引っ越してから一週間以上たった。
新しい環境にもなれ、後は入学式を待つのみだった。

もっとも、私が落ち着いていられるのは三つの理由があるからだった。

ひとつは、唯ちゃん、りっちゃん、澪ちゃんの存在。
みんなこっちへ越してきて、一緒に小物などを買いにった。
私はあまり買うものはなかったのだけれど、みんなでお茶わんやカップを選んだりととても楽しかった。
皆が私が選んだものを買ってくれた時、私はすごく嬉しかった。

買い物が済むと、私たちは決まってあるところへ行った。
りっちゃんと澪ちゃんの部屋。
2人は一つの部屋(といっても、二人に一つずつの部屋とダイニングキッチンの3部屋がある)をかりて一緒に住んでいた。
私にはわからないけれど、このほうが家賃が少なくいい部屋に住めるのだそうだ。
りっちゃんは澪の一人暮らしなんて危ないからなーと言っていた。

でも、それだけじゃないんだろうな。

私は2人が羨ましかった。
お互いを必要とする関係。
ふと、梓ちゃんの顔が浮かぶ。
梓ちゃんも、私を必要としてくれるのかな……

皆といると、私は笑顔になる。
皆も、笑顔でいる。
それだけで嬉しかった。

もう一つは、梓ちゃんの存在だった。

私が引っ越した日から、夜に梓ちゃんと電話をするのが日課になっていた。
始めに電話をかけたのはどちらからだったか忘れてしまったけれど、今はかけるのは私から。

色んな事を話した。
軽音部に憂ちゃんと純ちゃんが入ってくれたこと。
純ちゃんが唯ちゃんみたいで世話がかかると梓ちゃん入っていた。
でも、言葉の端から梓ちゃんの幸せが伝わってきて、私の心がぽかぽかした。
私が皆とお出かけしたことを話すと、梓ちゃんは寂しそうにした。
梓ちゃんが心配で、羨ましい?のと聞くと
「そ、そんなことないです!」
と言った。
少しさみしくなって、梓ちゃんは私がいなくても大丈夫なの?と聞いてしまった。
聞いてしまって、きかなければよかったと思った。
梓ちゃんを困らせてしまうし、何より。

拒絶されてしまったらどうしよう……

出してしまった言葉は戻すことはできない。
数秒の沈黙。
そんなに長くなんてなかったけれど、私にはまるで処刑を待つ罪人のように感じた。

「大丈夫なわけ……ないじゃないですか。
 寂しくないわけないじゃないですか……」

ごめんなさいと私はあやまった。
申し訳ないという気持ちの奥に汚い喜びを感じて、私はまた申し訳なく思った。

その日いつもの時間。
電話をかけようと携帯を手にした時、ふと一つの考えが浮かんだ。

いつも電話をかけているのは私。
もし、私が電話をしなかったら、梓ちゃんは電話してきてくれるだろうか……

携帯を握りしめベットへ飛び込む。
携帯電話とにらめっこしていても、着信は来ない。
私からかけてしまおうか……
そんな気持ちがわいてくる。
それでも我慢して、私はまた携帯電話をじっと見る。


何度繰り返してしまっただろうか。
もう我慢できない、そう思ってかけてしまおうと思ったときにはもう大分時間がたってしまっていて。
今かけてしまうと迷惑になる。

―――――もう寝てしまおう。

そう思ったはずなのに全然眠くれなくて。
私は自分の寂しい気持ちに気づいてしまった。

かけてしまおうか。
いや、だめ。
そんな考えが私の中でループして、私はどちらへも行けなくなった。


梓ちゃんは私がいなくても大丈夫なんだ……
そう思ってしまうと私は悲しくなる。
駄目だと思うほど、また私のダムに水がたまっていくのを感じる。
ぐっと涙をこらえる。
着信は、な―――――――――――



プル……


「うわっはや!
 っていうか何で泣いてるんですか?!」

私は梓ちゃんに説明した。

「……すみません。そんな風に思ってるなんて気が付きませんでした」

梓ちゃんが悲しそうにしているのがわかる。
梓ちゃんが悪いわけじゃないの。
私が悪いの。

「ムギ先輩は何も悪くありません!
 実は、私もなんです。
 何度か私からかけようと思ったんですけど、なんとなく迷惑なんじゃないかって。
 ほら、そっちにはみなさんがいるじゃないですか。
 だから、ムギ先輩はもう大丈夫なんじゃないかって……
 寂しいのは私だけなんじゃないかって思っちゃって……」

梓ちゃんも、さみしいの?
憂ちゃんや純ちゃんと楽しそうにしてると思っていたのに。

「たしかに、二人といても楽しいですよ。


 でも……
 こっちにはムギ先輩がいないじゃないですか」


私?

