私はその日、ムギ先輩の家に泊まることになった。
ムギ先輩の家に行くのは初めてで少し緊張している。
引越しの前日で忙しいのではないかと始めは断ったけれど、もう荷物は全て運び終わり明日はもう出るだけということだった。
それに、ムギ先輩がどうしてもと言うので結局私はご招待を受けることにした。


……なんて、建前。


なんだかこのままムギ先輩を帰してしまうのが嫌で。
握った手を放してしまうのが怖くて。
ムギ先輩が誘ってくれた時、嬉しかった。


「もうすぐ迎えが来るから」


ムギ先輩と握った手は、まだ離れていない。
玄関で靴を履き換える時も、二人とも手を離せなくて、なんだか気恥かしくて私たちは笑いあった。

夕日を浴びて赤く染まり、少し影を落としたムギ先輩は、すごく大人っぽくて、でもなんだか儚くて―――
私はムギ先輩の手を強く握った。


「……来たみたい」

その言葉に反応して、私はそっと手の力を抜いた。
ムギ先輩は少しさみしそうな顔をしたけれど、そっと手の力を抜いた。
でも、2人とも手を放そうとはしなくて、宙ぶらりんの手は引っ掛かったままだった。

車が止まる。

……走ってきてた時からなんとなく気づいてはいたんだけど……

迎えの車は、黒くて、テレビで見るようなアレほどではないけれど、それでも普通より長い車だった。
そう、これはリムジン、というやつなのではないだろうか。

運転席からスーツの男の人が出てきて、後部座席の扉を開けた。

開けてくれたんだけど、なんだか委縮してしまって私は固まってしまった。

そんな私をみて、ムギ先輩はまた少しさみしそうな顔をした。

心がチクリと痛んだ。

車にも驚いたけれど、ムギ先輩の家についてまた驚いた。
門をくぐってからも車で移動するほど庭がが広かった。
お家は豪邸というより私にはもうお城なのではないかと思った。
そして何より、玄関にはいるとメイドさんがお迎えしてくれたのだった。

そのあと、私たちは食事をとった。
家族水入らずの食事は最後なのだからと、私は遠慮したのだけれど、ムギ先輩だけでなくご両親も一緒に食べたいと言っているといわれ、私は逃げられなくなってしまった。

ムギ先輩の親は、優しい人だった。
お父さんは常にニコニコしていて、柔和な雰囲気がムギ先輩そっくりだった。
お母さんは逆にしっかりしているようで、きれいでかっこいいという形容が似合うような人だった。

お金持ちの食事はすごく長いテーブルで離れて静かに食べるものだとおびえていたのだけれど、少し大きめのテーブルで和気あいあいとした食事だった。
2人は学校でのムギ先輩についてたくさん質問をしてきた。
ムギ先輩は恥ずかしがって止めてと言って来たけれど、2人が喜んでくれるのでたくさんのことを話した。

食事が終っても2人はまだ聞き足りないようで、お茶を飲みながら私はまだ質問攻めにあっていた。

「お嬢様、明日のことで少しよろしいですか?」

執事の人がやってきた。
引越しのことであるらしく、ムギ先輩は少し席を外すと言った。

「えっ? ちょ、ちょっと……」

ムギ先輩はごめんね、と言って執事の人と出て行ってしまった。

なぜか私はムギ先輩の両親と3人きりになってしまった。

「梓ちゃん、どうもありがとう。紬と仲良くしてくれて」

私は、なにもしていない。
むしろ、私がムギ先輩にもらったもののほうがずっと多かった。

「そうかもしれない。でもきっと紬もそう思っていると思う。
 高校に入ってから、紬はとても楽しそうだったよ。」

私も楽しかった。
軽音部に入って、ムギ先輩と会えて、いろんなことをして、笑って、泣いて。

2人はとてもうれしそうに聞いてくれた。
そしてまたありがとうと言った。
私はお礼をされるようなことはしていないのに。

「紬は変わったよ。
 君は知らないだろうけど、自分からこうしたい、ああしたいって私たちに言うようになったのは高校に入ってからなんだ。
 場合によってはわがままともとれる行動だけどね。」

楽しそうに語っていたお父さんの顔が、急に落ち込む。

「紬はね、中学校までそんなことはしなかったんだよ。
 ただの、一度もね……」

そんなお父さんの姿が今日のムギ先輩と重なって、私の胸がまた痛んだ。

「紬はいい子だったよ。
 私たちが心配するようなことは自分からは決してしなかったし、私たちが望んでいることを自分から進んでしてくれた。
 ……きっと私たちは親としては失格だったんだろうね。
 紬がいい子だから私たちはいい気になっていたんだろう」

そんなこともない。そう言おうと思ったけれど、それはうまく言葉にならずに私の中で停滞してしまう。

「紬から聞いていると思うけれど……私はひとつの財閥を受け持つトップなんだ。
 家内も私のために身を粉にして働いてくれている。
 ……紬をもっとよく見てやればよかったんだろうね。
 陳腐な言い方だけれど、気付かないうちに紬の前にレールを敷いて、紬が文句も言わず歩いてくれるからそれが紬の幸せなんだと思っていた」

