「唯、美濃を取りましょう」
その日、和は重臣を集めた場で美濃攻めを提案した。
美濃は東西交通の要所として古くは南北朝時代にもその支配を巡って争われ、「美濃を制する者は天下を制す」とまで言われた地である。
上洛を果たすには、何としても手に入れたい地ではあった。
しかし美濃を治めるには、鈴木家の城、稲葉山城を攻める必要がある。
「今の鈴木家の当主、鈴木純はたいしたことがないみたいだけど、この稲葉山城はやっかいね」
和は地図をにらみながらそう言った。
稲葉山城は金華山の上に立つ山城で、城へと至る道はどこも険しい。
まさに難攻不落の城である。
しかも平沢家が居を構える尾張小牧山城から美濃へは遠く、どこか近くに砦を築く必要があった。
「長良川の西岸、墨俣あたりに砦が欲しいのだけれど……」
和はそう言ったが、発言が尻すぼみになったのは、相手も墨俣の重要性は認識しており、そこに砦を築くのは不可能に思えたからだ。
「あの、私がやります! やってやるです!」
おもむろに立ち上げり、梓はそう宣言した。
「梓ちゃん?」
憂は立ち上がった梓の方を見る。
しかし他の家臣達は、
「またゴキにゃんのご機嫌取りだよ……」
「ちょっと気に入られてるからって調子に乗りやがって……」
「まぁいいさ、どうせ失敗するだろ……」
と、陰口をたたいた。
憂と和が家臣達をたしなめようとしたが、梓はそれを制す。
もともと身分も低く、唯に拾われるようにして家中に入った身だ。
唯はあんな性格だから身分のことなど気にしないが、他の代々平沢家に仕えてきた家臣達は梓のことをよく思っていない。
それどころか、梓の髪型がゴキブリの触覚に似ていることから「ゴキにゃん」と呼んで馬鹿にしているところがあった。
これが良い機会になる。
ここで大きな手柄を立て実力を示せば、他の家臣達も納得してくれるだろう。
梓はそう思い、「やってやるです!」と意気込んだ。


「あずにゃ~ん!」
すりすり。
唯は梓にほおずりをする。
「や、やめてください、唯先輩」
「うぅ、あずにゃんのいけずぅ……」
落ち込むフリをする唯を憂が「よしよし」と慰める。
「梓ちゃん、気をつけてね」
「憂も唯先輩のこと、よろしくね。言わなくても大丈夫だろうけど……」
「そうだよあずにゃん、気をつけて行って来てね? 美濃はあっちだって和ちゃんが行ってたよ。あっちだよ、あっち。迷子にならないようにね?」
「唯先輩、美濃はあっちじゃなく、そっちです……」
「え? おかしいなぁ、和ちゃんが右手であっちだって……」
「確かに城からは右ですけど、ここからだと左の方角です」
「ええ!? そうなの!?」
「はぁ……とにかく行って来ます」


しかし梓は直接墨俣には向かわず、まずは長良川の上流に向かった。
墨俣に長時間滞在し、砦を築くのは敵の監視の目もあり不可能だろう。
だからまずはここで先に木を切り、筏にして暗闇に紛れさせ下流の墨俣まで流し、筏として組んだものを骨組みとして一挙に建てる作戦である。
要はプレハブ小屋を造る要領なのだが、当然この時代にそんなものは存在しない。
梓のこの作戦は大当たりし、鈴木家の軍勢が到着する前に何とか砦が完成した。
「それ何?」
到着した純は即席の砦を前に怪訝な表情を向ける。
「砦だけど」
と、梓。
「槍先遠のいたぁ!」
もともと城攻めには、寄せ手は城方の3倍の兵力がいると言われている。
たとえそれが即席の砦であっても、落とすのは容易ではない。
梓は純の率いる兵を難なく退け、後詰めの兵を墨俣一夜城へ入れると堂々凱旋した。


