憂「お姉ちゃん!」 梓「先輩!」

唯「あ、おかえり二人ともー」

澪「お、どうやらお迎えが来たみたいだな」

律「澪、死んじゃうのか?」

澪「そういう意味じゃない!」

律「うっ、うっ……忘れないぞ、澪。私はお前のことは決して忘れな――いででで、
  嘘、嘘、冗談だってばゴメンナサイ澪ちゃん様!」

紬「ほら、ゆいちゃん。お母さんが来てくれたわよ」

 お姉ちゃんの肩に乗るゆいに、紬さんが微笑みかけると、
 ゆいは、満面の笑みを浮かべてお姉ちゃんの頬に抱きついた。

唯「良かったねー、ゆいー。わっ、あはは、くすぐったいってば~」

 ひとしきり抱擁を交わすと、ゆいはお姉ちゃんの髪の毛を引っ張って、
 『降ろして欲しい』とせっついた。

唯「慌てて走ると危ないよー?」

 お姉ちゃんが廊下に屈みこんで、ゆいをゆっくりと地面に降ろす。
 私は、今すぐにでも駆け寄りたい衝動を抑えて、
 ゆいがこちらに走ってくるのを待つことにした。
 歩けるようになった子供を見守る心境って、こんな感じなのかもしれない。

 とことこと走ってこちらに向かってくるゆい。

 ……あれ?

 ――なんか、遅くないか?

 気のせい、だよね……?


 ようやく私のところまで走りきったゆいは、やっぱり笑顔だったけれど、
 私の心の隅に存在していた小さな不安は、徐々にその形を現そうとしていた。


唯「おはよー、ういー」

憂「おはよう、お姉ちゃん。すぐご飯の支度するねー」

唯「ふぁーい」

 欠伸をしながらお姉ちゃんが階段を下りて来た。
 時刻は午前の10時。午後から梓ちゃんが遊びに来ることもあってか、
 頑張って早起きした様子。
 10時を早起きと称するかどうかは、大分怪しいところではあるけれど。

 お姉ちゃんと私とゆい、それに梓ちゃんを交えて団欒を共にできる素敵な休日。
 普段の私なら意気揚々と108通りのセクハラパターンを研鑽しているところではあるが、
 しかし、今日の私は一味違う。
 今日一日、私は鋼の意志をもって自らの情欲を押し殺そうと思う。
 私の劣情がゆいに悪影響を及ぼしている確証はないし、あるとも思っていない。
 だから、あくまでもこれは保険だ。これ以上ゆいの元気がなくなってしまうのは嫌だし、
 念の為というやつだ。
 今まで必要が無かったから抑えてこなかっただけで、劣情なんてものは、
 気持ちの持ち様でどうにでもできる筈なのだ。


憂「それじゃ、私達もご飯食べようか、ゆい」

 二階の掃除、洗濯と大まかな家事を済ませて、肩に乗るゆいに問いかける。
 相も変わらず眠そうにしているゆいが、こくりと頷いた。

 平沢家の朝は基本的にパン派である為、さほど手間はかからない。
 1品。食パンにハムとチーズ、スライスした玉ねぎ、ざくぎりトマトを挟んでトースト。
 2品。少し甘めに味付けしたスクランブルエッグに、
 バターで炒めたほうれん草とベーコンを添える。
 3品。デザートには、すり潰した苺に砂糖を塗して牛乳をかけただけの簡単イチゴミルク。

憂「はい完成」

 手抜きとか言わない。
 作り終えた食事をリビングへと運ぶと、お姉ちゃんが炬燵で丸くなっていた。

憂「お姉ちゃん、出来たよー」

唯「あーい」

 炬燵から頭だけ出したお姉ちゃんが、もぞもぞと這い出てくる。

 嗚呼、今日もそのだらけっぷりがいとおしい。
 夢現で無防備な姉ちゃんの反対側から炬燵に潜り込んで、ピンク色のベロアパンツをずり降
 ろして顔を押し付けたい――っておい、バカ。
 妄想を膨らませたところで首を横に振って、ゆいに視線を送る。
 私と目が合うと、ゆいは劣情とは無縁の天真爛漫な笑みを浮かべた。
 私は僅か20分で崩壊の兆しを見せた鋼の意思を必死に補強した。