あなた、とお母さんが止める。
けれど、お父さんは是非聞いてほしいと言った。

「だけど、違ったんだ。
 もともと私たちはよく喋ってよく笑う子だと思っていたんだけれど、それは勘違いだと気付かされた。

 高校に入ってから、紬は本当に楽しそうで、幸せそうだった。
 私たちは、紬があんなにいい顔で笑うということをすっかり忘れてしまっていたんだ。」

「それに気づかせてくれたのは君たちなんだろう。
 ありがとう。
 本当に、感謝してもしきれないよ」

そう言ってお父さんは笑った。
その顔は、いつも見ているムギ先輩の笑顔にそっくりで、私はまた何も言えなくなってしまって、私は紅茶を啜った。

さっき入れてもらったばかりの紅茶はもう冷めていたけれど、なんとなく暖かかった。

―――――――――――――――――――――――――――――――
ムギ先輩の部屋はとても広かった。
そしてものがあまり多くなかった。
高そうでなんだかちょっと凝った彫りのある机と棚が2つ。そしてベット。
家具以外の者は、ほんの少しだけ。
でも、ところどころに少しだけぬいぐるみがおいてあってなんだか可愛いなと思った。

そこで私たちはまたお茶を飲んだ。
今度はムギ先輩がミルクティーを入れてくれた。
さっきのお茶もおいしかったけど、ムギ先輩のお茶はなんだかとても心が落ち着いて、私はこっちのほうが好きだと思った。

お茶を飲みながら、ムギ先輩はいろんなことを話してくれた。
ムギ先輩から話してくれることはあまり無かったから、私はそれに聞き入った。
ころころと表情を変えながらムギ先輩は歌うように話した。

嬉しかったこと、楽しかったこと。
私も知っていること。
そして、悲しかったこと、悩んだこと。
私の知らなかったこと。

そもそもムギ先輩がN女子大に入ろうと思ったのは、レベルが高く、女子大だったからだそうだ。
少し前までなら、ちょっと変な想像をしてしまっただろうけれど、今の私は分かってしまった。

きっと、そのほうがムギ先輩の親が心配しなくてすむと、喜ぶと思ってのことだろう。

ムギ先輩がそれを意識して選んだのか、私には分からないけれど、きっとそうだ。

なんとなく私にはムギ先輩の考えている事がわかる気がした。

自分に自信が無くて、嫌われないように、みんなが喜ぶように。

みんなが喜んでくれればくれるほど。
みんなを好きになるほど、その思いは強くなる。

嫌われたくないと。
見捨てられたくないと。

そして、考えてしまうのだ。


捨てられたらどうしよう―――――――


でもそれは当り前のことだと思う。
人と付き合っていく以上、絶対に付きまとう嫌な感情。


……それでも私も考えてしまう。
それだけ、私たちの中で放課後ティータイムの存在は大きかった。

まるで呼吸のようなもの。

当たり前すぎて普段は気付かない。

だが、もしふと意識してしまえば。
疑問を持ってしまえば。

それは当り前でなくなってしまう。

吸って。吐いて。
吸って。吐いて。

自分で行ってしまえば、いつもどうして無意識におこなえていたのかわからなくなる。

吸って。吐いて。
吸って。吐いて。

もちろんそれは別のことに意識が向いてしまえばまた元に戻る。


ただ。
人の心はそこまで単純ではない。

好き。 嫌い。
好き。 嫌い。

相手が自分をどう思っているかだけじゃない。自分がどう思っているかすらはっきりしないのだ。
不安は深く、そして他に意識を向けていても、思考の隅で常に燻ぶる。

はっきり言ってしまえば、どうしようもない。
どうすることもできない。

けれど、私は何とかしたいと思った。
それでこの少女のような先輩の不安が取り除けるならば。
どうしていいか分からないけれど、きっとどうにかする。
どうにかしてみせる。

そのあと私たちはムギ先輩のベットへ入った。
とても大きくて、私たち二人が寝ても十分な広さがあった。

そこでまた私たちはいっぱいおしゃべりをした。
今度は私も話した。
ムギ先輩をどう思っていたか。そして今どう思っているか。
もちろん、ムギ先輩のご両親が言っていたことは避けて。
でも、ムギ先輩を好きな気持ちを、一緒にいたい気持ちを話した。
ムギ先輩も一緒にいたいと言ってくれた。
大学へ行っても、遊びに行くと約束をした。
離れても、さよならではないと。
いつまでも一緒だと。
ムギ先輩は何度もありがとうと言った。
私も、何度もありがとうと言った。

