そのセクハラが、ゆいを苦しめているのかもしれない。
 だけど――。

 その言葉で、ようやく覚悟が決まった。
 ありがとう、梓ちゃん。

 涙を拭け。後悔する暇があるなら思考しろ。
 私の感情ひとつで、ゆいの身体に影響を及ぼすというのなら……、
 救うことだってできるはずなんだ。
 ゆいを救う方法は必ずある。


憂「紬さん」

紬「……今度は憂ちゃんなのね、なにかしら?」

憂「以前言いましたよね。私の劣情がゆいになんらかの影響を及ぼすかもしれない、って」

紬「ええ。人形は人の邪な心をその身に引き受ける存在、だから……」

憂「だったら、私からその邪な心が無くなれば、ゆいは元気になるってことですよね」

紬「断言はできないけれど、その可能性は否定できないわね」

憂「わかりました」 

 劣情がなんだというのか。
 邪な心がなんだというのか。

 お姉ちゃんや梓ちゃんを愛する心は決して捨てない。
 だけど、二人と接することで私の中の劣情が膨れ上がってしまうのならば。

憂「お姉ちゃん、お願いがあるんだけど」

唯「なに?」

憂「今日からしばらく、梓ちゃんの家に泊まって欲しいの」

 そもそも接しなければ良いのだ。

 ――見せてやる。私の覚悟を。

 お姉ちゃんは、最後まで私とゆいのことを心配してくれた。
 どうして私がいちゃ駄目なの? と寂しそうな目をしていた。
 お姉ちゃんなのに、憂の支えになってあげなくちゃ駄目なのに。
 そんな悲壮に満ちたお姉ちゃんの言葉が、何よりも重く胸に突き刺さった。
 逸早く事情を察した梓ちゃんが、そんなお姉ちゃんを嗜めてくれて、
 二人は家から出て行った。 ごめんね、二人共。

