―――――――――――――――――――――――――――
引越しの前日、私は部室に来ていた。

ティーセットを入れていた棚は取り外され、床だけがその名残で少しへこんでいる。
りっちゃんのドラムセットも、私のキーボードも無い部室はすごく広くなった。
ホワイトボードは真っ白で、なんだか始めて見たもののような気さえする。

そっとテーブルの自分の席に指先で触れてみる。
もっと、懐かしいとか、愛おしいとか、そういう気分になるんだと思っていた。
でも、一人で来る部室はあまりにも綺麗で、私は部室がこういっているように思えた。

『もうお前は桜ヶ丘高校の生徒でもなければ軽音部の部員でもないのだ』










『お前は―――――――異物だ――――――』



(――――――っ)

心が締め付けられる。
みんなと一緒の大学。何も不安なことなんて無い。ここに来るまではそう思えていたのに。
動悸が治まらない。自分で自分に言い聞かせる。
「大丈夫――――――大丈夫だからっ」
それでも自分の体は思い通りにならない。
まるで底なし沼のよう。
もがけばもがくほど深く沈んでいく。
大丈夫と言い聞かせるたびに、自分じゃない自分が耳元でささやく。
何が大丈夫なのかと』
そして私は想像したくない何かを想像してしまう。

暗くて、怖くて、寂しくて、
私は涙を流してしまいそうになる。
何とか涙をこらえようとする。

もしここで泣いてしまったら、悪い予感があたってしまう

そんな気がして、私は泣き喚く胸を強く握り締めた。

「ムギ先輩―――」

自分以外の物音に、心の錘が軽くなるのを感じた。

「梓ちゃん……」

同時に私ははっとする。
まさか、見られてはいないだろうかと別の不安が鎌首をもたげる。
私はそんな不安を取り払うよう、精一杯の笑顔で彼女に振り返った。

「えへ、来ちゃいましたー♪」

梓ちゃんは、いつもどうり振舞ってくれた。
見ていなかったのか、それともあえて触れてこないのか。
どちらにしても、私はほっとしていた。

「明日、引越しなんですよね」
「ええ、そうよ」
「引っ越したら―――――」

梓ちゃんは言葉をとめた。

引っ越してしまえば、簡単には会えなくなる。

言わずとも、伝わってくる。
梓ちゃんは失言だと思ったのか、なんでもないですとうつむいてしまった。

ほかのみんなならどうしただろう。
さみしくなる、いつでも会えると言ってあげられただろう。
りっちゃんなら、明るく冗談を言って梓ちゃんを笑わせてあげられただろう。
澪ちゃんなら、優しく梓ちゃんを励ましてあげられただろう。
唯ちゃんなら、暖かく梓ちゃんを抱きしめてあげられただろう。

でも私には、何も出来なかった。

さっきの不安がまた私を引きずりこんでいく。

梓ちゃんの姿が、私の不安と重なる。

私には、何も出来ない。

何も、ない。

「――――先輩!」

私の冷え切った手に、暖かさが伝わる。
梓ちゃんが、私の手を包んでいた。

「梓ちゃん……」

どうやら、私は沼に溺れていたようだった。

「大丈夫ですか?」

――――大丈夫
そう言おうとして自分の唇が震えていることに気づく。
喉まで出かかっていた言葉を飲み込んでしまう。
大丈夫だと、何でもないと、言わなければいけないのだけれど、その言葉にはきっと私の不安が乗ってしまう。
結局、私は感情を押しとどめることができなかったのだ。

梓ちゃんもそれを悟ったのだろう。震える私の手を黙って握っていてくれた。
その暖かさで、私はすこし冷静さを取り戻す。

「ありがとう。もう大丈夫だから」

今度は、きっと最初より自然に笑えているはずだった。
でも

「ウソです」

梓ちゃんはきっぱりとそう言った。

ああ、ダメだな私は。
感情を素直に表すには大人になりすぎて、隠し通すには子供すぎる。
どっちつかずだから、上手く出来ない。
梓ちゃんの手が、ただ暖かい。

「ムギ先輩、お願いだから、無理しないでください」

ああ、このまま自分の中の纏まらない感情を吐きだしてしまおうか―――
それは、とても甘い囁きで、でもそれはひどく難しいことだった。
だからひねくれものの私は、素直に言うことができなかった。

「ねえ、梓ちゃん」

「はい」

「私ね、すごく幸せだったの。
 軽音部に入って、みんなとお茶したり、おしゃべりしたり、演奏したり。
 初めてのこともいっぱいあったわ。
 友達とお出かけしたこと、曲を作ったこと――――

