわ。ビット、……あなたに聞いても仕方が無いけど、私
の顔に疲れでも見えるのかしら。近くなら見える?」
 紅茶のカップをテーブルに置くと、ビットは僅かに拳を握り、失礼します、と言って
ビットが私に顔を近づける。
 濁った瞳の私の顔が映りこむ。
 「僕にはわかりません……。すみません」
 「そうよね。ま、いいわ」
 私はビットから顔を離して、紅茶を飲む。やや強めの香りが鼻をぬける。
 「うん、美味しいわ」
 しばらく紅茶を楽しんでいたがあることを思い出し、席を立つ。
 「お嬢様?」
 「誕生日だったでしょう、これ、あげるわ」
 私はビットに包みを渡す。
 「そんな……ありがとうございます」
 「誕生日を知っている召使なんて数えるほどしかいないからね」
 ビットの誕生日をなぜ私が知っているか。


3

 私の幼い頃に世話をしてくれていた爺やがいた。
 爺やは、私のことをとても可愛がってくれたが、ある時悲しそうな顔をしていた。
 「どうしたの?」
 私が無邪気に聞くと、困ったような顔をした。
 「お嬢様が気になさることではありませんよ。いや、憂鬱な顔をしていましたかな、
これは失礼」
 爺やが寂しげに微笑んだので、私は子供らしく怒ったものだ。
 「子ども扱いしないで!爺や、なんかあったの?」
 「ははは、そうですね、お嬢様は立派なレディです。爺やの愚痴ですが、すこしお話
しましょうか」
 すると爺やは甥の夫婦が馬車の事故によってなくなったこと、そこの子供がまだ小さ
いこと、そして眼が極端に悪いことなどを話した。
 「その子の引き取り先が、先の凶作で見つからないのです」
 私には凶作、という言葉の意味は良く分からなかったが、爺やがその子供を助けたい
と思っていることは分かった。
 「爺や、その子が家に来れるようにお父様にお願いしてあげる」
 「お嬢様、それは」
 「爺や、それで安心できるよね」
 言い切る私に、爺やは微笑みながら、お嬢様は優しいですね、お気持ちだけでも嬉し
く思います、って言った。
 気持ちだけ、なんてことにはしたくなくて、私がお父様にお願いすると、離れの爺や
の部屋に住まわせるのならば、一人召使が増えたところで問題ないといってくれた。
 「ありがとうございます」
 爺やがお父様に頭を下げた後、私にも頭を下げた。爺やの眼の端に光がたまっていた。
 数日後、馬車に乗せられ野暮ったい服を着た少年が私の前に爺やにつれられてきた。
 「ビットと申します。その、お嬢様、ありがとうございました」
 少年は爺やと二人で私にお辞儀をした。


 私は私と歳の近い男の子が家にいるという状況が初めてで、ビットには遊び相手に
なってもらった。
 姉弟のように遊び、私はビットに姉のように本を読んだり、庭園を歩いたりした。
 兄も一緒に遊んだが、父と母はあまり快く思っていなかったようだ。
 それは子供心に察していて、私にとって家族として父と母と兄が大事なこと、ビットが
大事なことは二層に分かれていった。上下で計ることはできないものだったけれど、同一
線上にないことだけは分かるようになっていた。
 そして、ビットと私が主従関係であることに変わりはなく、ビットの濁った眼を父は嫌
い、数年もするとビットと私の距離は離された。
 数年後爺やが、故郷へ帰ることになった時に、ビットを頼みます、と告げられたことも
あって、城の掃除をしていたビットを私付きの召使にすることにした。
 父は僅かに眉をひそめたが、もう自覚を持っている年齢だと思ったためか、反対までは
せず、構わないと言ってくれた。
 ビットは私が守る、というのは爺やへの約束だった。
 だが、程なくして、ビットだけを守る約束を果たす以前に、家を守るというものに変わ
らざるを得なくなった。
 いまだ、彼が私のことを「ミルネラ様」と呼ばず「お嬢様」と呼ぶのは、そのころの
名残であり、また私はその呼び名で呼ばれることの微かな安心感を変えたくなかった。だ
から、他の者と違い呼び名を正すことをしていない。
 一度、グレハイムが注意をしたときに、私は呼び名を変えないでよいと告げた。
 グレハイムが片眉を上げたが、ビットと私が昔は仲が良かったことを知らないではな
かったので、わかりました、と引き下がった。
 ビットは私の夜の懸想を知っている。ビットの存在が、私の自我を支えているのは間
違いなく、それゆえ良き領主としての顔を保っていられるのだと思う。
 しかし、守るべき者がいるだけでは、その昏さを拭いされない。
 ビットは、私が夜、部屋を出るときに僅かに唇を噛んでいる。姉と思う人物が、病ん
でいくのを止められないことに苦しんでいるのだろう。そのことは私も心苦しく思うが、
ビットと私では責務が違う。
 故に、その部分では私はビットを踏みにじって、享楽に耽っていた。
 