その後唯は、この墨俣一夜城を足がかりに美濃稲葉山を攻め落とす。
もちろんここにもいろいろとあったのだが、殊更書き記すべきことはないのでひとまず割愛しよう。
さて、稲葉山に入った唯は和からこの地の改名を進められる。
和が出した案はこうである。
「岐」の字は、周の武王、岐山より起こり天下を定むの故事から。
「阜」の字は孔子生誕の地である曲阜から。
「岐阜」。
すなわち天下太平と学問の中心地としての意味合いを持った地名であった。
「ギー太だね!」
「違うわ、岐阜よ、唯」
「岐阜だから、ギー太なんだよ!」
「意味がわからないわ、唯」
和と唯が地名について喧々囂々と議論をしていると、血相を変えたムギが飛び込んで来た。
「大変よ、唯ちゃん! 田井中さんが来たの!」
「ド田舎さん?」
「うぃーっす。平沢さん、いる?」
「誰?」
唯はけだるそうに入って来た御仁を見つめる。
「あ、あたしか? あたしは、田井中律。律でいいよ」
「私は平沢唯。私も唯でいいよ、りっちゃん」
「お、お姉ちゃん!?」
あまりに親しげに律と話す唯に驚いたのは憂である。
田井中家といえば、武家の頭領たる将軍家である。
いくら力を失ったとはいえ、まして律はまだ将軍の座についていなかったが、腐っても鯛。
田井中家は未だ厳然とした発言力と力を有している。
その旨を憂は唯に慌てて説明したが、唯の態度はさして変化することはなかった。


「りっちゃん将軍! 何かご用でしょうか?」
もちろんこの時律は将軍の座に就いていないのだから、「りっちゃん将軍」というのは間違いである。
「ああ、用って程のことでもないんだけどさ……。澪?」
律は付き従っている黒髪の少女に続きを促す。
「平沢さんには、上洛をお願いしたい」
「あ、澪ちゃん? も唯でいいよ。あと、上洛って何?」
この発言にはさしもの律も驚いた。
隣の澪に。
「なぁなぁ澪、ホントに大丈夫なのか? 上洛って何? だぞ……」
「私も不安になって来た……」
「おい、澪だぞ。何かすごそうな奴だって言ったの……」
「だって……南蛮とも積極的に貿易してるって言うし……」
「南蛮と? この調子だとお菓子でも輸入してるだけじゃないのか?」
「……ありうる……」
律と澪がひそひそと話している間、唯と憂も密かに話していた。
「上洛っていうのは、京都に行くことだよお姉ちゃん」
「京都に? 何だ、簡単じゃん!」
唯はこう言ったが、律を将軍として奉戴し、上洛するということはすなわち、将軍家を後ろ盾として天下に号令する力を得ることになるのだ。
それをみすみす他の大名家が見過ごすとは思えない。
「ところで唯」
澪は本題に戻す。

「ひとまず岐阜に御所を造って欲しいんだ」
「何で? だって京都に行くんでしょ?」
唯はさも当たり前のように答える。
「な、何でって……。すぐに上洛するわけじゃないだろ、だから私たちの住む処を……」
「え? すぐ行かないの?」
あまりの唯の軽さに律も不安を覚える。
「いや、すぐ行けるなら行きたいんだけどなぁ……」
「じゃあ、すぐ行こうよ!」
「行くっても唯、旅行じゃないんだぞ。そんな気軽に……」
「大丈夫だよ、りっちゃん! 私にまかせてよ!」

