時はたぶん戦国時代。
陰謀渦巻き、血の繋がった親類ですら信用できない時代。
長子相続の原則はあったものの、その長子に力が無いと見なされれば、下の者が上の者を克す。
すなわち下克上がまかり通る世の中であった。
ここ尾張を支配する平沢家もそんな世の例に漏れず、家督相続を巡る姉妹の対立で大きく揺れようとして……。
いなかった。
というか、対立すらおこらなかった。


できの悪い姉。
できの良い妹。
日頃からゴロゴロしてばかりいるため家臣からは「ニート候補」、民草からも「池沼殿」と軽んじられる姉・平沢唯と、「よくできた妹」「姉の良いところを全部吸い取った」と評判の平沢憂。
本来なら、妹の憂が家督を相続しそうなものだが、「お姉ちゃんはやればできる子!」と言ってあっさり跡目争いから降りてしまったのである。


しかし困ったのは平沢家家臣団である。
当主となった唯は周辺国の様子を他所に、ひたすらゴロゴロばかりしている。
このままでは平沢家はおろか、自分達の未来も無い。
そこで平沢家筆頭家老、真鍋和の元に相談を持ち込むも、子供の頃に唯が和の屋敷の湯殿をザリガニでいっぱいにした話をされ、「心配ない」とあっさり追い返されてしまった。

そんな家臣の不安を他所に唯は、今日も領内を無為に歩き回っていた。
「うんたん♪ うんたん♪」
得意の拍子を取りながら唯は、今朝和から言われた「このままじゃニートになっちゃうわよ」と言われたことを思い出していた。
なにかしなくちゃ。
そう思うものの、何をすればいいのかわからない。
「う~ん」
腕を組んで首をひねって考えるも、皆目検討がつかない。

「こらっ! 泥棒猫!」
突然唯の後方からそんな声が聞こえてきた。
「ふみゅっ」
考え事をしていたからだろう。
振り返ったひょうしに唯は尻餅をついてしまう。
そんな唯の横を通り過ぎようとした少女の髪の毛が、さっき怒鳴ったであろう男に掴まれる。
「こいつ、ゴキブリみたいな頭をしやがって!」
男は髪を二つに結んだ少女の手から大根を引き抜くと、その少女に殴りかかろうとした。
そんな二人の様子を見ていた唯は慌てて止めに入る。
「ま、待った!」
そもそも男が領主である唯に挨拶すらしなかったのは唯の存在に気づいていなかったからなのだが、気づいてからも男のたいして変化しなかった。
「これはちしょ……お殿様」
男は「池沼殿」と言いかけて、慌てて言い直す。
唯も何か言いかけたことはわかり、何と言い間違えたのだろうと首をひねったものの、
「おまえ、殿様ならさっさと助けろです!」
との、少女の言葉に、あっさり思考を遮られる。

「か、かわいい!」
少女を見た唯は、思わずそう漏らす。
「おじさん、この子を許してあげてください!」
次の瞬間、唯は殿様とは思えない態度で謝った。
面食らったのは男の方である。
いくら池沼殿とはいえ、一国を支配する主である。
「ま、まぁ、殿様がそこまで言うなら……」
と、渋々ながらも引き下がった。

一方、残された少女の方も唯の態度に面食らっていた。
この少女も、貧しいながらも戦国を生きる者である。
下克上がまかり通る世の中にあって、上の者が下の者にあんなにあっさり謝るなどあり得ない。
この殿様はよほどのバカか、よほどの大人物か……。
そう少女が思案していると、
「じー」
唯の視線に気づいた。
「な、何ですか?」
少女がそう言うと、
「名前は?」
「歳は?」
「好きな食べ物は?」
唯は矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「な、中野梓、です……」
「じゃあ、あずにゃんだね!」
少女が名前を名乗ると同時だっただろうか、唯は間髪入れずにそう言った。
「あ、あずにゃん?」