 それに、こんな気持ちも」

梓ちゃんはただ静かに聞いてくれている。
ここで止めておけと、冷静な自分が言っている。

「本当に、幸せで――――」

けれど、私の冷静じゃない部分が言葉を紡がせる。
そして言の葉は、私の冷たい気持ちへと触れる。

「本当に――――魔法のような日々だった」

その先を、口にすることができなかった。
これ以上話してしまえば私は泣いてしまうだろう。
私の声は震えていて、きちんと言葉になっていたのかも怪しかった。
だが、口にしてはっきりと分かってしまった。
私は、魔法が解けてしまうのが怖いのだと。
そして、魔法が解けてしまうと考えていること。

寒い―――
何故だかひどく寒くて、そして何故か狭くて苦しくて、

そして、梓ちゃんにふれている手だけが、妙に脈打っていた。

「12時の鐘が―――――」

シンデレラの話だろうか。
ふと考える。自分はシンデレラなのだろうか。
違和感を感じる。
何故だろう……

魔法を使いに魔法をかけてもらって、お城のパーティーに参加する。
そこでシンデレラは、王子様とダンスを踊るのだ。
煌びやかで、幸せで、楽しい夢のような時間。
けれど、12時になると魔法が解けてしまい、元の生活に元通り。

このお話には救いがある。
落としたガラスの靴を手がかりに王子様が自分を探し出してくれる。
そして王子様と結婚して幸せになってハッピーエンド。




私は、シンデレラではない。
どちらかというと、王子様のほうだろう。
魔法で化かされて、終わってしまえば残るのは楽しかった記憶だけ。

でも、ひとつだけ違いがある。

王子様は、シンデレラの落としていった靴があった。
私には、何が残っているのだろう。
ふと部室を見回す。
ティーセットも、キーボードも、お気に入りだったカップも、もうない。

私は何を手がかりにすればいいのだろう。
部室は私に、諦めろと囁いているようだった。

「12時の鐘が、怖いんですか?」

少し前まで自分でもそう思っていたくせに、なんだか陳腐な問いに聞こえてしまった。
そうじゃない。
なんだかそんな気がする。
私の雰囲気辛さとってくれたのだろうか、梓ちゃんは否定と受け取ったようだった。

「じゃあ――――――ガラスの靴を、探してるんですか?」

私の心が痛む。
梓ちゃんの優しい言葉が私の脆い心を鷲掴みにする。
それ以上何もいわないでほしかった。
私をせき止めている堰にひびが入る。

ヤメテ

たったその一言さえ、私の口は発してくれない。

「ムギ先輩」

やめて、言わないで、お願いだから


――――――こんな私を見ないで―――――――


――――――弱くて、脆い私を――――――――


――――――触れないで―――――――――――


――――――汚い私の心に――――――――――








お願いだから









見捨てないで――――――







梓ちゃんは何も言わなかった。
そのかわり、握っていた手を、私の手を梓ちゃんの胸へと導いた。
まるで抱きしめるかのように、私の手を包みこむ。

「私は、暖かいですか?」

私は何も言えずに頷く。
私の体の中で、梓ちゃんが触れている手だけが唯一私のものだった。

「私を、感じられますか?」

私の鼓動が、梓ちゃんの鼓動と重なる。
トクン、トクンと、まるで一つの生き物のように感じる。

「これが、先輩たちが残してくれたものです」

梓ちゃんは優しく微笑んだ。



いつのまにか、私の動機は治まっていた。

「ガラスの靴より確かなものは、ここにありますよ」

「ここにいる私が、います」

「この暖かさも
 この心も

 みんな、先輩達がくれたものです」

 私は、たぶんこの部室に入ってきて初めて梓ちゃんの顔をちゃんと見た。

 天使のようだと、そう思った。

 暖かい
 私の暗く冷たい心に、暖かな光がさしているのを感じた。

「ムギ先輩の中に、私はいますか?」

 何も言えず、私は何度もうなづいた。
 気がつけば、あれほど我慢していた涙がこぼれていた。

「なら、大丈夫です。
 ムギ先輩がダメになりそうなときは、私が迎えに行きます。
 逃げても隠れても、絶対に見つけ出します。

 ……だから、お願いです。
 一人で悩んで、抱え込むのはやめてください。
 ムギ先輩が悲しいと、私も悲しいです」

梓ちゃんの手が、私の頭にふれる。
 もう抑えきれなかった。
 涙があふれた。
 でも、不思議と大丈夫だと、そう思えた。
 私は泣いた。
 まるで子供のように。

 梓ちゃんの手が、とても暖かかった。

「梓ちゃん、ありがとう」

私が泣きやむまで梓ちゃんは何も言わず、私の手を握り頭をなでてくれていた。
私のしてほしいこと、全てをしてくれた。

「梓ちゃんは天使ね」

そんなことないです、と梓ちゃんは言った。
たとえ何て言っても梓ちゃんは否定するだろうから、私はそれ以上は言わなかった。
(でもね、やっぱり梓ちゃんは天使よ)

