愛のままにわがままに僕は君達を傷付けたい(前編) ◆2PGjCBHFlk



 目の前の少女の凶行を止める――Dボゥイの決意も虚しく、その戦力差は圧倒的だった。

 崩壊した病院跡を舞台に、戦闘は始まり、そして継続している。
 だが、それは戦闘と呼べたものか――ただ一方的に繰り出される攻撃を、
 ただ一方的に喰らい続ける光景は戦闘というより、ただただ暴力的なだけの出来レースだった。

「オイオイオイオイ! なんだよなんだよ何事だよ! お前は俺が今度こそ殺す!
 そう言ったじゃねえかよ! 聞き間違いかよ! でなきゃ、どうしてこんな弱いんだよ、タカヤ君よぉ!!」

 叫ぶ少女はその可憐な見た目に似合わぬ凄絶な笑みを浮かべ、返り血の跳ねる衣服を翻らせて拳を繰り出す。
 その身はこれもまた少女には見合わぬ白い男物のスーツに包まれている。
 サイズだけは彼女に合わせて作られているが、男装の麗人と呼ぶには凛々しさより華やかさが目立つ顔立ちだった。
 その少女の纏う白服に、拳が一度振るわれるたびに返り血が跳ね、スーツをキャンパスに暴力の宴を描き出していた。

 その光景を視界に収めながら、Dボゥイは言うことを聞かない自分の体の状態に歯噛みする。
 激しい頭痛が頭蓋を締め付けている。眩暈によって世界はおぼつかない。
 外傷も内臓の損傷も、拳が体にめり込むたびに悲鳴を上げる。
 口から漏れる血の量は、内臓が破裂したのが原因か。

 冷静に被害状況を検分しているのは、痛みと疲労の極致が現実逃避を推奨しているからだ。
 限度を超えたダメージを受けると、人間の意識は容易く現実から逃げることを選択する。
 Dボゥイの意識もまた、壮絶な衝撃の前に足場を失い、浮遊感に包まれて消えていこうとしていた。

 その遠ざかる意識の首根っこを引っ掴まえ、強引に振り向かせて現実に舞い戻る。
 と、同時に鼻面に右の拳が叩き付けられ、鼻骨のひしゃげる音と共に顔面が仰け反った。
 そこへ――、

「シンヤ君の時はよぉ、こいつで足元グラグラになってたぜ?」

 左のアッパーカートが仰け反る顎に突き刺さり、長身を軽々と宙に舞い上がらせた。
 為す術もなく翻弄される体は木の葉のように無防備に、しかし確かな重量のある響きを持って大地にその身を墜落させる。

 もんどりうって崩壊した地面を転がり、仰向けに倒れるDボゥイは身動きが取れない。
 手足が痙攣している。鼻は潰され、呼吸音はまるで死に絶える寸前のようにか細く弱々しい。
 頭痛は間断なく脳を打撃し、込み上げる吐気は臓腑全てを搾り出してもまだ足りぬと訴えている。

 まさに満身創痍、常人ならばすでに棺桶に全身が入り、蓋まで閉じているだろう状況下。
 そんな中にありながらも命があるのは、紛れもなくDボゥイの肉体と精神の強さが理由に他ならない。

 だがそれでも。
 どんなにダメージを受けても朽ち果てぬ体があっても。
 どんなに絶望に直面しても砕かれぬ精神があっても――届かない領域は存在する。
 今まさに、Dボゥイの目の前に、その手の届かない領域は依然として存在しているのだ。

「ターカーヤーくーん。頼むぜ、おい。まさかこれで終わりってんじゃねえだろうな?
 全然全然全ッ然! すっげーとこ見せてもらってないぜ、俺は!
 お前はこんなもんじゃねえだろ! お前の本気を見せてみろよ! 俺は知ってる! 知ってるぜ!
 お前がどんなに強い奴か! どんなに辛い状況でも、どんなに痛い思いをしても!
 それでも立ち上がる男だって知ってるぜ俺は!
 だから立てよ! まだまだまだまだこっからじゃねえか!
 立ち上がって、しっかり前を向いて、血を吐いてもそれでも戦うんだって目を光らせて
 ――それで俺に殺されようぜ! な!?」