数ヶ月後、唯は言葉通りあっさりと上洛を成し遂げてしまう。
「京都やで!」
帝より正式に征夷大将軍に補任された律は意気揚々と、今回の立役者である唯に話しかける。
「京都だね、りっちゃん!」
「京都に来たら、関西弁でしゃべるんやで」
すっかりと打ち解けた様子で話す二人を横目に澪は一抹の不安を覚えていた。
今回の一件で、ますます唯の声望は高まった。
唯本人はこの調子だから、将軍となった律を利用したりするようなことはしないかもしれない。
しかし天下はどう見るか。
おそらく律の力よりも、唯の力を畏れるだろう。
そうなれば、図らずも律は傀儡将軍となってしまう。
もしそうなれば……。
万一の時は私が唯を……。
澪の心中とは裏腹に、京都の空は天下の中心となった律と唯の間に爽やかな風を送った。

「どうしよう、和ちゃん!?」
上洛に乗じ畿内を制圧した唯は、安土に城を築いた。
そして今日は出来上がった肖像画が届く日である。
「いいじゃない、唯っぽくて」
和は前髪の無くなった唯の絵を見て言った。
「私っぽい? 私っぽいって何!?」
「子供っぽいってことかしら」
「がーん! 肖像画だよ!? 一生、ううん、500年後も残るかもしれないんだよ! もし将来私が教科書に載ることになったら、『先生、この人前髪変だね』って落書きされちゃうかもしれないんだよ!?」
「いいじゃない、記憶に残って」
「違うよ! そうじゃないんだよ!」
と、唯は必死に訴えたが聞き入れられない。
今や「尾張の池沼殿」は「天下の知将殿」になっていた。
ついこの前も、南蛮から輸入したアイスのおまけで集めた鉄砲を三段に用い、時代が変わったことを知らしめたばかりである。
唯の天下統一は目前となり、ムギは北陸へ、梓は中国へ出兵している。
そんな唯に、時間があろうはずもなく、和によって肖像画の描き直しはあっさり却下されてしまった。
「お願いだよい、和ちゃん。そうだ、あずにゃん、あずにゃんに描いてもらうから」
「ダメよ、ちゃんとした絵描きに描いてもらわなきゃ」
「じゃあ、あずにゃんを絵描きにするから!」
「そう、じゃあ私、四国行くね」

和が四国へと立った後、唯は京は本能寺へと向かう。
京にいる律と会談をするためである。
「憂、久しぶりの京都だねぇ」
「そうだね、お姉ちゃん」
今や天下の統一まで後一歩のところまで来た唯である。
梓やムギ、それに和は各方面の司令官として散っておりなかなか会う機会がなくなってしまったのは寂しくあったが、ようやく夢がかなう。
唯はそこまで来ていた。
「そう言えばお姉ちゃん」
「ん?」
「お姉ちゃん、変わったね。いつもゴロゴロしてたのに、今は何か輝いてるよ」
「そうかなぁ」
もじもじと照れる唯に、憂は思い切ってあのことを尋ねる。
「ねぇ、お姉ちゃん。何で天下布武なんて言い出したの?」
「ああ、あれはねぇ……」
唯はゆっくりと、しかしかみしめるように語り始める。
あの日、和に言われたこと。
そんな中、梓と出会ったこと。
そして梓のような人を救いたいと思ったこと。
……いや、救いたいという表現は唯の思いを正確に表してはいない。
救うのではなく、無くしたいと思ったという方がより正確だろう。
「一生懸命頑張ります!」
その言葉通り、唯はあの日から一生懸命頑張って来た。
そんな姉の姿を見て、憂もいつしか姉の思いを実現させてあげたいと思うようになってきた。
もし後世の史家が平沢唯という希代の英傑の話を書こうと思えば、そこに憂の名が書かれることは無いのかも知れない。
だが、陰となり唯を支えて来たのは間違いなく憂であった。
「お姉ちゃん、あとちょっとだね」
憂は今や英傑と呼ばれるに何ら遜色のない、しかし昔と変わらない姉に寄り添いながら京へと歩みを進めた。


