――事件の夜から、一週間が経とうとしていた。

澪「今日は良い天気だぞ、律」

澪は部屋のカーテンを開け、窓を開ける。
雲一つ無い青空から、太陽の日差しが暖かく降り注ぐ。
心地よい風が頬を撫で、長い黒髪を揺らしていく。

紬「この演奏を録音した日と同じぐらい良い天気ね」

紬が机の上の小さいスピーカーを見て、目を細めた。
そこから音量を抑えて流れてくるのは、みんなでアレンジして歌いながら演奏した、『翼を下さい』。

唯「みんな初めて演奏したときより凄く上手になってて、嬉しかったよね」

演奏が終わり、最後に少しだけ入ってしまった皆のはしゃぐ声が聞こえてくる。それを聴いて、唯は微笑んだ。
二人の会話を、澪は黙って窓の外を眺めたまま聞いていた。
そして思い出す、その日の会話――。




律『――綺麗な空だな』
紬『え?』
律『悲しみのない自由な空、か・・・。まさにそんな感じだよ。どんなに辛いことがあっても、こんなに綺麗な空見てたら、また頑張れるような気がしてくるよなぁ』
唯『ぶっwwりっちゃん詩人だねwww』
律『ふっ・・・私も自分で言っといてちょっと後悔してるぜ・・・』
澪『脳天気な律に辛いことなんかあるのか?w』
律『なっ、澪!お前それ失礼すぎるだろ!!私だって人並みに悩んだりすることだってなぁ!』
紬『りっちゃん顔真っ赤よww』
律『あれ?何この仕打ち。何か泣けてきちゃう』




澪「律・・・空、綺麗だよ。本当に辛いことなんか消してくれるぐらい」

澪は窓の外の青空から目を離さない。

澪「でも、でも・・・律がそんなだと・・・いくら空が消してくれても、次から次に辛い気持ちが溢れてくるじゃない」
紬「澪ちゃん・・・」

一週間もベッドの上で静かに眠り続ける律。
どんなに気丈に振る舞おうと決意しても、さすがに辛さがぶり返してくる。

澪「起きてよ、律・・・。一緒に空見ようよ・・・」

消え入りそうな声で、澪は小さく呟いた。
CDも止まってしまい、病室の中は、一定のリズムを刻む心電図の音だけが虚しく響く。




イスに座って、じっと律を見つめていた唯が、おもむろにその小さな口を開いた。

唯「今~私の~ねが~いごとが~ 叶~うな~らば~ つば~さ~が~ほし~い~」

呟くようにぽつりぽつりと、唯は歌を紡いでいく。
驚いてぽかんとしていた紬が、小さく微笑んで息を吸う。

唯・紬「この~背中に~鳥~のように~ 白~い~つ~ばさ~ つけ~て~く~ださ~い~」

決して大声で歌っているわけではないのに、澪は二人の歌声が、自分の体を震わすのを感じた。
滲んだ涙を指で拭って、澪も息を吸った。

唯・紬・澪「この大空~に~翼を広~げ~ 飛んで~ゆきた~い~よ~」



さわ子「・・・?」

偶然出会い、律のお見舞いに一緒に来たさわ子と和、憂は、律の病室の前で、ノックをする体勢のまま泣いている看護士の女性を見て、眉をひそめた。
女性は三人の姿を目にとめると、ハッとしたように頭を下げる。

さわ子「どうかされたんですか?」

さわ子は心配そうに彼女に歩み寄り、耳に掠めた歌声に足を止めた。
扉に近づくと、囁くような優しい歌声が、病室の中から聞こえてきていた。

さわ子「・・・・・・っ」

急に目頭が熱くなって、さわ子は病室の前の椅子に座ると、ハンカチを顔に押しつけた。
子供達の前では泣きたくなかったのに、涙が溢れて仕方ない。
和と憂も、ドアの前に立ったまま、静かに泣いていた。



唯・紬・澪「悲しみのな~い~自由な空~へ~ 翼~はため~か~せ~ ゆきたい~・・・」

歌声が一人足りない『翼を下さい』が終わり、再び部屋の中に悲しい静寂が訪れる。
三人はあの日律が言った言葉を、同時に思い出していた。
清々しいほど蒼い空を三人はただ静かに見つめる。