 けたけたと狂笑を振りまきながら全身を揺する少女――いや、ラッド・ルッソか。
 短期間の戦闘で、Dボゥイはすでに相手の少女が、あのラッドとほぼ同一の存在であることを認めざるをえなくなっている。
 その喋り方、態度もさながら、戦闘スタイルまでもが完全に一致している。
 ともなれば、彼女の中にラッド・ルッソが巣食っていることは疑いようもない。

 次に問題となるのは、それがいったいどういうことなのか、だ。

 少女の中にラッド・ルッソがいるのは事実――だが、人間は人間の中に潜んだりはできない。
 となればラッド・ルッソもまた、ラダムのように他者の体に寄生して、その意識を乗っ取るような存在ということだろうか。
 だとすればDボゥイが遭遇したラッド・ルッソという名の白服の男も、その寄生体か何かの犠牲者でしかなかったのかもしれない。

 ラダムのように、他者の意識を奪い、その人間の意に沿わぬ行為を平然と行わせる。
 自然、舞衣とシンヤのことが脳裏に思い浮かび、Dボゥイの心の炎が激しく揺れる。

「おっとぉ?
 そういや、ここはひょっとしてあのシンヤ君が辛くて悲しくて冷たくて素晴らしい最期の瞬間を迎えた場所じゃねえのか?
 兄弟が揃いも揃って巡りも巡って、同じ場所で死線をくぐろうとしている……。
 うぉ、今、俺のこの胸に去来する気持ちは何なんだ!?
 どこか甘く、どこか切なく、どこか――あああああ! 面倒くせぇ! よし、忘れろ!」

 許せなかった。憎むべきラダム――そして、そのラダムと同じような存在があるという世界が。
 その憎むべき存在が、目の前の少女の体を奪い取り、その心を薄汚い手で汚そうとすることを。

 目の前のラッドを内包する、名も知らぬ少女――彼女は救いを求めていた。
 意識を失う寸前、彼女は泣いていたのだ。助けを求めていたのだ。
 今も拳を振るって、返り血に濡れる表情は笑顔を作っているが――その内面には拭い去れない悲しみがあった。

 ゆたかも、舞衣も、そして眼前の少女も――このゲームの中にいる少女達は、泣いてばかりだ。
 それこそこの憎たらしい惨状の、本当の意味で残酷で醜悪な罪悪!

 燻る炎が、萎えかけた心が、朽ちゆく肉体が――魂が、Dボゥイの戦意を鼓舞した。

「そうそう、そうこなくっちゃぁいけねえよ。流石だ、信じてたぜ。信じてるし愛してるぜ、ターカーヤー君よぉ。
 さあ、宇宙人らしいとこを見せろよ! 手足を八本に増やして、巨大化でもなんでもいい!
 超絶変身してみせて、俺は絶対に負けないんだ!って最終形態をさらしてくれ!
 そうすれば、バシッと素敵に俺のゲージも振り切っちまうからなぁ!」

 立ち上がったDボゥイを見て、少女が歓喜の表情で空を仰ぐ。
 その勘違いの内容もまた、ラッド・ルッソそのものだ。弟を殺した憎き仇、そのものだ。

 だが、その憎悪を一度置き去りに、Dボゥイは少女に掌を向ける。
 少女はその掌から何か飛び出すのを期待するように身を縮めたが、その期待には添えない。

「――黙れ」
「アァ?」
「口を閉じろと言ったんだ。それ以上、口汚い言葉でその少女を汚すのはやめろ。
 お前の言葉は一から十まで、聞くに耐えないんだよ」

 呆気にとられたような表情で少女が固まる。
 場違いな発言だとでも思っているのだろう。Dボゥイ自身、何て安い言葉だと自分でも思う。
 だが、告げておく必要があったのだ。

 この後に自分が取る手段の反動を考えれば、告げる口が残っているかどうかも定かではないのだから。

 懐より取り出したのは、すでに二度の使用を経験したブラッディアイだ。
 鳴り響く頭痛は失血やダメージだけが理由ではなく、この薬の禁断症状に関係もあるのだろう。
 ともすれば頭蓋の割れそうなほどの痛みに対し、しかしDボゥイは躊躇わなかった。