唯「美味しいねー」

 もぐもぐと咀嚼しながらお姉ちゃんがゆいに微笑みかける。
 スクランブルエッグをもしゃもしゃと頬張るゆいも、お姉ちゃんに微笑み返す。
 躾に厳しい一般家庭ならば、口の中に物を入れたまま喋るんじゃありませんと叱りつけるの
 だろうけど、平沢家ではその必要は皆無である。

 何故って、そりゃお姉ちゃんとゆいが可愛いからだろう。

唯「……どうしたの、うい?」

憂「え、ううん、何でもないよ」

唯「?」

 いかん、堪えろ。と自分に言い聞かせてお姉ちゃんから目を逸らす。
 私は誤魔化すようにしてスプーンでイチゴミルクを掬い、ゆいの前に差し出した。
 ゆいは、くんくんと匂いを嗅いだ後、それを一口舐める。

憂「美味しい?」

 いつもみたいにこくりと頷くことはなく、ゆいは一心不乱にイチゴミルクを飲み始めた。
 その仕草に、思わず笑みがこぼれる。

憂「そういえば、梓ちゃん来るって言ってたけど、お姉ちゃん達今日は一日家にいるの?」

唯「うん。この前合わせたときにあずにゃんに怒られちゃったから、
  今日は特訓なんだってさー」

憂「そっか、ギターもいいけど勉強もしなくちゃだめだよ? 来週から期末なんだし。ね?」

 ゆいに振ってみるも、イチゴミルクに夢中らしく、
 期待したようなリアクションは得られなかった。

唯「わかってるよ~、ちゃんと勉強も教えてもらうもん」

 勉強なら私が教えてあげるのに……。
 しかし私も一緒に、とは言えない。
 万が一、お姉ちゃんの部屋で梓ちゃんも交えて三つ巴というシチュエーションが成れば、
 私の鋼の意志は揺らいでしまうだろう。
 右に誘惑、左に誘惑、部屋に誘惑、だ。どう転んでも勝てる気がしない。
 だから、例えお姉ちゃんの方から一緒に勉強しようと言ってきたとしても、
 断固ノーと回答しなくてはならないのだ。

唯「憂も一緒にやろうよー」

憂「うん、いいよ」

 お姉ちゃんの台詞からは、目的語が抜けている。
 会話の前後関係から推測するなら、そこに入る言葉は、『勉強を』となる。
 しかし、他の単語が入る可能性とて捨て置けない。
 いかがわしい行為である可能性だって比較的高い。
 ならば答えは断固としてイエスだ。
 私の鋼の意志は、コンニャク並の柔軟性を持っているのだ。

 食事と後片付けを終えてから、私は自分の部屋、
 そしておねえちゃんの部屋の掃除へと移った。
 ゆいはリビングでお姉ちゃんに遊んでもらっている。
 今のところ、私の中の劣情とやらは脳内だけに留まってくれているし、
 部屋の掃除さえ乗り切ればなんとかなるだろう。

憂「……期末か」

 自分の部屋に掃除機をかけながら思考する。
 ゆいに構ってばかりで忘れていたけど、最近全然勉強していなかった。
 お姉ちゃんに促すよりも、まずは自分がやらなきゃ駄目だろう。
 梓ちゃん文系得意だし、教えてもらうことだってできるのだ。
 余計な事は考えず、今日は真面目に勉強した方がいいのかもしれない。

 窓を開けて空気を入れ替える。
 冷たい風が吹き込むが、それでも今日は暖かい。
 冬の柔らかな日差しを浴びて、私は大きく伸びをした。

 二階ではお姉ちゃんとゆいが、今も楽しくじゃれあっていることだろう。
 幸せな日々はこれからもずっと続いていくけれど、休日は週に二回しかないのだ。
 一秒だって無駄にしたくは無い。
 早く掃除を終わらせて、私もその幸せを噛み締めるとしよう。

憂「よーし、やるぞー!」

 気合を一つ入れたところで。
 お姉ちゃんの声が――、驚愕と悲痛の入り混じった声が木霊した。


 平和で幸せな日常は、いつだって唐突に終わりを迎える。
 そこに、私の想いは一切関係がないし、お姉ちゃんの願いも決して通じない。

 階段を駆け上がる音が近付いてくる。
 お姉ちゃんの心と同調するかのように、その痛みが伝わってくる。
 胸のうちに押さえ込んでいた得体の知れない焦燥と、
 言いようの無い不安が急速に膨れ上がった。
 冷や汗が滴り落ちる。

