- 3-642 :194:2011/03/17(木) 00:08:29.26
ID:acDc8kks
- 世界中のみんなが祝福してくれるような幸せな二人の結婚。
懐かしい顔ぶれが揃った中で今日の主役が声をかけてきた。
「隼人、今日はありがとう。
連絡もなかなかないし、忙しいみたいで来てくれるか不安だったんだ」
「お前の式だぜ?何があっても絶対に出るよ。
まあようやくフリーのギタリストで食えるようになってきたから、多少は無理が利くのもあるけどな」
「結局あのときのバンドのメンバーで今も音楽やってるのは隼人だけだもんな。
みんな地元に残って普通に就職して、お前一人だけが夢を追って東京に出て、今はその夢を叶えて…
お前は俺たちの誇りだよ。一緒にバンドやっててよかったって思う」
「そういってくれると嬉しいよ。豊、末永く幸せにな」
「ありがとう。一生かけてあきちゃんを幸せにするよ」
そう豊と話をしているところにウエディングドレスを着た今日一番の主役、亜希ちゃんが来た。
「隼人君、ありがとう。本当に来てくれたんだね」
「亜希ちゃん、おめでとう。今日は一段と綺麗だね」
「こら!隼人!!三田村さんに言うぞ」
「大丈夫だよ、聞いてるから」
「優奈!久しぶりだね」
「亜希、おめでとう!」
「ありがとう。優奈…」
「亜希?泣かないでよ」
「…うん、ごめんね…優奈が来てくれて嬉しくて…」
「亜希の結婚式だもん。何があっても絶対に行くよ」
亜希ちゃんにつられて優奈ちゃんの瞳にも涙がにじむ。
祝福をして祝福をされる。
そんな友達同士だったら当たり前のことも、もしあの日わずかにでも歯車が狂っていたら実現しなかったかもしれない。
感慨に浸りながら二人を見守っていたら豊が呟いた。
「隼人、ありがとう。お前が三田村さんを支えてくれたから俺とあきちゃんも幸せになれたんだ」
「よせよ。俺はただ優奈ちゃんに惚れただけだ、お前のためなんかじゃない」
「わかってるさ。でもそれでもお前のおかげだよ。感謝してる」
「お前の選択も俺の決意も何も間違っていなかったってことだ」
「ああ、俺もお前も、あきちゃんも三田村さんもみんなが幸せになれたんだよ」
中学の同級生だった佐野豊と二人で【lyric craft】というバンドを組んでいた高校時代。
バイト先の先輩で、バンド【DESPERADO】のリーダーをしていたトシさんこと高木俊之さんが俺たちを気に入ってくれて、
DESPERADOが主催するライブに出させてもらうようになってしばらく経った頃、ヴォーカルの大島紘成さんが受付の手伝いにと
付き合いだしたばかりの彼女を呼び、一緒に来た友達が亜希ちゃんと優奈ちゃんだった。
「なあ、豊。あの日も今日みたいに空が綺麗で風の気持ちいい日だったよな」
「ああ、俺たちが高三の頃だから、もう八年も前になるんだな」
「八年…長いな…」
「ずいぶんと前だった気もするし、でもついこの間だったような気もするんだよな」
あの夏からどれだけの月日が経ったとしてもきっと色あせることはない。
豊との友情が続く限り、そして彼女が俺のそばにいてくれる限り。
それはまるで水彩画のように淡い色合いのままに俺の胸に焼き付いているから。
- 3-643 :夏の水彩画:2011/03/17(木) 00:09:44.18
ID:acDc8kks
- 彼女とその友達を迎えに行ったヒロさんが、チケットを受付に置きに行った豊と話しながら戻ってきた。
「まさかお前が江梨と同級生だったなんて思わなかったよ」
「それは俺も一緒です。松岡さんとヒロさんが付き合ってるなんて、世間は狭いもんですね」
「なんかあったんすか?」
「ああ、ハヤト、今日手伝いに来た俺の彼女がユタカの同級生だったんだ」
「マジっすか?かなりすごい偶然ですね。そういえばお友達も来るとか…ひょっとして友達も?」
「まあ、そういうこと。俺の同級生」
「で?ユタカ的にはどうなんだよ?」
「どうって言われても…まあ三人ともうちのクラスでは群を抜いてんのは事実だよ」
「それはテンションが上がるねー!、ヒロさん、今日の主役は俺たちがもらいますよ」
「お前はそういう風にテンションが上がるとダメダメになるからほどほどにな」
そう言って俺の肩をたたき、ヒロさんはリハのためにステージに向かった。
下手な奴がやるとイヤミにしかならないようなこともヒロさんにかかればサマになってしまう。
二枚目ってのは本当に特だななんて先輩に対して失礼なことを考えながらヒロさんの背中を見送った。
「ヒロさんの言う通り、俺達は俺達のスタイルを貫くだけだな」
「まあ、根本的に二人組でギターとヴォーカルだけの俺達とスタンダードな四人組バンドのDESPERADOじゃ比較するものでもないからな」
「そういうこと。
ところでハヤト、お前がっつきすぎじゃないか?」
「お前みたいに美人な彼女がいる奴にはわからねーこともあるんだよ」
いつもの軽口のはずが、豊の表情がかすかに曇る。
「ん?どうかしたんか?ひょっとして喧嘩したとか?」
「そんなんじゃねえよ」
「でも最近来ないし、話も聞かないな。何かあったのか?」
「まあ、いいだろ?それよりもいいライブやることを考えようぜ」
豊はあいまいな笑顔を浮かべながら煙草に火をつけた。
- 3-644 :夏の水彩画:2011/03/17(木) 00:10:47.13