 胡乱げに注視する少女の前で、ブラッディアイを双眸に吹きかける。
 沁みるような感覚が視神経を侵してゆく――そして、世界が不意に赤く染まった。

 大気の流れが、そして時間の流れが、あまりにもゆっくりに流れていく。
 朽ち果てる寸前の肉体でも、これならば少しは戦えるだろう――そう、少女を救うぐらいには。

「へっ、なんだってんだよ! ――やれば、できるんじゃねえか」

 身に纏う雰囲気の変化を、殺人鬼の嗅覚で如実に感じ取ったのか、少女が凶悪に嗤う。
 だらりと下げていた両手がファイティングスタイルを構え、足が小刻みにステップを踏み始めた。

 その動きが、あまりにも遅い。
 対人戦において使用するのはこれが初めてだった。だが、その効果は絶大だ。

 刻むステップは体重移動の瞬間さえ見え、揺れる拳のタイミングを計るのはあまりにも容易。
 瞬きの間隔さえはっきりと窺える薬の魔力は、一対一の戦場において圧倒的な効果を発揮していた。

「なるほど……こいつぁ、殺しがいがありそうだ」

 そう言って踏み込んでくる瞬間、Dボゥイもまた相手との間合いを詰めていた。
 異常な動体視力は反射神経の増大に等しいが、勘違いしてはならないのは自分の体の機能だ。
 あくまで相手の動きが鮮明に見えるだけで、自分の体が早く動けるようになったと勘違いしてはならない。
 逸る視界に引きずられるように意識は動くことを要求するが、Dボゥイの肉体が相変わらずの満身創痍。
 次なる一撃をまともに受ければ、それだけで崩壊するかもしれないことを忘れてはならない。

 故に高速を見切る視界の中で優先されるのは、先手を取っての攻撃ではない。
 ――相手の攻撃を確実に躱し、隙間に攻撃を差し込む、後の先の戦いだ。

 繰り出される左のジャブ、連続する拳はその威力こそ低いものの、鋭く視界を潰す槍の穂先だ。
 空気を穿つような打撃を首を捻ることで回避、軽く引いた右の大砲が飛んでくるのに備える。が、

「ジャブがきた後はストレートってのはボクシングの基本だが、ここがリングの上に見えるかよ?」
「――くっ!」

 小馬鹿にするような声に続いて、刈り上げるような右足が顔面を狙って跳ね上がった。
 迫る一撃を頬に掠めながら間一髪で避け、生じた隙を縫ってその懐に飛び込もうと――
 するのを空気を薙ぐ音を聴覚が捉えたことで中断、身を捻って打ち下ろされる踵の軌道から何とか逃れた。

「おぉ! よく避けたじゃねえか! 今のは日本の格闘ゲームってやつである技らしいぜ?
 できるかもと思ってやったらできたもんだから、逆に俺がワクワクしちまったよ!」

 地面を穿った踵の土を払いながら、少女は言葉に違わぬ笑みのままステップを再開する。
 一度、その殺人鬼との間合いを空け、荒い息を吐くDボゥイは戦慄を隠せないでいた。

 真上に蹴り上げた足を、寸分の停滞もなく真下に振り下ろす。行為を言葉にすればただそれだけのこと。
 それを為す相手の身体能力に驚く部分もあるが、何よりも問題なのは自身の体の激しい消耗だ。

 痛みを堪え、不調を無視すれば戦えるものと思っていたが、それでも尚、敵は遠い。
 それこそ薬の力を借りている現在でも、戦力は拮抗どころか相手の方が上だというのだ。

 テッククリスタルがあれば、とまで贅沢なことは言わない。
 せめて満身創痍のこの身が万全であれば、奴の口撃に惑わされぬと誓える今なら引けを取らないというのに。
 唯一持ち合わせているこの体が、激戦を潜り抜けてきた肉体が、その意思を阻んでいる。

 この体たらくで、目の前の少女を救うことなどできるのか。
 いや、それこそ問題は眼前の少女に対処することだけではなく、
 ゆたかや舞衣を救うことができるのかという根本にも通じる。