この殿様はバカだ。
梓はそう判断した。
しかしバカとはいえ、殿様は殿様。
利用する価値はある。
「あ、あの……」
梓が何か言いたそうにしているのを見た唯は、「何?」とにっこり問いかける。
「あ、あの……ぞ、草履を……あた、暖めてあげます!」
「草履?」
梓の突然の申し出を不思議に思った唯は、梓の足下を見る。
裸足だ。
しかも泥だらけで、生傷も見て取れた。
唯も本当のバカではない。
さっき大根を盗もうとしたことといい、この少女が困窮した生活を送っていることが見て取れた。
「うん、なら私がおぶってあげるよ! 任せて、あずにゃん!」
「え、ええ!?」
草履をよこせという話が何故おんぶしてあげるという話になるのだろうか。
梓は、やっぱりバカだ、この殿様はバカ殿だ、そう思った。
「え、いや、そういうことじゃなくてですね……」
「大丈夫だよ、あずにゃん、お城までおんぶしていってあげるよ!」
唯は「ふんす」と鼻息も荒く、自信満々に答える。
こうなったらお城まで行くしかない。
そして頃を見て逃げだそう。
そう、こんな殿様の国なんて、いつ他国に攻め滅ぼされるかわかったものではないのだから……。
梓は唯の背中におぶさりながら、そんなことを考えた。


「というわけで、天下布武を目指すことにしました!」
城に帰った唯は、憂と和を前にそう高らかに宣言した。
もちろん唯の背中には泥だらけの梓がいて、唯の着物も梓の泥が付着して汚れている。
そんな姿の唯が突然「天下布武」と言い出したのだ。
まして日頃からゴロゴロしていた唯である。
「唯、あなた何か策はあるの?」
和はそう唯に尋ねた。
「え? 無いよ。でもみんなで頑張ればきっと大丈夫だよ!」
和は痛み出した頭を押さえながら、「こんな子が当主で大丈夫かしら、平沢家……」と思っていた……。


「ところでお姉ちゃん、その背中の子は?」
「あ、この子はあずにゃんだよ!」
「あ、あずにゃん?」
不思議そうな顔をする憂に梓は。
「……中野梓です。あの、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた。
「あ、私は妹の平沢憂です。よろしくね、梓ちゃん」
あ、そうだ、と憂は、
「私、お風呂を沸かしてくるね」
と手際よく駆けだしてゆく。

そんな憂の姿を見た梓は、この二人は本当に姉妹なのだろうか。
それに先ほどの唯の「天下布武」という言葉。
どこまで本気なのだろうか。
力さえあれば天下を取ることもできる戦国の世。
しかしここ尾張は小国である。
天下なんか取れるわけが……。
梓はそう思うと同時に、もしかしたらあるいは……。
そうも思った。
唯は民草からも「池沼殿」と呼ばれるようなバカ殿にしか見えない。
天下取りはバカが見る夢――。
「天下布武」を目指すと答えた唯の目は真剣そのものだった。
そういえば……。
「お姉ちゃんの背中、暖かかったでしょう?」
風呂に入る前、憂がそう言っていたことを思い出す。
ここに留まってみるのも面白いかもしれない。
梓は憂の沸かしてくれた湯につかりながら、そんな風に思うようになっていた。


「憂、唯先輩は!?」
梓が平沢家に仕え始めてからしばらく後、駿河・遠江・三河の三国を治める琴吹紬が駿府から兵3万を発したとの報が入り、尾張はにわかに殺気立っていた。
琴吹家と言えば、血筋は将軍家に連なり、紬自身も東海一の弓取りとも呼び名される、天下に最も近い大名家である。
そんな琴吹家の軍勢が刻々と尾張に迫っているというのに、朝から唯は行方不明であった。
「大丈夫だよ、梓ちゃん」
梓の焦燥とは反対に、憂は落ち着き払っている。
しかしお家存亡の危機に、当主がいないという状況に平沢家家臣団は浮き足立っていた。
籠城か野戦か。
大軍を擁する琴吹家に野戦で挑むは、むざむざ死にに行くようなもの。
ならば籠城で少しでも時間をかせいで……。
平沢家の大勢は籠城策に傾いてはいた。
後は当主の唯が一言「籠城」とさえ言えば、籠城に決まるだろう。
だが、その肝心の唯がいない。
「池沼殿は怖じ気づいて逃げ出したのだ」
公然と唯を非難する声も家臣団からは上がっていた。

「うんたん♪ うんたん♪」
にわかに奥の襖が開くと、唯はいつもの節を取りながら上座に着く。
奥に座っていた憂と和はさっと頭を下げたが、多くの家臣は、
「存亡の危機だというのに何をのんきな……」
「やはり池沼殿だ、この危機がわかっていない……」
と、落胆と軽蔑の眼差しを唯に向ける。
「唯先輩! どこに行ってたんですか!?」
梓も唯に詰め寄る。
「あ、あずにゃ~ん!」
唯はいつものように梓に抱きつくと、
「あずにゃん、お外行こ、お外♪」
と言って梓の手を引き、
「憂も一緒に行こう♪」
と、憂の手も引き、あっさりと野戦に決めてしまった。

