幼少の頃から慣れ親しんだ重厚感のある鍵盤の感触を確かめながら、紬は椅子に腰かけた。
ステージの上ではバンドの4人が皆、祈るような表情で紬を見守っている。
フロアでは聴衆達が息を飲んでピアノに向かう紬をじっと見つめている。そしてその聴衆の中には、あの父親もいるのだ。

紬「(私のピアノは……ここ(軽音部)でも輝ける!)」

そうして、紬の指が、繊細でガラスのように美しいメロディをゆったりと紡ぎ出し始めた。

斉藤「! これは……っ!」

メロディを一聴した斉藤は驚く。

インギ「ハッハー!! ツムギのヤツ、まさかハイスクールの学芸会でバッハを演奏するとはな!!」

『ゴルドベルク変奏曲』――紬がイングヴェイ先生のもとでこの数日というもの、弾きに弾きこんだ必殺の名曲。

唯「綺麗な曲……」

思わずステージの上で紬を見つめる唯が呟いた。他の三人に至っては、そのメロディの美しさに言葉も出ない。

目を閉じ、10本の指を鍵盤の上で跳ねさせながら、紬は考えていた。

琴吹という名家に生まれた自分の宿命を怨んだ。
自分から軽音楽を取り上げようとした父親を怨んだ。
たとえそれが父親自身の経験に基づく、娘を思っての行動だとしても怨んだ。
そんな自分を取り巻く環境のすべてを怨んだ。

だけど本当に一番怨むべきは、いつまで経っても籠の中の鳥として、心の中ではその安住を良しとしていた自分だったのだ。

だけど今はもう違う。
紬は自分の生きるべき道――その行く先が少しだけでも見えたのだ。
だったら後はそこまでまっすぐに飛んでいくのみ。

紬「(そう……だから私はこの籠の中から大空に飛び立ってみせる!)」

数分に及ぶプリマドンナのごとき華麗な指捌きとそれに呼応する美しいメロディ。
が、突如そのクラシカルな優しい旋律を弾き止めた紬は、ステージ中心の唯にアイコンタクトを送る。

唯「それじゃあ最後の曲行きます! 『翼をください』!!」

待ってましたとばかりに律がスティックを鳴らす。

律「わんつーすりーふぉーっ!!」

そしてそれまでバッハを奏でていたクラシカルな紬の指は、走り出したバンドサウンドに乗って、激しくバタつき始めた。
優しいクラシックのメロディを奏でていたグランドピアノの美声が、一気に激しいロックサウンドの咆哮に変わる。

『今~ わたしの~ 願いごとが~♪』

インギ「ハッハー!! なんてこった! ツムギのヤツ、ロックでバッハを表現してやがる!! それに速いだけじゃねえ!! 俺の言った通りメロディアスであることにこだわってるぜ!!」

その指捌きで世界の聴衆を魅了し続けた天才ピアニストも舌を巻くアレンジとメロディのセンスを紬はいかんなく発揮していたのだ。

『叶うならば~ 翼~がほし~い♪』

斉藤「お嬢様……なんという……」

幼少の頃からの教養として、クラシック音楽を荘厳に奏でるためにあったピアノで、紬がはち切れんばかりの希望を跳ねるようなビートに乗せたロックを奏で出した。
この行為の意味の深さに気付かないはずがない斉藤は、もはや人目もはばからず鼻水と涙がないまぜになった液体で執務服の袖を汚した。

『この大空に翼を広げ~ 飛んでいきたいよ~♪』

ムギ父「…………」

そしてムギ父はただじっとステージで演奏する紬の姿を見つめ、ただ一言――。

ムギ父「あれは確かに……私の娘だな」

『悲しみのない~ 自由な空へ~ 翼はためかせ~ いきたい~♪』

この日、ステージの上で、一人のキーボードプレイヤーの少女が、己を閉じ込めていた固い固い『宿命』という殻を見事にカチ破り、大空に飛び立つ瞬間を多くの聴衆が目にすることになった。