泣いたせいだろうか、それとも吐き出してしまったせいだろうか、すごく心が軽かった。

「ねえ、梓ちゃん」

「何でしょう」

「大好きよ」

「私も、ムギ先輩が大好きです」

……また少しだけ、自分が嫌になった。
梓ちゃんなら、こう言ってくれる。そんな確信と打算。
でも、今だけなら許されるんじゃないかと、そう思った。

「少し、お話を聞いてくれるかしら?」

私は、抱いていた不安について打ち明けた。
それは、ずっと持っていたもので、でも見ないようにしていたもの。
ずっと知っていたことだけれど、今気づいたもの。

皆は、なぜ自分と一緒にいてくれるのだろうか。
私はりっちゃんみたいに明るくないし
澪ちゃんのように可愛くないし
唯ちゃんのようにムードメーカーでもない
梓ちゃんのように、みんなを和ませることもできない

私にとってはみんな宝石みたいに輝いていて
だから、考えてしまう
私だけがまるで観客で、取り残されているんじゃないかって

いつか――――私は見向きもされなくなるんじゃないかって

不安を私は吐きだした。
考えてみればずっとそうだったのだ。
みんなに頼られるように。
みんなが私を必要としてくれるように。
私が―――みんなに見捨てられないように
そんな思いを、気付かないように心の奥に鍵をかけてしまっておいた

でも、卒業という大きな岐路を前に、大きくなりすぎたそれは箱を壊して私の心を支配してしまった。

そして。

籠の中の鳥だった私には、それをどうしていいのかわからなかったのだ。

「……ごめんね、こんなこと言われても困らせるだけよね
 でも、ダメなの。もうどうしていいのかわからないの」

「みんな、そうですよ」

「みんな同じなの?」

私にはそうは思えなかった。
みんなとっても魅力的で、望めば周りに人が来るように思える。

そして、こうも思う。
その人たちに、私がいなくても大丈夫なのだと。

「少なくとも、私もそう思ってます。
 大学に行った先輩たちが、他のことに夢中になっちゃうんじゃないかって。
 いつか、私がいないのが当たり前になっちゃうんじゃないかって」

そうだろうか?
梓ちゃんが居なかったらなんて想像もできない。
それはやっぱり梓ちゃんが必要ってことなんじゃないのだろうか?

「私も。ムギ先輩がいないなんて想像もできません。
 でも、先輩たちが一足先に行ってしまって、私がいないのが当たり前になっちゃうんじゃないかって……
 考えてもしょうがないのは分かってるんですけど、考えたら止まらなくなって」

梓ちゃんも不安なんだ……
そう思うと少し安心して、少しだけ心が痛んだ。

「ねえ、梓ちゃん
 こういう時ってどうしたらいいのかな?」

「どうすることもできませんね…… 残念ですけど」

「じゃあ、この気持ちはどうしようもないのかな」

「一人では、どうしようもないでかもしれません
 でも……」

梓ちゃんはギュッと私を抱きしめた。
梓ちゃんの体温も鼓動も、今までよりずっと感じられる。

「私は、ムギ先輩のこと、大好きです
 ずっとずっと、大好きだっていう自信があります
 だから、離れてたって私がいます」

梓ちゃんの言葉がすぅっと浸透していく。
暖かな動悸が私を満たす。

「そっか」

「はい、そうです」

私は梓ちゃんに救われた。
だから、今度は私の番。

私はギュッと梓ちゃんを抱き返す。
「ね、梓ちゃん。さっき言ってくれたよね。
 私がどんな所にいても、どんなに逃げて隠れても見つけてくれるって」

「はい」

梓ちゃんの腕に力が入る。
ちょっと痛いけど、全然嫌じゃない。

「私も、梓ちゃんが辛い時はどこにいたって、どこに隠れたって見つける
 嫌だって言っても引きずり出してこうやってギュッてしちゃうんだから」

「……はい」

「私たち、一緒だね」

「嫌ですか?」

「ううん、全然
 むしろ、良かったって思えるわ」

「私もです」


言葉にはしないけれど、わかった。
私も梓ちゃんも、弱くてもろい。
だけど、おかげでお互いの弱いところがわかるのだ。
私を好きだと言ってくれたこの子を、私のために苦しんでくれるこの子を、私は一生大切にすると誓った。


第一部完!



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