ID:acDc8kks
- 俺達の出番も終わり、客席に行ったら三人組の女の子が俺達に寄ってきた。
豊が俺に肘をぶつけたことからして、この三人が例のクラスメートだろう。
「佐野くん、チョーかっこよかったよぉ!!」
「ああ、ありがとう」
「今日ね、うち達も打ち上げに来ないかって誘われたの。佐野くんたちも来るんだよね?隣の席に座ってもいい?」
「まあ、別にかまわないけど…」
「えっと、ユタカのクラスメートなんだよね?はじめまして、俺はギターの門田隼人。みんなからはハヤトって言われてます」
「はじめまして、ヒロくんの彼女の松岡江梨です」
「私は宮本亜希。そしてこの子が三田村優奈。よろしくね」
ヒロさんの彼女の江梨ちゃんは少し気が強そうな美人。
亜希ちゃんはスレンダーで背も結構高くて少しクールな感じがするタイプ。
でも俺の目は優奈ちゃんを見たまま止まっていた。
一目惚れなんて安っぽいドラマの中だけのものだと思っていた。
まさか実際に自分がするなんて思いもしなかった。
江梨ちゃんと亜希ちゃんが二人とも美人タイプなだけに可愛い系の優奈ちゃんがより引き立つ。
それこそ顔のつくりから背の高さ、雰囲気と俺の好みのタイプのど真ん中だった。
「ハヤト、どうした?美人の前に出て緊張でもしたのか?」
「あ?ああ、そうかもな、いい目の保養になったよ」
「ふふ、面白い人だね。でもそんなお世辞言ったって何にも出ないよ?」
「いやいや、お世辞なんかじゃないですよ。毎日顔を合わせられるユタカがうらやましい」
「ヒロ君もそうだけど、バンドマンはそんな風に女の子を口説くものなのなんだね」
「ヒロさんは特別ですよ。あの人はキザな言葉さえ絵になる人なんですから」
「ハヤト、ヒロさんに言うぞ?」
「少なくとも俺の中では褒め言葉だ」
「二人はいいコンビだね。ライブも息が合ってたし」
「うんうん、ホントにかっこよかったよ!!佐野くんがこんなにかっこいいなんて知らなかったもん」
初めて会ったとき、彼女の目には俺は映っていなかった。
生まれて初めての一目惚れは片思い…
それは俺の人生の中でも一番暑くて長い夏のはじまりを告げるものだったのかもしれない。
- 3-645 :夏の水彩画:2011/03/17(木) 00:11:27.83
ID:acDc8kks
- そして梅雨が明けて本格的な夏が始まる頃。
翌週に控えたライブに向けて豊が書いた新曲の詞に曲を作るために俺達二人はスタジオに来ていた。
【first love song】というタイトルのその詞を読み、俺は前回のライブ後の豊の言動の意味がわかった。
「なあ、ユタカ」
「ん?」
「これ聞いて気付いてくれなかったらどうするんだ?」
「は?何言ってるんだよ?意味がわからねーんだけど」
「しらばっくれんなよな、何年ツレやってると思ってんだ?亜希ちゃんはたぶん気付いてないと思うぜ」
亜希ちゃんの名前を出す根拠はあった、でも確信はなかったからある意味カマをかけたようなものだった。
でも、それで堪忍したのか豊は素直に答える。
「わかってる。もし気付いてくれなかったら仕方ない、俺達は結ばれる運命じゃなかったんだって諦める。
でも、よく気付いたな」
「まあ、これだけストレートな詞だったら誰かに伝えたいんだなってことくらいはすぐにわかる。
で、今こんな曲を書くなら、あの三人の誰かだろ?」
「でもだからってあきちゃんだってことは…」
「簡単な話だ。
まず江梨ちゃんはない。お前がヒロさんに対してそんなことができるわけがない。
そして優奈ちゃんだったらこんな回りくどいことをする必要がないだろ?あれだけお前にべったりなんだから。
そうなると亜希ちゃんしかいないってわけだ。それに何よりも亜希ちゃんは瞳ちゃんに雰囲気が似てる」
「参ったな…すべてお見通しか」
そう呟く豊に質問をぶつける。
「いつからなんだ?」
「…同じクラスになってすぐ」
「でも覚えてるのはあきちゃんって呼び名だけで、フルネームも覚えてなかったんだろ?」
「それでも初めて会ってすぐに気付いた、面影が残ってたって言うのかな。
俺がずっと会いたかったのは彼女だって」
「まあ、俺はお前を応援するよ。
でも、一つだけ覚えとけ。お前達二人だけが幸せになれたらいいって問題じゃないってことをな」
「三田村さんのことか」
「優奈ちゃんはお前に真剣に惚れてる。傷付けずに済むことはできないかもしれない、でもいたずらに彼女を傷つけたら…」
「ハヤト…お前…」
「お前は他人の気持ちには本当に鈍いな」
- 3-646 :夏の水彩画:2011/03/17(木) 00:12:37.89
ID:acDc8kks
- 「ねえ、ハヤトくん」
「ん?」
「歩き疲れちゃったし、飲む場所もなさそうだし、ここで休まない?」
豊の気持ちは亜希ちゃんに届いた。
ライブが終わり打ち上げ会場についてからいないことに気付いた豊がどこにいるかを察したように迷いもなく走り出した亜希ちゃん。
手をつなぎ戻ってきた二人は少しだけ申し訳なさそうな、でも幸せなそうな表情だった。
豊から昔聞いた初恋の話。
それが叶うことは親友として嬉しいことだし、俺自身優奈ちゃんと近づくチャンスではあった。
でもショックを受けた優奈ちゃんの表情を間近で見てしまったら手放しで喜ぶことはできなかった。
『友達が幼馴染と再会して、約束が叶って…幸せになったんだよ?