 身勝手な私を許してください。

紬「ごめんなさい、憂ちゃん」

憂「どうして謝るんですか?」

紬「事の発端は私。私がドールなんか作らせなければ、誰も苦しまずに済んだの」

憂「……違いますよ。紬さんがいなければ、私はゆいに出会えなかった。
  確かに今は苦しいですけど、まだ終わった訳じゃありませんし」

紬「……」

憂「だから、私は紬さんに感謝こそしますけど、
  紬さんが私に謝らなくちゃいけない理由なんて何一つないんです」

紬「憂ちゃん……。ごめんなさい、ありがとう」


憂「そういえば、紬さんはどうして傀儡の実験をしようなんて思ったんですか?」

紬「軽音部はパラダイスよ」

憂「やっぱ言わなくていいです」

紬「あら、憂ちゃんならわかってくれると思ったのに」

憂「今の一言で分かってしまったから言わなくていい、と言ったんです」

紬「ああ、そういうこと……」

憂「紬さんは寂しくないんですか?」

紬「どうして?」

憂「律さんと澪さんは幼馴染で仲が良いし、お姉ちゃんと梓ちゃんは、あの通りべったりです。だけど紬さんにそういう相手は、その……」

紬「それは、貴女も同じでしょう」

憂「へ?」

紬「お互い、歪に捻じ曲がってはいるけれど、私と貴女の根底にあるものは一緒のはずよ」

憂「……言ってる意味がよくわかりません」


紬「要するに、好きな人が幸せならそれでいいのよ。
  貴女の好きのベクトルは唯ちゃんのみに傾いているけど、私はそれが皆に向いている」

憂「紬さんは、軽音部の皆さんが幸せそうにしているのを
  見られればそれでいいってことですか?」

紬「大当たり♪」

 悪戯っぽく舌を出す紬さん。

紬「そして、貴女は唯ちゃんが幸せならそれで全てを善とできる」

憂「……大当たり、と言いたい所ですけど、それじゃ60点ですね」

紬「? ああ、梓ちゃんね。彼女も含めて……」

憂「いいえ。それだけじゃ満点はあげれません」

紬「えっと……」

憂「ゆいですよ。当たり前じゃないですか」

 得心行った、という風に紬さんは頷いた。

紬「それじゃあ私はそろそろ失礼するわね」

憂「すみません。折角の休みに……」

紬「いいのよ。ゆいちゃんも大分落ち着いてきたみたいだけど、
  また何かあったらすぐに連絡してね」

憂「はい、ありがとうございます」

紬「それと……、今日一日はその子の傍にいてあげること」

憂「勿論そのつもりですけど」

紬「傀儡である彼女は、貴女の意思を栄養として生きている。
  傍にいてあげることが、回復への近道だと思うわ」

 私の意志を栄養として……。
 だから私の心に劣情が含まれると体調を崩す、ということか。

憂「わかりました」

 何故だかは分からないけれど、この時私は会話のどこかに違和感を感じた。




 翌日。
 ゆいの体調は安定しなかった。
 時折苦しそうな表情を浮かべては、私の服の袖をぎゅっと握り締める。
 私はその度に、「大丈夫だよ、ちゃんと傍にいるから」と言い聞かせて、
 ゆいの髪を指先で撫でた。

憂「……」

 お姉ちゃんの居ない家は、やっぱり寂しかった。
 心にぽっかりと穴が開いたみたいな淡い寂寥感。
 美味しそうに食べてくれる人が居ないと、料理にも作り甲斐を感じない。
 まさかたったの一日で暗礁に乗り上げるとは思わなかったが、
 だからといって挫けている暇は無い。
 せめてゆいが回復するまでは、この生活を続けていかなければ。

 長時間ゆいから離れている訳にもいかず、朝昼と、有り合わせの食事で我慢した。
 自室に篭って、ゆいの様子を気にかけながらテスト勉強に打ち込む。
 そういえば、先週の今頃は公園に行ってたんだっけ。
 今頃お姉ちゃん、何してるんだろう。


憂「ねえ、ゆい?」

 多少落ち着いた様子のゆいに、シャーペンの尖ってない方を使って優しく小突く。
 ゆいは、それにじゃれつこうとして起き上がろうとするものの、またすぐにこてん、
 と転んでしまった。
 やはりまだ回復には程遠いらしい。

 澄み渡るような青空に輝いていた太陽は、いつの間にか厚い雲に隠れていた。
 カーテンの隙間から差し込む光が描き出した灰色の影も、
 部屋の暗さに飲まれて姿を消した。
 それが、なんだか私とお姉ちゃんの関係みたいで、少しだけ切なくなった。
 光が無ければ影は存在できないのだから。

憂「頑張ろう」

 私にできることは、これしかないのだ。
 耐えろ、ゆいの為だ。
 紬さんが心を失わなくて済む方法を見つけてくれるまでは――。

 二日が過ぎた。
 学校でも極力梓ちゃんとの接触を避けなければならないのだが、
 幸いにも今はテスト期間中。
 午前中だけ凌ぎきれば家に帰れるし、テストに集中することで、
 余計な雑念を捨てることができる。
 ゆいとはずっと傍にいなくてはならないため、
 布団に包んでブレザーの胸ポケットに落ち着けた。