その時――



「――・・・綺麗な空だな・・・」




小さな声が沈黙を破った。
小さな、とても小さな声だった。
だが、誰も聞き逃さなかった。
弾かれるように振り向いた。


――誰もが望んでいた笑顔が、そこにあった――


静かになった病室から、突如聞こえてきた壮絶な泣き声。
さわ子はビックリして立ち上がった。
憂と和も気が気でない様子でドアを見ている。

看護士が急いでドアを開ける。
暗い廊下から、日差しの差す明るい病室へと入る看護士とさわ子。後ろからのぞき込む憂と和。
まばゆい日差しに一瞬目が眩むが、飛び込んできた風景はそれ以上に輝いて見えた。


ベッドにしがみつき、抱き合って泣きまくる唯、紬、澪。
その様子を、小さく首だけ傾けて見守っているのは、ベッドの上の律。
まだ疲れが抜けきっていないその顔に、彼女は困ったような笑顔を浮かべていた。


さわ子「りっ・・・ちゃん・・・?」

震える口で、さわ子はその名を呼ぶ。
ゆっくりと顔を動かし、律は確かにさわ子の方を見た。

律「・・・さわちゃん・・・おはよ・・・」

はにかんだ笑いと共に、小さな声が返ってくる。
看護士が嗚咽を上げながら部屋を飛び出した。
部屋の外で和と憂が抱き合って泣き崩れた。
さわ子がまるで子供のように声を上げて泣いた。

皆がずっと待ち続けていた瞬間が訪れた。

澪「り、律!うえっぐ・・・律!!」
律「何・・・?」

涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、必死に言葉を紡ごうとする澪。
律は優しく返事を返して待つ。

澪「律っ・・・おかえりいぃ・・・」

ベッドのシーツに顔を埋めて、澪はまた泣きじゃくった。

律「えへへ・・・――ただいま」



その日はそれ以上律の傍にいることはできなかった。
大勢の医師が律の部屋へとやって来たからだ。
目覚めた後の対処等、いろいろあるのだろう。

それでももう全員からは、暗い気持ちなど全て吹き飛んでいた。
目を覚ました律の笑顔は、晴れ渡った空よりも、辛い気持ちを無に返してくれた。

その後、律は驚異的な回復力を発揮した。



唯「りっっちゃーん!!」バンッ

律が目を覚ましてから二日後、ようやく全員に面会の機会が訪れた。
勢いよくドアを開けて部屋に突入する三人。
もう面会謝絶の文字は、ドアの前から消えていた。

律「おぉ!よく来たなぁ!!」

ベッドの上で身を起こし、窓の外を眺めていた律は、嬉しそうに笑った。
久しぶりに見る、元気な律の笑顔だった。
喉の奥がきゅっと締まる感覚を覚え、唯は涙ぐみながら律に抱きついた。

唯「うえぇん!りっちゃぁん!!」
律「ぐあいたたたたた!!」
唯「あ、ごめん」
律「お前なぁ・・・。一応まだ入院患者なんだぞ?」

腕の包帯をさすりながら、律は涙目になってぼやく。

紬(二人とも可愛い・・・)
律「おーい?むぎー、かえってこーい」



律「まったく・・・お前ら相変わらずだなぁ」

ため息をついた律の傍に、静かに歩み寄るのは、澪。

澪「律・・・」
律「よっ、澪。もう大丈夫か?」

明るい笑みを浮かべて、律は澪を見る。
こんな状況でも自分のことを心配してくれる律を見て、澪は情けなくなって、また涙がにじんだ。

澪「律・・・ごめんな・・・ごめん。私のせいで、こんな事になっちゃって――」
律「なーにいってんだよ、澪。お前が私に守ってくれって命令した訳じゃないだろ?」
澪「律・・・」



澪「律は・・・強いな」
律「へ?」
澪「こんな私のために・・・本当にありがとう。――私ももっともっと、強くならなきゃ駄目だって気付かされたよ。今の私は、臆病で泣き虫で・・・」
唯「澪ちゃん・・・」
律「――澪」