4
 夕食の時間、食堂でレクトールはわざわざ近くに座った。
 「嫁さん候補だからな、近くで見ないといけないと思ってな」
 随分とあけすけにいう男だ。……たしかに、こういう男は見かけなかったし、家の格
も申し分がない、顔も野性的な感じで悪くはないだろう。
 「私が気に入るかという問題があるでしょう?」
 「はっはっは、そりゃそうだ。俺もあんたの見た目は気に入ったが、まだまだ決めら
れないからな」
 ずけずけと良く喋る。
 だが、駆け引きがあるとしてもそれを感じさせない男の気楽さは私の心を軽くする。
 「で、どうだい?夕食を食べていて」
 「嫌な感じではありません。気遣いはなさそうですけど」
 「そりゃ、上等だ」
 よく食べ、よく飲み、食事を終えるとレクトールは、食堂の端を指差した。ビットが
クロスを持って立っている。
 「な、あの少年なんだが?」
 「ビットといいます」
 「ああ、それはさっき来てくれて聞いたよ」
 レクトールは、ビットの方へ近づいていく。
 「目、見えないのか?」
 「……はい」
 顎に手を当てて、ビットの目を覗き込む。
 「少しだけ、光に反応があるな。光だけは感じるか?」
 「そう、ですね」
 「お嬢さん、もしかしたら治せるかもしれないんだが、治してやっていいかね」
 「は?」
 私はレクトールの言っている事が理解できなかった。ビットの目を治せる?おそらく
もっとも国内で進んだ医師がいる、ここでも治せない病なのに何を言っているのか。
 それに、そもそもビットを治すことに何の意味があるというのだろう。
 「構いませんが……治す方法があるんですか?ビットの前で軽々しくそういうことを
いうのは……」
 「ああ、すまん……そうだな、東方に行ったときに目の濁りを取るって薬があってな、
すこし持っているから試しに飲んでみてくれ、もし効くようなら、手に入れられるよう
してみよう」
 「あ……ありがとうございます。お嬢様……?」
 ビットが私の方へ顔を向ける。レクトールが僅かに首を傾げる。
 「構わないですよ。しかし、レクトール様、ありがたいですがビットにそこまでする
のはなぜですか?」
 「ああ?」
 彼は頭をぽりぽりと掻いた。
 「困っているの見ると助けたくなるだろ、常識的に考えて」
 私の心の中に、ひゅっと風を切るような音がした気がした。
 「それは……そうですけど」
 こんなことをいう貴族がいるのか。いや、いう貴族はいる。そして、実際に助ける貴
族もいる。
 ただし、それは貴族同士などであり使用人にまで同じ視点でいる者がいることは私に
は信じられなかった。私とビットとの関係はたまたまで、私も制度的に税制などで民の
ことを意識はするが、使用人は使用人という意識はあった。
 だからこそ、あのような行為をするメイドを雇い、利害の一致から利用していたのだ。
 レクトールがかしこまった様子で、私を見る。
 「ただ、そうだな、お嬢さんの言うとおりだ。治るって表現は安易に使うべきじゃな
かったか。それにただの煎薬だから、劇的に良くなるわけじゃない。今よりはすこし良
くなるかもしれないって程度かもしれん。後で、部屋で渡そう」
 ビットの視力はゆっくりだが確実に衰えている。今は、色がぼんやりと漂うだけでそ
の輪郭を掴むことはできないと言っていた。
 だから、私は、汚れた自分をビットに見られないことに安心もしていた。誤魔化しでし
かないと自覚しても、私はビットの眼が濁っていることを曲解して済ませていた。
 けれど、弟のように思うビットの目が少しでも良くなるということは、そんな私の言
い訳がましい思いとは比べる必要もない。私は、レクトールに頼んだ。
 「お願いします、レクトール様」
 「ああ」
 レクトールは快活に笑った。
 