うちだって嬉しいんだもん。今日はとことんまで飲まなきゃ』
涙をこらえ、自らに言い聞かせるように優奈ちゃんはそう言った。
『そんな強がりはいらないんだよ。
言い聞かせたりなんてしないで自分の心に素直になればいい。
辛いときは辛いって泣けばいいんだ』
そう言いたかった、でも言えなかった。
黙って見守るだけ、彼女の傷が少しでも癒えるようにそばにいるだけ。
でもこの夜はどこまでも付き合うつもりだった。
それが俺が彼女にできる唯一のことだと思っていたから。
- 3-647 :夏の水彩画:2011/03/17(木) 00:13:08.63
ID:acDc8kks
- 「この部屋いいでしょ?このホテルではこの部屋がうちの一番のお気になんだ」
「そうなんだ…」
優奈ちゃんに連れられて入ったラブホテルで俺はどことなく居心地の悪さを感じていた。
彼女が使い慣れているさまを見てショックを受けたこともある。
でも高校三年にもなって処女なんてことはないと思っていたし、俺自身経験はあるからそれは大きな問題じゃない。
「ねえ、ハヤトくん。うちとこういうとこ来るのそんなに嫌だった?」
「そんなことないよ。正直嬉しい気持ちだってあるくらいで…でもこんな流れで来たくなかったっていうか」
「…どういうこと?」
「優奈ちゃん。今から俺が言うことは、君を慰めたり元気付ける為にいうことじゃない」
優奈ちゃんは不思議そうな、でもどことなく不安そうな表情で俺を見つめる。
もっと気の利いた台詞やシーンを用意して伝えたかった気持ち。
今言ったって本当の気持ちは伝わらないのかもしれない、でも伝えるしかなかった。
今を逃したら言えなくなりそうな気がしたから、届かないような気がしたから。
「俺は初めて会ったときから君のことが好きだった。一目惚れってやつだ」
「…うそ…」
「嘘じゃない、嘘なんかじゃない」
「なんでうちなの?亜希も江梨もうちよりよっぽど美人だし…」
「優奈ちゃんみたいな子が俺のタイプだから。それ以外に理由なんて要る?」
「うちはハヤトくんの友達を好きになって、佐野くんにあれだけべったりしていて…
ハヤトくんの気持ちを知らなかったといってもハヤトくんの気持ちを踏みにじるようなことをしたんだよ?」
「そりゃ確かに複雑な気持ちにはなったよ。でも優奈ちゃんが豊を好きになったように俺も優奈ちゃんを好きになった」
「…ダメだよ…うちはそんなに優しくしてもらう価値のある女じゃないよ」
「価値があるかどうかなんて自分が決めることじゃない。俺にとって優奈ちゃんは誰よりも価値のある人なんだ」
暫くの沈黙の後、彼女の目から涙がこぼれた。
「…優奈ちゃん?」
「ごめんね、急に泣いちゃって…嬉しくて…」
「…」
「うちのことをそんなにも思ってくれる人なんて今までいなかったから。
エッチするときは『かわいい』とか『好きだよ』とか言ってくれるけど、ハヤト君みたいに温かい言葉をくれた人なんていなかったの」
- 3-648 :夏の水彩画:2011/03/17(木) 00:13:46.70
ID:acDc8kks
- 『うちの過去を知っても同じ気持ちでいてくれる?』少しうつむきながら彼女は俺に問いかけ、過去を語り始めた。
中学生の頃、おとなしくて目立たない生徒だった優奈ちゃんはあまり多くの友達もいなく、自分の居場所を見つけられずにいた。
そんな中でクラスの中心にいる女子生徒に誘われて行ったカラオケで、その子の友達の男達に輪姦されて処女を失った。
甘い初恋を夢見る年頃の少女にとって最悪な初体験。でも彼女はそのときに気付いた。
抱かれるときには男は自分に優しくしてくれることを、自分だけを見てくれることを。
そしていつの頃か彼女は見ず知らずの男に抱かれることを繰り返していた。
たった一晩でも自分をお姫様のように扱ってくれる。
それが彼女が行きずりの男に抱かれる理由だった。
「だけどね、やっぱり本気で恋をしたいって思ったことも何度もあったの。
でもうちを本気で恋愛対象として見てくれた人なんていなかった。
そんなときに江梨と亜希と仲良くなって、江梨に言われたの。『自分を安売りするな』って」
彼女の話を聞いて、暫く何も言葉にできずに黙っていたら彼女は言葉を続けた。
「やっぱり嫌だよね、うちみたいなビッチは。
わかってるんだ、うちみたいな子はまともな恋愛なんてできないって」
「そんなことない…」
「気遣ってなんてくれなくていいよ。ごめんね、今日は付き合わせて。
もともと叶わない恋だってわかってたはずだったのに一人夢を見て、そしてハヤトくんを巻き込んで…最低だよね、うちって。
ハヤトくん、こんなうちを好きだって言ってくれて嬉しかったよ」
そう言って部屋を出ようとする彼女を俺は背中から抱きしめた。
「…ハヤトくん?」
「行かないで…」
「…うちみたいな女、やめたほうがいいよ…何人に抱かれたかもわからないくらいだし」
「過去なんて関係ないよ。俺は今の優奈ちゃんが好きになったんだから」
「うちのせいでハヤトくんを不幸にするかもしれないよ?」
「同じ不幸なら優奈ちゃんのいない不幸より一緒にいての不幸のほうが何倍もいいよ」
- 3-781 :夏の水彩画:2011/06/05(日) 04:54:18.70
ID:3OBnAsM/
- 「同じ不幸なら優奈ちゃんのいない不幸より一緒にいての不幸のほうが何倍もいいよ」
聞くのも恥ずかしいような台詞のはずなのに、ハヤトくんのその言葉が嬉しくて胸の高鳴りを抑えられなかった。
肩を抱く彼の手をそっとほどき、向かい合って目を閉じる。