その後の話をしよう。
演奏が終わると、その余韻に浸る間もすらも惜しむように紬はステージを降りた。
用が終わればすぐに帰ってしまうだろう多忙な父親を探すためだ。

そして校門前に停められた、明らかに場違いな黒塗りのリムジンの前で紬は父親の姿を見つけた。

紬「お父様……ッ!!」

息を切らして駆けてきた紬の後方には、当然のごとく軽音部の仲間が揃っていた。


紬「私は……ロンドンへは行きません!!」

ムギ父「…………」

紬「勝手なことを言っているかもしれません! 琴吹家の人間としての自覚に欠けるかもしれません! でも、やっぱりこれだけは譲れません!」

ムギ父「…………」

そして紬は心配そうに成り行きを見つめる唯、澪、律、梓の4人を指し示して言い放った。

紬「私の居場所は……ここ(軽音部)なんです!」

ムギ父「――そうか」

紬「だからどうか……って、え?」

ムギ「好きにするといい。留学の件は……斉藤」

斉藤「はっ。至急キャンセルの手配を致します。と申しますかこの斉藤、正直申し上げてこの状況を想定していたところがございまして、実は既に手配済みだったりしています」

ムギ父「……そうか」

そう言ってムギ父は車に乗り込んだ。
紬は紬で、あまりにもあっさりと自分の申し出が認められたものだから戸惑うことこの上ない。

ムギ父「ところで、紬よ――」

紬「は、はい……っ!」

ムギ父「お前の演奏、悪くなかったぞ」

そしてリムジンは町の雑踏へと消えていった。

斉藤「いやはやしかし、旦那様も素直でない」

リムジンの運転席でハンドルを握る斉藤は、後部座席で、思案顔で窓の外を眺める主をたしなめた。

斉藤「この斉藤、旦那様が演奏中終始身体を揺らして楽しまれておられたのをしかと見ており
   ますとも。
   それであるのに『悪くはなかったぞ』とは――。これがツンデレというものなのでしょ
   うか」
ムギ父「あれは正直な感想だ――」

主が窓の外を見たまま答えた。

ムギ父「若い頃の私ならば、ワイヤー宙吊りでピアノごと回転させられてもバッハを弾きこなす自信があるぞ」

斉藤「これはまた……。しかし今日私は確信しました。旦那様と紬お嬢様はやはり親子でございますな。鍵盤に向かう姿がそれはもう、そっくりでございましたぞ」

実を言えば斉藤には確信があったのだ。
主が自分の二の舞にならないようにと、たとえ悪者になろうとも娘の夢に待ったをかけたい気持ちと、自分が叶えられなかった夢を自分の娘に託してみたいという気持ちがせめぎ合っていることを――。

ムギ父「斉藤よ――。今だから言うが、私は紬が自分から日本に残りたいと言うようならば、最初から留学の話はなかったことにするつもりだった」
斉藤「知っておりました――」
ムギ父「紬が軽音部にいることも、本当は1年半前から知っていた」
斉藤「それも知っておりましたとも――」
ムギ父「私の旧友が紬の腕前を見染めたと聞いた時、不安と同時に嬉しくもあった」
斉藤「それは当り前でございましょう――」

ムギ父「私は自分の言いつけに対して、紬の口から『NO』と聞きたかっただけなのかもしれない」

ムギ父「自分が志半ばで諦め、未練を持ったままの夢に対して、強くあってほしかった」

ムギ父「それが紬にとっての成長であると思っていたからだ」

ムギ父「私は、娘の器量を測るために紬の夢を弄んだことになるのだろうか――。だとすれば父親失格だな」

斉藤「旦那様ほど娘想いの方はおられません――」

ムギ父「それならば……そうだな。まずは正しいオルガンへのナイフの突き立て方でも紬に教えてやろうか」

斉藤「お嬢様もお喜びになられることでしょう――」

こうしてとある一人の父親にとっての、自分の手の中から巣立っていく娘を見送ったのであった。

インギ「ハッハー!! しかし実にすばらしい演奏だったな!! 
    俺の若い頃を思い出すぜ!! 
    実を言うと俺様は、昔はピアノでなくエレクトリックギターが本職だったんだ
    ぜ!?
    久しぶりにストラトキャスターを引っ張り出してピロピロするか!! ハッハー!」