   ◆
 
 3日ほどすると、僅かに効果が現れたようで、ビットは明るく感じると言った。
 そのことが嬉しくて、私は、当初のレクトールに対する腹立たしさは雲が千切れるよ
うになっていた。
 それに3日の間に、城下町をレクトールと巡ったが、この男は工場なども見て、感嘆
の声を上げ、また市民広場の市民の顔を見ては私を称えた。
 「城下町は国の顔だ、そこがこれだけ活気があるってのは良い。ミネルラ、あんたは優
秀だな。領内を放って歩いている俺よりすごいんじゃねえか」
 素直な感想、そして、私が評価されたいことを評価してくれたことに、久しぶりに精
神的な喜びがあった。
 彼といると磨耗した心が、ずっと軽くなる気がした。
 この男なら、あるいは、と思いはじめていた。
 翌朝、朝食を食べていると、レクトールがフォークをハムに刺して、こちらを見る。
 「お嬢さんよ、ま、この城に来るまでの感じは良かったが、あんた領内は回っている
かい?」
 「年に1回ほどは。なにぶん狭くはないので……」
 「そうだな。まったくまわらないヤツらもいる中じゃ、随分がんばっていると思うぜ。
それでだ」
 「はい」
 「あんたの手腕、見てみたいんでね。領内をしばらく回ってみたいんだが、構わない
か」
 私は、否定する必要もないことなのでうなずいた。
 「構いませんよ。けれど、レクトール様は本当に面白い方ですね」
 「面白いか、ま、変わっているってのはよく言われるし自覚はあるがね」
 「私のところに来る殿方といえば、皆城内で私といかに過ごすかに心を砕かれるのに、
貴方はまったく気にしない」
 その言葉に、レクトールは上方へ視線を移して、納得したように何回か首を揺らす。
 「そうだねえ。お嬢さんはお美しい。でもな、俺はそれだけでいいとは思わない。他
の国でも女王やら女帝の国はあるが、彼女らは性別を超えて素晴らしい能力の人たちだ。
いや、女性に対する視線の厳しさを考えれば、男より峻厳にことに望んでいるだろう」
 湿って重くなった綿に日の光を当てれば、やがて乾いて軽さを取り戻す。私は、この家
を引き継いだ。けれど、不安の中で続けてきたことだ。それが、私の心に少しずつ湿り気
を帯びさせ、重くしてきた。そんな中で同格の家の異端者といえども、そういった格の者
から認められたことは、彼の性格と会わせて陽光のようだった。
 「俺は、俺が納得する相手ならば身分を選ぶ気はない。親父は反対するだろうがな。
それには、自分が話せる相手を選びたいと思う。もちろん、身分もあれば、親父にも納
得させやすいだろうが、それはあくまで二次的な基準だ。
 今まで俺の見てきた貴族の子女ときたら、女であることに甘んじている娘ばかりだっ
た。それが悪いとは言わんがね。だが、俺はそういう人間はパートナーとしては物足り
ないと思っちまう。それは俺が見てきた世界が俺の判断基準を変えているからだ。それが
正しいかどうかわからん。ただ、俺はその判断基準で選びたいってこった。……その点に