確かに唯の判断は正しい。
援軍が期待できない以上、籠城をしてもせいぜい時間稼ぎにしかならないだろう。
まして兵力差があまりに大きすぎる以上、時間稼ぎにも限度がある。
となれば打って出る以外に勝ち目はないのだが……。
「唯先輩、いいんですか?」
梓は唯に従いながら、そう尋ねた。
引き連れて来たのは2千ばかりの兵だ。
「ん? 大丈夫だよ、お城は和ちゃんがいるから」
「いえ、そうじゃなくて……。打って出て勝ち目はあるんですか?」
「う~ん、どうかなぁ」
あまりに頼りない唯の返事に、梓はがっくりと来た。
「あ、そうだ憂」
「なぁに、お姉ちゃん?」
「ムギちゃん達、今どの辺にいるの?」
「うんとねぇ、田楽狭間だよ」
「よし、じゃあ、そこに行こう!」
「あの、唯先輩? ムギちゃんって誰ですか?」
唯と憂のやりとりが終わったのを見て、梓はそう尋ねた。
「ん? ムギちゃん? えっとねぇ、琴吹紬ちゃんでしょ? だからムギちゃん、なんだよ、あずにゃん!」
「ぷっ」
さも名案を思いついたかのような唯の口ぶりに、梓は思わず吹き出した。
敵にまであだ名(?)をつけるなんて、唯先輩らしい。
梓はそんな唯を見ながら、初めて「あずにゃん」と呼ばれた日のことを思い出していた。


田楽狭間。
雨も降り出し、休息を取っていた琴吹家の隊列は縦に伸びきっていた。
「唯先輩、これを狙ってたんですか?」
確かに琴吹家は3万の大軍を擁している。
しかし縦に狭い道を進軍すれば、隊列は細く縦に伸びざるを得ない。
ここを横から奇襲すれば、少ない軍勢でも対等に戦える。
「うんとねぇ、昔蟻さんの行列を見てたんだ。そしたら、蟻さんはたくさんいるのに、私の目の前を通る蟻さんは一匹だけだったんだよ! すごいよね!?」
たぶん唯が言っている「すごい」は、そこからこんな作戦を思いついて「すごい」ではない。
もっと単純に、そんな蟻の動きが「すごい」という意味での、蟻に対する「すごい」、だ。
「ええ、すごいです」
梓は唯に対して「すごい」と言った。
「そうだよねぇ、蟻さんはやっぱりすごいんだよ、あずにゃん!」
梓にとっては、いや、多くの凡人にとっては、そんな蟻の動きなど当たり前のことでしかない。
しかし唯はその当たり前を見逃さずに観察し、こうして作戦を思いついた。
「ね、お姉ちゃんはやれば出来る子だって言ったでしょ?」
憂は誇らしげな顔で梓に言った。


数刻後。
唯の仕掛けた奇襲は見事に成功し、大混乱におちいった琴吹家は、縦に伸びきった戦列から本陣への救援もままならず、3万を数えた軍勢もわずか2千の軍勢にあっさり敗れた。
「何も言うことはないわ……」
捕らえられた琴吹家当主琴吹紬は、唯の前で静かに言った。
「えっと、あなたがムギちゃん?」
唯の問いかけに紬は不思議そうな顔をする。
「あ、えっと、琴吹紬ちゃんだからムギちゃんなんだよ!」
紬は、これが東海一の弓取りと呼ばれた自らを破った敵の大将なのだろうか、と疑問に思った。
尾張の池沼殿。
そう呼ばれる唯をあなどり、油断があったことは否定しない。
だが、あの鵯越の逆落としを思わせる見事としか言いようのない奇襲。
それを指揮したであろう平沢唯という武将。
その唯を目の前にして、紬は落胆していた。
「あ、私は平沢唯。唯って呼んでね」
敵の総大将を前に、威厳のかけらもない。
「そう、平沢さん……」
紬はそう言うと、静かに唯の前に首を差し出した。
「違うよ、ムギちゃん! 唯だよ! 唯ちゃんって呼んでよぉ~」
そう言うと、唯は突然鼻をひくつかせ始めた。
くんくん。くんくん。
「ねぇ、ムギちゃん、この匂い何?」
唯はあたりの様子を探るようにきょろきょろとしながら、紬に尋ねる。
「ケーキよ、唯ちゃん。みんなで食べようと思って持ってきたんだけど……」
「ケーキ!?」
「そう、南蛮のお菓子」
「お菓子!? ねぇ、ムギちゃん、ケーキ貰ってもいい?」
「ええ、全部あげるわ」
「ホントにぃ~! やった~! ねぇねぇ、あずにゃん、憂! ケーキ! ケーキ貰ったよ!」
唯の無邪気すぎる態度に、唯の後ろで控えていた二人も呆れ気味だ。


