執事の言葉にハッとして顔をあげる紬。気付けば、軽音部の仲間達のことを考えていた。
だが、自分にもう戻る場所などないのだ。

俯きながら屋敷のピアノ室に向かうと、既に琴吹家によって手配されたクラシックピアノの講師と思しき人間がいた。

斉藤「こちら、現在世界的演奏家としても活躍されておりますスウェーデンのピアニスト、イングヴェイ先生です」

先生「ハッハー!! この度琴吹家に雇われてツムギを指導するイングヴェイ・マルムス
   ティーンだ!! 出身は貴族だ!! 正確には伯爵だ!! 
   と、いうことでよろしくなツムギ!!
   これで今日から俺とツムギはソウルメイトさ!」

紬「……斉藤、この人は一体?」
斉藤「イングヴェイ先生はクラシックピアノの常識を覆す超絶速弾きで世界に名を轟か
   し……」
先生「ハッハー!! 速いだけのスピードなんてクソさ!! 大切なのは常にメロディアスで
   あるということなんだ!!」
斉藤「CDを出せばミリオンセラー、ツアーをすればアリーナ級の会場を次々にソールドアウ
   トという――」
紬「そういうことを聞いているのではなくて……」

斉藤「先生には、ピアノの演奏技術だけでなく作曲についても紬お嬢様を指導していただくこ
   ととなっております――」
紬「作曲?」
斉藤「はい。軽音部で紬お嬢様が作曲された楽曲について、旦那様の旧友の方の評価もかなり
   高いものであったようでございますので」
先生「ほう? それじゃさっそくその曲とやらを聴かせてもらおうか。ツムギの才能を測るい
   い参考になるぜ」

しかし、あれはあくまでも放課後ティータイムのために、あの5人で演奏するために書いた曲だ。
それがこうして意外な形で評価されていることに紬は戸惑いと切なさを隠しきれなかった。
斉藤が手際よく放課後ティータイムの音源の入ったCD-Rをステレオにセットするのを見ながら、紬はまた一つ大きくため息を吐いた。

備え付けの高級ステレオから、既に懐かしくすら感じる『ふわふわ時間』の演奏が流れ出す。

先生「ウェーッ! ひどいな! これだけたくさんのミスがあると一晩中かかっても指摘しきれないぜ! まるで才能ないね!」
紬「……ッ!!」
先生の失礼な反応に思わず眉毛を吊り上げた紬だったが、

先生「だがひどいのはあくまでも演奏で、メロディやコード進行の構成には光るものがある。この曲はツムギが作曲したんだろう?」

仲間の演奏を否定されたことで煮えたぎる腹の内をおさえながら、紬は何とか頷いた。

先生「バッハが死んでからというもの、世の中の誰も作曲はしてこなかった。みんなバッハの
   真似なんだ。
   それ以後、初めて作曲をしたのは俺なのさ。そしてツムギ、キミはそんな俺の跡を継ぐ
   ピアニストになれるぜ」

こんな最大級の賛辞を送られても嬉しくないのはなぜだろう――。
そんなことを考えながら、紬はもう戻ることのない軽音部の懐かしき仲間たちの顔を思い出していた。

先生「しっかし、このドラムはなんだ? 走りまくってろくにリズムキープもできてねえ。
   ただのドラムは曲に合わせてリズムを取っていればいいんだよ!」

紬「……」

先生「ギターもひどいね。リズムを弾いている方はもはや冗談としか思えない。
   もう一人の方は下手じゃないんだけどオリジナリティに欠けるしカリスマ性が感じられ
   ないね」