ついていえば、あんたは聡明だ。だから、俺もあんたの治めている土地がどんなもんか見
ておきたいと思う」
 「聡明などということは……。それでは私の領内を巡って、結論を出したらどうなさ
るのでしょう?」
 「あんたが良ければ、求婚させてもらう。ああ、もちろん断りたいなら今断っても構
わん、俺の後学のために領内を見たら帰るさ」
 まったく気負わず、それでいて、結婚を求めるこの男に私は惹かれていると気づいた。
もちろん、レクトールの後ろにいる父は、次男と私が結婚することによりバキンプルツに
対し実効的な支配力を及ぼすことを企図しているだろう。
 しかし、彼が私を尊重しないということはないように思えた。また次男であることから
も、バキンプルツの名にする条件をつけて、彼が来てくれるのならば考えうる理想の婚姻
ともいえる。
 なにより彼の裏表のない性格に、与えられる安らぎは捨てがたいものだと思えた。
 「随分簡単におっしゃりますね」
 「3日も話せば、その人がどんな人か分かるさ。積荷が重いなら二人で分けて持てば
良い。……弱い人間だとは思わないが、無理していないわけじゃないだろう?」
 どこまで見透かしているのか、それは分からない。だけど、私の背負っているものを分
かちあえる相手だと思った。。
 私は問いには答えず、意識して微笑を作る。
 「私は、レクトール様が思っているより手を汚しているかもしれませんよ」
 意地の悪い返答にも、レクトールはたじろがない。
 「それも領主だからだろ?汚れていてもいいし、汚れをあんたが雪ぎたいなら雪げば
いい。あんたがそれを理由に拒むなら仕方ないが、俺はそれは気にしない」
 ぶれない答えに、私は彼が私を選んでくれることを願い始めていた。私は、覚悟を持っ
て答えた。
 「そう……ですか。じゃあ、領内を周って戻られるのをお待ちしています」
 「ああ」
 紅茶のカップを口に運び、下ろすとレクトールは思い出したように提案をしてきた。
 「お嬢さん、あんた領内周るときにビットは連れて行っているのか?」
 私は首を振る。
 「いいえ、眼のことがありますので……」
 「馬の誘導に任せれば問題ないだろう。そうか、周っていないのか。ビットを連れて
行ってやりたいが、良いか?」
 私の心がざわつく。
 「そんな……危険ではないですか」
 「危険、危険ととじこめておくのはあまり良くないって思うんだが。眼が不自由でも
旅をしている者にもあったことがあるし、ビットに判断させてやってみないか?どうだ、
ビット?
 ビットは私のほうに視線を向ける。私はどうしても不安で、すこし顔を曇らせていた
が、ビットが珍しく語気を強めに言った。
 「行きたいです」
 その言葉に、私は反対をしなければ、と焦ったが、どのように反対しようか考えてい
ると、レクトールが制した。
 「責任はもつ。じゃあ、しばらくビットも借りるぜ」
 なぜビットを連れて行く必要があるのか、私にはわからなかったがレクトールは、ビッ
トと周ってみたいんだ、などと笑った。
 