すると唯は突然。
「ねぇ、ムギちゃんも一緒に食べよう♪」
最期の晩餐のつもりだろうか。
そう言って唯は、紬にもケーキをすすめる。
「ちょ、唯先輩!」
あまりの唯の姿に、たまらず梓が呼びかける。
「ん? どうしたの、あずにゃん?」
「どうしたのじゃありません! 早く首を!」
「首? 首じゃなくてケーキだよ、あずにゃん」
「だから、そうじゃなくって……。合戦で勝った方が負けた方の首を取るんです!」
梓が特別残酷なわけではない。
この時代では当然のことを言ったまでだ。
その証拠に紬も、「大変ね……」という表情を梓に向けている。
「え~!? だってムギちゃんはケーキをくれたんだよ! 悪い子じゃないよ、良い子だよ!」
この唯の言葉にはさすがに紬も驚いた。
タチの悪い冗談かとすら思った。
この時代、大義があろうがなかろうが、勝った方が正義なのである。
まして相手は自らを滅ぼそうとした敵。
ここで情けをかければ、今度は自分がやられるかもしれない。
だが唯の瞳は真剣そのもので、とても冗談とは思えない。

「本気なの、唯ちゃん? 私は唯ちゃんを攻めようとしたのよ?」
紬がそう言っても、唯の考えは変わらなかった。
「ムギちゃん、友達になろうよ」
「お友達?」
「そう、友達だよ」
人なつっこい笑顔を向ける唯を眺めながら紬は思った。
なるほど、人が「池沼殿」と呼ぶのも無理はない。
あまりにあけすけで、自らの愚を隠そうともせず。
素直で正直で。
おおよそ時代権謀術数には向かない性格だが、信念だけは曲げない。
もしこの乱れた世を直せる人がいるのだとしたら、それは唯ちゃんみたいな人なのかもしれない。
いや、唯ちゃんのような人にこそ天下人になってもらいたい。
「私の負けね……。ふふっ、一緒にケーキを食べましょう、唯ちゃん」
その紬の言葉を聞いた唯は、
「うん♪」
と、最大級の笑顔を紬に向けた。

後に桶狭間の戦いと呼ばれるようになる先の合戦で琴吹紬を破ってしばらく後。
尾張一国を支配するだけだった平沢家は、琴吹家当主だったムギを人質に同盟を結んだ。
事実上琴吹家を属国にし、駿河・遠江・三河を支配する大大名へと一挙に成長したわけである。
というのは、事実を元にした対外的な印象だろうか。
実際のところは、ムギは自ら進んで尾張に入り、唯への臣従を申し出た。
しかし唯はそれをよしとはせず、同盟という形にこだわった。
困ったムギは、唯の元に留まり、人質となることで事実上の臣従ということになったのだが……。
「ムギちゃん、今日のおやつはなぁに?」
「今日はカステラよ、唯ちゃん」
おおよそ人質とは程遠い、のどかな日常を送っていたのである。

「私、唯先輩がよくわかりません……」
梓は和にそう打ち明けた。
「私も唯がわからなくなることがあるわ。あの子時々、私たちの理解を超えたことをするでしょう?」
「それ、わかります……」
もしあの時唯がムギの首を取っていれば、何年にも渡る琴吹家の旧領をはぎ取る戦が始まっていたかもしれない。
しかし唯がムギの首を取らなかったことで、労せずして3カ国が手に入ったのだ。
憂は「お姉ちゃんはやっぱりすごいでしょ~、えへへ」と言っていたが。
「やっぱり唯先輩はよくわからない……」
結局梓には唯がすごいのかすごくないのかよくわからなかった。


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