一瞬の静寂の後に優しくて暖かい唇が重なった。
今までに何度もしてきたことがとても新鮮に、そして初々しく思えてくる。
このままこの心地よい時間が続けばいいのに。
でも同時に思ってしまう、このまま流されていいのかとも。
彼は見た目も悪くないし、優しい。
それに何よりも自分のことを好きでいてくれる。
でもだからこそ彼の優しさに甘えてるだけで、想いに応えられないようにも思えてしまう。
「ねえ、ハヤトくん」
「なに?」
「うちね、今自分の気持ちがわからないの。ハヤトくんは優しくてとても素敵な人だと思う。
でも、ついさっきまでうちは佐野くんのことが好きだったわけで、今ハヤトくんとキスしたことも雰囲気だったり勢いだったり…」
言い終わる前に抱き寄せられて、ハヤトくんは微笑みながら言った。
「たとえ今は俺のことを好きでいてくれなくてもいいよ。俺は絶対に君に惚れてもらえるようになるから」
「ハヤトくん…」
「今すぐ付き合うっていうことに抵抗があるなら、友達からはじめよう。
もうすぐ夏休みだし、一緒に出かけたりして少しずつ俺のことを知ってもらって、それで決めてくれればいいから」
「…うん。早く気持ちに整理をつけるね」
「いい返事が聞けることを期待しています」
「うちもハヤトくんの気持ちが変わらないように努力しなくちゃね」
「優奈ちゃんは今のままでいてくれればいいんだよ。それだけで誰よりも素敵なんだから」
それ以上はお互いに何も喋らなかったけれど部屋を支配したのは重い沈黙ではなくて心地よい静寂だった。
- 3-782 :夏の水彩画:2011/06/05(日) 04:54:56.29
ID:3OBnAsM/
「ごめんね、遅くなっちゃって」
「いや、俺も今着いたばかりだから。あっ、なんか飲む?」
「えっと、どうしようかな?ここから映画館までは結構かかるの?」
「そうだね、15分くらいかな」
「じゃあ向こうに行ってからにしてもいいかな?」
「了解。それじゃあ行こうか」
夏休みに入ってすぐ、ハヤトくんと初めてのデートは映画を見に行くことになった。
最近できたシネコンじゃなくて、かなり古くからある小さな映画館。
映画好きしか行かないと言われている映画館で上映してる映画はどんな話なのか、
それと同じくらいに初めてに近いデートらしいデートが楽しみで洋服も髪型もメイクも朝から悩みに悩んでいたのは内緒だったりする。
「ねえねえ、ハヤトくん」
「ん?どうしたの?」
「今日行く映画館ってうち行ったことないんだけど、ハヤトくんはよく行くの?」
「最近はたまに行くくらいだけど、昔はよくじいちゃんに連れてってもらってたね」
「おじいさんに?」
「うん、二年前に死んじゃったんだけど、じいちゃんは映画とか音楽が好きでよく映画館とかライブハウスなんかに連れてってもらったんだ」
「じゃあ、ハヤトくんが今バンドをしてるのもおじいさんの影響なんだね」
「そうだね。かなりじいちゃんの影響は強いよ、ギターもピアノもじいちゃんに教えてもらったわけだし」
「ピアノも弾けるんだ?うちもね、小さい頃ピアノ習ってたことあるんだよ」
「そうなんだ、今も触ったりする?」
「ううん、小学校の頃にやめちゃったからもう弾けるかもわかんない」
「一度覚えたことだし、そう簡単には忘れないよ。他には何か習い事とかしてたの?」
「特に何もしてないよ。小さい頃は絵を描くのが好きで、絵ばっかり描いてたの」
「へえ、今度見てみたいな。優奈ちゃんが描いた絵」
「小さい頃のだもん、恥ずかしいからダメだよぉ」
そんな風に話をしながら歩くと楽しくてあっという間に映画館に着いてしまった。
もう少し話をしていたかったなんてちょっと思ったりしたけど、それは映画を見終わってからにしよう。
- 3-783 :夏の水彩画:2011/06/05(日) 04:55:36.44
ID:3OBnAsM/
- 「どうだった?」
「すごいよかったよ。あの亡くなった恋人役の人がすごく印象に残ったの」
「ああ、三崎梢ね。元アイドルとは思えないくらいにうまい女優さんだよね」
「やっぱり三崎梢だよね、うち達が小学生くらいの頃にめっちゃテレビとか出てた人だよね?最近見ないと思ったら女優になってたんだ」
「この映画の監督の作品が好きで上映したらほぼ欠かさず見てるんだけど、ここ最近はよく出てるよ。
確かなんかスキャンダルがあってテレビに出なくなったんじゃなかったっけ?」
「うん、確か誰か俳優さんと不倫してたんだよ。ママに『不倫って何?』って聞いて怒られた記憶があるもん」
「ははは、確かに小学生の子供に聞かれたら説明に困るね」
「ねっ、でもその頃はなんで教えてくれないかすごい不思議だった気がする」
流行の3Dなんかがあるわけでも、人気俳優が出ているわけでもない地味な映画だったけど、
登場人物の思いが丁寧に表現された作品だった。
ハヤトくんがこういう映画が好きなんだろうなっていうのはなんとなく想像できていた。
うちが幼い頃に好きだった絵のように特に奇をてらうのではなくて、ただ表現したいものをシンプルにありのままに表現する。
どこかハヤトくんと共通するところがあるかなと思えて少しだけ嬉しくなった。
「さて、お腹すかない?何か食べたいものある?」
「えっとねぇ…」
それから食事をして、商店街をいろいろ見ながら夕方まであっという間に時間は過ぎていった。
いろいろな話をして、二人でたくさん笑って…
こんなに自然な自分でいられる男の子に出逢ったことなんて今までなかった。
これが恋なんだろうか?