   ◆
 
 それからの2週間、私はビットへの心配とレクトールの評価が気になって、普段より集中
できなかった。
 レクトールのことは信用できると思っていたが、そうはいってもビットが馬に乗って
周るには厳しい土地も、領内にはあったからだ。
 それにレクトールに対して領民がどう写っているか、どう答えているのか。
 だから、2週間後に二人の姿を見たときは本当に安心したものだった。
 「やあ、出迎えていただいて光栄だ」
 レクトールは日焼けした顔でにやっと笑い、歯を見せた。
 「お疲れ様でした。レクトール様、ビットは大丈夫でしたか?」
 「ああ、馬に任せて歩いていただけさ。むしろ委ねることができる分、下手な馬乗り
よりずっと良かったぞ」
 ビットを馬から下ろしながら、レクトールが肩をすくめる。
 私が胸を撫で下ろすと、ビットがゆっくりうなずいた。
 「これ……そのお土産です、領内の物なんていらないかもしれないですけど。誕生日の
お礼です」
 ビットがとてもよい香りのするポプリを私に差し出す。
 城内にあるものより、鮮烈な香りのするポプリはビットが嗅いだことのない香りだった
のだろう、私もそういったものを領内で買ったことはなかったから、香りにむせながらも
微笑んだ。
 「お礼なんて良かったのに、でもとてもいい香りね」
 ビットは嬉しそうに口を開いた。
 「どの地域でも、お嬢様のことを良い領主様だって言っていました。僕がお仕えしてい
る方は素晴らしい方なんだって、誇らしく思いました」
 ビットの言葉が心にくすぐったい。
 「そ、そうですか、領民の方々が……。私のいないところでもそういわれているのは嬉
しいことです」
 「ま、そういうわけで、まったく大したお嬢さんだって思ったよ」
 そういうとレクトールはビットの肩をぽんと叩いた。
 「いいな」
 「……はい」
 「?」
 そのやり取りの意味は分からないまま、レクトールが私の前に立った。
 彼でも緊張することはあるらしい。
 深呼吸をすると、私の瞳を見つめた。
 私もこれからの彼の言葉を考え、胸が張り詰める。
 沈黙を破りたくて、私が問う。
 「私の評価は、どうなりましたか?」
 レクトールはビットを一瞥した。
 「おそれいったよ。こっちがお願いしなきゃならないって思った。……あんたが良けれ
ば結婚をしてもらいたい」
 あまりに真っ直ぐな言葉だった。そして、そんな真っ直ぐな言葉には、私も真っ直ぐ
に応えようと思った。
 「分かりました」
 そこで1度区切って。
 「お受けします」
 私の返事に、レクトールは普段どおりの蒼点のような笑みを浮かべた。
 「ははっ、嬉しいね!」
 レクトールは私の身体を抱えた。私の腰と膝の間に腕を回し抱え上げ、ぐるっと周る。
視界の端に影が写った気がしたが、私は彼の率直な喜びに包まれていた。
 
 ◆
 
 彼がセイデン候に私を娶ることを告げるとして、私の領内を去って数日がたった。
 「いやはや、よもやセイデン候の次男の方と婚姻とは思いも寄りませんでした」
 グレハイムが、相好を崩す。
 「そうね、でも私が納得できる相手でしたから」
 「素晴らしいことです。私もお父上から託されたお家のことを思うと一安心です」
 グレハイムは私の片腕として、とても助けてくれた。しかし、やはり女性の領主とい
うことに懸念をもっていたようで、私が夫を早く迎えるべきであると考えていたことは分
かっていたから、うなずいた。
 執務室を見回して、ここ数日私の風景から欠けている部分がある。今日も、欠けている
ことに気づいて、尋ねる。
 「グレハイム、ビットになにか頼んでいるのかしら?」
 グレハイムが眉を僅かに上げる。
 「いえ、特に」
 「そうですか。私も頼んでいないのだけれど、ここ数日側にいないことが多いので」
 私の言葉に、グレハイムが中空を見つめながら返答する。
 「ミネルラ様と私以外から頼まれるということもありましょう」
 「それはそうですが」
 「ミネルラ様、それよりも結婚式に向けて準備を始めねばなりません。執務も今までど
おり行うのはもちろんですが、忙しくなりますぞ」
 グレハイムが両手を腰に当てるようにして、反り返る。やけに芝居がかった動きに私は
優秀にして厳格である、白髪の前髪がやや後退したこの老人なりに喜んでいるのだと感じ
た。ただ、彼にしてはいささか大げさに過ぎる感もあったが。
 私はグレハイムのそんな動きに思わず吹き出したが、笑みを浮かべながら頷いた。
 「わかっています」
 レクトールの腕の力強さを好ましく思い、その隣に並ぶ私を思い浮かべると華美でなく
とも盛大なものにしたいと思った。
 