 その身をラダムに侵された舞衣は、目前の少女より尚手強かろう。
 拳に手心が加わるのは避けようがないし、何より彼女自身の能力もまた脅威。
 救うために滅ぼされてはならない――本当に救いたい彼女達を救うために、
 この場で足踏みをしている余裕など、一片たりとも存在しないのだ。

「いいねいいね、ぶるってきたぜ! 最高だ!
 小便は済ませたか? 神様にお祈りは? 部屋の隅でガタガタ震えて、命乞いする心の準備はOK?」
「女の子がそんなことを口にするべきじゃないし、祈るべき神はいない。
 ここは屋外で、震えるための部屋の隅がそもそも存在しないな」
「雰囲気だよ雰囲気! 空気読めってんだ! ……まあ、覚悟決まったみてぇだからいいけどよ」
「ああ、決まったよ」

 そこだけ可愛らしく首を傾げる少女に、Dボゥイははっきりと告げる。
 勝利するために、意思を貫くために、言霊に己の思いを乗せて。

「覚悟は――決まった」
「いいねぇ、お前の意思って奴がビンビンくるぜ。その状況にありながらも! まだ!
 お前は自分が死ぬとは思ってねえ! 死なずにやり通さなきゃいけない目的は持っているのに!
 その目的を達成できずに死ぬかもとはちっとも思ってねえ! ああ、その思い上がりを殺して思い知らせてやる!」
「お前は――」
「OK、黙っとけ! もうこれ以上は言葉はいらねえ。俺とお前の間に、もう必要な言葉は何一つねえよ、そうだろ!?
 もう分かり合った、互いの目的も意思も。ならもうこれ以上は言葉じゃなくて行動でだけ示されるべきってもんだ。
 口先だけなら何とでも言える!
 殺す殺されるの状況の前にそう言った奴を俺は何人も知ってるぜ! その全員を俺は殺してやったがね」

 口を封じられ、あまりにも理不尽な言葉を叩き付けられ、しかしDボゥイの口元は初めて緩んだ。
 何もかもに賛同できない存在であるラッド・ルッソ――その相手と、初めて意見が合ったからだ。

 ――そう。確かにもう、言葉はいらなかった。

 先ほどとは違い、今度はDボゥイの方から先手を切った。
 動きの鈍さは歴然だ。先に動いたとしても、相手の攻撃の方が鋭く早いのは目に見えている。
 連続する攻撃を前に避けるのに必死になり、反撃を入れる隙間を見つけることなどできずに翻弄される。
 さっきまでの展開をなぞるのは火を見るより明らかだ。

 だからDボゥイは今は方針を変えている。
 ――無血での勝利を得ることはできないのだと、そう自身を戒めることで。

 Dボゥイの矢のような前進が届く前に、やはり少女の拳の方が早く打ち出される。
 先制のジャブは最初の邂逅よりもさらに速い。
 ――弾丸の速度で撃ち出される拳を交差する腕でブロックし、駆け抜けるままに間合いを詰める。

「ならァ! これで……どぉぉだァァァッ!」

 雄叫びに呼応して突き出される右のストレートがガードのど真ん中に直撃し、威力のままにDボゥイの上体を弾いた。
 華奢な体格から放たれたとは思えぬ拳の威力は、まるで人体の枷を外しているかのような破壊力。
 ――ここにもまた、宿主の体を無視した邪悪な寄生体の意思が見え隠れする。

 怒りのままに弾かれる体で踏み止まり、再度の吶喊を試みる。
 両腕を交差したままに、打ち込まれる拳の打突点を僅かにだけ外しながら、
 損傷を軽微にすることにのみ意識を傾け、相手の間合いに踏み込んでいく。

 ――ここに、一つの真実を語ろう。
 己の覚悟を明確に示すDボゥイの、強い意思を込めた前進は本来ならばラッド・ルッソには通用しない。
 いかに強靭な肉体であろうとも、ブラッディアイの力を借りていようとも、
 満身創痍の今の状態でラッド・ルッソを相手にしていたのならば、最初の接触の段階でDボゥイの命運は尽きていたのだ。