意外だった。

梓ちゃんは他のみんなとのほうが仲がいいと思っていた。

「皆さんは確かに特別です。

 でも、ムギ先輩は中でも特別っていうか……」

私はどうなんだろうと考えるまでもなかった。
ちょっと前まではみんな特別だった。
でも、こんな風に何でも話して、弱いところも汚いところも見せたのは梓ちゃんが初めてだった。
私の中で、梓ちゃんは特別。
ううん、きっとそれ以上のものだった。

「なんだか恥ずかしいですね……
 でも、私がムギ先輩の中で特別になってるなら嬉しいです」

私も、すごくうれしかった。

だから、打ち明けようと思った。
打ち明けるのはすごく怖い。
でも、知っておいてほしいと思った。
琴吹紬という人間を。
私と言う存在の意味を。


「ねえ、梓ちゃん。
 遊びに……来てくれる?」



梓ちゃんが私の部屋へやってきた。
隠そうとしていても、困惑している様子が伝わってくる。
やっぱり、驚いたよね。やっぱり、普通じゃないよね。


こんな私でも、受け入れてくれますか?


「いらっしゃい。 驚いたわよね」

ムギ先輩の部屋は、所謂マンションの最上階というやつだった。
それも、賃貸の安い部屋でなく、それなりの値段がしそうな分譲マンションの、だった。

私がオートロックのマンションの一階でインターフォンを鳴らした時、出たのは男の人だった。
私が間違えてしまったのかとオロオロしていると、
「中野様でございますか?」
良く聞くと、少し聞き覚えのある声。
ムギ先輩の執事の人の声だった。
「お嬢様からお聞きしております。
 どうぞお入り下さい」
そうして玄関を抜けエレベーターで指定された階に向かうと、一応廊下はあったのだけれど、部屋へ入るドアはひとつしかなかった。

すごいのはここまでではなかった。

たったひとつのドアの向こうにあったのはムギ先輩の部屋ではなく、応接間のようなところだった。
そこで一人のメイドさんと、さっきの執事さんが私を出迎えた。

「いらっしゃいませ。 良く来て下さいました。
 上の階で紬お嬢様がお待ちです。」

上?!
これ以上上があるのか……

ムギ先輩のいるという上の階へは階段で繋がっていた。
マンションの上に一軒家があるという感じだった。
2階にあがると、ガラス張りの壁から庭があるのが確認できた。

私があっけに取られてキョロキョロしていると、
「梓ちゃん、こっちよ」
とムギ先輩がよんでいて、ムギ先輩に着いて行って、ようやく私はムギ先輩の部屋に到着したのだった。

「いらっしゃい。 驚いたわよね……」

私はちくりと胸がいたんだ。
電話で私に来てほしいといった時と同じ声。
悲しそうな声。

そんなことない。
そんな言葉が出てしまいそうになるけれど、私はそれを飲み込んだ。そんなこと望んでいないだろうから。
すぐに嘘だと見破られてしまうだろうから。

だから私は出来るかぎりの強がりで、何でもないように言う。
驚きましたよ、と。

「普通じゃないよね……」

私は言葉に詰まってしまう。
何と言えばいいのかいろんな言葉が頭の中を渦巻くけれどどれも陳腐でとても言えない。
そして、その沈黙が肯定を表しているようで私は悔しくて俯く。

ムギ先輩も悲しそうな表情をする。
その顔を笑顔にする方法が思い付かなくて、私はさらに俯く。

「ごめんね……
 こんな事されても梓ちゃんを困らせるだけだよね」

そんなことないです。
ただ、ムギ先輩がそんな顔してるのに、何も出来ないのが悔しくて……

そこまで言うと、ムギ先輩がギュッと抱きしめてくれた。
唯先輩とは違う、優しくて心までと抱きしめられているかのような、そんな抱擁。

「梓ちゃんは優しいわね」

そんなことはない。優しい人なら、きっとムギ先輩にこんな表情をさせないのに。

「私はね、なにかしてほしくて呼んだわけじゃないの。
 ただ、知っておいてほしかった。
 これがね、琴吹紬なの。
 みんなといたただの女子高生だったのも私だけれど、今ここにいる琴吹の娘も私。」





ああ……私はばかだった。
今日見たもので、ムギ先輩が遠くに行ってしまった気がしていた。
自分が感じる恐怖でいっぱいになっていた。

先輩の暖かさが感じられてようやく、私は気がつくことができた。




少し考えればわかったのに。
少し優しければわかったことなのに。



暖かな体が、こんなに震えていることを。
私と同じ、ううん。それ以上の恐怖を感じていることを。


「ねえ、梓ちゃん。
 やっぱり、普通じゃないよね」

私は、やっぱりなんて言っていいのか分からなかった。
でも、勇気を振り絞って打ち明けてくれた先輩に対して、私も本当の気持ちを伝えたいと思った。

私の知っている普通ではない、と。

私を抱く体がこわばる。
だから、離れないように。
今度は私がその体を強く抱いた。

今日でムギ先輩の事、いろいろと知りました。
はっきり言ってしまえば、もしかしてムギ先輩がすごい遠い人なんじゃないかって思いました。
でも、やっぱりムギ先輩は私の大好きな、ムギ先輩です。