京都本能寺。
「りっちゃん将軍! お元気でありましたか!?」
「おっす唯、久しぶりだな。こっちは元気でやってたぜ。な、澪?」
「……ん? ああ、そうだな……」
「どうしたの澪ちゃん? 元気ないみたいだけど」
「唯……いや、何でもないんだ、何でも……」
「そう? ならいいんだけど……」
澪の沈んだ様子に、律も声をかける。
「どうした澪? 具合でも悪いのか?」
「……ああ、そうなんだ……ちょっとな……」
「大丈夫か澪? 早めに帰るか?」
「いや、私のことは気にするな……」
「気にするなっておまえ……。しゃねーなー。悪い唯! ちょっと澪の奴具合悪いみたいだから、あたしら先帰るわ。せっかく来てもらったのにごめんな!」
「ううん、気にしないで。澪ちゃんの看病をしてあげてよ」
「悪いな。またな!」
「うん、お大事にね」

律は澪の肩を支えながら本能寺を出る。
「……おまえ、仮病だろ?」
本能寺を出てしばらく、律は澪に問いかけた。
「……バレてた、か……」
「何年付き合ってると思ってるんだ。何だ、悩み事か? あたしでよければ……」
「いや、律には関係ないんだ!」
澪はすぐに否定した。
「なんだよ、そうかよ! じゃあ勝手にしろ!」
「……すまん、律……」
澪は去ってゆく律の背中を見ながらそう呟いた。


翌朝のことだった。
備中にいた梓の陣に、一人の密偵が引っ掛かる。
「平沢唯、京都本能寺で討たれる」
その密偵はにわかに信じがたい密書を持っていた。
開いた梓の顔がとたんに白くなる。
そんな梓の様子を見ていた、いつのまにか何となく家中に潜り込んで家臣となっていた純が梓に問いかける。
「どうしたの梓、ますます日本人形みたいな顔になってるよ」
そんな純の問いかけにも答えず梓は、
「唯先輩が……唯先輩が……」
とひたすら繰り返す。
「憂のお姉ちゃんって面白いよね」
そう言った純だったが、ただならぬ梓の様子に梓の肩をぎゅっとつかむ。
「梓! 梓ってば!」
「……あ、純……」
まるでそこに純がいたことを今気付いたかのような呆けた梓の返事。
「どうしたの梓」
「……唯先輩が……」
「憂のお姉ちゃんはわかったから」
「……唯先輩が討たれた……どうしよう、純!」
「え!? 討たれたって憂のお姉ちゃんが!?」
「そう……」
「いやいやいや、ありえないでしょう」
否定する純に、梓は先ほどの密書を差し出した。

梓はかつて自分を拾ってくれた唯のことを思い出す。
もしあの時唯先輩に出会っていなければ、どこかでのたれ死にをしていたか……。
今はこうやってひとかどの武将としてやっているが、仕えたのが唯先輩でなければ……。
「じゃあ、あずにゃんだね!」
そう言っておぶってくれた時の。
「あずにゃ~ん!」
墨俣築城のおり、唯先輩がそう言ってほおずりをしてくれた時の。
唯先輩のそれぞれのぬくもりを思い出す。
「……唯先輩……もう抱きついてきても怒りませんから……唯先輩……」
梓は肩をふるわせながら、こぼれ落ちるままに涙を大地へと染み込ませ続けた。

「梓、今度は梓が天下を狙う番だよ……」
純は未だ泣き止まぬ梓に静かに告げた。
それがどんなに残酷な言葉であるのか、純にもわかっていた。
「梓の番」、すなわち梓の慕った唯の死を認めることになるのだから……。
「梓、泣いていてもしょうがないよ……。ま、私はどっちでもいいんだけどさ、ほら、唯先輩との夢がさ……」
そんな純の言葉に梓の目にようやく涙以外の光がともる。
「純……」
それからの梓の動きは速かった。
まさに疾風迅雷。
備中の陣を引き払うと、昼夜を問わず京を目指した。
街道に灯させた松明を横目にただひたすらに駆ける。


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最終更新:2011年03月12日 04:07