一緒にいることが楽しくて、もっともっといっぱい話をしたくて、いっぱい相手のことを知りたくて…
きっと恋なんだと思う、きっと三田村優奈は門田隼人に恋をしている。
でも今はまだ言えない。
この想いが本当に恋だと確信を持つまで、溢れるくらいになるまで。
それがうちのことを好きだと言ってくれたハヤトくんに対してのうちなりの誠意だから。
- 3-784 :夏の水彩画:2011/06/05(日) 04:56:13.44
ID:3OBnAsM/
- 「はじめまして、ウォーターレコードの指宿と申します」
「あ、はい、門田隼人です」
バイト先の楽器屋に着いたら店長に事務室に呼ばれ、そこには知らない男の人がいた。
大手ではないけどバンドマンならそれなりに知られたレコード会社の人がこんな楽器屋に何の用なんだろう?
そんな風に訝しげにしていたら指宿さんと名乗る男の人は握手をしてきた。
「思ったとおり、いい指をしているね」
「はあ…」
「君達のライブをこの間見ました」
「そうなんですか、ありがとうございます」
「私は回りくどい言い方が嫌いなんで、率直に言います。君は音楽で食っていく気はあるかい?」
「ええ、まあ食っていけたらって程度ではありますが、そうなればいいと思ってます」
「もし仮にヴォーカルの彼とは別になっても?」
「えっ…」
「こないだのライブを見て思ったんだけど、君のギターと彼の声は合っていないね」
「そんな!」
「あくまでも私の主観ではあるがね。もし一人でも音楽をしていく気があるんなら連絡をください」
指宿さんはそう言うと名詞を渡して部屋を出て行った。
バンドをやっている人間として願ってもいないチャンスではある。
でも一緒にやってきた豊と袂を分かつことが正しいのだろうか?
これからも続けていけば二人でやることを認めてくれる人が現れるかもしれない。
そうだ、そう信じてこれからも豊とバンドを続けるほうがいいに決まっている。
それに優奈ちゃんのこともある。
一緒に遊べば素敵な笑顔を向けてくれるし、きっと俺たちはいい方向に向かっている。
もし話を受けたら上京する必要もあるだろうし、そうなったら彼女と会えなくなってしまうかもしれない。
ちゃんと付き合って、将来を考える頃になれば一緒に行くことも考えられるけど、今はそんな段階じゃない。
- 3-785 :夏の水彩画:2011/06/05(日) 04:56:43.44
ID:3OBnAsM/
- 「ねえ、ゆーちゃん。最近元気ないけど、なんか悩み事でもあるの?」
「え?そ、そうかな?特に何もないけど…」
「嘘、絶対何か悩んでる」
「はは、気のせいだよ。悩み事なんて何もないよ」
「じゃあなんでさっきから左耳をずっと触ってるの?昔から嘘ついたりごまかすときに左耳触るの癖だったでしょ?」
「え?そんな癖ある?」
「うん、私のお菓子を黙って食べちゃったときとか、ぬいぐるみを壊しちゃったときにもやってたの覚えてない?」
「全然…そんな癖があったんだ…」
「ふふ、それで悩み事って何?私達の間で隠し事なんてするの嫌だよ」
「実は…トシさんのとこにレコード会社から連絡があったんだって」
「DESPERADOがスカウトされたの?」
「いや、聞いてきたのは俺たちのことらしくて、トシさんはハヤトのバイト先を教えたんだって」
「すごいじゃん!ゆーちゃんたちがスカウトされたってことでしょ?そんなすごいことなら早く言ってよ。
あ、もしかして私と離れ離れになるのが嫌だった?そんなの私はゆーちゃんに付いていくよ」
「それがハヤトから何の連絡もないんだ。トシさんからその話聞いたのは一週間くらい前で、さすがにもう来てると思うんだけど」
「一週間…確かにそろそろ連絡があってもおかしくないよね。てことはハヤト君がゆーちゃんに言ってないってこと?」
「だからおかしいなって思うんだけど、なんか聞きづらくてさ。
実は昔ハヤトに言ったんだよ、バンドは長くても大学の間までしかやらないって」
「でもそんなチャンスがあったらゆーちゃんだって挑戦したいでしょ?」
「もちろん。でも理由はそうじゃない気もするんだ」
「どういうこと?」
「つまり誘われたのはあいつ一人だけだってこと。だから俺に気を使ってんじゃないかって」
「でもlyric craftはゆーちゃんの歌があってこそだよ。だからハヤト君だけがスカウトされるなんて…」
「ありがとう、あきちゃん。でもね、自分を卑下するわけじゃないけど、あいつは俺なんかよりも何倍も才能を持ってる。
ギターのテクやバンドを引っ張る力、曲作りのセンス。どれを取っても先輩バンドの誰よりもあいつは飛びぬけてるんだ。
だからあいつだけが認められるってことは十分にある。
そしてそうなったら俺のことなんて考えずにあいつにチャンスをつかんでほしい」
「ゆーちゃん…」
「なんか青臭いことだけど、俺はマジでそう思ってる。あいつはこんな地方で埋もれる奴じゃない」
「…そうなったら優奈、どうするんだろうね…」
「…え、ああ…」
- 3-786 :夏の水彩画:2011/06/05(日) 04:57:24.46
ID:3OBnAsM/
- 八月も半ばになった頃にトシさんの呼びかけでバーベキューに行くことになった。
メンバーはトシさん、美奈さん、ヒロさん、江梨ちゃん、豊、亜希ちゃん、そして優奈ちゃんと俺。
見事に俺たち以外はカップルばっかりというわけで、たぶんみんなが俺たちをちゃんとくっつけようと気を使ってくれたんだと思う。
「で、なんで俺たち二人が釣りをしなきゃならんのだ?ユタカ?」