 そのDボゥイが何故、敗戦の運命を塗り替えて善戦することができているのか。
 それはDボゥイの飽くなき戦意も影響しているが、最大の理由は彼の覚悟にあるのではない。
 最大の理由は相手が『ラッド・ルッソ』であって、ラッド・ルッソではないという点にあるのだ。

 狂気の笑みを浮かべる『ラッド・ルッソ』――その体の本来の持ち主の名を柊かがみという。
 平和な日本で平凡な女子高生として生活をしてきた彼女は、
 この殺伐とした殺し合いの中で不死の肉体を手に入れ、幾つもの修羅場を潜り抜けてきた。
 参加者は異世界より召喚されし、いずれ劣らぬ猛者ばかり。
 その戦いの申し子達と轡を並べながら激闘を生き抜くには、不死の体というだけでは足りなかった。
 だが、鍛えるという行為から遠かった肉体での戦闘は、人体のリミッターを外すという不死者ならではの特性によって、無理矢理に条件をクリアしている。
 この戦場において、柊かがみの戦闘力は本来のラッド・ルッソに比肩するといっていい。

 にも関わらず、今の柊かがみとラッド・ルッソの共生している狂人は、本来のラッド・ルッソよりも、
 そしてラッド・ルッソの経験を自らの肥やしとした柊かがみよりも弱い。
 何故ならば、ラッド・ルッソの記憶に肉体の全てを明け渡した現状、
 柊かがみの肉体を操っているのは『ラッド・ルッソ』であって柊かがみではないからだ。
 はっきり言ってしまえば、『ラッド・ルッソ』の経験が真の意味で発揮できるのはラッド・ルッソの体でしかない。
 その経験を馴染ませる時間があれば話は別だったが、共生が始まってからまだほんの数時間しか経過していない現状ではおよそ不可能。

 『ラッド・ルッソ』がこの少女の体を扱いきるには、まだ時間が足りていない。
 腕が短い。足が短い。体が小さい。体重が軽い。
 その全てが、『ラッド・ルッソ』本来の実力を発揮しきることに齟齬を生じさせている。

 故にジャブもストレートも、威力が完璧に通る距離より僅かに遠い。
 振り上げる蹴りもまた、本来ならば顎を削ぐような一撃にも関わらず、鼻先にも届かない。

 柊かがみはラッド・ルッソの経験を生かすための努力をした。
 だが、この『ラッド・ルッソ』は柊かがみの肉体を生かすための努力を積んでいない。

 ラッド・ルッソであり、柊かがみでもあり、
 柊かがみではなく、ラッド・ルッソですらない――狂人の戦闘力はそれ止まりであった。

 ――戦力の拮抗はこうしてDボゥイの覚悟と、狂人の肉体と精神の齟齬によって作り上げられていた。


「上を守れば、腹ががら空きになんだよッ!」
「ぐぶっ」

 拳の雨が防御する腕を掻い潜り、剥き出しの胴体を直撃する。
 フック気味の一撃が肋骨に直撃し、固い手応えでもって三本持っていったのがわかった。
 内臓が折れた骨に傷付けられ、口の端からの血流が再び流れ出す。だが、

「また一歩、近付いたぞ」
「――――ッ! やっべえ! 最高だ! テンションだだ上がりしてきた!
 こんだけ殴っても! そんだけ血を吐いても! 俺の拳が折れるぐらい肋骨をへし折ってやってるのに!
 まだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだ!!
 そんっっっっっっっっな強気に吠えられるのかよ! 最ッッッ高に素敵じゃねえかァ!」

 狂笑を上げ、再び振り上げられる狂人の拳の速度が加速する。
 繰り出される拳はもはやジャブでもストレートでもなく、ひたすらに打ち込まれる乱打に過ぎない。
 その無鉄砲なまでの打撃が確実に前進を阻んでいるのが、逆にDボゥイにはありがたかった。

 接近して、何を狙っているのかまで狂人は気付いていないはずだ。
 だが、接近して何かを狙っていることにまでは、確実に気付いているはずなのだ。
 狂人が履いているスケート靴が飾りでないのなら、その接近した距離を再び一気に開くことも一瞬で可能なはずだ。
 いやむしろ、平凡な靴であったとしても、近付いた分だけ下がるのは容易なことなのだ。