 ひとしきり、相談を終えて執務室を出ると、私室へ向かうときにこげ茶色の髪の毛が目
にとまった。ビットの前にミリィがいる。二人は私に気づいていないようだ。
 なんとなく、ビットの前に別の女性がいることに糸が絡むような気分が起こる。姉が弟
の恋人を見つけたときの心もちとはこういうものだろうか。
 すこし近づくと話し声が聞こえた。
 「ビット君、キミ、好きなんでしょう?」
 「え……」
 なんの話をしているのだろう。私が知らなかっただけで、ビットとミリィは恋人同士に
なっていたのだろうか。
 好き、と問いかけるような話を聞くべきかどうするか悩んで、足を止める。ミリィが続
けた。
 「身分違いとか、自分の眼のこととか、気になるのは分かるけど、なんにも言わないで
去るのだけはだめだよ」
 ビットが去るとはどういうことだろう。
 「はい……でも、その煩わしたくないですから……」
 「キミね、キミにとっても大事な人かもしれないけど、キミが思っているよりずっとキ
ミはミネルラ様にとって大事な人だよ」
 
 そうだ、私にとって血はつながっていなくても大事な弟だ。
 
 「はい、それは……。ですが、レクトール様と婚約なさってから、お嬢様は貴族の子息
の方々を返されましたよね。たしかに、婚約の手前もあるとは思います。だけど、レク
トール様だからこそ、お嬢様は婚約して、あのようなことをやめることができたんだと思
います」
 私の夜の行為にビットが複雑な気持ちをもっていたことは分かっていた。それをやめさ
せることの叶わなかった自分とレクトールを比べているのならば、私はなにも語りかける
ことができない。
 聞くべきではなかった、と思い足の向きを変えようとする。
 「たしかにね、レクトール様だから、ってのは認めるよ。でも、キミのことが大事なこ
とはそれとは別でしょ?」
 「お嬢様は……僕のことをとても大事にしてくれていると思います。感謝しても感謝し
きれないくらいです。ですが……」
 ビットのためらう言葉が気になって、私は歩みだせず耳を澄ませる。
 「そうだね。ミネルラ様は、キミのことは本当特別で、信じられないくらい心配してい
て、そして、信じられないくらい分かってないね。だから、キミがいなくなることに同意
しないと思う」
 さっきから、いなくなるとミリィが言う。どういうことなのか、私は分からない。そし
て、私がビットのことを分かっていないという言葉に苛立ちに似た感情が湧く
 「……でも、僕はいられないです」
 その言葉の意味が飲み込めない。
 「だから、辞めるっていってここから出て行くの?」
 「……はい」
 「つらいものね」
 ……辛い?
 
 私は自分の中でビットへ問いかける。
 眼のことなのだろうか。でも、眼はレクトールのお陰ですこし良くなったはずだ。
 それに、なんで急に辛いことになるのか、答えを導き出せない。
 「でも、だったら去る理由を伝えるべきだよ、そうしなきゃ、キミのことでミネルラ様
は悲しむよ。キミがどう思っているか、わからないままなんだから」
 「でも、この気持ちを明かしても苦しませるだけじゃないでしょうか」
 「否定はしないよ。でも、キミは離れてからも想いつづけるでしょう。だったら、その
気持ちは最後でも良い、伝えていくべきだよ。ミネルラ様に答えをあげるべきだよ」
 しばらく沈黙が流れる。
 話の流れからたどり着く答えを私は否定する。
 
 まさか、そんなわけがない……。
 
 私はビットの表情を思い出す。
 ビットの眼は、感情をほとんど描かない。
 だけど、表情はある。
 
 熱を出した時に額をつけた時の表情が、照れ臭かったからじゃなかったとしたら。
 
 レクトールの言葉を確認するのに、鏡を見た後、近づいたとき拳を握ったのは。
 
 「ありがとう、ミリィさん……そうですね、お嬢様のためにも、僕のためにもこの気持
ちをいうべきなのかもしれません……」
 「そうだよ、……キミのミネルラ様への気持ちを言ってみなよ」
 