紬「…………」

先生「極めつけはこの歌詞だよ。対訳を見たけどひどすぎるね。『キミを見てるといつもハートドキドキ』なんて歌詞は大嫌いだ!薄っぺらだ!寒気がする!」

紬「…………それ以上おっしゃると丸焼きにしますよ? この豚――」

斉藤「お嬢様の今夜の御所望は豚の丸焼きでございますね? 了解致しました。早速シェフに手配させます。先生もよかったらご一緒にいかがでしょうか?」

先生「ハッハー!! 俺は貴族だからな!! 高級な肉を出してくれよ!?」

腹に据えかねた紬の暴言を寸前のところで斉藤が機転を利かせ、食い止めた。

その頃、桜高の音楽室では――

澪「このままムギが去っていくのを黙って指を咥えて見ているだけでいいのか?」
梓「それは……絶対にイヤです……」
律「そうだな。事情はよくわからないけれど……もしもムギにまだ軽音部に未練があるのなら……」
唯「そうだね! ムギちゃんのたくあんあんなに美味しいのに、みすみすそれを手放すなんてだめ!」
澪梓律「何を言っているんだお前は」

とにもかくにも4人は紬に事の真相を問いただすことに決めた。
早速翌日、HRが終了するや否や逃げるように教室を後にしようとした紬を四人は呼びとめた。

唯「ムギちゃん!」

唯の呼びかけに、紬は肩をびくつかせ、廊下に立ち止まった。

澪「今までは曖昧にしてたけど……もう限界だ」
律「どうして軽音部を辞めるなんて言い出したんだ?」
梓「留学するって本当ですか?」

紬はそれに応えることなく、歩を進めようとしたが、肝心の脚がちっとも動いてくれやしないことに気付いた。
そもそも自分にはここまで深刻な顔をして、真摯に心配してくれる友人達から目を背けることなど不可能なのだと思い知る。

紬「本当です……」
律「どうしてだよ? 留学のことなんて今までちっとも話したことなかったじゃないか」

僅かに潤んですら見える律の目が『どうして私達に一言相談してくれなかったんだ』と語っているようで、何ともやるせない。

澪「もしかして……黙っていたのは何か理由があるんだな?」
紬「澪ちゃん……」

澪の指摘は鋭かった。しかし、『軽音楽などという低俗な部活に身を置くことは許さん』という理由で半ば強制的に退部させられ、
『音楽をやるなら、琴吹の名に相応しきものをやるべきだ』という理由でこれまたクラシックピアノを学ぶための留学を強いられたなどという事情、
どうして仲間達の前で口に出すことができようか。

紬「私は軽音部にいてはいけない人間なんです」
梓「そ、そんな! ムギ先輩がいなかったら放課後ティータイムは……」
唯「そうだよ? ムギちゃんがいなかったら私……」

梓と唯に至っては感極まったのか、既に半分泣いている。
そんな姿をみせられて、紬に感ずるところがないわけがない。しかし、

紬「ダメなんです……。私がいるときっとみんなに迷惑をかけることになる……」

――自分の家の都合で、彼女達を振り回すわけにはいかない。
紬には心を鬼にしてその場を立ち去る以外の選択肢がなかった。


先生「ハッハー!! 『ゴルドベルク変奏曲』をこの短期間でこれだけ弾きこなすなんて、ツ
   ムギはなかなか才能があるぜ!! ま、俺のプレイにはまだ遠く及ばないがな。
   なにせ俺は、ルックスは悪くないし、金持ちだし有名だからな」

紬「ありがとうございます……先生」

家に帰ればすぐにピアノのレッスンが待ち受けていた。
どんなに自分が巧みにきれいな旋律を紡いでも、そこにはあるべきものがない。
勢いよく突っ走る律のドラムがない。
ボトムを支えるがっしりとした澪のベースがない。
空気を切り裂くような梓のリードギターがない。
見ているだけで楽しくなってくるような唯のリズムギターがない。

どんなに素晴らしいバッハの曲を弾いてみたところで、ここには足りないものが多すぎる。
そんな状況では、紬がいかにイングヴェイ先生に賞賛の言葉を浴びようとも素直に喜べるわけがない。

斉藤「紬お嬢様――」

レッスンが終わると執事の斉藤が紬に声をかけた。

紬「斉藤……私、今日は少し疲れてしまったの。もう休むわ――」
斉藤「はっ。ただその前に一つだけどうしてもお嬢様にお伝えしなくてはなりませんことが」
紬「……何かしら」
斉藤「お嬢様の渡英の日取りが決まりました」
紬「え……もう?」
斉藤「はい。旦那様が一刻も早く渡英と転入の手続きを進めるよう、各方面へ手を尽くして頂いたようで」
紬「そんな……。(私はまだ心の準備が……)」
斉藤「渡英の日取りは――――になります」
紬「!!」
斉藤の言葉に、紬は驚きのあまり眉毛を震わせた。