純「ねえ、憂」

憂「な、なに?」

純「もしかして、徹夜?」

憂「テスト前にそんなことしないよ」

純「じゃあどうしたのよ、憔悴しきった顔してるけど」

憂「あー、まぁ、色々とありまして」

純「梓と喧嘩でもしたの?」

憂「まさか」

純「なんかお互い距離置いちゃってるし、
  何かあったならそれくらいしか思い当たらないんだけど」

憂「説明すると物凄く時間がかかるから、今はテスト勉強に集中した方がいいと思うよ」

純「たかだか10分の悪あがきじゃ点数に大差ないって」


憂「10分あれば教科書2ページ分くらいは暗記できるのに」

純「それは憂だけだと思う」

憂「そうかな、お姉ちゃんもやればできそうだけど」

純「いや、だから、あんたら姉妹は脳の作りがちょっとおかしいんだってば」

 はぁ、と一つ溜息をついて、純ちゃんは私の胸ポケットのゆいを見つめた。

純「ゆい、苦しそうだけど」

憂「……うん」

純「大丈夫なの?」

憂「あんまり、かな」

 そう。ゆいの体調は一向に回復していなかった。
 しかし、同時に悪化もしていないように思えたから、
 症状の進行は抑止できているのかもしれないが。

憂「……」

 いつもの癖、とでも言うのだろうか。
 私は不意に、梓ちゃんの方へ視線を送ってしまった。
 梓ちゃんも同様にこちらを見ていたようで、二人の視線が重なった。

梓「……っ!」


 梓ちゃんは慌てて目を逸らした。
 彼女にはある程度の事情は説明してあるし、
 私が距離を置かなくてはならない理由も察している。
 だけどそれでも、ゆいのことが心配で仕方ないのだろう。
 苦しいのはきっと、私だけじゃない。梓ちゃんも紬さんも、
 それに、お姉ちゃんだって……。
 お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。
 お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん。

憂「!」

 思わずぶんぶんと首を横に振る。……いかん。禁断症状出てきた。

純「ちょっと、憂?」

憂「え?」

純「今、一瞬目開けたよ、この子」

憂「? 起こしちゃったかな」

純「あ、あれ、また寝ちゃった」

憂「気のせいじゃないの?」

純「うーん、起きたと思ったんだけどなー」

憂「それよりいいの? 勉強しなくて」

純「あはは、古典は苦手なのだー」

憂「諦めてるのね……」


 テストが終わり、教室を飛び出すようにして帰路へ就く。
 期間中は部活動が無いため、下手すればお姉ちゃんとバッタリ出くわす可能性もあるのだ。
 理性なんて気休めにもならないだろう。
 今お姉ちゃんを前にしたら、自分でも何を仕出かすかわからない。
 それほどまでに、渇望していた。

 そんなことになったら、ゆいはきっと……。
 薄ら寒い想像をして、自己嫌悪に陥る。

憂「そんなこと考えてる時に限って、出くわしちゃったりするんだよね」

 独りごちてから、はっと後ろを振り返ってみる。
 だけどそこに人影は無く、どうやら無事に家にたどり着けそうだった。


憂「ただいまー……、って言っても独りか」

 殆ど寝たきりのゆいは、その声に反応することもない。
 お姉ちゃんのいない家なんて、もはや家でもなんでもない、
 寒さを凌ぐ為の空間に過ぎなかった。
 ただ広いだけのその空間に取り残され、孤独と同居を始めてから既に三日が経過していた。
 ゆいの為に! と意気込んでいた私は今はもう完全に鳴りを潜めてしまっている。

 それでも意思を曲げなかったのは、愛する娘を救いたいが為か。

憂「愛する娘、とか言っちゃって」

 脳内ナレーションに、お気に召す単語を見つけて思わず頬が緩む。
 寂しい寂しいとは思いつつも、どこまでもポジティブなのが私が私である所以だ。

 ゆいをベッドに寝かしつけてから、着替えを済ませ、明日の準備に取り掛かる。

憂「明日は現国と日本史と……」

 本当に、今がテスト期間中で良かったと思う。
 教科書と問題集をテーブルの上に広げて、私は黙々と知識を頭に詰め込み始めた。

 今日は頭の冴えが良い。スラスラとペンが進んだ為、時間を忘れて学力向上に勤しんだ。
 勉強は調子の良い時に一気にやるべし。
 お姉ちゃんもそういうタイプだし、平沢家は短期集中型なのかもしれない。
 勉強のタイプにそんな言葉があるのかどうかは知らないけれど。


憂「ん~~」

 充足感と共に軽く伸びをした瞬間、不意に喉の渇きに気がついた。
 いや、喉の渇きを忘れるほど没頭とかどんだけよ、と突っ込みを入れてから、
 私は時計を確認した。 

憂「……」

 三時間も過ぎていた。
 さすがにちょっと休憩を入れようと立ち上がった私は、ついでに、
 ゆいの症状を確認しようとベッドに近付く。

憂「……え?」

 思考が。呼吸が。
 一瞬だけ完全に停止した。

 ゆいが、もがいている。
 苦しそうな顔で、自分の胸を必死に押さえて。
 布団なんか跳ね除けて、激しくのた打ち回るその姿は、痛々しくて直視できない程だった。

憂「嘘……、ゆい? ゆい!?」

 暗然とする。

 噴き出る冷や汗が止まらない。

 悪化しないんじゃなかったのか?