 ビットが静かに呼吸をする。
 
 聞いてはいけない、そう思うのに、私は動けなかった。
 
 「僕は、お嬢様のことを愛しています」
 
 ビットの決意が、肉親としての愛情の意味ではないことを示していた。
 同時に、私は自分の愚かさに血が逆流していくような眩暈を感じた。
 
 ビットは私の大事な弟。
 そう決め付けていた。
 でも、ビットと私は数年間離れていたことがある。その間にビットは一人の男性になっ
ていたのだ。
 私の中では弟と思い込んでいただけで、ビットは私のことを姉としてではなく好意を抱
くようになっていた。けれど、それは許されない気持ちだと抑えつけていたのだ。
 身分も、自らの眼のことも、そして私からの「弟」としての愛情も、彼を悩ませ苦しま
せるもので、けれど、彼が私の側にいられることの対価として、本当の気持ちを全て潰し
て仕えていた。
 私の家族への思い、それが転化した家への思いを理解していたからこそ、私が「弟」と
して扱うことに何も言わずに、弟しての役割を演じ続けてきた。
 けれど、
 気づけたはずだ。
 気づくべきだったはずだ。
 別の感情の存在に。
 なのに、私はビットの存在による安心感に拘泥し、そして、その慕っている相手の前で
他の男とまぐわうのに送り出させてきた。
 姉としても、夜の情事のことはなにも言い訳はできない。ビットが必至に何かをかみ殺
していることは知っていた。でも、それは姉への忠告とか、そういったものだと決め付け
ていた。
 
 しかし、それが異性として恋焦がれる相手だったならば、どうだろう。
 
 私が壊れていくことを留めることすらできない自分を、どんなに嘆いたのだろう。
 
 どれほど苦しかったのだろう。
 
 それでも仕えていた。側に居た。
 私が彼を「弟」として必要としていることを分かっていたから。
 私のことを愛していたから、そんな気持ちを抱えて押し隠して、側に居続けた。
 彼が捧げてくれたものの大きさに、身体が震える。
 
 そんな彼の前で、私は別の人と結婚をすることを約束した。
 自分の愛する女性が他の男と結ばれて幸せになる、それを祝福することが自分の役割と
今まで通り演じようとした。けれど、彼の心が限界を告げた。
 だから、去るしかないと決めた。
 
 
 私の眼から、涙が零れ落ちた。喉から嗚咽が漏れ、二人が気づく。
 ミリィがどうすべきか判断しかねたまま、私に尋ねる。
 「ミネルラ……様、聞いていらしたんですか」
 私はうなずくと、ビットに近づいた。涙でビットの輪郭がぼやける。だけど、伝えなけ
ればならない。
 「ごめんなさい……ビット……」
 「お嬢様……」
 「……ごめんなさい」
 私は、ビットの手をとってただ泣くことしかできなかった。
 私が大事に思っている青年は、私の言葉にただ頷いた。
 彼の気持ちに応えることはできない。応えたら、彼の今までを無駄にしてしまう。彼が、
私がレクトールと出会うまで耐えた想いを、粉々にしてしまう。
 だけど、私はビットに一瞬だけでも懺悔をしたかった。
 それすら、私の自己満足だと分かっている。分かっているけれど、私は気づくと彼の顔
を両手で包んでいた。
 「お嬢様……だめです」
 ビットが首を振る。私はそのビットの拒絶を打ち消すように、髪を振り乱すほど顔を左
右に振る。
 「許してなんて言えない……だけど」
 私はビットの唇に唇を重ねた。
 