「知るか。せっかく澄川に来たんだから魚を食べたいってのはあるだろ。この辺はうまい魚が獲れるからな」
「いや、だからなんで俺たち二人がってことだよ」
「そりゃ年の若い男が行くもんだろ。トシさんは火の番人だし、ヒロさんは料理長だしな」
「確かに」
「さっさと釣って戻ろうぜ」
「ああ」
八月も半ばになった頃にトシさんの呼びかけでバーベキューに行くことになった。
メンバーはトシさん、美奈さん、ヒロさん、江梨、佐野くん、亜希、そしてハヤトくんとうち。
見事にうちたち以外はカップルばっかりというわけで、たぶんみんながうちたちをちゃんとくっつけようと気を使ってくれたんだと思う。
ハヤトくんと佐野くんが釣りをしに行っている間に、うちたち女四人とヒロさんで野菜やお肉の下ごしらえ、
トシさんは一人でコンロを設置して、火を起こしている。
「江梨、そのペットボトルのタレは牛肉用のタレだから漬けるのはもう少し後でいいよ、先に鶏の下ごしらえからしよう。
美奈ちゃん、そこのキャベツはざく切り、玉ねぎは輪切り、ピーマンは半分に落として種を取るだけでいいから」
「亜希、ヒロさんって何者?お肉のタレも全部作ってきたって感じだよね?それにあの持ってる包丁もなんかプロみたいなのだし」
「炭焼き屋って焼肉屋さん知ってるでしょ?あそこの息子さんなんだって」
「そうなの?結構何店もある大きい焼肉屋さんでしょ?江梨ったら玉の輿…」
「はいはい、亜希ちゃんも優奈ちゃんも手を動かして。私一人で全部の野菜は切れないからお手伝いよろしくね」
「あ、ごめんなさい。すぐに手伝います」
- 3-787 :夏の水彩画:2011/06/05(日) 04:57:52.11
ID:3OBnAsM/
- 暫くお互いに釣りに集中してそれなりに魚を釣った頃に不意に豊が話しかけてきた。
「ハヤト、最近…どうなんだよ?」
「どうって何が?」
「何がって、それゃつまり…」
「優奈ちゃんとのことか?」
「ああ、そう!三田村さんとはどうなんだよ?進んでんのか?」
「まあ、それなりにって言うか…まあ、それなりに…」
「なんだそりゃ。一緒によく出かけたりしてんだろ?付き合ってんじゃないのか?」
「確かによく遊びには行くけど、お互いに付き合おうとは言ってない」
「何でだよ?好きなんだろ?伝えたんじゃないのかよ?」
「好きだよ。誰よりも好きで大切な人だ。想いだってあの日に伝えて俺は待つって言った」
「で?答えを今でも待ってるってか?」
「悪いか?」
「違うだろ?東京に行くか悩んでてそれ以上になれないでいるんだろ?」
「ユタカ…なんで?」
「トシさんからそれらしいことを聞いた。お前のとこにスカウトが来たって」
「でもそれは断った」
「何で?」
「俺たちは二人揃ってlyric craftだ、だから俺だけが誘われても意味がない」
「…バカじゃねえの?お前」
「何だと?」
「俺とお前じゃ持ってる才能が段違いなんだよ。俺はそこまで上がれる器じゃない、でもお前はこんなとこで埋もれる奴じゃない」
「ユタカ…」
「チャンスなんだろ?掴めよ」
「でも優奈ちゃんが…」
「ハヤトくん。うち、一緒に行っちゃダメかな?ハヤトくんに付いていきたいの。一番近くでハヤトくんの応援をしていたい」
気付けば後ろには優奈ちゃんがいて、豊は俺たちにゆっくりと話をしろと言い、みんなのもとへ戻っていった。
- 03-857 :夏の水彩画:2011/08/21(日) 23:01:58.69
ID:EANpB7Wv
- あまり持ちなれない包丁を握りながら美奈さんと亜希と三人で野菜を切っていたら、不意に亜希が話しかけてきた。
「優奈、最近どう?」
「どうって何が?」
「何がって、それはつまり…」
「ハヤトくんのこと?」
「そう。ハヤト君とは最近どうなの?進展してる?」
「まあ、それなりって言うか…まあ、それなりに?」
「何それ。よく一緒に出かけたりしてるんでしょ?付き合ってるんじゃないの?」
「一緒に出かけたりするけど、お互いに付き合おうとは言ってない」
「そう…まだ気持ちの整理、つかない?」
「ううん、そんなことはないよ。佐野くんのことならもう大丈夫。うちのわがままだから」
「わがまま?」
「うちね、きっとハヤトくんのこと好きになってる。でもまだハヤトくんがうちを好きだって言ってくれる気持ちに釣り合わない、
うちのことをこれだけ好きでいてくれるハヤトくんに対してそんな中途半端な気持ちで付き合いたくないの」
「…それでハヤト君が夢を諦めることになっても同じこと言える?」
「亜希…どういうこと?」
「ハヤト君ね、スカウトされたんだって。そうですよね?美奈さん」
「…トシがユタカに言ったのね?」
「はい、ゆーちゃんは確証はないけど多分そうだって」
「トシのところにハヤトのことで問い合わせがあって、ハヤトのバイト先を教えたのは本当よ。
それで、ハヤトがあまりいい返事をしなくて、説得してほしいとトシに連絡が入ったのも」
「ハヤト君はゆーちゃんと一緒にやりたいって思いもある。でも、優奈と離れたくないって気持ちのほうがもっと強いの」
「でも言ってくれたらうちは付いて行くのに…何で言ってくれなかったんだろ…」
「恋人になら言えると思うよ。でもまだ付き合ってもない相手にそんなこと言える?」
「…」
気付いたら包丁を置いて、ハヤトくんのもとへ駆け出していた。
- 03-858 :夏の水彩画:2011/08/21(日) 23:02:45.22
ID:EANpB7Wv
- 「「えっと…ごめんね」」