唯「憂! ゆいがっ、ゆいがっ!!」

 振り返ると、お姉ちゃんはもうそこに居た。
 額には薄っすらと汗が浮かんでいて、肩で息をしている。
 愛くるしい大きな瞳に涙を溜めて……、お姉ちゃんは泣きそうだった。
 私はその表情を見て、全てを理解した。

 あの子に何かあったのなら、きっと、それは私のせいなんだ。
 もう、逃れることはできない。

 ……私は、震える心に鞭打って、なんとか言葉を紡ぎだす。

憂「……ゆいが、どうした、の?」

唯「……」

 お姉ちゃんは、私に向けて両手をゆっくりと差し出した。
 戦々恐々としながらも、私はゆっくりと手のひらに視線を落とす。


 ――ゆいが苦しそうに横たわっていた。

唯「ど、どうしよう、救急車呼ばないと……」

憂「駄目だよお姉ちゃん。この子は人形だから、病院ではどうすることもできない」

唯「で、でも!」

憂「紬さんに連絡をお願い」

唯「ムギちゃんに?」

憂「あの人が、一番ゆいの身体のこと解ってると思うから」

唯「……わかった」

 お姉ちゃんは携帯電話で紬さんにコールしながら、一度部屋の外へと出た。
 ゆいをベッドに寝かしつけて、彼女用に作ったフリース生地の布団をかける。
 今も尚苦しそうに布団を握り締めるゆいを見て、私は唇を強く噛む。
 私に出来ることは何もないのか……。


 しばらくして、お姉ちゃんが部屋に入ってくる。 

唯「20分くらいかかっちゃうかもだけど、なるべく急いで来てくれるらしいから」

憂「そう……」

唯「そのまま安静にして、傍にいてあげて、だって」

憂「……うん」

唯「あずにゃんにも、一応連絡しておくよ……。もうすぐ来る頃だし」

憂「……そうだね」

 紬さんと梓ちゃんが家にやってきたのは、それからちょうど30分が過ぎた頃だった。


 前兆はあった。
 昨日の朝から、ずっと眠そうにしていたこと。
 指先でじゃれさせただけで転んだこと。
 私に向かって走る速度が、やけに遅かったこと。
 ゆいが初めて意思を持った日、あの子は私の肩から飛び降りても平然としていた。
 なのに、昨日はお姉ちゃんの肩から飛び降りようとはせず、『降ろして』とせっついた。
 ともすれば、もうあの時既に飛び降りるだけの力が無かったのではないか。

 本当は、私だって気付いていた。だけど、何もしてやれなかった。
 どうすればいいのかが分からなかったから、何もできなかった。

憂「(本当に、そう……なの?)」

 私のせいで、私の劣情の影響を受けて、ゆいは苦しんでいるんじゃないのか?
 さっきよりは落ち着いたようだが、ベッドの上で未だ苦しそうな表情を浮かべるゆい。
 なんとかしてあげたいのに。気持ちばかりが焦る。