「こんな私でも、好きって言ってくれるの?」

はい。
私にとって、当たり前のことだった。

「こんな私でも、梓ちゃんのこと大好きでもいい?」

そ、それはムギ先輩が決めることなんじゃないでしょうか……?
でも、ムギ先輩が好きだと言ってくれるのは素直にうれしかった。

「こんな私を、受け入れてくれますか?」

もちろん。
こんな私でよければ。

「ありがとう、梓ちゃん。
 大好き! 大好き! 大大だーい好き!」

ちょ、ちょっと!

ムギ先輩が体重をかけてきて私は後ろに倒れてしまった。

ムギ先輩が頬ずりしてくる。
何度も、何度も。
私は恥ずかしくて、やめてくださいと言ったが聞き入れてはもらえなかった。
私が下になる形で抱きつかれているので、より暖かさと……そして甘い良い香りが強く伝わってくる。

口では嫌がって見せるけれど、引き離す気にもなれなくて結局私はなされるがままだった。

「ね、梓ちゃん。
 大好き」

この体勢で言われると何というか……
ムギ先輩の色気がすごいというか……
とにかく、とても恥ずかしかった。

急に頬ずりがやむ。
暖かさが離れていってしまうのを感じて少し名残惜しく思ってしまった。

「梓ちゃん」
そう言うとムギ先輩は目を閉じた。



……

…………

………………

……………………

…………………………これって、もしかしてアレ?だよね


意識してしまうと急に気恥かしくなってしまう。
っていうか何なんだろう。
これはあれなんだろうか、ムギ先輩の中では仲のいい女の子同士でじゃれあってする感覚なんだろうか。
いやそうに違いない。
そう思いたい。
鼻が敏感になってムギ先輩の匂いを強く感じる。
陶器のような肌、ふわふわの髪、整った鼻、全てが近い。

うわっ、すごくまつ毛が長い。

そして――――――唇はぷくっとしていて、まるでそこだけ別のもののようだ。

心臓が痛いほど脈打つ。
意識がムギ先輩の唇に集中する。
目が、離せなくなる。

とても甘くておいしくて、いとおしいものに思えてくる。

触れたい―――
感じたい――――――

誘惑は悪魔のささやきで。
私の正気はすでに色香に飲まれていて。
つまり、それは。







―――――――――――――――――――――

頭がぽーっとする。

ぼんやりと、考える。
ああ、これが私のハジメテなんだ……

初めてはレモン味なんて、信じてたわけじゃないけれどやっぱり嘘っぱちだった。
味なんてしなかった。




私の初めては、柔らかな感触と、




むせ返るような、ムギ先輩のにおいだった。

ムギ先輩が離れる。
同時に、少しだけ、理性が帰ってくる。
軽く触れただけ。
なのに、脳の芯まで溶かされて、まるでどろどろに溶けてしまったかのような不思議な感覚。

ああ、しちゃったんだ――――――


人差し指で唇をなぞる。
さっきとは、全然違う感触。
だから、感じる。
ここに、ムギ先輩の唇が……


私、ムギ先輩と、キス、したんだ――――――――


味はやっぱりしなかった。
でも、とても甘くて、暖かくて、ほんの少しだけ酸っぱくて。
レモンっていうのは、味の事じゃないんだなぁと、そんなことを考えた。

「梓ちゃん、嫌じゃなかった?」

もう、何でそんなことを聞くんだろう。
嫌だったら断ってる。
好きだから、してもいいと思ったから私は、私から……
そう、私から…………
こんな事を言えと言うのだろうか?
考えるだけでも顔から火が出そうなのに。
いや、ひょっとしたらもう出てるかも知れなかった。

でもずっと黙っていてもそれはそれで恥ずかしい。
ムギ先輩の顔が近いから。
さっきあそこに触れたのだと、考えてしまうから。
だから私は、嫌じゃないですと、声を搾り出した。

「ありがとう」

ムギ先輩が微笑むと唇の形が変わって……って、私は一体どこを見ているんだろう。
なにかいわなきゃと思う。
『こちらこそ』
『ごちそうさまでした』
『おいしかったです』
ああもう私は何が言いたいんだろう。
どうやらまだ脳が蕩けていて、体はふわふわとまるで宙をさ迷っているようだった。

ああ、えっと、その、あの

言葉にならない声だけが、私の口から出てしまう。




ああもう、一体私は何をしてるんだろう―――――――――――――――!


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