優奈ちゃんが隣に座り、暫くの沈黙の後にお互いに同じタイミングで同じ言葉を発した。
「ごめんね、ハヤトくん。うちがいつまでも返事を待たせていたから」
「いや、そんな…優奈ちゃんは悪くないよ。もともと今のタイミングじゃ行こうなんて思ってなかったんだから」
「でも、もしうちたちが付き合ってたらハヤトくんはうちに相談してくれたでしょ?」
「それは…まあ、そうかも知れないけど…」
「でしょ?だからごめんね」
「優奈ちゃん?」
優奈ちゃんが俺の胸に顔を沈めながら話し始める。
「ハヤトくん、みんなハヤトくんのことを応援してるんだよ、ハヤトくんがギタリストとして大成するのを祈ってるんだよ」
「わかってる。でも俺はユタカと今までやってきたんだ、だから俺はあいつの一緒にこれからもバンドをしたい」
「佐野くんは一番ハヤトくんの成功を祈ってる。大切な友達だから、大切な仲間だから、じゃなかったらあんなこと言わないよ。
どんな気持ちで佐野くんはああいったと思う?きっと辛かったと思う、でもそれがハヤトくんのためだって思ったから言ったんだよ」
「…あいつ、バカだよ…」
「その気持ちを受け止められないハヤトくんはもっとバカだよ!」
その後の言葉は嗚咽にかき消された。
優奈ちゃんの涙が収まるまでどれくらいの時間が経ったのかはわからない。
とても長い時間が過ぎたような気もするし、ほんの少ししか経っていないのかもしれない。
でもそんなことはどうでもよかった。
決意ができたのだから。
「優奈ちゃん、さっきの言葉はあの日の返事でいいのかな?」
「…うん。今更かもしれないけど、受け入れてくれる?」
「これから先、苦労させることばかりかもしれない、夢だって本当に叶うかわからない。それでも俺と一緒に居てくれる?」
「うちこそハヤトくんをちゃんと支えられるかわからない。何かあったときにおろおろして余計にイライラさせるかもしれない、
でも誰よりも近くでハヤトくんを見ていたい、応援していたい。
そんなうちでもいいならずっと一緒に居させてください」
俺のTシャツを濡らす涙を拭うことさえもせずに彼女に口づけた。
- 03-859 :夏の水彩画:2011/08/21(日) 23:03:23.38
ID:EANpB7Wv
- 夏の日差しが照りつける中、俺たちはその暑さにも気付かないくらいに夢中で口づけをしていた。
ふと見た優奈ちゃんの顔は汗と涙でメイクも崩れている。
それさえも可愛く、そして愛しく思えてきて思わず見つめてしまっていた。
そんな俺の視線に気付いたのか優奈ちゃんは顔を逸らした。
「うち、今すごい顔してるでしょ?見ないで…」
「確かにメイクは崩れてるけど、それでも優奈ちゃんは可愛いよ」
「そんなの褒め言葉じゃないよ。好きな人だから悪いとことか不細工なとこなんて見られたくないんだもん」
「好きな人だからどんな状態でも愛おしく思えるんだよ。どんな優奈ちゃんでも俺は好きだから」
「もう…またうちを泣かして…もう知らないから…」
そう言って頬を膨らませた優奈ちゃんを抱く力を少しだけ強める。
「幸せな涙しかもう流させないから。何十年経っても俺は今みたいに優奈ちゃんが好きだって言うよ」
「うん。うちもハヤトくんのことが好き。おじいちゃんとおばあちゃんになってもずっと好き。
いつまでもハヤトくんに好きでいてもらえるように、可愛くいられるように頑張る」
本当に幸せなときには言葉なんて要らないことを俺は初めて知った。
何も言わなくても何もかも伝わる、ただ抱き合うだけで、ただ見つめ合うだけで。
「おう、やっと戻ってきたか。その様子だとお互いにいい結論を出したみたいだな」
「はい、トシさん。待たせてすいませんでした」
「気にすんな。俺たちは先に食い始めてたし、こっちこそ悪かったな、待ってなくて」
「そんな。俺たちのためにこんなお膳立てまでしてくれてありがとうございます」
「礼ならそこで魚をおろしてる奴に言いな」
そう言ってトシさんが指差す先に居た豊は俺が視線を向けると同時に目を逸らした。
スマートで器用に何でもこなすように見えて、実は不器用な豊。
改まって面と向かって礼を言うなんてしたらあいつはきっとこそばゆいと言うだろう。
だからこの感謝の気持ちは胸にしまっておこうと思う。
きっといつかお互いに笑いながら話せる日が訪れるから、その時まで…
- 03-860 :夏の水彩画:2011/08/21(日) 23:03:49.99
ID:EANpB7Wv
- 夏休みが終わり新学期が始まり、卒業後の進路の面談も終わったある日。
弁当も食い終わり、校舎裏で音楽を聴いていたら一つの影が近づいてきた。
何か話しかけてきたけれど無視をしていたらイヤホンを取りあげられた。
「門田くん、先生が話してるの聞いたんだけど。東京行くって本当?」
「だったらなんだって言うんだ、お前になんか関係ないだろ」
「関係ないことないわよ、元カレが有名人になるかもしれないんだから」
無視したいのも当然だ。
クラスメイトで一年の頃に付き合っていた、中島美鈴が話しかけてきたのだから。
「そんな昔のことを言われてもな、もう何の関係もないって言ったのはお前のほうだろ?」
「ええ、そうね。でも私はあなたの才能を見誤ったみたい。もう一度やり直してあげようと思って」
「笑えない冗談だな、お前なんかとやり直す気なんて皆無だ」
そう言い捨てて中島の横を通り過ぎたところで奴は呟いた。
「へえ、そんなに三田村のこと大事なんだ?」
何でこの女から優奈ちゃんの名前が出てくる?