 なのに、ラッド・ルッソを宿した少女は下がらない。その場から動かず、拳を出し続ける。
 接近して、Dボゥイが何を狙っているのかはわからなくとも、一体何をしてくれるのかと楽しみにしているのだ。
 それは正しく驕りに他ならないが、今の全精力を一瞬の隙間に懸けるしかないDボゥイにはありがたい。

「最ッ高だ! 殴り終わってボコボコの顔に、キスしてやりたいぐらいだぜ!」

 ――ああ、同感だ。俺も今、お前にキスしてやりたい気分だとも。

 めり込む拳が先ほどと反対側の肋骨に皹を入れる。だが、歯を噛んで苦鳴を殺した。
 胴体を狙った一発はダメージを確実に蓄積する代わりに、一歩さらに踏み出すチャンス。

 顔面狙いの拳は全て、下ろさぬ覚悟で掲げた両腕が防ぎ切る。
 もはやブラッディアイの力を借りても回避運動すらまともにとれない体にとって、
 僅かに打点を外すだけでいい上半身への殴打はいっそ気が楽だ。

「オラオラオラオラオラオラオラオラ、何をしたって無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァ!」

 打ち付けられる拳、振り上げられるたびに血が飛び散っている。
 見れば掲げられる狂人の拳は、すでにまともに拳の形をしていない。
 当然だ。ただの人間の拳の骨が、これほどの暴力的な連撃の前に耐えられるわけがない。
 それでも痛みなどまるでないかのように振る舞いながら、砕けた拳を振るう姿はあまりに異質。
 それは、その意識は、その姿は――、

「醜悪、そのものだ!」
「――っとぉ」

 痺れを切らしたように繰り出された大振りの一撃、ガードを外して身を屈め、
 頭頂部に掠らせながら相手の懐に飛び込む――遂に、目的とした到達点に至った。

 見下ろす狂人の視線が、どんな色を浮かべているのか確認している余裕はない。
 おそらくは内なるラッド・ルッソが、ずたぼろの体でどんな風に足掻くのかを期待しているに違いないとは思う。
 そのことに煮え滾るような怒りを感じながらも、Dボゥイは震える足を叱咤した。

 突き刺すように踏み出した足を大地に固定、その場で身を回し、
 通り過ぎていったはずの腕を緩やかに流れる視界の中で追い――その白い袖口を両手で掴み取った。

 ――シンヤ、力を借りるぞ!

 Dボゥイ自身には武術の心得はない。
 故に、その投げは彼が弟によって叩き込まれた、体に刻み込まれた傷跡の一つだった。
 ラッド・ルッソに奪われた弟の技を借りて、ラッド・ルッソに操られし少女を打倒する――。

 掴んだ相手の腕を巻き込みながら、想像よりはるかに軽い体を背中に担ぎ上げる。
 そのまま勢いのままに回転し、地面に相手を叩き付けようと――、

「甘ェ――ッ!」

 浮き上がる小柄な体躯に、地面と水平になった背中を踏まれる感触。
 慣性のままに振り回されるはずの狂人の体が、Dボゥイの体を踏み台に飛び上がる。
 それこそ、Dボゥイが意図したものよりはるかに勢いの乗った速度で。

 その超反射神経による行動は、ただ投げられるだけの体を危機から回避させる。
 背中から叩き付けられるはずの投げに対し、さらに前に飛ぶ体は滞空時間にコンマ数秒の猶予を生む。その間に――、

「あら、よっと!」

 自分から跳ぶことで踏み足に捻りを加え、狂人の体が空中で身を捻る。
 背面から為す術もなく地面に叩き付けられるはずの体が正しく地面を視界の収め、両の足からの着地をその身にやってのけさせた。

「残念無念、また来週ってなぁ!」

 掴まれた右腕以外の四肢を地に着いたまま、低い位置から見上げる狂人が邪悪に嗤う。
 その表情が、次なるDボゥイの動きで驚愕に歪んだ。

 投げが失敗に終わると悟った瞬間――
 Dボゥイは四肢を着く狂人よりさらに身を低くして足元に滑り込み、半ば地面に半身をつけたまま超低空の投げに移行したのだ。
 さしもの狂人もこの投げには度肝を抜かれた。
 何より、体勢が悪すぎる。先ほどと同じ回避を行うには、どちらの足もあまりに中途半端だ。