律「こうなったら直接ムギの家に乗り込もう!」

翌日、音楽室では律が部長の本領発揮とばかりに熱い決意をブチあげていた。

澪「の……乗り込むって……お前なぁ」
律「いや、昨日のムギの反応を見て私は確信した。アイツは自分の意思に反して、留学することを強いられてるに違いない」
梓「確かに……私にもそういう風に見えました」
唯「でも……それとムギちゃん家に乗り込むのと何の関係が?」
律「それは決まってるだろ。ムギの親父さんに抗議するんだ!」

?「それはあまりお薦めできる行為ではございません」

律「そんなこと言ったって私たち出来ることはそれくら……って」
澪「だ、誰だ!?」

斉藤「私、琴吹家の執事をしております斉藤と申します。以後お見知りおきを――」

律「あ……前にムギの家に電話したときに出た執事の人……」
梓「というかいつの間に音楽室に入ってきたんですか!?」
唯「気配をまったく感じなかったよね?」
斉藤「気配を消すことは琴吹家に仕える者として当然の能力でございます」
澪「忍者じゃないんだから……。って、それより何なんですかいきなり」
斉藤「はい。紬お嬢様のことでお伝えしなければならないことがあって参りました」
律澪唯梓「!!!!」

瞬間、音楽室内の空気が一変する。

斉藤「皆様も知っての通り、この度紬お嬢様は海外の音大への進学のため、ロンドンへ留学す
   ることとなりました。
   今後はクラシックピアノと現代音楽理論、作曲を専門に学んでいくことになります。
   いずれはレコードデビューも……」

律「私たちが聞きたいのはそういうことじゃないよ!」

斉藤「……失礼しました。確かに皆様のお察しの通り、今回の留学は紬お嬢様の意志ではござ
   いません。 旦那様……つまり紬お嬢様のお父上直々の意向でございます」

澪「やっぱりそうか」
梓「そんな! それじゃムギ先輩も本当は軽音部を辞めたくなんかないんじゃ……」

斉藤「私にはお嬢様の本心ははかりかねます。ただ私なりの執事としての使命感から、
   今日は、この軽音部を訪問させていただきました。
   お嬢様はご自分の口で皆様に事情を説明することが憚られたようでしたので……」

唯「それじゃあ……どうしてムギちゃんのお父さんはムギちゃんを留学させようとしたんですか?」

斉藤「旦那様はお嬢様が軽音楽を演奏することを快く思っていないようなのです」

澪「そ、そんな……」
律「いくらなんでもそれは酷くないか!?」
斉藤「お嬢様お付きのピアノの講師の方も、
  『ハッハー!! 軽音楽なんて子供の遊びさ! 俺は貴族だ、正確には伯爵だ。伯爵にはその身分に相応しき高貴な音楽を演奏するべきだ!!』とおっしゃっておりまして……」
梓「失礼です! 音楽に貴賤はありません!」
唯「そうだそうだー! 謝罪と賠償を要求するぞー!」
斉藤「そうですね。確かに失礼かもしれません。主人の非礼は部下の非礼……謝罪のしるしと言っては何ですが琴吹家特製の最高級シフォンケーキを……」

唯「うん、きっとお父さんも悪気があって言ったわけじゃないんだよ(モグモグ)」
律「ちょ! 唯、簡単に買収されるなよ(モグモグ)」
澪「律も食べてるじゃないか……!! でもおいしいなこれ(モグモグ)」
梓「(駄目だこいつら……早く何とかしないと)モグモグ」

律「とにかく! 私たちはそんな話は納得できないよ、斉藤さん!」
澪「そうだ。ムギ本人が嫌がっているんだろう?」
梓「お父さんが軽音楽に偏見があるのなら、一回私たちの演奏を聴いてくれと言いたいです!」
唯「そうだよ~。サイトーさんからもなんか言ってあげてよ~(モグモグ)」