唯「ゆい……」

紬「そのドール……、ゆいちゃんが意思を持ったのは、十日ほど前だったかしら?」

憂「……」

梓「私が唯先輩の家に行った次の日からですから、正確には九日ですね」

 思考もまともに働かせられない私の代わりに、梓ちゃんが答えてくれた。


紬「そう……」

 重苦しい空気の中、紬さんが渋面で呟いた。

紬「ちょっと、訊いてもらえるかしら」

 お姉ちゃんと梓ちゃんが、静かに頷く。

紬「意思を持つ傀儡。前例が無かった訳じゃないらしいの。……ドールの関係者に調べさせて、明らかになったことが二つ程あるわ」

 二つ。紬さんはそう述べてから言葉を続ける。

紬「一つ目。精巧に作られたドールは、時として人の魂を宿す。
  どんな想いでも良いのだけれど、その持ち主の意思が強ければ強いほど、
  魂は宿りやすい」

 紬さんはそこで一旦台詞を区切る。

紬「過去にも数体、意思を持ったというドールが居たらしいわ」

唯「……ゆいの友達、他にもいたんだね」

紬「これは過去の話なの。だから今はもう……」

唯「あ……、そっか……」

紬「ごめんなさい、唯ちゃん」

唯「う、ううん! ムギちゃんが謝ることなんてないよ! 
  ……ただ、ちょっとゆいが可哀想だなって」

紬「唯ちゃん……」


梓「それで、ゆいに宿った魂っていうのは……?」

紬「この子の場合、おそらく憂ちゃんの、唯ちゃんに対する想いね」

唯「……憂の、私への?」

紬「ええ、憂ちゃんのシス……いえ、唯ちゃんへの想いの強さは他の追随を許さない、
  尋常ではないレベルのモノだと思うの」

梓「そこは概ね同意です」

唯「そんなに言われるとちょっと照れる……」

 お姉ちゃんの言葉に、場の雰囲気が少しだけ和む。

梓「……えっと、ゆいに宿った魂は憂の『唯先輩への想い』っていうのは分かりましたけど、
  ゆいが倒れたことに何か関係があるんですか?」

紬「梓ちゃん、私は過去の事例を述べているに過ぎないわ」

梓「?」

紬「重要なのは二つ目なの」

 紬さんが語気を強めた。
 何を言おうとしているのかは分からない。
 けれどもう、嫌な予感しかしなかった。
 一秒だってこの場に居たくない。その言葉の先を、訊きたくない。

紬「二週間」

唯「え?」
梓「え?」


 お姉ちゃんと梓ちゃんの声が重なる。


紬「――魂を宿らせたドールは、一件の例外もなく、二週間後に心を失っている」


 心を――なんだって?

 二週間で。

 不意に、視界が滲む。

 ――失うと言ったのか?

憂「嫌……」

梓「……」

憂「そんなの嫌だ……」

紬「……」

憂「嫌だよ……」

唯「憂……」

 崩れるように床にへたり込んで、精一杯ゆいを抱きしめる。
 頬を伝う涙を拭うことも忘れて嗚咽を漏らす私に、
 ゆいはその小さな手を懸命に伸ばそうとする。

 『どうして泣いているの? 泣かないで、うい』

 言葉は伝わらなくても、気持ちは伝わっている。
 本当に苦しいのは私じゃないのに。
 辛くて仕方ないのはゆいのはずなのに。

梓「……」

紬「……」

唯「ねえ、ムギちゃん」

紬「なにかしら?」


唯「まだ二週間が過ぎるまで五日もあるよ? 
  なのにどうして、ゆいはあんなに苦しんでるの?」

紬「……」

唯「ゆいが苦しんでいるのは、他の要因があるような気がするんだけど」

憂「!」

 邪気の無い言葉の一つ一つが、棘となって私の心を穿つ。
 その傷口から侵食されていくかのように、胸に、どす黒い何かが広がった。
 紬さんは警告してくれていたじゃないか。
 なのに、私はそれを気にも留めなかった。
 ゆいをここまで苦しめて、追い詰めているのは……、他ならぬ私自身だ。

紬「それは……」

梓「ムギ先輩、さっき一件の例外なく、って言いましたけど」

 口篭る紬さんに、今度は梓ちゃんが問う。

梓「意思を持った例が数件、つまり数える程しか無かった訳ですよね。
  それなのに二週間でゆいが消えるなんて、決め付けるのは早くないですか?」

紬「……」

梓「前例が無かったら諦めなきゃいけないんですか? 
  消えてしまうのは仕方ないから黙って見てなきゃいけないんですか?」

唯「あずにゃん……」


梓「おかしいです、そんなの。私は唯先輩や憂みたいに、ゆいとずっと一緒にいた訳じゃない
  けど、二人に負けないくらい、ゆいのことが好きなんですよ」

憂「……」

梓「だから私は、諦めたくない。
  何ができるかわからないけど、何もせずに後悔はしたくない」

紬「梓ちゃん。さっきも言ったけど、私は前例を述べたに過ぎないわ。
  諦めろだなんて思ってないし、私だって、この子に消えて欲しくなんかない」

梓「え、それじゃあ……」

紬「私も出来る限り協力するわ。ゆいちゃんが心を失わなくても良い方法を探してみる」

梓「ムギ先輩……」

 梓ちゃんは、紬さんの名前の後に何かを呟こうとして、結局口をつぐんだ。
 そして蹲る私の視線の高さまで屈み込むと、優しく背中を叩いてくれた。

梓「ほら、憂。ムギ先輩もああ言ってくれてるんだから、泣いてる場合じゃないよ。
  ポーカーフェイスでセクハラに及ぶいつもの憂はどこにいったの?」


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