そして一時を回ったころ、話疲れてムギ先輩は寝てしまった。

私の右手は、ムギ先輩の左手と繋がっていた。
どちらから繋いだのかは忘れてしまったけれど、きっとどちらからでも同じこと。
私はムギ先輩に、ムギ先輩は私に求めた。

ムギ先輩は穏やかな表情で眠っている。

安心してくれているといいな。

私がいることで、ムギ先輩の不安が取り除けるなら、とても嬉しいことだと思う。
そして私自身の不安も、ムギ先輩の暖かさに融けて行った。

「ありがとうございます


 ……大好きだよ――――――ムギ」

私はハッとした。
気がつくと、私はムギ先輩の頬にキスをしていた。

自分の顔が真っ赤になっているのがわかる。
全身が心臓になったみたいにドクドクとうるさい。
なのに、唇の感覚だけは強く感じられた。

恥ずかしくなって私は毛布にもぐりこんだ。
どうやら、すぐには寝られそうになかった。

朝起きると、視覚よりも先にムギ先輩の手の暖かさが感じられて、自然と顔がほころんだ。
目を開けると、そこにはムギ先輩の顔があった。

起きてたんですか、と私は声をかけた。
「梓ちゃんの寝顔があまりにも可愛いから……見とれちゃった」
私は恥ずかしくて顔をそむけたくなったけれど、繋いだ手を離すのが嫌で横になったままうつむいた。
するとムギ先輩は私に抱きついてきた。

「お願い。ちょっとの間だけ」

きっと私と同じで不安なんだ。
私は返事をする代わりにムギ先輩を抱き返した。
ムギ先輩は柔らかくて、暖かくて、すごくいい匂いがした。

私たちは何も言わず、メイドの人が起こしに来るまでベットの上で抱き合っていた。

着替えて朝食をとると、もう出発の時間だった。
お父さんもお母さんもすごく心配していて、何かあったら帰って来いとしきりに言っていた。
そのたびムギ先輩は今生の別れでもないし、そんなに離れていないんだから大丈夫よと言った。

―――――きっと、嘘なんだろう。

本当は不安で泣きたいけれど、心配する両親を不安にさせまいとしているのだろう。
どうにかすると決めたのに、私は何もできすただそこにいるだけだった。

車がやってくる。
それが私とムギ先輩を引き裂いてしまう気がして、私は来ないでほしいと願った。
それでも、車は着いてしまった。

ムギ先輩は私を見る。

きっと遊びに行きます。だから―――

「ええ、待ってるわ。
 待ってるだけじゃなくて私も梓ちゃんを迎えに行くから」

私はムギ先輩に抱きついた。
私は馬鹿だから。
ムギ先輩にしてあげられることはこれくらいしか思いつかなかった。
私が居るということを、ムギ先輩に伝えたかった。
ムギ先輩は私の頭をなでてくれた。
嬉しくて悲しくて、心がぐしゃぐしゃで涙が出そうになる。
でもそれを堪えて笑顔でムギ先輩を送り出す。

先輩が車に乗ってしまう。

「また、ね」

執事の人がドアを閉める。
昨日とおなじ、確か斎藤と言う人。
今度は私が乗っていない。
私はまた泣きそうになる。

車が行ってしまう。
私は大きく手を振り見送った。

車が見えなくなってしまう。

「梓ちゃん」

先輩の両親に名前を呼ばれる。
私は出てしまっていた涙をぬぐい、二人のほうを向く。

「本当にありがとう。
 君たちは、ムギにかけがえのないものを与えてくれた」

私もです。
私もたくさんのものをもらいました。
ムギ先輩が大好きで、それに、それに―――――

私はもう抑えきれなかった。
涙が出てくる。拭っても拭っても消えてくれない。
もっと伝えなきゃいけないのに。もっともっと、ムギ先輩は私にくれたのに。私に幸せをくれたのに。
伝えたい気持ちはあるのに頭はそれを言葉にしてくれなくて、出したい言葉も口は声にしてくれなくて。
私はそれが悔しくて、私はまた泣いた。

先輩のお母さんが、ムギ先輩と同じように私の頭をなでる。

「梓ちゃん。これからも紬のことをよろしくね」

私は泣きじゃくりながら、何度も何度もうなずいた。


―――――――――――――――――――
住み慣れた家が小さくなっていく。
住み慣れた家が小さくなっていく。
大好きな両親も、梓ちゃんも小さくなっていく。

見えなくなる。


私が大好きな大切な人。
私を大好きだと言ってくれた大切な人。


みんな、見えなくなる。



なんだかさみしくて寂しくて私は自分の手を見る。
梓ちゃんのぬくもりが残っている気がして、とてもいとおしいものに思えた。


「……お嬢様」


斎藤が声をかけてくる。



「お嬢様はいい友人をお持ちになられました」



せっかく我慢していた涙がこぼれる。
私の中にいっぱいに溜まっていたそれは、一度出てしまうともう止まらなかった。
「―――――うん……うんっ……!」
視界がにじんで何も見えなくなる。
私は自分の手を抱きしめる。
梓ちゃんがそこにいるような気がして、私はギュッと抱きしめた。


ずっと不安だった。
皆が私から離れていってしまうのが。
今だって、すごく怖い。
でも、今は確かなものがある。
私が梓ちゃんを大好きだということ。
ずっとずっと変わらない。
たとえ、私が梓ちゃんに嫌われても絶対に変わることがない思い。


ずっと


ずっと



大好き!



第二部の終了



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