斉藤「そう言えば先生も乗られていたのでしたね。道理でさっきからやけに車体が傾くと思いました」

インギ「ハッハー! 俺は貴族だ!! 正確には伯爵だ!! そして光速の豚だ!!」

斉藤「紬お嬢様の未来に幸がありますよう……」

この後、ムギ父は娘のバンド活動に関して、今度は180度態度を変えて見事な親馬鹿化。
澪や梓が引くような高級機材を軽音部に提供し始めたり、音楽室にさらに良質な紅茶やお菓子が提供されるようになったのは、また別のお話。

こうして、正式に紬の転校・留学は白紙となり、これまで通り桜高に通い、軽音部に残留することが決まった。

さわ子「私は最初からこうなることの予想はついていたわ!
(キリッ)と、いうわけでムギちゃん、ケーキまだー? あんまり焦らされると私の大事なトコロがハイブレットレインボウになっちゃうわ」
律「いや、先生もめっちゃ焦ってたじゃん」
さわ子「さ、さぁ……。何のことやら……?」
紬「クスクス。わかりました。今すぐに紅茶も淹れますね」

放課後。音楽室で茶を囲む光景が、久方ぶりに戻ってきたのだ。

梓「まったく。また練習もしないで紅茶にお菓子ですか」
澪「まぁまぁ。久しぶりだしいいじゃないか」
唯「ほうらよ。むぎふぁんのけーひほいひいよ?(そうだよ。ムギちゃんのケーキ美味しいよ?)」
紬「ふふふ。唯ちゃんも慌てなくてもまだいっぱいおかわりありますからね?」

律「しっかし、学園祭でのムギのピアノソロ、すごかったよなー」
澪「本当、私なんか鳥肌立ったよ」
唯「すごいよねー。私もムギちゃんみたいにギー太でクラシックの曲、演奏してみたいなー」
梓「唯先輩……。クラシックの曲なんて知ってるんですか?」
唯「むむ! 知ってるよ~。前にムギちゃんにCD貸してもらったことあるし。なんだったけなぁ……たしか『ぱがにーに』って人の『かぷりーす』っていう曲」
澪「パガニーニだろ。私も名前しか知らないけど」
律「っていうか今でもたまにFのコードおさえられない唯にそんなの弾けるのかよ」
梓「たぶん、一日に15時間練習しても無理ですよ?」
唯「うわーん!! みんながいじめるー!」
紬「……ふふふ」

紬はニコニコと穏やかな笑みを湛えて、このありふれた軽音部の日常を眺めていた。

自分は決められた生き方のレールから、過保護な壁に囲われた鳥籠から、確かに飛び立った。
しかしその翼を得ることが出来たのは、間違いなく仲間達の協力があってこそなのだ。
だからこそ、自分はこの大切な仲間達と一緒にいたいと願った。

唯「う~、いじめられたせいで力が出ないよ~。ムギちゃん、ケーキ~」
梓「唯先輩! 練習はどうするんですか!? まぁ……私もちょっと食べたくはあるんですけど」
律「梓だって満更でもないじゃないか。 何はともあれまずは食べてから考えるか!」
澪「まったく唯も律もどこまで本能で生きてるんだか……って、正直私も食べたいなあ……なんて」

どんなに美味しいケーキだってそれを笑顔で食べてくれる人間がいなくては意味がない。
どんなに素晴らしい音楽だって共に奏でる人間がいないと意味がない。
紬はそんな仲間たちとこれからも共に歩むことを、自らの意思で、自らの手で掴み取ったのだ。

紬「……けいおん! やっぱり最高です♪」

ただこの後、あまりにも暴走していく紬の性癖のせいで、嫁の貰い手も婿のあてもなくなったことで、ムギ父が斉藤が頭を悩ますのは、また別のお話――。


終わり