 彼への最初で最後の口づけ。
 
 理解していた。
 なぜ、彼が今まで気持ちを口にしなかったのか。
 彼が私の側にいられる理由は、召使として、弟としてだと理解していたからだ。、幼い
頃にお父様から私と離されたこと、爺やと私の関係、それら全てから考え出した結論。そ
して、私の下に戻った時に、私が弟として扱っていることに気づいて、彼は自らの気持ち
を封じた。
 私が家を継いだときに、本当は彼は気持ちを告げることができたかもしれない。父がい
れば絶対に叶わなかった恋を彼は夢見たかもしれない。けれど、私が家族の葬儀に見せた
表情、当主としての決意を彼に語ったことが、彼のその夢を夢に留めさせた。そして、家
を守りたいと思う私を、ビットはただ支えることを選んだ。
 自分のような者では、本当はただの少女でしかない私を支えられない、それどころ自分
では、私にまた業を負わせてしまう、それは自分が選んではいけない道だ、と。
 自分より私が幸せになれる相手を選べるように、そう決めた。
 唇を離す。
 私は、彼のこれほど嬉しそうな表情を見たことがなかった。そして、彼のこれほど苦し
そうな表情を見たことがなかった。
 彼の夢は、叶い、散った。私が叶わせ、散らせてしまった。
 彼がこの城から離れることを許すことだけが、私がビットにできることだった。
 もう離れなくてはいけない、そう思うのに、私はビットの濁った瞳を見つめているうち
に、彼を抱きしめていた。
 ビットをより傷つけるだけだと分かっているのに、私は彼の耳元で懇願した。
 「ビット、式前日までは居て……私のわがままです」
 ビットは、本当はなにかを伝えたかったのだろう。けれど、それは私に向かって言って
はいけない言葉だったのだろう。彼は、私のことを瞬きを数回する間だけ抱きしめると、
身体を離した。
 「では……、前日までいます」
 離れることも近づくこともできず一定の距離にいたミリィの方へ身体を向けるとビット
は頭を下げた。
 「ミリィさん、ありがとうございました」
 「ああ……」
 ミリィは力なく微笑むと、手を振った。ビットはそれに寂しげに微笑み返すと、通路を
歩いていった。
 「ミネルラ様は、いいんですか?」
 「いいのよ」
 「そうですか……」
 「ミリィ、私もお礼を言うわ。ありがとう」
 「いえ……」
 「私だけ、気づいていなかったのね」
 私は心にあいた穴を感じるように、一言一言をつなぐ。
 「ずっと、好きだったと思います」
 「そうね」
 「だから、出て行くっていった時、放って置いちゃいけないって思って」
 「そうね」
 「でも、ミネルラ様も、ビット君も分かっても……どうしようもない……から」
 ミリィが言いよどむ。
 「でも、分からないままより良かった。私、これ以上彼を苦しめるところだった。だか
ら、いいのよ」
 ミリィが顔をくしゃくしゃにして、手で覆う。
 「ありがとう」
 
 私は太陽へ顔を向けた。
 私は、バキンプルツ家の当主、ミルネラ・バキンプルツだ。
 その歩んできた道に矜持があり、家の誇りを守る責任がある。バキンプルツ家に長く仕
えたあの青年は、私の家族への愛情の深さを知っていて、父と母と兄への想いを変えた家
を守ることの意味がどれほど重要であるか代えられないものか、理解していた。
 今になって、私は気づく。
 私は守られていた。
 青年が自分よりも、私のために信じてくれた人は、きっと私を愛してくれる。
 
 レクトールへの気持ちは真実で、
 私はレクトールと歩み、青年の守ってくれたものを遂げてみせる。
 私は、私を最も愛してくれた青年へ報いるために太陽に誓った。
 
 
 その夜、私は青年との出会いを思い返した。
 温かい、優しい思い出が私を包む。
 でも、この思い出に浸ることはもうできない。してはいけない。
 私は、思い返す。
 彼と出会えたのは、私がこの家に生まれたからだ。
 私は、思い返す。
 彼と別れなければならないのは、この家に生まれたから。
 ぎゅっと私の胸が締め上げられた。
 こんなに辛いなんて。
 こんなに苦しいなんて。
 この家に生まれことを、私は初めて泣いていた。
 それでも、こんな悲しい痛みがあっても、断言できる。
 
 私は貴方に会えて良かった。

最終更新:2009年12月22日 11:40