必死にムギ奪還を主張する4人。しかし斉藤の口から次に放たれたのはあまりに絶望的な言葉だった。

斉藤「琴吹家にとって、現当主である旦那様の意思は絶対でございます。いち執事が口をはさむことは勿論、紬お嬢様も逆らうことはおそらくできないでしょう」
律「そんな……」
澪「それじゃあ、ムギ自身の意思はどうなるんですか!?」
斉藤「……それが琴吹の姓を名乗る人間の宿命でございます」

『宿命』――その言葉は4人にとってあまりにも想像がつかないものだった。
ただ、これまで幾度となく見せつけられた紬の実家の名家としてのクオリティ。
それを思えば『宿命』という言葉がいかに重く、ただの女子高生である自分たちに覆しようがないことであるかということだけは自然と想像がついた。

梓「そんな……ひどいです……かわいそうです……。生まれた家のせいで、自分の好きなことが好きなように出来ないなんて……」
斉藤「どうかご理解ください」
唯「それじゃ……もうムギちゃんがロンドンに行っちゃうことは変えられないの?」
斉藤「……どうかご理解ください」

音楽室を再び重苦しい空気が包み込んだ。

斉藤「私が今日ここにやってきたのは、どうか皆様には紬お嬢様を怨まないで欲しいというこ
   とをお願いしたかったからです。
   紬お嬢様は、おそらく皆様に本当のことをおっしゃられないと思いますので……」

唯「そんな怨むだなんて……。ムギちゃんは私たちの大切な友達だよ?」

唯の言葉に一同力強く頷いた。

斉藤「紬お嬢様は良いご友人をお持ちになられたようです――。この斉藤、琴吹家の執事とし
   てお嬢様に変わり厚く御礼を申し上げます。
   是非、紬お嬢様が渡英される際にも空港までお見送り頂ければお嬢様も喜ぶと……」
律「! そうだ! 斉藤さん! ムギはいつ向こうにいっちゃうんだ!?」
斉藤「はい――。○月○日、朝一番のフライトで――」
澪唯梓「!!!」
律「それって、学園祭の翌日じゃないか……」

しかし、そんな紬の親友達に待っていたのはあまりにも皮肉な状況であった。


その晩。
部屋で一人、紬はアルバムを眺めていた。
収められた写真は、カメラ好きの澪が1年以上にわたって撮りためた軽音部思い出のシーンを集めたものだった。
籠の中のお嬢様として育ち、悪く言ってしまえば世間知らずだった自分に色々なことを教えてくれた、かげがえのない場所だった軽音部。
思い出せば思い出すほど、紬はそれを捨てなくてはならないという自分の宿命にどうしようもなく泣きたくなってくる衝動に駆られる。

紬「もう……限界です」

ベッドに倒れこみ、思う存分枕を濡らそうとしたその時、紬の携帯がメールの着信を告げた。

紬「メール……律ちゃんから……」

律『明日の放課後、どうか音楽室に来てほしい。これは軽音部の部長としてじゃなく、田井中律として、友達としてのお願いなんだ』

紬「澪ちゃんからも来てる……」

澪『律からメールが行ったと思うけど……。私はムギの意思を尊重したいと思ってる。
  でもこのまま終わっちゃうのだけは絶対にいやなんだ。私たち、
  ムギが来るまでずっと、待ってるから』

律と澪のことだ。きっと2人で額をより合わせて、悩んだ挙句、このメールを送ってきているに違いない。 そう思うと紬は胸が締め付けられる思いがした。

紬「今度は梓ちゃん……」

梓『私、ムギ先輩のことが好きです。このまま終わりなんて絶対に嫌です!』

紬「唯ちゃんも……」

唯『ムギちゃん……私たち、みんなムギちゃんのこと、大好きだよ?』


最後の二人はもはや、趣旨がよくわからない感情の吐露となっていた。
しかし、そんな文面だからこそ紬の心にはまっすぐストレートに伝わった。

紬「みんな……。どうして……? 軽音部を捨てていく私のためにどうして……?」

結局、その日紬は枕を濡らすこととなるのであった。


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