 ――故に、二度目の投げは見事に成立した。

 もしもこの場が柔道の会場で、床を畳とした武道の戦いならば、軍配はDボゥイに上がっていたといえるだろう。

「けどなァ、ここは遊び場じゃなく殺し合いの場所なんだよッ!」
「ああ……その通りだ」

 低い位置からの背負い投げは見事に決まったが、その威力はあまりに微々たるものだ。
 投げ付けられるまでに描いた弧の小ささといい、技としての不細工さといい目も当てられない。
 当然、戦場において相手を打倒するという意味での威力は無きに等しく、
 狂人に与えたダメージなどDボゥイが受けたボディへの一撃一発分にも届くまい。

 だから、それを理解していながらDボゥイが笑ったのは、投げ技が布石に過ぎず、その布石が完璧に決まったからに他ならない。

 仰向けに転がった狂人に対し、膝立ちのDボゥイの方がほんの僅かに早く立ち上がれた。
 後は、頭の中に思い描ける弟の動きと同じように動き、赤い世界を信じるままに巡ればいい。

 右腕を掴んだまま、立ち上がったDボゥイは少女の体を跨ぐ。
 咄嗟に立ち上がろうとしていた狂人はその行為に牙を剥いたが、その凶悪な表情が一瞬でくるりと引っくり返る。
 身を回し、うつ伏せにされ、そのまま逃れようと身を捻るたびに、Dボゥイはそれに先んじた。

「なん……だ、こりゃ。テメェ、いったい……!」
「これは柔術の類だ。貴様の大好きなボクシングの中には存在しないだろう」

 もちろん、見よう見まねでしかない。だが、傷跡の経験は確かにDボゥイの中で生きている。
 たとえそれが実の弟の手によって、憎しみの果てに受けた経験だとしても。

「この子自身には罪はない。必ず謝るから……今は多少、乱暴なことも我慢してくれ」

 贖罪を誓った言葉を告げて、反論も許さずに容赦なく――肩の関節を外した。
 骨と骨の接触が強引に外される鈍い音と、狂人の微かな苦鳴が続く。
 その痛みに歪む表情に心を軋ませながら、反対側の腕を、足を、同じように外した。

「が……があああああああああああああ!!!」

 手の中に残る嫌な感触を実感しながら、Dボゥイは大仕事を終えたように息を吐く。
 水が引くように、体内のブラッディアイの効果が失われていくのがわかった。
 同時に耳鳴りと頭痛がさらに勢力を増したのをみると、どうやら紙一重のタイミングだったらしい。

 四肢を外し、その危険な力を剥ぐ――それが、今のDボゥイにできた狂人の無力化。
 この場で即座に、少女をラッド・ルッソの悪夢から解放してやることはできない。
 その方法もわからないまま、少女を殺してしまうという選択肢だけは選びたくなかった。

 それができたと、今は心から安堵している。
 先のことを考えれば頭は重いが、今、この最悪の状況を潜り抜けただけで十分だ。
 やり遂げられた、その感慨に比べれば、体の痛みや失われてゆくような心の軋みなど、何ほどのことでもないはず。

 まだ何も状況が変えられたわけじゃない。
 それでも、その一歩を踏み出せたはずなのだから――、


「今、こう思っただろ? 手足の関節は外したし、これでこいつは身動きとれねえ。
 後は煮るなり焼くなり何もかもが思う通りで、やっぱり自分に比べれば人間なんて虫みてえなもんだ。
 どんだけでかい口を叩こうが、俺が負けるはずがない! 絶対に、自分は殺されるはずがない! ってなァ!」

 関節が外れるのによく似た鈍い音が響き、次の瞬間――拳がDボゥイの顔面を直撃していた。


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



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264:GOOD BYE MIRROR DAYS Dボゥイ 269:愛のままにわがままに僕は君達を傷付けたい(後編)
264:GOOD BYE MIRROR DAYS 柊かがみ 269:愛のままにわがままに僕は君達を傷付けたい(後編)








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