戸惑い立ち止まった俺に中島が言葉を続ける。
「あれ?三田村の出身中学聞いてなかった?」
どこかで聞いたことのある中学の名前だと思っていたら、そうか、この女と一緒だったんだ。
「その様子だと察してくれたみたいね」
そう言って下品に笑う中島に殴りかかりたい衝動を抑えながら辛うじて言葉を出す。
「…何が望みだ…」
「三田村と別れて私と付き合う。簡単なことだし、悪い話じゃないでしょ?」
「ざけんな、そんな最悪な話に乗るか。お前と付き合うくらいならゲイにでもなったほうがマシだ」
「ふうん?随分なことを言うわね」
「お前みたいな性根の悪い女にはこれでも勿体無いくらいの言葉だ」
「そんな性根の悪い女と付き合っていたのはどこの誰だったのかしら?三田村が知ったらどう思うかしらね?」
勝ち誇ったような表情で去っていく中島に最後は何も言えなかった。
- 03-861 :夏の水彩画:2011/08/21(日) 23:04:19.25
ID:EANpB7Wv
- 中島に言われた言葉がいつまでも頭に残り、イライラを抱えながら帰ろうとしたら校門のそばで影が動いた。
「ハヤトくん」
「優奈ちゃん?どうしたの?」
「ハヤトくんと一緒に帰りたくて来ちゃった」
「そうなんだ…」
「迷惑だった?」
「そ、そんなことないよ!あまりに嬉しくて、その…なんて言うか…驚いたって言うか」
「ハヤトくんが嬉しいって思ってくれるならうちも嬉しいよ。それだけで幸せだよ」
そう言って笑顔を俺に向けてくれる優奈ちゃんを見ていると俺も幸せになる。
こんなに可愛くて素敵な女の子と付き合えている今が俺の人生で一番幸せなときだって実感する。
中島に何を言われようが俺は優奈ちゃんのことが好きだ、優奈ちゃんとならどんなことだって乗り越えられる、
どんな困難からだって彼女を守っていける。
「あれ?優奈じゃない?どうしたの?」
「あ、中島さん…久しぶり…」
「そんな堅苦しい呼び方しないでよ。昔みたいに美鈴でいいわよ」
まるで見張っていたかのようなタイミングで中島が来た、優奈ちゃんの様子からこいつのことは苦手なのだろう。
「何の用だ」
「何の用も何も中学の同級生に久しぶりに会ったから話しかけただけよ?悪い?隼人」
「ハヤトくん?美鈴…ちゃんとはどんな関係なの?」
「あ、知らないんだ?私達、昔付き合ってたの。ねえ隼人?」
「…ああ、昔な」
これ以上ないくらいに『昔』という言葉を強調して答える。
「それでやり直そうかなと思ってたら、今は三田村と付き合ってるなんて聞いちゃったからイラッときたの」
「…」
「ねえ、三田村。あんた本当に自分が隼人にふさわしい女だと思ってるの?あんたなんて本当はネクラで…」
「やめろ!中島!」
「あんたが処女をなくした日のこと隼人が聞いたらどう思うかしらね?」
「てめえいい加減にしろ!」
「やめて…ハヤトくん…」
「…優奈ちゃん…」
「ごめん…今日は帰るね…」
無理に笑顔を作って優奈ちゃんは走り去っていった。
- 03-862 :夏の水彩画:2011/08/21(日) 23:04:43.69
ID:EANpB7Wv
- 「ふふ、やっぱり三田村は隼人にふさわしい相手なんかじゃないわね。あんなことで逃げ出すなんて。
ね?わかったでしょ?やっぱりあなたの相手は私のほうが合ってるのよ」
「ああ、よくわかったよ。やっぱり俺の相手はお前じゃないってな」
「あの子の過去のこと知っても同じこと言える?処女なのに無理しちゃってねえ」
「…知ってるよ、そんなこと。優奈ちゃんはそのことも俺に話してくれた。それでも俺は優奈ちゃんと一緒に居ることを選んだ」
「…どうして?どうしてそこまで」
「なあ、中島。…お前哀しい奴だな、そんなこと言って悦に浸る暇があるんだったらもっとやることあんだろ」
そう呟いた俺はどんな表情をしていたのだろう?
怒りなのか、憐れみなのか…きっと悲しい表情をしていたと思う。
かつては縁があった相手がこれほど最低なことを言っていること、
そして俺自身が彼女に何も与えることができていなかったことが何よりも悲しく、そして辛い。
「本当に大切な相手に出逢えたらきっとわかる。お前にそんな相手が現れるかはわからないけど、出逢えたらきっとわかる」
「何よそれ?何が言いたいの?」
「そのままの意味だよ。本当に大切な相手に出逢えたら過去とか何も関係なくなる。理屈じゃないんだ」
「あなたにとってその相手が三田村だっていうの?」
中島は納得がいかないような複雑な表情で俺を見ている。
無理もないと思う。
中島と付き合っていた頃の俺は自分のことしか考えていなかった。
学年でもトップクラスの美人で、この地域では有数の地主の娘。
そんな女と付き合っていれば男としてそれなりに箔も付く。
正直そんな気持ちで俺は彼女に近づいた。
今思えば俺は中島の肩書きに惚れたようなもので、中島美鈴という一人の人間と向き合ってはいなかった。
「ごめんな、中島。お前にはそんなことしてやれなくて」
「ちょっと!!隼人!」
何か言おうとしている中島のほうへはもう目も向けずに優奈ちゃんを追いかける為に走り出した。
最終更新:2011年03月21日 11:32