 劣情を持たなければ、大丈夫なんじゃなかったのか?

 慢心していた。
 三日間なんともなかったからって、気を抜いていた。

 二週間で消える――。
 今日は何日目だ? カレンダーを目で追う。
 焦りだけが先行して、今日の日付がなかなか見付けられない。
 ……あった! ……12日目。大丈夫、後二日はある。ゆいはまだ消えない筈だ。

 落ち着け、落ち着け私。
 とにかく、紬さんに連絡を――。

 ピンポーン。

 携帯を手に取ったその瞬間、家のチャイムが鳴った。

憂「こんな時にっ!」

 私は紬さんにコールしながら、慌てて階段を駆け下りる。
 本当は、絶対にゆいから離れるべきではないのだが、
 この時の私には完全に冷静さを欠いていた。


 『――……った電話は、電波の届かない所にあるか、
  電源が入っていないため、かかりません』

憂「なんでっ!?」

 何かあったらすぐ連絡して、って言ってたじゃないかっ!
 いつでも出れるようにしといてよ、役立たずっ!!
 荒ぶる感情を抑えようともせずに、階段を下りきって玄関を目指す。
 勧誘とかセールスだったら玄関にある花瓶で思いっきり脛をどついてやる。

 ピンポーン。

 煩い、一回鳴らせば分かる!
 何度も鳴らすな! ハエのようにうるさいやつね!
 力任せに玄関の扉を開く。

憂「ごめんなさい、今忙しいんで――」

唯「えへへ、着替えを取りにまいりましたー」

 グッバイ リーズン。
 (さよなら、理性)
 ハロー セクシャルディザイア。
 (こんにちは、性欲)


 お肌ツルッツル。活力に満ち溢れた私は、今この瞬間、
 世界中の誰よりも良い顔で佇んでいた。

憂「……って」

 うわぁ、やっちゃった……。
 茫然自失。膝をついて、がっくりと項垂れる。
 胸を支配するのは、悔恨の情と自責の念。
 と、とにかく、ゆいを、ゆいの様子を看に戻らなくては……。
 重い足取りで階段を上る。

 ごめんね、ゆい。
 ごめんね、お姉ちゃん。
 私、最低だ。母親失格だ。妹失格だ。
 だから、お願いお姉ちゃん。私を罵って。罵詈雑言で私を詰って。
 お姉ちゃんに詰られる想像をしたら足取りが軽くなった。

憂「……」

 ちっとも懲りてない己に自嘲する。

 ゆいの安否を確認しに部屋に戻った私は、思わず驚嘆の声を上げた。
 その容態は、意外にも落ち着いていたのだ。

憂「ゆ、ゆい、大丈夫なの!?」

 起き上がることはできないものの、それでもさっきの悶え方が嘘のように、
 呼吸も安定していた。
 その様子に、一先ずは安堵する。
 だけど、この状況……。

憂「……どういう、こと?」

 半ば、諦めていた。
 だけど、ゆいは……なんとも、ない?

 お姉ちゃんや梓ちゃんと距離を置いて、劣情を押し殺す生活を続けて三日間。 
 ゆいの症状は決して回復しなかったし、治まったとはいえ、悪化の兆候も見られた。

 今朝、純ちゃんと話した時、寝ていたはずのゆいが僅かに目を開いた。
 ……お姉ちゃんのことを考えていたから?

 体育の時間の前、元気のなかったゆいは、お姉ちゃんに預ける時、少しだけ元気になった。
 ……その直前に、私がお姉ちゃんに抱きついていたから?

 軽音部の演奏を聴いたあの日の夕刻、疲れて眠っていたはずのゆいが目を覚まして、
 ギターを倒した。
 ……家に帰った直後に、お姉ちゃんを押し倒してその胸に顔を埋めていたから?

 決定打となったのは、今しがたのお姉ちゃんへ愛のコミュニケーション。
 あれだけの色欲を前面に押し出して、ゆいの症状は悪化するどころか、
 寧ろ回復の兆しを見せた。

 ――人形は人の邪な心をその身に引き受ける存在。

 ……そうか。

 紬さんも私も、大きな勘違いをしていた。


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