俯く澪を呼び、顔を上げさせる律。
律は彼女に自分の右手を差し出して見せた。
指の先まで、包帯がぐるぐる巻きになっている。


律「覚えてるか?澪。私の手が、踏みつけられた時のこと」
澪「う、ん・・・」

男Aが、律の手を踏み砕いて、二度とドラムが出来ない手にしようとしたのだ。
あの時の律の悲鳴は、耳に張り付いて消えることはない。

律「あの時澪がアイツにぶつかっていってくれなかったら、今頃この手は使い物にならなくなってたんだよ?」
澪「あれは・・・何が何だかわかんなくなって――」
律「それだけじゃないぞ」

ぴっと指を立てて、律は澪の言葉を遮る。

律「私、B先生に刺されちゃったじゃん」
唯「あの時はホント・・・もう頭の中真っ白だったよ」
紬「えぇ・・・」

律が申し訳なさそうに頭をかく。


律「あの時さ・・・澪、血とか全然駄目なはずなのに、応急処置してくれたんだよね」
澪「あ・・・うん」

律はお腹を撫でながら続ける。

律「あの時・・・あの時、止血処置を行ってなかったら・・・私、確実に死んでたんだってさ」
澪「――!!」

澪は息を飲んだ。唯と紬も言葉を失っている。

律「昨日、医者の先生から言われた。止血してくれた子に感謝しなさいって」
澪「り、つ・・・」
律「ありがとな、澪。お前が勇気出してくれなかったら、私今頃お陀仏だったんだぞ」

ふざけて笑った後、律は真顔に戻って、真っ直ぐに澪を見た。

律「――澪は自分で思ってるよりも強いんだよ?ずっと、ずっとさ」
澪「――・・・っ」

澪はぼろぼろ涙をこぼしながら律に抱きついた。

律「あ゛ーだだだだだだぃ!!」
唯「あははははは!」
紬「うふふ・・・」

四人とも、泣きながら笑い続けた。





数日後

人でいっぱいに――満杯になった桜が丘高校の体育館。
ステージの幕が、ゆっくりと上がる。同時に、歓声も上がる。
スポットライトを浴びて、照らし出されるのは、四人の少女。
その一人が、マイクを握ると、騒いでいた観衆が一気に静まった。

唯「みなさん!!今日は私達軽音部の特別ライブに来てくれて、本当にありがとう!!」

わき上がる歓声。唯はニッコリと笑うと、振り返ってマイクを差し出した。
立ち上がり、それを受け取ったのは――律。

律「・・・えー、こほん。本日は、私なんかのためにこうやってライブの場を与えて下さって本当にありがとうございました!」

さらに大きな歓声が、会場中に響き渡る。律はマイクを握りなおして口を開いた。




律「皆さんには、本当に大変なご迷惑をお掛けしたと思います。申し訳ない気持ちでいっぱいです」

小さく頭を下げる律。そして、後ろを振り返った。

律「でも、今回の出来事で、私はこんなに最高の仲間を持っているんだ、ということに改めて気付かされました。この三人とこうやってまたバンドが出来ることを、幸せに思います!」

すぅ、と息を吸うと、律は大声で叫んだ。

律「やっぱ軽音部は最高だぜ!!」
澪「律・・・」

絶え間ない歓声が上がる。
律はふぅ、と小さく息をつくと、手の中でマイクを一回回し、大きく叫んだ。

律「今日はこのかけがえのない仲間達との演奏を、思いっきり楽しみたいと思います!!みんなも楽しんでってねーーー!!!」

拍手や歓声が会場を揺らす。律は幸せそうに一度目を閉じて微笑むと、もう一度皆を振り返った。頷きが返ってくる。


律「それじゃあ早速!まず最初は私を死の淵から蘇らせたと言ってもおかしくないこの曲から!!」

笑い声と拍手が聞こえてくるなか、律は唯にマイクを返してドラムの元へと戻る。
澪が背中を叩いてくる。紬が笑いかけてくる。
胸が熱くなって急に視界が滲む。律は座りながら、タオルで顔を拭いた。

律「え、演奏する前から汗かいてきちまったぜ!」

その様子を見て唯は笑うと、観客の方へと向き直った。

唯「おっけー!じゃあ最初の曲!『翼を下さい』!!」

二本のスティックが、高々と掲げられる。



静かになった会場に、乾いた音が心地よく鳴り響いた。



fin.



最終更新:2010年07月25日 01:16